<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



歴代最低の視聴率を記録したNHK大河ドラマ「光る君へ」。
貴族の言葉遣いが「武家言葉」ということを書いたけれども、実はそれ以上に気になるのが主人公の まひろ を始めとする一般貴族の「東京弁」。
それも「江戸弁」ではなく現在の一般家庭や学校、会社で使われている言葉遣い。

これではまるでホームドラマ。

これ一つとっても時代物として視聴者である私はとっつきにくくて仕方がない。
舞台はもしかすると実はJR中央線か京王本線の沿線で新宿から30〜40分の住宅地に居を構え、少々生活にゆとりがあって平安衣装に仮装したコスプレ大好き会社員家庭とその仲間の物語かもしれず、そう思ってみると違和感はたちまち解消する。

間違っても「舞台は京都」と思ってはいけないのではないかと思っている。
私には京都人の友人・知人も少なくないが、彼ら、彼女らがどういう感覚でこの時代劇風現代ドラマを見ているのか。
いま少しインタビューをしてみたいところなのだ。


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NHK大河ドラマ。
今年はカミさんに無理やり視聴させられて昨日で2回め。
昨年の「どうする家康」は1作目で、
「なんじゃい!このビデオゲームみたいな画面づくりは」
即見る気が失せて以後一回もチャンネルを合わせることがなかった。
今回も同様に失せることになるであろうと見始めたのだが、なぜかカミさんが気に入ってしまい、
「私が見るからあなたも見なさい」
という事になってしまった。
いたってはた迷惑な状況なのである。

で、最近の大河ドラマは見ていると色々と突っ込みたくなるが、今回もそんなところが満載なのだが、その最たるものの一つが、
「話し言葉が江戸時代を舞台にした時代劇と同じぐけ言葉だが、そんなんでいいの?」
というところだ。

「……でござる。」
とか
「かたじけない。」

とか、実にいい加減にしていただきたい言葉が展開されているのだ。
少なくとも本作は日本文学における大衆文学のその祖とも言うべき紫式部が主人公のドラマなのだ。
間違っても「江戸むらさき」ではない。
日本語の言葉遣いぐらいちゃんとしていただきたいぐらいだ。

ドラマの進捗がゆっくりなのも今の時代に少々ミスマッチという感じがしないでもないが、言葉遣いがこれではドラマへの感情移入が非常にやりにくいのだ。
貴族が武家言葉を話すわけがない。

とはいえ、
「……で、おじゃる」
などというと、笑ってしまって、それはそれで大変だ。


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訃報の連続は精神にダメージを与えるものがある。
それがいかに芸能関係のものであったも子供の頃から慣れ親しんできた人の訃報である場合、そのショックは小さくない。

谷村新司。
財津一郎。
海を越えてマシュ・ペリー。

一週間ばかりの間にこれだけ多くの著名人が亡くなると自分の年齢も考えてしまうものがある。

中学1年生の時に仲の良かったK君。
非常に穏やかで勉強のできるやつで、勉強のできない私とよく付き合ってくれるなと今になって考えるのだが、ある日彼のお姉ちゃんの話になった。
友達の兄弟姉妹というのは「見てみたい」という欲求に駆られるもので、念のためにどんなお姉ちゃんか訊いてみたのだ。
「うちの姉ちゃん、アリスってバンドが好きでよく神戸行ってるわ」
と弟であるK君は姉の音楽の趣味を話だした。
ニューミュージックブームが到来する直前でアリスなんてグループは聞いたこともないし、まわりに訊いても誰も知らない。
K君のお姉ちゃんぐらいじゃないか、知ってるの?
今で言うインディーズバンドの一種だと思っていた。
その翌々年アリスは一躍有名になり人気番組「ザ・ベストテン」の常連となった。
もちろん、谷村新司を知ったのはこのときなのであった。

財津一郎は幼い頃に見ていたという「てなもんや三度笠」での「非常に厳し〜〜〜いい!」というギャグなどで物心ついたころより記憶に刻まれており、タケモトピアノのCMはどちらかというと意外性はなく、私はNHK水曜時代劇「三屋清左衛門残日録」の奉行役で渋くていい味を出していたところが強烈に印象に残っている。
大阪の芸人さんという感覚だったが、東京で活躍する優れたバイプレーヤーだったわけだ。
なお、「手なもんや三度笠」の内容は稚すぎて記憶になく、当たり前田のクラッカーも未だ食べたことはない。

マシュー・ペリーは米国のシュチュエーションコメディ「フレンズ」の主役の一人。
このフレンズは自分自身と世代が重なることもあり、笑いながらもあるときは大いに共感し、あるときはべそをかき、あるときは染み染みと感傷に浸るという優れた番組だ。
だから54歳でなくなってしまったマシュー・ペリーのことを考えると、他人事ではないような感覚になる。
彼はアルコール中毒やその他の薬物中毒を克服して、先年「フレンズ リユニオン」に出演したばかり。
20年ぶりの新シリーズになるかも、というファンの期待はこれで永遠に叶えられることはなく、非常に残念だ。
もちろん日本でよりも米国でのメディアの扱いが格段に大きく、CNNなんかはイスラエルのニュースよりもトップに扱っていたのが印象的なのであった。

ということで、こんな駄文を書いている間に今度は「朝潮死去」のニュース。
いしいひさいちの漫画にも登場した「アサシオ」もまた、あっちに逝ってしまったのである。


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NHKの朝ドラ「らんまん」を見ていると、一人だけ酷い大根役者がいる。
その大根度は途方もなく雄大だ。
その雄大さは一言セリフを話すとドラマの雰囲気すべてをぶち壊す破壊力を持っている。
まるで絵に描いたようなその技量は大根役者のお手本というべきだろう。

なぜなら、セリフは棒読みで起伏なし。
所作はできておらず、着物も洋服もいっしょこた。
表情は数パターンを使いこなしているものの、数パターンなので往年の英国製SFスパーマリオネーションのサンダーバードの登場人物のような感じでさえある。
そういえば、レディ・ペネロープに似ていないこともない。
でもペネロープの声は黒柳徹子だっただけに演技力は抜群で、
「おじさま」
というその一言だけで、我々昭和な子供たちは、
「おお!英国のお金持ちはこういう話し方をするのか」
と、納得できたものだ。

主役級の配役で大根役者も無いもんだろう。
なんでキャスティングされたんだ?
と何も知らない私がつぶやいていたらカミさんが一言、
「可愛いからやろ」
だと。

古より「美人は3日見たら飽きる」と言われる。
しかし半年も棒読み状態を見続けると、それはある種拷問に等しい。

そういえば、最近セリフが減っているように思えるのは、そういう意見が放送局に寄せられているのかも知れない。


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NHK朝ドラ「らんまん」に広末涼子がカットされずに登場した。
報道によると、
「謹慎後、最初の復帰作」
ということらしいが、これは復帰とか謹慎とかごちゃごちゃ言っているレベルではなくNHKが久々に放った創作者としての一安打ではないか、と私は勝手に思っているのだ。

そもそも犯罪でも起こしたのであれば大きな問題だが、芸能人の不倫なんか仕事の一部のようなものではないか。
私は広末涼子の熱烈なファンではないが、女優やタレントといった芸能人は一般人とは異なることは江戸の昔から日本では知られるところで、不倫、パトロン、同性愛、任侠との付き合いなど、普通だったんじゃないかと思っている。

例えば美空ひばり。
この人のパトロンの一人は某反社会組織の親分だった。
それが原因で晩年はNHKから干されていたのは50代以上の人であればみんな知っている。
それでもあの歌唱力、演技力、スター性がそういう付き合いも相まって磨かれていったことは間違いない。
それを多くの人は楽しんでいるのだから、それがどうしたんだというのが昭和の感覚なのであった。
今になって「素晴らしい人だった」とよくバラエティ番組などで取り上げられるが、あんたたち、あの頃美空ひばりをどう扱っていたの?と誰も訊かないその言論統制が反社会組織よりも私は恐ろしいと思っている。

数多くのヤクザ映画を制作した某映画会社もその筋との付き合いはトップであるほど深かかったと言われており、
「そういう世界との付き合いをさせないように育てよう」
と守られて育ったのは今も時代劇で活躍するスターにはいるくらいだ。

なので不倫でいちいちドラマのシーンをカットしていたら放送するものはなくなってしまうじゃないだろうか。

かつて池波正太郎は鬼平犯科帳の「五月雨」でレギュラーだった伊三次を死なせたときに、
「物語をあそこへ持っていくと、どうしても伊三次は死ななければならなかったのだ。もし、仮に生かすことになると不自然になり、物語は死ぬ」
という意味合いのことを言ったそうだが、「らんまん」のあのシーンで広末涼子扮する母が「不倫したから」カットされたら、「らんまん」が「つまらん」ものになったことは言うまでもない。

朝ドラへの広末シーンのカット回避。
NHK、なかなかやるの。

なお、先日とある官民交流会での高知県の人の一言。
「うちの(高知家の)長女が世間をお騒がせして申し訳ありませんでした。代わりましてお詫びします。」
で済ませてしまったのも南国土佐のねちっこさの無いところだと思い感心した。





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誰も言わないけど前作の「舞い上がれ」の出来がひどかっただけに、NHK朝ドラ「らんまん」はその逆落差が面白い。
私は今度のは毎回NHKプラスで鑑賞しているのだ。

そもそも朝ドラは現代を舞台にしないほうが面白いものが多い。
イメージが広がるからかも知れないし、いやに現実味を感じてシラケることも少ない。
時代が異なると作る側にはある程度の創作の余裕が生まれ、見る側にはファンタジーとしての映像の魅力を無理なく感じさせることのできる膨らみが生まれるのだ。

それとちゃんとした方言を話せない役者がいるドラマは見るも無残。
その他の地方の人は楽しめるかもしれないが、当該地方に住む人には違和感ありありになってしまう。
「舞いあがれ」の大阪弁は悲惨なのであった。

そこんところからすると今回の「らんまん」はなかなか上手いスタートを用意していた。
土佐弁の達者な高知市出身の広末涼子を母親役に据えて、度々CMなどで口にしていた彼女の自然な高知弁が視聴者が持つかもしれないドラマに対する言葉の不自然さ払拭。
しかも歴史ファンタジーとしては坂本龍馬を登場させ、それを五代友厚役者であるディーンフジオカに演じさせたことだ。
このスターの起用と方言の自然さ、ファンタジーで一気にドラマの世界を魅力あるものにした。

すでに放送が始まって1ヶ月半。
主人公も普通ではない個性に魅力があってシリアスではなく、どこかコメディの要素があることも全体に雰囲気が明るくなっているのが、これまたいい。
実際の主人公はこの先すぐに実家の破産や東大での研究妨害などに遭遇するはずだが、今の明るさでどう展開していくのか。

ちょっとした毎日のささやかな楽しみではあるのだ。




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米国SFテレビドラマ「スター・トレック」で通信士官のウラ中尉を演じていた二シェル・ニコルスが先月末、亡くなった。
享年89歳。
私の母より1つ年下なのであった。

日本ではあまり報道されていないが、このニシェル・ニコルスは米国では非常に影響力のある女優さんであった。
というのも、彼女が演じたスタートレックのウラ中尉という役どころが1960年代終盤の米国社会に於いて非常に重要な立ち位置にあったというところが実に大きかった。
彼女は黒人であり、女性であり、若く知性があり、極めて有能である、という設定だった。
異星人との接触に押すれること無く任務を遂行。
ブリッジのメンバーとして地味だが常に冷静で大きな役目を果たしていたのだ。

このドラマが放送された当時の米国は、そうではなかった。
黒人はやはり差別の対象であり、重要な役どころにつくことはできない。
女性もそう。
そんなリアル社会の中にあってウラ中尉のキャラクターは若い女性、とりわけ黒人やマイノリティーの人々に大きな影響を与えたのだ。

宇宙をパトロールする宇宙船という設定ながらも黒人女性が活躍する姿は他のドラマや映画には未だ無い時代で、そんな彼女の役割が人々に勇気を与えないはずはなかった。
女優のウーピー・ゴールドバーグは彼女を見て女優になることを決心した一人だ。
またサリー・ライドを始めとする女性宇宙飛行士たちもその影響を受けウラ中尉と同じ職場を目指したのだ。

スタートレックは彼女のキャラクターだけではなく、そこに登場する多くのテクノロジーの具現化を目指して、多くの科学者や技術者が影響を受けながら一つ一つ実現してきている。
米国の技術立国の側面を支えているドラマの1つと言えるのだ。

ふりかって日本にはそういうドラマがほんとんど存在しないことに気がつく。
あのドラマを見て医者を目指しましたとか、政治家を目指しました、ということをなかなか聞くことがない。
踊りに影響を受けて家族で踊ってみました、というのはあるけれども社会現象にまでなるようなものがなかなかない。

ドラマ、映画、文学、その他。
社会に与える大きなインパクを持つ社会問題解決への方法やテクノロジーへのイマジネーション。
そういうものが、コンテツに求められるのではないか。

ニコルスの死去で改めて考える、ドラマや映画の存在は、そういうところに本当の価値があるんじゃないかと思えるのだ。


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往年の青春ドラマ「われら青春」で舞台になっている太陽学園(架空の高校)の教頭先生の腰巾着を演じていた俳優の柳生博が亡くなった。
享年 85歳。
老衰だったという。

柳生博は魅力的な俳優さんで大河ドラマや時代劇、刑事ドラマなどで活躍。
ナレーションや司会の仕事もしていたように記憶するが、最も印象に残っているのはやはり「われら青春」に出てくる塚本先生役。
穂積隆信演じる教頭先生との悪辣コンビぶりが「お笑い」でも真似されるなど、ちょっと輝いていたのは間違いない。

また一人、慣れ親しんだ俳優さんがいなくなった。


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先日のブログで、

「いっそのことロシアもNATOに加盟を希望したら」

と冗談で書いたのだが、ニッポン放送の「辛坊治郎 zoomそこまでいうか!」の2月
21日の放送をpodcastで聴いていたら、なんと!

「2000年と2002年にプーチンがクリントン大統領に『ロシアもNATOに入りたい』と言ったことがある」

と筑波大の中村教授が話していたのだ。

「えええ!そんなことがあったんですか? じゃあ、NATOの仮想敵国の意味が無いじゃないですか」

と辛坊治郎が訊ねたところ、

「そんなことないですよ。中国があります。」

というのだった。

ん〜〜、もはや遅いがそういうこともあったのかと大いに驚いた放送なのであった。


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地震報道には一定の法則がある。

「それは被害の大きさに関係なく首都圏からの距離に反比例して扱いが変化すること」

東京からの距離が大きいほど、扱いが小さくなります。

阪神大震災は地下鉄サリン事件までの3ヶ月の報道。
熊本地震は在日米軍兵士による強姦殺人までの2週間。
で、今日発生した大分地震は発生から3時間ほど。

東日本大震災はキー局のある東京も被害を受けたので10年経った今も報道中。

メディアの存在ってなんなのか?
地方の扱いを見ていると、その本質がよく分かる。


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