tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

日本は過去の行為についての反省が足りないのか

2013年09月16日 12時49分21秒 | 国際政治
日本は過去の行為についての反省が足りないのか
 中国、韓国が、日本の歴史認識について「反省が当たりない」と指摘しているという日本のマスコミの報道記事が沢山あります。
 それぞれの国に事情があり、日本のマスコミの一部に自虐的であることを良しとするような風潮があるなどとも言われますので、こんなことをいちいち書くのはあまり気が進まないのですが、「こんな見方、認識があってもいいのではないか」という気もしますので、書かせて頂きました。

 過去の反省の点については、ドイツとよく比較されます。メルケルさんがアウシュビッツの跡地に行ったといって評価し、日本の閣僚が靖国に行ったといって非難するといった形です。
 ドイツの場合は民族浄化といった行為でしたし、日本は、アジアを植民地支配から解放するためとの「名目」を建てた行為でしたから、意図が同じだとは思いませんが、やったことは暴虐や殺戮で、人間としての究極の悪行です。これはいずれの戦争にも共通ですが、まさに心からの反省が必要な事です。

 この行為に対して、日本は反省が足りないのでしょうか。
 見方はいろいろあると思います。しかし、ある意味では、日本の反省は、最も徹底した形で行われたとも言えるのではないかと思うのです。

 どんな立派な「名目」を掲げても、戦争になれば、人間は狂気になります。戦争の現場では「殺すか殺されるか」だからです。その場で、道徳的、理性的であることは至難でしょう。これは人間が人間である以上どうにもならないでしょう。

 このことに思いを致した日本、日本人は「ならば戦争をしなければいい」という物事の決定的な原点に立ち帰り、戦争放棄をうたった「平和憲法」を受け入れたのです。
 これ以上の反省はあるでしょうか。

 自分が戦争をする可能性を認めながら「過去を十分反省した」と言っても、戦争という狂気が繰り返され、自らが加害者になる可能性は消えません。

 この最も基本的な反省を忘れたのでしょうか。日本の一部には、再び戦争の可能性を認めそうな意見がちらほらと出たりします。
 これこそが、日本の心からの反省を忘れ去り、再び過ちを犯す可能性につながるものなのでしょう。

 「日本は、最も強く過去の過ちを反省している。その結果がどこの国にもない『平和憲法』である」と明確に言うべきでしょうし、そう言い続ける事が出来るためにも、日本は平和憲法を持つことに誇りを持ち、その意味を説明し続けるべきではないでしょうか。