寛永寺から逃げる輪王寺宮
福沢諭吉が慶応義塾を開いたのとほぼ同じくして、ついに上野戦争が勃発した。
新政府の思惑や計算が狂い、この時代関八州では旧幕府軍に身びいきするものも多かった。
徳川(とくせん)さまと永く親しんだ太平の世を市井の民はどこかで贔屓にしていたのかもしれない。
江戸開城の翌日4月12日、大鳥圭介率いる一隊は桑名藩兵を併せて二千余名の大所帯で結集する。これに意気を感じた江戸の鳶職、左官などの職人兵も加わったというからまんざら捨てたものではないのだ。
彼らは新政府軍を官賊 と呼び、自らを天兵と呼んだ。
彰義隊はそんな流れのなかで生まれ、旧幕臣の澁沢成一郎や天野八郎は、輪王寺宮を擁して、慶喜警護の大義名分で動く。
ときに、1868年(明治元年)5月15日。大村益次郎率いる新政府軍は、決死の覚悟で旧幕軍に対し総攻撃を開始する。
旧幕臣渋沢成一郎(渋沢栄一の兄)と天野八郎がまとめた彰義隊は、近代兵器の砲撃を前に敗走した。 これは後の奥羽越列藩同盟の戦いにも影響を及ぼした。
この年の7月、江戸は東京に改称された。
日本が大きく変わった瞬間である。
「山の段登り聞こゆる彰義の音」哲露
西郷隆盛像にほど近く、彰義隊の供養碑が花見で賑わう上野公園に堂々たる存在感をみせていた。
教科書で学ぶ遠い過去でありながら、曾祖母の生きた元号であることを思うと、にわかについ先頃のことかと気持ちの奥底がぞわぞわする。
書けるだろうか。
そんな思いを抱き、染井吉野の根っこで騒ぐ喧噪を他所に、清水寺の舞台から不忍池を眺めるのである。
家族を守るため、平和を願うため、皮肉にも戦い散った人々の生き様に思いを馳せる。
相次ぐ家人の流感に一葉桜と花魁道中は見逃したけれど、今度の週末は隅田公園にて小笠原流流鏑馬の登場である。
まず、いまを乗り越えたい