彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本の「李登輝元総統弔問団」台湾へ、同日、米国厚生省長官の台湾訪問―コロナ対策NO1の台湾

2020-08-12 15:02:04 | 滞在記

 昨日11日、コンビニエンスストアーに行き雑誌棚に目をやると台湾総統・蔡英文氏の似顔絵が雑誌の表紙に大きく描かれていた。漫画雑誌「ビックコミック」8月25日号だった。似顔絵の付近には、「我々の隣人 台湾」「女性初の台湾総統で二期目が始動。新型コロナを台湾で有効的に封じ込めたことでも知られる。志村けん死去の際は、SNSで日本語による追悼文を発信。我々にとっても身近なアジアの指導者と言えば―台湾総統 蔡英文(63歳 台北出身)と書かれていた。

 7月末に死去した李登輝元総統に弔意を示すため弔問団の団長として9日に訪台した森喜朗元首相。弔問団は自民・公明・国民民主・維新の各党、一旦は参加を断った立憲民主党も前日に参加することを表明した。(※なぜなのか?、日本共産党の参加はなかった。残念なのだが。)

 追悼会場が設置されている台北賓館にて弔問、この訪台弔問団について、日本の国会議員の間で党を超えて「どこの国よりも一番早く、外国の弔問団として日本の政治家が行くべき」との声が上がっていたと説明した。この弔問団は蔡英文総統とも面談した。また、頼清徳副総統とも会っているかもしれない。

 蔡氏は9日、自身のフェイスブックとツィツターを更新し、「森喜朗元首相率いる超党派議員の弔問団に心より感謝いたします。李登輝元総統は生前良く徳川家康に例えられましたが、家康公の辞世の句なら、李元総統も同感されるかもしれません。"嬉やと二度醒めて一眠り 浮き世の夢は暁の空"」と日本語で発信した。フェイスブックには中国語と日本語で投稿。自身の似顔絵が表紙となった日本の漫画雑誌「ビックコミック」を森氏から贈られたことや台日友好の強化、新型コロナウイルスの早期収拾などを願う気持ちも伝えた。

 米国のアザー厚生長官が、新型コロナウイルス感染症に関する協力方案などを協議するため9日に台湾を訪問する予定だと発表。朝日新聞では「米厚生長官が台湾訪問」「台湾総統と厚生長官が会談 米、対中圧力さらに 米国・コロナ議題 大統領選意識」の見出し記事が掲載されていた。夕刊フジには「米高官電撃訪台 中国激震」「米高官台湾訪問発表に習激怒"断固反対"―断交以降の米政府高官として最高位」の見出し記事が。

 この米高官の訪台に関して中国外交部の汪報道官は「台湾問題は、米中関係の中でも最も重要かつ敏感な問題」と強調、「一つの中国」の原則を厳守するよう断固として反対すると反発。中国共産党機関紙の環球時報は社説で、「この訪台は米国の策略」「中国には軍事的報復を含めた多くのカードがある」と述べた。

 9日、アザー氏が台湾を訪問した。蔡総統や台湾外交部部長(外相)の呉氏とも会見。アザー氏は「台湾の新型コロナ対応は世界の手本だ」とたたえた。呉氏は中国が圧力をかけ、中国側の政治的条件を受け入れるよう台湾に迫っていることに言及した上で、「台湾はこの戦いに勝たなければならない。そしてこそ、民主主義は長く続く」と訴えた。また、アザー長官の訪台は台湾にとって「力強いメッセージになった」として感謝した。

 台湾衛生福利部長(厚生大臣)の陳氏と新型コロナ感染対策で協議を行った。(※アメリカの閣僚が台湾を訪問するのは6年ぶりで、1979年のアメリカと台湾の国交断絶以降、アメリカの高官として最高位レベルの訪問となる。台湾は人口2500万人余り。新型コロナ感染者は8月9日時点で477人と超少なく、世界の新型コロナ感染症対策の世界NO1模範国と言われている)

 米国が世界保健機構(WHO)からの脱退の意向を表明していることから、WHO参加を拒否されている台湾とともに、新たな保健機関の立ち上げの可能性にも注目が集まってもいる。

 中国はこのアザー氏の訪台を重く受け止め、「何らかの報復をする」と外交部報道官は発表した。

 「米高官、台湾総統会談に反発?  香港"民主の女神"周庭氏、"民主主義・台湾紙創業者"黎知英氏ら逮捕」との8月11日夕刊フジにこの見出し記事が掲載された。

 日本の外務省は11日、茂木外相が12日~15日の日程でシンガポールとマレーシア、20日~25日の日程でパプア・ニューギニアとカンボジア、ラオス、ミャンマーを訪問すると発表した。中国が進出を強める南シナ海・東シナ海などの問題について意見交換をするほか、新型コロナ拡大に伴い制限されているビジネスマンや駐在員に限定した人的往来の再開などについて協議する。カンボシア・ラオス・ミャンマーなどは一帯一路政策により経済的にも政治的にも中国との協力関係を強くもっている国々だが、ここにも日本の外交を展開するすることは重要かと思う。

 

 

 

 

 

 

 


習近平氏の「台湾併合(統一)」極秘シナリオ❷『文芸春秋』朝日新聞編集委員・峰村健司氏の論考

2020-08-12 05:16:43 | 滞在記

  軍事的緊迫が高まりつつある東・南シナ海、西太平洋とその周辺の海域。とりわけ台湾を巡る問題での台湾海峡。緊迫の焦点は台湾だ。台湾を取り囲む東シナ海、南シナ海、西太平洋、そして台湾海峡。私が暮らす中国福建省の福州市から台湾までの距離は約130km。この距離は、大阪から岡山や名古屋までの直線距離(約150km)よりも近い。 

 米国のトランプ政権は5月下旬に公表した対中戦略報告書「中国に対する米国の基本的戦略アプローチ」に、こう記している。◇中国は強大化するにつれ、自らの世界的な戦略目標を達成するために脅迫や強制を使おうとする意欲と能力を高めてきており、米国と同盟国の国家安全保障上の利益を脅かしている。◇よって中国との協議は続けるが、米国としては「力によって平和を維持する」という大原則に基づいて米国と経済的軍事的に強い関係をもつ同盟国との関係を強化する。

―軍事面での同盟政策だけでなく経済面でも同盟政策を取り組み始めた「ブルードット・ネットワーク」政策―

     ◆中国・ロシア・イランなど[VS]軍事・経済[VS]米国・日本・オーストラリアなど

 こうしたトランプ政権の意向もあって、この7月に入って以降、オーストラリア、英国、日本などの同盟国やインドなどの友好国との共同訓練や共同関係の強化などの取り組みが急増している。軍事面だけでなく、中国の「一帯一路」戦略に対抗するため、米国・日本・オーストラリアが中心となり2019年11月から民間部門主導の開発を通じた透明性の高い資金調達と質の高いインフラを世界中で推進するための「ブルードット・ネットワーク」を立ち上げ、米国はインド太平洋地域だけで約1兆ドル(約105兆8800億円)にのぼる直接投資を追加した。

 2015年から本格的に始まった「一帯一路」政策。ここ数年間は多くの国々がこの政策による資金援助を受けてきて世界を怒涛する様相だったが、現在は資金難など問題などさまざまな課題に直面し停滞が広がってきている。ようやく中国の一帯一路政策に真正面から対抗できる経済政策が始まったところだ。(※この「ブルードット・ネットワーク」については日本ではほとんど報道されていないが。)

 8月7日、日本の河野太郎防衛相はCNNの単独インタビューに応じ、南シナ海などの現状を変更しようとする中国の試みについて、「力による現状変更を試みる者は全員、高い代償を支払うことを余儀なくされる必要がある」と述べた。オーストラリアのモリソン首相は8月5日、南シナ海情勢に触れ、「太平洋や東南アジアの友好国を支援するために具体的な行動をとっている」と述べた。米国のエスパー国防長官は先月、米国の同盟国やパートナー国に対し、中国政府への圧力を強めるよう要請した。

   このような軍事・経済戦略が米中双方で対抗的に進められている中、中国の今後の「台湾政策」はどのような戦略をもってきているのか? これに関して、とても興味深く参考になる論考記事が月刊誌『文芸春秋』8月号に掲載されていた。筆者は朝日新聞編集委員の峯村健司氏。論考記事のテーマは「習近平の"台湾併合"極秘シナリオ」。

 以下、その記事内容(序論 1章~8章)のポイントを紹介したい。(10ページにわたる記事)

 1、「今日の香港、明日の台湾」

🔴今年5月の中国全人代開幕式における政治活動報告で、首相の李克強が「我々は"台湾独立"を目論む行動には断固として反対し、分裂をくい止めなければならない。統一を促進して、必ずや民族復興の明るい未来を切り開くことができる」と。李は、過去6回の全人代での政治活動報告で、台湾との「平和統一」もしくは「平和発展」という言葉を使ってきた。今回初めて「平和」という単語を使わなかったことで、「軍事的解決に舵を切ったのではないか」との憶測を呼んでいる。

🔴台湾の蔡英文総統が再選され、対中国強硬政策が支持を広げた台湾情勢。香港での「香港国家安全維持法」の施行を巡って、台湾人の間で「今日の香港、明日の台湾」との中国への警戒感や危機意識がさらに高まっている。こうした状況を受けて、中国軍内では武力統一を求める声が急速に高まっている。

🔴筆者(峯)は、昨年、習近平政権の政治スローガン「中国の夢」の理論的支柱者で、習政権の政策決定に深く関わってきている中国国防大学教授で上級大佐の劉明福にインタビューを行った。まず、「中国の夢」に込めた戦略は何かと峯は尋ねた。この質問に劉は、「戦略は三つあります。一つ目が"興国の夢"。建国百周年の2049年までに経済や科学技術などの総合国力で米国を超え、中華民族の偉大な復興を成し遂げる。二つ目が"強軍の夢"。世界最強の米軍を上回る一流の軍隊をつくる。そして、最後が"統一の夢"。国家統一の完成です。

中でも台湾問題の解決が"中国の夢"の重要な戦略目標となります。まずは平和的な統一を試みるが、それを拒むならば軍事行動も辞さない」と武力統一の可能性を強調した上で、その時期について、「習主席は"在任中"に台湾問題に積極的に取り組み、国家統一を実現すると確信しています」と劉は言及した。

2、習近平の宿命

🔴習は、2018年3月に「二期十年」だった国家主席の任期を撤廃している。現在67歳という習の年齢を考えると、三期目が終わる2027年11月には引退する可能性が高い。それまでには台湾統一を実現することとなる。台湾統一は"中華民族の悲願"とされるが、習個人にとっても、在任中に統一を果たさなければならない事情がある。

🔴党関係者は語る。「国家主席の任期撤廃には、党内の反発が非常に強かった。習氏はこれを押し切るため、"統一のためには二期十年では足りない"と説得しました。習氏は約束した以上、三期目が終わるまでには何が何でも統一を実現しなければならないのです」と。ならば、もし統一を実現できなかったら習はどうなるのか。この質問を二人の党関係者にぶつけると(筆者の峯が)、共に同じ文言を使って即答した。「ただの白痴だ」と。習は共産党や軍内から、大きな期待を集めると同時に、強いプレッシャーも受けているのだ。失敗が許されない、いわば宿命を背負っていると言った方がいいかもしれない。

3、臨戦態勢に入った東アジア

🔴台湾を巡る東アジア情勢は、すでに臨戦態勢に入ったと言っていい。「Xデー」が刻一刻と迫る中、はたしてどんな作戦で台湾に侵攻するのか―実はこれについて中国は1990年代から詳細な「シナリオ」を作り続けている。中国軍の内部資料には、その戦略が克明に記されており、習が国家主席に就任してからも、国際情勢に応じてアップデートが繰り返されてきた。今回は、複数の内部資料に加え、筆者が参加した米国や日本政府、研究機関などが主催した「ウオーゲーム(作戦演習)」で得た知見を元に、そのシナリオを再現したい。筆者は上陸作戦が行われるのは台風が少なく最も台湾海峡の海上が安定している十月とみている。‥‥‥。逆算すると、習近平はその5カ月前の5月から動き出す。

4、日本近海にミサイルが

①5月25日、習近平は最高会議の政治局常務委員会でこう宣言する。「台湾独立分子に対して、断固たる軍事的措置をとる」。同日、中国軍は空母「遼寧」と「山東」を主力とした艦隊を台湾東岸に送り、実弾射撃演習を実施。その翌日には、最新鋭爆撃機「轟20」が中台間の事実上の停戦ラインである台湾海峡の「中間線」を越えて台湾空域に入る。これが中国による狼煙(のろし)だった。

②中国軍の創立記念日である8月1日を目前にした7月30日、台湾海峡と東シナ海一帯で、史上最大規模の軍事演習を実施。航行する空母を追いかけて撃破することから、「空母キラー」の異名をとる対艦弾道ミサイル「東風21D」二発を台湾東側に試射する。

その矛先は日本にも向く。米領グアムを射程に収めることから「グアムキラー」と呼ばれる最新鋭の中距離弾道ミサイル「東風26」四発をグアム沖の公海に向けて発射。ほぼ同じ時刻に東風26が房総半島沖の日本の接続水域に着弾する。そして、中国軍の制服組トップ、軍事委員会副主席はすぐさま次の声明を出す。「台湾の独立を支援する勢力およびその同盟国には懲罰を与える」

中国軍の戦略に詳しい米シンクタンク・上級研究員のトシ・ヨシハラはこう分析する。「日本近海に中国軍のミサイルが撃ちこまれたのに、米軍が全面戦争を恐れて中国に報復攻撃をしなければ日米同盟は完全に破綻する。ミサイルの威嚇発射は日米を揺さぶるには効果的な作戦だ」

8月1日、北京の人民大会堂で開かれた軍創設記念大会に出席した習近平は重要講話を発表する。「台湾独立分子と外部の干渉勢力との闘争に突入した。我が軍の核戦力の使用基準の見直しを宣言する」 この習の宣言は、核をもたない日本や台湾にも核攻撃を辞さないという「宣戦布告」といえる。

5、第一段階はサイバー攻撃

🔴日米への「牽制」と「核兵器使用宣言」を経て、いよいよ台湾への本格的な攻撃を開始させる。第一段階がサイバー攻撃だ。9月20日、台湾内の全てのATMが使用不能になる。二日後には、主要な発電所や送電施設が停止し、台湾全域で大規模停電(ブラックアウト)が発生。交通網は麻痺し、物流も止まり、市民はパニック状態に陥る。中台の安全保障が専門の米シンクタンク研究員、イアン・イーストンは筆者の取材にこう語る。「中国軍は、台湾住民の戦意喪失を狙って、発電所などの重要インフラをサイバー攻撃で破壊する作戦を立てている。台湾に戦闘準備ができていても、電力や通信が使えなければ侵攻を阻止できるか疑問だ」

6、突如、米空母が撤退

①9月25日、台湾軍に衝撃が走る。台湾支援のために南部の高雄に寄港していた米軍の空母「ニミッツ」艦隊が、突如、グアムに撤退してしまうのだ。ほぼ同じタイミングで、米軍横須賀基地に配備されている空母「ロナルド・レーガン」もハワイに撤退する。米空母の撤退はこのシナリオにおける最大のポイントである。

②米軍を撤退に追い込む柱となるのは、中国軍のミサイルだ。その能力は、この30年で質量ともに飛躍的に増強され、米軍を脅かすまでに成長した。

③前出の劉明福はこう強調する。「米国は中国との全面戦争につながる軍事介入をする可能性は低いでしょう。しかも、中国が武力統一に踏み切る時には、米国による軍事介入を打ち負かす能力を備えています」

④米空母の撤退を機に、中国の優位は決定的なものになる。空母「遼寧」「山東」を中心とする艦隊が、台湾周辺の海上封鎖をする。

⑤中国の国慶節にあたる10月1日未明、中国沿岸部から発射された巡航ミサイルが台湾最大の桃園空港をはじめとする主要空港を次々と破壊される。電波や赤外線による電磁波攻撃を受け、台湾軍のレーダーや通信機能が使用不能に陥り、探知・迎撃できなかったためだ。

7、中国の「錦の御旗」

①10月3日、ついに台湾本島への上陸作戦が始まる。数十万人の中国軍を乗せた二万隻の艦船が出撃。これに対して台湾は百六十五万人に上る予備役も動員し応戦。同じタイミングで、台湾内に潜伏していた中国軍の特殊部隊数百人が出動。さらに、中国側と内通していた陸軍中将が台湾陸軍の一部を率いて反乱を起こし、総統を含む主要閣僚や反中メディアの幹部らを拘束する。

②10月14日、ついに首都機能をもつ台北が陥落。この中将をトップとする臨時政府が樹立され、島内全域に戒厳令が敷かれる。同日、習近平は中南海の特務室から国営中央テレビを通じてこう宣言する。「臨時政府トップを台湾の代表として承認する。臨時政府の要請に基づき、五十万の兵力を派遣する」

③この臨時政府の樹立こそ、中国にとって「錦の御旗」となる。米軍は反撃のための「大儀名分」を奪われるからだ。台湾軍の幹部をトップに据えることで、その後の統治も円滑に進むだろう。こうして、台湾統一が成し遂げられる―習近平の頭の中には、このシナリオが用意されているはずだ。

◆昨年10月の国慶節パレードで登場したグアムキラーや空母キラーの異名をもつ「東風26」や「東風21D」。時速60kmで航行する空母を追うように軌道を変えることができ撃破する。目標に到達すると多数の子弾をばらまき、無被害が広範囲に及ぶように設計されている。「動く街」と言われ、五千人以上の乗組員を乗せる米空母にとって日本はおろか、グアムでさえ安全圏ではない。(※この文章上の上の写真は峰村氏の論考には掲載されていはいない。)

 ◆現在、中国は「遼寧」と「山東」の2隻の大型空母を就航させている。さらに、もう一隻の建造が急ピッチですすめられていて、2年後には就航するだろう。Xデーに最も有力視される2024年には大型空母3隻体制が整う。さらに中国が進めているのは、「軽空母」3隻の建造だ。1隻はもうすでに就航が近い。これは日本の軽空母「いずも」より少し大きいの艦船。主にヘリコプターを搭載する。台湾上陸の際の強力な艦艇となる。(※この文章と上記の写真は峰村氏の論考には掲載されていない。)

 ◆現在、中国は「中国海軍初の強襲揚陸艦075型」を建造し、1番艦は8月5日に試験航行をしたと、中国メディアが伝えていた。2番艦の就航も近い。飛行甲板も備え、艦尾のドライドッグを通じて、空気浮揚艦艇や上陸突撃戦車や装甲車が出入りできる。7層の構造があり、ものすごい数の戦車などを搭載できる。(※この文章と上記の写真は。峰村氏の論考には掲載されていない。)

7、Xデーはいつか

①このシナリオでは、軍事演習の開始からわずか4カ月あまりで臨時政府が樹立される。だが、本当に中国の思惑通り、事態は推移するだろうか。鍵を握るのが米軍の動きだ。

②前出のトシ・ヨシハラは言う。「私が参加したすべてのウォーゲームで、米空母はグアムもしくはハワイまで撤退を余儀なくされた。中国からのミサイル攻撃を受ければ、ほぼ確実に沈められてしまうからです。もはや空母は、米軍の「力の象徴」ではないのです」 

③では米軍はどうやって対抗するのだろうか。(※対抗策が叙述されている。)

④筆者も最近まで、早ければ今年中に中国が台湾統一に向けた行動をとる可能性があるとみていた。十一月には米大統領選が控えている。中国は大統領選前後を「権力の空白期」とみて、軍事挑発をする傾向がある。はたして、2020年中にシナリオが実行される可能性はあるのか。今年2月、前出のイーストンに尋ねた。「新型コロナによって国際情勢の先行きが不透明になり、計画は遅れるかもしれません。それでも、2025年までに軍事侵攻した場合、成功確率は50%はあるとみています」

筆者は最も可能性が高いのは、次の米大統領選がある2024年前後だとみている。この年の1月には台湾総統選挙も行われる。再選は一度しか認められていないため、現総統の蔡英文は退任し、別の民進党候補が出馬する。次期総裁選で民進党が当選すれば、中国側は強く反発して実力行使に踏み切る可能性があるのだ。

8、「中国の脅威」議論を

🔴台湾に侵攻しても「失敗するかもしれない」と思わせる抑止力こそが、もっとも重要な防衛上の手段となるだろう。

※以上が、峯村健司氏の「習近平の"台湾併合"極秘シナリオ」の概要。2024年まであと3年と半年。とても参考になる論考だ。2022年の冬(1-2月)、中国北京とその近郊の万里の長城付近を会場とした「北京 冬季オリンピック」が控えている。それ以前に「台湾武力侵攻」を実行する可能性は低いかもしれない。実行すれば米国をはじめ、大会参加をボイコットする国が続出する可能性が高いからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


中国共産党総書記・習近平氏の「台湾併合(統一)」極秘シナリオ❶「台湾併合」へのこの70年間の動き

2020-08-10 09:18:20 | 滞在記

 2020年7月1日、香港国家安全維持法が施行され、香港の自治を尊重する「一国二制度」は実質的になくなり、香港は単なる中国の一部地域となった。香港が中国に返還された1997年から2047年までの50年間は香港の自治を尊重するということを中国政府側が一方的に破棄しての香港の「一国一制度」としての完全併合であった。

 この香港の状況に対して、6月30日に台湾総統の蔡英文は、「非常に失望している。一国二制度が実現不可能であることを証明するものだ」と述べ、台湾に対して中国が提唱する一国二制度での統一事業はもはや受け入れることの難しさを表明した。親中派とされる台湾の野党、国民党も同じ日、「香港司法の高度な自治が守られるべきだ」との声明を発表し、中国のやり方を暗に批判した。

 台湾当局者関係者の間では、中国の習近平政権が香港の次に、台湾に対して強引に統一攻勢を仕掛けるのではないかと懸念する声も高まっている。中国では台湾との統一を念頭に、新たに「国家統一法」なるものを制定する動きも数年前から始まっている。

 香港が「落ちた」以上、次は台湾が要注意だ。習近平中国共産党総書記にとって、台湾をおとせば、これ以上の戦果はない。毛沢東も鄧小平もできなかった事業の成功者として、まさに終身的な総書記への可能性も打ち出した2017年の党の規約の変更は国内的には正統化されるだろう。

 台湾は日本の九州と同じくらいの面積の島である。人口は約2350万人。台湾全体のGDPは世界第22位の経済力。一人当たりのGDPは中国の約3倍。総合軍事力は世界第15位(兵力約23万人)。

 中国(大陸)の中国共産党政権による台湾への武力侵攻は過去2回行われたがいずれも米国による軍事介入(支援)などにより成功していない。一度目は1958年、台湾武力侵攻を目指す毛沢東の中国共産党軍により、大陸に最も近い福建省の廈門(アモイ)冲にある「金門島」(台湾の支配下)は猛攻撃にさらされた。しかし、米国軍の支援により、金門島への攻撃を退けるに至った。(第一次台湾危機)

 二度目は1996年。この年に台湾史上初の「公選(民主的)台湾総統直接選挙」が行われることとなり、これに危機感を抱いた中国共産党政権(鄧小平・江沢民)が台湾への武力侵攻も実戦想定した大規模軍事演習(そのまま武力侵攻も)を福建省の沿岸や台湾海峡で行い、大陸から台湾に向けての実戦ミサイル配備を行った。この状況下、米国は2隻の空母機動部隊を台湾海峡に急遽派遣し台湾海峡を封鎖。このため台湾への侵攻を断念した。(第二次台湾危機)  そして、台湾総統選挙は初代の民選総統として李登輝が選ばれた。

 この侵攻(台湾併合・統一)の失敗により、中国共産党政権は長期計画として三つのことを行い再びの台湾併合・統一に向けて取り組むこととなる。一つ目はGDPなど国民総生産の増大政策、つまり経済の大発展を遂行すること。二つ目は米国に対抗するための海軍力の増強などさまざまな軍の拡充強化と近代化を長期計画で推進し始めていくこと。三つ目に、2005年に「反分裂国家法」を制定した。(胡錦濤)  この法律は10条よりなる簡単な条文であるが、台湾が独立を宣言した場合、台湾独立派に対する「非平和的手段」をとることを合法化したものである。

 2000年の台湾総統選挙で初めて「民進党」の陳水扁氏が台湾総統となり、2004年の総統選挙でも再選を果たした。陳氏は「より台湾の民主化と経済発展を進める政策と中国への警戒」を政策の基本とした。一方、中国大陸では2008年の北京でのオリンピック開催、世界第二位に迫る中国の急速な経済発展がすすんだ。

 2008年の総統選挙で「国民党」の馬英九氏が台湾総統選挙で勝利。馬氏は中国共産党政権との協調・融和政策を打ち出す。中国側も「一国二制度」を提唱。2012年の総統選挙でも馬氏が再選。この「融和」「一国二制度」の流れでの台湾併合・統一事業がなされるかという政局となった。この年、中国では習近平政権が発足。しかし、2016年の台湾総統選挙で民進党の蔡英文氏が総統選挙で勝利。これまでの中国との協調・融和政策から舵を切ることとなる。

 2017年10月に開催された第19回中国共産党大会(※中国政治における最も重要な大会。5年に一度開催され、チャイナセブンなどの党指導部が選出される。)。この大会で習近平氏が2期目の国家主席・党総書記となることが報告された。この大会での習氏の基調演説は3時間以上という異例の長さにわたり、この中で繰り返し言及したのは「中国の夢」であり「祖国統一」(台湾の併合・統一事業)であった。

 また、この大会では1980年代からこれまでの35年間にわたる慣例(総書記の任期は「毛沢東時代の過度の権力集中や個人崇拝に陥った歴史の反省」から、「二期10年間までとする」)をなくし、2022年の第20回中国共産党大会以降も習氏が最高権力者として君臨することを可能とするものに変えていった。また、この大会では習近平の後継者となる次期の総書記候補をチャイナセブンから排除した。

 この慣例の廃止はかなりの反対もあったようだが、これを黙らせるのに最も必要な事業が「習近平による台湾統一・国家統一事業」であった。この党大会後から「反民進党」「反蔡英文」の大規模政治的キャンペーンが中国国内だけでなく台湾でも取り組まれ始めることとなる。

 中国のインターネット記事サイトでは、反分裂国家法の罪状で逮捕される蔡英文の合成写真や武力による台湾への侵攻などをイメージした記事などが中国国内で多くだされるようになってきた。

 2020年1月、台湾総統選挙が実施されて、蔡英文が「中国政府が推す国民党の韓国瑜候補」を破って勝利した。この選挙戦を通じても、ここ数年間で台湾人の「私は中国人ではなく台湾人だ」という意識が大きく高まっていた。

 この台湾を巡る中国政府にとっての危機感の高まりの状況下、今年2020年には「台湾への武力侵攻の選択肢の可能性も」あったのだが、今のところ、中国国内から端を発した新型コロナウイルスの世界的な爆発感染拡大という事態の中、まずは「香港から」の完全併合「一国一制度」に駒をすすめた。

◆台湾への中国共産党政権の政策については、2018年2月4日~8日にかけて、「❶台湾海峡の緊張が高まりっっあると思う、❷2020年前後、台湾海峡緊張の予測、❸中国政府筋「中国近未来の6つの戦争」、❹台湾はどうなっていくのだろう」のシリーズでブログ記事を書いているので参照してください。

 

 

 

 

 


台湾民主の父ともいわれる李登輝氏死去―大阪弁事処で弔問記帳が―「半沢直樹」台湾旗が消えた

2020-08-08 16:40:52 | 滞在記

 台湾の李登輝元総統がこの7月30日に死去した。享年97歳。翌日の朝日新聞には「李登輝元総統死去97歳 台湾民主化を確立」「悲哀背負った"民主先生"―台湾の近現代史体現」の見出し記事。死去を受け、世界各国の首脳らが相次いで弔意を表明した。台湾外交部によると、8月1日午後までに、計59か国の要人332人が李氏の死去を悼んで弔問文などを台湾政府に送ってきたと発表されていた。(※現在、台湾と外交関係をもつ6か国の他に、日本、米国、韓国、フィリピン、英国、フランス、ドイツなどの政界やマスコミ関係者、国際機関など)

 台湾外交部によれば、日本や米国、バチカン(ローマ教皇庁)など海外に置く14か国の在外機関に追悼の場を設置したと発表された。

 追悼会場が台湾の台北市中心部の台北賓館など台湾各地に設けられ、蔡英文総統をはじめとする政界要人が訪れたほか、李氏の冥福を祈ろうとする大勢の人々が列を作っていた。台湾では8月16日まで追悼会場の弔問が開放されるようだ。

 日本では8月3日から7日まで、東京の「台湾駐日経済文化代表処(大使館に相当)」や大阪の「台湾弁亊処(領事館に相当)」、沖縄県の那覇市や神奈川県の横浜市、北海道の札幌市にある「台湾分処」で李登輝氏の弔問記帳処が設けられた。自民党の麻生副総理や管官房長官や小泉環境相や森喜朗・福田などの元総理、東京都都知事の小池百合子、立憲民主党の連坊参議院議員などの政界関係者や、多くの弔問記帳処に人々が訪れているようだ。このうち東京では、6日までに3000人を超す弔問客が訪れた。

 米国のポンペオ国務長官は、「李氏の大胆な改革が、台湾が民主主義の道しるべに変貌する上で不可欠の役割を果たした。李氏が米国と台湾の深い友好関係を強固にした。価値観を共有する台湾との関係強化を続けていく。」と表明した。

 蔡英文総統は8月6日、自身のツイッターで、李登輝氏の弔問のために、台湾が日本に設けている代表機関に足を運んでくれた人々に向け、次のような日本語での文章で謝意を示した。「コロナ禍と猛暑の中、多くの日本の友人たちが台湾駐日代表処に、李登輝元総統のための弔問記帳に訪れてくれたことに改めて心を打たれました。皆さん、ありがとうごさいます。李元総統が築いてくれた、地震やコロナにくじけることのない強い絆を持つ台中関係を私たちが引き継いでいかなければなりません。」

 中国国内でも李登輝の死去は伝えられていた。中国政府の李登輝への批判はとても厳しいものがある。「台湾独立運動に強い影響を与えた元親玉」のような捉え方が定着しているからだ。インターネット記事の投稿コメントなどをみると、「日本人的鬼子 李登輝」「早く死んでしまえこの野郎」「日本とアメリカの犬」「売国奴」などの内容コメントが多くを占めていた。

 ―李登輝―

 李登輝は日本統治下の1923年に台湾で生まれた。一族は古くから台湾に住みついた「客家」。父が警察官の比較的裕福な家庭に育ち、戦時下の1943年に旧制台北高等学校を卒業、その年に京都帝国大学農学部に入学、当時の台湾人としては一握りのエリートコースを歩んだ。日本名は「岩里政男」(※日本統治下の1945年まで台湾人はみな日本人でもあった。)

 専攻は農業経済学。農業経済学を選択した理由として、本人によれば、幼少期に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目のあたりにしたことと、高校時代の歴史教師である日本人の塩見薫氏の影響によりマルクス主義と唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があることを理由として挙げている。

  旧制高校時代には西田幾多郎・和辻哲郎などの京都学派の著書、安倍次郎、倉田百三、鈴木大拙などの書籍、新渡戸稲造の『武士道』なども愛読した。京都大学時代には農業経済学の勉学とともにマルクスの『資本論』や河上肇(京大・マルクス経済学者)など社会主義関連の著書にも親しんでいた。1944年には他の文科系学生と同じように学徒出陣。終戦時には陸軍少尉の軍階級。1945年の日本の敗戦とそれに伴う台湾島の日本からの返還を受け、1946年に「中華民国」の一省へと変わった台湾に帰り、国立台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。同年、中国共産党に入党。(※2年後に離党)  

 1947年に中国共産党軍との内戦に敗れ、中国大陸より台湾に逃れた蒋介石率いる国民党軍とその軍事政権。国民党政権が本省人(台湾にもともと住んでいた人たち)を武力弾圧した2.28事件がこの年に発生した。官憲による白色テロが吹き荒れる中、本省人で日本帰りの知識人である李氏もマークされ、いつ連行されてもおかしくない状況に置かれた。知人の家の倉に匿われたりしていた。当時の緊迫した日々を「枕を高くして寝たことがなかった」と振り返り語っている。

 1949年、国立台湾大学を卒業し、同大学農学部助手として採用される。同年、曽文恵と見合い結婚。翌年、長男が生まれる。1952年にアメリカのアイオワ州立大学に留学し、農業経済学を研究。53年帰国し台湾農林庁に就職するかたわら、台湾大学の講師としても勤務。以後、農業経済学の研究を続けながら1961年には台湾大学助教授としての兼任勤務。再び1965年からアメリカに研究留学。(コーネル大学)  1968年に台湾に帰国し、台湾大学教授に就任している。しかし、1969年に李は思想的な問題嫌疑で国民党政権下の警察総部の取り調べを受け一時拘束されたこともある。

 農業専門家としての経歴をかわれて、その後、1971年に李登輝は蒋介石の息子・蒋経国の知遇を得て政界に入る。「国民党」に入党。その後、蒋経国が行政長官に就任(台湾総統は父の蒋介石)すると、無任所大臣として入閣。1978年には台北市長に任命される。1984年、蒋介石の死去にともない蒋経国が台湾総統となり、副総統に任命される。1988年、蒋経国の死去にともない、副総統であった李が台湾総統となる。この時期から台湾では再び政治の民主化を求める運動が活発化しはじめた。1980年代には「国民党」に対抗し政治の民主化を求める「民進党」が結成されてもいる。

 1994年、李登輝は総統職にある中で、台湾の主要都市である台北市や高雄市での首長選挙(民主的選挙の実施)を決定し、96年には初の「台湾総統選挙」(民主的直接選挙)の実施を行うことを決定した。この1980年代末から1990年代前半の民主化の動きは「静かな革命」とよばれ、李登輝は「民主先生」とも呼ばれた。1996年の初の台湾総統選挙(直接民主選挙)で54.0%の得票率で当選し、李は台湾史上初の民選総統となる。この選挙に関して、中華人民共和国(中国)は、台湾の独立を推進するものと反発、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される福建省沿岸での大規模な軍事演習(台湾へのミサイル発射訓練を含む台湾侵攻の動き)を行った。しかし、この第二次台湾危機は、米空母2隻を含む台湾海峡への派遣によって阻止された。

 2000年の第二回目台湾総統選挙では、李登輝の国民党陣営内は2極への分裂選挙を強いられ、李登輝の推薦する候補は敗北、民進党の陳水扁が当選し台湾総統となった。このため、李登輝は国民党主席を辞任した。国民党主席辞任後は政界を引退したが、李の台湾独立志向などの発言のため反党行為として2001年には国民党から党籍剥奪の処分を受け離党。「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら結成し、その後の台湾政局にも影響を与え続けた。2004年の台湾総統選挙では、選挙期間中に、台湾島の南北約500kmを約200万人の人々が中国大陸に向けて手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、再選を目指す民進党の陳水扁を側面支援した。

 その後も、李登輝はさまざまな活動を晩年まで続けた。日本には2001年、持病の心臓病治療で来日。2004年には家族との観光旅行として日本を訪日。母校の京都大学農学部を訪問したが、入り口から構内に入ることは当時の日本政府の「日本と中国との政治関係への配慮のため」、京大の大学構内には入構できなかった。金沢市の西田幾多郎の史跡も訪れている。2007年にも日本を再び訪れ、芭蕉の「奥の細道」の東北地方を旅行した。(※李登輝には1男2女の息子・娘があったが長男は1982年に死去)   2008年、2009年、2014年、2015年、2016年、2018年にも日本を講演などのため訪れている。

 晩年は、台湾各地に足を運び、講演などを通して地方分権や住民参加を推進する「第二次民主革命」を提唱した。心臓病や糖尿病、がんなどの病気を押しての行脚だったが、台湾という故郷と、そこに住む人々に寄せる思いがなせる業だった。偉大な「哲人」が97年間も生き、そして息をひきとった。

◆作家の司馬遼太郎との対談で、李登輝は、日本の統治に続き中国大陸から渡ってきた蒋介石の国民党軍ら外省人の統治を受けた同胞の運命を「台湾に生まれた悲哀」と表現した。台湾に住む人々が台湾人としてのアイデンティティーを確立する必要性を説いた。台湾総統時代の1991年、中国との内戦状態の終結を宣言。1999年には台湾と中国を「特殊な国と国との関係」とする「二国論」を打ち出した。「一つの中国」を原則とする中国はこれに激怒し、李登輝は「台湾独立分子・売国奴」のレッテルを貼られ、今日に至っている。

 李登輝の母校の一つである京都大学。たった1年間あまりだったが彼はここの学生だった。おそらく京都大学に近い銀閣寺界隈や哲学の道、白川通りの付近にて学生生活を過ごしたようだ。李登輝の京都大学時代の恩師と2004年に再会している。その恩師の息子は、『李登輝の偉業と西田哲学―台湾の父を語る―』(京都大学教授 柏久 著)を著している。

 大阪の「台湾弁亊処」でもは、8月3日~7日の期間、李登輝への弔問記帳が行われた。場所は大阪中の島にある中の島フェスティバルホールの建物。京阪電鉄「淀屋橋駅」で下車、地上に出ると大阪市役所や日本銀行大阪支店の建物が。橋の上からはフェスティバルホールの建物が見える。

 フェスティバルホールの超高層ビル1階から2階に通じる長い階段には赤い絨毯が敷かれている。17階に台湾弁亊処があり、そこの一室に弔問記帳所が置かれている。8月3日、「お疲れ様でした。」と冥福を祈った。

 台湾の李登輝元総統が亡くなったことを受け、日本では森元総理を団長とする弔問団が、明日8月9日に台湾を訪問することが発表された。弔問団には、安倍首相の弟の岸信夫元外務副大臣や、自民、公明、国民民主、維新など、党派を超えた議員が参加する。(なぜか?立憲民主党と日本共産党の弔問団への参加はないようだ。党としての参加意志があれば参加できたのだろうが。立憲民主党などは、参加者の打診を受けたが「参加に適切な人物がいない」との理由で断ったようだ。なぜなのか?日本共産党も?)

 弔問団は、現地では、蔡英文総統との面会も予定されているようだ。

 TBS系ドラマ「半沢直樹」。このドラマの2013年第一回シリーズは中国でも多くのドラマファンを生み出した。私の大学の日本語学科の学生たちもこのドラマの熱心なファンが少なくなかった。今年の7月から始まった第二回シリーズ(続編)も30%を超える高視聴率。私も毎回欠かさず熱心に視聴している。「やられたらやり返す 倍返しだ」は中国語では「有仇必報 加倍奉還!」と言うが、一時期中国でも話題のフレーズとなっていた。

 その「半沢直樹」の続編の第一話の画面中にあった「台湾旗」が1週間後の再放送時には消滅していたことが物議を醸している。新聞などには「半沢直樹、屈した? ―消えた台湾国旗の謎」「中国での放映に差し障り、問題になる前に対応か」などの見出し記事が8月1日付けの夕刊フジなどに掲載されていた。

 台湾問題に神経をとがらせる中国への忖度(そんたく)があったのかと憶測されている。問題となっているのは、第一話で堺雅人演じる主人公、半沢が出向した証券子会社でのシーン。7月19日の本放送では背景の大型モニターには世界地図が映しだされ、主な国名と国旗があったのが、26日の第二話放送直前の再放送では、各国の国旗が消え、国名表示のみに変わっていた。

 台湾国旗は中国大陸では完全にタブーの存在で、公の場に出してはいけない記号として認識されている。国旗を出したままだと中国での放映に差し障りがあるので、テレビ局側で、問題が大きくならないうちに対応したのではないかとみられている。大きな組織にひるまず戦うのが半沢の真骨頂のはずだが、TBSテレビ局内には半沢はいたのだろうか?それなりに対応を巡る議論はあったのだろうが。

  このような中国の対台湾問題感情を知らないまま、私は2013年9月に初めて中国の大学に赴任したその翌年の3回生の講義(授業)で、私が台湾を「国的なもの」として一つの資料をパワーポイントで提示したところ、ある学生(共産党員)が、「先生!台湾は国ではありません!中国の一部です。中国の省、台湾省です!」と猛烈に抗議され、少なくない学生たちがその学生の抗議に同調の表情を見せたことを思い出す。

 

 

 

 

 

 


明智光秀、越前での雌伏の10年❸朝倉氏への仕官なるも、一乗谷城館群からは離れていた光秀屋敷

2020-08-05 18:58:03 | 滞在記

 一乗谷朝倉氏館群の中心部から車で15~18分(徒歩では1時間ほどか)、鬱蒼とした森の道が続くなだらかな峠坂を越えて下るとかって明智光秀の屋敷があったとされる集落がある。峠には「旧・朝倉街道」の説明版が立てられていた。一乗谷へと通じるかっての街道道が現在の峠道脇に残されている。

 この朝倉街道は大手道とも呼ばれた。越前国の鯖江や福井の地に通じる街道で、敦賀や北近江などに朝倉軍が出陣する際はこの街道を通ったものかと思われる。峠付近は石畳が敷かれた街道道であったようだ。

 峠からほど近い東大味の集落はかって明智十兵衛光秀の屋敷があったとされている。朝倉家への仕官がなった光秀だが、一乗谷居館群からけっこう離れた場所に住まいを与えられたところからみると、そう高い地位として朝倉家に迎えられたわけではないことが推察できる。

 「麒麟がくる―明智光秀」の幟(のぼり)が立てられた集落の無料駐車場スペースに車を駐車し、光秀を祀っている「明智神社」の祠(ほこら)に向かう。集落の大きな看板には明智神社の場所も書かれていた。集落の一軒の家に白い桔梗の花が咲いていた。「土居ノ内―明智光秀公の家族が暮らした館があったところ。細川ガラシャ生誕の地とされる。」と書かれた板の看板があった。

 地元の人に道を聞いて明智神社には駐車場から5〜6分ほどで着いた。神社の入り口付近には、「ハート型苔」の板の看板。「自然にできたハート型の苔 恋愛スポット明智神社ならではのもの」と書かれていた。

 明智神社は小さな祠(ほこら)があるだけのもの。この祠の中には明智光秀の木像が祀られているようだ。「明智光秀公三女・細川ガラシャゆかりの里」の大きな石碑もあった。「雌伏のとき―恩人と伝わる光秀を慕い、今も木像を大切に守る里」の看板も。そこに書かれた文には「一向一揆討伐の際、光秀が柴田勝家らに出させた安堵状により村が守られたことから、現在に至るまで東大味の人々は光秀を慕いこの神社を守り続けている」と書かれてあった。

 ちなみに光秀には一説には四人の娘があったとされている。(男は3人―光慶・自然丸・男[名は不明])  長女は摂津国の織田信長軍団の一人・荒木村重の子息・村次と結婚した。しかし、村重の織田信長への反旗による籠城戦の中、離縁されて光秀の元に戻されている。(※この長女はのちに光秀の一族である明智秀満の妻になる。また、次女は織田信長の弟・織田信行[信長に謀殺される]の子息の津田[織田]信澄と婚姻している。信澄は山崎合戦の際、光秀側についたと秀吉側に思われ攻められて死亡する。)   

  三女「玉子(たまこ)」は細川藤孝(後の細川幽斎)の子息・細川忠興と結婚し、山崎合戦後には丹後半島の山奥の村に幽閉されキリスト教に入信。細川ガラシャとも呼ばれた。1600年の関ヶ原の戦いが始まる少し前に大阪の細川家屋敷で自害している。

 神社の祠の近くのわりと大きな建物には地元の人がつくった「東大味歴史文化資料館」という看板がかかっていた。誰もいない中に入り、電灯のスイッチを入れて展示物を見た。ポスターなどの展示物はほとんどがNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のものだった。明智光秀の屋敷があったところにについての説明もされていた。この明智神社の祠のあるところのあたりがその屋敷跡地とのこと。今はその多くが畑地となっている屋敷跡地の一角には今も土塁跡が残されていた。時刻はすでに午後5時半ころとなっていたので、車で故郷の自宅のある南越前町に向かうことにした。

 明智光秀と妻・熙子、そして玉子(たまこ)が誕生して3人の娘たちはここで2年間あまりを過ごすこととなる。その後、将軍・義昭や細川藤孝が一乗谷を出て、織田信長の尾張を頼り移り住むとともに、光秀も家族も朝倉氏の仕官を辞してここ越前を出ていくこととなった。光秀、雌伏の時の10年から飛躍の10年間が始まることとなる。

 ―美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」―

 明智十兵衛光秀が妻子とともに生国の美濃を離れ、越前に赴いたのは、弘治2年(1556年)の「長良川の戦い」が原因と考えられている。この戦いは、斎藤道三と息子の義龍が争い、2万という圧倒的な義龍軍に対し2千という寡兵の道三が敗死した戦いだ。注目すべきはその後のことで、道三軍に組した光秀ら明智一族の居城・明智城が、義龍らの軍勢に攻められて落城しているのである。つまり、光秀らは、勝者の義龍に敵視され、美濃にはいられなくなったので、落城した城をあとにして越前に逃げ込んだ(亡命した)と考えられている。

 岐阜県可児市には明智城址がある。また、現在の岐阜県恵那市明智町にも明智城址があり、光秀出生の地とも言われる。光秀が誕生したのは有力な説によれば1528年。この説に基づけば明智城が落城したのは光秀29歳の時となる。美濃からどのようにして越前に向かったのかは定かではない。おそらく、当時も美濃と越前の国境の峠である油坂峠や温井(ぬくい)峠を越して越前に入国したと考えられている。(温井峠の方が長く険しいかと思う)   いずれの峠も山深く険阻な長い長い峠道だ。いずれの峠からも越前の大野に至る。

 越前に逃げた理由としては、「①まず、美濃との隣国であり、険阻だが峠を越えてわりと近い距離にあること、②明智一族と縁の深い美濃の守護だった土岐一族とは、越前朝倉氏は友好な関係だったこと、③越前一乗谷の文化水準は、周防・山口の大内文化、駿河の今川文化と並び、「戦国三大文化」と称されていて、軍事面でも文化面でも力と栄華を誇る戦国大名だったことなど」が挙げられる。しかし、なぜ、逃亡先としては最も近い隣国・尾張の織田信長の正室となっている従兄妹の帰蝶(父は斎藤道三)がいる地に逃れなかったのかの謎は残る。

 その後、10年間あまりを越前・丸岡長崎の地で暮らし、朝倉家に仕官がかなったのは1566年、光秀39歳の時と考えられている。人生50年の時代でもあった。そして、足利義昭と細川藤孝が朝倉氏を頼って一乗谷に来たのは、この年、1566年(永禄9年)9月のことだった。義昭の一乗谷滞在は1568年(永禄11年)7月頃までの2年間にわたった。この間に、明智光秀は義昭主従と接触し、懇意になったと思われる。

 1567年(永禄10年)には織田信長は斎藤義龍を戦いで破り、美濃を制圧していた。そして、「京都への上洛の軍を動かすことに消極的な朝倉氏ではなく、日の出の勢いのある織田に頼ったらどうか」と義昭主従に光秀が進言したのではないだろうか。光秀は信長の正室・帰蝶(濃姫)と従兄妹だったと考えられ、光秀はそのつてを使って、仲介の労をとることを申し出た可能性は高い。そして、義昭一行は1568年(永禄11年)、尾張に向かうこととなった。光秀41歳の時のこと。

 そして、光秀は織田信長にその能力の高さを認められ、その後 織田軍団の武将の中でも最も早く坂本城という城や領地(国)を与えられ国持ち武将となる。丹波国も与えられ亀山城や周山城、福知山城も築いた。1578年、光秀は51歳となっていた。越前・一乗谷近くの屋敷を出てからわずか10年の間のできごとだった。そして、4年後の1582年(天正10年)、本能寺の変、それに続く山崎(天王山)の戦いの敗戦があり、光秀とその一族は玉子(ガラシャ)を残し滅亡した。光秀享年55歳の時。なぜ、光秀は信長を討ったのか‥‥。その説はさまざまあるが、怨恨説ではなく「信長という存在へのいろいろな面での"恐怖(怖れ)と義憤"説」を私は考える。光秀なりの「怖れ」と「義」であったのだろう。

◆信長から高く評価されるだけの力量をどこで光秀は身につけたのかは わからない。しかし、基本的には斎藤道三に薫陶を受け、伯父の明智城主・明智光安の教えなども受けながら、武将としての器を磨き始めたのではないかとも思う。そして、もう一つ考えられるのは越前時代である。称念寺の門前で暮らした十年間は、生活的に苦しかったはずだ。それでもくじけることなく機会を待ち望み、有り余る時間を使って、さまざまな書籍を読み込みながら、一生懸命に日々、自己研鑽に励んでいたのではないだろうか。

 それが後に、足利義昭、細川藤孝との関係づくり、信長による抜擢と活躍につながったとするならば、越前で過ごした十余年は雌伏の時ではあっても、決して無駄ではなく、光秀を飛躍させる重要な期間だったと言えよう。ある意味で亡命から苦節十年を経ての「逆転人生」の始まりだったとも言える。そしてそれから15年後、乾坤一擲の人生勝負に敗れ、滅んでいった。

◆滋賀県の湖西地方、現在の高島市に田中城という山城がある。本丸は標高220mほどで比高は60mほどと丘陵を利用した山城。平成26年(2014年)に『米田家文書』の紙背文書(※紙が貴重なこの時代、文書の裏側に別の文書が書かれているもの)から、「右一部明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也‥‥」という文章が発見された。この記録は米田貞能が永禄9年(1566年)に書いた(※永禄九年十月二十日の日付)もので、「針薬学」、つまり針灸学に関する内容の奥書。この記録書では、「右の一部は、明智十兵衛尉(光秀)が高島郡の田中城へ籠城していた折りに教えてもらった医学知識だが‥‥」と書かれている光秀研究としては驚くべき資料の発見であった。

 米田貞能は細川藤孝の家臣だった人物。当時の湖西高島郡一帯は、足利将軍を支持する国人たちと湖北に勢力をもつ浅井氏とが攻防をくりひろげていた。田中城城主は将軍方。この攻防の時に援軍として派遣された将軍方の一兵士として光秀がこの籠城戦に参加していたことが記されていた。同じく派遣された同僚の米田貞能は、光秀から教えられた何らかの医学知識を書き留めていたものだった。この米田家文書の一文からすると、光秀は朝倉氏に仕官がかなって、一乗谷近くの東大味の屋敷に移る前の時期に、将軍方の一兵卒として志願し、越前からここ近江(滋賀県)高島の田中城に来ていた可能性があることとなる。まだまだ、明智光秀の越前を中心とした十余年は謎が多い。

◆8月下旬からNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が再開され、「雌伏の越前10年編」が始まる。