彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都、青もみじを楽しむ❷—哲学の道・吉田山周辺エリアの青もみじ

2021-05-30 09:36:40 | 滞在記

 『月刊京都』の2020年5月号の特集「青もみじを楽しむ」には、「哲学の道・吉田山(神楽岡)周辺エリア」では「真如堂」と「安楽寺」、「喫茶茂庵」と「吉田山荘カフェ真古館」の青もみじが掲載されている。このエリアは、私の娘の家からも近いので、今 生後6か月になる孫の寛太をベビーカーにのせて散歩する定番コースともなっているところ。

 ―真如堂—広い境内のさまざまな場所で楽しめる青もみじ。「赤門」の名で親しまれる総門の朱色と青もみじのコントラストが美しい。緩やかな石段や石畳の道が続き、両脇から大きく枝を伸ばした楓(かえで)が包み込むように参道を彩る。本堂の裏は青もみじと苔が織りなす風景が魅力的。石畳の緩やかな小径をゴトゴトとベビーカーで進むと、その揺れに孫の寛太はいつも静かに眠ってしまう。木陰にベビーカーを停めて、しばしタバコを吸う。

 青もみじの隙間から降り注ぐ木漏れ日は、苔の表情を変化させ、その美しいグラデーションに目を奪われる。三重塔とともに見る青もみじもなかなかいい。威風堂々とした古塔に映えるみずみずしい青もみじは息をのむ美しさ。小雨の時もまた美しい。本堂に向かって右に菩提樹、左に沙羅双樹が植えられていて、6月中旬には白い花を咲かせる。鐘楼の周囲や本堂裏には紫陽花(あじさい)が開花する。この時期、手水舎では鉢に青もみじや紫陽花の花が浮かべられ、初夏ならではの色鮮やかな花手水を見ることができる。

 ここの本堂の裏手には3月下旬ころから4月中旬ころには山茱萸(サンシュユ)の木々が小さな黄色い花を咲かせる。墓地には、明智光秀の重臣・斎藤利三が友人の海北友松(絵師)とともに眠っている。真如堂に隣接している寺院は金戒光明寺(通称、黒谷さん)の大伽藍。幕末期の会津藩の本陣として使われ、城郭のような寺院だ。幕末の京都での戦いで亡くなった会津藩士たちの会津墓地がある。真如堂や金戒光明寺付近からは大文字山や如意ケ岳などの東山連山の山々が間近に見える。

 ―哲学の道― ここも孫の寛太をベビーカーに乗せて散歩に行くコースの一つ。桜の若葉、楓などの青もみじが美しい。5月にはいるとサクランボの実が赤く大きくなる木々もある。少し紫がかると食べごろになる。学生時代、下宿から大学やバイト先の行き帰り、ここのサクランボをよく食べていた。今は孫と歩く。6月上旬から中旬にかけて、夜の8時すぎごろから夜の12時ころにかけて蛍(ほたる)が見られる。

 ―安楽寺—哲学の道沿いから少し坂道を歩くと法然院と安楽寺がある。安楽寺は小さな寺だが、その山門と青もみじのコントラストは見事な美しさ。

 ―法然院—ここの山門と青もみじもまた美しい。山荘、庵的な寺の風情。法然院墓地には、日本人の美意識について書いた谷崎潤一郎や九鬼周造、マルクス経済学者の河上肇、歴史学者の内藤湖南などがここに眠る。

 —白沙村荘橋本関雪記念館—哲学の道沿いの銀閣寺参道に至る途中にある白沙村荘・橋本関雪旧居。今は橋本関雪記念館になっている。広い屋敷の庭は散策していても風情があり、広い画室のある建物で私は学生時代によくここに来ては読書をしたり昼寝をしていた。記念館では庭を眺めて湯豆腐を食べたりもできる。また、橋本関雪の作品が展示されている建物があり、彼のみごとな作品が見られる。東門にかかる楓(かえで)の青もみじはハッとする美しさがある。

 関雪の絵画が展示してある館の作品。私は「木蘭(ムーラン)」の絵が好きで、自宅の書斎にはこの木蘭の絵のポスターを今も貼っている。木蘭はディズニー社のアニメ映画「ムーラン」のあの木蘭。

 白沙村荘の庭園や画室の建物、庭のかたすみには無縁地蔵も多くある。この橋本関雪は京都画壇の一人だ。京都画壇は近世より土佐派や円山派や四条派などがあり、呉春や円山応挙などが活躍した。一般的に京都画壇とはそれらの流れをくむ明治以降の京都美術(絵画)界のことを指している。竹内栖鳳、土田麦僊、堂本印象、上村松園、菊池芳文、そして、橋本関雪らが有名だ。

 2019年11月2日~12月15日、京都国立近代美術館において、「円山応挙から近代京都画壇へ」の展覧会が開催されていた。たまたま、この年の11月に1週間ほど中国から一時帰国していた際に、この特別展を見ることができた。

 —吉田山荘カフェ真古館—吉田山(神楽岡)の山裾(やますそ)にある吉田山荘カフェ真古館。真如堂からは徒歩2分ほどのところにある。この吉田山荘は昭和天皇の弟宮である東伏見宮の元別邸。現在は格式のある料理旅館として、海外からの宿泊客も多い。敷地内にあるドイツ風の建物は、元倉庫だったもので、外観や窓などはそのままにし現在はカフェになっている。

 カフェ真古館の2階は、三方に窓がとられ、比叡山や大文字山、円山公園背後の将軍塚山の山並や点在する寺院の甍(いらか)などが望めインスタ映えがする。晩春から夏は青もみじが窓を埋め尽くす。特に、2階の奥の席は素晴らしく、たくさんの老舗喫茶店がある京都の中でも、カフェ真古館のこの席は、私は京都NO1、一番素晴らしい席ではないかと思っている。大きな窓から入って来る光でテーブルや壁も緑に染まり、まさに青もみじの木の中に入ったような気分になる。。ここを知る人はまだ少なく、他に客のいない時が多いので、この景色や空間を独り占めしている気分にもなれる。あまり人に知られたくない、とっておきのカフェだ。

 注文したメニューには必ず、古今和歌集や万葉集などから季節ごとに選んだ歌が和紙に書かれて添えられる。どれも、この吉田山荘の女将(おかみ)自らが書いたもの。裏には読み方や意味が添えられている。飲み物を注文すると添えられて、お土産用にも売られているコウモリビスケットがとても美味しい。2週間ほど前に孫の寛太と一緒に行ってみたら、最近の営業日は木・金・土・日の4日間とのこと。

 ―喫茶「茂庵」―小高い丘のような吉田山(神楽岡)の山頂に一軒の大きな2階建て木造建築がある。付近は大正時代、「茂庵」の雅号を持った数寄者が作った茶の湯のための場所で茶室などがある。山頂の建物は、その時の食堂棟で、現在は2階がカフェとなっている。席に座ると緑は目の前。西側に設けられたカウンター席からは、京都市街と愛宕山や衣笠山などの山々の景色が木々越しに眺められる。

 東側の席からは、青もみじなどの木々越しに大文字山の大の字が望める。店長の話では「特に美しいのは雨の日」とのこと。店内が暗くなることで、外の緑が発光しているように見え幻想的なのだとか。茂庵は、真如堂や吉田山荘からは少し山道を登り、徒歩10分くらいのところにある。吉田山山麓の神楽岡通りに数台が停められる、茂庵の客専用駐車場もある。ここは月曜日は定休日。最近では、若い女性たちがここによく来ているようだ。一昔前はこの店はあまり知られておらず客は少なかったのだが。

 —小さなお稲荷さん—吉田山の山頂には旧制高等学校時代の三高(現京都大学)の校歌「紅燃ゆる丘の上」の歌碑がある。その歌碑の近くにある小さな稲荷神社の朱の鳥居にかかる青もみじもまた風情がある。鳥居のそばにある小さな社務所の家、2月3日の世吉田神社の節分祭に登場する三匹の赤鬼・青鬼・黄鬼はこの家から吉田山を下って行く。私の娘の家もこの吉田神社の氏子(うじこ)の一軒。娘の夫が昨年は青鬼をしていた。娘の長女や次女は、青鬼が近づくと怖くて泣いていた。

 この稲荷神社や三高歌碑のあたりから、真如堂や金戒光明寺の三重塔や本堂の甍(いらか)がすぐ眼下に望める。東山三十六峰の山々のわき起こるような新緑がまた美しい。吉田山を東に下ると、すぐの山麓に吉田神社や京都大学がある。

 1558年の初夏、「白川口の戦い」があった。これは、京都奪還を目指す室町第13代将軍の足利義輝軍と京都を掌握していた三好軍との戦いだった。義輝軍は東山山系の如意ケ岳城や大文字山の中尾城に軍を置き、三好軍は勝軍山城(瓜生山山頂、現在京都芸術大学がある)やここ吉田山に軍を置いて、戦闘が行われた。ここ吉田山界隈からは、如意ケ城や中尾山城、勝軍山城、さらに比叡山山麓の雲母坂(きららざか)城、一乗山城などの山城があったところが一望できる。どの山城も土塁や曲輪(郭)や堀切などの山城の遺構が残る。

 今年の梅雨入りはとても早く、曇りや雨の日が多い。でも青モミジはこのような天気の日の青もみじは、しっとりとした風情があり、これはまたこれで心やすらぐ。

 

 

 

 

 

 

 


京都、青もみじを楽しむ❶—『月刊京都』、『KPRESS』に紹介されているところ

2021-05-28 05:26:43 | 滞在記

 今年の桜開花は例年よりも10日ほど早く、京都では3月25日頃には満開を迎え始めていた。そして、今年の梅雨入りもまた例年より3週間も早く、京都では5月16日に梅雨入りしてしまった。新型コロナウイルスのパンデミック禍下、昨年春は、人気(ひとけ)の少ない時間やさまざまな場所の桜を8年ぶりにじっくりと見て廻って静かに過ごした。そして今年は、4月中旬ころから京都近隣の"青もみじ"の光景を見に廻って静かに過ごしている。

 "青もみじ"は、雨や曇りの日でも、それなりにしっとりとした美しさや落ち着きのある瑞々(みずみず)しさがあり、梅雨の季節でもその光景が楽しめる。 "青もみじ"という言葉や、"青もみじ"を楽しむことが流行(はや)りとなり始めたのは、ここ2〜3年のことかと思うが、確かに、秋のもみじの紅葉とはまたちがったしっとりとした美しさがある。

 昨年の春、一冊の月刊誌を買った。"地元発、京を楽しむ大人マガジン"、『月刊京都』という雑誌だ。毎月、さまざまなテーマで京都とその周辺地域の紹介をしている。昨年2020年5月号(826号)は、「青もみじを楽しむ」、青もみじの名所を紹介している特集だつた。そこに掲載されている「ここの青もみじの光景は見てみたいなあ」という何箇所かに今年は行ってみようと思いたち、4月中旬ころから"青もみじ"を見るために訪れ始めている。

 梅雨が続く日々だが、おそらく7月上旬ころまで青もみじは楽しめる。特に、「床もみじ」(黒光りのする床にもみじの緑が映る)は、晴れの日よりも曇りの日が最も美しい。『月刊京都』の特集「青もみじを楽しむ」に掲載されている場所はたくさんあるが、掲載されている中で特に今年行ってみたと思ったのは以下のところ。

 ❶永観堂(京都市左京区永観堂町)、❷真如堂(京都市左京区浄土寺真如町)、❸善峯寺(京都市西京区大原野小塩町)、❹興聖寺(宇治市宇治山田)

  ❺安楽寺(京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町)、❻常寂光寺(京都市右京区嵯峨小倉山小倉町)、❼大原野神社(京都市右京区大原野南春日町)、❽二尊院(京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町)、❿野々宮神社(京都市右京区嵯峨野宮町)

 ⓫天龍寺(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)、⓬光明寺(長岡京市粟生西条ノ内)、⓭喫茶茂庵(京都市左京区吉田神楽岡町)、⓮吉田山荘カフェ真古館(京都市左京区吉田下大路町)、⓯さがの楓カフェ(京都市右京区小倉山堂ノ町)、⓰閑院宮邸跡(京都市上京区京都御苑)など‥。

※『月刊京都』のバックナンバー号は購入可能。京都市内の5箇所の書店や、大阪と東京のジュンク堂書店にあり。問い合わせ先は発行元の京都市左京区にある「白川書院」。

 京阪電鉄『KPRESS』(京阪グループ 沿線おでかけ情報誌)は、京阪電車の各駅に置かれている無料の情報誌。毎月発行されている。今年の5月号の特集は「初夏の風に吹かれて—青もみじを探しに」。京阪電車沿線の28箇所の青もみじの場所が紹介されているが、そのうち27箇所は京都、1箇所が滋賀県大津市、大阪はない。

 ⓱南禅寺(京都市左京区南禅寺福地町)、⓲哲学の道(京都市左京区)、⓳建仁寺(京都市東山区小松町)、⓴松花堂庭園(八幡市八幡女郎花)

※『KPRESS』でも掲載されている瑠璃光院(京都市左京区上高野東山)の床もみじは、それはもう見事だ。主庭の木々の緑が数寄屋造りの書院2階の黒光りする床や机を彩り、息をのむような圧巻の美しさを出す。秋の紅葉時もまた見事。が、しかし、京都八瀬にあるこの小さな寺院の拝観料が2000円とべらぼうに高い。ぼったくりのような料金設定には、圧巻の光景だけでなく驚かされる。だから、通常、❶~⓴の寺院などの料金は100円~500円まで。瑠璃光院も数年前までは500円だったが、住職の代が変わったのか‥。

 美術館の特別展拝観料金以上の2000円とは、光景の美しさとともに仏教の世も末かという感もして落胆もする。中高大生は1000円なので、それより年下の小学生などは拝観はできないのかなあ‥。身銭を切るような落胆の気持ちをもう経験したくはない。だから、この寺に再びいくことはないだろう‥。あの圧巻の美しさは見たくもあるが‥。

 床もみじの美しい、幻想的な光景が見られる寺院が京都にはもう一箇所ある。京都洛北の岩倉にある実相院だ。ここは料金500円。❶~⓴や実相院などは、学生時代から今までに何度も訪れているところだが、今年は、「青もみじを楽しむ」という目的で訪れた。次号以降、そこでの青もみじのことを記したい。

 

 

 

 

 

 


小林多喜二と志賀直哉—志賀を敬慕した多喜二の死、志賀は「実に不愉快、暗澹たる気持ち」と‥

2021-05-26 07:00:23 | 滞在記

 1925年、国民が待望した「普通選挙法」が成立(これにより、25歳以上の男性の選挙権が認められた。全人口の5%だったこれまでの有権者率が4倍の20%となった)。これとともにまた、この年、「治安維持法」が成立した。1917年にロシア革命が起こり、社会主義国家が成立し、この影響が日本にも及び始めていることを警戒、このための法律であった。この法により、政府批判及び国体(国の政治体制・天皇制)を批判する者に厳罰が処せられることとなる。飴と鞭(あめとむち)の二つの法律の制定。

 プロレタリア作家として活動をしていた小林多喜二は、1903年に秋田県の小作農(貧農)の次男として生まれた。北海道の小樽市で苦難の末に事業に成功した叔父(多喜二の父の兄)の援助で、彼は小樽の高校に、さらに小樽高等商業学校(現・国立小樽商科大学)に進学した。1924年の卒業後は北海道拓殖銀行の小樽支店に就職。銀行に勤めながら、1928年にプロレタリア文学誌に『一九二八年三月十五日』を発表、このため、銀行は馘首(かくしゅ)となる。

 この年、彼は日本プロレタリア作家同盟の書記長となった。さらに1929年に彼の代表作でもある『蟹工船』を発表した。そして、「特高」(特別高等警察、通称・「特高」は、主に治安維持法違反を検挙・取り調べ、投獄を行う)にマークされる存在の一人となった。1930年5月23日、一度目の検挙、6月7日に釈放されるも、8月に再び検挙・逮捕され翌年31年1月まで拘留され、釈放された。同年10月に非合法の日本共産党に入党している。

 そんな小林多喜二が1931年11月上旬に奈良の志賀直哉を訪ねて来た。思想犯として特高からマークされている小林を2階の客間に一泊させ、志賀の次男・直吉と3人で奈良の"あやめ池遊園地に遊びにも行っている。これが、二人の最初で最後の出会いだった。

 小林多喜二は志賀文学の大ファンだった。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)時代から、志賀の作品で文学を学んだとも言われ、志賀にかなり傾倒していたとも言える。小林が初めて志賀に手紙を出し、志賀との文通が始まったのはこの学生時代の二十歳前後。その頃多喜二は、叔父の製パン工場で働くかたわら、学校に通っていた。二十一歳で初めて書いた習作を志賀に郵送したりしたのもこの頃からだ。

 卒業後、銀行に勤めながら、仲間たちと同人誌『クラルテ』を主宰・発行したが、彼の志賀傾倒は同人誌仲間の間でも有名で、同人の一人が志賀直哉から彼宛の偽手紙を書いて、わざわざ東京あたりから投函した。その偽手紙には「滝井孝作と小樽へ行く」という内容が書かれていた。多喜二は非常に喜び、歓待の準備に走り回ったが、期日が来ても一向に沙汰がない。不審に思って志賀のもとに直接問い合わせてはじめて、自分が騙されたことを知った。このようなエピソードも、志賀のなかに多喜二の印象を深く刻んだようだった。

 労働者や貧農のおかれている深刻な社会的問題、特に1927年の世界恐慌の影響下、東北の寒村の小作たちの置かれている深刻な状況、娘を身売りして生き延びる状況に強い関心を多喜二は抱いた。彼は小樽の小料理屋に身売りされ、酌婦として働かされている女性(田口タキ)に惹かれ、後に金銭を工面して、見受け金を払い、彼の実家(この頃、父や母は秋田から小樽に引っ越していた)で共に暮らすようになった。

 志賀に傾倒していた多喜二だったが、志賀に「社会性」が欠けていることは気になり始める。とはいえ、ある種の文章の完璧性をもつ志賀にまた限りない敬意と心酔も、多喜二から容易に離れなかった。(※日本の近現代文学で著名な、芥川龍之介・谷崎潤一郎・川端康成・太宰治なども「社会性」はかなり欠けている。明治・大正・昭和と続くこの時代、日本文学の伝統は「私小説」的なものがとても多い。しかし、一方で、「人間性」「人間の本質」をつく洞察では世界に誇れる文学を多く生み出してもいた。夏目・谷崎・太宰はその意味では日本近現代文学の三大巨峰だと思う。)

 志賀直哉と小林多喜二というとりあわせは今日、多喜二が「革命作家」「プロレタリア作家」「天皇制・特高によって虐殺された作家」というイメージを強くもつことからひどく奇異なものとして映るかもしれない。しかし、多喜二ばかりか中條百合子(のちの宮本百合子—『播州平野』などの代表作、日本共産党の委員長・議長となる宮本賢治の妻となる。宮本賢治は1934年~45年の11年間、治安維持法違反などで獄中生活。宮本賢治が東京大学在学中に書いた『「敗北」の文学』は秀逸だ。これは芥川龍之介を論じたもの。)ら、当時のプロレタリア文学運動の担い手の多くが、志賀の文章を目標にその文学修業時代を過ごし、小説創作に取り組み、その手法の態度から多くのものを学び取ったとも言われている。

 1929年、多喜二は『蟹工船』を書き、志賀直哉に郵送し、その論評を請うたりもした。1931年6月8日付の志賀への手紙では、「私の作品で何かお読みになったものがありましたら、貴方の立場から御遠慮ない批判をして頂けないでしょうか」と書き送っている。その年の8月、やっと志賀から多喜二に批評文が届いている。便箋5枚の全文には、「‥‥私の気持ちから云えば、プロレタリア運動の意識が出てくるところが気になりました。小説が主人持ちである点を好みません。止むを得ぬことのように思われますが、作品としては不純になり、不純になるが為に効果も弱くなると思いました。大衆を教える云うことが多少でも目的になっているところは矢張り一種の小児病のように思われました。‥‥‥」と綴られてもいた。こうして、志賀は、ロシアの作家トルストイなどを引いて、「彼等は芸術家が思想家を抑え、大きい感じがして偉いと思う」なども書いている。

 そして、「運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするように私は考えます」と綴り、さらに、志賀が読んだ多喜二の作品の中では『蟹工船』、『三・一五』に感心したと書いている。

 このような真摯(しんし)な多喜二と志賀のやりとりがあった。そして、1930年に半年間あまり投獄されている間には、多喜二は知人の斎藤次郎に手紙で「志賀直哉全集」を差し入れてほしいとも書いている。また、志賀は多喜二の獄中生活中に差し入れをしようととまでした。階級的、思想的立場が異なっても、そうした立場の違いを認めた上で、文学という芸術を巡ってのお互いに学び合おうという姿勢がお互いにあった。そして、多喜二もこの志賀の多喜二に対する批評をとても大切な提示として心に刻んでいたことが、多くの小林多喜二研究で判明している。

 1931年の11月に初めて多喜二と志賀は会い、志賀の奈良の家の客間の仏像(谷崎潤一郎より贈られたもの)の前で、さまざまな話をしたのだろう。志賀は1968年に出版された『定本小林多喜二全集』の推薦文で、「小林君は私が奈良にゐたころ訪ねてくれ泊まっていった。目立たないやうに呉服屋の番頭のようななりをしてゐた。‥‥人間については真面目で、立派な人だと思ふ。あんな風に死んだのはそんなことがなければ今でも生きて自由に仕事が出来たと思ふと非常に残念な気がする」と書いている。

 1933年2月20日、小林多喜二は東京で逮捕され、築地署内においてその日のうちに拷問で殺された。足の両腿は拷問のため紫色に腫れあがっていた。警察の発表は「心臓麻痺による急死」。しかし、彼の遺体をみれば拷問による殺人であることは一目瞭然だった。死の翌日、遺族に渡された遺体は、全身が拷問によって異常に腫れあがり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れあがっていた。

 志賀はこの多喜二の死について、「小林多二二月二十日(余の誕生日)に捕らえられて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快。一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象を受け好きなり アンタン(暗澹)たる気持ちになる、不図(ふと)彼等の意図ものになるべしという気する、」と書き残している。志賀直哉50歳となった誕生日の事件だった。

 3月15日に東京で多喜二の労農葬がとりおこなわれた。この小林多喜二の葬儀の参列者は、葬儀会場でその多くが検挙・拘束された。築地署の特高警察は、多喜二から、彼が会った人々の名前などを自供させようとしたのだが、黙秘を貫いたため、拷問にかけた。一度きりの志賀直哉と会った日のことも多喜二は黙秘したのだろう。

 志賀は多喜二の死後4日後の24日付で、多喜二の母に手紙を送っている。「御令息死去の赴き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考へアンタンたる気持ちになりました」と綴られていた。葬儀には弔問文と香典が志賀より郵送された。特高警察が暗躍したこの時代、とても躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないのにも関わらずであった。

 志賀はその後、日本が軍国主義化して、満州国の設立や日中戦争に突き進む世相に、「実に不愉快なり」との思いを持ち、この日中戦争や第二次大戦(太平洋戦争)の終結にむけての活動を行ってもいた。(敗戦が近づくと、時の外務大臣・重光葵の意向をくみ、作家や知識人らともに「三年会」を結成。この会は、終戦に向けたことを話し合う会であった。)

 1925年に成立した「治安維持法」は、1945年の終戦後廃止されるまでに実に多くの人を検挙した。1928年3月15日(3.15事件)の全国一斉検挙に於いて、数千人を検挙、このうち300人余りが起訴された。治安維持法下の20年間で検挙された人の数は何十万人にも及ぶ。このうち起訴され獄中につながれた人の数は約10万人。1941年に治安維持法は改悪され、最高刑は死刑となった。監獄につながれ、治安維持法の罪で命を奪われた人の数は約600人にのぼる。昨年2020年6月30日に中国政府主導で制定された「香港国家安全維持法」は、この日本の「治安維持法」と共通性のあるものだ。

 小林多喜二の『蟹工船』は、1953年に映画化された。監督・脚本は俳優の山村聡、山村自身もこの映画に出演している。また、1974年に映画『小林多喜二』が全国放映される。監督は今井正、主演は山本圭、恋人の田口タキ役は中野良子。私はこの映画を大学生時代に見た。

 映画『小林多喜二』のある場面の撮影に使われた老舗の喫茶店が、今も京都にある。四条河原町(鴨川に架かる四条大橋近く)のそばにある喫茶築地(つきじ)だ。学生時代から私もずっと行き続けている喫茶店の一つ。2階建てのクラッシックな内装が素晴らしい。現在も喫煙制限がまったくない。創業は1934年(昭和9年)。奇しくも小林多喜二が殺された東京の築地署の地名と同じ「築地」。

 小林多喜二ブームが2008年に起こった。この年、作家の高橋源一郎と雨宮処凛の対談が毎日新聞文化面に掲載された。この記事がきっかけにもなり、多喜二の『蟹工船』が再評価されよく読まれるようになり、文庫本は50万部のベストセラー(累計160万部)を記録した。2000年代の小泉内閣下に、竹中平蔵とともに進めた「郵政民営化」や「労働者派遣法」などにより、特に若い人における非正規雇用の拡大と働く貧困層の拡大、低賃金や長時間労働の蔓延などの社会経済活動の背景下、2008年に小林多喜二の『蟹工船』の再評価が起きる。

 2009年には、映画『蟹工船』が全国上映された。主演は松田龍平、他に西島秀俊、高良健吾、柄本時生、谷村美月、新井浩文、大杉連、遠藤賢一らが出演。

◆1938年に奈良から東京に志賀直哉一家は引っ越した。1945年8月の終戦後、自ら立ち上げに関わった雑誌『世界』の創刊号に「灰色の月」を発表。(※この「灰色の月」には小林多喜二とのことも書かれていて興味深い) 1947年に日本ペンクラブの会長に就任した。1971年、死去、享年89歳。

 昨日5月25日、午前中の中国の大学のオンライン授業2コマを終えて、午後、車を走らせて、自宅から15分ほどの「松花堂」に気分転換に行く。庭園の入り口付近に吉井勇(いさむ)の歌碑が置かれている。吉井はこの松花堂のすぐ近くの月夜田というところに、終戦後の1945年(昭和20年)10月から1948年(昭和23年)11月まで暮らしていた。

 ふと石碑の横の写真を見ると、ここ吉井の住まいを訪ねた人たちとの松花堂での記念写真が置かれていた。この写真には、志賀直哉が写っていた。他に、梅原龍三郎、湯川秀樹、谷崎潤一郎、谷崎や吉井の夫人らが‥。1947年(昭和22年)秋の頃の写真らしい。この年に志賀は日本ペンクラブの会長に就任している。

※「吉井勇」歌人・作家・脚本家—命短し 恋せよ乙女‥の「ゴンドラの唄」の作詞や、「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる」の短歌などが有名。長く親交のあった谷崎によれば、いままでに十八人は勇の恋人を知っていると語っている。恋多き人だったのだろう。

※この季節、松花堂庭園に「大葉大山蓮華」とい木蓮科の花が開花していた。小ぶりの白い木蓮が美しい。また、青モミジと竹林のコントラストなども美しい。

◆私は中国の大学で担当している講義の一つ「日本近現代文学名編選読」では、日本のプロレタリア文学として、葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』を取り上げている。この作品は1926年に発表されたものだが、プロレタリア文学の短編の名作の一つだと思う。

 

 

 

 

 

 


志賀直哉、関西での旧居や跡地を訪ねる❸奈良の旧居②―これだけのお屋敷、どこからお金を工面した

2021-05-23 14:43:21 | 滞在記

 1階の玄関の背後にある踏込と呼ばれる部屋や書庫の部屋、そして浴室や洗面所や脱衣室。当時にはまだ珍しかったシャワー設備が浴室にはあった。浴槽上部は檜(ひのき)造り。いわゆる檜風呂だ。そして女中部屋。千葉県我孫子の住まいでは2人の女中がいたようだが、この奈良市での住まいには3人の女中がいたのかと思われる。表門(玄関)や勝手口(門)に通じる室内通路が間取りされていた。

 女中部屋の隣はかなり広い台所。ここに当時の台所で働く3人の女性の姿の写真ともに、この台所についての説明パネル板が置かれていた。それによると、「ガス(プロパン)、水道、電気さらに冷蔵庫(氷冷式)といった、当時(昭和初期)の最新設備を備えつけた台所は、同時にハッチで食堂と直につながり、第二次世界大戦後に日本でも普及し始めたいわゆるダイニング・キッチンの先駆的な台所だった」と書かれていた。

 台所はサンルームと呼ばれる洋式的な(床は石板造り)ともつながっていた。芝生と樹木の洋式の庭に面したこの広い部屋はまた、食堂と一体をなす迎賓室的な空間だった。ここで「高畑サロン」とも呼ばれた、志賀直哉と作家や文人や画家、写真家など芸術分野のさまざまな人々が集まったのだろう。台所とサンルームを分けるガラス扉は中国風の折り畳み式。食堂の机は重厚な分厚い木のテーブル。牛革の立派なソファーもある。

 ここ志賀直哉邸は主に3つの棟から成っていて、廊下でつながれている。食堂やサンルームのあるこの棟の奥は直哉の居間・寝室部屋、子供たちの寝室部屋、子供たちの勉強部屋・妻の居間・寝室部屋など、多くの部屋がある。特に、次男(直吉)だけは一人部屋があてがわれている。

 奥向きのこれらの部屋は、中庭や洋式庭に面してもいた。子供達や家族が洋式庭ですぐ遊んだりくつろいだりできるように広縁があり、ここから庭に出て過ごすことができる配置でもあった。

 洋式庭から回遊式の和式庭園に通じる石畳の小路。ここだけでも風情があり、四季折々の草花や木々がある。回遊式和庭園。池の周りに菖蒲(しょうぶ)の花が咲いていた。睡蓮が浮かぶ。

 まあ、見事というか、芸術的というか、渋いというか、洋をとりいれたモダンな東洋的というか、ここの志賀直哉旧居は、直哉のセンスのよさ、芸術性の高さを強く感じ入るお屋敷だった。伝統とモダンの、ゆるやかな融合だ。しかも、その境目を意識させない工夫には感嘆させられる。

 私は高校時代は福井県立武生工業高校の建築科で学んでいた。卒業制作があり、京都の桂離宮を参考にした数寄屋風別荘建築を制作した。構造計算などもして、設計する。平面図や立体図、そして完成予想の彩色画を提出した。こんな経歴もあるので、数寄屋風建築には関心はあるのだが、この志賀直哉邸は、内部構造と庭の配置がとても素晴らしいと感心させられた。

 いったい、このお屋敷を造るのに、また、設備を整えるのに、いくらのお金がかかったのだろうか。今、この場所で、土地を購入し建物や庭を造ったとしたら少なくとも10億円以上のお金が ゆうにかかるのではないかと推定される。いったい、当時の志賀直哉はどこからこのお金をつくったのだろうか?しかも、2〜3人の女中が在籍。 1929年、46歳くらいとなり、それなりに作家としての地位も築いてきた直哉だが、書いたものがそれほど売れて印税がたくさん入っていたとも到底思えない。志賀くらいの作家が、それほどお金を稼げるとは到底思えない。推測するに、財界で重きをなした祖父や父の大きな資金援助があったのではないかと思えるが‥。

 30歳で東京を離れ、青春晩期の彷徨のような転居を繰り返し、けっこう立派な家に暮らしてきた志賀直哉。おそらく、祖父や父の資金援助がずっと続けられてきたのかとも思う。巨額の財産分与などもあったのかもしれない。もし、そうであるとすれば、志賀直哉はいわゆる「いいとこのボンボン」ということになるのかとも思う。いわゆるブルジョア階層で暮らしの金に不自由なしか。

 志賀の旧居からすぐに春日大社の広大な原生林に入れる。鹿2頭が原生林の中を歩いていた。原生林の樹木には藤がからみつき花が咲いていた。まあ、この春日大社の境内は広大だ。一つの村がすっぽりとはいる。かっては禰宜道ともよばれた原生林中の小径、この小径は神官たちが本宮と自分の屋敷を朝夕に行き来していた道だ。

 この禰宜(ねぎ)道を抜けると春日大社二の鳥居に至った。ここからさらに石段を登ると本殿の朱の建物があった。朱の建物と青モミジや藤の花のコントラストがとても美しい。日本の美そのものだ。志賀も日常的にこのあたりを散策していたのだろう。

 どこまでも続く春日大社の境内地域、飛火野も境内の一角だ。鹿が群れている。藤棚の下にも鹿が集まっている。現在、奈良国立博物館のあるところも春日大社の境内の一角だ。博物館に隣接した、仏教美術資料研究センターの建物が見える。そしてようやく春日大社一の鳥居が見えてきた。一の鳥居から二の鳥居までの距離はなんと1kmあまりはゆうにある。大仏殿のある東大寺もほど近い。

 一の鳥居そばの交差点、白く長い壁塀と青モミジのコントラストが美しかった。

◆次号はプロレタリア作家の小林多喜二とブルジョア?作家の志賀直哉との意外な関係のことを記します。一見、この二人は思想的には水と油のような二人ですが‥。なぜ小林は志賀の奈良の家を訪れ泊まって行ったのだろうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


志賀直哉、関西での旧居や跡地を訪ねる❷奈良の旧居①志賀直哉の芸術性を感じる数寄屋風屋敷

2021-05-22 08:57:45 | 滞在記

 1925年(大正14年)、志賀直哉は京都の山科から、奈良市の幸町(現・奈良市紀寺町)の借家に居を移した。彼が奈良への引っ越しを決めたのは、東洋美術に関心をもっていた志賀の思いがあり、かねてからのあこがれであった奈良の古い文化財や自然の中で暮らし、自らの仕事を深めていきたいという希望があったからだ。また、「奈良に引っ越さないか」という彼の知人や友人たち(文人や画家たちなど)の勧めもあったからでもあった。

 奈良に引っ越してからも、妻には手切れ金を渡して別れたと告げた京都祇園の茶屋の仲居の女性とは、まだ付き合い・逢瀬(おおせ)が続いていたのだった。奈良から京都は国鉄(JR) を使えば近い。この時、妻・康子は次男・直吉を身籠っていた。この子が生まれると、山科の家では手狭になるという理由もあったようだ。直哉にはすでに7歳の次女を筆頭に5歳と3歳の女の子ばかりの幼い娘が3人あった。直哉42歳となっていた。

 その後、親友の武者小路実篤も奈良に引っ越してきた。(※武者小路実篤は1918年に宮崎県の山間地に、同志とともに「新しき村」をつくり暮らした。その後、奈良にて暮らすことに。)   志賀直哉は、ここ奈良の幸町のとなりの高畑町に自ら設計した新居を造ることとなる。この邸宅の一帯は、東は春日神社の広大な原生林、北には春日大社の社や飛火野の緑の芝生が広がり、鹿が群れているという場所だった。静かな奈良の町でも特に風光明媚な屋敷町(※春日大社の禰宜[ねぎ]・神官たちの暮らす屋敷が多かった。)であった。

    新居は自ら設計し、京都の数寄屋建築大工の棟梁の下島松之助に建築を依頼する。敷地面積435坪(1437㎡)、床面積134坪(443㎡)。数寄屋風造(和風) を基調としつつ洋式や中国風の要素を取り入れた新居は1929年(昭和4年)に完成し、志賀直哉一家はここに引っ越した。今もこの邸宅はそのまま残っていて、奈良学園が管理し一般公開をしている。今年の5月上旬の4日、初めてここを訪れたが、「素晴らしい‥、見事!」の一言に尽きる邸宅だった。これは、志賀直哉の芸術作品建築、お屋敷だと思った。志賀直哉にはこのような芸術的センスが濃厚にあったのだろうと感じ入った。

 志賀直哉一家はこの屋敷に1929年(昭和4年)から1938年(昭和13年)までの9年間をここで過ごした。ここで五女や六女が誕生し、五人の女の子と一人の男の子の父親となる。

 京都から近鉄鉄道奈良線に乗り近鉄の奈良駅へ。猿沢池や興福寺の五重の塔などを目にしながら志賀直哉旧宅のある高畑町に向かう。鹿の群れをよく見かける。この日の奈良の気温は28度と夏日だった。関西の大阪・兵庫・京都はコロナ緊急事態宣言下の大型連休中。宣言外のここ奈良にはたくさんの観光客の姿が見られた。飛火野や春日大社一の鳥居、荒池の畔に建つクラシカルな奈良ホテル。

 鷺池(さぎいけ)の中に建つ浮見堂。ハイビスカスの花模様の美しいスポーツ自転車用スーツを身にまとった女性が、橋の上に立ち止まりあたりを眺めていた。ここからすぐそこに高畑町の屋敷町があった。この周辺は、鎌倉時代頃から、春日大社の神官たちの住んでいた社家のあった場所。古い屋敷跡の崩れかけた土塀などが春日の社に調和する独特の風情。今は神官たちの多くは他の地にいる人が多いようだが、一軒一軒が広い敷地と土塀をもつ屋敷町には新しい住人たちが暮らしている。それにしても立派さと風情のある屋敷町だ。

 その一角に土塀に囲まれた志賀直哉旧居があった。隣の家は「喫茶」と書かれていた屋敷だったので、季節的にまだ慣れぬ真夏日にちょっと疲れていたので、ここで珈琲でも飲んで一服してから志賀直哉旧居を見学しようと、その喫茶店らしき屋敷の門前の低い石段に腰かけてタバコを吸い始めていると、小さな子供を抱いた若い夫婦が玄関に入って行った。妻らしい女性はロシア人らしき美しい女性、夫らしき人は日本人。この家に暮らしているようだった。残念ながら、喫茶店はもう営業していないようなので、タバコを吸い終わり、志賀直哉旧宅の表門をくぐる。志賀直哉旧宅の説明板が置かれていた。

 上がりかまちのある玄関は、時代劇に出て来る武家屋敷の玄関のようだった。すぐに畳の間があり生け花が置かれていた。玄関隣のかっての納戸の部屋は、今は受付や事務室に。順路➡に従い、2階への階段を上る。2階に上がるとすぐに窓が。この窓にはガラスなどはなく、板で作られた窓を開閉できる仕組みのもの。支え木を置くと窓の板は斜めになり、日差しや雨をよける小さな屋根のようになっていた。ここから1階の屋根や青モミジを見る。芸術的な光景に見惚れた。

 2階の書斎の畳敷小部屋には平机が。となりのやや広い畳の部屋には、直哉の友人が作成したらしき毘沙門天の仏像が一体。この部屋は、泊まり客用に使われてもいたようだ。治安維持法下、官憲に虐殺されたプロレタリア文学作家の小林多喜二(1933年死去)もかってこの部屋に泊まった。部屋の大きな窓からは、春日大社の原生林や社、大社の背後の御蓋山や春日奥山、東大寺背後の若草山などが一望できる。すぐ下には、旧宅の二種類の日本式庭園も見える。半月型の窓もあった。まあ、感嘆するような芸術的な日本数寄屋造りの部屋だった。

 この棟の1階段には板張りの床。ここも書斎だった。重厚な机の前や横の窓はとても大きく、日本式の回遊庭園の緑が部屋に入り込んできていた。

 そして、この1階の書斎の隣には茶室を兼用した畳敷きの和室があった。この和室から茶室によく似あう日本式の庭があった。廊下や厠(かわや・トイレ)のそばには小さな坪庭が見える。まあ、これだけでも立派で、芸術的なお屋敷だが‥。これは、志賀直哉邸のほんの一部にすぎなかった。