彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本文化論学生発表②―「日本文化」を真の意味で学ぶには—そのための基礎文献

2022-06-29 11:21:36 | 滞在記

 亜熱帯気候の中国福建省の夏は、5月上旬から始まり、10月下旬に終わる。その半年間、大学構内は日傘の花が咲き続ける。特に暑いのは6月・7月・8月・9月の4カ月。最高気温平均は35度を超す。湿気も日本の京都の夏の2倍ちかくを感じることなり、この季節を中国語では、「悶熱」(メェンロー)、つまり悶絶するような"湿気もすごい暑さ"と表現する。日本では「蒸し暑い都市」の代表的な京都が涼しくも感じる「悶熱」なのだ。(中国福建省福州市は、中国の省都で最も暑い都市と報告されている。)

 大学構内のバナナの木は、1年に3度も実がなる。4月、7月、10月に。デェイゴの真紅の花は5月に開花し始める。ブーゲンビリアはほぼ10カ月間、ブーゲンビリアは夏の半年間咲いている。

 2年半あまり中国に戻っていないが、大学構内の自分の研究室の部屋、自宅アパートの部屋は今、どうなっているのだろう。

―学生発表より、前号の続き―⑯「日本の音楽と広東語流行歌曲のつながり」、⑰「日本の女性雑誌と中国」、⑱「日本の妖怪」

⑲「日本の住宅」、⑳「日本酒」、21「月の異名」

22「狐のお面/日本文化」、23「日中のお風呂事情—違う3つの特徴」、24「日本の茶道文化」

25「日本の和服文化」、26「平成時代の思い出」、27「かるた(歌留多)」

28「日本の酒文化」、29「『雪国』を紹介する」、30「日本神話の起源」

31「旧日本帝国海軍のいろいろ」、32「日本酒文化」

—「日本文化名編選読」(全15回/90分×15)の講義について―

 2017年より閩江大学でこの講義を担当するようになり6年目となっている。講義で使う教科書はない。大学より「自分で考えた講義プランでやってください」と言われている。1年目は「どのような講義プランを作ったらいいのか?」相当に悩み、調べ、考え、そして現在に至る講義プランの原型を作っていった。

 全15回のうち、9回分は、日本文化を理解するための基礎文献の学習だ。いわゆる日本文化論に関する「名著」といわれている書籍についての学習。どのような書籍を学ばせるのか。とても参考になったのが三つの本。『原典 日本文化論』(王秋菊編著)[北京大学出版]、『日本文化論の名著入門』(大久保喬樹著)[角川選書]、『日本文化論の系譜—「武士道」から「甘えの構造」まで』(大久保喬樹著)[中公新書] そして、6回分は、日本のさまざまな諸文化についての学習や学生発表など。基礎文献を学習した後に、諸文化を学習すると、「なぜ、そのような文化が生まれたのか?」が学生なりに考察できてくる。

1、1回目〜6回目の講義(基礎文献の学習❶)—(講義についてのガイダンス)、「日本の風土(自然環境・民族性)とは」「日本民族とは」「日本の国とは」

 <基礎文献>①『風土』(和辻哲郎著)、②『東洋の理想』(岡倉天心著)、③『水と緑の国、日本』(富山和子著)、④『武士道』(新渡戸稲造著)、⑤『菊と刀』(ルース・ベネディクト著[米国人])、⑥『タテ社会の人間関係』(中根千枝著)

2、7回目〜9回目(基礎文献の学習❷)「日本文化とは」「日本人の美意識とは」「日本語とは」

 <基礎文献>⑦『日本人の生活文化』(郁達夫著[中国人])、⑧『「縮み」志向の日本人』(李御寧著[韓国人])、⑨『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎著)、⑩『「いき」の構造』(九鬼周造著)、⑪『ウチとソトの言語文化学―文法を文化で切る』(牧野成一著)   

 以上11基礎文献➡世界各地の諸文化とは、「その地域・国の風土(自然環境)、そしてその風土や歴史から生まれる民族性」を基礎として諸文化が誕生する。このことを基礎的な知識や体験としてもたなければ、いろいろな諸文化がなぜ生まれたのかの理解はできない。

3、10回目〜13回目(日本の諸文化についての学習—日本と中国を比較しながら、なぜその文化が生まれたのかを考察する)

 ①「日本の料理文化」、②「日本の衣服文化」、③「日本の建築文化」、④「日本の宗教文化」、⑤「日本人の化粧文化」、⑥「日本人の自然観—生け花・庭園にみる」、⑦「日本人の結婚文化」、⑧「日本の教育文化」、⑨「日本の伝統芸術・伝統芸能文化―茶道・生け花・能・歌舞伎など」、⑩「日本の怪談・幽霊・妖怪文化」、⑪「日本の俳句・短歌という文藝文化」、⑫「日本の技術(匠)文化と日本の商業文化(三方良し)」

4、14回目〜15回目(学生発表)—日本のさまざまな文化についての発表(日本の諸文化①~⑫で取り上げたものや、取り上げなかったさまざまな文化についても学び合う)

■中国で大学教員をしている日本人が、毎年3月に北京に集まり、大学での講義(授業)交流研究会(毎年20人〜30人ほどが参加)をしている。コロナ禍以前の2014年~2019年まで毎回参加していたが、日本文化に関する授業の多くは、日本文化を単発的に説明するだけの講義をしている人がほとんどだ。そこで、私の「日本文化論」の授業に関する取り組みを、学生たちの感想を交えて交流研究会で2018年に報告・発表した。

■日本の大学では、「日本文化論」はどのように授業がされているのかも、かなり調べたが、やはり単発的な文化論講義がほとんどだ。例えば、「日本の音楽史で綴る日本文化論」など。これはこれでだが、日本の音楽分野での文化論にすぎず、日本文化全体の視野がない。これでは、まともな「日本文化論」と言えるかどうか?

■この私が6年間連続で行っている「日本文化名編選読」の授業レベルはかなり高く、難しさもあるとは思うが、膨大な写真資料のPPも作成し、基礎文献について学生が理解しやすいように、具体的な内容を提示しながら講義をしている。おそらく、この講義を15回受講すると、日本の一般大学生よりも、「日本の風土、民族、そして文化」に関する本質は理解できてくるかと思えもするし、日本の大学でもこのような基礎文献の学習のうえに、各諸文化を学習し、「なぜ、その文化が生まれたのか?」を理解する講座(授業)が必要ではないかと思っている。

■期末試験は、8つの説問に関しての論述レポートの提出。提出締め切りは昨日までだったが、提出された学生たちのレポートを読んで、その理解度については、「かなり、よく理解できているなあ」だった。期末試験の解答を学生たちは書くことにより、この授業の内容を整理できてもくる。

 


大学の後期授業が終わり、今は期末試験期間―「日本文化名編選読」(3回生)の学生発表より➊

2022-06-28 08:03:10 | 滞在記

 日本の今年の梅雨は記録的な「超短期」となり、昨日6月27日には関東・東海・南九州地方などが梅雨明けとなり、今日28日は近畿地方も梅雨明けとなりそうだ。ここ連日すでに35度近くの猛暑日が全国的にも続く。私が勤める閩江大学がある中国福建省福州市。この福州市は沖縄の那覇市とほぼ同じ緯度にあり、10日ほど前にはすでに梅雨が明けていて、35度〜40度の猛暑日が続く夏となってきている。そして、夏は10月下旬近くまで続く亜熱帯の気候。

 とても広い大学構内には、5月ころからハイビスカスが咲き始め、今が花の盛り。福州の花、ジャスミン(茉莉花)の白く高貴な香りのする花も、この6月下旬には次々と開花し始める。マンゴーの樹木の実がかなり大きくなってもくる。沖縄にもあるデェイゴの真紅の花も今が満開か。

 大学構内の水辺の蓮は6月中旬頃から開花をし始め、7月上旬には花の最盛期を迎えることとなる。睡蓮も美しい。夏の訪れは日本の近畿地方よりも1か月余り早い。

 2月21日から始まった大学の後期授業は、6月20日頃には終わり、2週間あまりの学期末試験期間に入っている。今学期担当した3教科のうち、「日語会話4」の期末会話試験(1人1人とのオンラインでの)が7月1日(金)に予定されていて、これをもって私の担当教科の期末試験は全て終了となる。「日本文化名編選読」の期末試験は、レポート提出なので、昨日までに次々とそのレポートが送信されてきた。7月10日ころまでに成績を作成し大学に送り、その後は私も夏休みとなる。学生たちは7月4日から夏休みとなる。

 学生たちにとっても、嬉しい夏休みだろう思う。中国の厳しい「ゼロコロナ政策」により、この大学の後期期間、4月から5月にかけて約1か月間は学外外出禁止、つまり、大学閉鎖が行われてもいたのだから。

 日本語学科3回生は、2クラスで、38人の学生が在籍しているが、そのうち6人が日本の大学に1年間の交換留学(広島大学3人、神戸松蔭女学院大学3人)をしており、閩江大学で私の「日本文化名編選読」の講義(全15回)は受けていない。このため、「日本文化名編選読」の授業での学生発表は32人。6月上旬の講義13回目・14回目での学生発表は1人7分程度で、発表のテーマは次のものだった。

①「枯山水の日本庭園」、②「剣道の歴史―時代とともに変化する剣道の軌跡」、③「任天堂(Nintendo)」

④「日本のアニメ」、⑤「日本の家族」、⑥「断捨離」

⑦「四季のグルメ」、⑧「日本と中国―婚姻の文化と観念—婚姻の問題」、⑨「日本の温泉文化」

⑩「文字(もんじゃ)焼き」、⑪「日本の菊」、⑫「日本文化―俳句」

⑬「ミニマリズムに見る日本」、⑭「日本の生け花」、⑮「日本の妖怪」

 

 


夏の花、沙羅双樹(夏椿)や立葵(たちあおい)—"賤ケ岳の戦い"激戦地、余呉町の町花はアジサイ

2022-06-27 14:49:01 | 滞在記

 6月20日(月)、やまぼうし高原から家に戻り、我が家の墓に行く。生繁っていた夏草を鎌で刈り、山で採ってきたヤマアジサイとホタルブクロを墓に生ける。糠集落の家々の屋根、日本海も少しだけ望める墓地だ。

 京都に帰る道すがら、南越前町今庄地区を通る。水田の稲が少し成長してきていた。水田のそばに「沙羅双樹(夏椿)」の木があり、白い花をたくさん咲かせていた。

 今庄地区を流れる日野川。地区の大門という集落の立ち葵(たちあおい)。本格的な夏到来を告げる花だ。

 大門集落の旧小学校跡地の木造校舎が、二宮金次郎像とともに今も残る。

 南越前町今庄地区の板取に今も残る「板取宿」跡地。3月にここに立ち寄った時には、雪にすっぽりと覆われていた。4月に来た時は、雪は融けていた。ここ今庄地区は、京都・若狭・近江から北陸地方に至る全ての道が古代から通る場所だった。山中峠を越える古道「万葉道」、平安時代につくられた木ノ芽峠を越える北陸道(西近江路)、戦国武将の柴田勝家が越前国領主となり、戦国時代末期の1578年(天正六年)には、栃ノ木峠を越える北国街道がつくられた。

 江戸時代末期の幕末の頃、ここ板取宿には、戸数53戸、そのうち3軒の問屋・7軒の旅籠・3軒の茶屋があった。そして、越前国最南端の重要な関門があり、越前藩の藩士たちがここに詰め、旅人を監視もしていた。(ここから数キロ先の越前国内にある「今庄宿」はさらに大きな宿場町であり、大名たちが参勤交代で宿泊する本陣宿があった。)

 板取宿には兜型の藁ぶきの家が今も5軒ほど残されている。そのうちの1軒には、2年ほど前から南さんというご家族が住んでいて、ここから車で出勤している。(40代くらいの夫妻や子供) 南越前町がこの家に暮らす人を公募していて、南さんたちはここに暮らすようになったのだそうだ。その南さんの奥さんが、この日たまたま、誰も住んでいない家を掃除していたので、家の中に上がらせてもらった。囲炉裏に火を燃やしてもいた。時々、このようなことをして、家を保たせることも、公募の条件でしたとのこと。

 敦賀から北国街道に入り、滋賀県余呉町に入る。このあたりは、1583年(天正11年)に起きた「賤ケ岳の戦」の激戦地だ。戦いに敗れて、越前国の北ノ庄(現・福井市)に敗走する柴田勝家を少しでも遠くに落ち延びさせるため、家臣の毛受(めんじゅ)兄弟は勝家の旗印をもち、羽柴秀吉軍を引き付け、この地にて討ち死にした。「史跡 毛受兄弟之墓」の史跡看板が立てられている。

 この余呉町は余呉湖があることで有名だが、町の花は「アジサイ」。全長寺という寺は、現在では「アジサイ寺」としても有名で、1700株のアジサイが今を盛りと咲き誇っていた。ここの住職が30年ほど前から、町の花であるアジサイを、こつこつと寺とその周囲に植え始めたのだという。この寺はまた、賤ケ岳の戦で亡くなった無名戦士を多く弔っている寺でもあった。毛受兄弟の菩提寺ともなっている。(兄弟の墓はこの寺から数百m離れたところにある。)

 奥琵琶湖を通り、滋賀県マキノ町の新緑につつまれたメタセコイア並木を通り、湖西道路を一路京都に向かう。途中、鯖街道に入り、大原地区を抜け、京都市の岩倉地区にある息子の嫁さんの実家に立ち寄り、敦賀の日本海市場で買った海産物を届けた。

 

 

 


故郷の山にてササユリに出会えた—越前・若狭における渡来人伝承(朝鮮動乱、百済国の王女漂着)

2022-06-27 08:32:36 | 滞在記

 6月19日(日)、2カ月ぶりに故郷・福井県南越前町に帰省した。一人暮らしの母は元気だった。4月22日に福井県鯖江市で講演を行った際に帰省して以来だ。実家のある南越前町河野地区糠集落の長島(岩壁)に夕日が沈む。この日本海の海に突き出た岩壁の上から、海に飛び込むということを村の子供たちはよくしていた。怖さを克服して一人前に周りから認められるための一つの儀式のような飛び込み場所だった。私がこの岩の先端のところから海に飛び込めたのは小学6年生のころかと記憶している。

 この半島のように海に突き出た大岩と、小島のような岩との間の海中には、海中の岩と岩に挟まった機雷が一つ沈んでいた。第二次世界大戦末期の1945年6月~8月上旬にかけて、舞鶴とともに日本海側の重要な軍港の一つだった敦賀を米軍が何度も空襲。敦賀は何日にもわたり燃え続けた。米軍側のB29爆撃機は、この空襲の際に、敦賀港を封鎖するために敦賀湾に機雷を投下した。そのうちの一つだったようだ。海に潜り、この機雷を何度か見たが、いつ爆発するかわからないので怖さもあった。(※現在では、この機雷は自衛隊により撤去されている。)

 翌日の20日(月)、夏至の前日なので、もう早朝5時には明るい。5時頃に家を車で出て自宅のある糠集落から越前海岸沿いに越前町米ノ浦集落へ。その米ノ浦から越前断崖と呼ばれる山地の道を上がり峠に向かう。この季節、山々一帯には「クマノミズキ」(樹高は高いもので20mほど)の白い花が満開となっていた。

 六呂師(ろくろし)峠のトンネルを抜けると、越前市[旧・武生市]白山(しらやま)地区に入る。昔の峠道を下りたところには祠(ほこら)がある。水田が見え始めた。山々には山紫陽花(ヤマアジサイ)がいたるところに群生しているこの季節。この祠の近くに、「解雷ケ清水(けらがしょうず)」という場所がある。

 この解雷ケ清水という地下水の湧き出ている場所は、今も地区の水道水の水源となり、その水道貯蔵タンク施設が置かれている。この解雷ケ清水には伝承が残る。古代、朝鮮半島の王国の一つだった「百済(くだら)」の国王の長女が、祖国から船で落ち延びて、今から約1400年ほど前にこの地に来たという伝承だ。その伝承が、大きな看板一面に書かれている。その伝承は次のようなものだ。(解雷ケ清水の由来伝承)

 570年頃、朝鮮半島の王国の一つ「百済国」の王・歓喜王の長女である「自在女(じざいめ)」が、国難を逃れ、従者たちと共に船で祖国を脱出、海流に乗り越前国米ノ浦の干飯崎(かれいざき)の海岸に漂着。六呂師峠の山道を越えて、飲み水を求めここで祈とうしたところ、空に黒雲がわき、雷が落ち、岩場が割れて水が湧きだしたという伝承。

 古代の朝鮮半島に4世紀前半(300年代前半)成立した「百済国」。古代朝鮮半島は、「高句麗国」「新羅国」そして、「百済国」の三国が覇権を争う戦国時代が長く続いた。百済国も何度も滅亡の危機を乗り越えることとなる。しかし、663年には、日本の大和朝廷軍と百済復興軍と、新羅・唐連合軍との「白村江」の戦いとなり、大和・百済側の敗戦となり百済国は最終的に滅亡した。

 朝鮮半島と日本の間を西から流れる対馬海流は、ここ越前海岸や能登半島などに流れてくる。海岸線には、ハングル文字で書かれた漂着物もよく見られるところだ。この「百済国王女の伝承」を取り上げてもいる論文を最近一読した。次の題名の論文だ。『越前若狭における渡来伝承の研究』(2017年)。名古屋大学大学院博士課程論文で、塩瀬博子執筆。論文を読むと、古代朝鮮と古代日本とのが、いかにこの日本海側でつながっていたのか、日本海の若狭・越前の伝承などのこと、歴史の探求が書かれている。

 ちなみにこの伝承にある百済国王女・自在女は、越前市白山地区にその後、従者たちとともに暮らし没したとされている。彼女を祀る「白山神社」が白山地区二階堂にあるが、とても歴史を感じる奥ゆかしい神社である。

 この白山地区から越前市土山地区の集落まですぐなのだが、この地区周辺に、かって私の実家の田んぼがあった。実家の家から徒歩で1時間余りかかる田んぼだった。山から流れる小さな谷川の水を引きいれて作られた、いわゆる「谷地田(やちだ)」という水田。米は毎年25俵ほどが収穫できた。懐かしいなあと思い、かっての田んぼの近くまで行ってみることとした。(実家は、父も祖父も、4月~10月までは漁師。10月上旬の秋祭りを終えて、神戸市東灘の銘酒・剣菱酒造の杜氏をしていた。4月上旬に出稼ぎから実家に戻る。田んぼもしていたので、半農半漁、酒造りの一族。私も20代の頃、この剣菱酒造に勤めていたこともあった。)
 

 土山集落から林道に入ってしばらく車で走る途中、道沿いの草むらに何か小さな白っぽいものが見えた。瞬間、「ササユリかもしれない」と、車を停めた。その白いものの近くに行くと、ササユリだった。「ささゆりに出会えた」と心躍った。実は、今回の帰省で、「ひょっともしたらササユリに出会えるかも‥」と、京都から滋賀、福井に至る道々、わざわざ山道のルートを多くとって帰っていたいたのだ。

 全国の例にもれず、鹿やイノシシが多く生息するこのあたりでもあるので、やっぱりササユリに出会うのは難しいかなと思っていたので、鹿やイノシシ除けの柵のない場所の道沿いに、ササユリに出会えたことに驚きもあった。草むらに2本のササユリが開花していた。紫色の可愛い花の山野草もササユリの近くに群生していた。

 林道をすすみ、しばらくして「やまぼうし高原」に着いた。このあたりは金華山という400mほどの山の麓に広がる山中の場所。「金華山グリーンランド」として、キャンプ場やバンガロー、コテージなどがたくさん建ち、管理棟も置かれている。また、🍒サクランボ狩りなどもできるし、バーベキューができる施設もたくさんある。カーキャンプもできる。日本国内では最大級の自然体験施設のようだ。かって、この施設を運営している越前市(旧・武生市)から、私の実家の田んぼ跡地を、水田として復元し、稲作体験の場としたいので購入を検討していますとの連絡があったことも‥。

 今、たくさんある胡桃(くるみ)の大木に、実が付き始めていた。「やまぼうし(山法師)」の白い花が咲く季節。

 この施設の一つのコテージの建物のそばから斜面を見下ろしていた時だった。草むらに白いものが見えた。瞬間に、「ササユリかもしれない」と‥。斜面を慎重に下りていくと、ササユリが二本。一本は開花していて、もう一本は蕾のままだった。付近の草むらは施設の管理者によりきれいに刈り取られ、ササユリだけが刈られずに残されていた。施設の人たちが、ササユリを見守っているのだろう‥。鹿、イノシシなどの防護柵はいっさい施されていないなか、よくもササユリが残っているものだと驚いた。

 朝食時間の7時前に近くなってきたので、一旦、自宅に戻ることとした。そして、朝食後、こんどは違うルートでこのやまぼうし高原の金華山グリーンランドに向かった。途中、実家の持ち山が見えた。三角錐のような形をした山だ。この山は、「たきぎ山」と我が家では呼んでいた。家で使う薪(たきぎ)を切り出す山だった。よく、祖父と一緒にこの山に来て、薪を背負って家に戻った。

 家の田んぼ方面に向かう途中、「菅(すげ)」という、かっては戸数10軒ほどの小さな集落を通る。今は1軒だけに人が住む。「ポツンと一軒家」だ。ここまで、実家から徒歩では50分くらい。この菅集落からさらに15分ほど山道を上り下りしたところに我が家の田んぼがかってはあった。その山道の峠には祠(ほこら)が今も残る。目の前をカラスヘビ(真っ黒な蛇。アオダイショウが突然変異したもの。)が飛んでいって怖かった体験のある峠。(小学生のころ)

 この「菅集落」から「やまぼうし高原」に至るルートに、展望台が設置されている。はるか、日本海の敦賀湾が一望できるはずだ。そこに、もうに二十年ぶりくらいに行ってみることにした。展望台への山道をひたすら登る。とすると、展望台の近くの草むらの一角に、白い花が見えた。ここでもササユリに出会えた。3本のササユリが開花していた。木造の展望台からは敦賀湾が一望できた。

 付近にはコテージやバンガローが山の斜面に建てられている。桑の実が食べ頃にもなっていた。かっては、金華山グリーンランドの管理棟となっていた(今は廃屋)建物のテラスから、我が家の田んぼがあったところを見下ろしたが、朴ノ木(ほうのき)が大木となっていて、田んぼのある谷は見えなかった。

 実家に戻る道すがら、かって田んぼから家に戻る途中にある山水を飲んだ不動明王のある所に行ってみた。ちょっと移動されていたが、あの不動明王は今もあった。二十年ぶりか‥。葉っぱの半分が白い樹木があった。黄色く可愛い花が開花してもいた。「半夏生(はんげしょう)」ともちょっと似た葉だ。ちなみに「半夏生」は、半分葉を白く化粧しているという意味の「半化粧」にちなんだ名前。

 

 

 

 

 


日本が原産地のアジサイ—雨に咲く あじさいの花 日本かな—石清水八幡宮の寺「神應寺」

2022-06-21 12:07:57 | 滞在記

 今日は夏至。梅雨の季節になり、石清水八幡宮"一の鳥居"そばの池に睡蓮(すいれん)の花が開花している。

 睡蓮の葉に覆われた池に、じっと小魚をとらえようとしているアオサギ。この睡蓮の原産地は東アフリカ・エジプトのナイル川流域とされ、エジプトの壁画などにも描かれている。蓮(はす)の原産国はいくつもの説がある。蓮は1億年前の化石にもあるようだが、原産地としては、エジプト、インド、中国など諸説がある。日本では、7000年前~1万年前の地層から蓮が見つかっているので、日本にも遅くても7000年前には自生していたのだろう。

 京阪電鉄「石清水八幡宮駅」近くにある「神應寺(じんのうじ)」。石清水八幡宮(国宝)は、日本三大八幡宮の一つで、現在NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源氏ゆかりの神社だが、神應寺もこの神社の創建と同年の860年とされる。石清水八幡宮の鎮座する男山の山麓から山腹にこの寺はある。

 春から夏にかけての大木の青モミジ、秋の紅葉が山の自然に溶け込み美しいが、この梅雨の季節は紫陽花(アジサイ)が全山に咲き、アジサイもまた山の自然に溶け込んでいる。

 だが、この古刹のアジサイは人に知られることは少なく、訪れる人も少ない。石清水八幡宮駅からは徒歩5分ほどの近くにあるのだが‥。

 石清水八幡宮駅からはケーブルカー🚠が男山山上駅まで運行されている。ケーブルカーの朱色の橋梁の下にも、アジサイは咲き誇っている。その規模といい見事な光景だ。

 かって、神社と寺は神仏習合の時代が長く、神社の境内に寺が、または寺の境内に神社があることも多かった。この神應寺も、石清水八幡宮内の寺でもあった。そして、神應寺の奥の院とされるのが不動尊を祀る「杉山谷不動尊」。

 神應寺から山道で続く不動尊の周囲もまた、竹林、青モミジとともにアジサイが見事。アジサイは日本の初夏、梅雨の季節によく似合う花だ。この紫陽花(アジサイ)の原産国は日本。「額(ガク)アジサイ」が原種だとされるが、日本の山々にこの季節咲いている「山紫陽花(ヤマアジサイ)」が原種のような気も、私はしている。日本から中国に渡り、それがヨーロッパに伝わった。今では、ヨーロッパに伝わったアジサイが品種改良したもの(セイヨウアジサイ)が日本に伝わってもいて、アジサイの品種も多種多様。アジサイは特に、梅雨の雨の中で見ると、とても美しい。

           雨に咲く あじさいの花 日本かな

 私が暮らす中国福建省福州にも、アジサイの花は小規模に植えられているが、亜熱帯気候の地のせいか、アジサイが咲いていても風情はあまりない。