7月中旬ころに、私の妻が「この記事、よくあなたが言っていることが 書かれているわ」と言いながら週刊誌を持ってきてくれた。『週刊新潮』7月13日号の篠原信一さんのコラム記事だった。
読んでみると、とてもいい記事だと思ったので、ここにその記事を紹介したい。篠原信一さんは、元オリンピック銀メダリスト(柔道)・元柔道男子日本代表監督で、現在は柔道界を離れて起業、タレント活動もしている人。1973年生まれで、現在は43才。
―たばこ人生は「マナーで1本!」―あ、ちょっと一服いいですか?
両親ともにたばこを吸っていましたし、父の仕事が建築関係だったせいか、自宅はいろいろな人が出入りしていて、子供の頃から家の中はたばこの煙で真っ白でした。当時の大人はほとんどが喫煙者でしたからね。だから僕は、大人は美味しそうにたばこを吸うものだというイメージを持って育ちました。
僕の場合、たばこが生活から切り離せないものになっているのは、喫煙がリズムになっているからです。朝起きて吸う、歯を磨いて吸う、朝食を食べてから吸う、仕事に出かける時間になるとその前に吸うという具合です。1日のサイクルの要所要所で必ずたばこを吸うんです。もちろん朝だけでなくて、昼間でも、夜であっても変わりません。何事も始まりと終わりにたばこがあるんです。
最近は、スタジオでも禁煙のところが多いのですが、僕にとっては一服がリズムになるんですね。どんなところにでもたばこは持って行きますし、喫煙所も利用します。仕事の都合で関西の自宅に戻らず、東京に一か月以上いることもあるのですが、たばこはいつも一緒です。
喫煙所に入ると、たばこがあるだけで仲間意識が生まれて、他では出来ないような話が出来たりします。全く知らない人ともたばこがあるだけで、昔からの知人のように話が出来ますし、相手が偉い人であろうがなかろうが、関係なく親しい話が出来ます。上下関係もなくなってしまうんですね。そういう意味では、たばこはコミュニケーションの重要なルーツですね。
しかも、もうひとつ、オンとオフの切り替えにもなるんです。吸い終わったところで「じゃあ」と切り上げることが出来るでしょう。もちろん、もう1本ということもあっていいのですが、吸い終わったところでやめられるなんて、たばこでなければ出来ないことではないでしょうか。お酒だったらこうはいきません。居酒屋さんで誰かと一緒に飲んでいたら、切り上げたいと思っても、じゃあって席を立てませんよね。
また、僕のように人から見られる仕事をしていると、吸い続けるならば「マナー1本!」という心掛けは大切です。喫煙者が非喫煙者に迷惑を掛けないのは当然のこと。僕は日頃から注意深く心掛けています。でも、僕のようにからだが大きいと、喫煙所がいささか狭く感じられることがある。もう少しスペースは広く、さらにできることならもう少し換気もよくしてもらえないでしょうか。しっかりマナーを守りながらも、居心地のいいリラックスできる場所を持つというのは喫煙者にとって大きな願いなんです。(談)
◆以上が、篠原さんのコラムでした。なにか、ほっとするような記事でした。
◆この10年間あまりの日本の社会は、いろいろなことに対する「寛容さ」が失われてきて、自分たちで自分たちの首を絞めているような「イライラ社会」になってきていると言われて久しい。そのことは、たばこの喫煙問題だけでなく、いろいろな場面で 感じることが多い。「1憶、総クレーム社会」とかも言われたりする。「清流に魚住まず」という言葉があるが、人間社会にもそのことは当てはまるようにも思う。中国社会の「表現の自由・民主主義・人権」の問題に対する「超監視社会」とはまた違った「監視社会」の面が強いこの頃の日本には少し危惧もする。