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彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国「新チャイナセブン」リスト、読売新聞報道を巡って❷

2017-08-31 14:33:44 | 滞在記

 読売新聞8月24日付の「中国新指導部チャイナセブン」リストの報道が仮に事実だとしたら、「習近平派と胡錦濤派」が協力して「江沢民派(上海閥)」を追い落としたと言える。現在のチャイナセブンでは、序列3位の「張徳江」氏がいる。彼は上海閥であり、北朝鮮との関係のトップである。つまり、北朝鮮と中国をつなぐパイプ役である。読売報道リストには、彼に代わる「上海閥」が新チャイナセブンには一人も入っていない。ということは、中国と北朝鮮が、いわゆる経済的な利益関係で繋がろうという指導部メンバーを除外していることを意味する。今後の中国と北朝鮮関係が変化するであろうということを人事面から多少読み取ることができる。2012年秋の党大会「新チャイナセブン」では、江沢民派が複数入っていたが、今回の読売報道では0である。

 王岐山氏に関しては、留任となるかどうかまだ予断を許せないが、彼を巡っては、中国本土からアメリカに逃亡した大富豪の郭文貴氏が、米国営放送のVOAに何度も出演しては、中国共産党のスキャンダルを暴露しており、最近では王岐山氏に関するさまざまな問題を舌鋒鋭く追及している。その真偽は不明だが、腐敗追放キャンペーンの旗振り役を務めていただけに留任が難しくなってきている可能性もある。留任も視野にいれていたとされる習近平氏が、長老たちとの「妥協案」として、「王岐山引退」のカードを切った可能性もある。その見返りに、浙江省時代の側近「陳敏爾」氏を、2段階昇格で最高指導部入りさせたという見立も可能だ。(左より5番目の写真が王氏) 

 ポスト習近平に近いととりざたされていたのが、前・重慶市委員会書記(トップ)の孫政才氏であったが、最近、失脚をさせられていて、彼の妻に関する汚職等の疑いで取り調べを受けている。2012年の薄煕来氏の逮捕・失脚とよく似ている構図でもある。もう一人のポスト習近平にとりざたされていた広東省委員会書記(トップ)の胡春華氏はリストに入っている。(左より6番目が孫氏)

 今回、読売報道による「新チャイナセブン」リストの氏名や新役職などは次の通りとなっていた。

1、習近平(留任) 64才(党総書記・国家主席・中央軍事委員会主席)   2、李克強(留任) 62才(国務院総理)―胡錦濤派   3、汪洋 62才(全人代常務委員長)―胡錦濤派 [上記の写真で左から2番目]  4、胡春華 54才(副首相)―胡錦濤派[上記の写真で左から3番目]   5、韓正 63才(人民政治協商会議主席)―習近平派[上記の写真で左から4番目]   6、栗戦書  67才(中央規律検査委書記)―習近平派[上記写真で左から5番目]  7、陳敏爾 56才(宣伝・イデオロギー担当) ―習近平派[上記写真で左から6番目]     ※「3、〜7、」の数字は序列を示すものではない。

   読売リストの6番目にある「栗戦書」氏(党中央弁公庁主任)は、習氏とロシアのプーチン大統領との特別な関係を、ここ数年間下支えをしてきた人物といわれている。第二期習政権らとっても、プーチン氏との関係をより一層深めることが「政権」の命綱と考えている人事なのかもしれない。また、リストの3番目に入っている「汪洋」氏(副首相)は、米国対応の要となると目されている。

 ◆ この読売の記事に関して、杉野光男氏(東洋証券 主席エコノミスト)は次のように指摘している。

 読売新聞の「新チャイナセブンリスト」の記事は、今 世界を駆け巡っている。こんな記事を書いて、読売は大丈夫かな?と このスクープを読んだ人々は多いかもしれない。読売はリスクヘッジとして、「リストの最終的な顔ぶれも含め、党大会まで駆け引きが続くものとみられている」と記事の一文に書き ある種の逃げも打っている。どこの国でも「新指導部人事」に関する情報は手に入りにくい。-----この最高指導部リストが、習派、もしくは反習派が意図的に流した観測気球の可能性だって大いにある。

 中国人は政治の噂が大好きだが、うっかりスマホでチャットしたら、ネット警察に補導される可能性がある。だから暗号符丁を使った会話が増えている。以下はその実例。党人事を企業人事に見立てている。

 ①7席変5席=定員7名から5名に  ②理事長3、和諧団1、蛤蛤1=理事長(習派3席)、和諧団(胡錦濤派1席)、蛤蛤(カエル)―(江沢民派1席)   ③総経理連任失敗 大海取代之=総経理(李克強・総理)留任ならず、大海(汪洋)が就任 ④監事長連任失敗 栗子取代之=監査役(王岐山・規検委主任)留任ならず、クリ(栗戦書)が就任

 このチャットでは、予想が読売と異なり、李克強氏が首相辞任となっている。和諧団とは胡錦濤氏が提唱した「和諧社会」と、彼の出身母体の「共青団」を合成した「胡錦濤派」の暗号だ。江沢民氏は風貌のため以前から「蛙(カエル)」と揶揄されている。大海=汪洋氏とはシャレた表現では。

◆―習近平氏の「7人の影軍団」ブレーン―

 習近平氏には7人の影のブレーンがいると言われている。中でも これまで突出しているのが王滬寧(おう・こねい)氏だ。江沢民、胡錦濤と三代続けてブレーンの中心を担ってきている。中国の巷では「影軍団」のことを「帝王師(ていおうし)」とささやく人もいる。「帝王師」とは「皇帝の老師(ろうし)」のことである。皇帝を創りあげるための「賢者」で、控えめで目立たず、権力欲が少なく信頼のおける「切れ者」であることが求められる。これは、中国古来からの習わしといっていいだろうか。

 この王氏は、中国社会の内外政策の総設計師のような存在でもあるようで、江沢民政権の「三つの代表」、胡錦濤政権の「科学的発展」「和諧社会」、そして習近平政権の「中国の夢」「中華民族の偉大なる復興」という国家政策のスローガンを繰り上げたのも王氏といわれている。習氏の信頼も厚いようだが、元は大学教授でもあった。1995年生まれの人である。王氏は、中国の新保守主義の創始者とも言われ、西洋式の民主主義に反対し、共産党政権と政府が後押しをして「国づくり」を進める国家主義を支持することにより、1989年以来の中国首脳陣のイデオロギーの屋台骨を提供してきた人物とも評されている。

 影の軍団の他の6人は、このたびの読売リストにある「栗戦書」氏、そして、劉鶴(りゅう・かく)氏、何毅亭(か・きてい)氏、丁薛祥(てい・せつしょう)氏、李書磊(り・しょらい)氏、鍾紹軍(しょう・しょうぐん)といった人々である。

◆もし、「陳敏爾」氏がチャイナセブン入りをした場合、ポスト習近平の争いとして、序列何位に入るのかも注目されよう。とりわけ、胡春華氏との序列関係にも注目が集まるだろう。

 

 

 


中国「新チャイナセブン」読売新聞報道を巡って❶

2017-08-31 07:27:28 | 滞在記

 中国河北省秦皇島市「北戴河(ほくたいが)地区」は、北京から東へ180km余りのところにある。海に面している夏の避暑地・ビーチリゾートとしても有名なところである。また、近くには万里の長城が海に至る「山海関(さんかいかん)」がある。この関の東門には「天下第一関」と記されている巨大な門がある。

  ここ北戴河周辺は、歴史的に中国本国と中国東北部(旧・満州)や朝鮮半島をつなぐ要衝の地でもあった。北戴河を少し北東に行くと「綏中(すいちゅう)」という地区がある。かってここには「綏中訓練所」というものが置かれていた。日本の国策によって中国東北部(旧・満州)を支配統治するために、日本陸軍の「関東軍」が置かれたが、それを補完するために「満州国開拓青年義勇軍」が設立され、多くの年若い少年や青年が志願をして中国に渡った。軍事訓練と農作業が行われていたようだ。

 私の父もそのような少年の一人だった。志願し入隊したのは14才〜15才くらいだったのではないかと思われる。そして、第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)での日本の敗戦を迎えることとなり、旧・満州国にソ連軍が大挙襲来、父はソ連軍の捕虜となる。その後、シベリアに抑留され始めたのが18才のころと聞く。2〜3年あまり抑留され、生きて日本に帰国できた。上記の写真は、「綏中訓練所」時代の写真である。(上記写真の左から3枚目の右・4枚目の食事風景の左から2人目に父が写る)

 5年に1度開催される「中国共産党大会」は、今年の秋(11月頃)「第19回中国共産党大会」に開催予定だ。中国の習近平政権の2期目の人事で、最高指導部・政治局常務委員7人(チャイナセブン)の発表・決定がなされる重要大会となる。この党大会に向けて(先立って)、毎回 党大会の前に「北戴河」で7月下旬から8月上旬の時期に開催され8月中旬まで行われているのが「北戴河会議」といわれているものだ。共産党の多くの長老たちも参加し、党大会の人事について検討・調整を行う。そして、それをもとにして秋の党大会での人事が発表される。

 今回の「北戴河会議」には、元国家主席の「江沢民」氏や前国家主席の「胡錦濤」氏らも参加している。人事を巡る激しい駆け引きがなされ、決定されていくという会議であり、世界中がその動向に注目する。そして、その会議内容は、非公開で発表されることはない。世界のメディアは血眼になって その会議内容の一端でも知ろうとするが、その内容を知ることはなかなか難しい。これからの世界情勢における「中国の国際政策(外交)」を紐解くことがかなりできる「超重要情報」なのだが。

 8月24日付「読売新聞(朝刊)」で、「中国次期指導者リスト判明」という記事が掲載されたとインターネット記事で知ったので、さっそく翌日に図書館に行き その記事を目にした。この記事を見て改めて驚きを隠せなかった。見出しはこうだ。「2期目指導者リスト―習氏側近・王氏 名前なし 退任有力視」

 これが本当であれば、ピューリッツアー賞ものの、世紀の特ダネだ。5年に1度の党大会前のこれまでの新聞やテレビ報道は「関係筋によると、チャ イナセブンの内、A、B、Cの3氏は当確、残る4ポストをD、E、F、G、H、I、J氏の7氏で激しく争っている」といった株屋の相場予想のような記事が大半だった。ところが今回の読売新聞記事は「複数の関係筋」から得た情報として、チャイナセブンのリストの存在を明らかにしている。

 この読売新聞の記事に関連して、8月27日付「夕刊フジ」では、川添恵子氏の緊急レポートが一面に掲載されていた。「新チャイナセブン報道の深層―この顔ぶれが事実ならば、習一派と胡錦濤前国家主席派が、江沢民元国家主席率いる「上海閥」を葬り、今後、北朝鮮とつながる党幹部を粛清しそうだという。東アジア情勢に精通するノンフィクション作家、川添恵子氏が緊急レポートをする―習、江沢民一派一掃を誇示」という内容のものだった。

 26日付読売新聞には、「中国軍、江沢民色を一新 人事最終調整―習派閥が中枢に」という記事が発表されていた。また、28日付「毎日新聞」では、習氏の側近の一人である「陳敏爾(ちんびんじ)」氏の2段跳び昇進で常任委員となる見通し」との情報記事が掲載された。中国の最重要指導者である「常任委員(チャイナセブン)」7人、常任委員を含む25人の政治局員。約200人の中央委員、約170人の中央委員候補。そして8876万人の共産党員(2015年)。陳氏は現在は、重慶市委員会書記(トップ)であり、中央委員である。もし、この報道が事実ならば、2段階跳びの大昇進となる。

 この読売新聞の記事は、世界を驚かせ、ニュースが出回っている。8月25日付けの中国のインターネツト記事を見ると、「読売新聞:王岐山19大退休 陳敏爾 两級跳入常」という見出しで、読売の記事に重大な関心を寄せていることがわかる。

 今回の新チャイナセブンの選出を巡る最大の焦点の一つは、現・チャイナセブンのメンバーで習氏の盟友とも言われている王氏(69才)が残留するかどうかということだった。「68才を超えてからの最高指導部入りは不可」というこれまでのルールは是非とも守りたいとする人が多いからだろうか。もし、このルールが破られて王氏残留となれば、五年後の党大会が開かれる2022年に69才となる習近平氏が「三選」の可能性が大きくなってくる。

 読売新聞の記事でも「王氏の処遇を巡っては、党内でいまだに賛否両論が存在しているといい、リストの最終的な顔ぶれも含め、党大会まで駆け引きが続くとみられている。」と書かれているように、この記事が事実なのかどうなのかも含めても予断を許さない情況が続くだろうと思われる。この人事は、アメリカ大統領選挙と並んで、世界の情勢に関する影響がとても大きいものだ。

◆次号に続く

 

 

 

 

 

 


習近平・中国国家主席と閩江大学

2017-08-28 10:18:31 | 滞在記

 今年の五月中旬のころ、閩江大学の第三食堂から研究室のある福万楼の建物に戻る途中、たまたまある建物に立ち寄ってみた。その建物の一階エントランスには、閩江大学に関する歴史的紹介とともに、習近平国家主席と閩江大学との関連のことが紹介された展示があったて。習近平国家主席は、1990年代に この大学の学長(※中国では「校長」という)をしていた時期があったからだ。そこに掲示されている当時の習氏の写真は40代半ばくらいである。そのころ習氏は「福建省福州市の党委員会書記(福州市長より上位)―福州市のトップ」の職務にあり、大学の学長を兼務していたこととになっていた。

 閩江大学は、1958年創立の「福州師範大学」と1984年創立の「閩江職業大学」が合併して、2002年に「閩江大学」となった大学である。そして1990年代の数年間、習氏が大学の前身である「閩江職業大学」の学長をしていた時期があったと記されている。

 当時の学生の大学卒業の証明書には習氏の直筆のサインなども記されている。また、大学創立50周年の2008年には、「祝賀メッセージ」なども習氏から送られているので、これらのものが展示されていた。この閩江大学は、来年の2018年9月には、福建省内にある92の大学中、10番目の「省重点大学」となる可能性が現在のところ高い。これにともなう大学の新学部増設や大学院教育の拡充などが急ピッチで進められている。

 さて、現在の世界情勢のなか、各国リーダーの中で 将来にわたり最も影響力が大きいと思われる習近平氏。「中国の夢」を国家スローガンとして「一帯一路」政策など、世界の頂点に立つ人といっても過言ではない地位と実力をもっている。今年の秋(11月ころ)に控えた「中国共産党第19回党大会」で、新しいチャイナセブン(最高指導部の政治局常務委員7名)が選出される予定だが、その動向に世界中の関心が高まってきている。

  習近平国家主席は、1953年6月生まれで、現在満64才。父は習仲勲(元・国務院副総理)。中国共産党の大物政治家でもあった人だ。父は文化大革命時期に紅衛兵などから批判を受け、このためもあり、息子の習近平氏も1969年の15才から22才までの7年間あまり、陝西省延安の山村で「下放」生活を送ることとなった。兄弟姉妹は3人で、姉が2人と弟が1人。1974年に共産党に入党が認められ、文革がほぼ終息を迎えた時期の1975年に名門「清華大学」の化学工程学部に入学、79年に卒業している。その後、国務院弁公室庁及び中央軍事委員会弁公庁の秘書という地位の仕事についた。その頃(1980年代初頭)、一度目の結婚をしている。しかし、この最初の結婚相手の「柯(か)霊霊(玲玲とも)」(習氏のおさななじみで、3才年上)さんとの結婚生活は、将来生活に対する意見の食い違いから3年余りで離婚に至ったようだ。

 その後、習氏は中国福建省厦門(アモイ)市の副市長となる。この頃、友人の紹介で知り合ったのが現在の夫人となる「彭麗媛(ほう・れいえん)」さんだった。彭さんは「軍営の歌姫」として全国的に有名になりかけたころだった。そして、習氏の家族などの反対はあったが、1988年に結婚。彼女は初婚であった。この彭麗媛さんは、中国山東省の農家の娘さんで、15才の時に「山東芸術学校」に入学、20才の時に「山東テレビ局」の推薦で「全国歌謡曲コンクール」に出場し入選。その後、中国人民解放軍に所属しながら「中国音楽学院(大学)」に入学し歌謡の才を磨いた。中国の歌姫と呼ばれた人気絶大な歌手となっていく。軍総政治部の「歌舞団」に属し、後に 女性では唯一の「少将」の位も持つ女性ともなった。日本でいうところの歌姫「美空ひばり」と「島倉千代子」を足して2倍以上にしたよりも もっと大きいような存在感を中国ではもつ女性であり、現在では「中国の母」とも呼称される。

 習氏はその後、2000年に「福建省省長」、2002年に浙江省党委員会書記(浙江省トップ)、2007年に上海市党委員会書記(上海市トップ)、2008年にチャイナナイン(常務委員会常任委員)となり、2012年に中国のトップ(中国共産党総書記・国家主席)に選出され現在に至っている。また、1998年から2002年に「清華大学大学院の人文社会科学院」に籍をおき法学博士号を取得してもいる。習近平氏の趣味は、サッカーと囲碁であり、酒に強い酒豪ともされている。サッカーは実際にプレーするのも好きなようだ。

 習近平氏が国家主席となった2012年秋の翌年以降、中国のカレンダーには「習近平国家主席と夫人」が並んだものがいろいろと販売されている。2人の間には1992年に娘(習明澤)さんが誕生した。彼女はその後、浙江外国語大学卒業後にアメリカのハーバード大学に留学し卒業している。現在は中国に在住していて25才くらいかと思う。ハーバート大学の卒業式の時の写真があるが、父親の習氏によく似た顔立ちである。習近平氏の兄弟姉妹は、二人の姉と一人の弟があるが、三人ともに現在では外国(カナダ・オーストラリアなど)の国籍をとり中国では生活をしていないようだ。このため、いろいな憶測が飛び交ってもいる。最初の結婚相手である柯さんは、イギリスのロンドンにて生活をしているといわれている。

 中国における政権の交代ということは、すざましいまでの権力闘争があり、日本で考える以上に粛清や失脚といったことに伴う一族郎党・家族の生存にまで及ぶ影響は計り知れない大きいものがあるといわれている。このためもあってか、中国の今日までの指導層の親族が、外国籍をとって外国で生活している例は少なくないようだ。2017年秋、どのようなメンバーが新指導部ら選出されるのか、世界中が注目している。今後の日本の政治・経済・外交などにも とても大きな影響がある。

 今秋にせまった「中国共産党第19回大会」で、習近平氏が「党総書記・国家主席」に選出されるのは確実だ。主席としての2期目に入り、中国という国のリーダーとしてはとても優れた能力をもつ習氏だが、この国のトップをはるというのは、日本の首相などと違って 数倍もの かなり総合的に突出した「優れた処世・対人能力」「課題追行能力」「分析能力」などが必要ともされるようだ。「14億分の1の男」というより「14億人のトップ能力の男」というほうが当てはまるだろう。その存在は、中国国民にとっても、中国に住む私にとっても「驚異」の存在でもあり、違う意味での「きょうい」の存在でもある。(※「習大大(シーダーダー)」とは、習近平氏に対して中国国民が親しみをこめて言う時の呼び方で、「中国のお父さん」というような意味がある。)

 

 

 

 

 

 

 


お盆帰省❸―第11回「1968年卒・河野中学校同窓会」2017・8・13

2017-08-18 06:20:40 | 滞在記

 8月13日の夕方、この日 昨年に結婚し京都に住む「息子夫妻」と「娘夫妻とその娘」、故郷の家に暮らす母と私達夫婦の8人が「お盆帰省」のために集まった。家の前に3台の京都ナンバー車が駐車される。この日の午後5時半すぎに、実家から歩いて10分ほどのところにある旅館「清海館」で行われる中学校の同窓会に出かけた。

 午後5時から始まっていた同窓会には30人ほどが集まっていた。懐かしい恩師の「仲坊先生夫妻」や「宮永先生夫妻」も来ていた。この2組の夫妻は、私たちの中学校での職場結婚組であった。仲坊先生は、小学校6年生の時の担任でもあった。私の歴史好きに影響を与えた人の一人でもある。中学校では「社会科」を担当していた。宮永先生は「国語科」担当で、その奥さんの旧姓・藤法(ふじのり)先生は、「音楽科」担当だった。先生たちは、私たちより8才〜10才くらい年上である。

 この音楽科担当でブラスバンド部の顧問でもあった「藤法先生」は、小さい体で きれいな声でよくしゃべって歌うので、ニックネームは「トランジスターラジオ」だった。今でも長髪が似合う乙女チックな美しい人だ。当時、中学校の男子生徒から人気があった。辺鄙な海岸の村々の女性にはいないタイプの人だったので、男子生徒からのラブレターもあったらしい。3年生だったある日の音楽の授業の時、私はクラスの同級生と2人で、音楽室に「青大将(蛇)」を持ち込んで机の中に押し込んでいた。先生が、一段高い教壇に立って黒板に向かい字を書いている頃を見はらかい、その青大将を先生の足元近くに投げた。振り向いて蛇に気が付いた先生は「ギャー!!!!」という絶叫をあげたと思いきや、目を点にして教室を出て行った。その後、しばらくして、男の宮永先生が入ってきて、「誰や!!!やったのは誰や!!!」と叫んで、「はい、すみません、私たちです--。」と白状した瞬間に、鉄拳が飛んできた。こんなこともあって、その後2人は結婚に至ったようだ。この問題行動(事件)は、二人が結婚に到る多少の影響があったかもしれない。

 1968年(昭和43年)3月卒業の私たちは、今年65才になった。NHK朝ドラ「ひょっ子」の主人公たちより2才年下の年代である。彼女たちが奥茨城村の中学校を卒業したのは1966年3月かと思う。ドラマの中で語られるビートルズが来日したのは1966年の夏だったからである。

 卒業アルバムを広げてみると、当時の教員は13名、内・女性が3名。教員写真には、独身当時の仲坊先生夫妻・宮永先生夫妻もあった。もう一人の女性教員の庭本先生(数学担当)のニックネームは「ガンベ」だった。「ガンベ」とは私たちの地元方言で、「蟹(カニ)」のことである。黒板の前を、右に行ったり左にいったり、小さな蟹のように ちょこちょこと忙しく 黒板に文字や数字や記号を書いていた先生だったからである。私たち卒業生は3クラス97名だった。

 校歌は3番まであり、簡潔明瞭で 軍歌のようにテンポがよく いい歌詞の校歌だと思う。この中学校で思い出に残る学校行事が2つあった。一つは、全学年のクラス対抗「校内バレーボール大会」だった。全校で9クラス、男女別なので全部で18チームが競う大会だった。もう一つは毎年夏の7月に行われる「全校・ウニ採集」だった。中学校近くの「八幡崎(はちまんざき)」の海岸で、全校生徒300人あまりがウニをとる行事だった。男子生徒は海に潜りウニをとり、女子生徒は そのウニを陸で処理して雲丹(ウニ)の実をより分ける作業を分担。そして、それを売って学校の諸費用にするというものだった。

 今年の同窓会は第11回目だった。1回目は18才の時、2回目は20才の時、3回目は25才の時、-----。それ以降は、5年毎に、30・35・40・45・50・55・60・65と続いている。97人中、すでに9人が他界している。この日の65才の同窓会には、88人中(福井県内在住が55人ほど)26人が集まった。70才となる第12回目もあるかもしれない。

 NHKドラマの「ひよつ子」の主人公たちと同じような年代の田舎の中学校だったので、中学校を卒業後、京都・大阪・名古屋を中心に半数以上の55人ほどは「集団就職」をした。また、15人ほどは 福井県勝山市の「縫製・繊維工場」に就職し、同時に夕方から夜間の工場付属の定時制高校に通った。全日制高校に行けた生徒は25人ほどで、そのほとんどは工業高校や商業高校で、普通高校に行ったのは4名にすぎなかった。全日制高校に行かせてもらうだけでもありがたく、大学に行くなどというのは「夢のまた夢」で、別世界のことだったので考えたりもしなかった。陸の孤島のように交通事情が良くなかったので、高校進学組は全員が、下宿や寮生活だった。その後、大学に進学したのは私を含めて3人だけだった。卒業後、漁師となった同級生も2〜3名いた。そんな時代だった。あれから、50年が経った。午後9時ころ「同窓会」がお開きとなった。

 翌日14日の朝、村の「円光寺」(天台宗派)のお坊さんが檀家参りで、自宅の御仏壇での「寺坂家先祖供養」に来てくれたので皆でお仏壇の前に集まった。その後、寺の背後の山にある場所の「お墓参り」に行った。昼過ぎに、15日から仕事が始まる「息子夫妻」が京都に戻って行った。この日の夕方、中学校時代からの友人である松本君の家「渓流荘」に、娘夫妻や孫、妻とともに行き、酒を飲み渓流や海の魚を食べながら一緒に過ごした。私だけはその夜、ここで泊まることとなり、翌朝に妻に車で迎えに来てもらった。

 15日の昼過ぎ、娘夫妻は夫の実家「滋賀県東近江市(旧・八日市市)」に向かうため出発。私たち夫婦も、京都に戻るため午後1時f半ころに実家を車で出発した。高速道路をほぼ使わずに、琵琶湖の湖西道路などを通って京都に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 


お盆帰省❷―若狭路の美しい海岸を走る―お初と京極高次の「小浜・雲浜城」

2017-08-16 18:58:36 | 滞在記

 国道162号線をひた走り、京都・福井の県境の「堀越峠」を越えて、名田庄村から小浜市へ。海が見える。そこに「小浜城(雲浜城)」がある。妻が行ったことがないようだったので、立ち寄る。現在では、「本丸」の部分だけが残っているが、この城は 戦国時代末期に造られ始めた「要害」の平城だった。

 海と河川とを取り入れた要害の海岸・河川城で、この城を初めに造ったのは京極高次(きょうごくたかつぐ)だった。室町時代からの名門・京極家の「お家再興」をなしとげた人物だが、その人生は かなりの苦難に満ちていた武将でもあった。NHK大河ドラマ「江(ごう)」で、滅亡した浅井家の浅井三姉妹の次女・「お初」と結婚し、後にこの城を造り住むこととなる。当時、京極高次を演じたのが 今 最もセクシーな男優といわれている「斎藤工」だった。長女の「お茶茶(後の淀君)」を宮沢りえ、「お初」を氷川あさみ、三女の「江」を上野樹里がそれぞれ演じていた。

 この小浜市一帯は、戦国時代に「若狭・武田氏」が勢力をもち、街の背後にある「後瀬山城」というかなり大きな山城と麓の館群を本拠地としていた。京極高次は関ヶ原の戦いの際に、東軍(徳川)側につき 滋賀の大津城に籠って西軍を防いだ軍功により、若狭の地を与えられた。当初は後瀬山城を本拠地としたが、後にこの「小浜・雲浜城」を造営した。大津城は今はもうないが、当時 琵琶湖の水を取り入れた水城で、2万の西軍の大軍にも落城しなかった。この大津城の体験が、小浜・雲浜城の「城の縄張り(設計)」にも生かされているように思える。

 リアス式海岸が続く若狭湾。この湾の中の「小浜湾」のに面して「エンゼルライン」という山に登る道路がある。現在は無料。この小浜周辺の海岸線には、たくさんの「筏(いかだ)」が浮かんでいる。牡蠣(かき)の養殖筏だ。厳冬の12月〜1月の時期には、とても大ぶりで美味しい牡蠣が出荷される。エンゼルラインを初めて走る。山頂近くからは、小浜市街や小浜城、後瀬山城の山が見える。また、常神半島、敦賀半島、越前岬、丹後半島など、若狭湾一帯の絶景が見渡せた。

 エンゼルラインの山を元来た道を下って、海岸線に再び出る。初めて通る美しい海岸線だ。「鳥辺島」という名前の小さな島が浮かんでいた。夕日の景色の看板があった。島の横に沈む夕日はさぞかし美しいようだ。「三方五湖」と日本海の若狭湾が一望できる「レインボーライン」を初めて行ってみた。通行料金は1000円あまり。

 途中に、「沖の石」という岩礁のいわれが書かれた大きな看板があった。「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし」という、讃岐姫の和歌(小倉百人一首)にいわれの岩礁のようだ。讃岐姫は、平安時代末期の人で、父は源頼政。平家政権末期に、以仁王(もちひとおう)を担いで平氏打倒の兵をあげ 失敗して非業の死を遂げた武将だ。避難先の若狭の地で父の死を知り、讃岐姫もこの地で自らの命を絶った。その悲しみがあふれた和歌ともいえる。

 三方五湖は、「水月湖」「三方湖」「菅湖」「久々子湖」「日向湖」の大小五つの湖からなっている。梅丈岳(400m)の山頂展望場からは、五つの湖と日本海が360度展望できる絶景であった。

 万葉集にも詠まれていて、「若狭なる 三方の海の 濱きよみ い住き還らひ 見れど飽かぬかも」(詠み人しらず)という和歌もあるようだ。

 13日のこの日の午後2時過ぎに、敦賀市内にある「日本海市場」にて、サザエや甘えびなどを買い、さらに武生市(越前市)のスーパーマーケットで、刺身などを大量に買い込み、故郷・南越前町の海岸沿いの実家に午後4時に到着。寺にすぐに行き「先祖」を家に迎えに行った。

◆北陸新幹線が現在「石川県金沢市」まで開通しているが、今後、金沢―福井—敦賀―小浜―京都と延伸される予定が決定し、工事が始まっている。開通したら この若狭湾や小浜城などにも 全国からの ここを訪れる人が 増加するだろうな。