彦四郎の中国生活

中国滞在記

台風10号(珊珊・サンサン)襲来、明日8月30日に中国に渡航できるだろうか〜熱波襲来・亜熱帯化—NHKドキュメント番組「一億特攻」のことなど

2024-08-29 13:00:39 | 滞在記

 この1週間ほど、台風10号(珊珊・サンサン)の、日々の進路状況の変化に翻弄され続けている。明日30日(金)の午後13:20分発の中国・厦門航空便(関西空港➡中国・福建省福州空港)で中国に戻る予定をしているからだ。大学の新学期(前期)は9月2日(月)から始まり、さっそく、この日の1時間目〜4時間目には担当する4回生の「日本文学作品選読」がある。

 8月22日・23日頃の台風10号進路予想では、日本の四国から関東にかけて上陸し27日頃までには北海道辺りに台風が進むとの予報だった。ところがこの台風は、太平洋上をさらに西へ西へと進み、鹿児島の奄美諸島へと進路をとりはじめ、26日の早朝の台風進路予想では、日本列島を縦断し30日(金)に関西地方が台風の中心地となり、暴風雨圏内になるのとの予報が発表された。30日の関西空港発の飛行機は欠航か‥‥と、ショックを受ける。

 8月28日付朝日新聞には、「鈍足台風 雨長引く恐れ 自転車並み速度 明日にも九州上陸」の見出し記事。「強い 遅い 横断」の危険な三点セットのこの台風。昨日の28日から今朝29日にかけての新たな台風進路予想では、29日の朝に九州の熊本県付近に上陸、九州を横断して、30日の午後3時頃には、台風の中心は四国と九州の間の瀬戸内海に到達との予想。関西国際空港に最も台風の影響が出て暴風雨圏内になるのは、30日の夕方以降から31日(土)となった。はたして、30日(金)の午後1時過ぎの厦門航空便は飛ぶだろうか。まだ、わからない‥。

 この10年間余り、台風銀座の東シナ海を渡航するための飛行機便は、6月下旬から10月上旬までは、台風発生に翻弄される。特にこの2023年以降は台風の発生が増え、これまであまり向かわなかった中国福建省や広東省などに上陸する台風も激増している。日本に向かっても中国南部に台風が向かっても、飛行機便の欠航が出る。地球温暖化による海面気温上昇と高温化、台風の激増などを実感する‥。

 この7月、8月の日本での夏休み滞在中にテレビ視聴したドキュメンタリー番組の数々の中で、最も心に残ったものは‥。

 それは8月のお盆過ぎの17日のNHKスペシャル「一億特攻への道〜隊員4000人、生と死の記録〜」だった。このドキュメンタリー番組について、8月24日の朝日新聞の「テレビ時評」には次のような時評が掲載されていた。なかなか優れたテレビ時評だと思った。

—テレビ時評 国民も後押しした特攻 西森路代(ライター)—「NHKでは、今年も8月にいくつもの戦争に関するドキュメンタリーが放送された。中でも印象に残ったのは"NHKスペシャル 一億特攻への道"であった。特攻は1944年10月に始まり、当初は"統率の外道"と言われ、一時的なものと思われていたが、いつしか国民も後押しするようになり、"一億特攻"という言葉が叫ばれるようになる。

 番組を見ていて驚いたのは、特攻隊員には、二十歳に満たない予科練出身の青年たちも少なくなかったことで、しかも、戦争に対する士気を高めるために、彼らは神のごとく崇められていたという。ある特攻隊員は、当時の婦人雑誌のグラビアページに写真付きで取り上げられていたというし、またある特攻隊員の葬式には、まるで有名タレントに人々が群がるように、人々がひっきりなしに弔問に訪れ、家族は落ち込む暇もなかったと語る。‥‥‥‥‥。

 ナレーションは番組ディレクターが担当。彼は何年にもわたつて特攻隊員の家族のもとを訪れ、膨大な資料にあたっていた。この執念をも感じさせる番組から、誤った"熱狂"を繰り返えさせてはいけないという強い思いが伝わってきた。」

 8月下旬の「NNNドキュメント24」では、「戦前リアル」(番組名)が放送された。台湾有事の危機もあるなかでの東アジア情勢。その台湾有事という戦争が起きる可能性のある前の現在、それを「戦前リアル」と題した番組だった。

 中国が台湾に軍事的侵攻をもし行った場合(台湾有事)、日本にある米軍基地(沖縄県・嘉手納、山口県岩国、東京都横田、青森県三沢)には、中国からのミサイル攻撃がされると想定される。(米国シンクタンク「CSIS」戦略国際間問題研究所の報告より) この番組はそのことを紹介しながら、沖縄八重山諸島、沖縄嘉手納や岩国の市民たちに取材した番組であった。

 中国の最近の経済不況・雇用問題の深刻さの情況、それによる国民の将来への不安・不満の増大。これををそらすための対外的ナショナリズムのさらなる"高揚"政策をとれば、台湾有事ということが、より現実になる可能性もある東アジア情勢かと危惧もする。

■この8月下旬の朝日新聞記事には、「7月の訪日客329万人—単月で最多—最速で累計(1月~7月)2千万人突破」の見出し記事が掲載されていた。7月の訪日観光客で、最も多い順に、①中国77万6500人、②韓国75万7700人、③台湾57万1700人、④香港27万9100人、⑤米国25万1200人‥。⑥その他。①③④の中華圏からは、162万7300人もが日本を訪れたことになる。これは全体の約50%にあたる。

 7月の京都新聞には京都府下の2023年5月時点での府下の外国人留学生の動向についての記事が掲載されていた。それによると、「過去最高の府下・外国人留学生数1万7743人」で、国別内訳ベスト5では、①中国9062人、②韓国1653人、③ネパール1637人、④台湾638人、⑤ベトナム411人となっていた。①と②の中華圏では9700人となり、全体の約55%を占める。

 全国的には、東京都在住の外国人留学生が最も多く、次いで大阪府、そして京都府となっている。(他に兵庫県、福岡県なども多い‥。) 全体的には2023年5月時点で約27万人の外国人留学生数。(大学院・大学・日本語学校・専門学校)  大学別の外国人留学生数トップ5は、①早稲田大学5560人、②東京大学4658人、立命館大学3027人、④京都大学2844人、⑤大阪大学2712人など‥。

 同じく8月下旬のNHKスペシャル「熱波襲来〜いのち・暮らしの危機〜」。地球温暖化の影響が最も強く出ているのがこの日本列島だという。(他に大西洋北部の米国北部・カナダ東海岸) 世界の中でも特に日本近海は海面気温が急上昇していて、6月から9月の四カ月間、日本列島に熱波を襲来させている。

 日本の2024年に至るまでの120年間の気温変化もデータとして出された。いわゆる日本列島の「亜熱帯化」が現実化していると番組では語られる。私がこの10年間余り暮らす中国南部福建省福州市は亜熱帯気候だ。そして、福州市は中国の省都の中でも最も暑くて湿気の多い省都として有名でもある。5月上旬から10月下旬までは、気温は30℃以上の真夏日が続く。特に、7月・8月は35℃~40℃の日々が連日続く。

 今年の7月から2カ月間余り日本に滞在し、その猛暑には、やはり驚きもした。今年の7月・8月に限って言えば、亜熱帯都市の福州といい勝負の気温と湿気。この「日本列島の亜熱帯化」という言葉に現実味を感じる。

■この8月に、映画「クライマーズ ハイ」(2008年公開)をテレビで視聴した。この映画(堤真一・堺雅人・尾野真千子など出演)は、1985年8月12日午後6時56分に起きた日航ジャンボジェット機123便(乗客・乗員524名)が群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落した世界最大の飛行機事故を背景にした映画。地元・群馬県の有力地方紙「北関東新聞社」の新聞記者たち群像を描いたこの映画の中で、「ええっ、今日の最高気温が31.5℃だって! すごい気温だ!‥」という一場面があった。

 40年前の1985年は、31.5℃という最高気温は、新聞の一面に掲載されるほどの気温だったんだと、気づかされる。昨年、今年はそれを10℃も上回る40℃超えとなって新聞の記事に大きく掲載されているのか‥と、思う。

 『老いの深み』(中公新書・黒井千次著)を2~3日で読み終えた。本書は読売新聞夕刊連載(月に1度)された記事を書籍化したものだった。(2019年5月~2023年12月まで)  作家の黒井さんが、70歳代の時の記事は『老いのかたち』、70歳代後半から80歳代前半になってから『老いの味わい』をそれぞれ中公新書として出版している。読み終えて、それほど深みのある本の内容ではなかった。(※夕刊連載記事だからしかたないか‥。でも90歳になっても書き続けているのはなかなかいいなあ‥。)

 『アメリカの罠—トランプ2.0の衝撃』(文春新書)は最近出版された書籍。今年の11月のアメリカ大統領選挙は、共和党のドナルド・トランプ候補と民主党のカマラ・ハリス候補との選挙という構図となった。このアメリカ大統領選挙でのトランプ候補の当選が現実味を帯びている。「トランプ候補が再選したら、世界はどうなるのか?」数々の質問に8人の世界の著名識者たちが答える書籍となっている。イスラエル人のユヴァル・ノア・ハラリも久々に登場している。まだ、読み始めたばかりなので、この9月に中国のアパートなどでじっくりと一人一人の見解を読むことにしたい。

 日本では自由民主党(自民党)の総裁選挙がこの9月中に行われ、選ばれた者が日本国の首相となる。小泉進次郎、石破茂氏が国民の「次期首相にふさわしい人」として世論調査では拮抗している。続いて河野太郎氏。かりに第一次投票で、小泉氏と石破氏が1位から2位となった場合、第二次投票で決着がつく。

 どちらが首相にふさわしいか‥。私から見たら小泉進次郎氏が、外交の場で各国首脳と会談している姿などは想像できない。彼は、環境相の時には、世界的会議で的外れで浅はかな発言を繰り返すなど、世界から嘲笑された。人物的にも政治政策内容でもなにもない人に思えるからだ。これまでにやったのはコンビニやスーパーでのレジ袋有料化だけ。こんな人が日本の首相になったら、日本という国は、世界から小ばかにされ低く評価されるだろう…。父の小泉純一郎氏が首相時代にやったことは、労働者派遣法の大改悪を行い、非正規労働者を大量に生み出したことだった。親子二代にわたり、日本人にとっては受難となるのだが‥。

 アメリカのトランプ氏、日本の小泉進次郎氏、タイプは違うが、共通していることは政治的哲学性のない「浅はかさ」かとも思う。

 私の好きなドラマの一つに「信濃のコロンボ 事件ファイル」という刑事ドラマがある。長野県警の刑事・竹村岩男を演じる中村梅雀。その妻を演じる原日出子。最近視聴した「長野のコロンボ 事件ファイル⑭—死あわせなカップル」では、中村梅雀がネットで知り合い自殺未遂を起こした若い男女に、次のように話す言葉がとても良かった。

—「全力をつくして生きなさい。特に何をするかは問題ではない。ただ自分の人生と言えるものを持ちなさい」‥。これは俺の大好きな言葉だ。人生というものは、いつも光(ひかり)輝いているわけではない。つまらないこと、しゃくにさわること、いやなこと、悲しいことにあふれている。でも、一日一日、その一つ一つを乗り越えていくことで、満足感が得られる。その積み重ねなんだよ‥。―

 昨日、妻から、あるネットサイト記事を見せられた。嬉しい記事内容だった。次のようなネット・アプリ記事。

—美山蓮如滝ブルーベリー園 美山「農」的生活198号「ブルーベリーを摘むためにリハビリをがんばる」―

 昨年、元気に娘さんとブルーベリーを摘みにこられましたが、最近、大腿骨を骨折され、ブルーベリー摘みはもう難しいと家族は思っていましたが、「ブルーベリーを摘みたい」という一心でリハビリをがんばられ、見事回復。何と御年100歳。今年もお元気なお姿が見られて嬉しかったです。娘さんがお母さんに寄り添い、共に人生を楽しむ。同い年の父が、昨年亡くなっただけに、うらやましかったです。

 この娘さんとは、私の妻のこと。100歳の義母はこの5月上旬に自宅(京都府京北町)の家先で転んで骨折。入院して手術を受け成功した。2カ月ほど入院しながらリハビリ、退院後も自宅から定期的に近く医療関係で定期的にリハビリを続けている。8月下旬、となり町の美山町のブルーベリー園に妻と一緒に行った。この美山蓮如滝ブルーベリー園は、美山かやぶきの里からほど近いところにあるようだ。

 

 


72歳の誕生日会—3人の孫たちによる、「手作りの会」をおこなってくれた

2024-08-28 17:14:20 | 滞在記

 強い雨風をもたらす台風10号が、現在、奄美大島付近を北上している。その後、九州北西部に上陸後、日本列島をほぼ縦断するように進路をとると予想されている。この70年間余りの観測史上、最も猛暑が続いた今年の夏。その8月もあと3日余りで終わろうとしている。秋の気配もちらほらと‥。

 今朝、家の近くの水田や畑を早朝に散歩する。ヒマワリの花はほぼ枯れていて種を残している。水田の稲は、小さな花から稲穂が少しだけ育ち始めている。キク科なのだろうか、この8月下旬の季節に咲く背の高い黄色い花。

 柿の実が少しだけ色づき始め、イチジクの実がムラサキ色に実り始めた。梨畑の梨は、もうすぐ収穫ができそうだ。31日は暴風となる予報なので、今日・明日中に収穫を急ぐようだ。

 農園の畑には、ナスがたくさんできていて、京野菜として出荷される。最近は、このあたりの畑では、東南アジアからの労働者が働く姿もよく見かけるようになっている。

 私はこの8月22日に72歳となった。そして、8月24日(土)の午後2:00から、娘たちの家で私の誕生会を計画しているとの連絡があったので、行くこととなった。京阪電車の終点駅・出町柳駅で下車、銀閣寺方面行のあるバス停に行く。途中、鴨川沿いの小さな寺・常林寺(通称は「萩の寺」)は、境内に萩の葉が大きく育ち、うすピンク色の花の開花もポツリポツリと始まっている。寺門のそばには、「心も かえれば 見方も かわる」の言葉。

 バス停前のもう一つの小さな寺の寺門のそばには、「てのひらに 余る数珠くり 地蔵盆」。京都市内では、子供のすこやかな成長を祈る地蔵盆がこの23日・24日に各地域で行われた。この寺の小さな境内には、これも秋の花である「鶏頭(けいとう)」の赤い花が開花し始めていた。

 「午後2時から始めるからそれまでに来て」と告げられていたが、少し遅れて2時10分頃に娘の家の近くまで行くと、小学2年の孫娘が家から私を迎えに坂を下って来てくれた。家に入ると、玄関付近に受付があり、孫たちが手作りした会のプログラムや、参加券などが渡された。プログラムを見ると、「①うたとおどり、②プレゼント、➂ケーキ、うた、④あそぶ、⑤されならとうた、⑥メッセージ」と書かれていた。

 手紙も渡されて、「じいじへ おたんじょうび おめでとう 中ごくでのしごとも 日本のしごともがんばってね」と書かれていた。また、頭につけるかんむりのようなものを渡された。ここにも「おめでとう72さい」と書かれていた。孫たち3人(小学2年長女、幼稚園年長組5歳8か月の次女、3歳7か月の長男)の三人が繰り広げてくれた誕生会だった。誕生会が終わり小学2年の孫娘が抹茶の「お点前」を行って一服いただいた。「結構なお点前でした」。(※この8月に銀閣寺近くの「法然院」で一日茶道教室があり習ったようだ。)

  「くす玉」も手作りで、「じいじへ 72さい おめでとうございます」と書かれていた。いろいろなグッズもすべて手作りされていた。「ゲスト 名前 よしひこ」と書かれたカード。 「うた」「あそぶ」「プレゼント」「ケーキ・うち」「さよなら・うた」と書かれたカード券のようなもの。 紙で作ったケーキまであった。娘と娘の夫、そして私の妻も参加、娘からは「中国で食べて」とお茶漬けの素セットを渡された。記念にこれらの手作りのものは、もらって帰ることにした。

 まあ、誕生日でこのようなことをしてもらえるとは思いもしていなかったので、孫たちやみんなに感謝だ。思うに、50歳を過ぎてからの誕生日は、また一つ年をとったと老化を重ねる日々でもあったので、ちょっと複雑な思いもあるが、70歳をこえてしまってからの誕生日は、歳はますます重ねて後期高齢者に向かうわけだが、「まあ、この一年、いろいろあったけど無事に生きることができました。また、これからの一年もなんとか乗り切っていこう‥」みたいな感謝の気持や、自分自身をほめてあげる記念の日へと変わってきてもいるような感もある。

 1時間余りの誕生会のあと、京都市内の丸善書店に行き、『老いの深み』(中公新書・黒井千次著)と『アメリカの罠—トランプ2.0の衝撃』(文春新書)を買い、近くのタナカ珈琲店(全席喫煙可能)で、ざっと2冊の本を読み始めた。

 タナカ珈琲を出て、三条大橋に向かう途中にある「三条占いスポット(処)」。店先には、「小さな幸せに気づく人は 大きな幸せを得るでしょう」「運命は自分の 意志で創るもの」と書かれていた。鴨川に架かる三条大橋を渡る。この日もまた、外国からの観光客の姿がたくさん見られた一日だった。

 24日(土)、この日の夜、自宅のある住宅地区の「夏祭り」が近所の公園で、盆踊り櫓が組まれ行われた。若い人や子供たちがたくさん来ていた。自宅のある地区も高齢化が進んでいるが、この日は、子供連れで里帰りした人たちが多くなる地域の「夏祭り」になっている。

 

 

 


「美しい日本のむら景観百選」—故郷近くの越前町宮崎地区(旧宮崎村)—『老いの深み』(黒井千次著)を読んでみたくなった

2024-08-24 09:25:26 | 滞在記

 8月13日~15日にかけて故郷の福井県南越前町にお盆帰省をしていたが、それから間もない19日(月)から20日(火)にかけて再び故郷に帰省することとなった。8月30日に中国に戻る前に、93歳で一人暮らしをしている母の年金等の公的書類作成や提出が必要となり、南越前町役場や郵便局などに母とともに行く必要性があったからだ。

 2022年に町のコミュニティーバス運行が廃止され、足腰が年相応に不自由になっている母が一日に2回ほどしかない路線バス(福鉄)で役場まで行くのが、この猛暑の夏の中、なおさら難しい。このため、書類を作成し車で一緒に行く必要があった。そして、中国に渡航する前に、故郷の友人たちにも会っておきたかったこともある。

 19日のお昼過ぎに京都の自宅を出て、京滋バイパス・名神高速・北陸高速などの高速道路を走り、午後4時頃に北陸高速道路下り線の福井県・杉津サービスエリア(SA)に着く。ここから眺める日本海の光景は美しい。おそらく日本高速道路SAからの景色10選に入るのではないかと思われもする。

 私が子供の頃(小学校入学1週間前)、実母は33歳だったが心筋梗塞で突然に亡くなり、49日の法事が終わり、納骨のために父と祖父母や弟とともに、国鉄・武生駅から北陸線で滋賀県の比叡山山麓にある西教寺に向かうための列車に乗った。そして、このSA付近にあった「杉津駅」で列車は停車した。生まれて初めて列車に乗ったのだが、この杉津駅から眺めた美しい景色を、65年を経た今でも、かなりはっきりと白黒写真のように記憶している。大人になりわかったが、ここ杉津駅からの景色は旧北陸線(新潟—米原)では最も美しい景色が見られる駅として有名だったようだ。

 午後4時半頃に越前武生市に着き、中学・高校時代からの友人である、松本君や山本君と会った。

 越前武生市街から南越前町河野地区にある実家に向かう途中の午後7時15分頃、夕日が沈んだ日本海の夕焼けの残光が美しい。沖合にイカ釣り船の灯りも点在する。

 翌朝の午前5時半ころ、明るくなった早朝に、車で2時間ほど近在に出かけてみることにした。故郷の南越前町に隣接する越前武生市白山(しらやま)地区。ここはコウノトリが飛ぶ地区とでもある。50年ほど前からここにコウノトリが飛来するようになり、おそらく30年ほどくらい前から、地区の人たちが「コウノトリが住みやすい」ところづくりに取り組み始めた。例えば、水田に化学肥料農薬を使わない稲づくりなど‥。

 近年では、2022年には3羽が自然孵化して巣立ち、23年には2羽、そして今年24年には4羽が自然孵化して巣立ち、この白山地区などで飛んでいる。

 この白山地区から少し行くと、越前町の宮崎地区。南越前町の北に隣接する越前町は、越前町・織田町・宮崎村・朝日町が町村合併してできた町。この町の宮崎地区(旧宮崎村)は、日本の農林水産省認定の「美しい日本のむら景観百選」(1991年に百選を発表した農村景観百選)のうちの一つのむら。

 選定された理由にはこの村の「切妻屋根群」の建物群がある。その選定理由には、「銀鼠(ぎんす)色の越前瓦の屋根瓦に白壁・木格子の民家が立ち並び、なつかしさがこみ上げてくる里の原風景」と書かれてもいる。またこの村は、日本六大「古窯」の一つである「越前焼」の村でもあり、文化庁の国指定「日本遺産」に認定されている。

 少し高台にある宮崎小学校の正門前付近からは、この「切妻屋根群」がよく見える。そして、宮崎小学校は焼き物の里の小学校らしく、校舎外壁はこの地で焼かれた煉瓦(レンガ)づくりだった。

 宮崎地区から少し行くと越前町織田地区。ここの町の中心地にある「劔(つるぎ)神社」には、「織田一族発祥の地—戦国第一の武将・織田信長を始めとする織田一族発祥の地」と書かれた看板が‥。

 織田地区のバスターミナルには大きな織田信長像がある。8月20日、このあたりの水田の稲は、黄金色に色づき始めていた。そして越前町越前地区にある越前岬付近‥‥。

 この岬付近は日本一の水仙郷。ここの梨子ケ平集落は、「日本棚田百選」に選ばれた棚田がある。(※「棚田百選」―1999年に農林水産省が認定した、全国117市町村134地区の棚田。) この棚田は認定当時は棚田で稲が作られていた。認定理由としては「棚田周辺の斜面に広がる水仙畑と日本海の光景が美しい」。また、この辺りは、文化庁の「日本の文化的伝統景観」にも指定されている。

 その棚田の多くは現在、稲作はされておらず、水仙畑になっている。(棚田水仙畑オーナを全国から募っている。)

 午前8時頃に実家の自宅に戻り、午前9時ころから南越前町の役場や郵便局等に母とともに行き、提出諸書類を最終作成したり確認したりしての作業を終えた。南越前町役場河野支所の駐車場から見る日本海。この日は、そんなに天気が良いわけではないが、水平線の目の前には敦賀半島や若狭湾、京都府の丹後半島、そしてさらに、鳥取県の海岸線の山々や山陰地方で最も高い伯耆大山(ほうきだいせん)らしき山、さらには島根半島付近が遠望できた。

 この日本海の光景を見ると、遥かはるかの古代の時代の、北九州の筑紫王国、出雲王国や丹後王国、そして越王国(越前)があって、海のルートでつながっていたこともうなづける。古代の時代の日本は、大陸とも近いこの日本海に臨む地域が倭国(日本)の表日本だったようだ。そして、中世・近世の時代には日本海を航行する「北前船」ルートが日本の海運の中心でもあった。幕末以降の明治時代となり、太平洋側が日本の表へと移り変わっていった。

 午前11時頃に実家を出て京都に向かう。琵琶湖湖北地方の水田の稲も黄金色に色づき始めていた。

■昨日8月23日付朝日新聞の書籍広告欄に、『老いの深み』(中公新書)黒井千次著が掲載されていた。「自身に起きる 変化と向き合い、現代の老いの姿や、その中にあるものを 丹念に描き続けて二十年—」「九十代の大台へと踏み入れた作家に 見えてきた風景」「次第に縮む散歩の距離、抜け落ちる暗証番号、なんでもない一歩にヨロケ、中腰に恐怖し‥‥—生きてみなければ、始まらない」などの書籍紹介の文。

 私も昨年の9月から12月頃、痛みで歩くことが辛くてたまらないことを強く経験した。もう70歳をすぎている私の老いの本格的始まりを自覚した。そして、この夏に実家で一人暮らしをする母の、93歳という年齢による老いの深みの進行‥。この書籍を買って読み、今、母に起きている「老いの深み」をもっと理解する必要を思う。そして、私にこれからより起きる老いのことも‥。

 一昨日の8月22日、私は72歳となった。老いの中での、72歳からの異国でのチャレンジでもある、中国での大学教員生活が再び、そして生活的にはけっこう辛い、孤独でもある一人暮らしのハードな中国生活が、また8月30日から始まる。二か月間ほどの、日本語で話せて人とコミュニケーション、人間関係がとれ、家族がいて友人がいて、出かけたいところに車や電車などで行けて‥、「幸せってこういうことか‥」というものをつくづく感じる、日本での一時帰国夏休みもそろそろ終わる。

 

 

 


故郷"南越前町"には、国指定の「日本遺産」「重要伝統的建築群」「重要文化的景観区」の全てがある町だった—わが家のある糠集落が「重要文化的景観区」に指定されていた

2024-08-19 06:36:48 | 滞在記

 私が生まれ育った実家がある福井県南越前町河野(こうの)地区の糠(ぬか)集落。現在は、150軒余りの家に約400人余りが暮らす越前海岸沿いにある集落だ。集落には村社である「十九社(じゅうくしゃ)神社」のほかに、もう一つの神社がある。実家から1分余りのところにある「松尾神社」。この神社は子供の頃は毎日の遊び場だった。

 この8月のお盆帰省の時に、孫の寛太と松尾神社に行くと、「重要文化的景観—越前海岸の水仙郷 糠の文化的景観」と書かれた目新しい看板が設置されていた。初めて見る看板だ。(※京都にある「松尾神社」は酒の神を祀る全国の総本山的神社。糠集落の松尾神社はその流れをくむ神社。)

 ■江戸時代から、特に明治時代になってから、ここ糠集落は京都の伏見や神戸・西宮・灘(なだ)に酒造工として秋から冬にかけて出稼ぎに行く人が多い集落だった。伏見や灘の清酒造りのこれら酒造工の故郷としては、「丹波杜氏」、「丹後杜氏」、「但馬杜氏」、そして「越前糠杜氏」などが、その中心的な故郷としてあった。私の寺坂一族は、祖父も父も、灘の「剣菱酒造」の杜氏(とうじ)まで登りつめた人だった。(※杜氏—その蔵の酒造最高責任者) 私も20代の時に、この剣菱酒造で蔵人(くらびと)の一人として働いたこともあった。糠集落の杜氏も蔵人たちも、3月下旬から10月上旬までは漁業に従事する人がほとんどで、10月中旬から3月下旬までは酒造りの仕事に行っていた。)

 江戸時代の忠臣蔵にも出てくる「灘の銘酒 剣菱」は、昭和初期から昭和時代の終わりまで、寺坂一族が剣菱を造っていたとも言えるかもしれない。私の祖父や父、そして、その一族などの系譜が、剣菱酒造にある御影藏、西宮藏など4つの蔵(工場)の杜氏(工場責任者)のほとんどを占めていた。

 その説明や写真などには、「越前海岸の水仙郷—日本水仙の三大群生地の一つとして知られ、群生面積は全国一を誇ります‥。」「糠の文化的景観—糠地区は、越前海岸の南部に位置します。海岸線に沿う越前断崖斜面地に広がる水仙畑が特徴です。山林が大部分を占め田畑が少ないことから、漁業や林業、養蚕などのほか海が荒れる冬の時期には杜氏(とうじ)の出稼ぎに出るなど、いくつものなりわいを合わせながら生活が営まれていました。‥‥水仙畑とともに、集落に残る社寺や杜氏の碑、滝などを、糠地区における人々の暮らしと歴史を理解する上で重要なものとして、‥」

 このお盆に帰省して初めて、わが故郷の糠集落が、「国指定 重要文化的景観区」として認定となっていたことを知った。

 京都に戻って「Yahoo Japan」や「You Tube」などで、この「国指定 重要文化的景観区」について見てみる。

 また、南越前町の広報なども見ると‥。「糠の文化的景観が国の重要文化的景観区に選定!—令和3年(2021年)3月、南越前町糠を対象区域とする"越前海岸の水仙畑 糠の文化的景観"‥‥‥が、福井県内では初となる重要文化的景観に選定されました。花の自生・栽培地の文化的景観としては全国初の選定となります。」と書かれてもいた。

 広報やYou Tubeの写真には、わが家の水仙畑と小さな小屋も掲載されていた。(※上記写真の左から4枚目)この「国指定 重要文化的景観区」は、全国で71箇所があるようだ。

 「山・海・里の南越前町」は、国指定の「日本遺産」(全国104箇所)、「重要伝統的建築群」(全国127箇所)もある。日本の文化庁が指定しているこのような指定・保存・修復の制度は、三つの指定制度からなっている。「日本遺産」「重要伝統的建築群」、そして「重要文化的景観区」。南越前町はこの三つがある町ということになる。

 南越前町には、「日本遺産」(※遺産が語るストーリーを通じて、我が国の文化・伝統を歴史的魅力や特色を‥‥[文化庁の説明より]。)に指定されている箇所が2箇所ある。一つ目は「海を越えた鉄道—世界とつながる鉄路のキセキ」と題された、旧北陸線の今庄—敦賀間の13箇所ものトンネル群だ。その中でも、今庄地区にある山中隧道(トンネル)は最も長く1170mもある。(※現在、車の通行は可能[1車線だが]。)

 そしてもう一つ、南越前町河野地区にも「日本遺産」に指定されている箇所がある。「河野北前船船主集落」だ。江戸時代から明治時代にかけて、北海道から本州や九州までの日本海ルートで荷物を運んだ「北前船」は、「動く総合商社」とも言われる。その「北前船」航路の重要な港の一つだったのが河野でもあった。現在、北前船船主であった船主たちの屋敷群が残る河野。(※中村家や右近家など)

 なかでも右近家は、日本海五大船主に数えられた船主で、全盛期には30艘余りの北前船を所有していた。屋敷の敷地内には現在も30余りの蔵がある。明治中期以降は、蒸気船の導入など、近代船主への脱皮に成功。日本の海運の近代化を進める他の北前船船主たちと共に、日本海上保険株式会社(現在の損保ジャパン日本興亜株式会社の前身)を設立し、その社長・会長職に就任した。屋敷の背後の山の中腹には、西洋館(国登録有形文化財)があり日本海が一望できる。(和風屋敷と洋館は拝観可能)

 そして、この右近家屋敷の背後の山は、前号のブログで記した河野城塞があったところでもある。

■福井県内には5箇所の「日本遺産」指定がある。そのうちこれまでに記した、南越前町が2箇所。他に、「越前町織田地区の越前焼の里(※日本五大古窯の一つ)」「小浜―熊川の鯖街道」「一乗谷、平泉寺、勝山城下などの石造り群」。

 南越前町今庄地区の宿場町・今庄は、国指定「重要伝統的建築群」となっている。

■福井県内には、三箇所の「重要伝統的建築群」がある。今庄宿の他には、「鯖街道の熊川宿」「若狭小浜の小浜西組」」

 

 

 

 

 

 


日本での"ゆく夏"を惜しむ—日本のお盆、そして日本の盆踊りの歴史とは‥

2024-08-17 21:18:08 | 滞在記

 8月13日(火)午後3時過ぎに、京都より福井県南越前町河野地区の実家にお盆帰省した。さっそく村の寺である円光寺の裏山にある墓地に行き、花を飾り線香をあげた。(※私が子供のころの1950年代から60年代、どの墓にもお供えのお菓子が置かれていた。それを子供たちが、夜になり取っていく[どの墓のものでもよい]のは、集落の大人たち公認の風習だった。私もそれを取りに行くのが楽しみだった。)

 この日の午後、京都に暮らす息子たち夫婦も南越前町の実家にやってきて、近くの浜に海水浴に。翌日の14日(水)の早朝6時過ぎに寺のお坊さん(檀家を一軒一軒と10分ほどで廻る)が家に来て仏壇で先祖(祖父母、父母など)の霊をしのぶ読経をしてくれた。(息子たちはこの日の午前中に飛騨高山に向かった。)そして、この14日の午後、これも京都に暮らす娘たち夫婦と3人の孫たちもやってきた。2日間で35個ほどのサザエもみんなで食べ合った。

 先祖である祖父母や父母も、1年ぶりにお盆の家に戻り、私の孫たちもにぎやかにしている光景を見て、喜んでいることかと思う‥。

 15日(木)の午前中、娘たち夫婦と孫たちは、実家から車で20分ほどのところにある日本海の杉津浜での海水浴に行くことになったので、場所案内でいっしょに行くこととなった。15日の昼食をみんなで実家でとり、午後3時頃に、私たち夫婦も娘たちや孫たちも京都に戻るため、実家を出発した。一人暮らしの義母(93歳)は、みんなが帰ってさみしくもなるので、私は中国に戻る8月30日までに、もう一度実家に帰省することにしている。

■この杉津(すいづ)浜のはしに、小さな岬のような風光明媚な小山が見える。そして、海の向こう側には敦賀半島が見える。美しい敦賀湾の日本海の景色だが、ここは戦国時代末期の1575年(天正3年)の8月~9月に戦場となった。織田信長軍約10万による越前一向一揆勢への侵攻だ。信長軍の本隊は敦賀から、一揆勢が立て籠もる木ノ芽峠城塞群を攻めたてた。そして、信長配下の羽柴秀吉軍や明智光秀軍らは陸路でこの杉津に向かう。別動隊は数百艘の軍船団を組み敦賀半島を廻りこの杉津浜に押し寄せた。小さな岬のような小山にあった、一揆軍が立て籠る杉津城塞はほどなく陥落する。

 南越前町河野地区のコンビニ(ファミリーマート)から見える海岸背後の山にあった河野城塞にも織田軍が侵攻し陥落した。これにより、河野地区から越前府中(現・越前武生市)に至る馬借街道と、杉津から越前府中に至る道を侵攻した織田軍は越前府中に至り、南越前町の木ノ芽城塞群や、今庄地区、南条地区に布陣していた一揆軍を背後からも攻撃、一揆軍は壊滅した。この信長軍の越前侵攻により、一揆勢の約4万人が戦死。3万~4万余りの人たちが奴隷として美濃や尾張に送られたと記録には記されている。

 450年ほど昔の話だが、今は風光明媚な杉津浜にも、このような戦場の歴史があった。8月15日のこの日、杉津集落でも夜の盆踊りの準備が行われていた。16日夜には、この杉津浜からもよく見える敦賀の花火大会、そして海への精霊流し(※先祖をあの世に再び見送る。)が行われる。

■私の実家のある南越前町河野地区の糠(ぬか)集落でも、15日の夜に、村の寺の円光寺の小さな境内で盆踊りが行われる。私が子供の時代は、この盆踊りに合わせてテキ屋の露店が数軒出て、盆踊りに楽しみを添えていた。日本全国どこでも見られる光景だった。

 この日本の盆踊り行事の歴史—平安時代の僧侶である空也(くうや)上人(※京都[平安京]で六波羅蜜寺の開祖となる。日本全国を行脚し、南無阿弥陀仏[阿弥陀仏に私のすべてをゆだねます、敬い祈りますの意味]の念仏を広めた。そして、この空也上人を深く敬っていた鎌倉時代中期の僧侶である一遍(いっぺん)上人(「時宗(じしゅう)」という浄土宗の一派の開祖とする。名号[念仏]の南無阿弥陀仏を拠りどころとし、この念仏を唱える踊り念仏を全国に広めた。)

 1299年頃に書かれたとされる「一遍上人絵巻」には、日本全国を行脚しながら各地で踊念仏を披露する時衆(じしゅう)の僧侶たちが描かれている。(※「時衆」は江戸時代になり「時宗」と言われるようになる。)

 室町時代に入り、この時宗の踊り念仏をルーツとして、全国各地で「先祖の霊を再びあの世に楽しく見送る」ための盆踊りへと変容し始めた。それぞれの地域で、衣装や踊りへの工夫、発展がされ。特に江戸時代になると、稲の豊作への祈りや、男女の出会いの要素も加わり盆踊りは、庶民の楽しみとして大きく広がり、全国各地でそれぞれ特色のある「盆踊り」へと発展していった。

 現在、「日本三大盆踊り」として有名なものは、①岐阜県郡上八幡町の「郡上踊り」、②徳島県徳島市の「阿波踊り」がある。

 そして、盆踊りの本来の意味合い(目的)である「先祖供養・先祖を楽しませる・先祖を見送る」という要素が最も強く残しているのが➂秋田県羽後町の「西馬音内(にしもない)踊り」。黒い「彦三頭巾(ひこさずきん)」を被り踊る人たちは亡者の姿を表している。盆に戻ってきた霊(亡者)と一緒に踊り楽しむという盆踊りの目的を表現し、幻想的な雰囲気の中で盆踊りが行われている。

 8月16日、京都では「五山の送り火(大文字焼き)」が執り行われた。東山36峰の一つである如意ケ嶽近く大文字山の「大」に午後8時に一斉に点火され、北山連峰の「妙法」「舟型」「左大文字」、そして西山連峰の「⛩(鳥居)」へと、西方浄土に向けて送り火が次々に点火されていき、亡者の霊を西方浄土へと見送っていく。もし、とても身近な人がこの京都の地で亡くなっていたら、その人のことを思いながら、この「五山の送り火」を見送ることになるのだろう…。

 私は学生時代の3回生・4回生時代に、この如意ケ嶽や大文字山の大の字の麓にある銀閣寺隣の下宿に暮らしていた。下宿の大家さんの阿尾さんは、当時、「大文字保存会」の会長をしていたので、送り火の時に使用する大量の薪(まき)運びを、地区の人たちとともに手伝いをすることを頼まれたので、大の字のところまで山道を登って運んだこともあった。大文字の送り火当日には、友人たちとともに一升瓶の清酒をもって大の字まで山を登り、午後8時に点火され燃えていくさまを眺めながら酒を酌み交わしていた。赤々と炎が燃え上がるので、付近は熱くもあったが、壮大な光景で、眼下の京都市内の街の灯りが美しかった。

(※当時は、一般の人たちも、当日の夜に山に登り送り火を見ることができた。浴衣姿で来ている女性もけっこう多かった。現在は、一般人の当日立ち入りはできないようだ。まあ、酒が入った状態で、山を下りるのはちょっと危険ではある。)

  日本のお盆のような風習・行事は中国では4月上旬の「清明節(せいめいせつ)」。中国の四大伝統的祝日の一つである。(他に、6月の「端午節」、9月の「中秋節」、そして1月~2月の「春節」がある。)  中国の「清明節」は日本のお盆のような感じというよりも、日本の「春のお彼岸」や「秋のお彼岸」に似ている感じだ。

   秦の時代から始まったとされる「清明節」では、家族が集まって墓に参り、花を飾り線香をあげる。そして、あの世で暮らす先祖が生活に苦労しないように、お金を墓の前で燃やす。(※お金は本物ではない、模造紙幣。)  この清明節に食べられるのは「草餅(くさもち)」。(※「端午節」では「粽(ちまき)」、「中秋節」では「月餅(げっぺい)」、「春節」では「餃子(ぎょうざ)」が、それぞれ食べられる。)

 日本では、春分の日に「春のお彼岸」、秋分の日に「秋のお彼岸」が行われる。この年に二日間の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日となる。真西に亡者が暮らす「西方浄土」があるので、この二日間が「お彼岸」となる。「彼岸(ひがん)」とは「西方浄土」の地のことだ。つまり、春分・秋分の日は、あの世とこの世が最も近くなる日と考えられるようになった。

 8月13日付朝日新聞には、「パリ五輪閉幕—有観客・市民参加、祝祭感再び—息づく敬愛、見えた救い」「世界の今 映した祭典―街で選手と触れ合い28万人」「共生の夢つなぐ」「次にロス—任務完了、トム・クルーズら引き継ぎ式に登場」などの見出し記事が掲載された。

 2020年1月から始まった新型コロナウイルス感染の世界パンデミック。それによりこの年開催予定の東京五輪は1年延期された。21年の東京五輪は開催を巡って日本社会の世論が割れた。おそらくこの70年間余りで、これほど国民世論が割れて国民分断が起きたのは日本社会では初めてだったように思う。2022年の北京冬期五輪でのロシアのドーピング問題、そして閉会直後から始まったロシア(プーチン大統領)によるウクライナ侵略戦争は今も続く。さらに今年に入ってのハマスによるイスラエル襲撃と200人余りの人質収奪、それに対するイスラエルのハマスが支配するガザ地区への攻撃戦争も今も続く。

 2020年1月からパリ五輪が開始された2024年7月までの約4年と7カ月間は、世界は分断と対立や緊張が深まるばかりの出来事が多すぎた。そして、パリ五輪は、そんな世界に一筋の光明や希望というものを見せてもくれた。そんなパリ五輪開会中の17日間だった。

 同じく13日付朝日新聞には、「イラン報復 数日内か」の見出し記事。ハマスの最高指導者がイランで暗殺され、それに対するイランのイスラエルへの報復攻撃が近々に起きると予測されている。

 パリ五輪で女子団体卓球で中国と決勝を闘い、銀メダルとなった日本のエース早田ひな選手(個人では銅メダル)。五輪が閉幕してからの13日の帰国インタビューで、「帰国後に何がしたいか?」と質問を受けた時に、早田選手は「アンパンマンミュージアムに行きたいのと、鹿児島の知覧にある特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と答えた。(※政治的な意図はまったくないようだ。)

 世界では戦争や紛争地域があるものの、日本では戦争のない平和な時代にアスリートとして活動ができている意義を再確認したいという"深い発言"だったが、中国での受け取り方は違っていた。バリ五輪でお互いの健闘をたたえ合った中国女子卓球代表の孫穎莎選手や中国男子卓球代表の樊振東選手が、この早田選手の発言後、早田選手の微博(ウイチャット)からのフォローを外すなど、日中間の歴史認識の違いによる問題が起きてきている。

 8月8日から13日までの6日間余りの間に、日本列島南近海の太平洋上で台風5号、6号、7号、8号の四つもの台風が次々と発生した。そして、今日の17日には大型台風7号が関東地方に最接近している。今年の過去最高の夏の高温(35℃以上が連日続く)で、8月に入り日本近海の太平洋で台風が大発生している今年の猛暑日の夏。

 その夏も徐々にだが過ぎていくのだろう。ゆく夏を惜しむ‥。8月30日に中国に戻る日まであと、10日間あまりとなった。暑すぎる日本でもあったが、惜しむ日本での夏‥。