昨年の10月頃に、『若冲』(澤田瞳子著)を読んだ。それまで、伊藤若冲に関しては「変わった奇抜な絵画を書いていた江戸期の人だが、最近は人気が高まっている」ということぐらいしか知らなかった。読み進めていくと、読むことがとまらなくなるほど、若冲という人と彼の絵画についての強く興味を惹かれた。これを執筆した澤田瞳子さんは、40才くらいとまだ若い人だった。「あの若冲の絵はどうして生まれたのか!?」を小説として述べた作品だ。澤田さんは同志社大学を卒業しているが、この大学に隣接している大寺院が若冲とかかわりの深い「相国寺」でもある。このことも澤田さんが若冲に若い頃から関心をもったきっかけだったからかもしれない。この『若冲』は、第153回直木賞の候補になった。また、2015年時代小説ナンバー1にもなっているようだ。
書籍の裏表紙には次のように書かれていた。「京は錦高倉市場の青物問屋枡源の主・源左衛門—伊藤若冲は、妻を亡くしてからひたすらに絵に打ち込み、やがて独自の境地を極めた。若冲を姉の仇と憎み、贋作を描き続ける義弟・弁蔵との確執や、池大雅。与謝蕪村、円山応挙、谷文晁らとの交流、また当時の政治的背景から若冲の画業の秘密に迫る入魂の時代長編。」
—伊藤若冲—本名・枡屋源左衛門は1716年に京都錦市場の青物(野菜)を取り仕切る大店の長男として生まれた。八代将軍徳川吉宗政権ができたころである。23才で父より家督を継ぎ、40才で弟に店を譲り隠居、85才で死ぬまで絵を描き続けた。京の台所と呼ばれる錦市場は、昨今は外国人観光客がたくさん訪れる場所ともなっている。「枡源」という店名の漬物屋さんもある。2016年が生誕300年にあたり、東京上野や京都で展覧会が開催され、「ただ今 320分待ちとなります」など、この展覧会は大好評だったようだ。
大学の冬休みで日本に帰国している時期、ここ京都の三寺院と三井家別邸の4箇所で伊藤若冲の絵画が公開されていることを知り、中国に戻るまでに折りをみて実際の若冲の絵を見てみたいと思った。その三寺院とは、「相国寺」「建仁寺両足院」「宝蔵院」、そして「三井家鴨川別邸」であった。
「京の冬の旅—京都にみる日本の絵画—近世から現代」のパンフレット表紙に若冲の鶏の絵があった。パンフレットには、この冬の時期の京都のいくつかの寺院で絵画を公開しているようだった。建仁寺両足院(建仁寺筆頭塔頭)では、長谷川等伯や若冲の絵が公開されていると記されていた。
中国戻る前日の2月21日(木)の午後、祇園に買い物に行った際、近くの建仁寺に行くことにした。建仁寺の北門を入ると、中国からの観光客で和服を着ている美しい女性の姿。着物に合わせて髪を日本髪に結っていた。日本髪にすると女性の襟元がとても美しく見える。このような日本髪をしている人は、6年近い中国生活では見たことがない。日本の着物(和服)をレンタルするときに、髪も結いなおしているようだ。
建仁寺の本堂からほど近い所に、「茶苑」があって説明が記されていた。日本で茶の栽培を初めて行ったのは「栄西」、栄西禅師は2度にわたって中国に渡り、日本帰国の際に「茶の種」を日本に初めて持ち帰ったとされる。1192年に『喫茶養生記』を著し、「日本の茶祖」とされる。「茶は養生の仙薬なり 茶は延齢の妙術なり」とは栄西の言葉。当時、茶の喫茶は養生の薬と考えられていたようだ。1202年に建仁寺を建立し開祖となり、寺院には茶苑(畑)をつくり栽培を始めたという。日本での茶栽培の始まりとされる。今も建仁寺では小さな茶畑があり、生垣などにも茶ノ木が多く使われていた。
両足院に向かう。廊下通り中庭や庭園を見る。塔頭だけあって庭園もなかなか大きい。さまざまな部屋に絵画が置かれていた。絵画の撮影は禁止で、各部屋には 絵画を守る人がいた。長谷川等伯の「竹林七賢人」の襖絵もあった。伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」のある部屋に行った。掛け軸にその絵はあった。それほど大きなものではないが、しばらくその小作品に見惚れた。私は長谷川等伯の絵などが大好きだが、今まで見た伝統的な日本画にはないものを感じる。
◆江戸期の絵師を描いた時代小説として、長谷川等伯を描いた『等伯』(安部龍太郎著)と小林一茶(俳人であり絵師)を描いた『一茶』(藤沢周平著)も面白い。絵師である等伯・若冲・応挙などなど、商人が財力と力をつけブルジョワジー的になってきた江戸中期は日本版ルネサンスの時期でもあったような感もある。