彦四郎の中国生活

中国滞在記

奇想の画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)のこと❶京都の三寺院と三井家別邸で若冲を観る

2019-02-28 10:12:46 | 滞在記

 昨年の10月頃に、『若冲』(澤田瞳子著)を読んだ。それまで、伊藤若冲に関しては「変わった奇抜な絵画を書いていた江戸期の人だが、最近は人気が高まっている」ということぐらいしか知らなかった。読み進めていくと、読むことがとまらなくなるほど、若冲という人と彼の絵画についての強く興味を惹かれた。これを執筆した澤田瞳子さんは、40才くらいとまだ若い人だった。「あの若冲の絵はどうして生まれたのか!?」を小説として述べた作品だ。澤田さんは同志社大学を卒業しているが、この大学に隣接している大寺院が若冲とかかわりの深い「相国寺」でもある。このことも澤田さんが若冲に若い頃から関心をもったきっかけだったからかもしれない。この『若冲』は、第153回直木賞の候補になった。また、2015年時代小説ナンバー1にもなっているようだ。

 書籍の裏表紙には次のように書かれていた。「京は錦高倉市場の青物問屋枡源の主・源左衛門—伊藤若冲は、妻を亡くしてからひたすらに絵に打ち込み、やがて独自の境地を極めた。若冲を姉の仇と憎み、贋作を描き続ける義弟・弁蔵との確執や、池大雅。与謝蕪村、円山応挙、谷文晁らとの交流、また当時の政治的背景から若冲の画業の秘密に迫る入魂の時代長編。」

 —伊藤若冲—本名・枡屋源左衛門は1716年に京都錦市場の青物(野菜)を取り仕切る大店の長男として生まれた。八代将軍徳川吉宗政権ができたころである。23才で父より家督を継ぎ、40才で弟に店を譲り隠居、85才で死ぬまで絵を描き続けた。京の台所と呼ばれる錦市場は、昨今は外国人観光客がたくさん訪れる場所ともなっている。「枡源」という店名の漬物屋さんもある。2016年が生誕300年にあたり、東京上野や京都で展覧会が開催され、「ただ今 320分待ちとなります」など、この展覧会は大好評だったようだ。

 大学の冬休みで日本に帰国している時期、ここ京都の三寺院と三井家別邸の4箇所で伊藤若冲の絵画が公開されていることを知り、中国に戻るまでに折りをみて実際の若冲の絵を見てみたいと思った。その三寺院とは、「相国寺」「建仁寺両足院」「宝蔵院」、そして「三井家鴨川別邸」であった。

 「京の冬の旅—京都にみる日本の絵画—近世から現代」のパンフレット表紙に若冲の鶏の絵があった。パンフレットには、この冬の時期の京都のいくつかの寺院で絵画を公開しているようだった。建仁寺両足院(建仁寺筆頭塔頭)では、長谷川等伯や若冲の絵が公開されていると記されていた。

 中国戻る前日の2月21日(木)の午後、祇園に買い物に行った際、近くの建仁寺に行くことにした。建仁寺の北門を入ると、中国からの観光客で和服を着ている美しい女性の姿。着物に合わせて髪を日本髪に結っていた。日本髪にすると女性の襟元がとても美しく見える。このような日本髪をしている人は、6年近い中国生活では見たことがない。日本の着物(和服)をレンタルするときに、髪も結いなおしているようだ。

 建仁寺の本堂からほど近い所に、「茶苑」があって説明が記されていた。日本で茶の栽培を初めて行ったのは「栄西」、栄西禅師は2度にわたって中国に渡り、日本帰国の際に「茶の種」を日本に初めて持ち帰ったとされる。1192年に『喫茶養生記』を著し、「日本の茶祖」とされる。「茶は養生の仙薬なり 茶は延齢の妙術なり」とは栄西の言葉。当時、茶の喫茶は養生の薬と考えられていたようだ。1202年に建仁寺を建立し開祖となり、寺院には茶苑(畑)をつくり栽培を始めたという。日本での茶栽培の始まりとされる。今も建仁寺では小さな茶畑があり、生垣などにも茶ノ木が多く使われていた。

 両足院に向かう。廊下通り中庭や庭園を見る。塔頭だけあって庭園もなかなか大きい。さまざまな部屋に絵画が置かれていた。絵画の撮影は禁止で、各部屋には 絵画を守る人がいた。長谷川等伯の「竹林七賢人」の襖絵もあった。伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」のある部屋に行った。掛け軸にその絵はあった。それほど大きなものではないが、しばらくその小作品に見惚れた。私は長谷川等伯の絵などが大好きだが、今まで見た伝統的な日本画にはないものを感じる。

 ◆江戸期の絵師を描いた時代小説として、長谷川等伯を描いた『等伯』(安部龍太郎著)と小林一茶(俳人であり絵師)を描いた『一茶』(藤沢周平著)も面白い。絵師である等伯・若冲・応挙などなど、商人が財力と力をつけブルジョワジー的になってきた江戸中期は日本版ルネサンスの時期でもあったような感もある。

 

 


京都より1カ月あまり季節の移ろいが早い福州―大学から夜に帰ったら電気が止められていた

2019-02-26 20:29:40 | 滞在記

 2月25日(月)、大学の後期授業が始まった。7月5日(金)までの4カ月半あまりが後期日程期間となる。今週前半の気温はまだまだ寒いが後半からは少し気温も上がり20度くらいになりそうだ。月曜日は午後の5・6・7・8時間目が2回生の担当授業があるので、昼前にアパートを出て大学に向かう。アパート近くの福建師範大学バス停には、オレンジ色の亜熱帯植物の花が、蔦(つた)のように咲いていた。

 2カ月近くぶりに大学に行くと、大学構内の落葉樹や針葉樹などは、まだ寒々としているが、白や紫の「木蓮」の花が咲き始めていた。

 自分の研究室(部屋)のある福万楼に向かう途中、水辺にはピンクの桃の花がすでに咲いていた。白い花を咲かす桃の花もある。

 福建省の泉州という歴史的な街の街路樹に多い刺桐(さしきり)という樹木のオレンジの花も咲き始めていた。これも亜熱帯植物だ。毎年驚くのだが、ツツジの花が2月下旬ごろから開花し始める。蓮華(れんげ)の花も開花を始めていた。あと2週間もすればこの広場は一面の蓮華でピンク色に染まる。紫色のスミレも開花し始めている。

 日本の京都は1カ月後の3月26日が今年の桜の開花予想だが、ここ亜熱帯地方の中国・福州(沖縄県の那覇市と同じ緯度)は、日本の京都よりも1カ月あまり春への季節の移ろいが早いように花々を見て思う。でも今はまだ、厚着とマフラーやホカホカカイロがほしい気温だ。

 午後2時から始まったこの日の担当授業は午後5時半に終了した。授業後に、真面目な男子学生が質問をしにきたのに付き合ってしばらく教室で話す。この学生に、進路のことを訪ねたら、卒業後は広島大学の大学院に進みたいとのこと。彼の身長は大きく185cmはあり体格もかなり立派。両親は内モンゴルの出身だという。だから彼の祖父母は内モンゴルに住んでいるので、夏休みや冬休みは内モンゴルに行くという。顔つきも体つきもモンゴル民族そのものである。

 教室の大型パソコン機器の鍵を返却して、図書館の方に向かうとその前庭広場には、春節用の赤い提灯がたくさん 高く吊り下げられていた。40〜50ほどの赤いテントが設営されているので「何だろう?」と行ってみると、さまざまな企業や会社の「就職説明」のブースだった。午後6時ころになったが、まだ少し日が明るい。日が長くなってきた。

 大学正門(南門)までレンタル自転車で向かう。始発バス停からバスに乗り、途中乗り換えのバスに乗る。帰宅時間なので乗客でいっぱい。立っていると、20才前くらいの若い男の子が席をゆずってくれた。

 「師範大学バス停」で下車し、アパート近くに近づくころは完全に日がとっぷりと暮れた。午後7時30分ころだが、二車線の生活道路の両脇に車がずらっと縦列駐車しているので、通行する車がすれ違いができず大混乱している。夜になるとこの光景は毎日のことだ。(※中国では、車を購入する際に、日本のような駐車証明を要求されないので、生活道路の朝や夜は付近の住民たちの自家用車がいたるところに早いもん勝ちで駐車されている。) 近くの果物屋でバナナの房を買う。

 エレベーターで8階に上がり ようやくアパートの部屋に着いた。ドアを開けて、ドアに近い電気のスイッチを押すが電気がつかない。「あれ、電球がきれたのかな?」。室内に入り、いろいろな電灯のスイッチを押すが全てつかない。私の部屋だけ電気がつかないようだ。ブレーカーも異常がない。しかたなく、エレベーターで1階に降りて、アパート棟と地下にある場所の自分の部屋の「電源スイッチ」に異常がないか電灯を照らしてみた。ここも異常がない。どうやら大学に行っている間に、電気そのものを電気会社から止められたようだ。

 止められた理由は、「電気料金」の未払い状態が一定期間を過ぎているためだろう。大学の外事所の副所長の鄭さんに電話をした。毎月の電気料金や水道料金は、彼が支払いをすることになっている。おそらく、支払いをしていなかったと思われる。電話でそのことを伝えると、「あっ!この2カ月間、支払いをしていません。すぐに携帯電話アプリから支払いますよ!」とのこと。

 真っ暗な部屋で、夕食も作れないので、買ってきていたバナナを夕食とし、何もできないので、いちおう室内の電灯スイッチをON状態にして、8時過ぎに早々に布団に入って早く眠ることとした。電気は朝までには回復してくれるといのだが…。不安があるためか深夜の1時ころに目が覚めてしまい、20分間ほど眠れずにいると、「バチツ」という音がして電灯が一斉につき始めた。「よかった!!!回復した!!!」。ようやく安心して眠りについた。

◆前号のブログで、洋館について「1550年代以降」としていましたが、「1850年代以降」の間違いでした。訂正します。

 

 

 

 

 


春節や元宵節が終わった中国―沖縄と同じ種類の桜が満開になっていた

2019-02-26 09:19:06 | 滞在記

 2月22日の深夜というか23日の早朝深夜というか、23日の午前1時半頃に日本より中国のアパートに戻った日の夕方、アパートの部屋を出て団地の入り口ゲートをくぐると、濃いピンクというか赤というか、満開の桜が目にとびこんできた。これは沖縄に2月に咲く桜と同じ種類の桜だ。名前はたしか「小ヒガン桜」だっただろうか。

 今年の中国の春節は2月5日から始まって、15日後の2月19日が元宵節(げんしょうせつ)だった。日本では小正月(1月15日)とよばれた元宵節をもって春節の正月期間が終了する。春節期間は赤い提灯が中国全土で飾られ、元宵節の夜にはランタンが飾られる。中国に戻って2日目の24日(日)、食料の卵やソーセージやパン、そしてタバコなどを買うために歩いて20分ほどのスーパーマーケットに出かけた。途中、ちょっと 脇道の路地の道を通ってスーパーに向かった。春節や元宵節の名残の赤提灯がたくさん飾られている。このあたりの地区はは1550年以降に作られた洋館も多い。洋館が多く残る路地にも赤提灯が並ぶ。

 洋館だったところを住まいにしている家々の小さな門には、赤提灯と赤い祝いの言葉が書かれた紙が貼られている。

 路地の交差点あたりでは、混沌とした街並みに露店が並ぶ。中国に帰って来たことを実感する。混沌・雑然とした雰囲気は中国の下町そのものだ。スーパーに着き、卵とソーセージだけを買う。この日は日曜日の夕方とあって、広い大型スーパーはたくさんの人で埋め尽くされていた。翌日の25日から中国の多くの大学や専門学校では後期授業が始まる。このスーパーの周辺には、大学や専門学校がとても多いの。この日に故郷から戻って来た学生たちもスーパーに買い出しに来ている。10箇所くらいあるレジには、1箇所のレジにつき30人くらいが並んでいたので順番待ちをする。

 スーパー近くの路上には50軒くらいの露店が並んでいた。まだ冬なのだが、もうすでに、私の大好きなパイナップルが売られていた。皮を剥いたものを1個買った。値段は8元(約130円)と安い。隣の露店では 早くもスイカが売られていた。

 中国ではここ3〜4年だろうか、刺青(いれずみ)をする若い人が激増してきた。私が教えている女学生にも少数いる。多くは腕の一部にちょっとした刺青をしている者が多い。いわゆる「ちょっとタトゥー」。全身刺青をしている者もあるが、これは日本と同じように、「怖い人」と見られる。刺青屋の隣の店は「炭火蛙鍋」など「蛙料理」を売り物にしている。食用ヒキガエル(牛蛙)はスーパーの鮮魚・肉コーナーでもよく売られている。

 平日の朝夕の通勤通学時刻には、渡ることが命がけとなる交差点に行き、近くのいきつけの便利店でタバコを4カートン(40個)買う。これは1日4箱を吸うので10日間分となる。

 午後6時ころ日が暮れてきた。気温は10度くらいまで下がってくる。中国風「おでん」の店があった。日本のおでんとよく似ている。寒いのでちょっと食べたくなる。アパートへの帰路、パン屋で食パンを買い、近所の小さなスーパーや果物店で、野菜や果物などを買って帰った。何もなかった冷蔵庫が、かなり食品で豊かになった。さあ、明日から大学の授業が始まるので久しぶりに大学に行くことになる。

 1月6日に日本に帰国するまで、中国の路上に歩けないくらいにたくさんあった各社の「レンタル自転車」が激減していて、見つけることがちょっと難しくくなっていた。ここ2〜3年間、中国社会を怒涛していた「レンタル自転車」だが、この変化の速さというか、いかにも中国社会という現実を見る。日本では10年ひと昔というが、中国では2年ひと昔ということになる。

 

 


春がもうすぐという季節を感じ始めた日本—深夜に中国に戻るが、タクシーでの とても心配した体験

2019-02-24 22:28:59 | 滞在記

 中国に再び戻る前日の2月21日(木)、娘からの子守の連絡依頼があったので、午前中だけということで娘の家に向かった。京阪電車の終点「出町柳駅」で下車し、鴨川デルタの川原を眺める。シラサギが水量の少ない川を歩いている。川の土手には木瓜(ぼけ)の可愛い花の蕾が膨らみ、春近しを思わせる。藪椿の赤がとても美しい。

 出町柳駅近くの小さな寺の桜の蕾はまだ固いが、1カ月あとには開花するのだろう。今年の京都の開花予想は例年より少し早く3月26日頃のようだ。寺の門に「今を生きる 過去が生きている今 未来の蕾でいっぱいな今」という言葉が書かれていた。もう一つの小さな寺の木蓮の蕾が膨らんでいた。あと2週間くらいで開花しそうだ。この寺の門には「梅花 寒さを凌ぎ 自ずから 開く」と書かれていた。厳しさのある中国生活を思うと、これらの言葉が心にすっと入ってくる。 

 午前中の子守をおえ、娘や孫たちに別れを告げて、銀閣寺近くからバスに乗り京都の四条大橋に行く。四条大橋から北の丹波山系(北山連山)を眺める。冠雪している最も高い山の向こうは、妻の故郷の京北町山国地区だ。四条大橋を南に鴨川沿いに歩いて行くと、低い垣根樹木の葉をくりぬいて 丸いシェルターのように ねぐらのようなものが作られていた。入口には生活ごみが置かれていた。寒い寒い冬の夜、ここで寝泊まりしているルンペンの人がいるのだろう。「寒いだろうな」と思う。近くには春近しを告げる沈丁花(じんちょうげ)の花があり、蕾がかなり膨らんでいた。

 4月1日から京都の花街の踊りが始まる。祇園の「都おどり」、宮川町の「京おどり」、そして上七軒の「北野をどり」のポスターが貼られていた。「春爛漫」の京都の4月はことに美しいが、今年も京都の桜は見ることができない。「にほんしゅで かんぱいして おくれやす」の小さなポスターもその横に貼られていた。

 祇園周辺で、中国に持ち帰る土産物や自分が中国で食べる漬け物などをさがす。大学の日本語学科の中国人教員は全員が女性なので、結局、「京都よーじや」で何点かを買う。店先には木蓮やツバキや桜など、3月の花々が生けられていた。漬け物は、村上重商店で「しば漬」を買った。

 自宅近くの家に、紅梅と白梅が満開となって咲いている。自宅に帰り、中国に戻るための荷物作りを始めた。翌日の22日(金)の午前中に郵便局に行き、中国へのEMS便を1箱郵送した。中国生活で食べる日本の食品がいろいろ入っている。午後2時すぎに家を出て関西国際空港に向かう。中国厦門(アモイ)航空の飛行機便の出発がかなり遅れ、出発は2時間遅れの日本時間午後8時30分となった。

 中国福州の空港には、日本から3時間以上かかって、中国時間午後11時すぎ(日本時間午前0時すぎ)に到着。顔照合や全ての指の指紋照合など入国審査が一段と厳しくなってきている中国。荷物検査場所で最も大きなカバンを開けるように告げられ調べられた。長時間の入国審査がようやく終わり、空港から空港リムジンバスに乗り1時間あまりで福州市内へ到着。すでに中国時間午前1時になっていた。    

 福州は弱い雨が降っていて、かなり寒い。リムジンバスの停留所付近には、白タクやタクシーの運転手が この時刻でも待ち構えていて乗車を誘う。タバコを吸いながら、ほとんどの客がいなくなったあと、客を勧誘しそこねたタクシーの運転手が近づいてきて勧誘するのを待つ。そうしていると一人の運転手が近づいて「どこまで行くのか?乗らないか?」と勧誘してきた。行先を告げて値段交渉に入る。「50元(約800円)でどうか」と運転手が言う。「高すぎる40元が相場だ」と返すと、「この遅い時間だからしょうがないだろう」と運転手。人のよさそうな運転手だったので、「まあ、わかった乗るよ」と私。この後が、「荷物がとても心配なかたちで、深夜に乗車するはめに」なってしまった。顛末は次のようなことだった。

 大きな荷物(キャリーバック)が一つと小さな荷物(キャリーバック)が一つを小型タクシー(上記の写真のタクシーと同型)のトランクルームに運転手が詰め込むためにトランクを開けると、すでにキャリーバックが一つ入っていた。私の大きい方のキャリーバックは、こ一つだけを横に入れれば半開きでなんとか入るくらい大きい。運転手は、これを縦に突っ込んだ。さらに小さいほうのキャリーバックも縦に詰め込んだ。半分以上トランクからはみ出している状態で、トランクの上部は45度に跳ね上がってる。

 これで走ったら途中でバックは必ずすぐに落ちることは必然だった。私が「この大きな方は、後部座席に入れて乗り込むよ。落ちるだろう。」とバックを持って後部座席に移そうと、ドアを開けたら、すでに乗客が一人後部座席に乗っていた。相乗りをさせて走るつもりのようだった。そこで、「私はこのタクシーには乗りません。荷物バックが落ちるよ」と荷物を取ろうとしたら、「だめだめ」と力ずくで荷物を移動させようとさせない。そこで運転手は「秘密兵器」のようなゴムバンドをトランクに付けて、バックが落ちにくい工夫をし始めた。「これで大丈夫だろう」というそぶりを見せる。

 やりとりに疲れてしまい、時刻も時刻なのでついに乗車をしてしまった。アパートまで20分間くらいで到着するが、途中、バックが落ちないか心配のしどうしだった。運転者がタバコを吸い始めて、私にも勧めてくれたので、吸うこととなった。一言も言葉を発せず、男か女か分からない後部座席の乗客には申し訳ないが タバコは気分を落ち着けてくれた。

 アパート近くに停車した。荷物は落ちていなかった。ある意味「よく落ちなかったものだ」と感心した。後部座席の客を見てみたら、若い女性客だった。運転手は「ありがとう」と機嫌よく挨拶をして走り去っていった。アパートの部屋に着いたらもう午前1時半(日本時間午前2時半)をまわっていた。1カ月半ほど留守にした部屋は、料金支払い不足で電気や水が止められていないか一抹の不安があったが、電気も水も大丈夫だったので胸をなでおろした。寒い部屋の中だが、ベットの布団で暖をとり、午前2時(日本時間午前3時)ころに、眠りについた。長い一日となった。

 翌朝、ものすごい爆竹の音で目が覚めた。アパートの窓の下を見ると、結婚式の披露宴に出かける新郎の出発を祝う爆竹だった。向こうのアパートの1階の出入り口から赤いじゅうたんがずっと敷かれていて、出迎えの車は赤い造花で飾られていた。時計を見ると午前9時になっていた。眠って少し疲れがとれていた。再び中国生活が始まった。

 

 

 

 


子守の手伝いをし孫たちと過ごす—京北町に妻の母や姉たちなどを訪ねる—中国の子育ては祖父母

2019-02-24 13:53:42 | 滞在記

 中国に戻る日が5日後に迫った2月17日(日)、妻の故郷である京都市京北町に妻と共に向かった。この日は京都マラソンのため午前8時30分から市内の交通規制が全域に始まっていたため、京都縦貫自動車道路を利用して、長岡京市・亀岡市を通過し、南丹市の八木で自動車道路をおりた。大堰川(保津川)に架かる橋あたりの土手から丹波三大山城の一つ「八木城」がある山塊が望める。進路を東にとり、峠のある神吉の集落を通り、狭いくねくねの丹波の山道を京北町に向かった。

 昼前に妻の実家(京北町山国地区)に到着し、鍋料理を作り、妻の兄や母とともに一緒に食べた。妻の母は90才代のはじめ頃だが、昨年の11月、京都八坂神社の階段で転んだ際に大腿骨を骨折してしまい、手術とリハビリのために3カ月近く京都市内の病院で生活をしていた。2月の10日頃にようやく退院し、自宅で療養している。

 家の近くの南方角に、京北町と京都市内を隔てる山々が見える。最も高い山には冠雪が見える。この山は、京都市内の三条大橋や四条大橋から望むことができる山だ。パラグライダーが4つ飛んでいた。近くの低い山(天童山)の山頂にはパラグライダーの滑走場所がある。天童山に連なる山には、戦国時代末期の1550年頃につくられた日本の典型的な山城である「中江城」の人工的な階段状曲輪遺構や切岸や堀切などが見られる。山城とするには、とても適した山容をしているし、沢には水も流れているので水の補給もしやすい。

 (※日本に3万箇所以上あると言われる山城。そのほとんどは石垣はなかった。「城」という漢字が示すように まさに「土」から「成」る城である。山城に関する知識がないと、これが山城の遺構だと言われても一般にはちょっと気づきにくい。この中江城の山城の存在も、地元の人たちはほとんどが知らない。)

 昼食後、妻が母を連れ出して一緒に散歩にでかけた。杖は用心のために必要だが、リハビリ訓練の成果もあり、一人でもかなり歩行ができるようになってきていた。家の近くの小川には枝垂桜の木が何百メートルにわたって植えられている。鹿の糞がいっぱいに落ちている。このあたりは鹿が多く、広くたくさんの墓が並ぶ墓地にも夜に来て、お盆の献花などは2〜3日で食べつくされる。

 近くの妻の姉夫婦の家にも立ち寄って、しばらく過ごした。雛祭りが飾られていた。妻の姉からは、外国人の拘束が続く中国での生活をくれぐれも気をつけるように、そして早く日本に完全帰国しておいでと告げられる。こう言って心配してくれることはありがたいことだ。最近は、友人の山本君からも同じことを告げられもした。心に留意したい。

 昨年の12月26日に第二子を出産した銀閣寺近くに住む娘の家に行き、子守の手伝いをすることも2月以降はよくあった。娘から「お父さん、明日、家に来てくれへん」と前日に電話がかかる。第一子の孫「栞(しおり)」と娘が近くの幼稚園(保育園)で1週間に一度の入園体験をするために家を出かけたりする時に、生後1カ月を少しすぎた「遥(はるか)」を家で子守をすることとなる。

 週に2回あまり子守の手伝いに行っていた。おかげで、生後間もない赤ちゃんのあやし方も少しわかってきた。生後2カ月が近づくと表情にも大きな笑みが出るようになってきた。おしめの替え方も少し慣れてきた。2才と4カ月となった栞の方は、言葉が増えてますます面白く自我も強くでてきている。いずれにしても子育てで 日本では母親はとくに大変なことだ。

   ◆—中国の恋愛と結婚、子育て事情—◆

 中国では保育園がほぼない(5才ころからの幼稚園はある)。共働きが圧倒的に多く、産前産後の休暇も4カ月あまりと短い中国社会では、乳児から小学校中学年ころまで子供のめんどうを主に見るのは祖父母となる。それがまた、中国人の50才を過ぎたころからの生きがい(第三の人生)ともなる。中国では、一般的に女性の定年は50才(教員や公務員などの特別職は55才)、男性は60才。

 中国の大学生にとって、在学中の恋愛と卒業後の結婚は別物なので、卒業後にはほとんどの恋愛カップルは別れることとなる。一人っ子政策の長年の影響もあり、お互いの両親が近くに住むということが、子供が誕生した場合は必要となってくる。保育園がないので、4人の祖父母を頼りにせざるをえないからだ。だから、だだっ広い中国全土から一つの大学に学生が集まる中国では、大学での恋愛と結婚は別物となる。

 また、中国では女性は日本に比べても比較的にかなり強い。かかあ天下の国でもある。夫が子供の面倒を小さい時から積極的に行うのはあたりまえで、妻以上に子供の面倒をみることも多いともいえるかもしれない。日本に観光に来ている中国人の若い夫婦の場合でも、乳母車をおしていたり、腕に小さい子を抱えているのは夫の方が多く、妻は涼しい顔で、すたすたと観光を楽しんでいる姿はよく見受けられる。

 これは、中国が社会主義国となり「男女同権」が1950年以降 国家的に取り組まれたことにもよるかと思うし、一人っ子政策による男女比率の極端な差(女性が少ない)にもよるだろうか。若いカップルが街中でデートをして歩いている時、女性の小さなハンドバックを男性が持つ姿も、これまた中国ではあたりまえの光景でもある。

 2月のある日の午後、孫の栞と娘の家の近くにある(徒歩3〜5分)にある、吉田山山麓の吉田山荘の喫茶店「真古館」に行った。この喫茶店の2階からは、比叡山や大文字山や蹴上の将軍塚のある山が見渡せる絶景。春は桜、特に秋のもみじの紅葉が真古館を取り囲む。京都各地を舞台とした小説『京都寺町三条のホームズ』の1シリーズの舞台ともなっている。日本帰国中、この喫茶店や哲学の道や法然院や銀閣寺などに午後に二人で散歩をした時間は、私にとって「至福の時」でもあった。すっかり「孫とじいじ」の関係になってしまった。7月中旬にころに次に日本に帰国できるまでの約4カ月間は、このような時間はもてなくなることとなる‥‥。