彦四郎の中国生活

中国滞在記

友人・知人たちと飲み語る―日本がとるべき外交政策とは、及び憲法問題などなどについて❷

2019-01-31 15:18:16 | 滞在記

 1月19日(土)の夕刻より、京都市伏見桃山の大手筋商店街の酒場「伏水酒蔵小路」で、鈴木・朝倉・小林さんの3人とともに3時間あまり、飲みながらさまざまなことについて語り合った。お互いの近況だけでなく、日本がとるべき外交政策や憲法問題等についてもお互いが率直な意見を述べ合う貴重な機会でもある。年に1度は、この3人と会って意見の交換をしている。午後9時ころに3人とまたの再会を約して別れを告げ、近くの近鉄伏見桃山駅のカード下にある飲み屋小路にある一軒のスナックに立ち寄った。

 翌日の20日(日)、宇治市内のコミュニティセンターを会場にしての「新年学習会」を主催していた友人の野村治君に誘われて、学習会に参加をした。野村君は現在、京都大学の大学院でも学んでいるが、理科教育のエキスパートとして全国的にも有名な人だ。1時間ほどの時間をもらって「私の目に映った中国の実像―中国人、中国社会、そして中国という国」と題して、報告をおこなった。

 22日(火)の午後、京都駅構内にある居酒屋にて、鈴木さんと長谷川さんと会って話をした。前号のブログでも書いたが、長谷川さんは全国退職教職員の会の会長でもある。日本国内の政治、日本の外交問題、憲法問題などについて、それぞれの立場での意見交換をしながら2時間あまりを共に過ごした。長谷川さんは、現憲法9条改正に反対している日本の政党などに一定の影響力をもつ人でもある。6年目に入る中国滞在で、「中国という国をどうみるか」について、機会あれば、さまざまな人々に 伝えて意見交換をしておきたいと、今の私は思っている。小さいことだが これは自分の責務かなとも思っている。もちろん、人によってその伝え方は形をかえてだが。

 長谷川さん鈴木さんとの飲み会食・話し合いを終えて、京都地下鉄に乗り四条烏丸に向かう。隣に座っていた小学生が読書をしていてので、「何の本を読んでいるのですか?」と話しかけてみた。日本でも電車内で読書をする小学生は珍しい。制服・制帽をかぶっていたがどこの小学校なのだろうか。

 四条烏丸にて下車し、京都の台所「錦市場」に行った。平日のこの日、この市場はとても賑わっていたが、お客の大半は外国からの観光客。アジア・欧米系などさまざまな人々。

 錦天満宮近くにある漬物店「大倉屋」のとなりに、「SAKE PABU 酒賀花籠」という立ち飲み屋が営業していたので、立ち寄った。神戸から来ているという大学教員たちやオーストラリアから来ている家族連れの観光客とともに ここで1時間あまり 話しながら飲む。

 夕方近くになった四条大橋、冷たい風が酔いを覚ませてくれる。北山の山系には、少し雪が残っていた。

 1月27日(日)の昼頃に息子夫婦が自宅にやってきたので、鍋を久しぶりに囲んで遅い新年会をした。夕方に息子たちは帰って行った。

  1月30日(水)の夕方、自宅に近い家の人で、妻と顔見知りの熊田さんという女性が家にきてくれた。私が中国から持ち帰っていた「火鍋(ひなべ)」の素スープで鍋料理を作って一緒に食べた。とても辛いが美味しい。唐辛子や山椒の実などがふんだんに入ったスープの素だ。食べていると辛くて体が熱くなり、私は一枚二枚と衣服を脱いでいく。ビールなどの冷たい物といっしょに食べないと舌がもたない。妻と熊田さんは、水で薄めて、鍋の具を食べていた。

 この熊田さんからいろいろと話を聞いたが、中国の北京や上海で20年間ほど働いていたとのこと。上海の法律事務所勤務などで、中国語と日本語の翻訳や通訳などを業務としていたという。若い頃にはバックパーカーとして一人で、中国のシルクロード、国境を越えての中央アジアやパキスタンなどにも行ったという。新疆ウイグル自治区のカシュガルには8回行きましたとのことだった。その人生の軌跡には ちょっとおどろかされた。また機会があれば、中国のことなどを教えてほしいと思った。

 


友人・知人たちと飲み語る―日本がとるべき外交政策とは、及び憲法問題などなどについて❶

2019-01-30 17:46:50 | 滞在記

 1月10日(木)の11:00〜15:00、「2019京退教 新春のつどい」(於:ラポール京都 大ホール)に参加をした。参加費は3500円。京退教とは「京都退職教職員の会」のことで、この会に参加している人たちは、「京都教職員組合」にかって加入していた人が多い。60代・70代を中心としているが、とても元気な組織で、京都府下に各支部組織があり、それぞれが 毎月さまざまな取り組みや行事を行っている。京都教職員を組織母体としているだけに、「政治問題意識」なども旺盛である。私はこの「新春のつどい」(京都府下全体の取り組み)に参加するのは初めてだった。会長の長谷川さんにも久しぶりに会いたかったのだ。

 開会挨拶や来賓挨拶に続いて、講演「改憲阻止と立憲主義回復のために 私たちにできること」と題して、京都大学大学院法科研究科教授・高山佳奈子さんの話があった。講演の最後に彼女のアコーディオンの弾き語りもあった。この講演を聞いて、「東アジアの韓国や北朝鮮、とりわけ中国という国の覇権主義政策」を踏まえていない、空虚な改憲阻止に関する講演だという印象だった。このレベルの学識で京都大学大学院法科教授とは、東アジア情勢の現実を踏まえぬ憲法論議をしている学識的レベルの低さに残念な思いをした。

 南山城支部支部長の久保さんが「自家製マムシ酒」を事務局長の西村さんが これもまた自家製の「果実酒」を支部のテーブルに出してくれた。講演後「昼食会」となり、ビールやマムシ酒を飲みながら知人や鈴木さんなど友人たちと親交を深めた。

 午後12時50分より、各支部(乙訓支部・山東支部・宇城区支部・口丹支部・左京支部・北上中支部・西右京支部・下南支部・伏見支部・丹後支部・宮津支部・舞鶴支部・福知山支部・綾部支部など)の出し物が始まった。これが1時間半ほど続く。私のテーブルは山城南支部。「健康マーチ(365歩のマーチの替え歌)と琵琶湖周航の歌」を歌った。ステージ発表の前に 「中国という国について、それを踏まえた憲法論議の必要性」を会場のみんなに向けて簡単に話をした。

 京退教の会長である長谷川英俊さんは、私の母校・福井県立武生工業高校バレーボール部の5年ほど上の先輩でもある。彼は現在、「全国退教」の会長と「京退教」の会長を兼務している人だ。また、一度ゆっくりとした場所で飲みながら語ろうと話し合った。京都府の北にある丹後支部からは懐かしい顔があった。尾崎さんだった。私が6年間ほど京都教職員組合の支部の一つであった綴喜教職員組合の委員長や副委員長をやっていた時に一緒に頑張り合った人の一人だった。

 午後2時半より、全員合唱や踊りが始まり、午後3時に閉会となった。懐かしい人に10年ぶりに会うこともできた新春のつどいだった。この全国退教という組織は、政治的にも一定の影響力をもつ団体でもある。


四大雪中花の一つ「蠟梅(ろうばい)」の香り—私が思う「七大香花(こうか)」の花

2019-01-30 09:45:50 | 滞在記

 京都の出町柳駅(京阪電鉄)近くに常林寺という小さな寺がある。寺の前には鴨川が流れる。別名「萩の寺」の名のごとく、秋には萩の花が風情をかもしだす。この寺は幕末時代、勝海舟の京都での定宿だった。海舟を訪ねて坂本龍馬や中岡慎太郎もこの寺に来ている。今の季節、この寺には大きな「蠟梅(ろうばい)」の木に花が咲き、その香りが門あたりまでいくと漂ってくる。爽やかな甘い香りを放ち、真冬に凛として咲く花でもある。中国原産の落葉樹で、江戸時代に日本に伝わったようだ。別名は「唐梅(からうめ)」。蝋のような艶々(つやつや)した黄色の花を咲かせる。花言葉は「慈愛」。

「雪中四友(せっちゅうしゆう)」という言葉があるが、雪が降る中に咲く花として「水仙・蠟梅・茶梅(山茶花・さざんか)・玉梅」の四つとをあげた言葉だ。玉梅とは梅の一種で鑑賞梅花とも実梅(実を収穫するための種類)ともされる白い花弁の中に少し緑がかった花を咲かす梅のこと。私なりには「藪椿(やぶつばき)」をさらに加えて「雪中五友(せっちゅうごゆう)」としたい。雪の中に緑の葉と赤い花を咲かす藪椿はまさに「雪椿(ゆきつばき)」である。

 2月に入ると京都の梅の名所では梅が開花したくさんの人で賑わう季節となる。梅は品種が多く、中国からの渡来種のほか、日本では江戸時代にたくさんの品種育成や改良が行われ、現在では300種以上あると言われている。主に花の鑑賞を目的とする「花梅」と実の採取を目的とする「実梅(みうめ)」に分けられる。「実梅」としては、和歌山県で多く栽培される「南高梅(なんこううめ)や古城梅(こじろうめ)」などが知られている。蠟梅も梅の一種だが「花梅」の種類である。

 香りがすばらしい花としては、私なりには「七大香花」をあげたい。①水仙花②紅白梅花③蠟梅花④ジャスミン花(中国ではモーリーファと呼ばれる)⑤金木犀(きんもくせい)銀木犀(ぎんもくせい)⑥夜来香(イエライシャン)、そして香りとしては強すぎてもうひとつなのだが梔子(くちなし)花。①〜⑥の香りは、高貴さを感じるので好きだ。

 「夜来香」花は中国語読みなのだが、日本でも「ヤライコウ」とは言わない。2016年の7月に福建師範大学の中国人同僚から何個かの鉢植えをもらってアパートに置いたのだが、そのうちの一つが9月中旬ころから花を咲かせ始めた。それも夜になると開花するのである。「何の花?」かと思って調べてみたら、これが「夜来香」だった。夜の間開花し、部屋全体を高貴な麗しい香りに包んでくれた。そして朝になると花は閉じる。2週間くらいの間、夜になると開花し香りを放ってくれた。五弁の星のような形の花だった。

 銀閣寺近くにある娘の家に行く時は、出町柳駅で下車して、「常林寺」の門の前でタバコを一服して、近くのバス停からバスで銀閣寺方面に向かうことが多い。1月23日(水)には、立命館大学大学院在学中の沈さん(留学生)も娘の家にやってきた。

 翌日の24日(木)は、午前10時に娘の家に行き、娘と長女の「栞(しおり)」が外に出かけたので、2時間ほど次女で生後1カ月に満たない「遥(はるか)」の世話を一人で世話をした。これはなかなか大変だった。母親というものの苦労を実感した2時間だった。しょせん男親というものは母親にくらべたら気楽なものだとつくづく思わされた。

 午後は2才3カ月になり、言葉もよくしゃべりまくるようになった栞と3時間あまりの散歩に出かけた。哲学の道や銀閣寺が近い法然院の山門の階段もすたすた登るようになっていた。表情に女の子らしさもでてきていた。

 

 


粉雪舞う中、下賀茂神社へのお宮参りに—この冬一番の寒気が京都に来た日

2019-01-29 20:42:33 | 滞在記

 1月25日(金)の夕方から近畿地方もこの冬一番の寒気団が襲来した。翌日1月26日(土)は、銀閣寺近くに住む娘の第二子(次女)の「お宮参り」。第一子(長女)の時のお宮参りには中国からこのために戻ることはできず、孫のお宮参りに参加するのは初めてのことだった。朝の10時頃に娘の家に行くと、家の前から見える大文字山は白く雪に覆われていた。

 この日は滋賀県東近江市永源寺町に住む娘の夫の両親、私たち夫妻、娘夫妻、そして娘の長女である2才3カ月の栞(しおり)、次女である1カ月の遙(はるか)の8人で下賀茂神社に向かった。この日は、青空が見えてきたり雪雲に覆われて吹雪になったりと、天気が目まぐるしく変化した。お宮参りの祈祷が終わり外に出ると吹雪。しばらくすると青空という感じだった。

 神社の本殿近くに紅梅の蕾が可愛く咲いていた。少し花弁を開きかけのものもある。もうすぐ梅が開花する季節が到来する。下賀茂神社境内にある河合神社にも行った。この神社は「縁結び」の神社としても有名だが、「美しい人に育つ」ようにという祈願をする神社でもあるので、若い人がよく参拝に訪れるようだ。

 鎌倉時代初期、「方丈記」で有名な鴨長明はここの神社の宮司の家系に生まれたのだが、家督争いに巻き込まれ、その後この神社を去り、京の都のはずれの伏見の山中に小さな庵(いおり)小屋を建て暮らした。そして「行川の流れはたえずして そして もとの水にあらず‥」の冒頭で有名な「方丈記」が生まれることとなった。現在、この庵を再現したものが神社内にある。

 お宮参りが終わり、南禅寺境内の山門近くにある「順正(湯豆腐)」に午後1時ころ行き、みんなで食事をした。順正の庭などはとても広くりっぱなものだった。大文字山などのある東山と なだらかな吉田山に囲まれた銀閣寺や哲学の道、南禅寺などがある岡崎地区には「琵琶湖疎水」と比叡山から流れる「白川」の流れがあり、「別荘」や「名庭」が多い。疎水や白川の水を引き込んでいる庭である。

 食事が終わり、みんなに別れを告げて、私と妻は自宅への帰路に南禅寺近くの「無鄰菴(むりんあん)」に行った。大学生の時代にこの近くに間借りをしていた時期もあったので、たびたび来て1〜2時間あまり過ごした場所でもあった。明治期の国家首脳の一人であった山縣有朋の別荘だった「無鄰菴」。1896年に造営され、「庭」「母屋」「洋館」「茶室」の4つの構成となっている。1904年に始まった日露戦争を前にして、その戦い方の「国家戦略」を、伊藤博文・桂太郎などとともに行った「無鄰菴会議」の場所でもある。

 庭の作庭は7代目「小川治兵衛」。「己は己流儀の庭園をつくることに決した」と述べ、作庭された庭は、「近代日本庭園の傑作」とも言われている。それまでの、池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園ではなく、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造園されている。東山の借景が、庭により奥行きのある自然さをくわえている傑作だ。母屋に赤と緑の藪椿が凛と生けられていた。

 無鄰菴から祇園四条駅(京阪電鉄)まで歩くことにしたが、途中で吹雪となってきた。白川沿いにある祇園石の道も、吹雪で霞んで見える。順正で湯豆腐を食べながらビールもけっこう飲んだのだが、吹雪の中で酔いが醒めてきて、寒さがよけいに堪える。駅近くまで行くと、着物を着た中国人観光客女性二人が吹雪の中で凍えているようだった。あまりの寒さに悪寒(おかん)がしてきたので、四条大橋にほど近い老舗喫茶店「築地」に入ったが、吹雪をやむのを待つ客で満席だった。ホットココアを飲みながら読書をし、体を温めた。この「築地」は、私が学生時代に制作・上映された映画「小林多喜二」(山本圭主演)での一場面に撮影された喫茶店でもある。いまでも全席喫煙可という貴重な喫茶店。

 この冬一番の寒さとなった一日だった。

 

 

 

 

 


京都・東寺の弘法市—毎月21日は京都二大露店市の一つ「弘法さん」

2019-01-28 11:36:52 | 滞在記

 京都の二大露店市といえば、京都駅近くにある「東寺の弘法市」と京都「北野天満宮の天神市」。それぞれの市は「弘法さん」「天神さん」と呼ばれる。弘法さんは毎月21日、天神さんは毎月25日にそれぞれの境内で開かれる。あと、京都大学前の「百万遍」という寺院の境内で毎月15日に開催される「百万遍手作り市」などもある。

 1月21日の午後、「弘法市」に行ってきた。年始めなので「初弘法」と呼ばれ、年末は「終い弘法」と呼ばれる。1200軒—1300軒ほどの露店が並び、毎月約20万人ほどが訪れるという「弘法市」。「日の出から日の入りまで」と季節に合わせて開催時間が変化するようだが、だいたい午後5時ころまでには終了するようだ。

 広い境内の中には、「骨董」「古着」「古書」「絵画」「がらくた」「露店商(飲食)」「野菜」などの店が所狭しと立ち並ぶ。3月21日は、この東寺(真言宗)を開いた空海(弘法大師)の命日にあたるので、この日は東寺にお参りに来る人が多い。命日は、死者がこの世に戻る日とされ、死者と縁(えん)ある日ということで「縁日(えんにち)」とも呼ばれる。この日にお参りにくると御利益が大きいともされてきた。1200年以上の歴史を持つ「東寺」だが、1239年以降 毎月21日になると「市」がたつようになったようだ。江戸時代に入るとこの市の規模も大きくなり現在に至っているとされる。

 海外からの観光客の姿も多くみられた。あるたこ焼きの露店では、中国語を喋ってたこ焼きを注文していた3人連れの家族がいた。たこ焼き屋の若い兄ちゃんが、その中国語がわからず、イライラしてしまいには「うっさいわ!もうイね!帰れ!」と怒りたおしていた。

 一軒の露店には「銀製品」の骨董が置かれていた。中国の「銀幣(ぎんぺい)」も5〜6個あった。私がよく行く福建省福州の露店市に置かれているものと同じようなものだった。ちなみに私が福州で買ったものと同じ銀幣の値段をみると「9万円」と書かれてあった。中国で買った値段の40倍ほどの値段だった。

 この露店の人が話す日本語には「中国語なまり」があるので、「中国人ですか?」と聞いてみたら、「いいえ日本人ですが、父が中国人で母は日本人です」とのことだった。「光緒 紋銀」と記された銀幣が気になったので、値段交渉を始めることとした。私が「●●●●円でどうですか?」と言うと、「これらを中国から運ぶのもお金がかかり大変なのよ。その値段ではとても売れません」とのこと。その後も交渉は続き、向こうの言い値と私の言い値の真ん中あたりで決着した。これで、銀幣の所有は5個目となった。「光緒 紋銀」は1980年ころから1900年の清時代末期に作られたものだ。

 今年の1月8日付「朝日新聞」の地方版に、「大根鈴なり1500本—京都 八幡・円福寺」という見出し記事があったので、その翌日の9日の昼頃に円福寺に行ってみた。自宅からは車で20分くらいのところに寺はある。禅宗の寺院で、修行僧が僧衣を着て「托鉢(たくはつ)」で近在の京都府八幡市・大阪府枚方市や交野市の農家などを廻った折りにお布施としてもらい受けた大根1500本ほどが木につるされ干されているらしい。この寺のこの季節の毎年の風物だ。寺の僧侶たちの食事や行事の折りに食されるという。

 9日の昼頃行ってみたら、大根を吊るしてあるはずの2本の大銀杏(いちょう)の木には大根は干されていなかった。近くで焚火をしていた修行僧の人に聞いたら、「今朝 大根を木から降ろしました」とのことだった。