谷崎潤一郎(1886年-1965年)は、川端康成・三島由紀夫とともにノーベル文学賞の有力候補にあがっていた作家(文学者)でもあった。このノーベル文学賞のゆくえは、谷崎が65年に死去(享年79歳)することにより、1968年に川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞することともなった。(※川端はその4年後の1972年にガス自殺。享年72歳。)
文豪ナビ(文庫本)の一冊、谷崎潤一郎シリーズでは、「妖しい心を呼びさます 愛の魔術師」と銘打たれてもいる。私もこの言葉に表されるように、さまざまな愛と性にまつわる文学作品を作った人だと思ってもいる。当時は社会的にもまだタブー感が現在以上にとても強かった「人間のさまざまな愛の在り方、性愛の形、性の交わり方の形」を、かなり赤裸々(せきらら)に描いた、世界的にも稀有(けう)な文学者だと思う。つまり、人間の奥底に潜む性愛・性交の、異形的な性的欲望、人間の性的本性かも‥を、文学作品として描き切った作家ともいえるのが谷崎潤一郎だ。
そのさまざまな作品には、性愛・性交の形として、「マゾヒズム」「夫婦交換性的交わり(スワッピング)」などなど‥の心理も作品で描かれる。思うに、「私は普通の性愛・性交を望むノーマルな人間だ」と思っている人であっても、その奥底の深層心理の中には、実は谷崎の描く世界への願望が眠っているのだろうか‥とも思う。
この谷崎が最晩年に書いた作品が『瘋癲(ふうてん)老人日記』だった。(1961年に刊行。62年に毎日芸術賞大賞を受賞。谷崎が亡くなる4年前の作品で、彼が75歳の時に書いている。) この『瘋癲老人日記』の表紙絵や挿絵を書いたのは版画家の棟方志功。版画絵には、「—不能ニナッテモ 或ル種ノ 性生活ハアル—」との文字が彫られてもいる。老人(高齢者)の「生・性」を描く川端康成の『山の音』や『眠れる美女』などの、情緒的・抒情的作品とは大きく違う作風だが、まあ、これらとある意味、並ぶ作品であるとは思う。
この『瘋癲老人日記』。物語は次のようだ。性的不能に陥っている77歳の卯木督助(うつぎとくすけ)老人は、息子の嫁の颯子(さつこ)に惹かれ、ついにその美しい肉体を手にする。だが、それは倒錯(とうさく)的な夢の実現だった。颯子の足に変質的な愛を感じる督助は、彼女の足の拓本(たくほん)を作り、それを仏足石に形どって墓石にし、その下に自分の遺骨を置き、永遠に彼女の足に踏まれる喜びを得ながら眠ろうと計画し実行する。作品の文体は歴史的仮名遣いによるカナ書きの身辺雑記の日記体で書かれている。
この『瘋癲老人日記』は、1962年に映画化された。(主演:山村聡・若尾文子、東山千栄子など) また、演劇などでも上演がされてきたようだ。
実はこの『瘋癲老人日記』で谷崎によって描かれる、卯木老人が恋する颯子という女性には、そのモデルとなった実在の人がいる。そして、私はその女性に何度も何度もあったことがある。私がまだ20代だった頃からの行きつけの喫茶店の女性店主だったからだ。その女性の名は渡辺千萬子さん。
谷崎潤一郎の墓は京都東山山麓の法然院の墓地にある。近くには銀閣寺や哲学の道があり、私は学生時代には銀閣寺境内に隣接していた下宿で暮らしていたので、この法然院にもよく散歩に行っていた。法然院墓地には、マルクス経済学者として有名な河上肇や歴史学者として著名な内藤湖南、哲学者として有名な九鬼周造など、京都大学の著名な教授たちの墓もある。
谷崎の墓には、二つの自然石の墓石があり、それぞれの墓石には、「空(くう)」「寂(じゃく)」の文字が刻まれている。「寂」と書かれている方の墓石が谷崎潤一郎の墓。墓のすぐ背後の山の傾斜地には、彼が好きだった紅シダレ桜の樹木が枝を垂らしてもいる。そして、この「寂」と刻まれた自然石の底部には、颯子の実在のモデルとなった人の足型があるのかもしれない‥とも思いつつ墓を眺めたりもする。
70歳代となった晩年の谷崎潤一郎が渡辺千萬子さんに、激しく恋心を抱いていたことは、二人の往復書簡集などを読むとよくわかる。「(京都東山)鹿ケ谷の場所にアナタの家を建てること大賛成です。さうしたら私たちも泊まりに行けます。死後もそばにゐられます‥」などの千萬子さんあての書簡など‥。谷崎は、この時すでに、法然院に自分の墓を作ることを決めていたようだった。それは、『瘋癲老人日記』で、卯木老人が義理の息子の嫁である颯子を連れて京都に行き、あちこちの寺院(名刹)を見て廻った末に、法然院を墓所とすることに決めたくだりの文章があることからもわかる。そして、谷崎は新しくできた渡辺千萬子さんの家(※法然院のすぐ下の哲学の道沿い)に1ケ月間ほど滞在。その2カ月後に79歳の生涯を閉じた。
■渡辺千萬子さんは、谷崎潤一郎の三番目の妻となった松子夫人の長男(松子が谷崎と結婚する前に離婚した夫との間にできた子供)と結婚していた。つまり谷崎にとっては千萬子さんは、義理の息子の嫁となる。また、千萬子さんは、画家・橋本関雪の孫にあたり、哲学の道の近くに画室を構えていた祖父の関雪の家に、よく行ってもいて、なじみのある界隈だった。
■市民図書館で数年前に『デンジャラス』(桐野夏生著)を借りて読んだ。興味が惹かれた実に面白い本だった。物語の実在・実話のモデルとなっているのは、谷崎潤一郎と渡辺千萬子さん、そして谷崎の妻である松子夫人など。彼らの心情を軸として物語が展開される。
―書籍紹介には次の一文が—君臨する男。寵愛される女たち。「『重ちゃん、ずっと一緒にいてください。死ぬ時も一緒です。僕はあなたが好きです。あなたのためには、すべてを擲(な)げうつ覚悟があります。』 兄さんはそのまま書斎の方に向かって歩いていってしまわれました。その背中を見送っていた私は思わず目を背けたのです。これ以上、眺めてはいけない。ーそう自戒したのです。」(本文より抜粋)
文豪が築き上げた理想の<家族帝国>と、そこで繰り広げられる妖しい四角関係—。日本文学史上もっとも貪欲で危険な文豪・谷崎潤一郎。
■私は中国の大学の4回生対象の「日本文学作品選読」の講義で、谷崎潤一郎の初期作品『刺青(しせい)』と『春琴抄(しゅんきんしょう)』を取り上げている。谷崎は東京大学の学生の頃から、『源氏物語』(紫式部著)に傾倒している。そして、その現代語翻訳本も執筆した。(谷崎翻訳版『源氏物語』) そして、1948年に長編文学の『細雪』を執筆・発表した。この小説は、それぞれ個性の違う四姉妹の女性たちを描いた物語だ。
それはもあの『源氏物語』で描かれる光源氏と恋人関係にあったさまざまな女性を描いたように‥。思うに、谷崎潤一郎という人は、『源氏物語』の世界に、死ぬまで憧れ続け、それを実践もした人とも言えるかもしれない。それにしても、死期も近い人間の老いらくの恋の谷崎のすごい生・性へのエネルギーや情熱、真剣さには圧倒もされる。このような生き方ができるのは稀有(けう)ではあるが‥。そして、老年にさしかかる手前の50歳代の男女を描いた『鍵』(1956年。谷崎が70歳の時に書いた作品。)、70歳代の男の生・性への執念である『瘋癲老人日記』が作り出された。
■私が谷崎潤一郎の文学作品で最も好きな作品は、『盲目物語』、『吉野葛』、『少将滋幹の母』などの歴史ものジャンル作品。谷崎の歴史もの文学作品は、文章に気品が漂ってもいる。そして、美学論である『陰翳礼讃(いんえいれいさん)』は素晴らしい。この書籍内容は、大学での3回生対象の「日本文化名編選読」で、九鬼周造の『"粋"の構造』とともに、日本文化における日本人・アジア人の美意識論として講義している。この二人は法然院にて眠っている。
■銀閣寺にほど近い哲学の道の疎水沿いに喫茶店「グリーン・テラス」がある。ここから徒歩10分ほどのところにある娘の家から、孫と一緒に哲学の道を散歩し、この喫茶店に立ち寄ったりもした。私が学生時代に銀閣寺界隈に下宿していた関係もあり、卒業後もこの界隈によく行って、喫茶店に2時間余りを読書や論文執筆をしたりして、タバコと珈琲でよく過ごした。
そして、ここは谷崎潤一郎ゆかりの、渡辺千萬子さんの自宅兼喫茶店の家でもあった。(※2003年まで、「アトリエ・ド・カフェ」という喫茶店名で渡辺千萬子さんが店主として営業していた。その後、千萬子さんは店主を引退して、彼女の親族関係者かと思われる人が店主となり喫茶店部門(1階部分)を営業している。2階・3階部分は住居階。2階・3階部分にも玄関がある。) この喫茶店は、「私が人に薦めたい京都の喫茶店ベスト20」のうちの一つに入る。
京都丸善書店の今、文庫本コーナーに並ぶ、川端康成や谷崎潤一郎の書籍。谷崎の『痴人の愛』は、映画化決定と記されていた。『雪国』、『伊豆の踊子』、『古都』と立てられて書架に並べられている川端の『眠れる美女』。そして、筒井康隆の『敵』。
そして高齢化社会が本格化した2010年代、1948年生まれの内館牧子(現在76歳)が書いた『終わった人』(第1作)、『すぐに死ぬんだから』(第2作)、『今度生まれたら』(第3作)が、老人(高齢者)の生を描く小説として発表された。1作目も2作目も映画化される。これらの3作ともに、60歳~80歳までの男性、女性が主人公として描かれ、社会的にも大きな反響を呼んだ。私もこの3作を呼んだがとても面白かったし、描かれている内容や場面がとても身近にも感じられもした。優れた老年世代小説(文学)だと思った。ようやく、川端や谷崎や筒井の描く男性の老年の生・性の世界から、女性の老年の心情が中心に描かれた作品群の誕生だった。(※内館のこのシリーズは、『老害の人』(第4作)、『迷惑な終活』(第5作)へと続いてもいるようだ。)
そして、2年ほど前に、NHKプレミアムドラマ「今度生まれたら—70代では人生やり直せない?」がシリーズで放送された。主演の松坂慶子、夫役の風間杜夫、友人役の藤田弓子などが出演。3世代2家族+αの人々が描かれた。
3世代2家族+αの人々が描かれた。とても面白く、素晴らしく秀逸なドラマであった。