彦四郎の中国生活

中国滞在記

私の目に映った中国の実像❷―中国人、中国社会、そして中国という国―福州栄誉市民に推薦の件が

2019-08-30 04:43:47 | 滞在記

 これは大学の教員たちの講義内容に対する管理統制でも言えることです。2013年に大学関係者に通達されたものに「七不講」というものがあります。「報道の自由」「公民の権利」「党の歴史の〇り」「普遍的価値」「司法の独立」「特権的貴族資産階級(党貴〇)」「公民社会」の七つに関して、大学で講義をしてはならないというものです。いったい この七つのことを自由な立場で教員が講義をせずして、中国の社会科学の発展は成立しえるのか―(略)―たくなりますが、これが中国の大学の現実です。当然に教員は委縮せざるを得ません。

 2015年からは、大学の教室にはすべて監視カメラが入りました。このような中で、中国の政治体制と日本の政治体制を比較しながら、そのよしあしを講義していくのは至難のことです。担当している講義の一つに「日本概論」があります。主に日本に関する政治体制・経済・文化・教育・地理自然・歴史・習俗・民族などなどについて講義するものです。当然に中国と比較をしながら日本論を展開すると、学生たちの興味・関心も理解もしやすくなります。3回目の担当となる2018年9月からの「日本概論」の講義は覚悟を決めて真〇面からこの〇〇体制の課題に取り〇〇ました。大〇や〇安関〇者からいつ〇び出〇がくるか、不安な日々を過ごすことにもなりました。いまのところ不測の〇態にはなっていませんが、不安が消えることはありません。

 中国に赴任してからブログを始めました。この5年半ですでに800号をはるかに越えています。その中で、政〇や〇権の問題なども含め中国生活でのさまざまなことを発信していますが、〇局からブログ内容を削〇された記事も何度かあります。拘〇されるという恐怖がやはりよぎります。

 中国生活の中で、中国の人たちの様子を毎日目にしながら、「中国人とはいったいどんな民族なのか」についても考え続け学び続けた6年間でもありました。中国人と日本人は、漢字を使い、お米を食べ醤油を好むなどの生活文化の共通点はたくさんありますが、対人的な行動様式というか考え方における本質部分は真逆的かと思います。日本人は「親しき仲にも礼儀あり」、中国人は「親しき仲には礼儀は不要」です。日本人は他人に対しても一定の礼儀と気遣いをもちますが、中国人は一般的傾向として他人にかなり冷淡です。また、「傍若無人」の振る舞いをする人たちも けっこう多いです。

 しかし、一旦、「身内・仲間」という関係になると、「ここまでしてくれるのか」というくらい親切です。他人に対する冷淡さは、おそらく「日本とは比べものにならないくらい厳しい歴史」を中国という国は経ているからだと思います。あらゆる階層の人々にとって、「信頼できる仲間以外の他人を極端に警戒する」という長い長い歴史の積み重ねが中国の歴史です。しかし、このような厳しい歴史の中でも、「孝」の精神というか、お年寄りを大切にしようという精神は中国では 今もすたれていません。日本と比べて いまだ社会全般に健在です。日本の「孝」のすたれを思う時、日本人としては少し恥ずかしくもなります。

 現在66歳の私にとっての中国生活は、生活や仕事での苦労や心配や不安をかかえて暮らす毎日ですが、中国の大学での日本人教員としてのやりがいにかろうじて支えられている日々でもあります。日本への望郷の念はいつも強く、大学の「夏と冬」の長期休暇に日本に帰省できる日を心待ちにしている中国生活です。

 なお、私のブログは、「Yahoo Japan!」の検索欄に「彦四郎の中国生活」と入力すれば、閲覧できるかと思います。折りあれば、ぜひ一度見てみてください。

※以上が『やましろ』に掲載された文でした。

◆8月22日に67歳となりました。

 ―「福州栄誉市民推薦」の件について―

 8月上旬に閩江大学外国語学部から「緊急連絡」のEメールが突然に入ってきた。今年度の「福州市栄誉市民」に外国語学部としては寺坂さんを推薦したいので、急ぎ 推薦状の提出が必要なので 関係書類に必要事項の一部を書き込んで送信してほしいとの連絡だった。京都の自宅の近くに中国上海や北京で仕事を20年間していた人がいて、その人の助けも借りて必要事項を記入し中国に送信した。

 中国人だけでなく、外国人でも功績のあった人に送られる栄誉市民賞。かって福州市日本企業会の会長を長年務めていた人がこの賞をもらったこともあると聞く。閩江大学外国語学部の外国人教員は14人ほどいる(英語教員11名、日本人教員3名)が、「福州市民栄誉賞」に外国語学部として推薦してくれることは、この6年間の日本人教員としての仕事が評価されたという意味では嬉しいことだ。実際には大学から1~2人が最終的に福州市に推薦されるようで、20ほどある他学部からも推薦者があるのだから、最終的な推薦者になるのは難しいかと思うが。6月18日に自身のブログ閉鎖(ブロック)という中国での生活の中、複雑な心境でもある。

 ちなみに、福建省の省都福州市は、人口も面積も日本の大阪府(約800万人)と規模的には同じくらいだ。大学数は30くらいあるだろうか。福建省は中国では面積の小さな省であるが、それでも日本の3分の1、韓国の1.5倍で、北朝鮮とほぼ同じ。大学数は100余りある。一つの国のようでもある。有名な街としては廈門(アモイ)や泉州がある。この省に大学は100余りがあるが、最もレベルの高いのが厦門大学。武漢大学とならんで中国で最も美しい大学として知られている。

 今日30日に夕方・関西国際空港から夕方の飛行機で中国戻る予定をしている。日本滞在中に「台湾総統選挙」を巡ることについてもブログで書いておきたかったが時間がなくなってきたようだ。来年2020年1月に迫った台湾総統選挙は「東アジアを左右する選挙」となる。日本への影響も大きい。

 4年に1度のオリンピックと同じ年に行われる台湾総統選挙や米国大統領選挙。台湾総統選挙の結果は、隣国の日本及びアジア地域全体の平和と繁栄に大きな影響を与えると言っても過言ではないかと思っている。香港情勢とともに。

◆2019年9月から始まる中国での担当授業(講義)は、日本語教育学関係では2回生の「日語口語3(総合日本語)」、日本学関係では、3回生の「日本概論」と4回生の「日本近現代文学」。そして7名の「卒業論文指導」となります。

 

 

 


私の目に映った中国の実像❶―中国人、中国社会、そして中国という国―今回でブロク1000号に至る

2019-08-29 14:14:40 | 滞在記

◆今回のブログで1000号に至りました。2013年9月に中国の大学に赴任しての6年間(2190日)の日々を、「彦四郎の中国生活」という名のブログで記してきました。平均するとおよそ2日に1回のわりで書いてきたことになります。当初は家族や友人などの親しい人に、近況を知ってもらうために始めたブログでしたが、いつのまにか多くの人たちにも閲覧してもらうブログになっています。中国に住む日本人のブログでは、中国人の閲覧数が最も多いブログでもあるようでした。

 残念ながら、今年の6月18日から、このブログは中国国内では中国政府当局により閲覧できなくなりました。(閉鎖・ブロック)  香港情勢の激化などとともに、あらゆる外国(外国人)からの情報・メディアを さまざまな理由から、より監視・統制を厳しくしている中国の昨今です。明日8月30日には再び中国に戻り、大学での教員生活が始まります。中国でのブログ閲覧に関しては何らの対策がとれるかどうか探っていきます。

 京都府南部の山城地方の退職教職員の組織である「京都府教職員互助組合退職互助部 山城北支部」が、毎年1回発行している機関紙『やましろ』があります。今年の第26号(2019年3月発行)に、「私の目に映った中国の実像―中国人、中国社会、そして中国という国」と題して寄稿しました。原稿を書き終えて支部に送信したのは2019年1月15日のことでした。そして、3月に発刊されました。ブログがついに1000号となったこともあり、この『やましろ』に掲載されたもの(A4版3ページ)をここに記しておきたいと思いました。『やましろ』掲載原稿には写真は2枚だけのものでしたが、ここでは多くの写真も掲載します。また、ブログに掲載した場合、中国当局の検閲があるため、途中に―「略」―や文章を少し変えての表現もしてあります。以下、『やましろ』掲載の文章です。

 ◆上記写真は福建師範大学

 中国福建省福州市にある福建師範大学と閩江(びんこう)大学の外国語学部日本語学科の教員として赴任をして、もう6年目になります。この間、「中国という民族のこと、中国社会のこと、そして中国共産党一党支配下の中国という国のこと」などをずっと考え続けてきました。

 ◆上記写真は閩江大学

 中国の2つの大学で、「日本語教育」だけでなく、「日本概論・日本文化論・日本近現代文学・日本古典文法文学」などの講義を担当してきた経過もあり、中国と日本の「自然・民族・社会・文化・政治経済」など、様々なことについて比較研究・調査をしながら講義に臨むという日々の連続でもありました。

 ◆上記写真は閩江大学の学生達 

 この6年間で 実数として800人くらいの学生に教え、そのうち100人あまりが、日本への短期研修生や学部交換留学生、そして大学院留学生として来日してきました。

 ◆上記写真は閩江大学の学生達

 ◆上記写真は閩江大学の学生達

 ◆上記写真は福建師範大学の学生達

 ◆上記写真は福建師範大学の学生達

 中国社会を一言で表せば「社会や人々のアンバランス」となるでしょうか。それは、外国人である私から見れば一つの大きな魅力です。日本のように人々がかなり均一化された社会ではないのです。身なりや生活の様子からして、いろいろな階層の人が同時に生きています。また、中国の歴史や自然、人々の様子など、とても敬意を払いたくなるものが多いのも中国です。

 2013年9月に初めて中国に赴任してからのこの6年間余りだけでも、この中国の社会は、もますごいスピードで大きく変化し続けています。とりわけ。IT関連の急激な発達と社会生活全般への浸透です。金銭的な支払いなどをはじめ、社会生活のほぼ全域にわたって携帯電話アプリの操作で行うという生活変化に刻々と対応するのは、私にはとても大変です。

 もう一つ、この6年間の変化として大きいのは、70年間余り続く中国共産党一党支配政権下、2012年より習近平政権となったわけですが、「表現の自由」「政治の民主化」や「人権の尊重」などに関しての徹底的な―(略)―がより強まったなあと感じることです。情報統制などもすごいです。まさに、「現代版・万里の長城」が国内に張り巡らされています。水も漏らさずという感じです。

 ※次号に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


中国体験を聞くという趣旨で集まってくれた人たちとの会食会―京都・地蔵盆、黄金色に色づき始めた稲

2019-08-28 12:13:31 | 滞在記

 中国に戻るまで10日間あまりとなった8月18日(日)、銀閣寺近くの娘の家に昼頃に行き、子守の手伝いをした。この日は娘の家の町内の地蔵盆の日だったため、娘の夫は町内役員として地蔵盆の仕事ででかけていた。孫の栞も遙(7カ月)も、子供ゆかたを着せてもらっていた。地蔵盆にもちょっと行ってみたら、手品師なども来て演じていた。京都の地蔵盆は、盆明けの18日頃から始まる町内や23日頃から始まる町内もある。特にこの京都市の東山山麓には町内地蔵がとても多い。

 この日(18日)の夕方6時に京都市伏見区の「伏見桃山駅(京阪・近鉄)そばにある居酒屋「櫻バー」に6人が集まった。私の「中国でのこと」を聞くことを主旨(酒の魚の一つ)にして集まろうと、鈴木達夫さんが呼びかけてくれた人たちだ。私が初めて会う人もいた。懐かしい小森さんの姿もあった。3時間ほどいろいろと喋りあう。

 この櫻バーという居酒屋は、創業大正9年で95年以上の歴史をもつ老舗だ。もともとは櫻食堂という酒も出す店だった。さまざまな戦争へ出征していく兵士と家族・親戚たちとの壮行会の写真なども掲示されている。

 午後9時頃にみんなと別れて、京阪電車に乗り自宅のある八幡に向かう。ここから普通電車で18分くらいで八幡。電車に座っていると、隣の車両に座る25歳くらいの女性とその母親らしき人の姿が見える。やさしげな娘さんが少し老いた母親を気遣いながら談笑しているような光景が 平凡だが美しい。二人も八幡で下車して行った。

 8月23日(金)の夕方に、妻と彼女の実家がある京都市右京区京北町(旧・京北町)の山国地区に行った。わらぶき屋根の家もちらほら見える丹波山地のこの地。田圃の稲が少し黄金色(こがねいろ)に色付き始めていた。

 妻の実家の周りにも広がる水田と稲。家は母屋の他に3つの家(棟)がある。10月上旬の稲刈りまであと1か月と少しだ。この日、実家をついでいる妻の兄夫妻と 近くに住む妻の姉夫妻、妻の母とともに談笑をしながら夕食をとった。

 翌日の早朝、実家近くの墓地に 妻と母と3人でお参りにいき、孫たちを10時過ぎからスイミングにつれていくために京都市内に戻った。

 8月26日(月)の夕方、東京の上智大学大学院に留学中の陳佳秀さん(閩江大学卒業)が、京都・八幡の自宅に泊まりに来た。夕食は、自宅の近所にある焼き鳥居酒屋で。昨年の秋に 陳さんが京都に来た際は夜行バスでの往復し、我が家に泊った。しかし、今回は 大阪で就職試験を受ける目的もあり来ている(アマゾン社)ので、「新幹線の往復代金はアマゾン社で出してくれるので、新幹線を利用しました」とのこと。8月23日に大阪に来て、ネットカフェーで寝泊まりし(1泊1000円〜2000円くらいらしい)、この日に、奈良観光をおえて我が家にきた。

 8月28日(水)に娘の家で夕食をとり、30日には中国に戻ることとなる。しばらくは孫たちとも会えなくなる。思えば、この夏の日本帰国中、孫の栞の病気入院の付き添いから始まり、その半分は、娘や妻から依頼を受けての子守の手助け(孫とのかかわり)だったような気もする。会っておきたい人もまだ多くいたのだが‥‥。今はもう中国に戻るための諸準備で時間がなくなってしまった。このブログ、今回で999号になったかと思う。

 

 

 

 


お盆帰省❷南北朝の戦「二ノ宮神社」と「丑の刻参り」、白龍伝説の十九社神社、酒の神・松尾神社

2019-08-28 07:11:01 | 滞在記

 8月13日から15日、故郷の漁村にお盆帰省をした際に、家がある福井県南越前町河野地区の糠集落にある神社などにいってみた。集落のはずれの海岸に「白龍の滝」がある。海に迫る越前断崖の山の上から海岸に落ちる滝である。この滝には伝説がある。

「糠浦 白龍の滝伝説」によれば、奈良時代に出雲(島根県)の国から五家族十九人が、反子船に乗って対馬海流に乗りこの糠浦に漂着した。白龍が出雲から十九人が乗る小舟を見え隠れしながらここまでついてきて、無事に海岸にたどり着いたのを見届けたのち、近くのこの滝をみて「上には大きな池があるのだろう」と向かい、その池で疲れた体を休めたという伝説だ。そして池をしばらくの棲家とし、十九人の生活を時々見に行ったという。その十九人の子孫が糠浦の人々であるとのこと。

 糠浦集落の海岸からは敦賀半島や丹後半島が目の前に大きくみえる。また、天気が良ければ鳥取県の大山付近がかすかに望める。古代・中世・近世の日本は、陸路より海路の方がはるかに早く人々は移動ができた時代。古代の出雲王国や出雲文化と近畿が、海路により結ばれていたことは、この景色を見ると納得ができる。

 糠集落の真ん中には「十九社神社」がある。白瀧の滝伝説と出雲からの十九人にまつわる神社だ。江戸時代末期の幕末(慶応2)に、集落は火事による猛火に包まれ、その大半が灰燼と化した。この神社の社殿も燃えた。その後、集落や神社の再建がすすめられた。越前海岸のこのあたりは、越前断崖とよばれる海にせり出した断崖・山地が長く続き、冬にはその断崖に越前水仙が咲き誇る。この情景について作家・水上勉が書いた文章がなかなかいい。

 神社からは海が少し見え、そして糠集落の屋根瓦が一望できる。越前断崖が続く数十kmの海岸線には多くの漁村集落がある。集落が形成される条件は、そこに必ず海に注ぎ込む小川や沢があることだ。昭和最後の時代の1980年代、この神社の本殿が新しく建て替えられた。建て替え発起人十九人のなかに、神社が建て替えられてからしばらく後に62歳で亡くなった父の名前も石碑に刻まれている。

 糠浦集落にとても近い海岸線に「甲楽城浦集落」がある。この集落のはずれに「下長谷洞窟」がある。この洞窟には日本の歴史にまつわる伝説がある。伝説となっているが、おそらく歴史的な事実なのだろう。この洞窟の由来の説明板が洞窟前にたっている。

 1336年10月(室町幕府創設期・南北朝時代)、新田義貞が後醍醐天皇の王子である尊良(たかなが)親王と恒良(つねなが)親王の両親王を守って、二千の兵とともに敦賀「金ケ崎城」に立て籠もった。翌年1337年3月、十万の足利尊氏軍にこの城は包囲される。奮戦力闘したが、城を守っていた義貞の嫡男・義顕(よしあき)は尊良親王とともに自刃。義貞は木の芽峠を越えて南朝方の瓜生氏の居城・「杣山城」(南越前町南条地区)に逃れた。

 敦賀の気比神宮の神官の手引きによって、金ケ崎城から脱出し、小舟で城からこの甲楽城浦にたどりついたのが 当時13歳の恒良親王だった。神官は浦人に「この方は次の天皇になられるお方であるから、どうぞ世話を頼む」と告げる。そして、この洞窟に潜伏することとなった。しかしその後、親王は足利軍によって捕らえられ京都において斬首させられた。

 この下長谷洞窟の上にあるのが「二ノ宮神社」である。祭神に後醍醐天皇と「二親王」を祀る。神社の一の鳥居をくぐり、急な階段を登り二の鳥居を見ると皇族の紋章である「菊の御紋」がみられる。樹齢何百年という巨木に覆われた神社だ。眼下には敦賀半島が目の前に見える。

 さらに登ると、ようやく社殿が見えてくる。実はこの二ノ宮神社には強烈な思い出がある。中学3年の夏休みの時、同じ集落の同級生の宮本君とともに、8月下旬のある深夜に、ここで「丑の刻参り(うしのこくまいり)」(※呪いの藁人形とも呪いの五寸釘ともいう)を目撃したことがあったのだ。糠集落のはずれから歩いて10分ほどのこの神社で丑の刻参りをやっている人がいるとの噂を聞いていて、宮本君と深夜の丑の刻にここに忍びいったのだった。とても鬼気迫る光景を見てしまった。

 それからは怖い記憶がこびりつき、この神社を訪れることはなかったが、3年前の64歳の時、50年ぶりにこの神社を訪れた。闇の中だったのでさだかな記憶はないが、五寸釘を打っていた大木らしきものも残っていた。2年前には、その筋には丑の刻参りでは有名な京都の貴船神社に行き、地元人に教えてもらったある個所で丑の刻参りの釘のあとを多数見つけた。今でもやっている人がいるんだなあと寒気がした。

 明治期以降、鉄道ができて、糠浦などの集落からは、男たちは関西に出稼ぎに行く者たちが増えた。日本海の海が荒れ始めて、小舟では漁ができなくなる10月中旬から翌年の3月中旬までの5カ月間、京都の伏見や神戸の灘にての酒造りの出稼ぎだ。そして、3月下旬から10月中旬までは海での漁業に従事する。私の祖父も父もこのような生活をしていた。

 灘の銘酒に「剣菱」という酒がある。剣菱酒造は4つの酒蔵をもっていたが、この4つとも杜氏(とうじ)―酒蔵工場の工場長は、祖父や叔父や父など、私の一族が代々継承していた。私も大学卒業後しばらく、剣菱で働いていた時期もあった。5カ月間で休みは正月一日の午後だけという日々でもあった。その時だけは半年あまりをともに生活する蔵人たちとともに、神戸の新開地や大阪の九条の繁華街にくりだした。

 このような集落なので、京都の松尾大社(酒の神を祀る)の末神社が、糠浦にある。その名も「松尾神社」。家から1分ほどのところなので、子供の頃の遊び場だった。この夏、孫の栞とここに遊びにいった。

 ◆関西の伏見と灘の酒造郷で働く人が多かった地方は3つある、一つは私の村を中心とした①越前杜氏、二つ目は兵庫県丹波地方の「但馬杜氏」、そして三つめは石川県の「能登杜氏」。蔵の責任者である杜氏は、その蔵(工場)で働く30人ほどの蔵人(くらびと)をすべて 個人的つながりで集めて、神戸や伏見に毎年赴任していた。杜氏に次ぐ地位は「頭(かしら)」となる。

 

 


故郷へのお盆帰省❶—お仏壇の木魚や鉦(かね)が遊び道具に

2019-08-27 05:50:57 | 滞在記

 8月13日、お盆の帰省で 故郷・福井県南越前町河野地区の自宅に帰った。この日、娘夫妻と孫たちも京都から南越前町にやってきた。仏壇の木魚や鉦(かね)を見て、孫の栞(しおり)がさっそく、ポンポン・カンカンと楽器を叩くように 無茶苦茶に鳴らして 楽しんでいた。

 翌朝の14日、午前5時半ころに「漁港でシイラを分けますので取りにきてください。先着80軒です」との集落内放送が入った。さっそく糠漁港に行き、シイラを1匹もらった。大きなシイラだった。河野地区の糠集落はおよそ200軒の戸数がある。

 早朝の村落周辺の海は、台風が四国に上陸し、中国・近畿地方を横断し始めた影響が少し出始めてはいるが、まだ波は穏やかだった。漁港近くの糠海水浴場には前日からキャンプテントをしていた家族連れもちらほら。海水浴場に突き出た大きく高い岩は、「長島」と呼ばれる岩だ。小学生の高学年になると、度胸試しにこの岩の上から海に飛び込んだりもした。

 となりの「米の浦集落」の「かねいち水産」では、中国の東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)から働きに来ている5〜6人の女性たちの姿がみえた。ここは水産物の加工工場だ。海の向こうには、若狭湾を囲むように敦賀半島や丹後半島がみえる。

 14日の午前中に、娘夫婦と孫の栞とともに近くの海にサザエ捕りに行き、私と娘の夫・高志君は海に潜った。

 14日の午後、息子夫妻も京都から南越前町にやってきた。中学校時代からの友人・松本君の経営する「渓流荘」(河野川上流)にて、渓流釣りをみんなで楽しみ、釣ったアマゴなどの魚を焼いてもらい 持参のおにぎりとともに昼食をとった。

 孫の栞は冷たい渓流の水で遊んでいた。この日の夕方、娘は夫の故郷である滋賀県東近江の永源寺町に向かった。息子たちは翌日の15日の朝、京都に戻り、私たちも 台風の中、この日 京都の家に戻った。