彦四郎の中国生活

中国滞在記

水戸天狗党行軍路中、最大の難関地を巡る旅❸蠅帽子峠越—「落ちたら死ぬ」全国最恐酷道

2021-09-29 19:08:40 | 滞在記

 「落ちたら死ぬ!!」、国道157号線にある看板だ。

 日本に酷道(国道)は数あれど、こんな注意書きで始まる道は他にはないようだ。🔴国道157号線の岐阜県根尾から温見峠を越えて福井県大野に抜ける区間(約40km)は、車が通れる国道としては最難関との呼び声が高い。この40km区間は酷道愛好家たちの間では、最凶の酷道として崇め奉られているようで、いわゆる彼らの"聖地"的な道なのだろう。私にとって通りたくはない道だが、今回は、水戸天狗党進軍路中、最大の難所であった断崖渓谷の道や蠅帽子峠越えの場所を見るために、やむなくこの酷道を車でぬけることとなった。

 日本の酷道(国道)をネットで検索すると、日本の三大酷道として他に次の2路線の国道が書かれている。🔴国道439号線(徳島県徳島市—高知県四万十市間、439"与作(ヨサク)"とよばれている国道で、四国山地をぬける道。🔴国道425号線(三重県尾鷲市—和歌山県御坊市間、紀伊山地の渓谷をぬける道。)

 根尾村樽見地区の宿を出て車で20分ほど走ると根尾村能郷地区に至った。(根尾村は現在は、市町村合併で本巣市,根尾となっている)  根尾西谷川に架かる赤い橋を渡る。ここから先が「落ちたら死ぬ!!」注意看板の区間に入るようだ。橋を渡るとすぐに、「大型車通行不能—根尾能郷~大野市巣原間、ここが最終回転場」の大きな道路標識。「大型車は通行不可能。普通乗用車にあっては、すれ違いが困難、あるいは不可能な場所が連続します」の注意書き。近くにある「落石注意」の看板絵は、道路の山側の崖に顔があり、その顔が口から石を吹き飛ばしている。その顔―いわば落石くん—の顔はかなり凛々しい。一方のクルマくんのビビリようもなかなかのもので、落石くんとの力関係が一目瞭然だ。

 水戸天狗党の約1000人の隊列もこの根尾西谷川沿いの渓谷の断崖の道を通ったのだが、1864年12月当時、積雪もあり、人ひとりがやっと通れるような樵道(きこりみち)の断崖の道だった。車を慎重に走らせていくが、軽自動車や普通車の車一台が通れるだけの道幅だ。転落防止のカードレールやカーブミラーもない。車を降りて道の下の渓谷を見ると目がくらむ。「落ちたら死ぬ!!」の看板があった。こんなに時に、この看板は見たくもなかった。落石注意の看板標識やこの「落ちたら死ぬ!!」看板がやけに印象深い。脳に残像として強烈に残る。これだけ印象深いということは、注意看板としては成功と言っていい。

 ひたすら運転に注意し、ひたすら対向車のないことを祈りながら車を進める。こんなところで対向車に遭遇し、車をバックさせる羽目になったら空恐ろしい。ガードレールもカーブミラーもないのだから。

 車から根尾西谷川の渓谷沿いの対岸を見る。水戸天狗党が通ったとされる当時の渓谷沿いの狭路の崖路は、この対岸にあった。この崖路から弾薬を積んだ馬一頭が転落したとされているが、馬一頭だけの転落とは奇跡にちかい。この場所に来て、水戸天狗党の人々の苦難を思い浮かべる。道路に、「この先、転落事故現場 スピード落とせ!!」の看板もあった。道路の山側から滝が道に流れ落ちているところもけっこう多い。

 ちなみに、国道157号線(岐阜県岐阜市―石川県金沢間)で、福井と岐阜の県境の温井峠(標高1020m)を最高峰とする岐阜県根尾能郷—福井県大野市巣原間の危険区間40kmが開通したのは1975年のことだった。それまでは、かって天狗党が通った渓谷沿いの崖路があるのみだったのかもしれない。また、1556年に、美濃を追われ越前に逃れた明智光秀の家族と主従がたどった道は、この根尾から蠅帽子峠を越えた道だった可能性は高い。

 1時間ほどをかけてゆっくりと車をすすめ、やっと根尾西谷川の白い河原の広がる大河原地区に到着した。廃屋が数軒残る。広河原の廃村からしばらく行くと、この旅の最大の目的地である「蠅帽子峠」に至る登山口の入り口付近に到着できた。ここで初めて、中型トラックや普通車の二台と出会った。ここは道幅がやや車道が広いのですれ違いが可能だったので、胸をなでおろした。「クマ出没!入山注意!!」の看板があった。根尾能郷地区をぬけてから、携帯電話はずっと「電波が届かない」エリアを表示していた。何か事故があっても連絡のできない40kmの区間だった。 

 車を河原の空き地に駐車、この小さな空き地の入り口に「⇦這法師峠(はえぼうしとうげ)」の小さな看板が立てられていた。"峠を登る法師(お坊さん)も這(は)って登る"という意味のようで、この峠名も使われる峠のようだ。川原はけっこう広いが背丈よりもかなり高いススキなどの野原だ。膝の上まである長靴に履き替えて、峠への登山者のために草が刈られている道をすすむ。すぐに道はなくなり、草の原っぱを根尾西谷川の流れの方を探しながら藪の中を進む。川の向こう側に蠅帽子峠のある山が見える。時刻は昼の12時ころになっていた。

 この旅では、当初から標高1000m近くある蠅帽子峠(978m)まで登り下りすることはしない計画だった。峠の登り口から峠まではゆっくり登って約3時間もかかり、下山をふくめると5時間を要するからだ。ただ、目の前に見えてきた根尾西谷川を渡り、登り口の大きな杉の木の下に祀られてある赤い衣装の「乳くれ地蔵」を見て帰りたいと思っていた。この地蔵は文化6年と刻まれているようなので、1806年に安置されたのかも知れない。水戸天狗党の隊士たちもその地蔵を見たことだろう‥。

 この根尾西谷川で最も渡河しやすい、登山者が渡河する場所に着いた。丈夫な杖を支えに渡り始めたが、水量も多く水圧がとてもとても強い。倒されて流されそうだ。背中のカバンにはカメラを入れているので、流されたらカメラも使えなくなるだろう。おそらく2〜3日前の集中豪雨のために川も増水し、流れも強くなっているのかと思った。半分ほど渡河したのだが、杖で水圧から体を支えていても、倒されて流されそうだった。帰りもここを通らなければならない。川の水は太腿の半分あたりまできていた。これ以上、渡河を実行すれば水に流される可能性の方が大きいと判断し、これ以上の渡河を残念ながら断念しもとの岸に戻ることにした。

 この蠅帽子峠越えの道は鎌倉時代末期から室町時代初期の南北朝時代には、美濃と越前を結ぶ官道として利用され始めた道でもあった。戦国時代、越前朝倉氏が美濃を攻めた時には、この峠越えが使われたと歴史書には残る。

 ■上記の写真は、大垣登山協会などのメンバーが蠅帽子峠に登るために根尾西谷川を渡河するようすの写真。左から2枚目の写真は、川の水量が少ない時の写真のようだ。3枚目の写真は水量が多い時の写真のようで、対岸までロープを張り、そのロープを持ちながら渡河している。写真4枚目は「乳くれ地蔵」。

 ■水戸天狗党は12月4日に大河原に夕方に到着後、積雪の深いこの峠を越えるために、夜に十数名の先発隊をこの峠に登らせ雪をかき分けての登山道を作らせた。翌朝12月5日、1000名あまりの隊士たちがこの峠道を登り、越前国に入った。十門ほどあった大砲は解体して、峠道を登り運んだ。また、けが人や病人などは背負われてこの峠を越えた。峠から福井県側は登山道は今は消滅しているようだ。

 峠の頂きには「這法師峠・蠅帽子峠—水戸浪士の道 右越前大野」の書かれた立て札が置かれていて、その近くには土や木の葉に埋もれかけた地蔵が置かれているいるようだ。また、能郷白山の山容が間近に迫っている峠でもあるようだ。

 明治時代の初期に作られた古書『水戸幕末風雲録』にはこの峠越えのことを次のように書いている。

 『波山始末』の記する所によれば一隊は四日長峰を発し"くらやみ峠"に掛かったが、ここは崎嶇(きく)たる三里の坂道にて、樹林鬱蒼として岩石左右に横たはり、徑細く、冬季は人の通行も絶ふる難所であって、行歩(こうほ)すこぶる悩み、終に合薬(あいぐすり)を負わせたる荷馬一疋数十尋の谷底に落ち、千辛萬苦を経て漸(ようや)く大河原村に着いたのは夜の七つ時であった。而して蠅帽子峠に掛かったが、此峠も常に旅人の通行なき所にて、只一筋の樵夫の路とて、しかも積雪四五尺に及び上り二里、下り二里の難場を同勢八百余人、一同心を協(あわ)せ大砲八門、車臺を取りはづし、其の隊ゝにて担ぎ、病人は肩輿に載せ、同志互いに助け其の辛苦艱難言ふべからざりしも、同勢の精神天神の擁護にやありけん小荷駄二百余人と難なく秋生村に着いたといふことである。思ふに一隊五十余日、二百余里の長途の行軍に於いて此蠅帽子峠が一番の難行路であった。(※秋生村は、蠅帽子峠を越えて下った越前国側の村)

 

 

 

 

 

 


水戸天狗党行軍路中、最大の難関地を巡る旅❷根尾谷の樹齢1500年"淡墨桜"(旧・根尾村樽見)

2021-09-27 18:36:25 | 滞在記

 8月26日(木)の午後3時過ぎに関ヶ原を出て、揖斐川に架かる橋を通過する。水戸天狗党1000人余りが宿営した揖斐川右岸の揖斐川町。この揖斐川宿で天狗党は、揖斐川左岸に待ち受ける大垣藩や彦根藩らの数千の軍勢と戦って関ヶ原を突破し琵琶湖にぬける進路を断念した。そして、この揖斐川沿いに北上し、越前国と美濃国との国境にある蠅帽子峠の難路を経て越前国にぬけることを決めた。1864年12月1日のことであった。

 今後は難関の行程なので、ここで水戸天狗党の隊列についてきていた女性たち十数名を今後の行程には参加させることをしなかった。十分な路銀をもたせて、それぞれの故郷に帰らせた。その水戸天狗党の行程は今は"最恐(凶)酷道"との異名のある揖斐川沿いに走る国道157号線とかなり重なっている。

 揖斐川を北上すると上流域にさしかかってきていた。だんだんと川の両岸に山が迫るようになってきた。午後6時前にこの日に泊まる宿のある樽見地区(旧・根尾村樽見)に着いた。ここに小さなガソリンスタンドがあったので満タンにした。このガソリンスタンドのおやじさんに「ここから福井県にぬける国道157号線の道はどんなんですか」と聞いてみると、「まだ私はあ、その道は通ったことはないんですわ。怖ろしいでねえ」とのこと。そんな話を聞いて、ますます怖くもなってきた。明日、はたして無事に通過できるのだろうか…。

 おりしも、日本列島は8月中旬からは雨が降り続く日が10日間あまりも続き、特に8月20日~24日にかけてはここ美濃地方や福井県の奥越地方も集中豪雨にみまわれていた。この7月上旬には数日間、通行止めとなってもいた。岐阜県の土木事務所に、8月25日に「国道157号線は、現在、通行止めになっていませんか?」と問い合わせると、「現在は、なっていません」との返答だったので、ここに来ることを最終的に決め、宿を予約した。ちなみに、この157号線は、諸所のがけ崩れなどのため、2007年から2012年の7年間もの間は通行止めになっていたことがある。

 半年間あまりは豪雪のために通行止めとなる国道157号線。別名「天下の酷道」「本州屈指の酷道」とも呼ばれているようだが、この「酷道(国道)」愛好家たちの中では、一度は通行したい、垂涎の道のようだ。特に危険な一車線の道の下の渓谷はカードレールがなく、谷底をのぞくと目がくらむと言われ、まさに「落ちたら死ぬ」の標識の通りらしい。しかし、水戸天狗党が進軍航路の中で最も難関だったのがこの渓谷であり、蠅帽子峠だったのだから、そこに行くためにはこの道を行く以外に道はなかった。

 この樽見地区に一軒だけ営業している住吉屋という老舗の旅館。老舗なので、畳敷の簡素ながらきれいな和室部屋を予想していたのだが、案内されたのは旧館の建物ではなく新館の鉄筋モルタルでプレハブ的な建物の3階の一室だった。この日、この3階には3人の労働者風の男たちも宿泊していた。普段の家庭料理のような夕食を食べて午後8時頃には眠りについた。

 翌朝3時頃に目覚め、水戸天狗党関連の資料や小説などをの読書。外が明るくなり始めたので窓を開けて町のようすを眺める。窓からは今日越える157号線の県境にある温見峠や、水戸天狗党が越えた蠅帽子峠、標高の高い能郷白山の山々の方面も見えた。

 早朝の6時前に車で樽見地区を廻ることにした。ここは樽見鉄道の終点の駅「樽見」があった。この鉄道はもともとはJR(国鉄)の路線で、岐阜県の大垣—樽見間の路線だった。ほぼ揖斐川に沿った鉄路だが、今は線路周辺の市町村が第三セクターで運営している。ここ樽見地区で、山々から流れる根尾西谷川と根尾東谷川が合流して揖斐川となる。

 樽見駅での少し時間を過ごし、根尾の淡墨桜(うすずみさくら)のあるところに行ってみた。葉桜となっている樹齢1500年の彼岸桜の古木。実際に眺めると、写真にどより相当に大きな古木だった。春の桜の時期には、自家用車や樽見鉄道ら乗ってたくさんの人がここにくるのだろう。

 薄墨桜の古木の近くから、今日、これから向かう福井と岐阜の県境の温見峠方面やその近くの蠅帽子峠、能郷白山の高い山々が望めた。「今日、天下の酷道を通って、あそこに行くんだなあ‥」。

 この根尾村にはもう一つ有名な場所があった。世界最大級の地震による断層である国指定の「根尾断層」。ここにも行ってみた。宿から車で10分くらいのところにあった。1891年(明治24年)10月、ここ濃尾地方を震源とする「濃尾大地震」が起きた時にできた福井県東部から岐阜県西部の80kmにも及ぶ大断層。特にここ根尾村の1kmあまり断層が最も大きなものだった。上下最大6m、水平横ずれ3mもあった。その当時の大断層の跡が今も残っている。

 この大断層のある根尾村水鳥地区に、「天狗そば」と店名の書かれた店があった。水戸天狗党もここを通過しただろうが、それにちなんだ店の名前だろうか。揖斐川に架かる「開運橋」という名の橋から温見峠や蠅帽子峠のあたりをはるか仰ぎ見る。峠の山々に白い積雪のある12月か3・4月ころの写真だろうか。樽見鉄道の「白鳥」という無人駅にその写真が掲示されていた。

 宿に午前7時過ぎに戻り朝食をとった。労働者風の3人も食べていた。この住吉屋はそれなりの老舗のようで、これまでに有名人も宿泊していったようだ。例えば、京都清水寺の管主だった大西良慶、双子のキンさんギンさん姉妹、そして作家・随筆家の宇野千代など。宿には3人の写真が架けられていた。キンさんギンさん姉妹は105歳の時にここに泊まりに来ているようだ。おそらく桜の季節にここまで来たのだろう。

 特に宇野千代(1897年—1996)は、ここの淡墨桜が大好きだったようで、何度もこの宿に泊まっているようだ。そして1975年には小説『薄墨の桜』を書いている。宿の旧館の玄関フロントの部屋には、この宇野千代のコーナーがありさまざまなものが置かれていた。

 宇野千代と言えば、多くの恋愛と結婚遍歴のある女性。その男女のことについての随筆本も何冊も書いて出版している。私も3年ほど前に『宇野千代の幸福論』や『宇野千代の恋愛論』などの文庫本を読んだこともあった。瀬戸口寂聴は、宇野千代が享年100歳くらいで亡くなった1996年に『私の宇野千代』を書き出版している。

 現在80歳になる女優の山本陽子は、「私のお手本は宇野千代さん」と徹子の部屋で語っていた。そして彼女はここ住吉屋に宇野千代の面影を探しに訪れていた。その時の山本陽子の写真が和室に置かれていた。山本陽子が恋愛問題で世間から注目されていた時期のある日、それまで会ったことのなかった宇野千代から突然に電話がかかってきて、「あんたは勇気がないんだよ」と叱咤激励されたこともあったという。

 宿の主人と、これからの157号線行の情報や蠅帽子峠の情報などを話してもらった。主人は水戸天狗党のことについても関心をもっていた。主人から、戦国時代のここ揖斐川上流域の山城などの所在地が書かれた紙を見せてもらった。蠅帽子峠などの保存活動にも参加していると話してくれた。いくつかの情報をもらう。

 8月27日(金)午前9時ごろに、宿を車で出発した。出発前に妻に「今から危険な道に行きます。無事にその40km区間を通過できたら、連絡します。もし、夕方になっても何の連絡もなかったら、事故など何かが起きているので、住吉屋に連絡をしてください」と電話メールをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水戸天狗党行軍路中、最大の難関地を巡る旅❶—日本三大酷道(国道)157号線—関ヶ原古戦場

2021-09-26 14:22:40 | 滞在記

 ―幕末史上最大の悲劇、「水戸天狗党の争乱」―

 1864年3月、水戸藩士である藤田小四郎ら62名は、尊王攘夷の実行を求めて筑波山に蜂起した。蜂起当時、党の旗頭に田丸稲之衛門がなった。その後、武田耕雲斎が党の首魁として迎えられ、山国兵部も加わった。田丸・武田・山国らは水戸藩の重鎮でもあった。蜂起への参加者は増え、多い時には1400名あまりが筑波山とその周辺に籠った。討幕の戊辰戦争を経て明治維新のなる1868年の4年ほど前のことであった。

 筑波山や水戸周辺に陣取る「水戸天狗党」の討伐のため幕府軍や諸藩の軍勢との戦いとなるが、この年の7月、京都御所周辺での「禁門の変(蛤御門の変)」において、水戸天狗党とも呼応する尊王攘夷の急先鋒であった長州藩軍が薩摩・会津藩軍に敗れて長州に敗退するということがあってから、関東にて決起した水戸天狗党軍にとっても厳しい状況となっていく。
 このため、決起から8カ月後の11月1日、1000人余りの水戸天狗党は水戸を脱出し、中山道などを経て京都に向かい、京都に在勤している水戸前藩主徳川斉昭の子・一ツ橋慶喜(後の徳川15代将軍・徳川慶喜)や京都御所の天皇に直接に「尊王攘夷」の力となってもらうことを直訴するため進軍を始めることとなった。群馬県の下仁田や長野県の和田峠などでの近隣諸藩との戦いに勝利し、12月1日には美濃(岐阜県)の揖斐川が流れる揖斐川の宿まで到達した。この川を越えれば大垣宿や関ヶ原を通過し、琵琶湖東岸畔を京都に向かうことができる。しかし、揖斐川西岸には彦根藩や大垣藩など数千の軍勢が水戸天狗党の行く手を阻むため、強力な戦闘態勢の陣を敷いていた。

 このため、水戸天狗党はやむなく揖斐川を渡って大垣や関ヶ原を突破することを断念、急遽、進軍路を揖斐川沿いに北方にとり、根尾から美濃と越前(福井県)の国境の山々の峠を越えて越前国に至り、敦賀を経て若狭国の小浜に至り、丹波山地の鯖街道を経て京都に向かおうとした。

 水戸天狗党のことについては、吉村昭の『天狗争乱』(新潮文庫)や伊東潤の『義烈千秋 天狗党西へ』などの歴史小説で語られている。また、私の妻の兄(郷土史家)から借り受けた古書『水戸幕末風雲録』[田中光顕監修]も読んでみた。

 11月1日に茨城県の水戸周辺を出発して京都に向かった水戸天狗党の行軍路の中で、最も険しく難関で苦難を極めたところが今回旅をする、美濃と越前の国境にある「蠅帽子峠」越えの場所であった。すでに積雪もある1864年12月3日から6日にかけての、渓谷沿いの崖の難関路、雪の峠越えの進軍だった。この峠に至る、峠の麓を通る国道157号線は日本三大酷道(国道)の一つと呼ばれる道だった。今回の旅はこの酷道を通らなければならないこととなった。

 「落ちたら死ぬ!」という看板標識も立てられているようで、ちよっと行くのが怖いと思う国道だ。はたして何事もなく無事に通過できるのだろうか。国道157号線は、岐阜県の岐阜市から石川県の金沢市まで続く国道だが、特にこの岐阜県と福井県の県境となる温見峠を越える40kmもの区間が難関・危険な道とされていて、対向車とはすれ違いのできないほど狭くてカードレールもない一車線国道が続くようだ。道路下は渓谷の崖が迫る。

 昨年2020年1月に日本に一時帰国して、コロナパンデミックのため中国に戻ることは許可されず、この1年半の間は日本からのオンライン授業を続けてきていた。繰り返されるコロナ緊急事態宣言や蔓延防止措置のため、日本国内にはこの間は他府県への移動自粛ムード、旅行をしたこともなかった。いつ中国に戻らなければならないか分からないので、それまでに一泊~二泊の小旅行をしておきたいと思った。そして、選んだのがこの「水戸天狗党進軍路中、最大の難所」への旅だった。

 8月26日(木)の午前10ごろに京都の自宅を車で出て、名神高速道路を使って、昼過ぎの午後1時頃には関ヶ原ICを下り、西美濃にある関ヶ原に到着した。1600年の東西両軍の関ヶ原古戦場で有名な場所だ。蠅帽子峠に至る道中にあった関ヶ原の古戦場に立ち寄っていくことにした。いままで、東海道新幹線の車中や名神高速道路の車中から関ヶ原古戦場を遠望したことは何度もあったが、関ヶ原の古戦場地にいくことは初めてだった。ここはまた、672年に起きた「壬申の乱」(もう一つの天下分け目の関ヶ原の戦い―大友皇子と大海人皇子[後の天武天皇])の決戦場となった場所でもあった。

 まず、JR関ヶ原駅前に来てみた。駅舎には「古戦場関ヶ原」の横断幕が張られていた。駅前には「観光交流館いざ関ヶ原」の建物があり、関ヶ原合戦に関するさまざまなものが置かれていた。観光交流館を出て、最も行ってみたかった石田三成の陣「笹尾山」に向かう。この笹尾山周辺が関ヶ原合戦における最も激戦が繰り広げられたところのようだ。「史跡関ヶ原古戦場」の石碑が立っていた。

 小高い丘のような笹尾山にあった石田三成とその配下の武将である島左近の陣地に向かう。防御のための三重の木柵が復元されていた。

 石田三成の陣で、三成が戦況を俯瞰していたであろう場所まで登る。古戦場が一望できる。ここから東西の各武将たちの陣容のわかる説明版が置かれていた。ここに来ると、関ヶ原の戦いでの地理的ようすがよくわかってくる。東西の軍勢の激戦地となった場所に、十数万の兵士たちが戦ったのかと感慨深くもなる。「あそこに徳川家康がいて、あそこには小西行長や大谷刑部、宇喜多秀家らがいたのか」。「あの小高い松尾山には小早川秀秋の軍がいたのか」などが一望できた。壬申の乱の激戦地はあのあたりか。

 笹尾山をあとにして、昨年にできた「岐阜 関ヶ原古戦場記念館」に行った。ちょうど、「MEET 三成in関ヶ原2021」(7/17~9/26)という企画展が開催されていた。有名な「関ヶ原合戦屏風」が展示されていた。石田三成や大谷刑部などの、東西両軍の武将たちの陣容や戦いが描かれている。

 石田三成の頭蓋骨や復顔像の写真なども展示されていた。

 この記念館の5階にある展望室がとてもよかった。360度の展望ができ、説明板が設置され、関ヶ原古戦場がすべて展望できた。関ヶ原のすぐ北方には、「城山」と呼ばれる山が見えた。かって西軍側の巨大山城があった山だ。

 午後3時ころ、関ヶ原をあとにして、水戸天狗党が1864年12月1日に滞在していた揖斐川の町を経て、揖斐川の上流部にある根尾の町を目指す。国道(酷道)157号線に午後4時ころに入った。

 

 

 

 

 

 

 


友人から「ウズベキスタンのサマルカンドの大学に赴任が決まりました」との連絡があった

2021-09-21 12:19:46 | 滞在記

 この9月13日に、私のブログ「彦四郎の中国生活」の"ある記事"に対して「日本大学側から名誉棄損にあたるので削除を求める要請が来ています。どうしますか?」とのEメール連絡が、ブログを運営管理する会社「Goo」から突然入った。

 この私のブログは2013年の9月から始めてすでに1350号近くになっている。今までに中国政府当局からブログを突然に削除されたことは何回かあったが、日本国内での削除要請は初めてのことだった。削除を要請されている記事は2018年6月に書いたもので、この当時、大学ラグビー全国選手権で日本大学の悪質タックルが社会的に問題となり、日本大学の理事会や理事長の大学支配のありかたにも社会的に大問題となっていて、朝の各局報道番組などでも連日報道されていた。長年に渡り日本大学の理事長として君臨する田中英寿氏に関する指定暴力団山口組との関係や不正金流用などのブログ内容のことが、「事実と相違していて名誉棄損に当たる。削除を要請する。」とのことだった。

 期せずして、この9月15日付産経新聞の一面トップ記事に、「日大理事長を任意聴取—東京地検 資金流出 関与否定」の見出し記事が掲載された。週刊文春の最新号には、「日大のドン 田中英寿理事長と特捜部"最終戦争"」の見出し記事も掲載されていた。記事によれば、田中氏の自宅や日大事業部などの捜索も東京地検特捜部によって行われた。

 今回の特捜部の捜索は、「日大創立130周年事業の一環として、日大病院の建て替えを行うため、東京都内の設計会社に20億円超の設計業務委託を行った。このうちの2億円超の資金が大阪の医療法人グループの関係先に不正に移動させていた疑い」と産経新聞は報じていた。この医療グループのトップは安倍前首相ともつながりが深く、いわゆる森友問題や加計問題で明らかにされた問題を思い出させる。

 たかが私の小さなブログ記事にまで、目を配っている日本大学の経営陣。日本大学は、7万人の学生数を誇る日本一学生の多い大学だが、付属高校や中学まで入れると10万人超の学生・生徒が在籍している巨大大学だ。

 朝日新聞の広告欄に吉田修一氏の文庫本最新刊『国宝』(朝日文庫)の記事が掲載されていた。さっそく書店で上下巻を購入。「本作をよみおえたとき、小説を読了したのではなく、芝居の序幕から大切りまでを見おえたような気分になった—浅田次郎氏激賞—日本文学の伝統に脈々と流れる芸道小説の金字塔!」「あまりの面白さに、上下巻いっきに読んでしまった。最後のシーンも衝撃的で、この大作のラストにふさわしい―林真理子氏絶賛—『悪人』『怒り』に次ぐ文句なしの最高傑作!」と、文庫本の帯には書かれていた。

 これまで吉田修一氏の作品は、『さよなら渓谷』『悪人』『怒り』を読んでいたが、この『国宝』もいっきに上下巻を読み終えた。なかなか素晴らしい小説だった。また、少し「歌舞伎」という世界のことも詳しく知ることもできた。

 昨日の9月20日、友人から突然の連絡が入った。嬉しい知らせだった。長年、中国の大学で教鞭をとっていた友人の一人からだった。昨年からのコロナ禍下、長年の中国での教員生活を年齢制限のためにやめざるをえなくなり、日本に滞在していたのだが、新たに中央アジアの国"ウズベキスタン"の文化都市であるサマルカンドの国立サマルカンド外国語大学での採用が決まり近く赴任するとの連絡だった。彼は現在66歳になる。9月下旬の29日に日本から韓国・ロシア経由でウズベキスタンに渡航するようだ。

 サマルカンドは「青の都」とも呼ばれ、古代のシルクロードの時代から、中央アジアの貿易・文化・学問の中心的な文明の要衝地にあり、シルクロードの歴史に関心のある者ならば一度は行ってみたい垂涎の都市(古都)なのだ。友人がそこにしばらくはそこに赴任するならば、この機会にぜひに行ってみたいとなあともふと心に浮かんだ。まあその前に、中国国内のシルクロードの地でもある嘉峪関(万里の長城の西端)や敦煌などにも行っておきたいが‥。

 

 

 

 

 

 


大学の新学年始まったが‥―中国への渡航許可がいよいよ告げられるも一転、福建省のコロナ

2021-09-21 09:53:14 | 滞在記

 中国福建省の面積は約12万㎢(中国の省の中では面積的には小さい)で日本の面積の3分の1。人口は約4000万人で日本の人口のこれまた3分の1。ちなみに韓国や北朝鮮の面積は、それぞれ約8万㎢と約12万㎢。人口は韓国が約5200万人で北朝鮮が約2100万人。福建省の沿岸部は、台湾とは台湾海峡を挟んで約160km~200kmの近距離にある。私のアパートや勤務する大学のある省都の福州市の人口は約750万人。福建省内には90余りの大学があるが、そのうち約30大学が福州市にある。

 その福建省は今、9月10日に突如現れた感のある新型コロナデルタ株の感染拡大で人々の日常生活は今、大きく制限されている。

 9月6日(月)に私が勤める閩江大学は新学期の授業開始日を迎えた。2〜3日前には新2回生〜新4回生の在学生たちは中国の各地から大学に戻ってきていた。

 9月に新年度を迎える(9月入学)中国の学校。閩江大学の新入生たちは9月9日~10日に大学に来て、歓迎式典や入学式に参加。新入生たちの授業は13日から始まった。亜熱帯地方の福建省は5月上旬~10月下旬までの半年間が夏日なので、9月に入ってもまだまだ35度前後の気温が続く日々だ。大学構内では日傘をさす学生の群れが10月下旬近くまである。

 さて、私たち日本人教員の中国への渡航入国は、昨年来からの1年半に渡って許可がされないために、ずっと日本からのオンライン授業を続けてきている。この9月からの新学期もオンライン授業の継続という連絡が正式に入ったのは8月20日過ぎだった。今学期に担当する授業は、①4回生2クラス、各週一回の「日本文学作品選読」の約40人、②3回生2クラス、各週一回の「日本概況」の約40人、③2回生1クラス、各週2回の約20人。一回が90分の授業となっている。

 授業は9月6日から始まった。2・3回生はまだ直接に私は会ったことがない学生たちだが、まあ、授業開始後の1週間は、オンラインでの授業もそれぞれの教科は順調な滑り出しだった。

 ところが、9月9日に突然の連絡が大学の外事所(主に外国人教員や留学関連を取り扱う部署)から入った。「外国人教員の中国への渡航が認められるようになったので、就労ビザ(工作許可ビザ)の期限が切れるまでに中国に渡航してください」と言う内容の連絡だった。今学期(来年の1月上旬まで)いっぱいは日本からのオンライン授業だと思っていただけに、心は激しく動揺した。

 私の場合は今年の12月下旬までで就労ビザ期限が切れるようなので、就労ビザ延長申請に中国福建省福州のビザ取り扱い所に直接行くためには11月中旬までに中国に渡航しなければならない。なぜかと言うと、中国渡航日から4週間(28日)、外国からの渡航者は厳重な隔離が行われるからだ。隔離が明けるのはそうすると12月中旬となる。中国への渡航禁止期間中ならば、本人がビザ申請所に行かなくても大学側はビザ延長手続きが行えるようなのだが‥。

 しかし、またまた状況は変わった。9月10日に福建省で新型コロナデルタ株の大規模なクラスターが突然に起きたのだった。中国当局の発表によると、デルタ株による福建省内でのクラスターの発生源は「シンガポールより帰国した38歳男性」との見方。この男性は帰国後に2週間の隔離ホテルで隔離、その後は2週間の自宅隔離(福建省甫田市仙遊県—福州市に隣接する)を経過した。その隔離期間の4週間に8回のPCR検査を受けていたが全て陰性だったので、隔離期間を9月1日ころには終了していた。

 帰国後の隔離開始から38日目の9月10日、念のための9回目のPCR検査を受けたところ、驚くべきことに陽性反応が出たのだった。このため、同居している妻(工場に勤務)や二人の子供(小学生)もPCR検査をその日受けたところ、3人とも陽性反応が出た。二人の子供が通う小学校のクラスではクラスター感染が起きていて、学校は休校となる。幼稚園でもクラスターが発生していた。また、妻の勤める会社でもクラスタ感染が広がっていた。

 このクラスターは瞬く間に福建省内の泉州市や厦門(アモイ)市などにも広がり、1日の新規感染者が14日には50人余りにのぼった。このデルタ株感染の特徴の一つは、幼児や小学生などの低年齢にも感染が広がったことだった。中国ではこの小学校や中学校でのクラスターは初めてのことだった。中国では、20億回にのぼるコロナワクチン接種が進み、ほとんどの成人が1回目~2回目の接種を終えているが、乳幼児・幼児・幼稚園児・小学生・中学生などの接種はほとんどまだ行われていなようだ。感染した4歳児が、隔離病棟で防護服を着せられてよちよちと歩いている映像も報道されていた。3日前の9月18日の中国国内での新規感染者数は43人、その全てが福建省内だった

 このため、福建省の甫田市(300万人)や泉州市(人口850万人)、廈門市(人口450万人)は都市封鎖ロックダウンが行われ、家からの外出も厳しく制限されている。また、福建省内の全ての学校ではPCR検査が行われている。もちろん、福建省内4000万人へのPCR検査も継続中だ。このあたりは徹底している。

 大学では、突然に14日(火)から、全ての科目の授業がオンライン授業となった。この措置は10月10日ころまでの1カ月間は続くだろうか。学生たちはこの日から、大学外に出ることはできなくもなった。発生源となった甫田市出身の学生たちは、閩江大学には約500人あまりがいるそうだが、そのうち仙遊県とその近く出身の学生たちは大学から出されて福州市内の隔離用のホテルに移された。(中国では、9月18・19・20・21日は中秋節での祝祭日となっている。また、10月1日から7日までの1週間は国慶節のための祝祭日。この祝祭日の期間も学生たちは大学外に出ることはできないかと思われる。)

 ■この福建省内でのデルタ株クラスター感染問題により、外国人教員の中国福建省への渡航許可は一転して当面禁止措置となった。この「当面」がいつまで続くか分からないが、今年いっぱい続く可能性もある。この「当面、渡航禁止」通達により、私の中国渡航日もまた、分からなくなってきている。また、福建省での隔離期間はさらに長期間となり6週間と現在はなっている。神戸の女子大学に交換留学できていた3人は8月20日に中国福建省に帰国した。4週間の隔離期間を隔離用ホテル(2週間)と別の隔離施設で(2週間)を経て、この9月17日までの隔離期間を終わり18日には大学に戻る予定だった。しかし、今回の感染拡大でさらに2週間延長、合計6週間の隔離生活を今送っている。オンライン授業で「いつまで隔離が続くのか‥」と苦悩を伝えていた。

■13日(月)から、私のオンライン授業で、「先生、音声は聞こえますが、先生からの画像がまったく見えません」という事態が起きてきているので、とても困り切っている。その原因ははっきりと分からないが、おそらく学生の寮でのインターネット状況に問題があるのではないかと推定される。全ての授業がオンラインとなった14日以降は、さらに状況が悪化し、3分の1あまりの学生は画像を受信できない状況になっている。復旧の手立てがわからないまま、推移している。この1年半以上にわたるオンライン授業で初めての事態だ。困った‥‥。

■学期の途中である11月に中国に渡航した場合、隔離期間の長さもさることながら、最も不安が大きいのは隔離された場所でのインターネット事情より、オンライン授業ができない事態に直面する可能性があることだ。また、自宅アパートに移行した隔離期間も、私の部屋へのインターネットは料金未納で閉鎖されている状況。自宅に戻れても、ネット料金を支払ってネット環境が回復するまでには1週間はかかるだろう。このことも、大学外事所に伝え、「中国への渡航は大学の授業がない約1か月半の冬休み期間を希望します。具体的には1月中旬渡航です。」と伝えることは伝えた。はたして、その希望がかなうかどうかは分からない。不安と不安定な気持ちを抱えた日々がしばらくは続きそうだ。

■ゼロコロナ政策を強力に推進し続ける中国政府の感染防止の取り組みは世界で最も厳格で厳しいものなのだろうと思われる。