「落ちたら死ぬ!!」、国道157号線にある看板だ。
日本に酷道(国道)は数あれど、こんな注意書きで始まる道は他にはないようだ。🔴国道157号線の岐阜県根尾から温見峠を越えて福井県大野に抜ける区間(約40km)は、車が通れる国道としては最難関との呼び声が高い。この40km区間は酷道愛好家たちの間では、最凶の酷道として崇め奉られているようで、いわゆる彼らの"聖地"的な道なのだろう。私にとって通りたくはない道だが、今回は、水戸天狗党進軍路中、最大の難所であった断崖渓谷の道や蠅帽子峠越えの場所を見るために、やむなくこの酷道を車でぬけることとなった。
日本の酷道(国道)をネットで検索すると、日本の三大酷道として他に次の2路線の国道が書かれている。🔴国道439号線(徳島県徳島市—高知県四万十市間、439"与作(ヨサク)"とよばれている国道で、四国山地をぬける道。🔴国道425号線(三重県尾鷲市—和歌山県御坊市間、紀伊山地の渓谷をぬける道。)
根尾村樽見地区の宿を出て車で20分ほど走ると根尾村能郷地区に至った。(根尾村は現在は、市町村合併で本巣市,根尾となっている) 根尾西谷川に架かる赤い橋を渡る。ここから先が「落ちたら死ぬ!!」注意看板の区間に入るようだ。橋を渡るとすぐに、「大型車通行不能—根尾能郷~大野市巣原間、ここが最終回転場」の大きな道路標識。「大型車は通行不可能。普通乗用車にあっては、すれ違いが困難、あるいは不可能な場所が連続します」の注意書き。近くにある「落石注意」の看板絵は、道路の山側の崖に顔があり、その顔が口から石を吹き飛ばしている。その顔―いわば落石くん—の顔はかなり凛々しい。一方のクルマくんのビビリようもなかなかのもので、落石くんとの力関係が一目瞭然だ。
水戸天狗党の約1000人の隊列もこの根尾西谷川沿いの渓谷の断崖の道を通ったのだが、1864年12月当時、積雪もあり、人ひとりがやっと通れるような樵道(きこりみち)の断崖の道だった。車を慎重に走らせていくが、軽自動車や普通車の車一台が通れるだけの道幅だ。転落防止のカードレールやカーブミラーもない。車を降りて道の下の渓谷を見ると目がくらむ。「落ちたら死ぬ!!」の看板があった。こんなに時に、この看板は見たくもなかった。落石注意の看板標識やこの「落ちたら死ぬ!!」看板がやけに印象深い。脳に残像として強烈に残る。これだけ印象深いということは、注意看板としては成功と言っていい。
ひたすら運転に注意し、ひたすら対向車のないことを祈りながら車を進める。こんなところで対向車に遭遇し、車をバックさせる羽目になったら空恐ろしい。ガードレールもカーブミラーもないのだから。
車から根尾西谷川の渓谷沿いの対岸を見る。水戸天狗党が通ったとされる当時の渓谷沿いの狭路の崖路は、この対岸にあった。この崖路から弾薬を積んだ馬一頭が転落したとされているが、馬一頭だけの転落とは奇跡にちかい。この場所に来て、水戸天狗党の人々の苦難を思い浮かべる。道路に、「この先、転落事故現場 スピード落とせ!!」の看板もあった。道路の山側から滝が道に流れ落ちているところもけっこう多い。
ちなみに、国道157号線(岐阜県岐阜市―石川県金沢間)で、福井と岐阜の県境の温井峠(標高1020m)を最高峰とする岐阜県根尾能郷—福井県大野市巣原間の危険区間40kmが開通したのは1975年のことだった。それまでは、かって天狗党が通った渓谷沿いの崖路があるのみだったのかもしれない。また、1556年に、美濃を追われ越前に逃れた明智光秀の家族と主従がたどった道は、この根尾から蠅帽子峠を越えた道だった可能性は高い。
1時間ほどをかけてゆっくりと車をすすめ、やっと根尾西谷川の白い河原の広がる大河原地区に到着した。廃屋が数軒残る。広河原の廃村からしばらく行くと、この旅の最大の目的地である「蠅帽子峠」に至る登山口の入り口付近に到着できた。ここで初めて、中型トラックや普通車の二台と出会った。ここは道幅がやや車道が広いのですれ違いが可能だったので、胸をなでおろした。「クマ出没!入山注意!!」の看板があった。根尾能郷地区をぬけてから、携帯電話はずっと「電波が届かない」エリアを表示していた。何か事故があっても連絡のできない40kmの区間だった。
車を河原の空き地に駐車、この小さな空き地の入り口に「⇦這法師峠(はえぼうしとうげ)」の小さな看板が立てられていた。"峠を登る法師(お坊さん)も這(は)って登る"という意味のようで、この峠名も使われる峠のようだ。川原はけっこう広いが背丈よりもかなり高いススキなどの野原だ。膝の上まである長靴に履き替えて、峠への登山者のために草が刈られている道をすすむ。すぐに道はなくなり、草の原っぱを根尾西谷川の流れの方を探しながら藪の中を進む。川の向こう側に蠅帽子峠のある山が見える。時刻は昼の12時ころになっていた。
この旅では、当初から標高1000m近くある蠅帽子峠(978m)まで登り下りすることはしない計画だった。峠の登り口から峠まではゆっくり登って約3時間もかかり、下山をふくめると5時間を要するからだ。ただ、目の前に見えてきた根尾西谷川を渡り、登り口の大きな杉の木の下に祀られてある赤い衣装の「乳くれ地蔵」を見て帰りたいと思っていた。この地蔵は文化6年と刻まれているようなので、1806年に安置されたのかも知れない。水戸天狗党の隊士たちもその地蔵を見たことだろう‥。
この根尾西谷川で最も渡河しやすい、登山者が渡河する場所に着いた。丈夫な杖を支えに渡り始めたが、水量も多く水圧がとてもとても強い。倒されて流されそうだ。背中のカバンにはカメラを入れているので、流されたらカメラも使えなくなるだろう。おそらく2〜3日前の集中豪雨のために川も増水し、流れも強くなっているのかと思った。半分ほど渡河したのだが、杖で水圧から体を支えていても、倒されて流されそうだった。帰りもここを通らなければならない。川の水は太腿の半分あたりまできていた。これ以上、渡河を実行すれば水に流される可能性の方が大きいと判断し、これ以上の渡河を残念ながら断念しもとの岸に戻ることにした。
この蠅帽子峠越えの道は鎌倉時代末期から室町時代初期の南北朝時代には、美濃と越前を結ぶ官道として利用され始めた道でもあった。戦国時代、越前朝倉氏が美濃を攻めた時には、この峠越えが使われたと歴史書には残る。
■上記の写真は、大垣登山協会などのメンバーが蠅帽子峠に登るために根尾西谷川を渡河するようすの写真。左から2枚目の写真は、川の水量が少ない時の写真のようだ。3枚目の写真は水量が多い時の写真のようで、対岸までロープを張り、そのロープを持ちながら渡河している。写真4枚目は「乳くれ地蔵」。
■水戸天狗党は12月4日に大河原に夕方に到着後、積雪の深いこの峠を越えるために、夜に十数名の先発隊をこの峠に登らせ雪をかき分けての登山道を作らせた。翌朝12月5日、1000名あまりの隊士たちがこの峠道を登り、越前国に入った。十門ほどあった大砲は解体して、峠道を登り運んだ。また、けが人や病人などは背負われてこの峠を越えた。峠から福井県側は登山道は今は消滅しているようだ。
峠の頂きには「這法師峠・蠅帽子峠—水戸浪士の道 右越前大野」の書かれた立て札が置かれていて、その近くには土や木の葉に埋もれかけた地蔵が置かれているいるようだ。また、能郷白山の山容が間近に迫っている峠でもあるようだ。
明治時代の初期に作られた古書『水戸幕末風雲録』にはこの峠越えのことを次のように書いている。
『波山始末』の記する所によれば一隊は四日長峰を発し"くらやみ峠"に掛かったが、ここは崎嶇(きく)たる三里の坂道にて、樹林鬱蒼として岩石左右に横たはり、徑細く、冬季は人の通行も絶ふる難所であって、行歩(こうほ)すこぶる悩み、終に合薬(あいぐすり)を負わせたる荷馬一疋数十尋の谷底に落ち、千辛萬苦を経て漸(ようや)く大河原村に着いたのは夜の七つ時であった。而して蠅帽子峠に掛かったが、此峠も常に旅人の通行なき所にて、只一筋の樵夫の路とて、しかも積雪四五尺に及び上り二里、下り二里の難場を同勢八百余人、一同心を協(あわ)せ大砲八門、車臺を取りはづし、其の隊ゝにて担ぎ、病人は肩輿に載せ、同志互いに助け其の辛苦艱難言ふべからざりしも、同勢の精神天神の擁護にやありけん小荷駄二百余人と難なく秋生村に着いたといふことである。思ふに一隊五十余日、二百余里の長途の行軍に於いて此蠅帽子峠が一番の難行路であった。(※秋生村は、蠅帽子峠を越えて下った越前国側の村)