彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀、越前での雌伏の約10年間❶丸岡町、称念寺門前での寺子屋師匠時代―黒髪伝説が残る

2020-08-04 17:08:08 | 滞在記

 「明智光秀・福井県ゆかりの地マップ」というパンフレットが今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映にあわせて、1月から福井県の各所に置かれた。「ふくいで暮らしたと伝わり、のちに信長のもとでふくいに攻め入った明智光秀。福井県 光秀ゆかりの地を巡れば、謎に包まれた人物像がみえてくる!」とパンフレットに。

 このマップでは明智光秀ゆかりの地が12箇所紹介されている。美濃から越前に逃れて約10年の「雌伏の時」を過ごしたとされる光秀だが、その10年間あまりを妻・熙子(ひろこ)や生まれてきた子供ととも過ごした場所が2箇所ある。一つは 当時、北国街道が通っていた今の福井県坂井市丸岡町の「称念寺」門前界隈。そしてもう一つは、戦国大名朝倉氏の拠点・一乗谷朝倉氏居館群にほど近い、福井市東大味町の集落。光秀の長女「玉子(たまこ)―後の細川ガラシャ」はここで生まれたとされている。

 7月20日(月)、京都から福井県の故郷の家に帰省した際にこの2箇所に行ってきた。「称念寺」のある丸岡町は朝倉氏の一乗谷からはかなり遠い。このことから考えても、ここで10年間近く過ごしていた時期は、朝倉氏に仕えていたわけではないようだ。光秀の当時も大河であった九頭竜川に架かる長い橋を渡り京都から丸岡の町に着く。

 丸岡は城下町。小学校3年生の頃かと思うが、3~4時間ほどバスに乗って小学校の遠足に来たことがあった。40代の頃にも一度バイクで来たことがあるが、それ以来の訪城だ。この丸岡城の天守は1575年に柴田勝家が築城、彼の甥にあたる柴田勝豊が初代城主となった平山城。その後の江戸時代の丸岡藩の居城・城下町時代を経て明治維新を迎えた。

 丸岡城はi日本に現存する12天守の中で最も古い様式で、古調に飛んだ望楼や石垣は他の城郭天守ではほとんど見られない。また、屋根瓦や鯱(しゃちほこ)などは全て石でつくられている。昭和9年に国宝に指定されたが、昭和23年(1948年)の福井大震災により倒壊。その倒壊した天守の木材は全て保存され、その木材を使って昭和30年に修復再現された。現在は国宝ではなく国指定重要文化財となっている。

 天守に続く真っ直ぐな石段、荒々しい野面積みの石垣。質実剛健、シンプルな戦国時代そのものの天守はなかなか見応えがある。まさに戦国末期の城郭天守が時代を彷彿させる。

 天守のある丘の本丸から城下町・丸岡の町を見る。伝説「人柱お静」の碑が建てられていた。

 この丸岡城からほど近い(車で15分ほど)ところの丸岡町長崎というところに、かって明智十兵衛光秀とその妻などが10年近く暮らした「称念寺」の門前町とその界隈があった。ここは北国街道の交通の要衝の地でもあったようで、当時の越前国の外港とも言える三国湊につながる九頭竜川の支流が門前を流れていた。また、一乗谷近くを流れる九頭竜川の支流の大きな川の一つ足羽川(もう一つは私の故郷・南越前町を源流域とする日野川)ともつながる。

  この日、平日でもあるためかコロナのためか、誰も称念寺には来ていなかった。呼んでみたが寺の人もいないようだった。境内には「明智光秀案内所」の臨時プレハブ小屋がつくられていた。中ではパンフレットや冊子なども販売しているようだが誰もいなかった。「共に夢を追う 夫婦の絆 明智光秀・熙子―黒髪伝説」と書かれた大きな看板なとが設置されていた。 

 この時宗の寺「称念寺」は、721年に創建された古刹だが、1290年に時宗の寺院として拡張整備されなお周囲に土塁なども築かれ、時宗の念仏道場となった。ここには新田義貞の遺骸が葬られている。1333年に鎌倉に討ち入り鎌倉幕府を滅ぼした義貞。その後、足利氏との戦いは南北朝の戦いへと発展し、義貞は1338年の灯明寺畷(現・福井市)の戦いで戦死した。

 その際、ここ称念寺の僧たち8人によって遺骸がここに運ばれたとされる。義貞が着用していた兜や鎧もここに保管されていた。新田義貞の顕彰碑が大きくつくられていた。遺骸が葬られた古い墓の上に、義貞500回忌の1837年に越前藩松平氏によって「新田義貞公菩提所」が建立されて今に至る。明智光秀がここに来たのも、新田義貞という「義(ぎ)」の武将を慕う何かがあったのかもしれないと思った。

 境内の本堂の近くに明智光秀と熙子の絵が描かれた幟や看板などが立つ。「黒髪伝説」の由来が書かれたもの立てられていた。光秀がこの地で暮らし始めた弘治二年(1556年)頃、白山が望める称念寺門前は水陸の要衝地として人々が行き交う場所だった。当然、都・京都など全国の動きも ここにいればおのずと情報が入って来る場所というこしも光秀がここに暮らし始めた理由だったかもしれない。

 境内には桔梗(キキョウ)の花が植えられ咲いていた。桔梗は明智家の家紋。寺の山門から境内を出ようとした時、この称念寺の案内をしているらしい近所の地元の人が近づいて「どちらからいらっしゃいましたか?」と話し掛けてきた。どうやら大河ドラマの期間、「雌伏の10年」と称念寺と光秀のことを訪れる人たちに説明したりする地元の有志の人の一人らしい。プレハブの案内所の建物に行き、パンフレットをもらい、「黒髪伝説」の漫画冊子を一冊買った。

 ―黒髪伝説―美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」の中の伝説

 美濃から逃れ、この地にたどり着いた光秀とその妻・熙子。時宗の31祖・同念上人に同道した侍僧が書いた旅日記『遊行三十一祖京畿御修行記』(1580年頃に著述)によれば、「惟任方もと 明智十兵衛尉といひて、濃州土岐家一家 牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申 長崎称念寺門前に 十ケ年居住」(惟任方はもともと 明智十兵衛尉といって、濃州土岐一族出身の者だったが、越前朝倉義景を頼ってこの地長崎に来て牢人となり 長崎称念寺界隈に 十ケ年居住していた。)と記述されている。

 暮らしは貧しいながらも称念寺門前に寺子屋を開いただけでなく、病人に薬を調合し治療も行っていたとも言われている。ここで全国の情報にも接しながら、さまざまな古典や兵法書などの書物を読み知識を深め、越前の戦国大名朝倉氏に仕える機会を覗っていたと言われている。そんな折、丸岡を根拠地とする朝倉氏の重臣の一人・黒坂備中守景久を称念寺住職より光秀は紹介された。その黒坂氏の推挙もあり、光秀の家で「連歌会」を催すこととなる。

 「連歌会」は光秀の存在や教養・知識などを数名の近隣の朝倉家家臣たちに披露する絶好の機会だったが、その連歌会に相応しい酒食を準備するためのお金がなかった。そのことを知った妻の熙子は、自慢の自分の黒髪を売ってお金をつくったと伝わる。これが「黒髪伝説」である。その甲斐あり、連歌会は成功し、光秀の朝倉家への仕官の道が開けていったとも言われている。光秀は戦国武将にはとても稀だが、側室を持たなかった武将でもあった。

◆ここ称念寺には江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉の句碑があった。「奥の細道」の北国街道の旅の途中にこの地で「黒髪伝説」の話を聞き、「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」と詠んでいる。