





この8月3日から5日にかけて、東北と北陸地方を豪雨災害が襲った。複数の一級河川が氾濫。支流河川の氾濫はそれ以上にすざましいものがあったし、さらに小さな川の土石流のような激流の氾濫はさらにすざましいものがあった。特に、私の故郷・福井県南越前町の豪雨災害は甚大なものとなっていた。
福井県の中央部に位置する南越前町今庄地区や河野地区東部では、8月3日から猛烈な雨が降り始め、24時間降水量が357ミリ、6日までの降水量は426ミリに達し、その降水量はこの町では観測史上最多だった。この記録的な集中豪雨により、一級河川の日野川に流れ込む今庄地区の鹿蒜川などの河川や、河野地区の河野川が土石流のように氾濫し、山は崩れ、全ての交通網が寸断された。JR北陸本線、北陸自動車道路、国道8号線、国道365号線をはじめ、その他の国道、県道、林道など、全てのルートが断たれ、福井県の北部と南部は、完全に分断された。(福井県敦賀市と福井県南越前町の間の全ての道路は通行止めとなった。)
大水害に襲われた南越前町は古代から交通の要衝地で、北陸道(木ノ芽峠)と北国街道(栃ノ木峠)など、全ての街道が今庄や河野東部に集まるところだった。大水害の被害の実態が明らかになってきた8月8日頃、関西の京都や大阪、中部の名古屋や岐阜から南越前町の私の故郷の家に行くためには、京都から名古屋・岐阜に行き、美濃地方を流れる長良川沿いの道を北上し、岐阜県の郡上八幡や白鳥の町に至り、福井・岐阜の県境の油坂峠を越えて、福井県の大野市、福井市に至り、福井県を南下して南越前町に至るルートしかない状況だった。






自衛隊が災害地の南越前町に派遣され、災害ボランティアも8月8日頃から入り始めた。8月5日の早朝、一人暮らしの実家(南越前町河野地区西部)の母に電話をして安否を確認したら、「ここらはあ、それほどの長い大豪雨にはならんかったでえ、大丈夫やったんやわ‥」とのことだったが、8月5日の夕方に電話した親友の松本君は、「家があ、流されたてしまったんやあ、もう、どうもならんわ‥」と弱り切っていた。松本君の家は今庄地区に隣接した河野地区東部の河野川上流部にあり、ABC(朝日放送)の「ポツンと一軒家」で放送されたこともある川沿いの家だった。
復旧作業の結果、8月12日頃から、国道8号線が一部区間片側通行規制ながらも開通し始め、JR北陸本線は11日から開通し始めた。そして、北陸自動車道路も、上り(敦賀方面)のみが開通し始めた。しかし、他の国道や県道・林道は全て通行止めのままだった。14日、お盆帰省のために京都から南越前町に向かうため朝の9時頃に家を出た。琵琶湖西岸の湖西道路を経由して、161号線の県境・山中峠を下り、国道8号線に入り午前11時半頃に福井県の敦賀市に到着したが、ここから大渋滞が始まっていた。
北陸高速道路の下り(福井県越前市方面)は敦賀から通行止めが続いているため、敦賀ICを出て国道8号線に向かうたくさんの車が数珠つなぎとなって数百メートル止まっていた。この影響もあり、越前市や南越前町河野地区方面に向かう国道8号線は少しも動けないような大渋滞状況となっていて、数キロにわたって車が止まっている状態だった。これは、夜になるまで実家に戻れないと思った。いつもなら30分ほどでここから実家に着くのだが。やむおえず、一旦、敦賀市内に至る脇道を通過して、旧8号線の道から8号線の道に至るコースを行くことにした。このルートでも大渋滞だったが、8号線に合流して、少しずつ河野地区に近づいていった。8号線の南越前町河野地区に入ると、片側通行規制が行われていたが、午後4時頃にようやく実家に着いた。実に敦賀から4時間半の時間を要した。
この日の夕方に息子夫妻が実家に来ることになっていたので、敦賀付近の渋滞情報も逐一連絡していた。彼等は昼頃に京都市内の家を出て、私が実家に到着した1時間後の5時に到着したのにはとても驚いた。「どのルートで来たん?」と聞いたら、まず、あまり考えられないルートを見つけていたことが分かった。敦賀IC付近からの大渋滞を避けるため、敦賀から今庄に通じる国道476号線(木ノ芽トンネルを抜けると通行止めとなっている。)を途中から、脇道の県道209号線に入り、さらにそこも今庄近くまで行くと通行止めになっているので、通行止め手前の脇道に入り、林道のような急坂の細い道である県道207号線を通って、8号線沿いの杉津集落に山から下りるルートを見つけたのだという。敦賀市杉津集落あたりまでくると、渋滞は多少緩和されていたので、このように京都からあまり大渋滞に遭遇せずに来れたのだそうだ。






翌日15日の早朝6時頃に実家の家を出て、親友の松本君の家の状況を見ておくために、河野地区東部に向かった。河野川河口は、大水害から10日近く経過した15日でも、まだ茶色く川の水が濁っていた。この河口から大量の流木が海に流れていき、近くの定置網内に流木が入りこんでいて、漁業関係者も困っているようだった。河口近くから敦賀市杉津地区に至る国道305号線の河野海岸道路(しおかぜライン)は通行止めとなっていて、24時間体制で警備員が通行止めを知らせていた。
河野川をさかのぼると、河野地区東部の赤萩集落がある。戸数は33世帯ほどで100人余りが暮らすところだが、このうち12世帯が床上浸水、6世帯が床下浸水の洪水被害となっていた。流木がたくさんあった。河野海岸道路の大谷集落もかなりの被害があったようだが、そこは通行止めのために行くことはできない。
さらに、河野川上流付近にある河内集落まで行く。ここはほとんど被害がないようだった。集落を過ぎると、「通行止め」となり、松本君の家に至る道路が完全封鎖されていた。ここから歩くと30分ほどかかるところに家(渓流荘)がある。まあ、親友の家を見に行くのだから、関係者といえば関係者なので、封鎖しているものを移動して、車で家の近くまで行くことにした。通行止めの封鎖が始まる場所から松本君の家までの道の半分くらいまで行ったところで、かなり広い道路の半分が崩落していた。電信柱も崩落し川の方に落ちていた。車はここまでだ。





ここから歩いて15分ほど河野川沿いに行く。松本君の家は長年、渓流釣りやバーベキュー、渓流荘と名付けられた建物内での「いろり炭火焼」などの料理を出したり、アマゴの養殖、宿泊できるバンガローなどの商売をしていた。もう何十年も私は故郷に帰るとここに立ち寄り、時には泊って他の親友も交えて酒を酌み交わしていたところだった。まあ、故郷の家の一つみたいな、心のよりどころとも言えるとこころでもあった。松本君は、熊やイノシシ、鹿などを獲る猟師を長年してもいた。
松本君の「渓流荘」の手前にあるカーブした道は、完全に全面崩壊をしていた。もう道は全くなく、川沿いの山に小道を、落ちないように木の枝などを持って通るしかない状況だった。





渓流荘の駐車場には3台の車が駐車したままだった。朝7時を過ぎていたが、松本君の犬が一匹倒れていた。死んでいるのかと最初思ったが、私に気づいたようで、眠りから起き上がってきた。私にも多少は慣れている犬だが、この犬は以前から後ろ足の片足が途中で切れている犬で、びっこをひいて歩いていた可愛い犬だ。
炭火炉端のある渓流荘の建物はまだ無事だったが、生活をしている母屋の建物は倒壊し完全に傾き、川に崩落していた。土石流のような激流で、母屋の川沿いの場所は削りとられ建物が崩落したようだった。
5日の早朝、激しく消防ホースの放水のような豪雨が降り続く中、母屋から貴重品だけを持ちだして駐車場の車に避難、母屋は崩落した。この時、ここには松本君と高齢の母親、二人の息子の4人がいた。松本君の妻は越前市内の娘の家にいた。道路が崩落しているため車を動かしての避難はできなかった。90歳を超えるかと思われる母親は、危ない山道を避難させるわけにもいかなかったと思われる。この渓流荘は携帯電話は通じない場所で、いわゆる「圏外」が表示される地域にある。家の固定電話も、電信柱の崩落で通じない。このため、息子たちの一人が携帯電話の通じる河内集落まで豪雨の中を歩き、避難救助要請を行ったのだった。




そして、救助ヘリコプターによって救助された。私は、この5日の朝に、松本君の渓流荘の固定電話に電話をしたが、「現在つながりません」のアナウンスが流れるばかりで繋がらなかったのは、このような状況下にあったことが後に分かった。遠くから母屋を見ると、崩落した家は川底に至り傾いていた。5日・6日の時には、この母屋のほとんどは激流の中にあったので、家財道具もほとんど激流の中にあったのかと思われる。松本君たち家族は、5日にヘリコプタで救助され、現在は、越前市内にある娘と妻が暮らす家で避難生活をしている。



南越前町の今庄地区と河野地区を隔てるホノケ山(標高737m)などの山塊。(10年ほど前に全長2.7kmのホノケ山トンネルが開通している) ホノケ山の山塊が河野川の源流域がある。松本君はこの山を狩猟の場ともしていた。この山々に前代未聞の集中豪雨が降り注いだのだった。このため、今庄地区と河野地区の河野川流域に甚大な被害がもたらされた。翌日の16日早朝、全国紙やテレビの全国報道でも報道された今庄地区に行ってみたのだが、松本君の家の被害が最も大きなものだったことが分かってきた。
8月15日の朝、14日の大雨の天気が回復しはじめ、道沿いの百日紅(さるすべり)の赤い花や木槿(むくげ)の花が美しくさていた。