彦四郎の中国生活

中国滞在記

秋の訪れと芙蓉の花―芙蓉?ハイビスカス?、「タイタンビカスの花」は10年ほど前に日本の園芸会社がつくった

2022-08-28 09:51:44 | 滞在記

—芙蓉(ふよう)—

 秋の訪れをいち早く知らせてくれる花の一つに芙蓉(ふよう)がある。日本の近畿地方では、8月中旬から9月下旬ころにかけて花を咲かせる。芙蓉にはいくつかの種類があるが、自生地(原産地)は中国南部・台湾・沖縄・九州・四国やアメリカなど。8月下旬の今、京都市内でもいたるところで芙蓉の花を見かけるようになっている。この芙蓉は1日花で、朝に開花し、夕方になると花はしぼみ、夜のうちに地面に落花する。そして、翌朝にはまた、たくさんの蕾の中から何輪かが開花する。

 庭先や市中などで見られる芙蓉として、主に次の二種がある。最も多いのが、アメリカのアラバマ州を原産地とするアメリカ芙蓉(草芙蓉)。一重咲きの薄いピンクの花を咲かせる。(上記6枚の写真はアメリカフヨウ)

 もう一つは八重咲きのスイフヨウ(酔芙蓉)。この芙蓉は、朝に花が開花した時は花は白いが、時間がたつにつれピンクに変色していく。色が一日で変わるさまを酔って赤くなることにたとえ、酔芙蓉との名がつく。原産地は中国南部・台湾・沖縄などの地。

 孫娘たち二人が家に泊まりに来た8月25日の午前9時頃、車で15分ほどのところにある石清水八幡宮(国宝)のある男山の展望台に行くこととなった。男山の標高は164m。「京都随一の展望台」とされるが、その名の通り、京都市を囲む西山・北山・東山の山々や京都市内、京都南部の木津川沿いの山々や平地が一望できる。展望台の近くには、「ケーブル八幡宮山上駅」がある。京阪電鉄が15分間隔で営業しているケーブルカーだ。(所要時間3分間ほど)

  展望台から京都市内や、天王山、西山山系、愛宕山、丹波山地、比良山、比叡山、大文字山が見える。また、この男山の別の場所(西側)からは、淀川水系と大阪市内、神戸の町や六甲山系、そして淡路島方面や生駒山系が一望もできる。

 京都盆地南部の山城地方の町々や木津川・桂川・宇治川水系も眼下に見える。この男山で、この三川が合流して淀川となる。展望台には、谷崎潤一郎の文学碑。彼の作品に『蘆刈』というものがある。この三川合流地と男山を舞台とした文学作品だ。その一節が文学碑に次のように刻まれていた。「わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき、男山はあたかもその絵にあるやうに、まんまるな月を背中にして全山の木々の繁みが‥」。

 かって、この三川合流地には中洲があり、天王山の麓の山崎と男山山麓の橋本には渡し舟でつながれていた。『蘆刈』は、有名な谷崎の作品『春琴抄』や『刺青』とともに、女性賛美の作品群の一つ。男山の麓にはかって、谷崎の親友で詩人の吉井勇が住んでもいて、谷崎も吉井宅を訪れている。

 この男山の展望台から孫娘たちとともに、男山ケーブル山上駅に行くために少し下って行ったら、「あっ、これはすごい!」という光景を目にすることとなった。大輪の芙蓉のような花が一面にたくさん咲いている光景だった。「この花は何だ?・・、芙蓉か?‥」。名前が書かれていた。「タイタンビカス」。初めて目にする名前だった。白、ピンク、赤の大輪の花‥。このときはカメラを車に置いたままだったので、写真が撮れなかったのが残念。山上駅ケーブル駅から妻と孫娘たち3人はケーブルカーに乗って山を下りていった。私は、山上の駐車場から、山の麓のケーブルカー駅に向かった。

 翌日の26日、再び一人で展望台に行き、展望台下のタイタンビカスを写真に撮った。そして、この7〜8年ほど前からたまに見かけるようになったタイタンビカスをネットで調べてみた。そうすると次のようなことが分かってきた。

 上記写真、左から①②③枚目はモミジアオイ。④⑤⑥枚目はアメリカフヨウ。

 モミジアオイ(紅葉葵)。北米大陸が原産地。ハイビスカスのような花を咲かせる。芙蓉にも似るが、花弁が離れているところが大きく違う。葉っぱの形がモミジの葉に少し似ているところから、この名がついている。このモミジアオイも一日花だ。

 このモミジ葵とアメリカ芙蓉を、日本の静岡県浜松市にある株式会社「赤塚植物園」が交配選別させて、2009年にこの世につくりだした花が「タイタンビカス」だった。ギリシァ神話の「巨神タイタン」と「ハイビスカス」🌺のような花姿にちなんで、この名がつけられたようだ。このタイタンビカスも一日花だが、次から次へと、蕾から新しい花が開花してくる。花は大人の顔ほどの大きさがあり直径は15~25cmほどにもなる。タイタンビカスはアオイ科フヨウ属のの花となった。

 

 

 

 

 

 

 

 


酷夏からの季節の変わり目か—ようやく大陸性高気圧が―和辻哲郎『風土』、日本の風土と民族性

2022-08-28 06:31:07 | 滞在記

 あまりにも短い2週間だけの梅雨。6月下旬の梅雨明けとともに、酷暑が始まった今年の夏。強烈な湿気をともなうアジアモンスーンの日本の夏。コロナ禍第七波により、8月上旬には25万人もの1日新規感染者数。頻繁に、断続的に起きた線状降水帯による猛烈な集中豪雨。特に今年は、8月上旬に私の故郷・福井県南越前町が大水害となり、甚大な被害が起きただけに、今年の夏、異常気象というものの怖さを実感もした。

「天地異変」という言葉を身近に感じたこの2カ月間の「酷夏」。世界に大きな影響を与えているロシア軍によるウクライナ侵略戦争は、8月24日に半年目となって継続している。天地異変と戦争、疫病。世界は混迷の世紀となった感もある。

 こんな今年の「酷(こく)な夏」も、ようやく、やっと季節の変わり目を迎えつつあるようだ。8月22日、この日は私の70歳の誕生日の日だったのだが、なんと空に秋の雲である「鰯雲(いわしぐも)/うろこ雲」が朝に2時間ほどだけだったが見えたのだ。嬉しくなった。そして、交通の要衝地でもある南越前町の交通網は、この8月26日、27日に、諸幹線道路の通行止めや規制がようやくほぼ解除となった。

 お盆明けの8月18日、妻の故郷である京都府京北町(京都市右京区京北町)の山国地区に行き、妻や妻の母とともにお墓参りに行ってきた。栗の実が大きくなっていた。稲が穂をつけ、実り始めていた。秋の足音を感じる光景。

 なつかしい。美しい女郎蜘蛛(じょろうくも)が田んぼに巣を張っていた。上桂川が流れている山国地区だが、かっては天皇家の御料地(領地)となっていたところ。山国神社や山国護国神社があり、10月の第二日曜日には「山国神社」の祭礼がある。あの京都時代祭りの行列の先頭を行く「山国隊鼓笛」が今も伝統的に伝わり、神輿(みこし)とともに地区を廻る。今年はこの祭礼は3年ぶりに開催されるのだろうか。

 8月24日(水)の午後、京都銀閣寺界隈に住む孫娘2人が私の自宅に泊まりに来て、翌日25日(木)の午後に帰って行った。5歳10か月と3歳8か月になる孫娘たちだ。孫たちだけで泊まるのは今回が初めてとなる。

 25日の早朝に、家の近くにある田んぼや畑のあたりを、孫たちと3人で散歩した。稲が小さく白い花をつけていた。羽根がところどころ損傷し破れているているトンボが体をやすめていた。酷夏を生ききって、子孫を残し、もうすぐ命を終えていくのだろう。

 田んぼのまわりの畑には、夏から秋にかけての実ができはじめている。イチジク、ザクロ、梨(なし)、ブドウ、花梨(かりん)。

 アケビの実も大きくなってきている。早咲きのオレンジ色のコスモスの花、向日葵(ヒマワリ)の花はそろそろ見納めの頃となってきた。

 今日8月28日、早朝4時頃にポストの朝刊新聞を取るために玄関に出る。あの猛烈な湿気をともなったサウナのような、この2カ月間の午前4時の空気ではなく、少し涼しくも感じる早朝の空気が嬉しい。季節の変わり目を感じる。ようやく、日本列島を覆っていた夏の湿気と高温をもたらす太平洋高気圧が、大陸性の高気圧とのせめぎ合いを始め、勢力を弱めてもきたようだ。

 和辻哲郎の著作に名著『風土―人間学的考察』(1935年出版)がある。和辻はこの著で、世界を三つの風土圏に大別した。「アジアモンスーン地域」、中東などの「砂漠地域」、ヨーロッパなどの「牧場(まきば)地域」である。世界は自然環境(風土)により、その民族性がつくられ、その文化も生まれると説明する。何度読んでも名著中の名著だと思えるこの著作。私の大学での講義「日本文化名編選読」でもこの著作は第1回目に取り上げている。文化論を論じる場合の基本の書籍だと私は思う。

 和辻はこの著作で日本の風土や民族性について、次のようなことを述べている。

 中国の沿岸部や日本を含むモンスーン地域。その特徴を最もよく示す東南アジアでは、夏の半年間、南西モンスーン(温かくまた暑く、湿気を伴う風)が、耐え難い熱帯の暑熱と湿気を同時にもたらす。このような風土気候のもとでは、自然の猛威(特に暑さと耐え難い湿気や洪水など)に耐えながらも、豊かな食物を恵む自然の恩恵に抱かれ感謝もする。このため、「受容的」「忍従的」な人間類型が形成される。宗教文化的には、「受容」と「忍耐」、「諦め」を旨とする仏教が生まれ広まり、日本では自然を恐れ敬う神道も生まれた。日本における仏教と神道の「神仏習合」でもある。

 日本の気候が、同じアジアモンスーン地域にありながら、夏には突発的な台風が、冬には大雪が訪れるという特殊性に和辻は注目もする。この台風と大雪の並行するような、熱帯性、寒帯性の二重性、台風にみられるような季節性・突発性の二重性は、モンスーン型人間に共通する受容性・忍従的な人間・民族構造に、さらに特殊な条件を付与し、「しめやかな激情」(しめやかでありつつも、突如、激情に転じることがあるような感情)、「戦闘的な恬淡(てんたん)」(諦めと再び立ち上がる戦闘性)というような国民的性格を産みだしたと和辻は言う。

 まあ、今年の夏は、異常気象とも言える「酷夏」であった。乾燥した空気をもたらす大陸性高気圧がここ2〜3日、日本列島に影響を持ち始め、あの耐え難い湿気地獄が終ろうとしてもいる。この夏、線状降水帯での洪水被害に襲われた地域の人々は、「戦闘的な恬淡」をもって生きていくこととなるだろう。

 

 

 

 

 

 


福井県南越前町大水害、24時間で567ミリもの降水量が—3年ぶり、お盆に息子や娘たちの家族が

2022-08-19 11:14:17 | 滞在記

 8月16日、早朝の5時半頃に南越前町河野地区にある実家を車で出て、8月4~5日の大水害で大きな被害のあった南越前町今庄地区に向かった。大水害から10日ほどを経過しているが、少しでも故郷の災害のようすを目にしておきたかったのだ。河野地区からホノケ山トンネル(2.7km)をぬけて今庄地区に至る。氾濫寸前にまで水位が上昇した一級河川の日野川流域の水田は被害を受けていなかった。穂がかなり黄金色に色づき始めている。だが、10日間を経過した8月16日でも、日野川は茶色く濁ったままだった。普段なら清流なのだが‥。日野川沿いの国道365号線(北陸道・北国街道が合流した道)を今庄地区の中心地に向かう。

 今庄地区の中心地である「今庄宿」は、今回の水害ではそれほど大きな被害はなかったようだ。この宿場は、北陸道や北国街道の宿場として栄え、地区は国の重要伝統的建物保存群に指定されている。(福井県内では他に、「小浜西組(小浜市)」「熊川宿(若狭町)」が同群に指定されている。)  今庄宿の背後にはホノケ山が見える。山の向こうは河野地区東部で流された親友の家があるところだ。

 この今庄宿の町並みを過ぎると、すぐに今回の大水害のようすが目にとびこんできた。日野川の支流の一つである鹿蒜(かひる)川が大氾濫をおこしていたのだ。この鹿蒜川はホノケ山の南斜面などを源流としている。鹿蒜川沿いの県道207号線は通行止めがなされていたが、途中の大桐集落までは車で行けるようだった。

 この鹿蒜川沿いには5〜6つくらいの集落があるが、大水害による爪痕(つめあと)はかなりのものだった。流域の水田は濁流に浸かったようで、稲が倒れたままだった。濁流は橋の高さをはるかに超えたようで、道路わきの木々の高いところまで流れてきた木の枝や草がかかったままだ。その高さは道路から2〜3mはある。一帯が水没したのだろう。流されてきた建物の小さな屋根が水田にあった。

 県道207号線の橋が陥没し河原に落ちていた。この奥にある大桐集落は、1週間ほど橋の崩落によって孤立していたが、迂回仮設道路がつくられ、8月12日頃には救援の車両が入れるようになった。

 大桐集落はここ今庄地区の中で最も水害の被害が大きかったようだ。だが、幸いなことに、完全に倒壊したり流されたりした住宅はほぼなかったようでもあった。ここからホノケ山の南側の山容が望める。(大桐集落では、10人が防災ヘリコプターで救助された。)

 この南越前町大水害での今庄地区全体の床上浸水は150世帯ほど、床下浸水を合わせると300世帯ほどとなったが、幸いなことに死傷者はいなかった。車での避難ではなく、垂直避難(より高い2階、3階への避難)をしたことが死傷者がなかった要因とも言われている。そして、これも幸いなことに倒壊し、濁流に流された家がほぼなかったことも‥。

 ただ、大水害が起きた3日後の8月8日の早朝に、一人の死者が発見された。同じく今庄地区の大門集落の大きく陥没した道路の穴に軽乗用車が落ちていて、車内から高齢の男性が死体で発見された。前日の7日にはこの陥没した場所には軽乗用車などはなかったので、7日の夜から8日の朝の間に起きた事故と推定されている。亡くなっていたのは福井県敦賀市の74歳の男性だった。なぜ町外の高齢の人が夜にこんなところ(幹線道路ではない)を車で通ったのか?、その後の報道はなされていなく、謎のままだ。事故ではなく事件の可能性もある。

 南越前町大水害の報道は、ほぼ全国的にも県内的にも今庄地区の状況だけが報道され続けていた。そして、ようやく河野地区の災害状況も盆前の8月12日頃からわずかだが県内の福井テレビなどで報道された。今庄地区だけでなく河野地方東部の赤萩集落なども大きな被害があったとの内容の報道だ。大きな被害があったにも関わらず、自衛隊も災害ボランティアもこの河野地区東部には災害から8日後の13日頃までほぼ入ってこなかった。(13日からボランティアが少し入り始めた。)

 いまだに、私の親友の松本君の家のようすは新聞にもネットニュースにもテレビでも報道は一切されていない。通じる道路の2箇所の崩壊、家の母屋の崩壊(母屋の1階は濁流に流されてしまい、2階部分は川底に残された状況だ)。被害が広がり、5日より報道され続けた今庄地区なども見て廻ったが、この親友の家が最も大きな災害を受けていたのだが‥。

 3年ぶりに私の福井県南越前町河野地区西部の家のお盆に、娘夫妻と孫たちや息子夫妻が集まってくれた。10人で賑やかに食卓を囲んだ。(2020、21年はコロナ禍の緊急事態宣言下のため彼らは来れなかった。息子夫妻は8月14日の夕方に、娘夫妻と孫たちは15日の昼に来た。)

 娘の夫が、彼の滋賀県の実家で育てた巨大なスイカを持ってきた。息子は15日の午前中に海に行き30個ほどのサザエを潜って獲ってきていた。

 15日・16日、私も糠漁港近くの海辺に娘夫妻や孫たち、息子夫妻らと泳ぎに行った。3人の小さな孫たちは浮き輪を使い楽しそうに泳いでいた。大水害の影響が10日後のこの日もまだ続いているようで、海に流れ込む河川の濁りの影響か、海中は透明度があまりなかった。

 15日の午後3時頃、息子夫妻は京都に戻るため家を出発。16日の昼過ぎの2時頃、私たち夫婦や娘たち夫婦も南越前町の家をあとにして京都に戻ることとなった。

 南越前町は、14日は雨、15・16日は曇り時々晴れという天候だったが、16日の午後から南越前町は雨が降り始めた。全国的に16日午後から18日にかけて、大規模な線状降水帯が発生し、各地で大雨が降るとの予報。特に、8月上旬の大水害で山の地盤が緩んでいる、南越前町の二次災害が懸念されてもいた。そして、17日の夜から18日の早朝にかけて猛烈な雨が南越前町に再び降った。このため山崩れが起きていて、18日早朝、JR北陸本線を走っていた貨物列車は、緊急停車をし、緊急を知らせる発煙筒や警報を鳴らすこととなった。11日に復旧していた南越前町のJR線路上でのできごとだった。

 この大雨の影響で、今庄地区大桐集落は再び、集落内に鹿蒜川の濁流が流れ込んだ。

■1965年(昭和40年)9月14日~15日、台風24号による福井県奥越地方を襲った記録的な集中豪雨。大野市に近い西谷村(11の集落)では、36時間(1.5日)に1044ミリの降水量を記録した。これは、日本での観測史上、1・2位となる降水記録となった。このため、全ての集落は壊滅的な被害を受けた。そして、西谷村の11の集落の人々すべてが離村することとなり、市町村行政単位として村は、全員離村という全国的には初めての出来事となり、村は消滅した。(そして西谷村は大野市に編入された。)

■日本での観測史上、1日(24時間)の降水記録としてのベスト3は、①922.5ミリ:神奈川県箱根町(2019年10月12日/台風6号による)、②851.5ミリ:高知県魚梁瀬(2011年7月19日/台風6号による、③844ミリ:奈良県日出岳(1982年8月1日/台風10号による)   ちなみに、今回の南越前町大水害時の2022年8月5日の1日降水量は、今庄で567ミリを記録した。

 

 

 

 

 

 

 

 


記録にもない、消防ホースのような長時間の豪雨—故郷・南越前町大水害、親友の家が濁流に倒壊

2022-08-18 08:23:32 | 滞在記

 この8月3日から5日にかけて、東北と北陸地方を豪雨災害が襲った。複数の一級河川が氾濫。支流河川の氾濫はそれ以上にすざましいものがあったし、さらに小さな川の土石流のような激流の氾濫はさらにすざましいものがあった。特に、私の故郷・福井県南越前町の豪雨災害は甚大なものとなっていた。

 福井県の中央部に位置する南越前町今庄地区や河野地区東部では、8月3日から猛烈な雨が降り始め、24時間降水量が357ミリ、6日までの降水量は426ミリに達し、その降水量はこの町では観測史上最多だった。この記録的な集中豪雨により、一級河川の日野川に流れ込む今庄地区の鹿蒜川などの河川や、河野地区の河野川が土石流のように氾濫し、山は崩れ、全ての交通網が寸断された。JR北陸本線、北陸自動車道路、国道8号線、国道365号線をはじめ、その他の国道、県道、林道など、全てのルートが断たれ、福井県の北部と南部は、完全に分断された。(福井県敦賀市と福井県南越前町の間の全ての道路は通行止めとなった。)

 大水害に襲われた南越前町は古代から交通の要衝地で、北陸道(木ノ芽峠)と北国街道(栃ノ木峠)など、全ての街道が今庄や河野東部に集まるところだった。大水害の被害の実態が明らかになってきた8月8日頃、関西の京都や大阪、中部の名古屋や岐阜から南越前町の私の故郷の家に行くためには、京都から名古屋・岐阜に行き、美濃地方を流れる長良川沿いの道を北上し、岐阜県の郡上八幡や白鳥の町に至り、福井・岐阜の県境の油坂峠を越えて、福井県の大野市、福井市に至り、福井県を南下して南越前町に至るルートしかない状況だった。

 自衛隊が災害地の南越前町に派遣され、災害ボランティアも8月8日頃から入り始めた。8月5日の早朝、一人暮らしの実家(南越前町河野地区西部)の母に電話をして安否を確認したら、「ここらはあ、それほどの長い大豪雨にはならんかったでえ、大丈夫やったんやわ‥」とのことだったが、8月5日の夕方に電話した親友の松本君は、「家があ、流されたてしまったんやあ、もう、どうもならんわ‥」と弱り切っていた。松本君の家は今庄地区に隣接した河野地区東部の河野川上流部にあり、ABC(朝日放送)の「ポツンと一軒家」で放送されたこともある川沿いの家だった。

 復旧作業の結果、8月12日頃から、国道8号線が一部区間片側通行規制ながらも開通し始め、JR北陸本線は11日から開通し始めた。そして、北陸自動車道路も、上り(敦賀方面)のみが開通し始めた。しかし、他の国道や県道・林道は全て通行止めのままだった。14日、お盆帰省のために京都から南越前町に向かうため朝の9時頃に家を出た。琵琶湖西岸の湖西道路を経由して、161号線の県境・山中峠を下り、国道8号線に入り午前11時半頃に福井県の敦賀市に到着したが、ここから大渋滞が始まっていた。

 北陸高速道路の下り(福井県越前市方面)は敦賀から通行止めが続いているため、敦賀ICを出て国道8号線に向かうたくさんの車が数珠つなぎとなって数百メートル止まっていた。この影響もあり、越前市や南越前町河野地区方面に向かう国道8号線は少しも動けないような大渋滞状況となっていて、数キロにわたって車が止まっている状態だった。これは、夜になるまで実家に戻れないと思った。いつもなら30分ほどでここから実家に着くのだが。やむおえず、一旦、敦賀市内に至る脇道を通過して、旧8号線の道から8号線の道に至るコースを行くことにした。このルートでも大渋滞だったが、8号線に合流して、少しずつ河野地区に近づいていった。8号線の南越前町河野地区に入ると、片側通行規制が行われていたが、午後4時頃にようやく実家に着いた。実に敦賀から4時間半の時間を要した。

 この日の夕方に息子夫妻が実家に来ることになっていたので、敦賀付近の渋滞情報も逐一連絡していた。彼等は昼頃に京都市内の家を出て、私が実家に到着した1時間後の5時に到着したのにはとても驚いた。「どのルートで来たん?」と聞いたら、まず、あまり考えられないルートを見つけていたことが分かった。敦賀IC付近からの大渋滞を避けるため、敦賀から今庄に通じる国道476号線(木ノ芽トンネルを抜けると通行止めとなっている。)を途中から、脇道の県道209号線に入り、さらにそこも今庄近くまで行くと通行止めになっているので、通行止め手前の脇道に入り、林道のような急坂の細い道である県道207号線を通って、8号線沿いの杉津集落に山から下りるルートを見つけたのだという。敦賀市杉津集落あたりまでくると、渋滞は多少緩和されていたので、このように京都からあまり大渋滞に遭遇せずに来れたのだそうだ。

 翌日15日の早朝6時頃に実家の家を出て、親友の松本君の家の状況を見ておくために、河野地区東部に向かった。河野川河口は、大水害から10日近く経過した15日でも、まだ茶色く川の水が濁っていた。この河口から大量の流木が海に流れていき、近くの定置網内に流木が入りこんでいて、漁業関係者も困っているようだった。河口近くから敦賀市杉津地区に至る国道305号線の河野海岸道路(しおかぜライン)は通行止めとなっていて、24時間体制で警備員が通行止めを知らせていた。

 河野川をさかのぼると、河野地区東部の赤萩集落がある。戸数は33世帯ほどで100人余りが暮らすところだが、このうち12世帯が床上浸水、6世帯が床下浸水の洪水被害となっていた。流木がたくさんあった。河野海岸道路の大谷集落もかなりの被害があったようだが、そこは通行止めのために行くことはできない。

 さらに、河野川上流付近にある河内集落まで行く。ここはほとんど被害がないようだった。集落を過ぎると、「通行止め」となり、松本君の家に至る道路が完全封鎖されていた。ここから歩くと30分ほどかかるところに家(渓流荘)がある。まあ、親友の家を見に行くのだから、関係者といえば関係者なので、封鎖しているものを移動して、車で家の近くまで行くことにした。通行止めの封鎖が始まる場所から松本君の家までの道の半分くらいまで行ったところで、かなり広い道路の半分が崩落していた。電信柱も崩落し川の方に落ちていた。車はここまでだ。

 ここから歩いて15分ほど河野川沿いに行く。松本君の家は長年、渓流釣りやバーベキュー、渓流荘と名付けられた建物内での「いろり炭火焼」などの料理を出したり、アマゴの養殖、宿泊できるバンガローなどの商売をしていた。もう何十年も私は故郷に帰るとここに立ち寄り、時には泊って他の親友も交えて酒を酌み交わしていたところだった。まあ、故郷の家の一つみたいな、心のよりどころとも言えるとこころでもあった。松本君は、熊やイノシシ、鹿などを獲る猟師を長年してもいた。

 松本君の「渓流荘」の手前にあるカーブした道は、完全に全面崩壊をしていた。もう道は全くなく、川沿いの山に小道を、落ちないように木の枝などを持って通るしかない状況だった。 

 渓流荘の駐車場には3台の車が駐車したままだった。朝7時を過ぎていたが、松本君の犬が一匹倒れていた。死んでいるのかと最初思ったが、私に気づいたようで、眠りから起き上がってきた。私にも多少は慣れている犬だが、この犬は以前から後ろ足の片足が途中で切れている犬で、びっこをひいて歩いていた可愛い犬だ。

 炭火炉端のある渓流荘の建物はまだ無事だったが、生活をしている母屋の建物は倒壊し完全に傾き、川に崩落していた。土石流のような激流で、母屋の川沿いの場所は削りとられ建物が崩落したようだった。

 5日の早朝、激しく消防ホースの放水のような豪雨が降り続く中、母屋から貴重品だけを持ちだして駐車場の車に避難、母屋は崩落した。この時、ここには松本君と高齢の母親、二人の息子の4人がいた。松本君の妻は越前市内の娘の家にいた。道路が崩落しているため車を動かしての避難はできなかった。90歳を超えるかと思われる母親は、危ない山道を避難させるわけにもいかなかったと思われる。この渓流荘は携帯電話は通じない場所で、いわゆる「圏外」が表示される地域にある。家の固定電話も、電信柱の崩落で通じない。このため、息子たちの一人が携帯電話の通じる河内集落まで豪雨の中を歩き、避難救助要請を行ったのだった。

 そして、救助ヘリコプターによって救助された。私は、この5日の朝に、松本君の渓流荘の固定電話に電話をしたが、「現在つながりません」のアナウンスが流れるばかりで繋がらなかったのは、このような状況下にあったことが後に分かった。遠くから母屋を見ると、崩落した家は川底に至り傾いていた。5日・6日の時には、この母屋のほとんどは激流の中にあったので、家財道具もほとんど激流の中にあったのかと思われる。松本君たち家族は、5日にヘリコプタで救助され、現在は、越前市内にある娘と妻が暮らす家で避難生活をしている。

 南越前町の今庄地区と河野地区を隔てるホノケ山(標高737m)などの山塊。(10年ほど前に全長2.7kmのホノケ山トンネルが開通している)  ホノケ山の山塊が河野川の源流域がある。松本君はこの山を狩猟の場ともしていた。この山々に前代未聞の集中豪雨が降り注いだのだった。このため、今庄地区と河野地区の河野川流域に甚大な被害がもたらされた。翌日の16日早朝、全国紙やテレビの全国報道でも報道された今庄地区に行ってみたのだが、松本君の家の被害が最も大きなものだったことが分かってきた。

 8月15日の朝、14日の大雨の天気が回復しはじめ、道沿いの百日紅(さるすべり)の赤い花や木槿(むくげ)の花が美しくさていた。

 

 


8月、京の夏—三年ぶりの「鴨川納涼」、「五山の送り火」—五木寛之著『親鸞』全6巻と末法の世

2022-08-17 14:25:42 | 滞在記

 8月の京都。新型コロナ(オミクロン株BA・5)感染拡大第7波がピークを迎え始め、全国の1日感染者数が25万人余りにものぼった8月上旬だったが、8月中旬に入り新規感染者数は15・6万人余りと感染拡大は鈍化し始めてはいるようだ。そのような8月上旬の6日(土)・7日(日)と「鴨川納涼」が3年ぶりに開催されていた。今回は、規模的には3年前の2019年に比べると縮小はされているものの(20の都道府県の県人会が出店、5つの京都府市町村の出店。屋台は新型コロナ感染拡大のためなし。)開催された。熊本県人会の出店ブースには、山鹿灯篭を頭に載せた浴衣姿の娘さんたちの姿も。

 私は4回目のコロナワクチンを8月8日(月)に接種した。

 8月5日(金)の夕方5時半に京都南座前で、野村さん、葉狩さんと待ち合わせをして、祇園白川石畳通りの赤提灯居酒屋「侘助(わびすけ)」にて飲み会をする。2時間余り、さまざまな話をする。野村さん(60歳代後半)は理科教育の実践者として著名な人で、最近、京都市にある京都橘大学の教員就任依頼の話もあったそうだが、それを辞退して、在野の研究・実践者としての生活を過ごしている。葉狩さん(60歳代前半)は、定年退職後の現在、京都府立大学の大学院生となり学んでいる。京都教育文化センターの「教育行政」関連の研究チームの事務局長でもある。

 午後8時すぎに侘助を出て、もう一軒、3人ではしごをして、午後9半頃にお開きとなった。一人、京阪電車の「祇園四条駅」に向かう。特急列車に乗るために駅ホームに下ると、ホームに人が死んだようにうつぶせに倒れていた。たくさんの人が電車を待つためにホームにいるのだが、誰もその人に声をかけることをしていなかった。近くに心配そうに見守っていた若い女性(その倒れている男性とは無関係の人)と一緒に、声をかけたり、ゆさぶったりもしたが、まるで死んだように反応がまったくない。でも、呼吸はしていた。生きているようだ‥。「救急車を呼ぼう」ということになり、女性が電話をしてくれた。10分ほどして救急隊員数名が駆けつけてくれた。付近の吐物の状況からするとも酔いつぶれた人のようだった。

 8月12日(金)、京都市内で映画を観ての帰り、鴨川に架かる三条大橋の下は、凉を求める人たちで賑わっていた。夕方となり、数十軒ある「鴨川納涼床」に灯りがつき始めた。京都の夏の風情、浴衣姿と納涼床。

 鴨川沿いの京都先斗町の「先斗町歌舞練場」では、8月5日~8月18日の期間、ビヤホールが開店していた。舞妓さんや芸妓さんの踊りなどもこのビヤホールではビールを飲みながら鑑賞できるようだ。先斗町の通りに灯りがともり、人で賑わっていた。コロナ第7波ピーク時の、8月、京の夏の光景。

 そして昨日の、8月16日の夜、「五山の送り火」が3年ぶりに、全ての山とすべての点火台に点火された。この日の午後7時すぎから雷を伴う激しい集中豪雨に京都市内はみまわれた。このため、大文字山(如意ケ岳)の点火は10分遅れて、8時10分に点火。そして、4つの山でも次々と点火されていった。激しい雨にみまわれたあとの五山の送り火は、少し涼しくもあっただろう。猛烈な酷暑続きの今年の「夏を送る」季節に京都も入った。

 7月・8月と、ひさしぶりに京都市内の映画館に行き、3本の映画の映画を観た。昨年の10月に「007」を観に行った以来となる。7月上旬には、「峠—最後のサムライ」(役所広司主演)[幕末の長岡藩士・河合継之助と戊辰戦争を描いている]、8月上旬には「ジェラシック・ワールド—最終章—新たなる支配者」、中旬には「キングダムⅡ」を観た。

 五木寛之著『親鸞』を2月に図書館で借りて読み始め、この7月中旬に全6巻を読み終えた。『親鸞—青春編上・下』『親鸞—激動編上・下』『親鸞—完結編上・下』となる。平安時代末期から鎌倉時代前期を生きた親鸞(1173-1263)の生涯が描かれていてとても面白い小説だった。コロナ禍、気象異常、世界での戦争などなど、親鸞の生きた時代と同様に末法の時代とも感じる昨今の時代だけに、この『親鸞』はとても身近にも思える著作でもあった。