彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国共産党大会、新指導部体制が選出される―習近平氏の1強体制の完成、4期目も視野の人事か

2022-10-31 16:56:45 | 滞在記

 中国では、世界が注目する第20回中国共産党大会(5年に1度開催)が10月16日から開催された。それに先立ち、10月9日からは「7中全会」(第19期中央委員会第7回全体会議)が12日まで開かれた。これは、党大会への準備会議だ。そして16日からの共産党大会では、三期目の就任が予測されている習近平中国共産党総書記(国家主席・中国共産党人民解放軍主席)による政治報告が行われた。共産党大会では、中央委員の選出、中国共産党規約の改正なども行われ、大会最終日にその内容が発表された。(※「中央委員」は、おおむね年1回の全体会議開催。「政治局委員」の会議は月に1回開催。「政治局常務委員」の会議は週に1回開かれる。共産党党大会は5年に1度の開催。)

 23日まで開催された中国共産党大会閉幕後、すぐに1中全会(第20期中央委員会第1回全体会議)が開かれ、200名余りの中央委員の中から、25人の政治局委員と、さらにその中から7人の政治局常務委員(チャイナセブン)が選出された。そして1中全会後、国内外の記者団の前で、その25人及びチャイナセブンが初めて発表されることとなった。

 この25人の政治局委員、とりわけ7人の政治局常務委員に誰が入るのか‥。世界の注目の中、共産党大会前にとりざさ(予測)されていた新チャイナセブンには、習近平氏をトップとし、李強氏(上海市書記)、胡春華氏(副首相・政治局委員)、汪洋氏(政治局常務委員)、丁薛祥氏(中央規律検査委員会書記)、陳敏爾氏(中央書記処常務書記)、黄坤明氏(国務院常務副総理)などの名前がとりざさされ、挙げられていた。

 また、今回の党人事では、68歳定年に伴う年齢的な問題で退任が濃厚な人物として、劉鶴氏(対外経済政策トップ)、楊潔篪氏(外交部門トップ)、孫春蘭氏(副首相/トップ25人の中で唯一の女性)、陳全国氏(新彊ウイグル自治区前書記/ウイグル族への人権問題の中心人物)などの名前が挙げられていた。そして、25人のトップへの昇格をする可能性のある人物として、王毅氏(外交部長・外相)、何立峰氏、馬興瑞氏、王小淇氏らの名前が挙げられていた。

 10月23日、中央委員会全体会議を経て、新しいチャイナセブンとして400人余りの国内外の記者団の前に現れたのは、習近平総書記を先頭に、(以下、序列を表す)、李強氏、趙楽際氏(チャイナセブン留任)、王滬寧氏(チャイナセブン留任)、蔡奇氏(前北京市書記)、丁薛祥氏、李希氏(前広東省書記)の7人だった。丁氏と李氏の二人以外は、事前に予測された最有力候補ではなかった。

 翌日24日の中国共産党機関紙「人民日報」では、一面記事の3分の1もの大きさの習近平氏の顔写真が掲載された。だが習氏以外の6人の顔写真は第3面に掲載された。最高指導部を側近で固めた習氏の権威の高まりを示すもので、これまでの集団指導体制の形骸化の表れと指摘もされる。同紙は、「偉大な事業には人々の期待を集める領袖(りょうしゅう)が必ずいる」と、中華人民共和国建国の父・毛沢東に使われた呼称の「領袖」を使って習氏を礼讃した。

※写真5枚目は胡春華氏

 2017年からの、これまでの5年間のチャイナセブンは、習近平国家主席をトップとして、他の6人は、習氏の側近や派閥が2人(趙楽際・栗戦書)、中立2人(王滬寧・汪洋)、そして習氏と距離をとる人(李克強首相・韓正)2人という、ある程度バランスのとれた構成だったので、習氏の政策にある程度のブレーキをかけることも可能ではあった。だが、今回の新チャイナセブンは、中立の王滬寧氏以外は、習近平氏の子飼いの部下・側近・崇拝者などで固められた。習氏1強体制の完成人事だった。

 李克強氏の弟分とも、将来の主席候補・中国共産党トップ候補ともかっては目されていた共青団(共産主義青年団)出身の胡春華氏(政治局委員)は、25人の政治局委員から、200人余りいる中央委員に降格させられ、完全に封じ込められた。序列NO2となった李強氏は、習氏が浙江省書記(トップ)だった時代の秘書長で、「ゼロコロナ政策」のもと、この3月下旬から6月上旬までの2カ月間以上のあの熾烈な上海都市封鎖を行った人物でもある。新チャイナセブンのメンバーを見る限り、習近平氏の3期目以降の新指導者候補は見当たらず、習氏が3期目だけでなく、4期目、あるいは5期目をも目指す考えを反映しているとの憶測が広がってもきている。

 ※写真3枚目は、陳吉寧氏。5枚目は王毅氏。

 新人事で序列NO2の李強氏が李克強氏に代わって首相の地位となると予想されている。そして、中国経済の牽引役として、劉鶴氏に代わって、何立峰氏がなるとみられている。何氏は習近平氏が福建省勤務時代からの弟分的な人物とされるが、金融部門には専門外の人物とも言われている。人民解放軍トップ3の一人、中央軍事委員会の副主席には、何衝東氏が就任予定で、彼は「対台湾政策」の強硬派として知られている。政治局委員25人の中には、尹力氏(福建省書記)の名前も。これらは、台湾対策の(武力侵攻含む)の強化人事の一つとみられている。

 特に、新たな人事での外交部門トップの名前として、退任する楊潔篪氏に代わって王毅氏が筆頭に挙げられている。あの、他国への強硬な「戦狼外交」の立役者でもあるのが王毅氏だ。68歳定年の対象外の人物としての昇格となりそうだ。新たな上海市書記(トップ)には陳吉寧氏が就任した。次期、チャイナセブンの候補の一人となるだろう。

 このように、中国共産党新指導部は、習氏の側近などの習派以外は徹底排除(ほぼ消滅)された人事が特徴的だ。

 10月23日付朝日新聞には、「習氏に権力集中 加速—ブレーキ役 李首相退任」「習体制"外様"退場—集団指導体制に終止符/李克強氏 コロナ対応でも(習氏とは)違い」「68歳定年の不文律 目立つ例外—最高指導部7人中4人退任/胡錦濤氏 腕つかまれ退席」などの見出し記事。同紙24日付には、「習氏1強が完成 新体制—後継者不在 4期目も視野か」「"外様"排した"王国"」「共青団 指導部から一掃—"ホープ"胡春華副首相が中央委員に降格」などの見出し記事。同日、「習氏3期目へ 制約なき権力は危うい」の社説記事。

 10月23日付京都新聞には、「習派 指導部ポスト独占 集団指導体制瓦解」「"皇帝"終身支配視野か―習氏異例の3期目/ゼロコロナ 軍備強化 続く」「習氏3期目 イエスマン体制」「中国 戦狼外交 継続へ」などの見出し記事。

 10月25日付朝日新聞には、「習氏の権力集中"想定以上"中国の新指導部 日本政府に警戒感」「トップ24人 習氏 独自色」「習氏に誰がノーと言える? 中国共産党体制 各国メディア/米中対立増幅」「習氏3選1強の意味—○人権・安全保障も"中国式"加速 ○失った"内省力"危うい個人礼賛」などの見出し記事。

 10月26日・27日・28日・30日付朝日新聞には、「中国IT 株価軒並み下落 ―アリババ、百度 前週末比 1割超」「中国経済 冷める世界の視線—上海封鎖で見えた危うさ」「習氏3期目 経済発展に不安—"子飼い"でポスト独占/薄れる西側とのパイプ/崩壊しない不動産バブル—政府介入で資産偏在」などの見出し記事。「習近平氏と新権威主義」と題された社説。

 10月27日付「夕刊フジ」には、「ブレーキ役不在で 企業統制強化」「習氏3期目、独裁強化の今後」などの見出し記事。

 

 

 

 

 

 


十数年ぶりに見る、京都の時代祭り➋—たくさんの人、たくさんの外国人観光客の姿も‥

2022-10-26 07:59:18 | 滞在記

 京都時代祭の行列は、「江戸時代」「江戸時代婦人列」へと続く。大名行列の長持ちや毛槍(けやり)を掲げたのユーモラスな演技が繰り広げられる。幕末の「和宮(かずのみや)」などなど。さまざまな江戸時代の歴史的な女性たちも歩く。

 そして時代は「安土・桃山」。戦国時代の甲冑に身を包んだ兵士たち。「室町時代」「室町洛中風俗列」へと続く。幕府侍所の列、太鼓打童たちや足利将軍の馬上姿。

 側踊りの行列。時代は「吉野時代(南北朝時代)」に。楠木正成上洛の行列、「中世婦人列」には桂女(かつらめ)や大原女。「鎌倉時代」を経て「藤原時代(平安時代後期)」。「平安時代婦人列」には、静御前や常盤御前、馬上の巴(ともえ)御前。木曽義仲の愛妾で武勇の誉れ高き女性であった巴御前。透彫りの天冠に甲冑を着け、太刀に長刀を持って白馬にまたがる姿は実に美しい。この時代祭行列のハイライトの一つだ。この巴御前の役は、代々、京都五色街(祇園・宮川町など)の芸妓さんから選ばれる。

 『枕草子』の著者・清少納言、朝鮮半島の百済国から嫁いだ女性などの列が続く。そして、奈良時代末期から平安時代初期の「延暦時代」の武人たちの甲冑姿。

 2km、2000人余りの行列も最後尾が近づいてきた。この行列は、いよいよ祭事にたずさわる行列となる。胡蝶や迦陵頻が歩く。古代衣装の神官たちの行列が続く。神饌講社列と呼ばれる列の中に、私の娘の夫である山田高志君がいた。京都吉田山の吉田神社の山麓に娘の家があり、2月上旬の「吉田神社の節分祭」では、氏子として節分祭の鬼などもしてきている。今回の時代祭では、この地区の「平安講社(学区)」から時代祭への参加を初めて要請されての参加だったようだ。

 私の妻と、娘の次女の遙(はるか)が、衣装に身をまとった高志君の姿を見るために、吉田山山麓の家から、30分ほどをかけて歩き、平安神宮近くの神宮道まで来ていた。

 行列の最期は、「神幸列」。天皇が行幸の時に使う乗御輿、白川女(しらかわめ)、そして、弓箭組列(※明治維新の折り、京都の丹波国、南桑田郡[現・亀岡市や南丹市])が続いた。絢爛豪華な時代祭りの行列だった。良い天気にも恵まれた。

 売り子から500円で買った「時代祭」のパンフレットを見ながらの、時代祭りの行列を最後まで見送って、知恩院や円山公園に向かって歩く。紅葉が始まっているモミジも見られる。円山公園には、外国からの観光客がたくさん見られた。この京都時代祭りも見たことだろう。この10月22日、京都の丹波山系北山の鞍馬山にある鞍馬寺では、夜に、「鞍馬の火祭」が行われた。23日付京都新聞には、「3年ぶり 鞍馬の火祭—大松明(たいまつ)  夜空を焦がす」の見出し記事。

 

 


十数年ぶりに見る「京都時代祭り」❶―秋の京都を彩る絢爛豪華な歴史絵巻だった

2022-10-26 06:03:07 | 滞在記

 10月23日付京都新聞には、「秋の京 彩る 歴史絵巻」「秋の京 豪華行列に酔う 3年ぶり時代祭—沿道に6万3千人」などの見出し記事が掲載された。2020年からのコロナ禍下による中止以来、3年ぶりの開催となった。私は2013年9月から中国に赴任している関係から、この時期の京都時代祭りを見るのは十数年前に京都御所で見て以来となった。

 1868年に、京都から江戸(東京)に都が遷都された。この1868年の明治維新の時代からさかのぼり、古代の平安・奈良時代末期(794年前後)までの約1100年間、京都(平安京)が日本の都だった時代の歴史を物語るのが「京都時代祭り」だ。約2000人の時代衣装を身にまとった人々と物、そして約70頭の馬、2頭の牛が行列を作る。

 毎年10月22日に開催される時代祭り。正午12時に京都御所を出発し、丸太町通り、烏丸通り、御池通り、河原町通り、三条通り、神宮道などを行列は行く。そして、午後2時半頃に、行列の先頭は平安神宮に到着する。(行列の最後尾が平安神宮に到着するのは午後3時半頃となる。約2000人の行列は2kmにも及ぶ。)  京都御所、京都市役所前、平安神宮前の3箇所には観覧席(有料)が設けられる。だが、この時代祭りの巡行の行列を最も間近で見られる場所は、道幅が狭くなる平安神宮手前の神宮道。

 10月22日(土)、この京都時代祭りを久しぶりに見るために京都市内の神宮道に向かった。神宮道を行列の先頭が通過するのは午後2時10分。これに間に合うように道を急ぐ。京阪電鉄の「三条駅」から地上に出ると、三条通りの沿道はもう人で、ずらっとあふれていた。10月22日が今年は土曜日となり、3年ぶりの開催でもあるためか、沿道の人々のこの祭りへのすごい期待と盛り上がりを感じた。沿道の歩道に人があふれて通行しにくい三条通りを避けて、脇道の細い通りをぬけて神宮道に向かう。途中、白川の流れには、季節の花である金木犀(きんもくせい)が咲き香り、橙色に色づいた柿が川面の上に‥。平安神宮の大鳥居が見えてきた。京都市京セラ美術館前の欅(ケヤキ)の大木がすでに紅葉していた。

 ―平安神宮と時代祭—

 平安神宮は、明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念して創建された。「平安京遷都」の794年10月22日を記念して、毎年10月22日に、京都市民あげて始められた祭りが「京都時代祭」だ。各時代行列は、平安神宮の創建と同時にそのその維持母体として組織された全市にわたる市民組織「平安講社」や「学区」、「保存会」などによって執り行われている。行列は、明治維新から平安時代へ遡る倒叙法で構成され、当初6列(6時代)だった行列も、折々に加増され、現在は20列(20時代)、およそ2000人もの大行列となっている。

 ちなみに、京都三大祭りにおいて、それを執行する社(やしろ)は、次の三神社となる。①5月の葵祭りは上賀茂神社、②7月の祇園祭りは八坂神社、③10月の時代祭りは平安神宮。その三つの祭りともに、京都の町衆によって支えられている。

 時代祭りの先頭が神宮道にやってきた。先頭を行くのは、京都府警の男女二人による騎馬警官。その後を、「1300年に向けて いつも新しい古都」の横断幕を持った時代衣装を身にまとった女性たちの列。時代祭と書かれた幟(のぼり)。そして、明治維新の「維新勤王隊」の笛や太鼓、鉄砲や刀で武装した隊列が行く。

 この「維新勤王隊」の隊列だけでも100人をはるかに超える人。♪ピーヒャラ、ラッタッタと軽快なリズムに錦の御旗がひらめく。丹波の国、北桑田郡山国村(現在の京都市右京区京北町山国地区)から官軍に参加した「山国隊」の姿に倣ったもの。当初は山国村有志がこの時代祭に参加していたが、途中で参加できなくなったため、大正10年(1921)から平安講社第8区(壬生・朱雀学区)が引き継ぎ「維新勤王隊」として参加している。行列の中には、大人たちとともに、5〜6年生の小学生たちや中学生たちの姿も見られた。この学区の小学・中学生たちなのだろう。このようにして、時代祭を世代に受け継がれていく。

 

 

 


日本三大、大学自治寮❸日本一の大学キャンパス、北海道大学の恵迪寮、濃厚なバンカラの伝統も

2022-10-24 06:02:56 | 滞在記

  北海道大学は1876年(明治9年)に設立され146年の歴史をもつ。大学構内(キャンパス)は日本一の広さをもち、また、キャンパスの歴史的建築群や自然環境など、まさに「日本一」と評価される大学キャンパスである。私の娘がこの北海道大学に学生として在籍していたため、10回あまりこの北海道大学を訪れたことがあった。

 2月上旬の札幌雪祭りの季節、5月の新緑と桜、ライラックの花が咲く季節、6月上旬の「北大祭」や「サッポロ全国ソーラン祭り」の季節、夏7〜8月の北海道の季節、紅葉の美しい10月~11月の季節など、四季折々の北海道大学を眺めてきた。大学の正門を入り、しばらく進むと大学構内を流れるサクシュコトニ川が流れている。このほとりは夏、ビアガーデンにもなっていた。原生林も多い大学構内の木々にはリスがけっこう見られる。

 全前号でも紹介した、2009年1月6日付朝日新聞の「日本一のキャンパス—大志ここにあり」の見出し記事には、このような北海道大学構内の光景と大学の恵迪寮(けいてきりょう)のことが紹介されていた。かってこの寮で暮らしたことのある俳優の牟田悌三さんの談話も載せられていた。

 この大学の印象の一つは、やはり大学の雰囲気に「自由と自治」があると感じることだ。それは、京都大学の「自由と自治」の雰囲気とは少し違っていて、あまり学生の政治的な主張は強くはないが、「ほのぼのとした大学の伝統を守ろう」という気概は感じる。例えば、4月~5月に行くと、理学部本館や総合博物館前の芝生広場などの大学構内で「ジンパ」と呼ばれるジンギスカンバーベキューを何団体ものサークル(部)やクラスなどで集まってやっていて、ビールで乾杯をしている光景、大学祭の自由な雰囲気の光景などを見て感じた。そして、400人余りが暮らす大学の「恵迪寮」の光景など‥。

 恵迪寮の歴史は、大学の開学(1876年)と同時に始まっている。その木造2階建ての寮の、かっての寮舎の建物の一部は現在、札幌市郊外にある「北海道開拓村」に移築保存されている。その建物内には、かっての寮生活の写真が多数、展示されている。

 いわゆる「バンカラ」そのものの伝統的寮生活の光景である。この恵迪寮には、寮開設とともに今も続けられている伝統行事がある。「鈍才(どんさい)会」である。これは寮の講堂で、先輩たちがずらりと居並ぶ中で、新入寮生たちは、1人ずつパフォーマンスをさせられる。先輩たちから「合格」をもらえるまで何回でもやらされる。どんな成績優秀な者も、ここではまず、「鈍才」に戻れということを目的にした伝統行事だ。へたなプライドを捨てさり、「アホな鈍才」を尊ぶ気風の寮の伝統でもある。また、1900年代に入り、2階に続く階段の窓から、地上に積まれた雪の山に向かって赤ふんどし一枚の全裸で飛び降りる行事も続けられているようだ。

 恵迪寮の寮歌は「都ぞ弥生」。「都ぞ弥生の雲紫(くもむらさき)に‥」の歌詞で始まる日本三大寮歌の一つだ。入学式や卒業式、大学祭でも歌われる。あとの二つは、東京大学の(旧制第一高等学校)寮歌「鳴呼(ああ)玉杯(ぎょくはい)に」。「ああ、玉杯に 花受けて‥」の歌詞で始まる。そして、京都大学の(旧制第三高等学校)寮歌(逍遥歌)「紅萌ゆる」。「紅萌ゆる丘の花‥」の歌詞で始まる。今、京都大学そばの吉田山の山頂には「紅萌ゆる碑」がある。

 ちなみに、寮歌ではないが、早稲田大学の校歌として「都の西北」がある。「都の西北 早稲田の森に‥」で始まる校歌だがこれも有名だ。また、中央大学の学生歌である「惜別の歌」も有名だ。「遠き別れに 耐えかねて‥」で歌詞は始まる。この歌詞は島崎藤村の詩集『若菜集』の中の「高楼(たかどの)」という詩をもとにして作詞されたもの。

 秋の紅葉が見ごろな時期に北海道大学に行った時、たまたま「恵迪寮祭」が行われていた。この寮祭は10月上旬から約1か月間にもわたって行われるが、学生以外の一般人への参加(解放)が11月上旬に行われていたので行ってみた。寮の入り口付近は、嘴(くちばし)の大きなハシブトガラスがたくさんいて、人に向かって来るので、傘をさして防いだりもした。寮の中を見て廻った。まあ、カオス的な雑然とした雰囲気の寮。だが、建物が新しいせいか、それなりの清潔感はある。寮室も覗いてみたが、まあ足の踏み場もない感じ。バンカラ生活の伝統は今も続いているという感じだ。

 この恵迪寮は1984年に建て替えられた。A棟からF棟の6棟(寮室棟)と、食堂やホールなどのあるG棟(共同棟)からなる。共同棟を中心に放射線状に寮室棟が配置されていた。

 現在は約500人余りが入寮しているようだ。入寮人数が決まっていて、①日本人学部男子382名、②日本人学部女子90名、③日本人大学院生男子50名、④外国人留学生男子40名、約600人の入寮定数という内訳だ。寮室は10人余りの大部屋と一人の個室がある。寮費は1か月4300円(光熱費・水道費別)。1994年からは、この恵迪寮に女子の入寮も始まった。

 コロナ禍のため、2020年から対面の大学祭や寮祭などは中止されてきたが、今年2022年度は3年ぶりに対面の大学祭(6月)が行われ、また、7月上旬には「北海道大学VS小樽商科大学」の応援団による対面式が、札幌の大通公園で行われた。北海道大学恵迪寮から、大学構内、札幌市内を応援団の学生たちや、赤ふんどしに一枚の全裸の学生たちのバンカラ集団が練り歩き市民の声援を受けていた。バンカラの伝統は今も続く北海道大学。応援団メンバーのほとんどは、この恵迪寮に暮らしている。

 そして、今、恵迪寮祭が始まっていて、11月上旬の数日間は一般人に開放される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本三大、大学自治寮➋京都大学「熊野寮」「吉田寮」、北海道大学「恵迪寮」―バンカラ伝統も

2022-10-20 07:22:50 | 滞在記

 —「自由な」イメージと高校3年生が思う大学ランキング(2022年)、全国1位は京都大学—

 リクルートが運営する「リクルート進学総研」が関東、東海、関西の高校3年生を対象に調べた「進学ブランド力調査2022」の調査項目の一つに「自由なイメージの大学は?」という項目がある。この「自由な」イメージ項目が高かった大学をランキング化したところ、関東エリアの高校3年生では、1位青山学院大学、2位早稲田大学、3位京都大学だった。東海エリアでは、1位早稲田大学、2位京都大学、3位は慶応大学。関西エリアでは、1位京都大学、2位立命館大学と東京大学が同率で並ぶだった。全国的には、1位が京都大学、2位が早稲田大学‥となるのかと思われる。この「自由な大学」という学風は、大学にとってとても重要なことだ。

 さて、この「自由度NO1」のイメージがある京都大学には、主に4つの学生寮がある。最も寮生が多いのが、前号で紹介した熊野寮。そして、今号で紹介する吉田寮。三つ目は京都大学女子寮(百万遍にある。個室で入居者人数制限は30名ほどか。)。四つめは大学院生だけが入寮できる室町寮(京大吉田キャンパスからはまあ遠い)。他に、「YMCA地塩寮」(京大近くにある。京都市内の大学生なら入寮できる)というものもある。そして、海外からの留学生は、これらの寮にも入寮できるが、主に留学生・海外研究者用の6箇所余りの寮に入る場合が多いようだ。

 8月28日(日)の午後、熊野寮の見学を終えて、からふねや珈琲店で休憩し、近くの京都大学吉田寮に向かった。時刻は午後4時半頃になっていた。久しぶりに吉田寮に行くことになったのだが、驚いたことに、この吉田寮を囲む石垣沿いの歩道だけには、今もなおたくさんの立て看板が並べられていることだった。

 前号でも述べたが、山極壽一氏が京都大学の学長だった時代の2018年に、京都大学吉田キャンパス周辺の立て看板(タテカン)の撤去が強制的に行われた。これに対し、多くの学生や京都大学教職員組合は、「表現の自由の侵害」などとして、反対をしてきている経過がある。市民の多くも、この強制撤去には、「かなんな、‥。撤去なんて惜しいで‥。さみしゅうなるわ‥」と思ったようだ。2021年4月には、教職員組合は、京都市と大学を相手取り、京都地裁に「強制撤去の取り消し」を求めて訴訟を起こしている。訴状などによると、「立て看板の強制撤去により、表現行為が大きな制約を受けた」としている。そして、この京大タテカンは、「京大名物で、自由な学風を体現する要素として、高い評価を得てきた」と訴える。

 京大出身の俳優・辰巳琢郎さんは学生時代、劇団の活動で自身も立て看板を作っていた。そして、この京大名物のタテカンについて、「互いに『これはすごい』と評価し合い、タテカンの制作自体が大事な活動でした。演劇や音楽と同じ、一つの表現と思っていました」と語る。

 今もなお、この吉田寮周辺のタテカンだけは健在だった。そこに、この寮の表現の自由や自治意識の高さを感じてしまう。こんな大学生たちの集団は、今の日本にはなかなかお目にかかれない希少価値だ。この吉田寮周辺の20枚余りのタテカンを一つ一つ見てみると、「吉田寮祭」、「吉田寮寮生募集(京都大学に在籍する全ての学生及びその者との切実な同居の必要のある者)」、「人民酒場」、「11/28 15:00~—七三一部隊とF研究/京大の戦争犯罪/学問が戦争に協力するとき(主催:学問と植民地主義について考える会・京大戦争遺跡研究会)」「アイヌ民族交流会」などのタテカンが並ぶ。

 吉田寮の歴史は古い。1913年(大正2年)に設立されているので、110年の歴史を持つ。その頃に建てられた建物は今も残る。正面に見える木造の建物だ。(戦後に改修もされて、使い続けられている。)  吉田寮は200人余りが収容可能だが、現在の入寮者は120人余りのようだ。旧館の木造建築の廊下は、薄暗く、さまざまな貼り紙に壁面は覆われる。4〜6人が暮らす部屋は、これまた雑然とした、足の踏み場もない。伝統的な部屋のようすは、熊野寮とよく似ている。

 この旧館の2階建て木造建物の横にある空き地には、山羊(やぎ)🐐やニワトリ🐓などが飼われている。女子学生たちも住んでいる。吉田寮の自治運営委員の一人に出会ったので、寮での生活のことや、この10月に来日予定の国費留学生の入居などについても問合せた。寮費は1か月に2500円(光熱費・水道・ネット代込み)とのこと。留学生も入寮可能のようだ。

 久しぶりに、吉田寮に行ってみたら、大きな新館の建物が4棟あまりできていた。まだ、真新しく、外観が木造のコンクリート建物2棟、コンクリ―ト外壁の近代的な建物が1棟建っていた。(いずれも3階建て)  他に、外観が木造の食堂・共同スペース棟(2階建て)があった。ちなみに、ここ吉田寮には中核派などの看板や貼り紙などはない。寮の自治運営委員会としては、そのような政治団体とは一線を画しているようだった。

 この吉田寮は、大学当局から立ち退きを迫られている。旧館に暮らす寮生たちに対してだ。建物の老朽化のため、この歴史的な建物を取り壊すことを大学側は要求していて、これもまた、訴訟問題になっている。この11月2日には、京都地裁で、第15回口頭弁論が開かれる。「吉田寮自治会主催—学内シンポジューム開催決定!11月2日夕方〜夜」のチラシが置かれていた。

 京都大学の大学祭である「11月祭」は、京都大学全体の大学祭。今年は11月19日~22日の4日間、3年ぶりに対面を中心に開催される予定だ。(全国最大規模)  そして、ここ吉田寮や熊野寮でも独自の「寮祭」が毎年開催される。今年の吉田寮の寮祭は7月2日から10日までの約1週間開催されていた。寮祭の企画内容は、なんと100余りもあった。(中にはバカげたアホな企画もけっこう多いが、「真面目だが、バカげた・アホな」は、それはそれで大事なことではあるとも思う。私は、「真面目だが、こいつアホも入ってるな」という人間が好きだ。私の友人の多くは、「真面目だが、どこかアホが入っているなあ」という人物がほとんどだ‥。)

 現在、吉田寮は、「京大吉田寮通信」なるものを発行し、京都市内の喫茶店や書店などに無料で置いている。立ち退き訴訟などの問題を市民に知ってもらう目的もあるようだ。この4ページものの通信を読むと、とても面白い。この吉田寮での学生たちの暮らしのようすがよくわかりもする。この2022年には、30人余りの新入生の入寮があったようだが、通信を読むと、中にはこの吉田寮に住みたくて京都大学を受験したという学生もいるようだ。

 『京大的アホがなぜ必要か―ムダと変人が世界を変える!』、『京大的文化事典』、『京大変人講座』などの著書が、この2018年~22年にかけて、次々と出版されている。「京大変人講座」は、大学の主催でここ数年前から始まった。内容は講演や講座である。京都大学卒業生などが、この変人講座に登壇している。

※前号のブログで、「1070年代当時」と書いた箇所は、「1970年代当時」の誤りです。訂正します。