1949年12月、青島から台湾行の郵船に乗ることができない史明と協子。せまりくる中国共産党軍。万事休すのなか、思いついたのが青島に台湾の実家の親戚がいたこと、そしてその家を探し出す。そして、その親戚に頼み、台湾の婆様に電報を打ってもらい、200米ドルの送金を頼んだ。数日後お金が届き、そのお金を使い台湾行の郵船に乗ることができた。
しかし、台湾にたどり着いた2人は、中華民国が発行していた「良民証(住民カード)」がないため、船から下船して検閲所を通過して台湾の土を踏むことができなかった。このため、埠頭に接岸していた大型郵船のデッキから、船の下の埠頭に山となって積まれていたトウモロコシに飛び降りて、検閲所をさけて、命からがら故郷の家に7年ぶりに帰ることができたという。
1946年から再び始まった「国共内戦」。蒋介石率いる国民党軍は420万人の戦力、一方の共産党軍は120万人の戦力。一時は、国民党軍は共産党の本拠地である「延安」を陥落させたが、国民党内の腐敗や戦略の失敗などが重なり、民衆の支持も失い始めた。巻き返しを図る共産党軍は、ソビエトの支援も受け、鄧小平率いる東北軍団を中心に攻勢をかけ北京に迫った。その後、国民党軍の拠点・南京なども共産党軍によって陥落。1948年末には中国全土で国民党軍は敗走を重ねるようになった。(※「戦場のレクイエム」は、この国共内戦を描いている映画の一つである。)
ほぼ中国全土を掌握した中国共産党は、1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門で「中華人民共和国」の成立を宣言した。同年12月、史明や協子が台湾行の船に乗船した数日後、蒋介石は故郷の浙江省の家近くの飛行場から、台湾に退避する。
7年ぶりに実家にたどりついた史明。協子は初めての台湾であり、初めて史明の実家に来たのだった。「あああああ‥‥‥!この大バカ息子がっ!ろくでなし!ごろつき!しかも日本人の女なんか連れて帰って来て、一体どういうつもりなんだい!!!!!」―怒髪天を衝く、般若の面の形相の史明の母。日本語を解する父は、妻の態度をとりなすように、協子にねぎらいの言葉をかけたという。婆様は、ただ静かに、「よく帰って来たね」とだけつぶやく。このような中、二人は実家の居候となった。そして、翌年の1950年に母が53歳の若さで大腸がんのため亡くなった。(亡くなる間際まで、協子が介護につきそい、最後には協子のことを母は認めたという。) 大地主だった施家も戦争のどさくさで没落を余儀なくされた。
1945年からの第二次大戦後の台湾でよく言われていた言葉「狗去猪来(犬が去って豚が来た)」。よく吠えるが役にたつ犬(日本人)が去ったと思いきや、ひたすら食い散らすだけの豚(中国人)がやって来たと嘆く言葉だ。長らく統治していた日本人が台湾から去り、国民党政権となった中国から、多くの中国人たちが台湾に移住してきた。1947年には、「2.28事件」がおき、台湾人たちを弾圧し、その犠牲者は約2万8千人ともされて、「台湾史上最大の悲劇」ともいわれる。その後の1949年からは ものすごくモラルの低い国民党軍の官僚や兵士たちが台湾に逃れて いばりはじめてきた。そして、蒋介石も台湾に落ち延び、台湾は国民党が支配をするようになる。それからは、その国民党政権の横暴に異を唱えそうな知識人たちなどを拘束し、拷問にかけての国民党一党支配下の弾圧が始まった。
このような世情の中、史明は同士たちとともに「台湾人のための台湾を取り戻すべきだ」と「台湾独立革命武装隊」を結成。この武装隊は蒋介石暗殺を目指すテロ集団だ。1951年末、その蒋介石暗殺計画が発覚し、指名手配を受け警察や特務に追われ、約1か月間、台湾全域を逃げ回った。
そして、年明けの1952年、バナナを台湾から日本に輸送するバナナ船の、船倉のバナナの山に隠れて、日本に密航し神戸港にたどり着く。船員に神戸港で見つかったが、200米ドルを渡し、船から上陸させてもらったという。その4カ月後、協子も日本に渡ることができた。しかし、その後、史明は神戸の警察署に逮捕・拘留された。そして、拘留されている史明を協子が面会にくることに。しかし、台湾の国民党政権から、史明の台湾への引き渡し要請が。しかし、政治亡命が日本国に認められ、台湾への強制送還はされなかった。「天国から地獄へ、そして地獄から天国へ」の数カ月間の拘留生活だったと述懐する。はれて日本で生活をする自由を得ることに。
二人は東京に行き、生活のために「餃子屋台」を始める。そして、1953年に、東京池袋にバラックづくりの店名「新珍味」を開店させた。その後、店も新しく建てて、翌年の1954年には店の営業が軌道に乗り始めたという。
この池袋の「新珍味」にはさまざまな客が訪れ始める。さまざまな日本の作家たちや日本赤軍のメンバーなどもよく訪れてきたという。5階建ての建物の5階は、台湾独立運動の拠点となる。そして昼は餃子をにぎり、夜は、台湾独立運動の活動や爆弾製造にあたったという。1962年、『台湾人400年史』を完成させ出版、台湾独立運動のバイブル書となる。台湾では「禁書」となったが、コピーが出回ったという。
苦楽を共にし、生死の境を共にした事実婚・パートナーの協子は、1964年に新珍味を出ていくこととなった。史明・46歳、協子・37歳の別れとなった。彼女は引っ越した家の2階に日本舞踊の稽古場を設け、その後日本舞踊教室を開き生活をすることととなった。その後二人は数回会っている。1960年代中頃から1975年まで、史明のもとで訓練を受けた地下工作員たちが台湾に戻り、現地の同士たちとともに相次いでテロなどの武装行動実行している。史明自身も1968年と1975年に、尖閣列島経由で台湾に密航している。
1975年に蒋介石は死去。総統として後を継いだのは息子の蒋経国。史明たちと同士たちは2回にわたって経国暗殺を企てるが、失敗に終り、盟友の同士も処刑される。その後多くの同士たちも拘束され処刑されていった。
台湾国内での政治の民主化を求める声が出始めたが、民主化運動を弾圧する「美麗島事件」が1979年に起きる。これを機に、民主化の国民的要求が大きくなり始める。1986年には「民進党」が結成される。そして翌年、37年間続いた「戒厳令」が解除となった。1988年、蒋経国総統死去。李登輝が総統に昇格し、1990年より政治の民主化が本格化する。
そして、1993年に史明は沖縄—与那国島経由で漁船に乗って台湾に戻る。台湾上陸後、警察に逮捕されたが、多くの支持者たちが詰めかけ、釈放された。75歳となっていた。釈放後の記者会見で、「親類に会いに戻ってきたのではない。国民党政権の台湾植民地統治を打倒し、台湾独立を勝ち取るために戻った」とキッパリ宣言した。その後、年に1度は日本に戻り、「新珍味」の店の経営を見守ったりしていた。台湾では街宣カーに乗り、独立運動を行い続けた。
2009年、東京に戻っていた際に、急性腎不全で倒れ、1か月以上にわたって昏睡状態が続き、危篤となる。そして、「死ぬなら台湾で死にたい」の思いから、台湾の病院に転院。奇跡的に回復して死から逃れた。史明91歳だった。
民進党の政治家・蔡英文と知り合ったのは2010年頃。その後、彼女を高く評価し、2012年に蔡が台湾総統選挙に初めて立候補したときには熱心に応援。しかし、選挙結果は国民党の馬英九に敗れた。2014年に起きた若者を中心とした「ひまわり運動(中国寄りの馬総統への抗議運動)」の集会にかけつけて若者たちに歓声で迎えられる。史明は台湾人たちの伝説の人となっていた。
2016年、再び台湾総統選挙に立候補していた蔡英文の、最終日の選挙集会に会場に現れた史明。会場は興奮に包まれ、蔡も涙ぐむ。この選挙で蔡は女性初の台湾総統となった。
2016年の6月、100歳となっていた史明は、国立台湾大学で講演を行う。「俺はもうすぐ死ぬよ。だから台湾の未来は君たちに託すよ」と若者たちに語った。これが、公の場に姿を見せた史明の最後の姿だった。その後、病院に入院する。
生前に史明を見舞った『理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい』の編者・構成者である山田淳氏が見舞ったりしているようだ。史明は色紙に「日本人よ 忍耐せよ 永遠に前進し 世界のために旗を振れ 史明」としたためた。
9月20日、公務で台南市にいた蔡英文は、史明の危篤を聞き、台北に急きょ戻り病院へ急行した。まだ、息があり、蔡の姿を認めたという。史明の壮絶な100歳の生涯を見届けた蔡は直ちに声明を発表。「2016年1月15日、総統選の最終日の決起集会に。98歳のあなたが雨に打たれながら激励しにきてくれたことを忘れない。あなたはいつも暖かく包み込むように叱咤してくれた。総統はプレッシャーに耐え、志を抱き、決断し、強靭でなければならないと。台湾の自由と民主主義、主権のためにあなたのやり残した志を私は永遠に心に刻み続ける」。師との別れを惜しみつつ、決意をにじませた。
東京池袋の「新珍味」は、残された従業員たちによって、今も営業を続けている。平賀協子さんは、史明より一足先に、2017年8月に90歳で永眠した。