彦四郎の中国生活

中国滞在記

2020年1月台湾総統選挙を巡って❸―台湾独立のゴットファーザー「史明」、100歳で死す②

2019-10-31 22:36:46 | 滞在記

 1949年12月、青島から台湾行の郵船に乗ることができない史明と協子。せまりくる中国共産党軍。万事休すのなか、思いついたのが青島に台湾の実家の親戚がいたこと、そしてその家を探し出す。そして、その親戚に頼み、台湾の婆様に電報を打ってもらい、200米ドルの送金を頼んだ。数日後お金が届き、そのお金を使い台湾行の郵船に乗ることができた。

 しかし、台湾にたどり着いた2人は、中華民国が発行していた「良民証(住民カード)」がないため、船から下船して検閲所を通過して台湾の土を踏むことができなかった。このため、埠頭に接岸していた大型郵船のデッキから、船の下の埠頭に山となって積まれていたトウモロコシに飛び降りて、検閲所をさけて、命からがら故郷の家に7年ぶりに帰ることができたという。

 1946年から再び始まった「国共内戦」。蒋介石率いる国民党軍は420万人の戦力、一方の共産党軍は120万人の戦力。一時は、国民党軍は共産党の本拠地である「延安」を陥落させたが、国民党内の腐敗や戦略の失敗などが重なり、民衆の支持も失い始めた。巻き返しを図る共産党軍は、ソビエトの支援も受け、鄧小平率いる東北軍団を中心に攻勢をかけ北京に迫った。その後、国民党軍の拠点・南京なども共産党軍によって陥落。1948年末には中国全土で国民党軍は敗走を重ねるようになった。(※「戦場のレクイエム」は、この国共内戦を描いている映画の一つである。)

 ほぼ中国全土を掌握した中国共産党は、1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門で「中華人民共和国」の成立を宣言した。同年12月、史明や協子が台湾行の船に乗船した数日後、蒋介石は故郷の浙江省の家近くの飛行場から、台湾に退避する。

 7年ぶりに実家にたどりついた史明。協子は初めての台湾であり、初めて史明の実家に来たのだった。「あああああ‥‥‥!この大バカ息子がっ!ろくでなし!ごろつき!しかも日本人の女なんか連れて帰って来て、一体どういうつもりなんだい!!!!!」―怒髪天を衝く、般若の面の形相の史明の母。日本語を解する父は、妻の態度をとりなすように、協子にねぎらいの言葉をかけたという。婆様は、ただ静かに、「よく帰って来たね」とだけつぶやく。このような中、二人は実家の居候となった。そして、翌年の1950年に母が53歳の若さで大腸がんのため亡くなった。(亡くなる間際まで、協子が介護につきそい、最後には協子のことを母は認めたという。) 大地主だった施家も戦争のどさくさで没落を余儀なくされた。

 1945年からの第二次大戦後の台湾でよく言われていた言葉「狗去猪来(犬が去って豚が来た)」。よく吠えるが役にたつ犬(日本人)が去ったと思いきや、ひたすら食い散らすだけの豚(中国人)がやって来たと嘆く言葉だ。長らく統治していた日本人が台湾から去り、国民党政権となった中国から、多くの中国人たちが台湾に移住してきた。1947年には、「2.28事件」がおき、台湾人たちを弾圧し、その犠牲者は約2万8千人ともされて、「台湾史上最大の悲劇」ともいわれる。その後の1949年からは ものすごくモラルの低い国民党軍の官僚や兵士たちが台湾に逃れて いばりはじめてきた。そして、蒋介石も台湾に落ち延び、台湾は国民党が支配をするようになる。それからは、その国民党政権の横暴に異を唱えそうな知識人たちなどを拘束し、拷問にかけての国民党一党支配下の弾圧が始まった。

 このような世情の中、史明は同士たちとともに「台湾人のための台湾を取り戻すべきだ」と「台湾独立革命武装隊」を結成。この武装隊は蒋介石暗殺を目指すテロ集団だ。1951年末、その蒋介石暗殺計画が発覚し、指名手配を受け警察や特務に追われ、約1か月間、台湾全域を逃げ回った。

 そして、年明けの1952年、バナナを台湾から日本に輸送するバナナ船の、船倉のバナナの山に隠れて、日本に密航し神戸港にたどり着く。船員に神戸港で見つかったが、200米ドルを渡し、船から上陸させてもらったという。その4カ月後、協子も日本に渡ることができた。しかし、その後、史明は神戸の警察署に逮捕・拘留された。そして、拘留されている史明を協子が面会にくることに。しかし、台湾の国民党政権から、史明の台湾への引き渡し要請が。しかし、政治亡命が日本国に認められ、台湾への強制送還はされなかった。「天国から地獄へ、そして地獄から天国へ」の数カ月間の拘留生活だったと述懐する。はれて日本で生活をする自由を得ることに。

 二人は東京に行き、生活のために「餃子屋台」を始める。そして、1953年に、東京池袋にバラックづくりの店名「新珍味」を開店させた。その後、店も新しく建てて、翌年の1954年には店の営業が軌道に乗り始めたという。

 この池袋の「新珍味」にはさまざまな客が訪れ始める。さまざまな日本の作家たちや日本赤軍のメンバーなどもよく訪れてきたという。5階建ての建物の5階は、台湾独立運動の拠点となる。そして昼は餃子をにぎり、夜は、台湾独立運動の活動や爆弾製造にあたったという。1962年、『台湾人400年史』を完成させ出版、台湾独立運動のバイブル書となる。台湾では「禁書」となったが、コピーが出回ったという。

 苦楽を共にし、生死の境を共にした事実婚・パートナーの協子は、1964年に新珍味を出ていくこととなった。史明・46歳、協子・37歳の別れとなった。彼女は引っ越した家の2階に日本舞踊の稽古場を設け、その後日本舞踊教室を開き生活をすることととなった。その後二人は数回会っている。1960年代中頃から1975年まで、史明のもとで訓練を受けた地下工作員たちが台湾に戻り、現地の同士たちとともに相次いでテロなどの武装行動実行している。史明自身も1968年と1975年に、尖閣列島経由で台湾に密航している。

 1975年に蒋介石は死去。総統として後を継いだのは息子の蒋経国。史明たちと同士たちは2回にわたって経国暗殺を企てるが、失敗に終り、盟友の同士も処刑される。その後多くの同士たちも拘束され処刑されていった。

 台湾国内での政治の民主化を求める声が出始めたが、民主化運動を弾圧する「美麗島事件」が1979年に起きる。これを機に、民主化の国民的要求が大きくなり始める。1986年には「民進党」が結成される。そして翌年、37年間続いた「戒厳令」が解除となった。1988年、蒋経国総統死去。李登輝が総統に昇格し、1990年より政治の民主化が本格化する。

 そして、1993年に史明は沖縄—与那国島経由で漁船に乗って台湾に戻る。台湾上陸後、警察に逮捕されたが、多くの支持者たちが詰めかけ、釈放された。75歳となっていた。釈放後の記者会見で、「親類に会いに戻ってきたのではない。国民党政権の台湾植民地統治を打倒し、台湾独立を勝ち取るために戻った」とキッパリ宣言した。その後、年に1度は日本に戻り、「新珍味」の店の経営を見守ったりしていた。台湾では街宣カーに乗り、独立運動を行い続けた。

 2009年、東京に戻っていた際に、急性腎不全で倒れ、1か月以上にわたって昏睡状態が続き、危篤となる。そして、「死ぬなら台湾で死にたい」の思いから、台湾の病院に転院。奇跡的に回復して死から逃れた。史明91歳だった。

 民進党の政治家・蔡英文と知り合ったのは2010年頃。その後、彼女を高く評価し、2012年に蔡が台湾総統選挙に初めて立候補したときには熱心に応援。しかし、選挙結果は国民党の馬英九に敗れた。2014年に起きた若者を中心とした「ひまわり運動(中国寄りの馬総統への抗議運動)」の集会にかけつけて若者たちに歓声で迎えられる。史明は台湾人たちの伝説の人となっていた。

 2016年、再び台湾総統選挙に立候補していた蔡英文の、最終日の選挙集会に会場に現れた史明。会場は興奮に包まれ、蔡も涙ぐむ。この選挙で蔡は女性初の台湾総統となった。

 2016年の6月、100歳となっていた史明は、国立台湾大学で講演を行う。「俺はもうすぐ死ぬよ。だから台湾の未来は君たちに託すよ」と若者たちに語った。これが、公の場に姿を見せた史明の最後の姿だった。その後、病院に入院する。

 生前に史明を見舞った『理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい』の編者・構成者である山田淳氏が見舞ったりしているようだ。史明は色紙に「日本人よ 忍耐せよ 永遠に前進し 世界のために旗を振れ 史明」としたためた。

 9月20日、公務で台南市にいた蔡英文は、史明の危篤を聞き、台北に急きょ戻り病院へ急行した。まだ、息があり、蔡の姿を認めたという。史明の壮絶な100歳の生涯を見届けた蔡は直ちに声明を発表。「2016年1月15日、総統選の最終日の決起集会に。98歳のあなたが雨に打たれながら激励しにきてくれたことを忘れない。あなたはいつも暖かく包み込むように叱咤してくれた。総統はプレッシャーに耐え、志を抱き、決断し、強靭でなければならないと。台湾の自由と民主主義、主権のためにあなたのやり残した志を私は永遠に心に刻み続ける」。師との別れを惜しみつつ、決意をにじませた。

 東京池袋の「新珍味」は、残された従業員たちによって、今も営業を続けている。平賀協子さんは、史明より一足先に、2017年8月に90歳で永眠した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2020年1月台湾総統選挙を巡って❷台湾独立のゴットファーザー「史明」、100歳で死す―①

2019-10-30 21:48:30 | 滞在記

◆前号で、「―先住民に殺害されたことを機に1974年、日本は台湾に出兵した―」とあるのは、「―先住民に殺害されたことを機に1874年、日本は台湾に出兵した―」の間違いでした。訂正します。

 「台独教父(台湾独立のゴットファーザー)」の異名をもつ現役革命家・史明(しめい・シーミン)が9月20日、台北市の病院で100歳の生涯を閉じた。台湾・蔡英文総統政権の助言役にあたる「総統府資政」にも任命されていた史明(本名:施朝暉)。

 台湾の日本統治時代の1918年に台湾・台北市にて生まれ、早稲田大学で学び、1942年に中国大陸に渡り、中国共産党の抗日運動に参加する。1949年に、中国共産党政権下の大陸から故郷の台湾に逃れ、台湾独立運動のリーダーの一人として活動を開始し、蒋介石率いる国民党独裁に対峙し、指名手配を受け、間一髪で1952年に日本に逃れる。東京・池袋で中華料理店を営みながら台湾独立を主張する運動を組織、戒厳令解除後の1993年に台湾に戻った。著書に『台湾人400年史』などがある。

 彼を師として慕う蔡英文(ツァイ・インウェ)総統をはじめ、多くの台湾人が見守る中、「俺は死ぬよ。だから台湾の未来は君たちに託す―」との言葉を残し。100年間の壮絶な人生だった。彼が生まれた1918年から1945年までは、台湾が日本統治下にあったため日本人の国籍をもっていた「全身革命家のこの男の人生」はすごいものだった。彼の座右の銘「理想なくして生きる人生に どんな意味があるのか?」は、それはそれで、彼の100年間の人生を象徴する言葉でもある。

 史明の自伝書籍が2018年12月に日本でも出版された。『理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい―100歳の台湾人革命家・史明 自伝』(講談社)という書名。2015年10月、この書籍を作るために田中淳さんは初めて史明と台北で会い、その後何度も史明の人生を語ってもらうなかでできたのがこの書籍。だから、著者・史明、構成・田中淳となっている。

 書籍の背表紙の表には、”台湾総統・蔡英文推薦!”「史明おじさんは信念を貫き、誰よりも強い行動力を持つ人です。彼の物語は、台湾、日本、中国の激動の歴史そのものです」と記されている。背表紙の裏には、「この男、全身革命家!!!」「①家出し、日本留学―早稲田大学で社会主義に傾倒」「②中国で、中国共産党のスパイ―鄧小平の指示で台湾隊を結成」

 「③中国共産党の腐敗に絶望、最愛の日本人女性と逃避行」「④台湾で蒋介石暗殺を計画―バナナ輸送船で日本に亡命」「⑤餃子と爆弾を作る日々—『台湾人四百年史』を上梓・尖閣諸島経由で台湾へ密航・蒋経国暗殺計画・最後のブラックリスト手配犯・40年ぶりの台湾帰国・街宣カーで闘争の日々」、―「台湾独立のゴットファーザー」―と。

 私はこの本を2019年の1月に大学の冬季休暇で日本に帰国した際に購入して、あっという間に読み終えた。「こんな男がいたんだ!そして100歳となった今も、現役革命家として 台湾で生きているんだ。すごい男もいたもんだ。彼と生死をともにして歩んだ日本人の女性(事実婚)も相当な苦労をしただろうが、この人もすごいなあ‥‥」と思った。そして、台湾の歴史をもっと知りたいと思うようになるきっかけとなった。

 史明は1918年に台湾・台北の郊外にある農村地区で生まれた。台湾は当時、日本統治下にあった。彼の家はその地方では有名な大地主の家だった。彼の人格に最も大きな影響を与えたのが、婆様(祖母)だった。婆様は彼を溺愛。婿養子に入った父は、日本の明治大学に留学経験をもち、台湾の民間会社に勤務、「日本統治のもと、台湾人にも一定の地方参政権を与えるべきだ」と主張する台湾自治運動に熱心にも取り組む人だったが、家庭にはあまりいなかったし、会社から高給料も家には入れなかったようだ。(家族の生活費などは地主としての収入で十二分にまかなえるはずと考えていた。)名門・施家の家宰の中心は婆様だった。

 一族の期待を一身に背負った史明は、小学校・中学校と優秀な成績を治め、台湾では最もレベルの高い高校(北一中)に進学し、一族の誇りともなった。彼の母は、「医者か弁護士になってほしい」と強く願い、そのことを日々彼に話す。5年制だった高校でも、優秀な成績を治めていたが、日本の早稲田大学に留学したいと考え始める。

 彼は、4年生が終るとその計画を実行するために、「5年生の学費や諸費を納めなければならないから」と嘘をつき、そのお金を手にして大阪商船の日台連絡船に乗船し、4泊5日の船旅で日本に渡った。家出である。これを知った母は激怒、一方、祖母は、「行きたがっている若者を止めることはできない。行かせておやり」と史明の日本行を追認し、その後、祖母は毎月 仕送りをしてあげた。この年の1936年、史明が日本に到着する2カ月前に、「226事件」があった。

 1年間の日本での予備校を経て1937年に早稲田大学政経学部に入学、この年には「日中戦争」が始まる。大学ではさまざまな人たちと交流し、大学生活を楽しんでいたし、酒を酌み交わしながら天下国家について喧々諤々に語り合う交流も多く持った。この大学生活の中で、「社会主義」の思想に傾倒していき、非合法の読書会などに参加していく。また、武者小路実篤ともこのころ知り合い、知遇を得て、可愛がられる。また、他の文化人との知遇も得て、日本のさまざまな文化にふれていく。

 東京で社会主義・共産主義の理想に燃えるマルクスボーイとなった史明は、1942年、卒業式を待たずに東京を発って、長崎港から日本郵船の船で中国・上海入りした。そして、中国共産党が支配する江蘇省の根拠地に向かう。その後、上海と江蘇省を中心に、中国共産党のスパイとして、日本軍将校などと知り合いになり、主に日本軍の動向を中国共産党側に知らせる活動に従事。共産党の指示により、中国人女性・阿雲と暮らし始める。女性が妊娠し子供ができたら「革命運動」に支障をきたすことを考え、断腸の思いで「パイプカット」手術を受ける。台湾に暮らす祖母に「もう、名門・施家の子孫か残せない。婆さんすまない!」との思いをもちながら。

 そして1945年の8月、日本の敗戦を上海で迎えた。中国共産党の活動をしていたので、日本の敗戦は嬉しさもあったが、日本人の考え方や風土・文化・生活に慣れ親しんだ日本の敗戦は、単なる喜びではなく、それ以上に「日本が負けてしまった。ふるさと日本が‥‥」という悔しさが強く入り混じる複雑なものだったという。1945年11月に中国共産党より「北京に一人で異動せよ」という新たな指示があり、2年間連れ添った中国人女性・阿雲との別れであり、新たな出会いの始まりでもあった。

 北京で中国共産党からの新たな密命「アヘンを調達し上海まで運ぶルートを確立せよ」という危険な任務に従事し始めた史明。このころ、日本人の友人を介して、日本の敗戦まで北京の日本大使館に勤務していた日本人女性・平賀協子と北京で出会う。革命にその身を捧げ、結婚をしなかった史明だが、協子は自他ともに認める生涯唯一のパートナーとして、その後の約20年にわたり中国・台湾・日本で苦楽をともにすることとなる。

 1945年8月の日本の敗戦で、蒋介石率いる中国・国民党政権と毛沢東率いる中国共産党は再び中国国内の覇権争いに突入。この国共内戦は1946年から本格化し始める。史明は「俺はこれからどうすればいいのか」と悩み始める。自問の中で出した答えが「北京から最も近い中国共産党の解放区(根拠地)―張家口(北京から最も近い万里の長城がある)に行こう」だった。必要最小限のものを持ち、協子とともに張家口に向かった。そして、刑務所に入る囚人にも等しい「個」を捨てた集団生活が始まったという。

 1937年からこの中国華北地方を中心に日本軍や国民党軍と戦い、1946年当時 中国共産党華北軍30万人の軍団長だった鄧小平の命令を受け、台湾出身者を中心とした「中国共産党台湾部隊」の創設に奔走。国民党軍との戦闘では常にこの隊は最前線に配置され、多くの台湾同胞を死なせる。そして、このころの中国共産党について、「共産党は平等主義を掲げているが、その実態はガチガチのタテ社会、身分社会だ。それは今も全く変わらないが」「マルクス主義は、庶民を圧政から解放する理念を掲げている。だが、恐怖で支配する共産党の実態はその理念から大きくかけ離れていた」と その当時を回想する史明。

 その実態を日々感じ始め、社会主義・共産主義と中国共産党への「邯鄲の夢」から覚め始め、中国共産党の実態に心底絶望し、密かに脱出の決意を固めたのは1948年12月のことだった。中国共産党の解放区・根拠地に入って3年近く、そして1949年4月にここを協子とともに命がけで脱出。生死をかけ、紆余曲折を経て山東省の青島にたどりつく。「解放区から文字通り解放された」と実感したという。だが、青島から台湾に渡るための船になかなか乗ることはかなわなかった。青島の国民党軍が撤退して、中国共産党軍が青島に進駐すれば、逮捕され死が待ち受ける状況がさしせまってきていた。  (※次号に続く) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2020年1月、台湾総統選挙を巡って❶—台湾400年の歴史―台湾での3人の英雄、中台の攻防―

2019-10-29 20:30:19 | 滞在記

 2020年1月に総統選挙が行われる台湾(中華民国)。台湾は古来、太平洋ポリネシア系の住民が住み、中国本土とはかなり異なる文化をもっていた。台湾南部の台南の外港にタイオワンといわれたところがあり、その地名が後にこの島全体の名称となって台湾の字があてられるようになったらしい。

 中国の「宋王朝や元王朝の時代」(977年~1367年)の時代には、東アジアの海上貿易の中心地であった現在の沖縄が大琉球つまり琉球大国といわれ、台湾は小琉球と言われていたらしい。1368年に中国では「明王朝」が成立、この時代から、東アジアでは倭寇(日本人だけでなく中国人も多い)が活動し始め、その活動に加わった中国南部(華南)沿岸の漢人が台湾に移住を始めた。

 1544年、ポルトガルの船がこの島を発見、「麗しの島」と賞賛。1400年代・1500年代の「明王朝」代には、いくつかの原住民の地方王国の他に、日本や東アジアの「倭寇」の拠点ともなり、また、沖縄とともに東アジア交易圏の中継地ともなっていた。1550年以降、ポルトガル、オランダ、スペインなどが進出、台湾を分割植民地化していたが、1642年、ポルトガルやスペインをオランダが駆逐し台湾の多くの地域を支配下においた。1652年、オランダに抵抗する原住民地方王国の蜂起がおこったがオランダ軍に鎮圧された。

 1644年に中国本土では明王朝が崩壊し、清王朝が成立。明王朝の復興を旗印に掲げ、中国南部の広東や福建を拠点として清王朝と戦っていた鄭成功。清王朝との戦いで一時は南京まで迫ったが、南京攻略の戦いに敗れる。その後、鄭成功は台湾攻略をめざし、1661年にオランダ軍との戦いに勝利し、台湾を解放した英雄となる。現在、彼の巨大な銅像は、台湾のみならず、福建省の厦門(アモイ)や泉州などにもある。

 鄭政権成立以降、中国本土の広東や福建から多くの人々が台湾に移住、農地や鉱山などの開発を行った。39才という若さで鄭成功は死去、台湾での鄭政権は息子に引き継がれたが、1683年に、清王朝は台湾に遠征軍を送り制圧、ここに歴史上はじめて 中国の領土として中国本土の統治をうけることとなった。(※鄭成功の母は長崎県平戸の日本人、父の鄭芝竜は福建省の泉州を拠点としていた中国人の海賊軍の頭目。中国を逃れて平戸に暮らしていて、成功の母との間に、成功をもうける。)

 台湾をはじめて中国本土の支配下においた清王朝だが、「中華文明の圏外の蛮地」とみなし、本格的な王朝による経営はおこなわれず、福建省台湾支庁がとりあえずおかれ200年あまりがその後経過する。1871年、琉球王国の漁民たちが台湾に漂着して、先住民に殺害されたことを機に1974年、日本は台湾に出兵したが清国はそれに対抗できず、その後 日本軍は撤兵。これにより、日本と清王朝の間では、琉球は日本に属し、台湾は中国に属することを両国は確約した。(※日本軍の台湾派兵の目的で最大のものは、琉球を日本に属するものと清国側に認めさせること) 1885年に清国政府は、台湾を「台湾省」とし、本格的な台湾経営を行い始めた。

 1894年に日清戦争が起こった。この戦争後の下関条約により、台湾は勝利側の日本に「割譲」されることになった。このことを事前に知らされていなかった台湾では、急遽 独立国としての「台湾民国」を宣言し、その後、台湾南部を中心にゲリラ戦などで日本軍に抵抗し、日本の統治に難航したが、抵抗が困難となり抵抗は終わり、「台湾民国」も崩壊した。こうして1895年から台北に日本の台湾総督府がおかれ、日本が第二次世界大戦で敗戦となる1945年までの50年間の日本統治(植民地)が続けられた。

 1912年の清朝滅亡後、中国では孫文を首班とする「中華民国」が成立。孫文の死去後、1927年ころから「中華民国」内部では中国共産党と国民党との対立が激化、日中戦争が1937年に始まると、「国共合作」がなり、日本軍に対して共同戦線を張る。1945年の日本敗戦後に蒋介石を首班とする「中華民国」が中国で確立したが、その後再び、蒋介石率いる「国民党軍」と毛沢東率いる「中国共産党」の間の内戦が勃発。

 1949年、この内戦は中国共産党の勝利となり、中国での「中華人民共和国」成立宣言が10月1日に北京・天安門で宣言された。大陸での戦いに敗れた蒋介石の国民党軍は台湾に拠点を移す。この歴史的な出来事を時代背景とした映画の一つに「CROSSIG」(中国映画名;「太平輪」)がある。章子怡(チャン・ツイー)らが主演、日本人俳優として金城武や長澤まさみが出演している。

 1950年代に入り、台湾の国民党軍と中国本土の中国共産党軍との軍事衝突や危機は続いたが、「我们一定要解放台湾」「堅決解放台湾極救苦難中的台湾人民!」(私達は必ず台湾を解放する/苦難の中の台湾人民を必ず救う)などをスローガンに、特に1958年には、中国共産党軍は「台湾進攻」(第一次台湾進攻)を大規模に行おうとした。しかし、台湾の蒋介石を支援するアメリカ軍によって、阻まれることとなった。

 1970年代中頃に蒋介石が死去、毛沢東も死去した。台湾はそれまで国民党一党独裁の非民主国だったが、民主化要求が台湾人のなかでわきおこり始め1979年に美麗島事件がおきる。1978年に後を継いだ蒋介石の息子・蒋経国が総統となってからは、国民党以外の政党を法的にも認めることとなり、民主化の第一歩が始まった。そして、1986年に民進党が結成される。1987年に戒厳令が解除された。1988年に死去した蒋経国の後を継いで総統となった李登輝はさらに政治の民主化を進める。1990年に台湾では初めての、台湾総統の国民による選挙による選出が行われることとなり、民主化はより高い段階に発展。李登輝が選挙による初めての総統に選出された。

 そして、1996年のこの年、中国共産党は再び台湾武力侵攻を大規模にはかる。台湾に向けてのミサイルを大陸側の福建省に並べ、上陸用舟艇による侵攻をはかった(第二次台湾進攻)が、再びアメリカ海軍が台湾海峡を封鎖したため、侵攻はできななかった。この時、アジアの歌姫といわれた台湾出身のテレサテンも、軍服を着て、台湾軍を応援。このため、その後2010年ころまで、テレサテンの歌は中国本土では禁止される。そして、この年、台湾では初めての台湾人成人直接選挙による総統選挙が行われ、国民党の李登輝が台湾総統に再びなった。この年、中国共産党の実質最高権力者だった鄧小平が死去した。鄧小平をしても台湾の武力侵攻による「中台統一」はならなかった。

 李登輝退任後となった2000年の台湾総統選挙では、民進党の陳水扁が当選、50年間続いた国民党政権からの政権交代が実現した。この間、経済的な発展を遂げ、民主化も進めた台湾は、中国からの分離独立と「台湾」としての国際社会での承認を得る動きが強まり、中国政府は強く反発。2004年の総統選挙では、「中国本土とは分離独立した中華民国とすることや政治の民社化を守ろうとする」民意と「中国本土との統一を原則とすべきという統一派」民意とに国論が二分される傾向が強まった。

 2004年の総統選では陳水扁総統は激戦の末に再選されたが、2008年の総統選挙では、中国共産党とも対話を続けようと呼びかけた、「中台統一派」で国民党の馬英九が総統となった。馬英九総統・国民党政権は中華人民共和国との経済関係を強めるなど、二期にわたって政権を運用し、中台統一の機運をすすめたが、2016年の総統選挙では台湾は今度は民進党の蔡英文を選んだ。

 民進党・蔡英文政権に対して、民主主義や独立傾向が強まることを警戒し、中華人民共和国の習近平政権は最大のさまざまな 脅しや圧力を加え、中台関係は悪化、台湾経済にも大きな影響を与え続けている。2020年の総統選挙で再び「中台統一」を志向する国民党政権の再現を画策する中国政府。2019年6月より始まった「香港問題」は、支持率が低下し続けてきた民進党・蔡政権に大きな支持率回復という変化をもたらしてきてもいる。香港問題よりとても重要な台湾問題は「中国共産党の核心課題」「武力侵攻も選択肢に入る」と習近平主席は明言。香港問題の対応のまずさが、台湾問題に飛び火し、台湾人の民意が「中国警戒」へと大きく変化するという、中国政府の大きな誤算がそこにはあったようだ。

 台湾の三大英雄とは「鄭成功」「孫文」「蒋介石」の三人のようだ。台湾の最もレベルの高いといわれる大学の双璧は、台北市にある「国立台湾大学」と台南市にある「国立成功大学」。台湾大学が日本の東京大学なら、成功大学は日本の京都大学となる。

 「国立成功大学」は三大英雄の一人、鄭成功の名にちなんだ大学名である。

 

 

 

 

 

 


ついに金木犀が香る、長い長い真夏の季節の終焉❷初めてボンタンを食べる―日中の勤務時間に変化が

2019-10-28 07:31:43 | 滞在記

 6月以降、民主化を求める多くの人々のデモや集会が続いてきている香港。亜熱帯気候の香港の紋章花(香港の旗)である花が、同じく亜熱帯気候の中国・福州では今、満開となっている。この花の名前は「バウヒニア」。花の色は白やピンクや紫や赤や紺など、200種くらいの「バウヒニア」があるとされる。高木性のバウヒニアは香港では、「香港蘭」とも呼ばれる。10月頃から花が開花し始め、年を越して3月くらいのやや冷感の季節に花を咲かせる。

 この花はさまざまな色があるが、薄いピンクの種類が街路樹などに並ぶと、遠目から見ると桜並木のようにも見える。私が暮らすアパート近くにも数本の大木がある。そのうちの一本は3年ほど前の台風で3分の1ほど上が折れてしまったが、再生し枝を伸ばし、今年は見事な桜のようにも見える花を満開にしている。香港でも今頃、バウヒニアの花が満開になってきた頃かと思う。

 芙蓉の花は、日本では8月ころに花を咲かせるが、ここ福州では今が満開だ。おそらく芙蓉でもいろいろな種類があるためのようで、日本では草花という感じの芙蓉の種類だが、ここ福州の芙蓉はけつこう高い樹木花という感じの種類。閩江大学の構内の水辺に芙蓉の花が映えている。

 10月20日頃から、長い長い夏の季節がようやく変わり始めた。大学構内にある針葉樹林の林が、濃い緑から色が茶っぽい色に変わり始めてきた。日中の最高気温はまだ30℃近い気温があるが、湿気が少なくなり、朝夕や夜間は17℃〜20℃とかなり気温が低くなってきた。「悶熱(メンロー)」と呼ばれる悶絶しそうな半年余りの夏の季節がようやく終わりを告げ始めている。

 10月20日頃、大学の教室で2回生の授業をしていると、卒業論文を指導している4回生の学生の一人から、「先生、故郷の土産です」と言って3種類のものを渡された。2個のボンタンと名産のお菓子と地元産のお茶。お菓子の名前は「枕頭餅」。細長い枕のような形のお菓子。さっそく2回生の学生たちにも配りいただいた。ちなみに、中国で「餅(もち)」はこのようなお菓子の名前に使われるが、日本のような餅ではない。茶の名前は、「白茶奇蘭」という名前だった。

 ボンタンというものは、日本でも九州で栽培されているが、餅性のボンタンアメは時々食べるが、ボンタンそのものを 今まで食べたことはなかった。学生の故郷は平地にたくさんのバナナが植えられているところに近いようだが、彼の故郷は広東省に近い山地の「和平県」という場所。この山間地の県ではボンタンの栽培が名産として盛んなようだ。ボンタンの中国名は「柚子(ユィズー)」。日本の柚子(ゆず)と発音が似ているがまるで違う。この和平県の柚子(ボンタン)は、「紅肉」という名前。

 アパートでさっそく食べてみることにした。皮がとても厚くて包丁で切るのには、ちょっと一苦労。「紅肉」の名前のとおり、中は真っ赤な果実が肉のようにつまっている。一房を食べるだけでもボリュームがある。1個の4分の1を食べる終わると腹が満腹になった。味はけっこう美味しい。3~4日をかけて1個を食べ終わった。

 ボンタン1個でもけっこう重く、ちょうど1歳になる孫娘の頭と同じような大きさと重さがあった。かなり重い土産を、バスや列車を乗り継いで故郷から運んできてくれた学生に感謝したい。

 10月下旬になり、大学構内に金木犀の微かな香りが漂い始めた。ついに金木犀の開花が始まった。待ちに待った夏の季節の終焉を告げる金木犀の香りだ。(日本では9月中頃から下旬にかけて金木犀は開花するかと思う) 亜熱帯気候の中国・福州は、夏は日本より1か月間以上早い5月中旬から始まり、1か月間以上遅い10月下旬までの約半年間までも続く。

 10月26日(土)の夜に、福州にある日系企業(本社・愛知県)の通訳・翻訳・営業の業務をしている王君(今年の6月卒業)と会食をし乾杯をした。彼といろいろな話をしたが、その中で、中国の企業と日本の企業との違いの一つについて話してくれた。

 それによると、最近の中国の会社や企業は、残業することがあたりまえのように多くなりつつあるという。2015年ころまでは、中国の学生たちの日本企業のイメージは「残業が多い・ブラック」というイメージが強くあった。しかし、ここ数年、日本企業は「日本国内での残業減らし・働き方改革」などの影響もあり、中国国内でも残業は少ないという。一方、2015年ころまでは残業が少なかった中国企業や会社は残業が多くなってきたという。日中の企業の勤務時間に関する逆転現象が起きたという感じのようだ。

 王君の勤務する日系企業の勤務時間は、午前8時半〜午後5時までの、昼休みを挟んでの8時間勤務。「午後5時には勤務がきちんと終了するのは、いいですね。」と話していた。また、週休2日がある日系企業に比べて、最近の中国企業や会社は土曜日出勤が増加してきているとも話していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長い長い真夏の季節が、ようやく変わり始めたこの頃❶学んだ日本語を生かす、日本企業への就職

2019-10-27 22:58:18 | 滞在記

 10月中旬頃の、亜熱帯気候の中国・福州は、5月上旬ころから始まったまだ真夏の季節が終らない。ハイビスカスの花がまだ開花しているし、ブーゲンビリアの花々も陽光を浴びてまだ元気に咲いている。このブーゲンビリアのピンク色の花をよく見ると、ピンク色の花の真ん中のところに さらに小さな黄色い花が咲いていることに気が付いた。ちょっと不思議だな。

 大学の鐘楼を望む水辺には睡蓮の花がまだ咲いている。アキアカネのような赤とんぼが水辺で飛んでいる。日本でもそうだが、このトンボが飛び始めると、少しずだが秋の季節が近づいてもきていると予感させてくれる嬉しいトンボだ。構内の黄色いポピーのような可愛い形をした花が満開になっていた。青空とのコントラストが美しい。熱帯・亜熱帯性の里芋の大きな葉っぱ。これは、トンガやタヒチなど南太平洋の島々では主食ともなってきた里芋の近種かと思う。

 年に2回ほど実ができるバナナの実。5月中旬と11月中旬ころには収穫できるようだが、今はまだ実の房は小さい。一本とって実を割って食べてみたが、今の時期は固くて甘さもなにもない。大砲の弾丸のような紫色のバナナの大きな花ができると、その花のあたりから実ができてくるが、誕生した小さな実の房のあたりからも黄色い花が咲いている。そしてこの花は実が大きくなり始めると下に落下する。

 亜熱帯性気候の福建省や台湾では、バナナの樹木が多くみられるが、福建省南部の樟州は、バナナの樹木が一面に栽培され一大産地となっている。

 10月中旬でも気温は高く、日中の最高気温は35℃近くあり、日傘の花が大学構内で咲いている。入道雲(積乱雲)は、やや弱ってきていて、形は崩れてきているがまだ健在の10月中旬の季節。しかし、怖ろしいほどの湿気が和らぎ始め、朝夕は少しずつ気温が下がり熱帯夜がようやくなくなる。

 国慶節明けの10月10日(木)の夜、福州市内にある日系企業の社長・白石さんと今年の6月に閩江大学日本語学科を卒業した鍾さんの3人で会食をすることになった。場所は福州の人民広場にあたる五一広場近くの日本料理店「古都」。鍾さんは卒業後、白石さんの会社で通訳・翻訳業務員として働いている。もう一名の通訳・翻訳業務員を至急に探しているとの会社の事情があり、この日の会食の依頼を白石社長から連絡をうけ、話を聞くこととなった。

 福建省に故郷をもつ、日本語能力が高く 真面目で人柄の良い卒業生の何人かに連絡をとり、白石さんの会社での翻訳・通訳業務員の募集について話をする中で、柯さんが就職面接を受けることとなり その後、入社が決まった。連絡をとった一人の涂さんは、「11月より日本の関東地方の会社に就職が決まっていて、今は就労ビザの認可待ち」ですとのことだった。彼女から2日前に電話があり、「10月29日(火)に飛行機で日本に旅立つことになりました。いろろいと不安もあります」と伝えてきた。

 今年の6月に卒業した日本語学科の学生は35人あまり。このうち、20人ほどが卒業までに日本語能力検定試験1級に合格した。中国や日本の大学院にこの9月より進学したものが5人ほどいて、他に3~5人くらいが就労しながら、日本や中国の大学院を目指している。

 中国国内にある日系企業に入り、大学で学び習得した日本語能力を生かせる仕事に就職した学生たちの数はわからないが、そう多くはないように思う。中国国内にある日系企業は3万社近くと今も多いが、2010年頃をピークとして、日系企業の数の減少や事業規模縮小のため、会社の日本語能力のある人材募集も減少傾向にあるようだ。一方、涂さんのように、大学院には進学せず、日本国内の日本企業やホテルや店などに卒業後就職する学生が少しずつだが増えてきている。