彦四郎の中国生活

中国滞在記

ロシア、ウクライナ侵略戦争開始から7カ月➊—ウクライナ軍の攻勢、北東部のハルキウ州の奪還

2022-09-29 08:16:00 | 滞在記

 ロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵略戦争が始まって、この9月24日で7カ月間が経過した。9月上旬になり、ウクライナ軍の攻勢が始まり、10日間ほどでウクライナ北東部のハルキウ州全域をほぼ奪還した。ロシア軍はハルキウ州から撤退、ロシア軍の士気の低下、兵力不足、武器・弾薬の欠乏状況などが報道される。9月13日付朝日新聞には、「ウクライナ、奪還次々」の見出し記事が掲載。ウクライナ南部のヘルソン州でも、膠着状況なるも、ウクライナ軍の攻勢が伝えられ始めた。

 ウクライナ軍によるハルキウ州奪還を喜ぶ住民たち。しかし、再びロシア軍が侵攻する懸念もあり、今後の不安も大きい。アメリカ国防省は、先月25日、「ロシア軍の戦死者は、この6か月間で推定7〜8万人」と報告している。1979年から89年までの9年間続いた、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によるソ連軍の死者は1万5000人だったので、このアフガニスタン戦争での死者数を6か月間で4倍余りを上回っていることとなる。一方のウクライナ軍の戦死者数は1万人超と報道される。さらに、ロシア軍により虐殺されたウクライナ民間人も多数にのぼる。(ロシアの戦争犯罪)

 ロシア軍の兵力不足を補うために、ロシアの刑務所の囚人たちに、「志願して半年たったら、あなた方は戦場から帰宅し、恩赦をうけられるだろう」と志願を勧誘するロシア民間軍事会社「ワグネル」の代表者の映像も。弾薬・兵器不足を補うために「北朝鮮からの補充も」との報道もされていた。

 昨日、インターネット放送で、日本人ジャーナリストの横田徹氏による「ウクライナ・ロシア戦争の最前線」の最近の映像動画を視聴した。(ハルキウ州東部戦線に、ウクライナ軍に同行取材。)  間近にせまるロシア軍の弾丸や砲撃の音、数百メート先のロシア軍。物陰や木陰に身を隠す。「死のかくれんぼといった様相です」との横田氏のコメント。「これまでの人生も すべて破壊されました」と語る老齢の女性の声‥。

 ウクライナ軍に同行したイギリスBBC放送の記者の最前線の報告動画。間近に飛び交う弾丸や砲弾。ここを死守するウクライナ軍たちの地下室。死と隣り合わせの毎日が続く兵士たちの日々。兵士の多くは7カ月前までは、さまざまな普通の仕事をしていた人たちだ。地下室で、毎日、妻や孫たちと携帯電話で今日の一日を確かめ合う人たち。「我々は、欧米民主主義国の支援を信じつづけて戦ってもいる」との兵士の言葉‥。

 このような最前線での動画を視聴すると、この戦争の今の実際が私の体に伝わってもくる。

 「この10月・11月の秋、プーチン大統領は確実に一手を打ってくるだろう」と、大和大学の佐々木正明教授は9月中旬の報道番組で語ってもいた。

 

 

 


秋のお彼岸のころ—漱石の恋と茶屋の女将(おかみ)御多佳さん—お彼岸、孫たちとのひととき‥

2022-09-26 19:10:21 | 滞在記

 今年の「秋のお彼岸」は、台風一過の9月20日(火)が彼岸入りの日、再びの台風の影響で全国的に雨となった9月23日(金)が彼岸の中日(ちゅうにち)の秋分の日、そして、今日9月26日(月)が彼岸明けとなった。京都市出町柳の小さな寺院の門前に「曼殊沙華 離れがたきは 此岸かな」の言葉が掲示されていた。この秋のお彼岸の1週間余り、京都の町中にも、彼岸花(曼殊沙華)がいたるところに咲いていた。(上記写真は、京都市左京区の吉田山山麓「馬場公園」の紅と白の彼岸花。)

 9月21日(水)の午後、祇園白川石畳通りを歩く。白川沿いに彼岸花や藪蘭(やぶらん)が咲いていた。「かにかくに 祇園はこひし 寝(ぬ)るときも 枕のしたを 水の流かるる」(吉井勇作)と刻まれた「かにかくに歌碑」。この歌碑は、吉井勇の古希(こき/70歳)の祝いに、谷崎潤一郎らが1955年(昭和30年)に建立したものだ。この歌碑の近くには、吉井や谷崎らがよく通った茶屋「大友」があった。

 夏も終わったが、辰巳神社の百日紅(さるすべり)が今も少し赤い花を残す。木槿(むくげ)の白い花もまだ美しい。

 秋の花、萩(はぎ)や芙蓉(ふよう)が白川沿いに咲く。アオサギがこの白川に来て、じっと川面を見つめていた。

 祇園白川の辰巳小橋の近くの茶屋に「祇園をどり」(11/1~11/6於祇園会館)のポスターが貼られていた。あと1か月余りで開演だ。八坂神社には着物姿の若い女性も多いこの彼岸のころ。神社近くの円山公園には、修学旅行生たちがお弁当を広げていた。鴨川べりの四条大橋のたもとにある菊水ビルの上の空を見上げると、秋の「鰯(いわし)雲/おぼろ雲」が空一面に。

 9月24日(土)の午後、「ウクライナ諷刺漫画展」の会場に行くために鴨川に架かる御池大橋を渡ったところに、夏目漱石の句碑があった。夏目漱石は『虞美人草』などの作品を書くために京都を4度訪れている。そして、最後に京都に来たのが1915年3月~5月にかけての時期。句碑には、「木屋町に宿をとりて 川向こうの御多佳さんへ "春の川を 隔てゝ 男女哉(おとこ おんなかな)"」の一句。漱石は祇園白川石畳通りにある茶屋「大友」の女将(元芸妓)に恋をしていた時の句だ。御多佳(おたかさん/磯田多佳子)は当時36歳、漱石は48歳だった。この時、「大友」での茶屋遊び途中に、持病の胃潰瘍が悪くなり、「大友」で御多佳さんに2〜3日、やっかいなってもいる。

 彼女を巡って、他の男性への嫉妬に悩んだりもしている漱石。句碑の近くにある木屋町通りにある旅館が京都での漱石の定宿だった。なかなか東京に戻ってこない漱石、漱石の妻は京都まで迎えに来てもいる。翌年の1916年に漱石は、胃潰瘍の悪化で亡くなった。享年49歳。2016年に、NHKBSプレミアムで「漱石悶々 夏目漱石の恋—京都祇園の二十九日間」と題されたドラマが放送された。夏目漱石役は豊川悦司、御多佳さん役は宮沢りえ。漱石が最後に京都祇園のお茶屋に来ていた1915年、谷崎潤一郎と吉井勇は共に29歳となり、文壇に認められて4〜5年が経っていたが、東京住まいでまだ京都の祇園のお茶屋を訪れたことはなかったようだ。

 この日、「ウクライナ諷刺漫画展―ウクライナからの手紙」を見たあと、三条通りにあるイノダコーヒー本店に行き、喫煙可のテラス席にて、しばし本や新聞などを読んで過ごした。

 同日、夕方の四条大橋から三条大橋方面を見ると、たくさんの人が鴨川べりに座っていた。9月末日まで設けられている鴨川沿いの「納涼床」もたくさんの人で賑わっていた。好天に恵まれたこの一日、東山の山々の空が茜色(あかねいろ)に染まり始めていた。

 9月22日(木)の午後、午前中のオンライン授業を終えて、すぐさま、銀閣寺近くの娘の家に孫たちの子守のサポートに行く。いつもはこの11月下旬に2歳になる寛太と、近くの吉田山山麓にある真如堂や金戒光明寺に散歩に2〜3時間ほど行くのだが、この日はこの12月下旬に4歳となる孫の遙(はるか)もついてきた。

 光明寺のいつもの寛太と過ごす場所で、孫たち二人は水遊びに興じていた。墓地にお参りする人たち用の小さなバケツや柄杓(ひしゃく)がたくさん置かれている水汲み場で、水をバケツに入れて、水を参道に撒いたりして遊んでいた。秋のお彼岸の墓参りの人たちで、この日の水汲み場は賑わってもいた。

 遊び疲れたのか、本堂前の石段で二人の孫はしばらく寝そべる。本堂の建物の縁の下に住みついている三毛猫(みけねこ)に興味をもち、猫に近づくも、猫は寛太と距離をとって離れていく。さまざまな自動車や犬や猫や魚などに、興味がつきない、もうすぐ2歳の寛太。寛太とよくケンカもするが、少しお姉ちゃんらしくなってきたもうすぐ4歳の次女の遙。そして、もうすぐ6歳になる長女の栞(しおり)の、三人の孫たち。混迷の世紀となってきているが、どんな未来が待っているのだろうか…。

 

 

 


ウクライナの漫画家たちによる諷刺漫画展「ウクライナからの手紙」於:京都市

2022-09-26 06:14:27 | 滞在記

 ロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵略戦争が始まって一昨日で7カ月間が経過した。そして、この9月上旬から中旬にかけてこの侵略戦争の戦況に大きな変化が生まれてきている。ウクライナ軍による反撃により、ロシア軍が占領していたウクライナ北東部のハルキウ州から、ロシア軍が全面撤退をしたのだった。ロシア軍内の士気の極端な低下や武器・弾薬の欠乏などが伝えられる。

 この敗色的状況に対しプーチン大統領は、9月下旬には侵略により占領しているウクライナ東部や南部の4つの州の「ロシア領土編入への住民投票」を実施、また、ロシア軍予備兵登録者のうち、30万人規模にのぼる部分的徴兵動員を行うことを決定した。30万人ではなく100万人規模の部分的徴兵動員が実施されるかもしれないとの情報も伝わる。

 この動員命令に対し、ロシア国内では反対デモが全国的に起こり(40余りの都市)、昨日までに2000人余りが警察に拘束されてもいる。この状況に、ロシアからの国民の国外脱出が止まらないと報道されている。

 ロシア軍が撤退したハルキウ州だが、ロシア軍占領下のウクライナ住民に対する大規模な「戦争犯罪」が次第に明らかになった。9月25日付朝日新聞には、「林の陰 番号だけの十字架」「残ったのは廃墟と死・恐怖—解放されたイジューム 拷問の記憶」などの見出し記事。9月25日付産経新聞には、「ウクライナで戦争犯罪—国連調査委 露の行為 厳しく批判―447遺体搬出 拷問痕跡も/イジューム郊外」の見出し記事。

 9月21日付朝日新聞の京都版に、「反戦 武器は風刺漫画—中京、ウクライナ出身6人の作品展」の見出し記事。9月24日(土)の午後に、この作品展を見に行った。作品展が開催されている場所は、京都市中京区の京都市役所西側の通りにある「アートスペース(画廊)余花庵」。「ウクライナの漫画家たちによる諷刺漫画展―ウクライナからの手紙」と題された作品展は、9月13日から昨日25日までの2週間の開催だった。(入場無料)

 この作品展(企画展)は、FECO・JAPAN(国際漫画家交流団体の日本支部)が主催。4月に京都国際漫画ミュージアムで「平和への100の扉」展としてスタートし、6月には大阪市内で、7月には鳥取県の鳥取市➡米子市➡倉吉市で順次開催されてきている。この作品展は、新聞社、TBSのサンデーモーニングやNHKの全国ニュースでも報じられた。今後も、日本各地で開催されることかと思われる。

 今回開催された作品展では、ウクライナ出身の漫画家たち6人の近作、61点が展示されていた。この6人のうち4人は現在ウクライナ在住、2人はベラルーシやスロバキア(避難)など国外に在住。

 この6人の漫画家たちは、ロシア軍による侵略前までは、子ども向けの童話イラストなどを描く人が多かったようだが、ロシア軍侵攻以後は戦争反対の風刺画ばかりに。「本当はやさしい漫画が描きたい。でも風刺漫画が今の私の武器です。作品を見て現実を知ってほしい。早く戦争が終わってほしい」とメッセージを寄せていた。

 展示会場は「写真撮影」は許可されていた。「写真や動画を撮影し、多くの人に伝えてください」と主宰者の人は言っていた。この私のブログでは、特に心に残った15枚の漫画を掲載しました。

 

 

 


中秋の名月が過ぎ、彼岸花(曼殊沙華)の花が咲く季節に—湿気と残暑厳しくも

2022-09-15 07:56:19 | 滞在記

 湿気をともなう残暑がとても厳しい今年の9月。台風の多発は、南からの湿った空気をともなう日々が連日続く。9月23日は秋分の日だが、この日を境に、本格的な秋の訪れとなるだろうか。そんな9月中旬の京都だが、鴨川沿いの出町柳駅近くにある小さな「常林寺」では、秋の花「萩」が開花してきている。この寺の別称は「萩の寺」。白やピンクの萩の花が、小さな境内を埋めつくす。小さな山門の横には、季節の言葉として「あたりまえに感謝」と一筆、書かれていた。

 この小さな寺は、幕末期、勝海舟が京都に来た時の定宿だった。この勝を訪ねた土佐藩脱藩浪人の中岡慎太郎と坂本龍馬は、小さな本堂に宿泊したと伝わる。

 この常林寺のほぼとなりにある小さな寺「正定院」の小さな山門を入ると、秋の花でもある鶏頭(けいとう)が境内一面に咲いている。山門の横には、8月下旬には「この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめに 田草とるなり」の和歌が、そしてこの9月中旬には「菊花隠逸(きくか いんいつ)」と書かれている。「隠逸」とは"俗世のわずらわしさから逃れて隠れすむ"との意味だが‥。山門の前の道沿いに、秋の草花「藪蘭(やぶらん)」の紫の実もみられるようになってきた。

 湿気と残暑の厳しさに、涼(りょう)を求めて、鴨川に架かる四条大橋と三条大橋の間の土手にたくさんの人が腰をおろしている9月上旬・中旬の光景。

 今年の「中秋の名月」は9月10日(土)となった。中国では「中秋節」として祝祭日となる。中国の大学の学生から、「中秋節おめでとうございます」のメッセージが送信されてきた。この日の午後8時頃、自宅2階から見えた満月の写真を撮り、「日本でも中秋の月が大きくきれいです」と返信した。12日(月)は振替休日となり、大学の授業も休講日となった。

 9月中旬の14日(水)、自宅近くの水田や畑のあるところで、彼岸花(曼殊沙華)の赤い花が開花し始めていた。10日ほど前の5日(月)にここに来た時には、地面の上には彼岸花の芽は見えなかったのだが、10日ほどで芽が出て、茎を伸ばし、花を開花させていた。

 週に2度ばかり孫の寛太たちの世話に京都銀閣寺近くの娘の家に行き続けている。寛太もこの9月で1歳9か月となった。よく寛太と散歩に行く近くの真如堂や金戒光明寺。紫式部の紫色の実ができ、山芋(やまい)の「むかご」が実をつけていたので、生で食べてみた。この「むかご」は、塩ゆでにしたり、炊き込みご飯にすると美味しい。

 炎天下、金戒光明寺の三重塔に至る急な石段で、東山高校の陸上部の部員たち20人ほどが、トレーニングをしていた。長く急な石段を片足だけで登って行ったり、後ろ脚を持たれたままの腕立て伏せいで登ったりしている。すごいなあ‥。

 自宅近くの家に、亜熱帯植物である「デェイゴ」の赤い花か咲いている。かなり大きなデェイゴの樹木。亜熱帯地方である中国福建省や、日本の沖縄などにこのデェイゴは生育している。亜熱帯地方でもない京都にデェイゴの花が咲くのは驚きでもある。温暖化の影響なのか‥。そのとなりの家は空き家となり、蔦(つた)に家全体が覆われている光景‥。

 11日(日)、自宅から車で30分ほどのところにある京田辺市天王地区に行く。稲が黄金色になり始めていた。ここにあるぽれぽれランド(野村治さん主宰)に久しぶりに行ってみた。野村さんたち数名が、木製大ステージ(テント)を作成していた。小粒の甘がきがもう食べ頃になっていて、何個かを持ち帰らせてもらった。

 ピンクのコスモスの花が咲き始めた。秋到来を告げるピンクのコスモスの花。栗も実ってきている。

 9月9日(金)から10日(土)にかけて、銀閣寺に住む孫娘の栞(しおり・5歳)と遙(はるか・3歳)が私の自宅に泊まりに来た。銀閣寺の娘の家まで、9日の午後4時半頃に二人を迎えに行った。バスに乗り、京阪電車に乗り、自宅に来た。

 来月の10月、京都では「学生祭典」が10月9日(日)に平安神宮と周囲の岡崎公園で開催される。また10月22日(土)には「京都時代祭」が開催される予定だ。

 

 

 

 

 

 


中国人にも敬愛・尊敬された稲盛和夫氏逝く―日本をはるかに上回る稲盛氏死去の報道はなぜなのか?

2022-09-04 05:06:33 | 滞在記

 1972年に日本と中国が国交正常化をはたして、今年は50周年となる。1978年には日中平和友好条約が締結され、日本と中国の経済・文化など多方面の国交関係がスタートした。この50年間で、中国国民にとって忘れられない日本人が何人もいる。1980年代前半、日本の映画やドラマ、アニメなどが中国の人々の間に初めて公開された。この中で、特に中国の人々が熱烈なファンとなった俳優、女優は、高倉健さんと山口百恵さんだった。

 今、55歳以上の中国人なら誰もがその名前を出すと知っている。そんな二人だ。中国が1978年から改革開放へと国内外に舵をきり、1980年代前半に初めて中国国内で公開された外国映画が、高倉健主演の「君よ憤怒の河を渡れ」(中国語題名「追捕」)だった。その後、中国国内で高倉健主演の映画は次々と公開された。そして、2006年には、中国で最も著名な映画監督である張芸謀(チャン・イーモウ)監督による高倉健主演の「単騎、千里を走る」(中国語題名「千里走単騎」)が中国・日本などで公開もされた。2014年に高倉健が亡くなると、中国ではそのニュースが大きく取り上げられた。高倉健を中国語名で発音すると「ガオツァング・ジェン」となる。

 また、山口百恵主演の映画やテレビドラマ(「赤いシリーズ」)なども上映・放送され、中国人の心をつかんだ。(映画としては、「絶唱」など) 山口百恵を中国語名で発音すると「シャンコウ・バイフゥイ」となる。日本のアニメーションでは手塚治虫原作の「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」なども、中国の子供たちに大人気となった。その後、藤子不二雄原作の「ドラえもん」は、中国では現在もまだ人気アニメとなっている。

 2000年代に入ってから現在に至るまで、中国で特に著名で尊敬・敬愛されていた日本人を三人あげるとしたら、宮崎駿さん、東野圭吾さん、そして、稲盛和夫さんとなるだろうか。宮崎駿の「天空の城ラピュタ」をはじめとするアニメ作品は多くの中国の人々に絶賛され続けた。2014年に彼が引退発表をした時には、テレビだけでなく中国共産党機関紙の「人民日報」などても一面にそのニュースを掲載したほどだった。

 作家の東野圭吾さんの書籍は、2013年頃から爆発的なベストセラーとなり、大都市だけでなく地方の都市の書店に行っても「東野圭吾コーナー」が設けられ、平積みとなって十数冊が置かれている人気は今も続いている。

 そして、この8月24日に90歳で亡くなった経済人の稲盛和夫さんもまた、中国の人々に敬愛され尊敬された日本人だった。

 稲盛和夫さんが中国の人々(特に企業経営者たち)から大きな関心を寄せられ始めたのは2010年頃からだった。彼の書籍もまた、中国の書店に平積みにされ、多くの中国人が購入していた。特に『生き方」『考え方』『生きる力』(中国語題名は『活法』など)は、中国では累計2000万部を超える大ベストセラーとなった。『生き方』は、「人間として一番大切なこ」の副題がつく書籍だ。

 そして、稲盛和夫さんの死去に対し、中国外務省報道局の趙立堅副報道局長は定例会見で、「中国は稲盛氏の逝去に対し、哀悼の意と、ご家族にお見舞いを申し上げる」との追悼を述べ、「(稲盛氏は)日本の経済、科学、文化事業の発展を推進し、中日両国関係の友好交流と協力を促進するために積極的に貢献しました」とし、さらに、「中日両国の各界が交流と協力を深め、中日関係の安定的発展を推進するよう希望する」との表明した。稲盛和夫氏死去については、日本の報道番組でも特集的に取り上げられもしていた。

 稲盛和夫氏死去に際し、その訃報が中国で公表された8月30日、中国版ツィツター「微博(ウェイボー)」に投稿された#稲盛和夫去世(死去)とのハッシュタグ付きメッセージの閲覧回数は、たった半日たらずで3.8憶回をも超えた。中国のSNSでは、30日の午後時点で検索のトップとなった。また、中国の主要メディアなども速報で報道した。

 なぜ、これほどまでに、稲盛和夫氏は中国で敬愛され、尊敬されたのか‥。稲盛和夫氏とは‥。

 ―稲盛和夫—1932年、鹿児島県生まれ。自営の印刷町工場を営む家に七人兄弟の次男として生まれる。実家の経済状況が厳しく、高校に行かせるだけでも精一杯で、大学進学などは難しかったが、長兄(大学に進学していない)や周囲の支援もあり、大阪大学医学部を受験(少年期に結核病初期の肺侵潤症に苦しんだこともあり医学部を受験)したが不合格。地元鹿児島県の鹿児島大学の工学部応用化学科には合格し、大学へと進んだ。就職でも苦戦し、卒業後は、京都市内にあった中小企業の「松風工業」(電線の絶縁体を作る会社)に就職したが、すでにこの会社の業績は悪化の一途をたどっていて倒産危機にあり、従業員の多くが会社を辞めていった。

 それでも会社に残っていた従業員ら8人とともに、1959年に京都セラミックス(現・京セラ)を創業し、1966年に代表取締役についた。セラミックスをつくる会社としてスタートしたが、その後、電子部品などの分野でも業績を伸ばし、現在の日本をを代表する大企業の一つである「京セラ」にまで発展させた。また、「KDDI」なども設立し、情報産業分野でも会社を発展させた。2010年1月に、2兆3000憶円という戦後最大の負債をかかえた日本航空が倒産した。その再建を任されたのが稲盛和夫氏でもあった。

 経営者・技術者としてだけでなく、1984年に財団法人「稲盛財団」を設立。その財団は「京都賞」などを設立し科学・文化・芸術・文化の発展にもつくしている。京都賞を受賞した後に、ノーベル賞を受賞した人は、山中伸也氏など8人にものぼるので、ノーベル賞への登竜門ともよばれる。また、サッカーチームの「京都パープルサンガ」の代表取締役を務めたこともあった。

 中国で、なぜ稲盛和夫氏が、日本以上に中国の経営者だけでなく、この10年間余り、多くの中国人に知られ、敬愛され、尊敬されたのか。そのことがよくわかるテレビ番組が2014年にNHKで放送された。番組名は「いま中国企業で何が?—日本式経営ブームの陰で―」。

 なぜ、稲盛氏の説く経営哲学や人生哲学が中国の人々に広く受け入れられたのか。「利他本来就是経商的原点」(他を利するところにビジネスの原点がある)の言葉に象徴されるように、稲盛氏の説く経営哲学は江戸時代から続く近江商人の教えである「三方良し」(買い手良し、売り手良し、世間良し)に通じるところがある。いわゆる日本の伝統的な信用商法の教えだ。

 現在の世界で、200年以上続く企業や商家は5500余りある。そのうち、53%の3300社・商家が日本にある。信用と「三方良し」の哲学失くして、200年も続くことはあり得ない。次に多い国はドイツ。だが、中国はたったの4社・商家しかない。「信用と三方良し」が欠落した社会が中国でもあったのだ。1980年代の改革開放以来、特に2000年代に入ってからの10年間は中国は高度経済成長期となり、10%を超す年間経済成長期を迎えた。起業すればほとんど、成功もし金がたくさん儲かった10年~15年間だった。いわゆる「バッタモン」(劣悪・模造商品)も多く製造された。

 「お金はたくさん儲かって、立派な家も建て、贅沢もしました。でも心は空っぽでした」と、語る経営者や起業家も多くあった中国の2010年‥。そこに稲盛氏の説く経営哲学が注目され始めた背景があった。

 2011年・12年に起きた尖閣諸島を巡る問題で、日中両国民の相手国に対する感情は悪化の一途をたどった。2013年の日中国民の相手国に対する印象で、「良くない」と答えた人の割合は、日本では90.1%、中国では92.8%にまでのぼった。だが、そんな中でも、中国人の稲盛氏の教えを求める心は高まるばかりだった。

 稲盛氏の中国での講演会には、講演会が開催されるたびに、全国から人々が押し寄せ会場に入りきれなかった。講演や著書を読み、経営を見直す企業家も多かった。例えば、従業員のために、社員食堂の料理の質を上げる、社員の誕生日には、みんなでケーキ―を渡し祝ってあげるなどなど、福利厚生の向上なども行った。また、会社の実情を社員に正直に話し、社員みんなでこの苦境をどう乗り越えて行ったらいいかを真摯に相談したりなど‥。こんな取り組みの中で、「家族といっしょに仕事をしているよう‥。だから、がんばれる」という社員の声も出始め、会社が活気と業績回復になっていったりと‥。

 このようなことが、NHKの「いま中国企業で‥」では、稲盛氏の影響と中国企業が描かれていた。

 稲盛和夫氏の中国での知名度が上がってきたのは2007年頃からと言われている。この年の米国フォーチュン誌が発表する世界の企業売上高ランキング「フォーチュン・グローバル500」に、稲盛氏が立ち上げた京セラとKDDIの2社がランクインしたことがきっかけと考えられている。若手経営者を育てる「盛和塾」(稲盛氏主宰)が2010年に中国でも開催されることとなり、その後、稲盛氏の説く経営哲学は、数多くの中国人経営者の信奉者を生むこととなっていった。中国最王手電子決済会社のアリババグループの創始者・馬雲(マー・ウェイ)や、中国最大手携帯会社ファウェイの創始者・任正非なども、この稲盛哲学を信奉し、多くの影響を受けたとされている。

   稲盛氏の説く経営哲学は、儒教など中国の伝統的価値観に通じるところが多々あり、彼の著書を聖書のようにカバンに持ち歩く経営者も多いようだ。日本の近江商人の商法哲学もまた、江戸時代に広く広まった儒教の教えに基づくものが多々ある。日本では儒教が近世の江戸時代以降広まって定着もしていったが、中国では近世・近代にはすたれていた。

 日本人のものの考え方や行動には、「武士道」の影響が今もつよく残る。武士道の三つの源泉は「神道」「仏教」「儒教」からくる。私は中国の大学の「日本概況」(3回生対象)では、「日本経済と商工業」の内容の際に、この稲盛氏を2016年から取り上げている。また、4回生対象の「日本文化名編選読」では、新渡戸稲造著『武士道』を取り上げている。