彦四郎の中国生活

中国滞在記

海(河野地区)、里(南条地区)、山(今庄地区)の南越前町―里には今、美しい蓮が咲き始めている

2019-07-31 17:11:44 | 滞在記

  福井県南越前町の故郷の家がある河野地区は越前断崖とよばれる山地が迫っているところだ。山地から流れてくる小川が海に流れ出るところにいくつかの漁村(港)の集落ができている。越前海岸の海は透明度がとても高い海として世界的にも知られている。

 故郷の福井県南越前町は平成の大合併の時期に「河野村」「南条町」「今庄町」の3つの町村が合併してできた町だ。それぞれの町を形容して「海」「里」「山」の南越前町。7月中旬に故郷に帰省のおり、南条の「里」の蓮田を見に行った。水田の青々とした緑の中に咲く向日葵(ひまわり)。広々と広がる蓮の水田。蓮の花が開花し始めたところだった。今年は梅雨がなかなか明けず、開花が遅かったようだ。

 ここを管理している人の話によると、毎年美しく大きな蓮の花を咲かせるために、蓮田の土の入れ替えを毎年しているとのこと。中国の池や沼地には蓮が多いが、ここの蓮のような見事な花はなかなかない。日本の蓮田としては、東京上野の不忍池の蓮とともに大輪の見事な蓮を咲かせる蓮田だと思う。

 この蓮田の背後にそびえる山が「杣山城(そまやまじょう)」だ。峻険な山城だが、麓には平時にこの城の城主・瓜生氏一族が暮らした居館跡や木戸址や堀がある。南北朝時代につくられたこの城、南朝方についた瓜生一族。南朝方の新田義貞軍をこの城に入れて、足利軍に徹底抗戦をして籠城戦を戦った城だった。

 7月中旬に帰省した時に、高校時代以来の恩師・故「滝澤先生」の自宅に中国のジャスミン茶を仏前に供えに行った。自宅には 先生が亡くなったあとに誰かが書いたという先生の肖像画が飾られていた。先生没後1周年の昨年の12月に「先生を偲ぶ会」が行われたが、中国からこの時期に戻ることができなかった。高校時代からの友人熊谷久夫君も 滝澤先生のあとを追うように最近に亡くなった。大切な恩師や友人が亡くなるのはつらいなあ。故郷に帰省すると、会って 近況を語りながら飲むこともあった二人だった。

 

 


街道を行く❷―"木ノ芽峠"越えの「北陸道」―越前国:敦賀➡木ノ芽峠➡越前国:大宿場町「今庄宿」

2019-07-31 16:09:02 | 滞在記

 福井県(越前)の敦賀の町から福井県の府中(武生市[現・越前市])や北ノ庄(福井市)を往来する街道が北陸道だ。その最大の難所とされた「木の芽峠(標高630m)」は、新潟と富山の間にある「親知らず子知らず」とともに北陸道の二大難所と云われた。敦賀市の新保地区から木の芽峠までの2.4kmの山道(峠道)は、現在「木の芽古道」とよばれる山道が残っている。

 歴史をさかのぼれば、平安時代には紫式部が父の府中任地に従い峠を越え、平安時代末期の源平の争いの時代には、ここを木曽義仲軍が京の都を目指して越えた。鎌倉時代には道元や親鸞が通った。そして、南北朝時代には新田義貞軍、戦国末期の時代には多くの戦国武将たちが 戦地に向かうためにここを行き来した。

 ここ木の芽峠には「木の芽城塞群址」(木の芽城・西光城・鉢伏城など)がある。1575年に織田信長の軍勢5万が越前一向一揆勢力を根絶やしにするために侵攻。一向一揆勢力は、ここ木の芽城塞群などに拠って信長軍を迎え撃って侵攻を阻もうとしたが、数日間の戦いで守備網が崩壊し、その後 捕えられた約3万人もの人が殺された。

 この峠には、江戸時代になってから番所が置かれた。代々、この番所役人の職にあった前川一族(家)の末裔が現在でも峠の家に住んでいる。「ポツンと一軒家」だが、この家の犬が数匹 放し飼いにされている。近づくと、放し飼いにされている犬たちが吠えながら走り寄って来る。怖いことこのうえない。

 木の芽峠を下っていくと、「板取宿址」がある。そしてさらに5〜6kmほど行くと「今庄宿」に着く。この今庄は、江戸時代末期・明治の時代はじめころまでは、北陸道の大宿場町だった。明治11年(1879年)には、明治天皇もここ木の芽峠を越えて今庄宿にて宿泊している。

 大名が宿泊するかっての本陣の建物をはじめとして、当時多くの旅籠屋や茶屋があり、現在でも営業している酒造会社もあった。江戸時代の1689年、松尾芭蕉もここで宿泊している。今庄宿の背後にある愛宕山には、木曽義仲が築城させた燧ケ城(ひうちがじょう)址がある。「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」(木曽義仲も この景色を見ていたかと思うと 眺める月も 物悲しい)と詠んだ。また、幕末の1864年、尊王攘夷をかかげて蜂起した水戸天狗党の一行1000人あまりが 12月の雪の降り始めたころに この今庄宿を通過し、木の芽峠を越えて敦賀に到着し投降となり、そのほどとんどが、敦賀の地で命を落とすこととなった。

 「すべての道は今庄に集まる」とあるように、多くの峠越えの道は今庄に集まった。その峠の一つが古代の奈良時代につくられた「中山峠越え」。明治時代の1887年に敦賀―武生(府中)間の鉄道が開通したが、その鉄道ルートはこの中山峠越えだった。今庄駅は当時、鉄道の重要駅として隆盛を誇った。そして、時代を経て「北陸トンネル」が開通されるとともに 廃線となった。

 今庄は今、南越前町今庄となっている。北陸本線の中でも豪雪地帯として知られている。木の芽峠には今、スキー場や温泉が作られている。温泉からは雪を冠った霊峰・白山を望むことができる。

 ◆1570年(永禄13年)から1583年(天正11年)までの15年間あまりは、近江と越前の国境にある刀根坂峠や栃ノ木峠、越前の木の芽峠の一帯は、戦いに明け暮れた15年間となった。(1570年の信長の第一次越前侵攻、1573年の第二次侵攻と朝倉氏滅亡、1575年の第三次侵攻と一向一揆勢力の滅亡、そして1583年の賤ケ岳の戦いによる羽柴秀吉軍の侵攻)

 

 


街道を行く❶—"栃ノ木峠越え"の「北国街道」を行く―近江国:柳ヶ瀬➡栃ノ木峠➡越前国:板取宿

2019-07-31 09:35:31 | 滞在記

 7月15・16日と7月28・29日に福井県南越前町の故郷に家に帰省する際、さまざまな道(街道)を通った。28日に京都から南越前町に行く際に通った道が、滋賀県の湖北地方「木ノ本」から「柳ヶ瀬」を経て、県境の「栃ノ木峠」を越えて福井県に至るルート(北国街道)。

 「柳ヶ瀬」は、昔は小さな宿場町だった。この町からは、越前国に入る二つの峠越えの街道があった。一つは、「刀根坂(倉坂峠)越え」を経て、越前(福井県)の疋田、敦賀に至る歴史的な街道(古道)、もう一つは「椿坂峠」と「栃ノ木峠」を越えて、越前(福井県)の板取宿を経て今庄の宿場町に至る街道。この二つの街道の分岐路があったのが柳ヶ瀬だ。柳ヶ瀬の小さな集落には水路があり、「柳ヶ瀬関所跡」がある。夏のこの季節、青や白の桔梗(ききょう)が美しく咲いていた。

 明治11年(1879年)、ここに明治天皇が宿泊をしたという屋敷があった。明治維新から10年後のこの年、「天皇」の存在を世に知らしめるための全国行幸の一環として、ここから北陸路を目指した道中だった。この柳ヶ瀬から刀根坂を越えて、疋田や敦賀に入ったのだろう。刀根坂をやくする中尾山が見える。この山には、かって1580年ころに柴田勝家が築かせた「玄蕃尾城」の跡がある。

 刀根越えの入り口付近を歩いて行く。山道に歩いて入ってしばらくすると「➡刀根坂・玄蕃尾城址」の白い看板が見える。車に戻り、2つの街道の分岐点近くまで車をすすめると、玄蕃尾城のあった中尾山が目の前にそびえる。玄蕃尾城は2つの街道をやくするところに築かれていたことがわかる。

 椿坂の集落を過ぎると椿坂峠がある。最近にこの峠の下にトンネルができたのだが、それまではけっこうな峠道を越えたものだった。さらに進むと「栃ノ木峠(標高537m)」、福井県と滋賀県の県境(国境)に着く。名前の由来となった「栃ノ木」の大木が峠にある。樹齢500年以上、樹周りは27mもある大木だ。この峠越えの街道は、578年に柴田勝家が 越前・府中(武生)と近江を結ぶ最短ルートとしての新しい道として完成させたものだ。

 峠を下って行くと、南越前町の「板取宿」の跡がある。ここは今は誰も住んでいないが、宿場の門や石畳の道、かやぶきの家などが残っている。江戸時代末期までは、53戸の家屋があり、そのうち 7軒の旅籠と3軒の茶屋があったとされる。今は、誰も住んでいないので家屋の崩壊が進んでいる家もある。

 当時からの石畳と甲造り型や妻入り型のわらぶきの建物が3軒残されている。この3軒のかやぶきの家は、この地方に住む人たちがNPO法人を立ち上げて、建物の維持管理をやっていて歴史的保存に勤めている。その中心となっている人が、今庄に在住の赤星さんという人のようだ。この板取宿を北に進むと大宿場町・今庄に至る。

 

 


「夏草や 兵どもが 夢の跡」―信長軍による二度の落城悲話・戦国の平山城「疋壇城」址

2019-07-28 06:04:43 | 滞在記

 日本に帰国した7月3日(水)の次の週に、故郷の福井県南越前町の自宅に戻って、一人暮らしをしている母親に会いに行こうと思っていた。だが、孫娘の緊急入院により延期した。無亊に退院の見通しがたった7月15日(月)、福井県の家に向かった。京都市から琵琶湖西岸の湖西道路を北上して滋賀県湖北のマキノ町に着く。マキノ高原の500本ほどのメタセコイヤの大木の並木道が美しい。国道161号線の「山中峠(国境)」を越えると福井県だ。敦賀に向かって、長くなだらかな峠道を下って行くと「疋田」の集落がある。ここは古代の昔から、近江(滋賀)と越前(福井)を結ぶ交通の要衝地だった。

 ここ疋田には、戦国時代の平山城「疋壇(ひきだ)城」址がある。故郷に帰る道すがら、この城址には時々立ち寄って城址を眺めながら戦国の世のことを、特に越前の戦国大名・朝倉氏の滅亡について思ったりする。この疋壇城がある場所「疋田」は、古代の平安時代前期までの「日本三大関所」と云われた「愛発(あらち)関」があった場所だ。(※他の二つは「不破関(関ヶ原)」と「鈴鹿関(三重県亀山)」)

 疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に越前国の戦国大名朝倉氏の将・疋壇氏によって築かれた。疋田の地は、越前と近江の湖北地方を結ぶ柳ヶ瀬越・塩津越・海津越といった道がすべて集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防衛拠点としての役割を果たしていた。

 城は小高い丘の上に築かれ、本丸曲輪を中心として、二の丸曲輪、三の丸曲輪がみられる。本丸曲輪の周辺は石垣がつかわれ、その周囲にはかなり深い空堀が巡らされている。城の背後は高い山々が迫り、街道に面した前方を川が流れ、天然の堀となっていただろうと推測される。城の周囲の東・西・南の三方にはそれぞれ出城があったことも古文書であきらかになっている。かなりの規模の平山城だったようだ。

 本丸の下の空堀の斜面からは今、朴木(ほうのき)が高く葉を繁らせている。春先には高貴な香りがする朴木の白く大きな花が咲き、ここで死んだたくさんの兵士たちの霊を慰めていることだろう。城と背後の山々の間を今、北陸本線(JR)の列車が通っている。

 本丸周辺の石垣、それよりも低い本丸曲輪は今、畑地となり初夏の花々も咲いている。落城にともない、ここでたくさんの朝倉方の武士たちが討ち死にをした。元亀元年(1570)、織田信長の数万の軍により、第一次越前侵攻がおこなわれた。敦賀の朝倉方の要衝の城である手筒山城とそれに連なる金ケ崎城が落城した。これにともないここ疋壇城も落城した。織田の軍勢が越前国の朝倉氏の本拠地一乗谷への侵攻のために木の芽峠を越えようとする時に、信長と同盟関係にあった湖北の戦国大名・浅井長政が反旗を翻し、敦賀に向かった。浅井軍と朝倉軍とに挟撃されそうになった織田信長は、関難のすえ 朽木越えから京都に逃げることができた。

 それから3年後、戦国大名や本願寺勢力などの信長包囲網を弱体化させた織田軍団は、再び浅井・朝倉連合軍と対峙する。姉川の戦いを経て、その後、浅井氏の居城・小谷城を包囲する。越前から浅井支援に小谷城周辺に布陣する朝倉軍。朝倉軍の布陣が崩壊し始め、越前に撤退を始めたが、近江と越前の国境である刀根坂(峠)での撤退戦で朝倉軍は壊滅的な敗戦をきっした。

 朝倉軍は敦賀に向かって敗走するが、ここ疋壇城に敗走する兵士約2500人を収容する。疋壇氏の城兵500人と合わせた約3000人が城を守って籠城するが、織田軍により落城し、城兵のほとんどが討ち死にすることとなった。城主・疋壇二郎三郎も討ち死にした。天正元年(1573)8月14日のことである。その6日後の8月20日、朝倉氏の本拠地・一乗谷に侵攻した織田軍によって朝倉氏は滅亡した。

 本丸曲輪から二の丸曲輪にかけても石垣がある。かなりの石垣を使って防備を強化していた城であることがみてとれる。北国なので7月中旬になっていてもまだ、アジサイが美しく花を咲かせている。城址は今、夏草に覆われている。じっとこの城址を眺めていると、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が東北の平泉で詠んだ、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句がうかんでくる。

 松尾芭蕉の俳句集・『奥の細道』は、芭蕉が江戸から北上して東北路、そして日本海側の秋田県象潟に、そこから北陸路を新潟・富山・石川・福井を経て、美濃(岐阜県)の国の大垣までの道中600里(2400km)の旅で詠んだ俳句集だ。江戸を3月27日にたち、8月20日に大垣に到着している。途中、敦賀を通り俳句も作っているが、ここ疋田を通り、刀根坂峠を越えて柳ヶ瀬街道をすすみ北近江の木ノ本に到着し、北国街道を歩き大垣に向かった。ここ疋壇城址に立ち寄っているかもしれない。立ち寄ったとすれば8月中旬、夏草の繁る季節だろう。

 空堀に今は 蔦に覆われた高い樹木が育っている。当時の境目の城としては石垣がけっこう見事だ。二の丸曲輪のあった広い平地は、かって小学校があった。北陸本線を特急「雷鳥・サンタ―バード」が通過して行った。三の曲輪には今、人家がある。この城址の本丸曲輪の畑をつくっている人の家だ。三の曲輪の斜面にもアジサイが群生していた。

 疋田の地は、敦賀から水運を巡らせてここまで小舟で荷を運び、ここから方々に分かれる街道の峠越えをして奥琵琶湖の港まで荷が運ばれた。ここから琵琶湖までの運河を作ろうとした計画も、平安時代から江戸時代の歴史上何度かあった。

 この疋田地区に山地から流れる川が合流するところがある。「戦国武将の墓」と呼ばれるところだ。戦いで討ち死にした天正元年の武士たちの亡骸や朽ちた墓が、道路工事などの際に 多く見つかった場所だという。

 疋田からの深坂古道がいまも残る。奥琵琶湖に至る峠道だ。さまざまな歴史的に有名な人もここを通ったのだろう。

 昔の「愛発(あらち)」の地名が残るこのあたりの、疋田から500mほど行った奥野という集落に、今は無住となっている小さな寺がある。この宗昌寺は、天正元年の疋壇城の落城とともに討ち死にした城主・疋壇二郎・三郎一族の墓などがある。

 天正元年の朝倉氏の滅亡後、ここ越前国を本拠地とした信長の武将だった柴田勝家。本能寺の変での信長の死後、明智光秀軍との天王山の戦いで勝利した羽柴秀吉との対立が深まり「賤ケ岳の戦い」へとなっていく。その際に、勝家軍の巨大陣城として「玄蕃尾城」が刀根坂峠をやくする場所に築かれた。ここ疋壇城からもほど近い。玄蕃尾城址は、幻の城といわれていたが1980年代になってようやくその場所が見つかった。山中に忽然と姿を見せたその遺構の見事さにはほれぼれさせられる。現在「国指定」史跡となり整備がなされている。戦いに敗れて敗走する勝家軍の兵士たちの一部も ここ疋田を通って 敦賀・木の芽峠・府中を経て勝家の本拠地・北ノ庄城(福井市)に逃れたのかと思う。

 

 

 

 


祇園祭―蟷螂(とうろう)山が作られたいわれとは―南北朝時代の武闘派公家・四條隆資と男山の八幡宮

2019-07-26 18:03:26 | 滞在記

 (男山)石清水八幡宮は、平安京の裏鬼門を(南西方角)を守る神社として平安時代初期の860年に創建された。現在の社殿は織田信長の社殿修復、豊臣秀吉の廻廊再建、豊臣秀頼の社殿再建、徳川家光の社殿造営によるものだ。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と称され、また日本三大八幡宮の一つである。

 神社のある男山(標高160m)の峰々の麓には「丹波山地や京の都から流れる桂川」・「琵琶湖から流れる宇治川」・「伊賀・奈良から流れる木津川」の三川が合流し、淀川となり瀬戸内海に流れる。近世までは琵琶湖・京都(平安)・奈良(平城)・大阪(難波津)・瀬戸内海を結ぶ水運大動脈の要衝の地でもあった。今、男山山麓にある一の鳥居や頓宮のそばにある池には、純白の蓮や睡蓮の花が咲いている。

 四年前の平成27年に国宝に指定された石清水八幡宮の社殿群。この本殿を囲む瑞垣の欄間彫刻群でひときわ目を引くのが「蟷螂(カマキリ)」の彫り物である。神社建築の中にカマキリの彫刻があるのはここだけのようだ。中国の故事にちなんだ「蟷螂の斧(とうろうのおの)」をイメージしたものだが、この蟷螂の彫り物は江戸時代初期の家光時代の造営時に造られたものらしい。

 そして、祇園祭では、御所車の上に乗ったカマキリのからくりが人気を博する蟷螂山(とうろうやま)がある。実は、この蟷螂山のからくりカマキリは、この石清水八幡宮の欄間彫刻のカマキリ(蟷螂の斧)をイメージして造られたものだ。そして、石清水八幡宮のカマキリは、その蟷螂の斧のモデルとなった人物がいて造られている。南北朝時代(室町時代初期)の武闘派公家といわれている南朝方の公家武将・四條隆資(しじょうたかすけ)[1292-1352]である。

 南朝方と北朝方(足利幕府方)で争いを続け、後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞などの南朝方の天皇や武将が死去したあとも戦いは続き、足利幕府内での「観応の擾乱ともよばれる戦いの中、京の都を奪還するために南朝方の後村上天皇がこの男山に仮御所を置き、足利軍と対峙した。しかし、時の利あらず、南朝方はこの男山からの撤退を余儀なくされた。この撤退の殿(しんがり)の将を受け持ったのが四條隆資であった。

 迫ってきた足利の大軍に立ち向かい、孤軍奮闘、南朝方の撤退をなんとか成功させた。この孤軍で戦う姿が「蟷螂の斧」に喩えられ、石清水八幡宮の欄間彫に彫られ、そののち、蟷螂山がそれをモデルに造られたとされている。だから、御所車(公家の乗り物)の上でカマキリが戦っている。この「男山の戦い」1352年で隆資は死んだ。男山の麓の八角堂の近くには「血洗いが池」というこの戦いの石碑が立てられている。

 7月17日、今年も祇園祭の山鉾巡行がとりおこなわれた。午前9時に出発した先頭を行く「長刀鉾」は、四条通を東に進み、午前9時半頃に四条河原町の交差点にさしかかった。

 稚児が乗る長刀鉾はこの交差点で四つの車輪の下に竹を敷いて「辻回し」という方法で90度方向転換し、北上を始めた。

 昨年に引き続き、2番くじをあてた「蟷螂山」。2番を連続して当てる確率は136分の1とのこと。今年は、この蟷螂山をじっくりと見るために山鉾巡行を見にやってきた。34基ある山鉾のうち、からくりがあるのはこの山だけ。蟷螂の斧のようにカマキリの腕が動き、羽根が広がりすぼむ。

 非力な小さな生き物のカマキリが象や獅子立ち向かうがごとき動きは、人々の喝采を浴びている。その動きを見ながら、「中国共産党一党独裁下」の表現の自由や人権という考えが まったくないこの国で、大学教員として仕事をし ブログを閉鎖されながらも なんとか生活して 耐えながら頑張っている自分と重なってしまうようにも感じる 蟷螂山のカマキリだ。頑張れ、蟷螂の斧。数年前の宵山で蟷螂山に行き、カマキリの可愛らしい絵が入った布バックを買った。こんど8月末から再び中国に行く時にこれを持って行き、部屋に飾っておこうかと思っている。

 京阪電車「出町柳」付近の寺の門壁に短歌が一首書かれていた。題は「蟷螂山」。「蟷螂の 斧とハいへと 油断なく 大敵ニ向ふ 意気乃貴さ」(蟷螂の 斧とはいえど 油断なく 大敵に向かう 意気の貴さ) と。

  四条通を2つ目の鉾「函谷鉾」が通る。この鉾も中国の「函谷関(かんこくかん)」の故事にちなんだものだ。この日、四条河原町にある高島屋の正面玄関ホールに「祇園祭」の古絵図屏風が陳列されていた。

 この日の山鉾巡行の最後の殿(しんがり)は、華麗な船鉾だった。三条大橋のたもとに行くと、百日紅(さるすべり)の花が咲き誇っていた。三条京阪の駅に行くと、中国からの母と娘の観光客が 中国古代の服装をしていたので、「写真を撮らせてもらってもいいですか」と中国語で話しかけて撮らせてもらった。中国古代衣装は美しい。

 2歳半となった孫娘の栞(しおり)が、7月6日(土)ころより40度の高熱を発症し、なかなか熱がさがらないので、7月8日(月)に行きつけの近くの病院が紹介してくれた大きな病院に、娘の夫が仕事を休んで連れて行き診察を受けた。診察・検査の結果、病名が告げられて即入院となった。5歳までの子供がよくかかる 血管内の炎症をともなう病気だ。この日から24時間の家族の誰かが病院ベット横での付き添いが必要と告げられた。経過が良くて1週間、長引けば1か月間の入院治療が必要とのことだった。個室ではなく、小さな部屋にカーテンで仕切られたベットに、小児ばかりが3~4人が入院・入室している。子供の泣き声はお互い様という部屋だった。付き添い人用のベットがないのはつらい。

 娘は生後6か月の次女を抱えた身なので、病院付き添いの常時シフトには入れない。ちょうど私が中国から夏休みで帰国しているので、娘の夫(高校教員)と私の妻(小学校教員)と私の3人で付き添いシフトをとることとした。他の二人が平日は学校勤務に行くために、私は主に午前6時から午後4・5時ころまでのシフトに入った。早朝5時ころに自宅から病院に向かい、6時頃に病院に到着し付き添いを交代していた。病院の敷地内はもちろん禁煙なので、煙草の喫煙をするのにけっこう苦労もした。7月13日(土)からは、娘の夫の母(滋賀県東近江市在住)がシフトに入ってくれることなった。

 幸い、1週間後の検査結果により退院ができることとなったので"みんなで喜びあった"。悪ければ1カ月間ほどのシフト体制をみんな覚悟していただけによかった。徐々に元気を取り戻してきた栞。今では元気に幼稚園にも通っている。7月23日(火)、少々の雨も降ったりやんだりの不安定な天気の中、鴨川上流の「八瀬」の渓流に、娘と2人の孫娘と私の妻の5人で行き。1時間ほどの川遊びをした。