彦四郎の中国生活

中国滞在記

もう、紫陽花(アジサイ)の花が開花し色をつけてきている―福州「白塔」の夜景を背景に人民広場での舞踊

2019-04-29 12:43:10 | 滞在記

 日本は「平成」の4月27(土)から「令和」となる5月6日(月)までの10連休に入っているところだが、中国は5月1日(水)の労働節(メーデー)から5月4日(土)の青年節をはさんで5月5日(日)までの5日間の連休となる。私は毎年この時期に日本に一時帰国をしているが、今年は、明日30日は担当授業がない曜日なので、4月30日(火)から5月9日(木)まで帰国する予定となった。

 帰国の目的の一つはかかりつけの3つの医院(歯科・胃腸科・皮膚科)に行き、治療を受けたり薬を多めにもらったりすることだ。しかし、今年は、ほとんどの医院は10連休の間は休診、このため連休明けの5月7日と8日は医院のはしごとなる。

 日本への知人への土産にと、福州特産の「茉莉花茶(ジャスミン茶)」を買いに福州の古街(古鎮)である「三坊七巷」に夕方5時ころに行った。さまざまな種類のジャスミン茶を販売している「福州茉莉花茶文化館」に行くと、館の入り口に植えられているジャスミンは小さな白い蕾(つぼみ)をたくさんつけて膨らみ始めていた。開花している花も何輪かあった。館内に入って行くと奥庭に水仙の花が満開となっている。今はもう初夏の季節なのでジャスミンの花が咲き始めているのだが、日本では真冬と春先に花を咲かせる水仙が、今 ここで開花しているのに 不思議な思いがする。

 ジャスミン茶を何箱か買って、三坊七巷の古街の入り口に行くと、北京同仁堂(中国で最も歴史がある漢方薬店)の朱塗りの建物。中国風の長くて大きな石造りの水鉢に水草が浮かぶ。このような石の鉢を使った仕様は、中国人の美意識でもって得意とするものだ。

 もう紫陽花(アジサイ)の花ができて色づき始めている。しばらく歩いたところにあるアジサイは、はっきりとした赤と薄い水色の色をつけて満開となっていた。まだ4月下旬なのだが、日本より1か月半ほど以上季節の推移が早い亜熱帯の福州。

 1週間ほど前の4月20日頃から福州の地下鉄2号線が開通し乗客を乗せ始めた。福州を南北につなぐのが1号線で2年ほど前に完成、このたびは東西につなぐ2号線。私が福州に赴任した2013年から始まった地下鉄造営工事だが、将来的には6号線までを造営予定だ。「一帯一路」政策の海の新シルクロードの拠点港湾都市としてこれからも発展していくのだろう。

 この地下鉄造営工事は巨大なプロジェクトだが、地方からの出稼ぎ「農民工」が多く工事にかかわってきている。女性の農民工も多く、スコップを持ってバスに乗り込んでくる姿もよく見られる。「五一広場(人民広場)」近くの地下鉄駅が完成し、地下鉄駅出口周辺の整備が進められている。花が咲く樹木を植え、花壇をつくるなどの作業は、女性たちの姿が多い。スコップで土を盛る姿など、たくましい。

 人民広場の北側には丘のような「宇山(うさん)」がある。麓には白い塔が美しい「白塔寺」がある。久しぶりに境内に入ってお参りをした。大きな仏たちが鎮座されている。

 この日の午後7時すぎ、閩江大学を2017年6月に卒業し、卒業後は広東省の深圳(しんせん)にある日系企業(パナソニックの関連会社)で、通訳・翻訳・経理などの仕事をしている楊思童 君と 人民広場で待ち合わせをすることになっていた。4日間の休みがとれたので新幹線で福州にやってきていた。「先生に会って会食をしたい」とのことで、彼の友人も一緒に来るようだった。

 20分ほど前に人民広場に着いたので、ベンチに座って広場の人々の様子をながめていた。日が落ちて、白塔がライトアップされ始めた。いくつかのグループが、広場でダンスや体操や舞踊を音楽に合わせて行っていた。民族音楽、ポップ音楽などさまざまな曲があちこちで大きな音量と共に同時に交差する。白塔を背景にして、踊っている人達。中国全土で、このような広場ダンス・舞踊が週末には特に繰り広げられる。

 この日、楊思童君と彼の友人である潘さん(私とは初対面)と3人で、人民広場近くにある日本料理店「古都」で乾杯をした。潘さんは、私が中国に初めて赴任した2013年9月より3カ月前の6月に、閩江大学の経済・経営学部を卒業。出身は福州市。趣味で勉強してきたという日本語はかなり上手。日本語検定試験N2(2級)にも合格しているようだ。

 彼は卒業後、福州にある「ゲームソフト創作会社」に勤めていて、主に業界紙(ゲーム関連)の作成部門にいるようだ。世界におけるゲーム制作の様子について、「アメリカと日本が今も優勢な状況で、中国はこのゲーム分野では、創造性や映像に欠点があり、それを克服できず 後進のままです」と話していた。

 「古都」に来るのは1年ぶりくらいだが、2時間ほど飲食をしながら話していると、この日本料理店の老板(ラオバン・経営者)である鄭霞さんが、「寺坂さん、明後日に日本に帰国するなら、すみませんが、このTシャツ2枚を、京都市山科区に住んでいる妹に届けてくれませんか」と依頼されたので荷物を引く受けた。また、この店でアルバイトができる女子学生を紹介してほしいと頼まれた。地下鉄2号線の開通で、郊外にある大学から市内でのアルパイ通勤が便利にもなった。大学寮の門限は午後11時だが、新しく開通した地下鉄を利用すれば門限に余裕をもって寮にもどれるかと思う。

 2019年、今年の9月に中国北京に巨大な国際空港が開港する。「北京大興国際空港」だ。通称「ヒトデ(中国語では、海星)」。5つのターミナルをヒトデの足のようにもつ巨大空港だ。将来的には年間に1億人以上の利用者を目指している。北京にはすでに「北京首都国際空港」(3つのターミナル)がありこれは現在世界一の規模の空港なので、新しい空港が完成すると世界1位と2位の国際空港が北京にできることとなる。

 巨大なハブ空港の出現により「アジアの旅客航空機の空の覇権」も中国はにぎることになりそうだ。いままで東アジアのハブ空港としては韓国の「仁川国際空港」の存在が大きかったが、北京での巨大空港の出現によりその地位は大きく低下することとなる。

 

 

 

 

 

 

 


1600年代の「清王朝初期」、ここに王府が置かれ、庭園があった「南公园」―みごとな中国風庭園が再現

2019-04-28 08:11:35 | 滞在記

 広大な強制立ち退き地区一帯の中に「南公园(ナンゴンユエン)」がある。中華人民共和国が成立してまもない頃、ここは「南大衆公園」とよばれていたようだが、今は「南公園」と呼ばれている。この南公園をぐるりと囲む京都御所4つ分くらいの地域一帯は立ち退き対象、再開発地区だ。

 2013年9月に初めてここ福州に赴任して、その年にこの南公園に来た時は、荒れ果てた感じの公園だった。大きな池の水の色は緑で腐臭を放っていたし、ゴミなども多く浮いていた。岩石ばかりの庭のようなエリアもあったがぜんぜん見栄えもしなかった。公園のトイレは汚く、用を足すのもはばかられる臭いもしていた。

 福州市政府は2015年よりこの公園の再整備に取り掛かった。2016年には、中国風の朱塗りの門や建物が再建された。その後、最近まで庭や池周辺の再建整備が進められ、見事な史跡公園が完成をした。今の季節、真っ赤なハイビスカスが美しい。4月21日(日)、強制立ち退きの地区を喪失感がともなう暗澹たる思いで見て廻った後に、ここに来てゆっくりと見て廻った。

 ここ史跡・南公園はかなりの広さをもっている。1600年代の中期の清王朝初期に、ここに「王府(おうふ)」が置かれた。日本でいうところの大規模な「県庁」のようなものだ。ところが、この王府は広大なだけでなく、行政に関するさまざまな建物や「長湖」とよばれた広い池と中国風の庭園が造られていたのだった。長湖の周りに建物や庭園が造られるという豪勢な「王府」だったと推測される。まあ、京都でいえば「平安神宮」のミニ版のような感じとなる。

 中国人は石が大好きな民族だ。装身具として最も好まれるのは「玉」(ぎょく)や「翡翠」(ひすい)など。そして、庭には、日本人には火山の白っぽい溶岩のようにしか見えない空洞のある奇岩的な岩が配置されているものを好む。このあたりの美意識は日本人とはかなり違うが、この光景が中国人にとっては山水的な風景のイメージを再現しているのかもしれない。岩石が配置されたこんもりした場所も新しく整備され、それなりに見栄えのする中国風庭園に整備されていた。亜熱帯のバナナの樹木と建物のコントラストも南国らしい中国南部情緒がある。(日本には京都の銀閣寺や竜安寺などに「石庭(せきてい)」があり、石や砂によって山や海や島などの世界を表現しているが、中国の石庭は山水の世界だ。)

 「長湖」とその周辺の建物や𣘺、庭も新しく再建されてなかなか素晴らしい。典型的な中国風庭園エリアが再現されていた。特に、朱塗りの池にかかる長い回廊の橋の下の柱は、木材ではなく これもまた10個以上の奇巨岩が使われている。

 再現されたかなり広い庭園には、福州に多い榕樹(カジュマル)もある。おそらく福州の四季に咲く花々や樹木の種類が、ここには多く植えられているいるようだった。石燈籠もいくつか置かれていた。石燈籠は日本の庭の特有のものだとずっと思っていたが、ひょっともしたら中国から伝わったものなのかもしれない。赤いベゴニアが小山のように植えられていた。

 数年前までは腐臭のしていたトイレも新しく作られ、中国風の建物に清潔なトイレになっていた。建物の中で史跡公園全体の写真や地図を見た。上記の写真でオレンジ色のエリアが史跡・南公園で周囲の紫色が立ち退き再開発の広大なエリアであることを示していた。結婚に際して何箇所もの場所で結婚写真アルバムを作るのが中国だが、この日はチャイナドレスに身を包んだカップルが撮影をしていた。

 最近、インターネットでこの史跡・南公園を検索して見てみたら、刺しゅう入りの赤いチャイナドレス(チーパオ)を着た50代・60代のおばさん女性たちの南公園での写真があった。チーパオは、この年代の女性たちが着ても その年代に応じてよく似合う。

 南公園からほど近い便利店に亜熱帯の果実が置かれていた。この季節から出回る火龍果(ドラゴンフルーツ)や榴連(ドリアン)や山竹などの果物だ。

 南公園からの帰り、アパート近くの「師範大学前バス停」で下車すると、水色の古代衣装に身を包んだ若い女性の姿があった。美しい衣装と長い美しい黒髪だ。アパート近くの団地の道路でトウモロコシを三輪バイク軽トラに積んで売る女性の背中には2才くらいの男の子がおんぶされている。たくましいなあ。

 この日の夕方6時に、閩江大学4回生の王文重 君がアパートにやってきた。今年6月から7月上旬にかけて、京都の立命館大学大学院を受験する予定だが、そのための受験準備の相談・話し合いをした。7時半ころから師範大の学生街にある日本料理居酒屋「上野一番」に二人で行き、焼き鳥や生ビールを飲んで1時間ほど過ごした。中国社会に関するさまざまなことについて、中国の若者たちの実際の思いや考え方や本音などを ビールを飲みながら聞くことができる。午後9時頃、居酒屋を出ると近くの広場では、おばさんたちが広場ダンスをしていた。

 

 

 


何だこれは!—とても大規模で広大な強制立ち退きが実施されている市内の現場を見て絶句

2019-04-27 22:24:06 | 滞在記

 4月21日(日)の午前10時ころに、毎週土曜日・日曜日の午前中に行われている露店市に行った。11時ころから雨が降って来たので、雨を避けるため建物内でも行われていた骨とう品などの露店に移動した。露店の数は、外と建物内の全て合わせると、少なくても500以上はある。欲しくなるような見事な盆栽もあった。

 この日、この露店の一つで「古貨幣」を2つ買った。この古貨幣は、中国の殷(商)の時代に使われた銅製の金属貨幣で、約3000年ほど前のものである。この貨幣は、金属製の貨幣としては世界最古のものである。買ったものは本物そっくりのレプリカ。かなり値切って、言い値の半額で買った。本物が中国のインターネットでオークション販売がされているが、1万元(約16万円)くらいのようだ。日本の高校で歴史の教員をしている娘に、1か月ほど前に買った甲骨文字の本物そっくりレプリカとともにあげるつもりで買った。

 4月上旬頃に、市内の中心にコピー用インクを買いに行って、帰りのバスに乗っていた際に気になった場所(地域)があった。露店市が開かれている場所からほど近いところにある地区なのだが。バスから見えたそのあたりの風景は、最近まで、大きな道路に面していた商店街の多くの店舗が閉鎖されているように見えたのだった。古くからの家並みが密集しているエリアでもあった。

 この日、露店市から歩いて10分ほどのその場所に行って、どうなっているのかを見て唖然とした。昨年まで多くの人が暮らしていた場所(エリア)の住宅が壊されて全てなくなっていた。「これは、いったい何だ!」と絶句。強制立ち退き通知によるものだろう。いつ強制立ち退きが行われたのだろうか。大規模でとても広大な土地の強制立ち退きだった。一軒もなくなっていた。

 大きな道路沿いにあった多くの小さな商店街の店も全てなくなって高いトタンの塀が長い距離に置かれている。トタンの内側に入ると一面の草原になっていた。これだけ草が生えているところを見ると何カ月間が経過しているのだろう。ざっと見渡しても、京都御所くらいの広さのエリアが強制立ち退きで、一面の野原となっていた。

 野原の一角には、日本では秋の季節に咲くコスモスの花がとても美しく咲いていた。道教の寺院は立ち退きされていなかった。このあたり一帯は、大きい道路から一歩内部に入ると、古くからの古い家が密集している「古街」だった。狭い道路が迷路のようになっていて、道に迷ったことも何回もあった町並みが 消えていた。何千軒もの家々があり、大きな道路沿いには店が並んでいた。何万人もの人が何十年間も暮らしていて、近隣の親しい付き合いが綿々と続いていた場所(エリア)だった。住居はレンガ造りの古い家々がほとんどで、老年の人も多く暮らしていた。日本から福州に観光にやってきた知り合いに、このディープな古街を案内したこともあった。

 福州市内を流れ東シナ海にそそぐ閩江にはかっては歴史的な「福州港」があった。その福州港に運河のような川が流れ込んでいるのもこの一帯だ。近くには「福州・琉球館」があり、この細い運河を港から小舟で荷物を運んだ川でもあった。明の時代に造られた橋が残っていた。歴史を感じさせる狛犬が橋にはある。

 この運河(川)の向こう側はまだ取り壊しが行われていなかった。今もって迷路のような古街が残されていた。大きな道路に面した商店街の店は、コンクリートブロックで店がふさがれていた。閉鎖・立ち退きとなった店は500軒くらいはあるだろうか。かって行ったことのある福州郷土料理の店は跡形もなかった。

 「通告」というピンク色の用紙が貼られていて、それを読むと次のようなことが書かれていた。「為切実改善居民生活環境提高居品質‥‥‥」と始まり、第1期地区立ち退き期限は2018年12月3日と記されていた。第2期地区立ち退き期限は決定次第に通告するとも記されていた。また、ここに住んでいた住民が、この地区に新しく建設される高品質の高層住宅に入居する場合は「特典」として、購入費を割安にするとも記されていた。立ち退き予定地区を過ぎるとすぐに福州の市内の中心部の交差点の一つになる。

 現在、福州市内でも中心地に近い新築高層住宅の一つを購入するには、最低でも「2LDK」で300万元(約5000万円)はする。仮に、立ち退きをした住民に2割引きの特典があるとしても240万元(約4000万円)。中国人の平均年収は日本人の平均年収の3分の1ほどなので、この4000万円というのは、日本人が1億2000万円の住宅物件を購入するような感じとなる。立ち退きに関する住民への説明会があり、少しの立ち退き補償金はもらえるとしても、強制立ち退きで路頭に迷った人も多いかと思う。特にこの地区は老年の人が多く暮らしてもいたので、どうなったのか心配でもある。というのは、「親の生活の老後の面倒は子供がみるのがあたりまえ」という長年の中国社会の価値感はここ10年ほどで大きく変わりつつあるからだ。

 上記の地図では、オレンジ色の部分が「南公園」となっていて、ここは公園整備がすすめられている。水色の部分は運河(川)で、この川には歴史的な古橋(石橋)が多く架かっている。最も古いものは唐時代に造られた橋。紫部分が、強制立ち退きの対象となっている地区である。立ち退きが昨年末までに終わった第1期立ち退き地区は、立ち退き計画の全体の約4分の1ほどだ。今後の立ち退きが進行すると、対象立ち退き地区は、全体で京都御所が4つ分くらい入る面積となる。

 立ち退きが「なぜどうしてこんなにいとも簡単にできるのか」というと、中国では土地はすべて国有地だからだ。国民は、住宅地も農地も商業地も店や会社の建物も工場も全て、「国から一定期間の借地権」を得て暮らしたり、営業をしていたり、農業などを営んでいることとなる。個人の住居としては70年間借用期限となる。さらに借地の期限延長をするとなると国にその借地権獲得のために大きな費用を支払わなければならない。だから、古くから暮らしている古い住宅地域はかなりの年月が経っているから、「借地権」の値打ちもかなり低くなる。補償金があるとしてもそう多くはないだろう。「お上の通告には、従うしかない(※しかたがない『没法子[メイホース])』という社会である。  

 雀の涙くらいの補償金を支払って強制退去をさせて、その広大な土地に、高層住居を民間会社が建設をする場合、その民間会社から巨額の土地の借用金が市政府や国に入るシステムとなる。このようなことが、中国全土の津々浦々で行われているので、地方政府や中国政府は、毎年 超巨額の何十兆円かという収入が入る。これが中国共産党政権の政権維持のためのものすごい強みともなっているのだろう。大人10人あたり1人は共産党員(約9000万人)という中国社会。党員の多くは、公務員的な仕事につけたり(※中国は公務員の数が必要以上にとても多い)、仕事面でも有利になる。中国共産党一党支配を永続させるためには、この土地経済システムによる超巨額資金の収入が一つの重要な必要条件となっているのかもしれない。

 年間に何万件という争議が、この土地収用(強制立ち退き)などを巡って起きているとも言われている中国社会。公安や警察の権力によって争議の中心者の拘束の事態になったりしているが、強力な報道管制が敷かれ、報道されることはごくまれだ。

 立ち退き対象地域の真ん中にある「南公園」の門の近くに、中国・社会主義核心価値観の12の価値観が掲示されていた。「富国・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠心・友善」。なんだろうこの国の社会主義とはと思わざるをえない一つの中国社会の現実をこの日、また目にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新緑の初夏の季節となり、暦(こよみ)の上の「谷雨(こくう)」をすぎたら、すごい湿気と暑さやスコールの季節に

2019-04-27 17:10:44 | 滞在記

 4月中旬あたりから新緑が眩い(まばゆい)季節となった大学構内。太陽の日差しも強くなり始め、気温が35度を超える日もあるが、まだ湿気が少ないので、4月19日までは 日陰にいれば過ごしやすかった。藤棚の下で読書をしている女子学生の姿も。

 大学構内の水辺には、この広い池や水路の水質保存などをしている人たちが使う小船が2艘ある。強い陽射しを避けて水辺の樹木の下に舟をつけて休んでいる。4月中旬頃から ほとんど見えていなかった水辺の蓮(はす)の葉が急に成長してきて水に浮かんできた。

 そして、菖蒲(アヤメ)の花も水辺に咲いてきている。デェイゴのこんもりとした樹木にも少しだが花が開花しているが、ほとんどはまだ赤い蕾。4月20日は、中国も日本も、暦(こよみ)「24節」の「谷雨(こくう)」にあたる。春の季節の最後の「節」だ。中国福州の今年は、この日から「すごい暑さと湿気」の日々となった。気温は1週間連続33度から36度の暑さとすごい湿気。亜熱帯特有のスコールが時には降る。スコールは1時間ほどで通り過ぎるが、雨が降る前の湿気のすごさは ちょっと日本では経験できない。福州に住むのが辛くなる。

 いつも大学への通勤に バスを途中下車してから利用しているオートバイタクシー。雨の時には 上から見たら「前方後円墳」のような形をしたバイク用傘を設置して使うが、これは猛暑日にも日よけとして使っている。こんな蒸し暑い4月22日の午後、授業終了のベルが鳴り終わると、教室に入ってきて「先生、こんにちは。お久しぶりです」と、2016年6月の卒業生の陳嫦月さんがおかあさんといっしょに訪ねてくれた。故郷は北京近くの天津の街。福建省の厦門(アモイ)などを観光に母娘に行く途中に大学に立ち寄ったのだという。

 2月25日から始まった大学後期授業では「日語口語4(2回生)」や「日本文化論(3回生)」の2教科週12時間を担当しているが、4月19日には後期授業の予定の半分が終った。6月21日までの後期授業の終了日までの折り返し。6月24日からは後期期末試験期間となり、7月6日から大学は8月末日まで夏休み期間となる。

 4月17日(水)の午後に、「第二回閩江大学外国語学部青年教師授業コンクール大会」というものがあった。閩江大学の外国語学部には1学年に英語学科は6クラス、日本語学科は2クラスがある。教員数は英語学科は50人ほどで、日本語学科は10人ほど。この日、模擬授業を発表したのは英語学科の若手教員が7人、日本語学科の若手教員は1名だった。一人あたり20分間ほどの模擬授業。学生がいると想定しての模擬授業だった。

 この大会で、上位となった教員は福州市の青年教師授業コンクールに出場、さらにそのコンクールで上位の教員は福建省のコンクールに出場、さらに全国大会にと続くようだ。このコンクールでの審査員を依頼されたので初めて参加することになったのだが、審査の項目が多くてちょっと苦労した。日本語学科から授業を行った邱先生は3位だった。

 4月上旬より、今年度の「広島大学留学試験」を受験する学生たちの個別指導を研究室などで始めた。5月の中旬あたりから、面接試験などが始まる。合格すれば今年の9月下旬から(3回生となる)1年間の広島大学学部留学となる。

 大学構内のバナナも少し実が大きくなり始めている。バナナは年に2回、大きな花が咲いて実を作る。亜熱帯地方の福建省南部はバナナの産地でもある。実が太くて短いバナナは帝王バナナという種類なのだが、大学構内にはこの種類が多い。授業が終わってアパートに戻る途中、アパート近くの路上で荷車に満載したバナナを売っているおじさんがあった。種類は帝王バナナ。太い茎が付いているバナナを買ってみた。値段は10元(160円)ととても安い。房には15本のバナナがついていた。1週間あまりをかけて食べたが、味が濃厚でとても美味しかった。この味にして1本あたり10円とは‥。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語学科の学生が、卒業後に日本の地で就職できる道を―福州、四月中旬

2019-04-27 13:19:31 | 滞在記

 福州の4月中頃、13日(土)夕方に市内の温泉公園に行った。公園の池には睡蓮が咲き始めていた。椰子の木の通りに日本では初夏の花「卯の花(うのはな)」が満開。亜熱帯地方の樹木花のようだが、淡いピンクの花も満開となっていた。

 この日の夕方6時から、温泉公園に隣接した「福州金源大飯店(ホテル)」で福州日本企業会の定例会(食事会)が開かれた。この日は10ほどの大きなテーブルに日本企業の駐在員たち100人ほどが集まった。12月の定例会の時に「通訳・翻訳業務ができる学生を2人採用したいので紹介してほしい」と依頼を受けた日系企業の駐在員4人が挨拶に来てくれた。推薦した学生は、現在2人とも、この企業への就職が決まっている。この日、他企業の駐在員からも「就職採用で学生を推薦してほしい」との相談があった。

 福州日本企業会の副会長をしている中国人の王言傑さんという人がテーブルにやってきてくれて、「こんど私の会社の方で、日本での就職を斡旋仲介する部門を始めるので、一度 寺坂さんと話をする機会をもちたいのですが」ともちかけてくれた。4月26日に大学よりアパートに戻ったら、この王さんからEメールが届いていた。「5月になったら、近々 会いたいのですが、御都合はどうでしょうか」という内容だった。

 これまで、日本で就職をするのは、日本の大学の学部や大学院を卒業した者にほぼかぎられていた。しかし、2016年ころからであろうか、中国の大学の日本語学科を卒業してすぐ、直接に 日本の会社やホテルに就職をする学生がわずかではあるが出始めている。日本での就職斡旋の会社がこの福州にもできれば、私が教えている学生たちが、日本の大学院への進学をしなくても日本で就職できる機会ももてるかと思うので、大学の日本語学科主任たちとも相談して 王さんに会って話を聞きたいと思っている。

 中国の大学に赴任してもうすぐ6年目が終ろうとしているが、いままで力をそそいできた「日本の大学院への進路支援」だけでなく、「学生の中国での日系企業就職や日本での就職」にも ようやく少し支援ができはじめてきたところだ。

 定例会が午後8時頃に閉会となり、外にでると温泉公園入口の大きなヨーロッパ風の門柱に、福州の名所各所が電光で表現されていた。なかなか美しい。

 翌日の14日(日)、福州市内の中心部のアパートに住んでいる大学の日本人同僚と話をし、そこからほど近い「茶亭公園」に行く。4月中旬となった茶亭公園は初夏近しという風情。大きな舞踊扇で踊るおばさんたちの姿。亜熱帯の赤い花をつける樹木、アヤメの花が咲き始めていた。パジャマ姿で公園に来ている近隣の若い女性の姿も。

 石榴(ざくろ)の花も咲いている。藤の花は盛りを過ぎたが、少しだけ咲き残っていた。白い色の藤の花も。

 竹が美しい。若い竹がグングンとのびてきていた。公園の池に生息している翡翠(カワセミ)の姿を撮影しようと水辺には何台もの大型カメラが置かれ、カワセミが現れるのを10人ほどが待っていた。

 公園の入り口の歩道で、水で「書」を書いている人の姿が。中国は「書道」愛好家がとても多い国だ。「書」にたいする興味や関心、敬愛の念は日本の比ではない。3月中旬ころから黄色く紅葉し、4月上旬には落葉し、すぐに新芽が出始め、黄緑色に新緑となる樹木も多い福州の並木。初夏が近づき、新緑の季節となり始めた福州の4月中旬。