goo blog サービス終了のお知らせ 

彦四郎の中国生活

中国滞在記

「北京」城市へ行く❻かって、北京を防衛した「北京城墙・城門」のすごさ・壮大さ②

2018-03-31 13:53:57 | 滞在記

 「角楼」の2階部分に登っていったら、なんと「北京城墙・城門文化祭」というものが開催されていた。願ってもない機会に巡り合えたものだった。ここに展示されていた古写真や城の絵図などを見ると、北京城のかっての様子が一目瞭然に知ることができた。

 この展示の説明によれば、かっての北京城は内城と外城に分かれ、内城にはさらに「紫禁城(故宮)」があったことがわかる。城門は、外城に7つの門、内城には9つの門、合計16の大門があった。要衝の城壁の上には大砲なども備えられている。

 内城の城門と城壁の外には、船が通行できるような外堀がめぐらされた箇所もある。すざましく巨大な城郭、壮大な城郭であったことがわかる。1949年以降の50年代の初頭から、この城門や城壁の多くが壊されてきた。そして、市電などが走っている様子も。城門に行きかう人や馬やラクダや人力車の群れも写真に見える。

 一枚一枚の古写真に感嘆する。

 北京城の城壁の周囲は25km。城壁の高さは12m、城壁上部の幅は16m。西安城(長安)の周囲が14kmだから、それよりもかなり巨大な城郭だ。

  1100年代の金の時代の北京城、1200年代の元の時代の北京城、そして 1400年代からの明の時代、約1000年あまりの歴史をもつ北京城だが、現存し残っている城壁はわずか1.5kmにすぎないことはとても残念ではある。当時、これを破壊した毛沢東を中心とする当時の「中華人民共和国」は、「古いもの・伝統的なものは破壊せよ」という政策だった。これにより、中国全土の大小、多くの都市の城郭が取り壊された。中国が、伝統や歴史的なものの価値を再認識し始めたのは、2000年代に入ってからだった。

  「角楼」内の展示には、城郭門などの模型も展示されていた。当時、象なども北京には来ていたようだ。

 


「北京」城市へ行く❺かって、北京を防衛した「北京城墙・城門」のすごさ・壮大さを見る①

2018-03-31 08:49:26 | 滞在記

 北京に行く2週間ほど前の3月上旬、インターネット記事である古写真を見つけた。1950年頃に撮影された北京のある写真だった。「北京外城・東南角楼と城壁」と銘されていた。この角楼とその周辺の城壁の一部は、現在も残り、保存されていて見ることができるとも記されていた。「ここに行きたい!こここそ、私が見たい北京の一つだ!」と思った。こんなところが北京に残っているとはそれまで知らなかった。

 北京滞在4日目の3月20日(火)、地下鉄「建国門駅」からほど近い場所にある宿泊ホテルを早朝に出発して、その場所に向かった。場所は「北京駅」の南側にあることを確かめていた。「清時代」に造られた「天文台」がまず目に入る。城壁の一部が目に入って来た。城壁の上部の凹凹凹の部分は壊されている。梅がほころび開花しそうになっていた。そして、目指す「角楼」が見えてきた。「ここだ!」とすこし興奮する。

 「北京城東南角楼」と記された石碑の近くから見上げる「角楼」の巨大さに圧倒される。開花が間近な梅がたくさん植えられているここには、延々と城壁が続いていた。やはりここも凹凹凹の部分は取り壊されていたが。

 城壁がけっこう長く残されていた。城壁の下から上を見上げてみるとかなり高い。入場料5元(約100円)を払って「角楼」内に入った。梅の盆栽があった。急な石の階段を登り「角楼」の建物に向かう。

 「角楼」の「火薬庫」の建物、城壁に並べられた「満州八旗」といわれた「清朝」の八つの軍団・精鋭部隊の八色の旗。黄色い旗の軍団が最も格式が高い最精鋭軍団だった。北京防衛のための当時の大砲もそのまま置かれていた。

 「角楼」から続く城壁を見る。ここからは北京駅が見える。つい最近、「中国を電撃訪問した北朝鮮の金正恩たち」もこの北京駅に到着し、そして北京駅から北朝鮮に向かう特別列車で去って行った。

 「角楼からは、「北京市人民常任委員会」の立派な建物が見えた。この建物に隣接しているのが、この日私が宿泊している小さなホテルだ。「角楼」の建物内部に入ると「梅の盆梅展」が開かれていた。梅の匂いが楼内に漂っていた。日本の滋賀県長浜市や奈良県郡山城での「盆梅展」より貧相ではあるが、これは精緻な「日本人の美意識」との違いなのか、かなり大雑把な盆梅展であった。

 

 

 


「北京」城市へ行く❹—「万里の長城」とは③―総延長約2万3千km以上にのぼる

2018-03-29 10:43:09 | 滞在記

 万里の長城の中で北京周辺の長城はとりわけその造りが頑丈であり、また歴史の壮大さをはらむ長城の姿は美しくもある。明王朝は首都北京を防衛するために、いくつかの関門を造営した。首都北京に迫る仮想敵国としては2つがあった。一つは北方遊牧民族「蒙古族」であった。そしてもう一つは、「現在の中国東北部」に勢力を張った「満州族」であった。

 北西から北京に迫る「蒙古族」に対しての最重要な防衛施設が「八達嶺」の関門と「居庸関」の関門である。この2箇所は連動した防衛施設だった。「八達嶺」とは「四方八方」からの道が集まる交通の要衝であることから名称された。ここの門は「鍵鎖門」という名の通り、門(ドア)の「鍵」である。そして、「居庸門」がドアである。つまり、「北京という家の敷地に入る門のカギとドア(門)」が「八達嶺」と「居庸関」であった。上記の写真4枚は「居庸関」であるが、2つの高い山地に挟まれた狭い谷が20kmあまり続き北京に至る。

 北から北京に迫る「蒙古族」や北東の山間地から迫る「満州族」に対しての防衛拠点が「慕田峪関」などである。ここの関門は巨大な高さの城郭・城壁が築かれている。(上記・左3枚の写真)   東北から北京に迫る「満州族」に対する防衛拠点が「山と海」の間に築かれた「山海関」(上記の写真・右3枚)(「万里の長城の東」のはて)である。

 「万里の長城」との名称は、司馬遷の『史記』に、その長さを「万余里」と記されたことに由来している。現存・保存されている「万里の長城」は約6300kmに及ぶが、その多くは「明朝時代」に築かれたものである。(※写真・左から2枚目)

  万里の長城は、実際には総延長が2万5千km以上にわたっていたことが分かっている。その築城の歴史は古くは「周」時代から始まる。(北方騎馬民族への備え)  その後、周が滅び、中国は「斉」「晋」「宋」「秦」「楚」「呉」「越」「韓」「魏」「趙」「魯」「燕」などの国々に分裂する。いわゆる「春秋戦国時代」(紀元前770年~紀元前221年)といわれる約550年間もの間続く「戦国時代」にはいる。

 この時代、各国は中原の覇者となるべく、自国防衛のために、防衛のための城壁を要衝に長々とそれぞれ造営した。そして、中原の覇者となった「秦」の始皇帝は、それぞれの国が造営した長城をつなぎ、さらに修復増強したものが「万里の長城」である。その後、漢王朝時代、隋王朝時代、金王朝時代などを経て明王朝や清王朝の時代に至る。(※写真・左から3枚目)

 紀元前7世紀から明時代の1660年代前半までの2300年間にわたり造営され続けてきた「万里の長城」。明時代には、東は海に至る「山海関」から、西はゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の間に位置する山間地の大渓谷「嘉峪関(かよくかん)」、さらには、東北・遼寧省の北朝鮮国境まで延長された。また、北京近郊の長城は二重に築かれた。(※上記写真の右から4枚目〜6枚目は「嘉峪関」と長城の東のはての場所) まさに地球最大の建造物である。

◆上記の写真4枚は、昨年(2017年)の6月に「寧夏回族自治区」の「銀川」に行った際に見た「万里の長城」。かなり風化している。万里の長城の「西方方面」の様子である。

  山深い場所の長城の多くの部分は、城壁の上の通路まで樹木が生い茂り森となっているところも多いようだ。今回、長城を案内してくれた中国人の史さんは「夜の万里の長城もいいですよ。月もきれいで、星々がよく、満天の星が見えます」と言っていた。この「万里の長城」は1987年に世界遺産に登録された。「八達嶺」の土産物店で長城の小さな塑像(レリーフ)を買った。

◆昨年(2017年)の夏、映画『グレート・ウォール』(中国・「張謀芸(チャン・イーモウ)監督」)が上映されたので見に行った。当時の「万里の長城」の威容や兵士たちの様子が想像されるフィルムだった。面白い映画だった。

◆万里の長城で次に行きたいと思う所は、①「嘉峪関」、②「山海関」、③「慕田峪関」④「居庸関」となる。とりわけ、シルクロードの「嘉峪関」にはとても行きたい。

 

 

 

 

 

 


「北京」城市へ行く❸—長年の念願、初めての北京周辺の「万里の長城」へ②―

2018-03-28 16:22:05 | 滞在記

 「北楼」で最も標高の高い(※880mほど)北八楼から北七楼……北一楼と、長城の各楼を下ってきて、「八達嶺長城」で最も防衛的に重要な「城門」の上に着いた。砲が置かれていた。説明版を見ると、明王朝末期の1638年に設置された砲であり、射程距離は500mとあった。

 城門は二重門の構造となっていて、門の名前は「鍵鎖門」(けんさもん)といい、まさに「ここを突破されて北京が攻められることを防ぐために鍵をかけて閉鎖する」という意味を表わしている門だ。

 城外に出て「土産物店」に立ち寄り、「八達嶺長城」の絵地図を買って見た。この地図によってこのあたりの長城の全貌がわかった。

 北京への帰りは近くの小さな「八達長城駅」(始発・終着駅)から列車に乗ることとなった。なにか新幹線の車体正面とよく似た小さな普通列車だった。列車に乗ってしばらくすると、遥か山並に見事な万里の長城の景色が見えてきた。壮大な景色だった。70分くらいで北京市内の「北京北駅」に着いた。料金は25元(約500円)ほどだった。北京市内から八達嶺長城への往復交通料金は全部で一人145元(約2900円)と、とても安くついた。ありがたい。他に、「長城入場料やロープウェー料金」などが必要だった。

◆北京市周辺の「万里の長城」観光地について

 最も多くの観光客が訪れるのが今回行った「八達嶺(はったつれい)の長城」。ここは北京市内から北西に約60kmとほど近く、列車や高速道路などの交通の便が最もよい。「慕田峪(ぼでんよく)の長城」は北京市内から北に75kmにあり、「八達嶺」ほど交通の便は良くないが、連なる山々に延々と続く素朴な長城が見られる場所として有名らしく、より野趣的で感動間違いなしと同僚の鈴木さんが言っていた。また機会があればぜひ行ってみたいと思っている。

 北京にはほかに、「黄花城(おうかじょう)長城」「司馬台(しばたい)長城」「居庸関(いようかん)長城」など合計5箇所の地点で長城を公開しているようだ。特に「居庸関長城」(※北京市内から約50km)の門は、まるで城の大天守閣ような壮大な門が設置されているようだ。城好きの私にはたまらない。「八達嶺」の手前(北京により近い)場所らしいが、今回立ち寄れなかったのはとても残念だった。ここがまさに、北京防衛の最重要で最後の関門といえるのだろう。ここを破られたら、北京までは一直線の場所だ。

 北方民族・蒙古(モンゴル)の英雄ジンギスカンがこの関門付近まで襲来して戦った歴史があるというが、陥落はさせられなかったようだ。その後、ジンギスカーンの孫の世代にあたる「クビライ」が万里の長城を越えて北京に侵攻し、その後300年間にわたった「宋王朝」を1260年に亡ぼし広大な「元・モンゴル帝国」を中国全土を含めて成立させ、北京に都(※「大都」)を築いた。(日本への2度にわたる「元寇」はこの時代に起きた。)

 クビライは、蒙古(モンゴル)草原にあるカラコルムを夏の都とし、大都を冬の都とした。2000年のモンゴル・ゴビ砂漠恐竜発掘調査の際に、このカラコルムに立ち寄ったが、今は僅かに「ラマ教寺院」が残されているだけで一面の平原となっていた。100年間あまり続いた元王朝を1368年に滅亡させて成立したのが「明王朝」である。当初、都を「南京」に置いたが、その後「北京」を都とした。これにより、首都防衛の強化の必要性から「万里の長城」の拡大増強や補強に取り組んだ。現在中国国内に残されている約6300kmあまりの現存する長城のほとんどは、この明王朝時代に築きなおされたものである。(明王朝は約300年間続き1643年に滅亡し、満州族の清王朝に変わった。そして、清王朝は1912年までの約270年間続いた。)

 北京北駅に着き、地下鉄に乗って「胡同(フートン)」が多く残る地区に行き、午後3時すぎに遅い昼食をとることとなった。案内された小さな店は、「护国寺小吃」という店名で、この胡同街では安くておいしいと有名な店のようだった。ここで、この日の夕方の新幹線で山東省まで帰る山本さんや米村さんは、食べ物を買ってから早々に新幹線駅に向かった。私も、昨日まで泊ったホテルにキャリーバックの荷物を取りに戻るため、食事後にみんなと別れて店を出た。その後、荷物を受け取り、午後7時半ころに、この日から泊る京都苑というホテルにようやく到着した。

 今回、中国人の3人の人には大変親切にお世話になった。上記写真右より、①馬さん(神戸大学への留学経験あり。台湾在住で、中国大陸と台湾を行き来している。とても博識でおもしろい人。)②史さんの知り合いの若い女性。(日本語はできる。とても親切な人で、長城で滑って転倒しそうになった時、危うく支えてくれて助かった) ③史さん。(前号ブログで紹介)

◆  ―2022年北京冬季オリンピック会場は「八達嶺」からほど近い場所のようだ―

 史さんの話によれば2022年冬季オリンピックはここから近いという。北京市内は昨年の11月よりずっと雨が降らず、私が今回行った少し前の3月中旬前に久しぶりに雨が降ったようだ。そして、3月17日には雪が激しく降りしきった。北京市内に雪が降るのはかなり珍しい(一冬に1〜2度あるかなしか)ことのようだ。薄っすらと雪化粧にはしばらくするが、積もったりすることはほとんどないようだ。2022年、北京での冬季オリンピックの雪はどうするのだろうか。

 八達嶺からほど近いが、少し北に行くと、けっこう積雪があり(※と言っても十数センチ)、スキー場となっている地区があると史さんから教えられた。福州に戻ってからいろいろとインターネットで調べてみた。上記の写真の場所だ。スキー場の積雪が少ないため、人工雪を置いてスキー場としているらしい。このあたりがオリンピック会場の中心地となるようだ。北京冬季オリンピックでは、競技会場での雪は全て人工雪でまかなう計画だと言われている。

 オリンピックに向けて、会場や建物、駅などを作る工事が進められているが、この地区の「村全体」が壊されて建築が進められているところも数か所あるようだ。もちろん各家にいくばくかの保障金は出るのだが、強制的で有無を言わさぬのが中国式でもあるようだ。(※上記の右写真の集落は更地にされて今はもうない) まあ このようなことの実態を知ると、北京冬季オリンピックを喜んで迎えにくくもなってしまう。

 しかし、もし、北京冬季オリンピックを見に行った人は、万里の長城に足を運ぶことを勧めたい。会場から近いのだ。急な城壁上の転倒にはくれぐれも注意が必要だ。転倒したら軽い擦り傷だけではすまないだろう。滑落することとなる。それから、今回は3月19日という時期の「万里の長城」だったので、まだ草木が萌えず、緑がない状態の長城の景色だった。これが4月中旬以降からの時期だったら緑と長城のコントラストが美しかったかと思う。秋は紅葉が進み、さらに綺麗になるようだ。

 

 

 

 

 

 


「北京」城市へ行く❷—長年の念願、初めての北京周辺の「万里の長城」①―

2018-03-28 12:12:06 | 滞在記

 2013年9月に中国に赴任して以来、3回北京に行った。今回が4回目の北京訪問だった。しかし、いままで、どうしても行きたかった「北京周辺の万里の長城」や「故宮(紫禁城)」に行くことができなかった。昨年は、4月上旬に北京に行った際、「北京実践交流会」が終わった翌日に「万里の長城」に行こうと思ったが、この日がちょうど中国の「清明節(※先祖のお墓参りをして霊を慰める日―祝日)」のため、北京市内から長城に向かう道路が大渋滞。通常は高速道路で1時間くらいで長城付近に到着できるが、この日は5〜6時間を要するということで諦めた。「故宮(紫禁城)」もこの日は月曜日なので「入場公開」がされない日だった。

 今回は大学の授業の関係で北京に4宿泊できることになったので、「万里の長城」と「故宮」に行ける可能性が大きかった。しかし、中国語がほとんど聞き取れない私にとって、一人で万里の長城まで行けるかどうか……。不安の方が大きかった。行く方法は主に①タクシーを個人チャーターして往復する方法。(料金は1000元[約2万円]ほど)、②北京北駅から普通列車に乗って往復する方法(※料金は往復50元[約1000円]ほど)、③北京市のどこかのバス停からバスに乗って行く方法、④北京駅付近などで勧誘している「長城行き」の小さなツアーに分乗して行く方法の4つがあるらしい。

 3月18日(日)、北京交流会の会場となったホテルの夕食時、参加者の人たちといっしょに食事をとっていた際に、「私は万里の長城に行きたいのですが、だれか明日か明後日に長城に行く予定の人はいませんか」と聞いてみた。そうしたら、山東省の大学に勤める米村さんと山本さんが明日行く予定らしい。現在、北京在住のかっての大学の教え子の中国人たちが案内してくれるらしい。閩江大学の同僚の鈴木さんや貴州省の高校に勤める川さんも行くことになった。翌朝8時半、総勢7人が2台のタクシーに分乗して「万里の長城」に向かった。私以外は全員、これまでに北京周辺の「万里の長城」に行ったことがある人ばかりだった。この日の北京は、一昨日までと違ってとても暖かい日となった。空気汚染度は「中度汚染」と表示されていた。

 北京市内から万里の長城の「八達嶺(はったつれい)」という地点までの距離は約60km。この日は特に渋滞もなく北京市内から高速道路「G6・京蔵高速」を走って北西に50分間ほどで、タクシー内からの臨む山並に万里の長城が見え始めてきた。念願の、北京周辺の万里の長城を初めて見た。「すごい!」と興奮してきた。いよいよ「万里の長城に来たぞ!」という思いだった。長城入り口付近でタクシーを降りた。料金は400元(約8000円)。一人120元(約2400円)ほどだった。北京北駅から列車に乗ってきた中国人女性と合流して8人となった。ロープ―ウェー乗り場に向かう。

 ロープウェイに乗り、長城に向かう。山並の高いところで下車。タバコを一服吸いたかったが「タバコ厳禁」地区のため、ロープウェーに乗る際の荷物検査でライターは没収されていた。平日にもかかわらず、多くの人が来ていた。これが祝日や土日だったら、どれだけたくさんの人が来るだろうかと想像される。はるか向こうの山並まで長城が続いている様子は、なにか「巨龍」がくねくねと疾走したり横たわっているような景観が壮大であった。「すごいなあ……、この中国という国は……」と感慨にしばらくふける。

 長城の上は、ものすごく急な長城の坂が多く、もし雨が降っていたり降った後だったら、滑って転んで危険な坂道がえんえんと続く。長城の北の方は、モンゴル(蒙古)の方面だ。その方面に対する城壁の守りはしっかりしている構造。外国からの観光客もけっこう見えた。

 案内をしてくれた中国人の史さん(日本語ができる。※現在・北京語言大学大学院の学生であり、4月より北京の旅行会社で通訳としても勤務予定の30才)の長城についての解説によると、「城壁の高さは7.8m、城壁上部の通路幅は5.8mで、兵士なら10列が横並びで移動でき、騎馬なら5頭が列をなすことができる」という。

 ここ「八達嶺」には、最も低い場所にある「関門」を中心に「北楼(一楼から八楼まである)」(けっこうゆるやかな坂で「女坂」と呼ばれる)と「南楼(一楼から六楼まである)」(ものすごく急な坂で「男坂」と呼ばれる)の計3.5kmのみ公開されている。「楼」と呼ばれる「城楼」が110mごとに設けられている。

 さらに城壁上の通路を下がると最も重要な防衛場所である「関門」付近が見えてきた。