彦四郎の中国生活

中国滞在記

卒業論文発表審査会、今年はONLINEでの発表会となった—もう夏の季節だが、学生たちはまだ大学に戻れず

2020-05-30 19:55:17 | 滞在記

 亜熱帯地方の福建省の季節では、5月は初夏、6・7・8・9月の四カ月間は35度以上の真夏、そして10月は晩夏と半年間は30度以上の夏の気候。今年は新型コロナウイルス感染問題で、私が勤める福建省の閩江大学でも、5月末日でもまだ学生たちは大学に戻ることはできていない。初夏の5月中旬ころ、大学構内に10数本あるデェイゴの樹木の花は満開となり、下旬頃には花は散っていく。淡い水紫色の花をさかせる藍花楹(ランファイン)が咲き誇る。この樹木の涼し気な花が咲き始めると、「あと1か月半で夏休みになるなあ」と嬉しくもなる。日本ではよく見られるドクダミの白い花も5月には咲いている。

 5月中旬頃になると蓮の花がポンポンと開花し始め、約1カ月間をかけてほとんどが開花し、6月下旬には湖面をピンク色に染める。今年のこの季節、2万人の学生たちは誰一人も大学に戻っておらず、蓮もひっそりと静かに開花を始めていることだろう。

 ハイビスカスやブーゲンビリア、睡蓮なども、本格的に花を開花させ始めるのも5月中旬ころからだ。そして福建省福州市が世界の本場であるジャスミンも花を開花させ、高貴で上品な香りを漂わせる。同じ亜熱帯地方の沖縄では、沖縄ハーブの一種で、料理を盛ったりご飯を包む葉として昔から使われていた月桃(げっとう)の花も開花する。5カ月間あまり、人がほとんどいない大学構内は今どうなっているのだろう。

 福建省ではバナナの収穫時期は年に2回ほどあるが、5月になるとその時期の一つとなり、とても安く出回り始める。中国西部の甘粛省や新疆ウイグル自治区などを主要産地とするスイカや瓜もたくさん出回り始める。また、中国南部の貴州省や広西チワン族自治区などではレイシが収穫期を迎え、全国に出回る。パパイヤの実も大きくなり始める5月下旬。

  例年、6月20日頃卒業式が行われる。閩江大学では約5000人余りが卒業予定だが、今年は新型コロナウイルス問題で一堂に会した卒業式は挙行されないだろう。どういう形式になるのか、まだ大学から連絡はない。

 日本語学科の4回生は63名。通常は1学年は40人(2クラス)ほどだが、この学年だけはとても多い。昨年の6月から卒業論文指導が始まった。私が担当した学生は7名。日本語学科の9名の教員がそれぞれ7名ほどを担当して、指導が開始された。それから約一年後の今年5月23日(土)、卒業論文発表会が行われた、学生たちはまだ大学に戻ることが許可されていないので、口頭発表や質疑応答などはインターネット・ONLINEで行われた。

 前日の22日(金)午後、発表会のリハーサルが行われた。発表会は3つのグループに分かれ、それぞれのグループに21名の発表者となる。各グループの教員は3名。他に、発表会のスタッフ(記録・計測など)として各グループに3名の3回生が参加。23日(土)の午前9時から発表会が開始され、終了したのは午後3時頃だった。(各グループ6時間ほど)

    事前にグループ21名分の卒業論文(本稿)を教員は読んでいて、事前に卒論評価(70%分の成績)をつけて、この日の卒論発表会に臨んでいる。この日は、発表(報告)の評価・質疑応答への評価などが合わせて30%分の成績評価が付けられる。日本語学科の学生たちの論文テーマは例年、主に「①日本語言語学②日本文化学③日本文学④日本社会学」4つに大別される。そして、①〜④ともに日本と中国を比較した内容のものが多い。毎年、学生たちとともに卒業論文指導をしたり、完成した卒業論文を読んで、私も一緒に学ぶことも多い。

 私のグループの教員は他に、中国人教員の譚先生と林先生。そして、21名の卒業論文のテーマは次の通りであった。

 ①『千羽鶴』の文化コードへの研究、②楊貴妃描写の中日比較研究、③中日「児童文学」の比較研究―現実題材作品を中心に、④『蟹工船』における労働者のイメージの変化―小説と再創作、⑤大江健三郎の核文学について―『ヒロシマ・ノート』を中心に、⑥太宰治の孤独文学―『人間失格』を中心に、⑦『細雪』と『第一炉香』の女性形象比較、⑧受容と変革―芥川龍之介の『杜子春』について

 ⑨日本語動詞「かかる」の多義性研究、⑩中日助数詞の対照研究、⑪太宰治の『人間失格』に関する漢訳風格について、⑫現代における中日若者言葉の対照研究、⑬中日両国におけるゴミ分類施策の比較研究、⑭『紅楼夢』と『源氏物語』における男性像の比較

 ⑮『山海経』の日本の妖怪文化への影響について、⑯日中色彩語の文化的内包の比較研究―赤・白・黒・青を例に、その象徴的意味、⑰中日における新年風俗の形成について、⑱中日の無常観について―『紅楼夢』と『源氏物語』を中心に、⑲中日の高齢化問題について、⑳陰影美について―谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を中心に、21・中日の伝統服飾の変遷と現状

◆21人が発表した卒業論文のうち、9つほどは けっこう優秀又はかなり優秀な内容の論文という印象だった。

◆全体発表会(63名)が終了後、総合評価が90点以上の学生たちの論文は、再度の口頭試問が行われた。私が担当した7人の学生のうち、⑮・⑱・⑳の3人は、再度の口頭試問が他のグループの教員たちとともに行われた。その結果、3人ともに90点以上の再評価となり「優秀論文」となった。他の教員から、「寺坂先生、3人もの優秀論文おめでとうございます」のコメントが送られてきていた。全体の何篇もの優秀論文の中から、後日、さらに「最優秀論文」が選ばれることとなる。

◆昨年度から、卒業論文の本稿執筆や卒業論文発表会での学生の発表や口頭試問は日本語で行われることとなり、日本語能力のきわめて弱い学生は卒業論文で赤点がつき、このため卒業論文評価が不可となる学生もある。今年、私の担当する21名のグループでは、20名が可(合格)となった。

◆例年、卒業論文発表会のあった日の夜は、「卒業パーティ」がレストランなどで開催されているが、今年はそれはできなかった。

 

 

 

 

 


咲き誇った この春も―7年ぶりに日本の桜をゆっくり眺めた❸―桜の下で三線を弾く人、釣りをする人

2020-05-28 06:11:47 | 滞在記

 私が日本で暮らす家は、京都市伏見区に隣接した京都市の南の町・八幡市。風水思想で平安京の南を守護する石清水八幡宮(国宝)がある。

 4月上旬、石清水八幡宮の下宮の桜がきれいに咲き誇っていた。7年ぶりに見るここの桜。

 八幡市の男山丘陵にある桜公園の桜も満開を迎え始めていた。椿もたくさん咲いていて、桜と椿の競演。桜の花の下で沖縄の三線(サンシン)を静かに弾いている老年の男性。白いコートにつば広の帽子がよく似あっている。

 桜公園の釣り堀には見事な枝垂れ桜が10本ほど咲いていた。桜を眺めながらの釣り堀もいいものだな。

 そして、ここ八幡市の桜といえば、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となるところに築かれた堤防・背割り堤の桜並木。数ある日本の桜名所の中でも、人気度で第五位となっている場所だ。ここについては、別稿「治水・堤防・桜並木・日本の米作りシリーズ」で記したい。

 

 

 

 


咲き誇った この春も―7年ぶりに日本の桜をゆっくり眺めた❷—京都市の桜②哲学の道の桜と草花の共演

2020-05-20 05:25:11 | 滞在記

  4月11日(土)の午後3時頃、この春初めて京都市の「哲学の道」に行った。哲学の道には何百本もの桜の木が疎水沿いにある。最も多いソメイヨシノの品種はほぼ散り桜となっていたが、花筏(はないかだ)を見ることができた。散ったソメイヨシノの花びらがまるで絨毯(じゅうたん)のように、疎水の水面(みなも)にびっしりと浮かんでいる。そのさまは桜花の長い筏(いかだ)のようにも見える。

 銀閣寺界隈から熊野若王寺神社までの1.5kmあまり続く哲学の道にはさまざまな品種の桜の樹木がある。ソメイヨシノが散り桜になると他の品種の桜が満開の見ごろを迎えて来る。けっこう大粒のサクランボを実らせるものもあって、学生時代は銀閣寺山門近くに下宿していたのでこれをよく食べたことを思い出す。

 哲学の道の魅力はいくつもあるが、この桜の季節でいえば、桜だけでなくさまざまな草花が競演(共演)するように咲き誇る光景だ。黄色いレンギョの花が疎水べりに咲く。モミジの若葉(青モミジ)が一斉に川面を覆い始める。

 哲学の道は、春は桜やさまざまな草花、初夏は木々の緑、秋は紅葉、冬は雪化粧と四季折々に景色が変化する自然の美しい道だ。哲学の道はもともと、1890年(明治23年)に完成した琵琶湖疎水の一区間の管理用道路として設置された道。このあたりに文人が多く住むようになり、「文人の道」とも称され始めた。その後、京都帝国大学の哲学者たち・西田幾多郎や田辺元、九鬼周造や和辻哲郎らが好んで散策し、思案を巡らしたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「思索の道」「疎水の小径」などと呼ばれた。この道を好んだ文人の谷崎潤一郎や河上肇(経済学者)、内藤湖南(歴史学者)、九鬼周造らの墓が、哲学の道沿いにある法然院の墓地にある。

 哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。この時に植えられた桜の樹齢は尽きたと思われるが、佐野藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。

 1972年、地元住民たちがこの道の保存運動を進めるにあたり、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。保存運動をしていた地元の人たちは、毎年8月16日に行われる「五山の送り火(大文字焼き)」の大文字保存会の人たちでもあった。私も下宿の大家さんがこの大文字保存会の会長だったこともあり、大文字山への眞木運びなどを手伝った思い出がある。1981年に道の中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた。1987年には、廃止された京都市電の軌道敷石を転用して、疎水沿いの道に敷石が並べられ現在に至っている。

 4月中旬ころになり、山吹の黄色い群生がいたるところに見えるようになっていた。

 疎水べりのシャガの花が何箇所も満開となっていた。八重桜が五分咲きとなり道が華やぐ。

 石楠花(シャクナゲ)の花もこのころは満開となる。2株あるここのピンクと赤の石楠花は、学生時代に見たころとそのまま同じだ。ミツマタの花も咲き始めていた。

 哲学の道沿いの大豊神社には狛(こま)ネズミが祀られている。この神社は、初めて見る椿の品種が咲いていて、見事だった。

 疎水の水面にかかる青モミジが連なる。鱒(ます)のような魚が20〜30匹ほど群れている。哲学の道の疎水の流れの水底にはカワニナが生息している。そして、これを食べて育つホタル。5月下旬から6月中旬の3週間ほど、特に6月上旬頃、ここはホタルが舞うところとして有名だ。夜の8時頃から9時頃までの1時間、ホタルが舞う。ホタルが舞う場所は哲学の道全域にわたるが、年によって場所が変わったのするようだ。

 もうサツキの花が開花していた。吉田山の真如堂や黒谷さんの三重の塔が向こうに望める。

 哲学の道の道標がある。ここで一応、哲学の道は終わる。道標の近くを山の方に少し登ると昨年亡くなった梅原猛氏の自宅がある。自然の森に囲まれた邸宅だが、この家はかっては和辻哲郎が暮らした家でもあったようだ。和辻哲郎の著書『風土』はとても優れた名著だ。私は大学の講義「日本文化名編選読」でこの著作についても扱っている。梅原猛氏とは私が40代後半の頃に一度会って話したことがあった。1996年~2002年にかけてモンゴル・ゴビ砂漠での恐竜発掘調査に5回行った時に、玉(ぎょく)でつくられた矢じりなどの石器をたくさん見つけて、日本に持ち帰った。梅原氏が「玉」に関して大きな関心を持っていることを知っていたので、連絡をとって会うこととなった。今では、懐かしい思い出だ。

 梅原猛氏の邸宅の前の道を少し登ると「桜花苑」という場所がある。「今朝子桜」「佳織 H7 4.26 寂 H10 4月植」名どの札が桜の数十本の桜の樹木にかけられている。故人をしのぶために桜を植えられた場所だが、この10年ほどで桜の木もずいぶん大きくなってきている。

 熊野若王子神社が哲学の道沿いにある。「熊野詣」は特に平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んに民衆の間でも行われてきた。鬱蒼とした森林が広がる熊野地方は、先祖の霊がこもる「黄泉(よみ)の国」と考えられもしていたようだ。熊野地方には「熊野三山」と呼ばれる神社があるが、京都にも「洛中熊野三山」と呼ばれる神社がある。この熊野若王子神社と新(いま)熊野神社、熊野神社である。京都から往復1カ月間かかる熊野詣にかわるものとしてここでの信仰が行われたようだ。

 京都から熊野詣に行く際、最も多く使われたルートは、淀川を船で下り大阪へ、そして紀州路を通って和歌山へ、そして田辺に至る。ここから熊野古道を通って熊野三山に至るというルートだ。907年から1281年までの約300年間に、皇室の法皇や上皇は100回以上の熊野詣を行っている。特に後白河法皇は34回も行っている。御所から東大路丸太町の熊野神社にまず立ち寄り、この熊野若王子神社の近くにある滝で身を清めて出発(起点となる)、京都東山七條近くの新熊野神社で休息、伏見あたりから大阪に向かう船に乗ったようだ。

 哲学の道の道標を下りたところにある南禅寺北の坊町の住宅街に、「大豊神社 氏神祭 5月4日 神輿担ぎ手・参拝者募集」「稚児行列1:00-2:30」と書かれたポスターが貼られていた。コロナの影響で、この祭事も中止になったかと思う。

 この住宅街に私の叔母さんの家があった。この建物は今は他の人が住んでいるが残っている。学費も生活費もすべてアルバイトで賄っていた私の学生生活。貧乏学生だったため、2週間に一度ほどこの叔母さんの家に行って夕食を食べさせてもらっていた。叔母さんの夫の人は、風貌が三木元首相にとてもよく似ていた。銀閣寺の下宿から哲学の道を歩いてここまで来ていた。6月にはここから下宿への帰り道、暗闇の哲学の道でホタルの乱舞を何度が見たことがあった。

 銀閣寺界隈から始まる哲学の道から永観堂へ、そして南禅寺と続くこの界隈の道と桜は、京都の桜の名所の中でもひときわ、私にとっても思い出の場所だ。今は娘がこの界隈を選んで、銀閣寺近くの吉田山山麓で暮らしている。

 

 

 

 

 

 


咲き誇った、この春も―7年ぶりに日本の桜をゆっくり眺めた❶—京都市の桜①

2020-05-18 19:47:01 | 滞在記

 ちょっと遅きに失しているが、やっぱり日本の桜のことを記しておきたい。私にとっては、3月下旬から4月上旬にかけて日本の桜をゆっくり見るのが、実に7年ぶりだったからだ。2013年9月から中国の大学に赴任して以来、この時期の日本の桜をゆっくり見ることがほぼできなかった。(2016年4月9日に娘の結婚式があったので、3日間ほど日本に一時帰国してこの時期の桜を見たことはあったのだが)

 新型コロナウイルス感染拡大の今年、3月27日(金)から東京の桜の名所でもある都立3公園(上野公園・井之頭公園・代々木公園)などは閉鎖をされた。そして、3月29日(日)には、東京に季節外れの雪が32年ぶりに降り積もった。外出自粛も重なり首都の街角も閉散となった。この頃京都では、隣県の大阪のライブハウスなどでのクラスター感染があったが、まだ感染拡大に対する緊迫感はもたれていなかった。「大雪の首都閑散も 京都の桜スポットには賑わい」との見出し記事が朝日新聞に3月30日、掲載されていた。私も、勤務する中国の大学の学生達とのONLINE授業の合間をぬって、ずっと行きたかった京都各所の桜を 3月下旬から4月10日すぎ頃にかけて急ぎ足で巡っていた。

 4月5日頃付の朝日新聞に「咲き誇る この春も」という見出し記事が掲載されていた。

 京都市は桜の名所がとても多い。多すぎて、「どこがいいですか」と問われても答えがすぐにでてこない。が、私なりに毎年必ず行かないと春が過ぎた気がしないところもある。私のベスト4をしいてあげれば、それは、①八坂神社の背後にある円山公園の桜。ここは枝垂れ桜の大木が有名だが、公園内のいくつかの茶屋の赤い毛氈(もうせん)が敷かれた桜の下で 人々が酒を飲む風情が心を浮き立たせてくれる。②木屋町通りの高瀬川の桜並木。鴨川と並行して都会のど真ん中を流れる高瀬川。昼もいいが、夜になると「川にそった夜桜並木とネオン街」が出現する。こんなところはなかなかない。③哲学の道や南禅寺界隈の桜。東山の麓の桜はなんとも風情がある。桜だけでなくこの季節のさまざまな花々が咲き誇る。④京都府植物園の横を流れる賀茂川、その堤防沿いにある「半木の道」の枝垂桜並木。賀茂川の清流と北山、そして桜のコントラストがえも言われない。

 実は京都は、約1カ月間にわたって桜が楽しめる。4月10日頃に一般的な桜のシーズンが終わり始めるころ、仁和寺の御室桜(おむろざくら)が開花し見ごろを迎え始めてくる。4月中旬には 金閣寺からほど近い「原谷苑」というところのさまざまな桜や山吹などが、実に見事となる。ここはまるで桃源郷のようだ。そして、4月下旬から5月上旬にかけては、比叡山の山々の八重桜並木が見事な光景を見せてくれる。

 3月25日(水)の午後、午前中のONLINE授業を終えて、京都市内の円山公園に行ってみた。例年は4月上旬に満開となるが、今年は1週間ほど開花が早く、ほぼ5分咲きとなっていた。八坂神社境内や円山公園一帯は、平日にもかかわらずたくさんの人で賑わっていたが、例年よりも人出は少なく、茶屋の宴席は、営業自粛もあり、開かれていなかった。公園内でお酒などを飲むことも自粛を求められていた。どこかさみしい円山の桜だった。白椿も見事に咲いていた。

 3月31日(火)、この日は授業のない日だったので、午前中に翌日の授業準備を終えて、午後に京都市内の桜を見に行ったり丸善書店に立ち寄った。祇園八坂神社近くの白川沿いの柳並木の新緑が美しい。祇園白川石畳通りの桜も。雪柳の花も咲いていた。鴨川にかかる四条大橋。三条大橋にかけての川沿いに腰かけているたくさんの人たち。

 鴨川から西に少し歩いて木屋町通りに。高瀬川の桜並木が5分咲きとなっている。街中にあるここの桜はいつ見ても心が浮き立つ。四条木屋町に私が学生時代にあった喫茶「ミューズ」は残念ながら今はもうなくなって、焼き肉店になってしまっているが。「お花見しながら 焼肉できます」のポスター。この付近の喫煙スペースは、三密を避けるためか緊急閉鎖されていた。

 三条木屋町方面に向かって高瀬川沿いに歩く。周囲の居酒屋などの飲食店と桜並木の調和がいつ見てもいいなあ。柳の緑と桜色のコントラスト。

 丸善書店で1時間あまり過ごして外に出ると、木屋町は夕暮れの時刻となっていた。橙色の灯りが店に灯る。夜桜の木屋町通りはえも言えない風情がある。友達たちと一杯やりたいところだが、3月に入って以降 自粛ムードのため一度も飲みに行ったことがなかった。長い人生の中で初めての経験だ。

 3月26日(木)の午後、娘と孫たちと京都府立植物園に桜を見に行った。もう5分咲きとなっていた。菜の花も満開。植物園よこの賀茂川堤防半木の道の枝垂桜並木の桜は、まだ2分咲きくらいの様子だった。あと10日くらいすれば満開になるだろうか。植物園はこの日の1週間後から閉園となってしまった。

 4月1日(水)、この日の午前中のONLINE授業を終えて、午後に蹴上インクラインや南禅寺界隈の桜を見に行った。満開となり、たくさんの人が花見に来ていた。マスクをしている人はまだ半数くらいの時期だった。

 南禅寺境内の桜、南禅寺水路閣。記念撮影をしている若い人たち。撮影の時は全員がマスクを外していた。

 南禅寺境内の周囲の界隈の桜がまた見事。屋敷に前の道に沿って枝垂桜の競演という風情。疎水の小さな水路沿いにも桜並木があり東山の緑り中に浮き上がっていた。

 岡崎の疎水べりの桜。疎水の上を「花見船」が。ここは3密のために、お客さんたちはほぼ全員がマスク姿。京都市美術館の枝垂桜が開花し始めていた。

 銀閣寺・哲学の道近くの娘の家に行くたちめに出町柳で下車。高野川と賀茂川が合流する鴨川デルタ。ここの桜もまたいいものだ。

 娘の家の近くの番場公園。ここの公園は、私が学生の時代からあまりようすの変わらない公園だ。一本の桜の木が5分咲きとなっていた。春休みが終わっても、休校となっていた4月9日、この日はONLINE授業もなかったので午後から孫の子守の手伝いに行った。ここの公園は閉鎖にはなっておらず、子供たちや親子づれが元気に遊んでいた。3歳半の孫が通う幼稚園も、小学校と同じようにコロナのために閉園が続く。桜がポツンと満開に咲いていた。

 

 

 


慈眼寺(くろみつ寺)、迫力のある 目が充血している明智光秀の黒塗り座像―京北町❷―城の歴史的変遷

2020-05-16 09:33:25 | 滞在記

 中江城の山に義兄とともに登って昼頃に家に戻る。義兄は幕末の明治維新期の歴史の中で、禁裏御料地だった山国荘の人々が「山国隊」(農民兵軍)を組織し、薩摩や長州などの討幕軍とともに関東などに遠征していった歴史関連を長年研究している。また、幕末の水戸藩や天狗党、鳥取藩の動向などの研究もしている郷土史家の一人だ。

 毎年10月に開催される京都時代祭で笛や鼓笛を演奏しながら、刀や銃を背中に架けて先頭を行進する部隊のモデルが山国隊だ。山国荘にある「山国護国神社」では、毎年10月10日頃の秋祭りに「山国隊」の子孫たち(山国荘の人々)によって、この行進が行われる。こちらが本物の山国隊行進。山国隊隊士として明治維新の戦乱で亡くなった人々を祀る「山国神社」も近くにある。のような経緯もあって、妻の実家の家には新築に際して、小さな武家門や祠などがつくられている。3月22日、春を告げるラッパ水仙が開花していた。

 義兄が一冊の冊子を見せてくれた。『近世日本における材木産業―第4章 山国における材木事業』(Conrad Totman著)。欧米人が著者。英文の書籍の第4章を 地元の北桑田高校などで英語教員として長年教鞭をとっていた杉本さんらが日本語に翻訳した冊子だった。なかなか優れた研究書で、これを読んで近世の大堰川・保津川・桂川の筏流しを活用した材木産業の歴史などがよくわかった。

 昼食時に近くに住む妻の姉(義姉)の家にて食事をする。この家は切妻屋根と白壁の典型的な日本のシンプルな伝統建築美をいつも感じる。オオイヌノフグリ、ホトケノザの花が咲き、土筆(つくし)がでていた。

 京北町の周山地区にある慈眼寺(じげんじ)に立ち寄って帰ることにした。今年の1月25日(土)・26日(日)にかけて妻の実家に来た際に、この慈眼寺に立ち寄って黒塗りの明智光秀座像を見に行った(土日のみ光秀座像が置かれた堂を一般開放)が、「所用にて今日は開放はしていません」との貼り紙がされていて、見ることはかなわなかった。

 3月21日(土)、博物館の学芸員っぽい感じの若い女性の案内で、この日初めて光秀座像を見ることができたが、堂内は撮影禁止となっていた。墨で黒く塗られた光秀像(くろみつ座像)。実際に見てみるとおそろしく迫力のある座像だった。左目の半分は赤く充血している。右目もかすかに受血している。眼光は厳しく鋭い。切羽詰まった緊張した事態・状況下で観念をしているような表情にも思えた。位牌もあった。座像の衣服の後ろ(背中)には桔梗(ききょう)の紋があるようだが、拝観では座像の後方を見ることはできなかった。

 慈眼寺の光秀像がある堂内に、「明智光秀が築いた城—周山城を中心に」講演者・小和田哲男氏<4月19日 京北町>のポスターが貼られていた。このポスターの写真を撮影してもよいかと聞くと、「いいですよ」とのことだった。4月19日には中国に行っている可能性もあるので、「この講演を聞きたいが、申し込むことはできないなあ」と思った。のちに、新型コロナの緊急事態宣言が4月7日に出されたので、この講演会は中止になっていたかもしれない。

 周山城に登ると本丸近くからは、「山国荘」が眼下に見える。光秀の丹波進攻によって、宇津氏の居城だった宇津城は落城、山国荘は禁裏御料地として復活し、江戸時代末期まで続いた。周山城は「丹波国」の北桑田郡一帯を統治するために1570年代に築城された石垣も多用した山城だった。「丹波国」船井郡統治のための拠点城として光秀によって改修築城された「須知城」の山城も、本丸周囲の高い石垣が見事だ。

 周山城のある「周山」は、中国の古代王朝「周」の賢王・周山公にちなんだ名だ。明智光秀の理想の王侯の一人だったのだろう。(※中国史では、この古代「周」の時代だけが、封建制の時代だった。それ以降の時代の多くはほぼ皇帝による王朝時代。現代も中国共産党王朝ともいえる時代だ。王朝は、土地と人民は全てを所有する。中国共産党の強固で強い経済的基盤は、国家による全土の土地所有。個人の住宅も70年間期限の国家王朝による土地貸し。)

 ―日本における城の変遷―

 [古代]飛鳥・奈良・平安時代

 山城➡朝鮮半島(大陸)からの技術導入によってつくられた。山々の尾根筋を城壁で囲み、広い面積のある山城を確保しているのが特徴。朝鮮半島などからの侵攻に備えたため、対馬や九州北部、瀬戸内海一帯にこの古代山城が十数か所つくられた。

 古代城柵(平城)➡高い材木塀などで広い平地面積を囲み、中央に政庁や居館などが置かれた。朝廷が国司などを置き、地方の政治を行う拠点の平城。

 [中世・戦国]鎌倉・室町・戦国時代

 山城①➡鎌倉末期から以降、やせた尾根に築かれた初期・中期の山城。天嶮(てんけん)を利用して細い尾根に曲輪を連続させて、尾根の斜面を急峻に削ったり、堀切で尾根を遮断するなどの防御を施す。この形式の山城は、戦国時代に入っていた1550年ころまでは山城の主流だった。また、日本の約3万の城跡の70%以上はこの形式の山城。これらの山城は地元の人もその存在を知らず、数十年誰も城址に行ったことのない山城もけっこうある。

 中世平城(方形館)①➡古代城柵は国家がつくったが、鎌倉時代末期室町時代初期からの方形館以降は個人がつくったもの。武士の館を防衛するための城で、周囲を水堀や空堀を巡らせたものが多い。また、少し小高い丘を利用した方形館もある。

 山城②➡山城は、1540年以降の戦国中後期になると、山城の麓に居館が作られ、大規模となった山城部分と一体化して壮大な山城がつくられるものが出現した。(石垣なども使われ始めた)

 中世平城(方形館)②➡戦国中期・後期になると、方形館から発達して、何重にも水堀や空堀で防御力を高め、面積的にも広い平城が出現し始めた。(石垣なども使われ始めた)

 ◆京都府京北町(現・京都市右京区京北町)にも、山城や平山城、居館跡がいくつかある。名前を記せば、①周山城②宇津城③宮城④細野城⑤宇津嶽山城⑥田中城(方形館)⑦田貫九門館城⑧中江城⑨塔城⑩八津良城。⑨以外は全て訪れた。①②⑤⑧はかなり比高の高い峻険な山に築かれた山城だった。

 近世城郭➡1570年代に築かれた安土城以降、険しい山城が築かれることは少なくなった。政治・経済・流通・交通の中心となる地に、何重もの水堀などを巡らせ、天守閣なども本丸に築かせた平城や小高い丘や山を中心とした平山城が作られた。城の周囲には城下町が形成され、江戸時代の各藩の中心地となる。歴史上最後に城がつくられたのは、1868年の明治維新期につくられた京都府(丹波)園部藩の園部城。

 3月21日、京北町をあとにして、京都の自宅に帰る道すがら、周山街道沿いの京都洛北の高雄の山に三つ葉ツツジがピンクに山肌を染め始めていた。あと、半月くらいしたら三つ葉ツツジが満開となり、山櫻とともに見事な景色がここに出現する。山の麓の渓流沿いには神護寺や高山寺なとがある。