彦四郎の中国生活

中国滞在記

台湾民主の父ともいわれる李登輝氏死去―大阪弁事処で弔問記帳が―「半沢直樹」台湾旗が消えた

2020-08-08 16:40:52 | 滞在記

 台湾の李登輝元総統がこの7月30日に死去した。享年97歳。翌日の朝日新聞には「李登輝元総統死去97歳 台湾民主化を確立」「悲哀背負った"民主先生"―台湾の近現代史体現」の見出し記事。死去を受け、世界各国の首脳らが相次いで弔意を表明した。台湾外交部によると、8月1日午後までに、計59か国の要人332人が李氏の死去を悼んで弔問文などを台湾政府に送ってきたと発表されていた。(※現在、台湾と外交関係をもつ6か国の他に、日本、米国、韓国、フィリピン、英国、フランス、ドイツなどの政界やマスコミ関係者、国際機関など)

 台湾外交部によれば、日本や米国、バチカン(ローマ教皇庁)など海外に置く14か国の在外機関に追悼の場を設置したと発表された。

 追悼会場が台湾の台北市中心部の台北賓館など台湾各地に設けられ、蔡英文総統をはじめとする政界要人が訪れたほか、李氏の冥福を祈ろうとする大勢の人々が列を作っていた。台湾では8月16日まで追悼会場の弔問が開放されるようだ。

 日本では8月3日から7日まで、東京の「台湾駐日経済文化代表処(大使館に相当)」や大阪の「台湾弁亊処(領事館に相当)」、沖縄県の那覇市や神奈川県の横浜市、北海道の札幌市にある「台湾分処」で李登輝氏の弔問記帳処が設けられた。自民党の麻生副総理や管官房長官や小泉環境相や森喜朗・福田などの元総理、東京都都知事の小池百合子、立憲民主党の連坊参議院議員などの政界関係者や、多くの弔問記帳処に人々が訪れているようだ。このうち東京では、6日までに3000人を超す弔問客が訪れた。

 米国のポンペオ国務長官は、「李氏の大胆な改革が、台湾が民主主義の道しるべに変貌する上で不可欠の役割を果たした。李氏が米国と台湾の深い友好関係を強固にした。価値観を共有する台湾との関係強化を続けていく。」と表明した。

 蔡英文総統は8月6日、自身のツイッターで、李登輝氏の弔問のために、台湾が日本に設けている代表機関に足を運んでくれた人々に向け、次のような日本語での文章で謝意を示した。「コロナ禍と猛暑の中、多くの日本の友人たちが台湾駐日代表処に、李登輝元総統のための弔問記帳に訪れてくれたことに改めて心を打たれました。皆さん、ありがとうごさいます。李元総統が築いてくれた、地震やコロナにくじけることのない強い絆を持つ台中関係を私たちが引き継いでいかなければなりません。」

 中国国内でも李登輝の死去は伝えられていた。中国政府の李登輝への批判はとても厳しいものがある。「台湾独立運動に強い影響を与えた元親玉」のような捉え方が定着しているからだ。インターネット記事の投稿コメントなどをみると、「日本人的鬼子 李登輝」「早く死んでしまえこの野郎」「日本とアメリカの犬」「売国奴」などの内容コメントが多くを占めていた。

 ―李登輝―

 李登輝は日本統治下の1923年に台湾で生まれた。一族は古くから台湾に住みついた「客家」。父が警察官の比較的裕福な家庭に育ち、戦時下の1943年に旧制台北高等学校を卒業、その年に京都帝国大学農学部に入学、当時の台湾人としては一握りのエリートコースを歩んだ。日本名は「岩里政男」(※日本統治下の1945年まで台湾人はみな日本人でもあった。)

 専攻は農業経済学。農業経済学を選択した理由として、本人によれば、幼少期に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目のあたりにしたことと、高校時代の歴史教師である日本人の塩見薫氏の影響によりマルクス主義と唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があることを理由として挙げている。

  旧制高校時代には西田幾多郎・和辻哲郎などの京都学派の著書、安倍次郎、倉田百三、鈴木大拙などの書籍、新渡戸稲造の『武士道』なども愛読した。京都大学時代には農業経済学の勉学とともにマルクスの『資本論』や河上肇(京大・マルクス経済学者)など社会主義関連の著書にも親しんでいた。1944年には他の文科系学生と同じように学徒出陣。終戦時には陸軍少尉の軍階級。1945年の日本の敗戦とそれに伴う台湾島の日本からの返還を受け、1946年に「中華民国」の一省へと変わった台湾に帰り、国立台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。同年、中国共産党に入党。(※2年後に離党)  

 1947年に中国共産党軍との内戦に敗れ、中国大陸より台湾に逃れた蒋介石率いる国民党軍とその軍事政権。国民党政権が本省人(台湾にもともと住んでいた人たち)を武力弾圧した2.28事件がこの年に発生した。官憲による白色テロが吹き荒れる中、本省人で日本帰りの知識人である李氏もマークされ、いつ連行されてもおかしくない状況に置かれた。知人の家の倉に匿われたりしていた。当時の緊迫した日々を「枕を高くして寝たことがなかった」と振り返り語っている。

 1949年、国立台湾大学を卒業し、同大学農学部助手として採用される。同年、曽文恵と見合い結婚。翌年、長男が生まれる。1952年にアメリカのアイオワ州立大学に留学し、農業経済学を研究。53年帰国し台湾農林庁に就職するかたわら、台湾大学の講師としても勤務。以後、農業経済学の研究を続けながら1961年には台湾大学助教授としての兼任勤務。再び1965年からアメリカに研究留学。(コーネル大学)  1968年に台湾に帰国し、台湾大学教授に就任している。しかし、1969年に李は思想的な問題嫌疑で国民党政権下の警察総部の取り調べを受け一時拘束されたこともある。

 農業専門家としての経歴をかわれて、その後、1971年に李登輝は蒋介石の息子・蒋経国の知遇を得て政界に入る。「国民党」に入党。その後、蒋経国が行政長官に就任(台湾総統は父の蒋介石)すると、無任所大臣として入閣。1978年には台北市長に任命される。1984年、蒋介石の死去にともない蒋経国が台湾総統となり、副総統に任命される。1988年、蒋経国の死去にともない、副総統であった李が台湾総統となる。この時期から台湾では再び政治の民主化を求める運動が活発化しはじめた。1980年代には「国民党」に対抗し政治の民主化を求める「民進党」が結成されてもいる。

 1994年、李登輝は総統職にある中で、台湾の主要都市である台北市や高雄市での首長選挙(民主的選挙の実施)を決定し、96年には初の「台湾総統選挙」(民主的直接選挙)の実施を行うことを決定した。この1980年代末から1990年代前半の民主化の動きは「静かな革命」とよばれ、李登輝は「民主先生」とも呼ばれた。1996年の初の台湾総統選挙(直接民主選挙)で54.0%の得票率で当選し、李は台湾史上初の民選総統となる。この選挙に関して、中華人民共和国(中国)は、台湾の独立を推進するものと反発、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される福建省沿岸での大規模な軍事演習(台湾へのミサイル発射訓練を含む台湾侵攻の動き)を行った。しかし、この第二次台湾危機は、米空母2隻を含む台湾海峡への派遣によって阻止された。

 2000年の第二回目台湾総統選挙では、李登輝の国民党陣営内は2極への分裂選挙を強いられ、李登輝の推薦する候補は敗北、民進党の陳水扁が当選し台湾総統となった。このため、李登輝は国民党主席を辞任した。国民党主席辞任後は政界を引退したが、李の台湾独立志向などの発言のため反党行為として2001年には国民党から党籍剥奪の処分を受け離党。「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら結成し、その後の台湾政局にも影響を与え続けた。2004年の台湾総統選挙では、選挙期間中に、台湾島の南北約500kmを約200万人の人々が中国大陸に向けて手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、再選を目指す民進党の陳水扁を側面支援した。

 その後も、李登輝はさまざまな活動を晩年まで続けた。日本には2001年、持病の心臓病治療で来日。2004年には家族との観光旅行として日本を訪日。母校の京都大学農学部を訪問したが、入り口から構内に入ることは当時の日本政府の「日本と中国との政治関係への配慮のため」、京大の大学構内には入構できなかった。金沢市の西田幾多郎の史跡も訪れている。2007年にも日本を再び訪れ、芭蕉の「奥の細道」の東北地方を旅行した。(※李登輝には1男2女の息子・娘があったが長男は1982年に死去)   2008年、2009年、2014年、2015年、2016年、2018年にも日本を講演などのため訪れている。

 晩年は、台湾各地に足を運び、講演などを通して地方分権や住民参加を推進する「第二次民主革命」を提唱した。心臓病や糖尿病、がんなどの病気を押しての行脚だったが、台湾という故郷と、そこに住む人々に寄せる思いがなせる業だった。偉大な「哲人」が97年間も生き、そして息をひきとった。

◆作家の司馬遼太郎との対談で、李登輝は、日本の統治に続き中国大陸から渡ってきた蒋介石の国民党軍ら外省人の統治を受けた同胞の運命を「台湾に生まれた悲哀」と表現した。台湾に住む人々が台湾人としてのアイデンティティーを確立する必要性を説いた。台湾総統時代の1991年、中国との内戦状態の終結を宣言。1999年には台湾と中国を「特殊な国と国との関係」とする「二国論」を打ち出した。「一つの中国」を原則とする中国はこれに激怒し、李登輝は「台湾独立分子・売国奴」のレッテルを貼られ、今日に至っている。

 李登輝の母校の一つである京都大学。たった1年間あまりだったが彼はここの学生だった。おそらく京都大学に近い銀閣寺界隈や哲学の道、白川通りの付近にて学生生活を過ごしたようだ。李登輝の京都大学時代の恩師と2004年に再会している。その恩師の息子は、『李登輝の偉業と西田哲学―台湾の父を語る―』(京都大学教授 柏久 著)を著している。

 大阪の「台湾弁亊処」でもは、8月3日~7日の期間、李登輝への弔問記帳が行われた。場所は大阪中の島にある中の島フェスティバルホールの建物。京阪電鉄「淀屋橋駅」で下車、地上に出ると大阪市役所や日本銀行大阪支店の建物が。橋の上からはフェスティバルホールの建物が見える。

 フェスティバルホールの超高層ビル1階から2階に通じる長い階段には赤い絨毯が敷かれている。17階に台湾弁亊処があり、そこの一室に弔問記帳所が置かれている。8月3日、「お疲れ様でした。」と冥福を祈った。

 台湾の李登輝元総統が亡くなったことを受け、日本では森元総理を団長とする弔問団が、明日8月9日に台湾を訪問することが発表された。弔問団には、安倍首相の弟の岸信夫元外務副大臣や、自民、公明、国民民主、維新など、党派を超えた議員が参加する。(なぜか?立憲民主党と日本共産党の弔問団への参加はないようだ。党としての参加意志があれば参加できたのだろうが。立憲民主党などは、参加者の打診を受けたが「参加に適切な人物がいない」との理由で断ったようだ。なぜなのか?日本共産党も?)

 弔問団は、現地では、蔡英文総統との面会も予定されているようだ。

 TBS系ドラマ「半沢直樹」。このドラマの2013年第一回シリーズは中国でも多くのドラマファンを生み出した。私の大学の日本語学科の学生たちもこのドラマの熱心なファンが少なくなかった。今年の7月から始まった第二回シリーズ(続編)も30%を超える高視聴率。私も毎回欠かさず熱心に視聴している。「やられたらやり返す 倍返しだ」は中国語では「有仇必報 加倍奉還!」と言うが、一時期中国でも話題のフレーズとなっていた。

 その「半沢直樹」の続編の第一話の画面中にあった「台湾旗」が1週間後の再放送時には消滅していたことが物議を醸している。新聞などには「半沢直樹、屈した? ―消えた台湾国旗の謎」「中国での放映に差し障り、問題になる前に対応か」などの見出し記事が8月1日付けの夕刊フジなどに掲載されていた。

 台湾問題に神経をとがらせる中国への忖度(そんたく)があったのかと憶測されている。問題となっているのは、第一話で堺雅人演じる主人公、半沢が出向した証券子会社でのシーン。7月19日の本放送では背景の大型モニターには世界地図が映しだされ、主な国名と国旗があったのが、26日の第二話放送直前の再放送では、各国の国旗が消え、国名表示のみに変わっていた。

 台湾国旗は中国大陸では完全にタブーの存在で、公の場に出してはいけない記号として認識されている。国旗を出したままだと中国での放映に差し障りがあるので、テレビ局側で、問題が大きくならないうちに対応したのではないかとみられている。大きな組織にひるまず戦うのが半沢の真骨頂のはずだが、TBSテレビ局内には半沢はいたのだろうか?それなりに対応を巡る議論はあったのだろうが。

  このような中国の対台湾問題感情を知らないまま、私は2013年9月に初めて中国の大学に赴任したその翌年の3回生の講義(授業)で、私が台湾を「国的なもの」として一つの資料をパワーポイントで提示したところ、ある学生(共産党員)が、「先生!台湾は国ではありません!中国の一部です。中国の省、台湾省です!」と猛烈に抗議され、少なくない学生たちがその学生の抗議に同調の表情を見せたことを思い出す。