彦四郎の中国生活

中国滞在記

安倍首相訪中❷—北京の10月25・26日、安倍首相「日中関係の三原則」を提案、習・李氏は‥

2018-10-31 15:51:03 | 滞在記

 10月25日午前、安倍首相が北京国際空港に到着、李克強総理が空港で出迎える。北京中心の紫禁城の天安門には日中の国旗が掲げられた。中国の儀仗兵の行進を閲兵する安倍首相と李総理。これらについて、中国外交部報道官・華春莹が歓迎の意を表明していた。

 日本のNHKの報道などによると、25日の李総理と安倍首相の会談で、安倍首相は「日中関係の3つの原則」(①競争から強調の関係へ②脅威ではなくパートナー関係へ③自由・公正な貿易体制の発展を目指す関係)や「東シナ海を平和・友好の海へ」と提案。また、東シナ海での偶発的な交戦を回避するための双方の軍関係者の会合の開催などについての取り決めなどが話し合われた。その後の日中の経済関係者の会議では、タイ東部・経済特区での都市開発など52の日中共同プロジェクトを協力してすすめる文書を交わした。この日の夜、李総理主催の晩餐会が行われた。

 李総理との会談では、「東シナ海・ガス田共同開発」「北朝鮮の核問題」「第三国での経済協力」なども話し合ったとされる。日本の外務省発表のホームページ「安倍首相訪日」記事を見ると、「26日の午後、北京大学を訪問し、同大学40人の学生たち(※日本語文化学科・経済学部・国際関係学部・ライフサイエンス学部など)と交流。質疑応答では、日中の戦略的互恵関係と今後の見通し、アベノミクスの成果と世界経済、文化交流などについて、やりとりが行われた」と記されていた。この日の昼食も、李総理主催で開催されたようだ。

 26日の夕方より、安倍首相と習近平国家主席との会談が始まる。習氏の表情は満面の笑みはないが、かすかな微笑み。両氏ともぎこちのなさは、今回もまだ表情に表れていた。安倍首相の横には河野外相と世耕経済産業相、習主席の横には王毅外交部長と王氏の上司である中国共産党外交責任者の楊氏の姿。安倍首相は「3原則のもと、首脳間での相互往来の定着の必要性、来年の日本でのG20への習氏の出席や東京オリンピック開会式への習氏の参加」などを要請した。それに対し習氏は「中日関係は紆余曲折を経てきたが、双方ともに努力をして、関係が正常な軌道に戻った」と発言をしている。

 27日早朝のNHK報道で、東京大学高原教授は「関係改善の趨勢(すうせい)を大事にしたい気持ちがにじみ出た会見になった」「日中関係改善発展のはずみになる会談だつたと評価できるのではないか」「今も 中国は尖閣諸島周辺への日本の領海に船を出し続けることを止めていない。東シナ海、南シナ海の制海権を制していく戦略目標を もし今後も中国が持って行くとすれば、日米同盟側の戦略目標と正面からぶつることとなる」とコメントしていた。

 

 

 

 


安倍首相訪中❶—戦後、日中関係を巡る両国首脳の往来の歴史を振り返る

2018-10-31 11:31:47 | 滞在記

 2018年10月25日・26日に日本の安倍首相が中国・北京を訪問し、習近平国家主席や李克強総理(首相)と会談を行った。7年ぶりの日本の首相の訪中となった。1980年代からは、日本では首相就任のたびに訪日を行っている歴史があるので、7年ぶりというのは、とても長く、この7年間は訪中環境がほとんど難しかったことを意味する。

 第二次世界大戦後(日中戦争・太平洋戦争後)、初めて中国を訪れたのは、1972年の田中角栄の電撃的な訪問だった。(毛沢東・周恩来と会談) これによって日中国交回復の扉が少し開けられ、1978年の「日中友好条約」の締結により、日中の正式な国交回復がなった。それまで一般の日本人が中国に行くことはほぼ難しかった。(※中国政府からの特別招待という形での特別ビザで中国に渡航した人たちもいた。私の身近な例では、1972年~74年にかけて、学生運動の新左翼で「毛沢東一派」と呼ばれる人たち[中国の文化大革命を礼讃していた]。京都の各大学[立命・同志社・京大など]に在籍している これらの人たちが訪中したことがあった。)

 1982年頃に、中国の最高権力者だった鄧小平が日本を訪問した。日本の首相が訪日をした歴史は次の通りである。①1972年田中角栄(毛沢東・周恩来)、②1979年大平正芳(鄧小平)、③1982年鈴木善幸(鄧小平)、④1984年中曽根康弘(鄧小平)、⑤1986年中曽根康弘(鄧小平)、⑥1988年竹下登(鄧小平)、⑦1991年海部俊樹(江沢民)、⑧1994年細川護熙(江沢民)、⑨1995年村山富市(江沢民)、⑩1997年橋下龍太郎(江沢民)、⑪1999年小淵恵三(江沢民)、⑫2001年小泉純一郎(江沢民)、⑬2006年安倍晋三(胡錦濤)、⑭2007年福田康夫(胡錦濤)、⑮2009年麻生太郎(胡錦濤)、⑯2011年野田佳彦(胡錦濤)。

 1980年以降から2011年ころまでは、2〜3年おきに日本の首相は訪日していた。ただし、2001年の訪中から2006年の訪中までは5年間を経過している。この時期の2004年~2005年ころ、「反日デモ」が中国全土で起きていた影響もあり、日本の首相の訪中が実現しなかったようだ。

 2006年、中国国家主席の胡錦濤・総理の温家宝が日本を公式訪問した。1982年の鄧小平の訪日以来、実に14年ぶりの中国国家主席の訪日だった。この時、胡錦濤は早稲田大学を、温家宝は立命館大学をそれぞれ訪問している。この時の駐日大使は、現在の外交部長である王毅であった。12年前の話である。(※1990年以降から20年間あまり中国権力の中枢にいた江沢民氏は、1990年以降「反日教育」「反日世論づくりのための反日ドラマ作り」を行った人物で「日本嫌い」としても知られている。彼が訪日をすることはなかった。)

 2011年、日本の民主党政権下の野田首相が、「尖閣諸島(中国では釣魚諸島という)」の国有化宣言に中国側は猛反発、その後の中国漁船の海上保安庁の船舶への衝突事件、2012年の中国全土で巻き起こされた大規模な反日デモとなり、1970年以降の日中関係の歴史の中では「最悪」といえる時期となった。この頃は、大学の日本語学科に進学していた学生たちは辛い思いをしていた。親族や親からも、日本語学科に在籍していることを責められた学生も少なくなかったという。

 2013年8月末に私は初めて中国に赴任した。この時期はまだ反日デモの余波が残っていた。中国のテレビ放映を見ていると、連日連夜、靖国神社参拝を行った「安倍首相」批判、日本批判のさまざまな報道が繰り返し行われていた。大学への通勤でバスに60分間ほどに乗ると、バスに取り付けられている小さなテレビの画面に、ほぼ1度は「反日報道」がされていたように思う。これは2015年ころまで続いた。バスの車内でこの反日報道がされるたび、車内に一人だけの日本人である私は、とても不安な気持ちにさせられたものだった。

 2014年、国際会議の期間に、安倍首相と習近平国家主席との初めての会談がとりおこなわれた。安倍首相が話しかけても、苦虫を噛んだような表情で そっぽを向いてかわす非礼とも受け取れる習近平国家主席の態度が話題になった。それから3年後の2017年、これも国際会議期間に、二回目の「安倍・習会談」が行われた。

 2015年から本格始動した中国の「一帯一路」政策、この政策の国際的な信用度を高めるためにも、資金的な問題解決のためにも、「ぜひとも日本も参加してほしい」という秋波を日本に切望をし始めた2017年末時期だった。そして、2017年の党大会で権力基盤を完全に固めて、少しは日本の首脳に笑みを見せてもいいという余裕が生まれもした。このためか、2017年の会談での習氏の表情は、少しの笑みを作るという態度に変化した。

 習近平氏はロシアのプーチン大統領などと会談をする際は、満面の笑みを作る。ロシアの外相であるラブノフ氏に対しても満面の笑みを作る。これほど「関係の良しあし」を表情で使い分けるというか、わかりやすいというか、世界的な首脳は習氏が筆頭ではないだろうか。

 そして、2018年5月、今年の5月に李克強総理(首相)が公式訪日をした。中国の新聞記事やインターネット記事でも報じられた。雑誌『VISTA看天下』には、「李克強訪日―"破氷"中日」という表紙見出しの特集記事が組まれていた。中日関係の氷が解け始めたという見出しだった。

 9月に自民党総裁選挙で石破氏を破り安倍氏が再選。そして、10月11日に中国共産党の宋濤(そうとう)中央対外連絡部長の表敬を総理官邸で受けた。この宋氏は中国共産党の国際部長のような地位の人で、日本でいえば「外務省のNO.3〜4」くらいの人。(福建師範大学卒業生で、習氏の福建省トップ時代の側近の一人)  安倍首相訪中に向けての表敬だった。

 10月に入り、北朝鮮訪問の後に中国を訪問したアメリカのポンペオ国務長官。習主席との会談は実現せず、王毅外交部長も そっけない対応に終始し、中国側はポンペオ氏を冷遇。「米中関係」のかなりの悪化状況を象徴する出来事であり、米中関係悪化に拍車をかけることとなった。

 10月25日の安倍首相訪中が近づいた10月中旬ころから、中国外務省の報道官の「日本は中国の重要な隣国だ」「関係改善の勢いが強まっている」などの発言、同じ報道官の華春莹(女性)の「中日関係の発展のために重要な訪中」などと、この7年間ではありえなかった発表をし始めた。「日本首相安倍晋三将携500名商界領袖訪華」などの見出しインターネット記事も10月22日以降、多くみられるようになった。

◆前号のブログで、「暴力団追放」の記事を書いた。上記の写真は最近バスに乗った際の、運転手の腕全体の入れ墨の写真。見事な彫り物だ。中国のバスの運転手はヤクザまがいの人もけっこう多かったが、最近になって、やや ヤクザまがいの言動は少し減少傾向にあるかと思う。「俺たち運転手がお前たちを乗せてやっているんだ!」という横暴な振る舞いの多かった公共バスの運転手だが、この少しの変化はなぜだろうか?  福州では地下鉄電車の一部が開通したり、「暴力団追放キャンペーン」の影響もあるのだろうか?

 中国では、「職業に対する職業倫理意識」は日本と対極にあるとも言える。客に対するぞんざいで無礼な対応(※中国人は、それが普通だと思っているので腹も立たないようだ)などなど、最近は 少し変化も見られ始めているとはいえ‥‥。日本人が暮らすには中国はこの点はとても厳しい環境の国なので、ストレスも半端ない。旅行で1週間くらい中国に行くぶんにはあまり感じないかもしれない。

 

 

 

 

 

 


10月としては異例な気温の低さの火釜「福州」—「堅打撃黒悪勢力(暴力団)」キャンペーンのすごさ

2018-10-28 13:19:09 | 滞在記

 今、中国全土の街や村の、人が住むところの隅々まで、「堅打撃黒悪勢力〇〇〇〇」という横断幕が津々浦々に貼られたり掲示されたりしている。これは「暴力団追放キャンペーン」で、2018年の春ごろから始まったことだ。その横断幕の数が半端ではない。ざっと見たところ、車がすれ違うことができる街や村の道路ならば50mおきに全国的に掲げられているというものすごさ。

 2013年に初めて中国に赴任した当時は、「堅打撃追放邪教〇〇〇〇」が始まって、このキャンペーンは4年〜5年間続き、2017年の冬ごろに終わったように思う(※邪教とは、中国国家が認可している4つあまりの宗教以外の新興宗教などや伝統的な気功集団なども含む) 現在の「暴力組織追放キャンペーン」も数年間は続くのだろう。私が住む福建省には、日本人もけっこう知っている密航組織「蛇頭(じゃとう)」などの闇組織もあったが、今はどうなっているのだろうか。

 中国は、国土も広く、政治的混乱で「権力の空白」が生まれる時代や地方も多かった歴史を日本以上にもつ国。「政治的汚職」だけにとどまらず、このような闇組織である「暴力組織」追放の国家の強力な取り組みは、やはりすごいというか、すざましいというか、さすが中国ならではというか‥‥。日本も中国に見習って、山口組をはじめとした「暴力団」解体に向けての問題は、もっと強権的に取り組んだ方がいいとは思うが‥。

 中国で最も暑い日が多く、中国の省都・第一火釜とも言われる福建省の福州市。5月上旬から10月下旬まで30度以上の「夏日」が半年間続く。中国福州に赴任して6年目になるが、10月でも下旬まで30度から35度の気温には閉口する。しかし、今年の福州の10月は30度以上の気温となる日は少なく25度前後の曇天の日が多く過ごしやすい。異常気象ともいえるが、10月がやや涼しいとは嬉しいことだった。

 今、台風26号がフィリピンのルソン島北部から中国大陸の広東省か海南省、又は福建省に向かっている。今年の日本列島を含む東アジア最強の台風のようで、915HPもある。11月2日には中国大陸に上陸予定。今年の日本は、台風襲来がとても多く、豪雨災害もすざましかった。また、7月・8月の2カ月間は異常な高温。これは中国でも同じで、例年にない高温現象が7・8月だったし、中国南部への台風も多く上陸するという異常気象だった。

 変わらないものは、福州の交通マナーのすごさ。緑信号で人が横断歩道を渡っていてもビンビンビンビンと電動バイクが走っている。横断歩道を渡るのは命がけ。こんなルール違反も、中国福建省福州市共産党委員会の強権力で取り締まったらいいのにとつくづく思う日々。

 先週の日曜日(10月21日)、早朝の7時ころから「葬式の楽隊」の演奏が突如、アパートの部屋の下から大きく聞こえてきた。この演奏は出棺する午前11時ころまで間断なく続いていた。出棺の後には、突然の猛烈な爆撃のような「爆竹」の音が響き渡った。演奏の中には日本の「北国の春」の曲もあった。

 そして、この日は、8階の部屋の眼下に見える「趙氏祖祠」の建物の外で一族の「定例宴会」の準備が午前8時頃から始まっていた。40〜50人ほどの一族による宴会が昼ごろから始まり、夕闇につつまれた午後8時ころまで、延々と続き、大きな宴席の声が私の部屋まで届いてきていた。宴会の終了を告げるのか、「爆竹」強烈に鳴らされて、この日が終わった。

 翌日の22日(月)、大学の授業のためにアパートを出て、アパート近くを通る。時刻は午前8時半頃。「2018 倉山区社会科学普及宣伝周—主催:中国共産党福州倉山区委員会宣伝部」というイベントが行われていた。古代の漢服をまとったおばさんたちの伝統楽器の演奏や雲南省あたりの少数民族の衣装を着た人たちの踊りなどが行われていたので、しばらく眺めていた。

 上記写真—左より、①アパート近くに開店した「持ち帰り肉料理店」。買って帰って夕食に食べるものがないかと探すが、「日本人としては食べるのが怖くなる」ような肉料理がほとんど。例えば、鶏の足指や爪を甘く煮たもの。これは、中国人は大好物のようだ。②市内中心の「茶亭公園」には、黄色いハイビスカスが咲いていた。③閩江大学近くのムラ(村落)の寺院と塔。

 

 

 

 

 

 


60周年を迎える閩江大学—10月末、式典に向けての大学構内—芙蓉が咲き、金木犀が香る

2018-10-28 08:02:14 | 滞在記

 10月7日に1週間の国慶節期間が終って、閩江大学構内では開学60周年に向けての構内の化粧直しみたいなことが始まった。大学正門である南門では最近になり60周年を知らせる大きな看板が設置されたり、「1958—2018」「60」などを花文字で描いた植木なども飾られている。大学正門から真っ直ぐに伸びる道路のつきあたりにある「芙蓉広場」には大型のスクリーンが新しく設置され、大学に関する映像が流されている。

 この「芙蓉(ふよう)広場」のあたりは、今を盛りと芙蓉の花が咲いている。例年は、夏の終わりころから9月中旬ころに花が咲くのだが、今年は何か天候異変のためか、この10月末ころに芙蓉の花が多く花を咲かせている。

 「経済学部、法学部、外国語学部、経営学部」などの教員の研究室がある「福万楼」の1階では、60周年を記念する「卒業生の校友会」の各学部レセプション行事のための準備をしていた。大きな看板のそばでは、たくさんの風船を膨らませて繋ぎ合わせている。

 外国語学部教員の研究室や会議室、事務室などがある7階もレセプションに向けて、いろいろと飾り付けなどがされている。外国語学部の近年の発展などを記したパネル看板なども設置されていた。閩江大学の外国語学部日本語学科2002年に設置され、まだその歴史は浅い。思えば、私が初めてこの大学に赴任した2013年9月までは、日本語学科は「3年間」(学士号がもらえない)で終了する「専科」と呼ばれる学科だったが、2014年9月からは4年間で終了する「本科」(学士号がもらえる)と呼ばれる学科に昇格した。

  私が日本語学科の学生たちに熱心に働きかけたこともあるとは思うが、それまでは「日本の大学院に留学」する学生は皆無だったが、2015年から2018年の今日までの4年間で、かなりの人数の学生が日本の大学の大学院に進学をした。また、日本の「広島大学」との協定関係締結も2018年3月に成立した。今年度は新しく、中国福州市内の「日系企業」への「企業見学(3回生51人対象)」を 私と中国人教員の何先生(日本語学科副主任)とで進め始めている。(福州住友電装有限公司への)。

 2014年7月以降、「神戸松蔭女学院大学(※これは、私の前任者教員の濱田先生の努力によるもの)」や「関西大学」での夏季研修(2週間)に毎年 学生たちが参加している。2014年7月までは、日本語学科の学生たちは、在学中も卒業後も、短期・中期・長期での留学や研修で日本に行った学生は皆無だったので、この5年間あまりの日本語学科の留学環境変化には隔世の感がある。

 大学がこの新しい校区(キャンパス)に移転したのが2002年。「北京大学」「清華大学」「復旦大学」「湖南大学」「南京大学」「厦門大学」「武漢大学」などの歴史の重厚さと美しさを持つ大学には及ぶべきもないが、移転から16年間が経過して、樹木も大きく育ち、新しい中にも落ち着きのある「山紫水明」的なキャンパスの顔も持ち始めた。

 10月20日頃より、金木犀(キンモクセイ)の高貴な微かな香りが大学構内で漂いはじめた。中国では、オレンジ色の金木犀もけっこう多いように思う。2週間ほどで花が咲き終わる11月になると、秋がようやく訪れてくるので気温も30度以上の夏日がほぼなくなってくる。中国人は日本人のような「生け花」はほぼしないが花は好きだ。

 中国では、「金木犀」は、「桂花」と呼ばれる。「桂」の発音「gui」は「貴」と同じ発音。桂花が咲く時には決まって「貴人」が訪ね来るとされ、幸運を招く木でもある。幸運・吉祥を呼び込みたいと、この木は中国では日本以上に各地に植えられている。世界遺産でもあり日本人にもなじみのある広西チワン族自治区の「桂林」という地名は、この「桂花」に由来する。日本の酒の銘柄「月桂冠」や京都の「桂離宮」などもこの「桂花」に由来するのかもしれない。中国では美しい宮殿のことを「桂宮」という。

 中国人に香りで愛される花といえば、この「桂花」と「茉莉花(ジャスミン)」があげられる。花を顔に近づけるまでもなく、桂花の香りは一般的に強い。それでいて濃厚かというと、澄んだような清純さもある。この「濃厚さ」と「清純さ」の2つを満たすのは桂花だけとされる。

 ワインや白酒(バイジュウ)に小さな桂花をたくさん入れて1年間熟成させると「桂花酒」(グイファジョウ)ができる。別名は「貴妃酒」「美容酒」。上質な口当たり上品な香りがなかなかすばらしい酒だと思う。福州市内で買うことができた日本酒「上善如水」に、この「桂花」を入れて、熟成させて飲んでみたくなった。

 

 

 

 

 

 


「南京」城市へ行く⓱—「南京大屠殺紀念館」⑤—中国の大学での近現代歴史教育について

2018-10-24 23:43:42 | 滞在記

 中国の大学での「近現代歴史」教育に関する授業について私が見知っていることを少し紹介したい。上記の写真は、福建師範大学教員時代の2015年に、私が聴講した福建師範大学での「中国近現代史」の講義を受講している時の大教室の様子と、その時使用していた教科書である。講師の中国人教員が話す中国語を聞き取ることはほぼ難しかったが、教室で掲示される大映像(パワーポイント)や教科書の文章などを見ていると、講義での内容はかなりわかったので、3回ほど聴講したことがあった。(※中国の大学では講義の聴講は自由なので、私の講義も聴講に来る人がいる。)

   上記の6枚の写真は、閩江大学の「中国近現代史」の歴史講義で使われている教科書だ。福建師範大学の教科書もそうだが、挿入されている写真や挿絵などは一切なく、ひたすら文章だけの書籍だが、中国の学生たちはこれには完全に慣れているようだ。この「中国近現代史」の2冊の教科書の目次は、「1912年の中華民国の成立から1949年の中華人民共和国まで」となっている。「近現代史」という書籍なので、当然1949年以降の少なくても2000年くらいまではその歴史が述べられていてもいいと思うのだが、1950年代の「大躍進政策」による多くの餓死者の事実や1965年から10年間にわたる「文化大革命」による中国社会の大混乱などの時代内容は教科書にはない。

 ◆(※中国の大学関係者に通達したものに、習近平政権成立1年後の2013年に北京や上海の大学関係者に通達した「大学講義七不講」というものがある。この、大学で講義してはならないとされる七つの一つに「中国共産党の誤謬について」というものがある。1955年から1976年までの20年間の、中国社会での政治的国内的大混乱などについては、大学で講義することは難しい。七不講は他には、「①普遍的価値について②人権について③報道の自由について④党貴族主導の資本主義について⑤司法の独立」などについてである。) この七不講は正式に大学関係者に通達されたものではないが、インターネットを通じてほとんど多くの中国の大学教員の知る所となり、この七つについてのことを真摯に講義することを教員は委縮せざるを得なくなっている。

 この「近現代史」教科書の第二十二章「華北・華中戦場」の一つに、「南京虐殺」として4ページにわたって記述されている。虐殺された人数は300000と記されていて、この虐殺事件にいたる過程や、虐殺内容に関してかなり詳しく述べられていた。

 今年の8月に京都市内の丸善書店で購入したした書籍の一つに『図解でわかる―14歳から知っておきたい中国』北村豊監修・インフォビジュアル研究所著(大田出版)—「巨大国家中国を俯瞰する、中国脅威論や崩壊論という視点を離れ、中国に住む人の今とそこに至る歴史をわかりやすく図解!」と銘打った書籍がある。14歳でも読める、とても優れた「中国学習」の書籍だった。図解の挿絵が豊富なので、私の大学の講義「日本概論」などにも挿絵など引用活用している。「南京事件に至るその心理」なども述べられている。

 この1年間は、中国の近現代史に関する歴史書や歴史小説などをたくさん読んだこともあり、1800年代から2000年までの中国の近現代史に 私の中でかなり具体的な理解が進み始めている。1942年のイギリスとの阿片戦争の敗北から始まり、列強各国の侵略、日本の侵略と日本の敗戦を経て、1949年の中華人民共和国成立までの、「中国国家の列強諸国の侵略による屈辱の100年間」の歴史。それに続く1955年から1976年までの中国国内の苦難の歴史内容である。

  1900年以降の頃の中国は、イギリス・ドイツ・フランス・日本・ロシアの五国による「植民地政策」による侵略により国土をずたずたにされていたのだが、第一次世界大戦や第二次世界大戦の勃発により、ロシアを含むヨーロッパ諸国が戦場にもなったため日本以外の4か国はアジアにおける勢力拡大の余裕がなくなり、地勢的に中国に隣接している日本の軍部独走的な中国侵略が1931年の満州事変より本格化し、満州国建国、1937年からの日中全面戦争へと至っている。

 この日本の「侵略戦争」により、中国人は約1000万人の死者を出したとされる。第二次世界大戦での死者が最も多かったのがロシアの約2000万人であり、日本は約350万人だった。まさに、1900年代の前半の50年間は「帝国主義(植民地主義)」の覇権を争う歴史の時代だった。阿片戦争を引き起こし、香港を100年間租借(占領)、中国人の成人の七人に一人を「阿片(麻薬)中毒患者」にしたと言われるイギリス。中国に対する侵略は大いにその責任を問われるところだが、現代の中国においてはそのことを政治問題化する動きはほとんどないようだ。しかし、日本に関しては、その責任を繰り返し繰り返し政治問題化する中国社会。その背景には1990年以降の中国共産党の中国人民に対する長期政策(プロパガンス)がある。また、「歴史認識」に関しては疑問がつく安倍首相などの歴史認識の問題もある。

◆このような「日中の近現代の歴史」が横たわる中、中国の大学に赴任して以来4回目となる今年9月からの「日本概論」(全16回)の講義内容は、6年目に入る中国滞在で学んだことをもとに準備をして、「日中関係の近現代史」「政治体制問題での日中比較」「民〇・〇権・〇由の問題についての日中比較」などなどについて10月の2回は中国の学生たちに講義をした。「七不講」の中国なので、かなり怖さをともない緊張する思いをしながら‥‥であるが。このあたりは、まるで日本の1920年頃から1945年にかけての治〇維〇法の時代と大差はないようにも感じながら講義に臨んだ2018年の10月だった。この「日本概論」の講義においての今回の授業内容は、私なりの日本人教員として「矜持(きょうじ)を示す」「襟(えり)を正す」「真摯に臨む」ことをしなければと、この2・3年間ずっと思い続けてでのことだった。

◆NHK大河ドラマの「西郷どん」。かなり面白くて、毎回欠かさず視聴している。明治維新以降の日本の「富国強兵」政策と「大日本帝国憲法」、そして、「軍部独走」が可能だった政治体制の問題。「八紘一宇」というスローガンのもと、アジア侵略に「日本人は優秀、中国人を<チャンコロ>と蔑視・蔑んだ感覚を多くの日本国民が抱いた」1900年代のこの時代。改めて、この時代のことを「一日本人」として中国にいて考え始めている。中国のここ10年間あまりの国内外の政策を実感しながら‥‥。「南京事件に至る日本人の心理」なども。

◆「侵華日軍南京大遭難同胞紀念館」を訪れて、展示内容は事前に予想していたものがかなり多かった。しかし、この紀念館訪問で、最も驚かされたのは、国慶節期間とはいえ、その来館者のものすごい多さだった。しかも、そのほとんど多くは10代後半から30代前半の若い世代だったことだ。中国における1990年代から本格化する徹底した歴史教育や日常のテレビで放映される「反日ドラマ」の影響が やはりとても強いからかとも思っている。

 今の多くの中国人にとって、日本に対しては「反日」でもなく「親日」でもなく、「知日」(日本のことを知りたい)という人が増加し、日本に旅行に来る人も年間800万人以上をすでに超えてきている。そして、日本に対する好感度は2012・13年当時に比較して2015年以降は急激な増加傾向にある。(日本人の中国に対する好感度は低いままだが。) しかし、そのような「好感度増加」「日本に対する関心としての知日」があるとしても、一方では「歴史教育」「反日ドラマ」などの影響を根底に多くの中国の人々は「日本に対する複雑な思い」をもっていると言えるのかもしれない。