彦四郎の中国生活

中国滞在記

坂本城落城❶—明智一族のほとんどが自刃―明智五宿老の一人・明智左馬助の湖水渡りの伝説

2021-02-28 19:59:15 | 滞在記

 琵琶湖湖畔にかってあった明智光秀の居城・坂本城は壮麗な水城であった。1571年の織田信長軍による比叡山焼き討ちの後、光秀は信長より琵琶湖西岸南部の志賀郡を拝領し、ここ坂本での築城を開始した。おそらく築城完成までに2〜3年を要したかと思われるので、1574年には完成していたかと推定される。

 本丸・二の丸・三の丸からなる水城である坂本城は、城まで船舶を入らせることのできる城郭構造をもち、天守閣と副天守や多くの櫓をもつ当時としては画期的な城であった。信長の居城である琵琶湖湖畔の安土城は、1576年から築城が開始され、1579年に完成しているので、坂本城はその5年ほど前につくられていた。宣教師のルイス・フロイトなども坂本城の画期性と壮麗さに感嘆している。美濃から越前への逃避行など、苦楽をともにした光秀の糟糠の妻・熙子は、1576年にこの坂本城で亡くなったとされている。

 坂本城築城後、琵琶湖湖畔には、琵琶湖西岸の湖北に大溝城(織田信澄―光秀の与力となる)、琵琶湖東岸の信長の安土城や羽柴秀吉の長浜城などがつくられた。いずれの城もこの坂本城の水城の城郭構造や工法を参考にしてつくられた城だ。坂本城・安土城・大溝城・長浜城の四城は、織田軍団とその政権における琵琶湖水運のネットワークを形成することとなる。(※大溝城と安土城は琵琶湖とつながる内湖[大溝城の場合は乙女湖]をたくみにつかっている縄張り[城の設計]となっている。)

 のちに、築城の名手とうたわれた近江国出身の藤堂高虎によって、四国に瀬戸内海に面した今治城がつくられた。これも水城で、この坂本城を参考にしているのかと思われる。四国の高松城なども水城である。

 この坂本城は天正10年(1582)6月15日に落城した。6月13日の山崎合戦で光秀軍が羽柴軍に敗北して2日後のことである。壊滅した明智軍1万6000の一部は落ち武者となって、この坂本城にたどり着いたかと思われる。

 明智光秀には五宿老とよばれる武将たちがあった。①明智秀満(左馬助・弥平次)―丹波・福知山城城主、②斎藤利三(内蔵助)―丹波・黒井城城主、③明智光忠(次右衛門)―丹波・八上城城主、④藤田行政(伝五)―京都洛北・静原城城代、⑤溝尾茂朝(庄兵衛)―丹波・周山城城代である。①と②の二人が筆頭宿老であったが、6月2日の本能寺の変の際にはこの五宿老はすべて参陣している。

 6月13日の山崎の戦い(天王山合戦)の際には、②⑤の2人が参陣している。①の明智光満は近江国方面の守備のために安土城にいた。③の明智光忠は、本能寺の変の際に鉄砲で負傷し、京都の知恩院で療養していた。山崎の敗戦を13日夜に知り、坂本城に帰還。坂本城落城時に自害。④の藤田行政は、大和国領主で大和郡山城城主・筒井順慶を明智方に勧誘すべく大和郡山まで赴いたが失敗に終わる。引き返して山崎の地に向かい淀に至るが、そこで勝龍寺城陥落を聞き自刃した。

 ⑤の溝尾茂朝は、光秀とともに落ち延びて坂本城に向かったが、山科で致命傷を負った光秀の自刃時の介錯をして、首を地中に隠して、坂本城に帰還したとされる。坂本城落城時に自害。②の斎藤利三は、敗戦後、坂本城に向かう。14日には坂本城近くの堅田まで至ったが、堅田の小領主・豪族で光秀方だった猪飼秀貞(※父は本能寺の変で明智軍として参加も戦死)の裏切りにより捕えられ、秀吉方に引き渡され京都粟田口で磔となる。

 明智秀満は、安土城にて山崎合戦の敗戦を6月14日に知り、坂本城に向かう。彼は光秀の父の弟・明智光安の嫡男(養子との説も)で光秀とは従兄弟(いとこ)ともされる。(NHK大河とラマ「麒麟がくる」では光安の嫡男として描かれている。)   出自は不明なことも多く、備前(岡山県)児島に生まれたとの説も有力だ。いずれにしても幼少のころに美濃国の明智荘にて育つ。美濃の明智城が落城した際に、光秀や光秀の妻・熙子や藤田伝五らとともに越前に逃れ、光秀とは終生の苦楽をともにしたとされる。(※明智秀満の旧姓は三宅弥平次。光秀の長女。綸を娶って明智秀満を名乗る。)

 明智五宿老のなかでも、斎藤利三とともにNO1・NO2の地位にあった。光秀の長女・綸(りん)のことを想っていたが、綸は信長の命で荒木村重の嫡男・村次に嫁ぐこととなる。1578年に村重が信長に叛旗を翻し伊丹の有岡城に立て籠もると、村重は光秀とのこれまで親しく交わっていた関係をおもんばかり、村次と綸を離縁させ、光秀のもとに綸を帰らせた。そして、光秀は1578年に光満と綸を夫婦とし、二人は結ばれることとなる。(NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、この明智秀満[左馬助]を間宮祥太郎が演じていた。)

 安土城にて山崎合戦での明智軍壊滅の報を受けた明智秀満(左馬助)は、6月14日に坂本城に向かう。が、しかし、坂本城周辺にはすでに羽柴秀吉軍の堀秀政や高山右近、中川清秀らが押し寄せていて、陸路から坂本城に入ることができなかったとされる。このため愛馬・多賀影とともに琵琶湖湖畔の浅瀬をすすみ坂本城に入城したと伝わる。いわゆる「左馬助の湖水渡り」の伝承だ。湖水渡りを始めた場所として今、大津の琵琶湖文化館の建物のそばに石碑が立ち、この伝承の説明看板が置かれている。ここから坂本城まで湖岸沿いに5kmほどの距離がある。

 6月15日、明智秀満は、坂本城内にあった宝物などを敵方の武将・堀秀政らに引き渡し、ともに城内にあった明智光忠や堀尾茂朝、光秀の妻子(光秀の嫡男などの子どもたちや後妻など)や秀満の妻子らとともに自刃し、本丸の天守閣の建物に火を放ち自害する。この日、坂本城は落城した。この日までに明智一族の主だったものは自害して果てた。

 『明智左馬助の恋』(加藤廣)[文春文庫]は、この明智秀満(左馬助)を描いた歴史小説で、秀逸な作品だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


江戸時代にタイムスリップしたような南越前町の雪中の板取宿、木ノ芽峠付近から白山連峰を見る

2021-02-26 10:51:59 | 滞在記

 2月22日(月)、福井県南越前町の今庄地区を経由して京都の自宅に向かう。平成の大合併で3つの町村合併で誕生した南越前町は、海・山・里の町である。私の故郷の自宅がある河野地区は海、今庄地区は山、南条地区は里となる。

 今庄地区は奥越地方(大野・勝山)と並び、福井県屈指の豪雪地域だ。冬、京都からJR列車で敦賀まで来て雪がなくても、敦賀から長い北陸トンネルを抜けて今庄地区が見えた瞬間、雪が積もっているという白い世界の光景はもう何度となく見てきた。川端康成の小説『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルを越えると、そこは雪国であった。」と書かれているが、ここ今庄もまた、北陸の地「雪国」に入ったという感のある地区だ。

 河野地区から、7年ほど前にできた長いホノケ山トンネルを抜けて南条地区に入る。そこからさらに敦賀方面の今庄地区に入ると雪がけっこう残っている。清流の日野川の河原にも白い雪が残り、春が近いのか、川面が陽光を浴びてキラキラ光っていた。宿場町の風情が色濃い今庄宿に入ると雪はさらに多く残る。今は町の駐車場となっている旧今庄小学校跡地となりの寺院には、除雪された雪が城の土塁のように置かれていた。

 今も3軒もの酒造会社がある今庄の宿場町から孫谷集落を経て、国道365号線(北国街道)をさらに木ノ芽峠方面に進むと雪がかなり多く残っている。このあたりが、北陸トンネルの出入り口となり、あの『雪国』の冒頭を彷彿させるところだ。中世になって今庄宿場町はつくられ、幕末頃には、240戸、人口1300人、旅籠55軒、茶屋15軒、酒屋15軒、問屋3軒もあった大宿場町だった今庄。豪雪地帯だけに、最近では平成23年(2010)に2m50cm余りの降雪を記録している。おそらくこれよりもっと奥にある板取宿跡では3mをゆうに越していたのではないかと思う。

 木ノ芽峠の麓に「板取宿」がある。かなり雪が残っていて残雪がまだ深い。越前市(旧・武生市)や今庄宿場町から側の冠木(かぶらき)門を通りしばらく進むともう進めなくなった。雪が除雪されていなくて進めない。祠や家屋も周囲はけっこう深い雪景色が残る。

 ここ「板取宿」は、近江(滋賀県)や若狭(福井県)から越前(福井県)に至る2大ルートである、「北国街道」(栃ノ木峠越)と「湖西路街道」(木ノ芽峠越)が合流する場所にある。だから江戸時代初期には宿場ができて関所も作られた。1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、次男である結城秀康を、かって朝倉氏や柴田勝家などが領した越前国68万石の領主として配置した。「越前・北ノ庄藩」である。この時、秀康は板取に宿場と関所としての口留め番所をつくり警戒し、往還の旅人を取り締まった。

 その後、江戸時代を通じて「越前・北ノ庄藩」は、「福井藩32万石・丸岡藩5万石・大野藩4万石・勝山藩2.3万石・鯖江藩4万石」などに分割されていく。幕末の福井藩の藩主は英俊の呼び名のあった松平春嶽であった。幕末頃の板取宿は、旅籠(旅館)7戸、茶屋3戸、問屋3戸などがあり、全部で53戸、300人あまりが暮らしていた。

 私の記憶では10歳のころに三・八大豪雪(昭和38年・1963年)というのがあって、冬でも海沿いのため雪の少ない河野地区の私の家でも1階は雪に埋もれ、2階の窓から出入りしたことがあった。おそらく、ここ板取宿の家々はすっぽりと雪に家全体が覆われて家が見えなくなっていたのではないかと推測する。このころから板取では離村が増えてきたようだ。1981年に板取は住む人がほぼ移住し廃村となった。

 県内に移住したかっての板取の住民が定期的に墓参りにきたりして、茅葺の家々を修繕したり保存してきていたが、2000年代に入り7〜8戸を残すのみとなる。歴史的な宿場の面影をそのまま残す、江戸時代にタイムスリップしたような石畳の道とかやぶき屋根の家々が残る旧板取宿を残そうとの保存の動きがあり、NPO法人を立ち上げて現在の家々の修繕・保存に努めている。

 敦賀方面からの板取宿の番所跡に行くと、雪上を足跡があって、ここから宿場の茅葺屋根家屋に向かう。誰も今は住んでいないはずなのが、番所に最も近い家の軒先に行き、玄関の戸を開けようとしたが鍵が閉まっていた。と、その後、玄関が突然に開いて、わりと若い40代の女性がでてきたので「あっ!」と驚いた。人が住んでいた。表札があって「南」と書かれていた。最近、この家に夫と二人で住み始めたのだという。

 宿場を流れる水路に、雪解けの水が陽光を受けてキラキラ光ってほとばしるように流れていた。春近しの光景だった。

 この板取宿跡から木ノ芽峠に向かう広い道路がある。山腹から峠にかけて「今庄365スキー場」と「今庄365温泉ゆすらぎ」があるからだ。平日でスキーシーズンも終わりかけなのかコロナのためなのか、7〜8人の家族連れがスキーやソリ遊びを楽しんでいただけだった。雪はまだたくさん積もっていた。

 温泉の建物付近からは高峰の雪山が見えた。石川県・福井県・岐阜県の三県にまたがる霊峰の「白山かな!?」と思った。温泉の従業員のおばさんに「あれは白山ですか?」と聞くと、「あれはあ~白山でないんやわね~、部子(へこ)山やわね~。お客さんはほとんど間違えるんやわねえ‥。白山はあの部子山の左の方の奥に白い山が見えるでしょう~、あれが白山連峰やわね~」とのことだった。なるほど奥まったところに白い高峰が見える。ここから間違いなく白山が見えた。そうか、故郷の南越前町からは白山が見えるのかと思った。木ノ芽峠まで登れば、もっと白山連峰がよく見えるのだろう。

 福井県と岐阜県の県境の山々は、能郷白山(1617m)・部子山(1464m)・冠岳(1257m)・三周ケ岳(1292m)などけっこうな高峰が多い。南越前町の三周ケ岳の山頂付近には「夜叉ケ池」という神秘的な池がある。ちなみに白山連峰の最高峰・別山の標高は2399m。27年ほど前の1994年に、この白山の山頂付近で「恐竜発掘調査団」の一員として調査にあたり、恐竜の足跡化石を何箇所か見つけた。熊にも遭遇した。猛毒のトリカブトも自生していて、紫の花を咲かせていた。白山連峰も恐竜絶滅後の数千万年前に、地殻変動で隆起してできた山々なのだ。福井県勝山市には世界的にも有名な「福井県立恐竜博物館」がある。

 国道365号線の木ノ芽トンネルを通り、敦賀市側に出ると、「木ノ芽峠1.6km」の➡看板が雪の中から見える。ここから峠道を登ると木ノ芽峠に至る。この峠道は平安時代初期の830年につくられた古道。紫式部、平安時代末期の武将・木曽義仲、宗教家の親鸞や道元や蓮如、鎌倉時代末期の武将・新田義貞、そして戦国武将の朝倉義景や織田信長、明智光秀、羽柴秀吉、江戸時代の芭蕉、幕末の水戸天狗党などなど、みんなこの峠を越えていった。

 この日、琵琶湖の東岸を久しぶりに通り、東近江市永源寺町にある娘の夫の実家に、敦賀の日本海市場で買った魚やエビ、カニなどを届けて、京都の自宅に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本海の夕日はどこに沈むのか―ロシア、北朝鮮、韓国、そして能登半島や丹後半島など

2021-02-25 20:51:33 | 滞在記

 2月21日(日)、故郷・福井県南越前町に行く途中、琵琶湖の湖北地方の湖岸道路を走る。竹生島が遠くに見える大浦の浜、まだ冬枯れの景色が広がっていた。あと1か月もすると、この奥琵琶湖の湖岸道路に延々と続くソメイヨシノの桜並木は蕾が少し赤くなってきているだろう。

 午後5時30分ころに南越前町の道の駅河野にて海に沈む夕日を眺める。

 ここからの夕日は、丹後半島の経ヶ岬あたりに沈んでいく。日本列島は海に沈む夕日の名所が多い。中国で海に沈むところはとても少なく、山東省の山東半島と遼寧省の遼東半島の一部地区から見えるくらいだ。

 日本列島は南北に弓のような形をしていて、夕日が沈む西方に日本海と東シナ海がある。北海道の小樽から見る夕日はロシア極東の都市・ウラジオストクの方に沈む。東北地方の青森県や秋田県の夕日は北朝鮮方面に、山形県から新潟県北部にかけての日本海側の夕日は韓国方面だが、新潟県南部や富山県は能登半島に夕日が沈む。石川県や福井県の北部も韓国。

 そして福井県の私の故郷・南越前町から隣町の越前町に続く越前断崖の海岸からは、京都府丹後半島や鳥取県・島根県の米子や松江、境港方面に夕日が沈む。

 そして、京都府や鳥取県、島根県、山口県からは韓国方面に沈む。九州の福岡県、佐賀県、長崎県は東シナ海から中国方面に夕日が沈む。熊本県は天草諸島や島原半島方面に沈む。鹿児島県はほぼ中国の上海方面。そして、沖縄県は、私が中国で暮らす福建省に夕日が沈む。

 この日、道の駅河野では5〜6人の中東系の外国の人が夕日を眺めていた。また、河野のコンビニエンスストアーでは、ロシア系の男女2人が夕日を見ていた。夕日の落ちる西方向は丹後半島だが、北の方向はロシアのウラジオストック方向となる。

 私の故郷の町南越前町の河野地区に、「御台場跡」がある。江戸中期の1700年代末から日本海沿岸や太平洋沿岸に外国船が近づくようになっていた。日本海側では主にロシアの船(軍艦)だった。幕府は全国諸藩に沿岸の警備を厳命。越前松平藩では文化3年(1806)に7箇所に砲台を設置した。そのうちの一つがここの御台場。

 ここには3門の大砲が設置され、敦賀湾に入る外国船に備えた。御台場の下の崖に水仙が群れて咲いていた。

 

 


光秀死する❷謎の多い光秀の最後―首塚とされる"京都粟田口近くの白川沿い"と"亀岡の谷性寺"の塚

2021-02-24 22:44:39 | 滞在記

 明智光秀が天正10年(1582)6月13日から14日にかけての深夜、落ち武者となって居城・坂本城に向かう途中の山科の小栗栖で近在の土豪・飯田一族か農民かに襲撃され致命傷を負い、勸修寺付近で絶命した可能性が高い。光秀の首の「その後」についてはさまざまに伝えられているが、光秀と親交の深かった吉田兼見(吉田神社宮司・公卿)の『兼見卿記』によると、6月15日までに首は発見され、18日からは京都・鴨川の六条河原で晒され、22、23日には京都・粟田口に埋められて首塚が築かれたと記されている。この時代、戦いで破った武将などの首を晒す習慣があったが、京都では粟田口などがその場所であった。光秀の首は粟田口だけでなく、「本能寺」でも首が晒されたとされる説もある。享年55歳だ。

 発見された光秀の首と胴体は繋ぎ合わされて粟田口では磔(はりつけ)にされ晒されたとされる。光秀だけでなく、坂本城近くの堅田で捕えられた最重臣の斎藤利三も光秀と共に磔にされ首を討たれた。明智の将兵3000人の首も晒されたとされる。おぞましいまでのむごい光景だったことが想像できる。光秀の首と胴体はおそらく、本能寺で晒され、そして六条河原でも晒され、さらに粟田口でも晒されたのだろうか。天正10年6月16日から23日の夏至のころの粟田口の光景であったのだろう。

 この粟田口は東海道・中山道の近江や京都・山科から京都の都に入る入り口にあたる場所で、白川に架かる東山区の三条白川橋から蹴上(けあげ)、山科区の九条山の麓までの街道沿いを指す。特に、中世・近世には人の往来の激しい交通の要衝だった。このため、古くから罪人の首などを晒す刑場としても用いられてきた。多くの人が行き交うがゆえに、見せしめにするには格好の場所だったからだ。そこには首塚も多く作られた。

 首塚を築くことは、もちろん死者供養の一つではあるが、それは怨霊封じの呪術でもあった。街道の出入り口や峠など交通の要所、境界の地に築かれた首塚は、邪気・邪霊の都市や村落への侵入を防ぐ呪術的な役割も期待されるものであった。粟田口の刑場跡地は現在ではどこであったか明確ではないが、ウェスティン都ホテル(旧都ホテル)から国道143号線(東海道の旧街道)を少し上ったところにある九条山の麓の"日の岡"あたりだったのではないかと推定もされている。

 光秀の首塚は今、この粟田口の三条白川橋のそばにある。(梅宮社)  三条白川橋の下を比叡山山中に流れの源を発する白川が流れる。ここを南に行くと白川沿いに柳の木の並木が続く。白川にはかって比叡山の修行僧の千日回峰行の修行を終えた阿闍梨が都に至るコースとしても通った白川一本橋(小さな石橋、阿闍梨橋とも呼ばれる)もある。その白川一本橋の近くに和菓子屋の餅寅という店がある。江戸時代の天保年間創業以来、代々、ここの光秀の首塚を守ってきた店だ。

 この店の小路脇にあるここの光秀首塚に掲げられている案内板によると、江戸時代中期の安永~天明(1770~80年ごろ)、光秀の子孫を名乗る能の笛者で明田(あけた)理右衛門なる人物が、粟田口刑場にあった光秀の首塚の小さな石塔を自宅の庭を運び祀ったようだ。理右衛門没後、子孫が近くのここに石塔を運び移して、お堂も作り、中には明智光秀の木像も安置してあるのだという。(明智光秀首塚・梅宮社)

 ここの白川沿いの柳並木道は、学生時代に近くに一時住んでいたところでもあり、よく通るところだった。最近でも銀閣寺近くの娘の家に車で行った帰りによくこの柳並木道を通り、車を一時駐車して、煙草をすったりする。お堂の建物の板壁に、「子孫が解き明かす 明智光秀の実像」と題した、文章が貼られていた。これは、近年発刊された明智光秀に連なる末裔を名乗る明智憲三郎氏の著書『本能寺431年目の真実』に書かれている文章の一節のようだった。

 和菓子屋の餅寅では老夫婦が今も和菓子を作り続けている。「光秀饅頭」を2つ買って食べてみた。明智家の家紋・桔梗(キキョウ)が押されている饅頭だ。光秀饅頭は2種類があり、白味噌餡と粒餡があり、いずれも1個150円。

 明智光秀の首塚といわれるところが、京都府にはもう一箇所ある。光秀の丹波国の居城・亀山城のあった亀岡市にある谷性寺だ。この寺は亀山城の城下町であった亀岡市街地から北西方向10kmあまりのところと、かなり遠方にある篠山街道沿いの小さな寺だ。寺は通称「光秀寺」とも「桔梗寺」とも呼ばれている。

 丹波の山城巡りなどでよく通る篠山街道沿いにあるが、この谷性寺には昨年の3月下旬に初めて訪れた。境内の枝垂れ桜やラッパ水仙などが満開に咲いていた。寺の創建は平安時代とも鎌倉時代とも伝えられ明確ではないようだ。明智光秀が天正3年(1575)に丹波の地に入って以来、当寺の本尊・不動明王を崇拝し、本能寺の変を決意する際にも、この不動明王に誓願し祈ったとも伝わる。

 最近つくられたらしい真新しい山門扉には桔梗の紋がおかれ、境内に「明智光秀公首塚」の墓があり、こんもりと盛られた土の上に石の墓があった。山崎の合戦後に落ち延びる途中、小栗栖付近で討たれたとされる光秀。同行していた13騎の中には、明智家5重臣の一人・溝尾庄兵衛茂朝がいて、彼が自刃した光秀の首を隠しておき、後に光秀が信仰していた谷性寺に運び埋め葬ったと伝えられているようだ。

 寺の境内の中には「明智門」と呼ばれている門がある。これはかって亀山城内にあった門の一つで、亀岡の西願寺にずっとあったのだが、廃棄されようとしていたところを、光秀の縁でこの寺に1976年に移築されたもののようだ。6月―7月には、明智家の家紋である桔梗が寺の周囲に咲き乱れるようだ。「桔梗の里」とも呼ばれている集落にある。

 「本能寺の変」は日本の歴史上、最大の謎とも言われているが、光秀の伝えられる最後の様子もまた謎が多い。小栗栖の竹林の小道を夜間、縦列になって13騎が馬を進めていると、突然繰り出された竹槍に光秀は腹部を刺され落馬。致命傷と悟った光秀は、自刃したと通説ではされてきた。

 この通説で不思議なのは、光秀につき従っていた家臣たちも多少は討たれたという話はまったくなく、光秀のみがピンポイントで討たれている点だ。また、竹槍で鎧の上から突かれて、果たして致命傷を負うかどうか。さらに家臣の溝尾庄兵衛が介錯し、光秀の首を埋めてその場を立ち去るものか。埋められていた首を探し出し、6月16日の京都市中で晒し、秀吉は明智光秀討伐を宣言したとされるが、謎や疑問はとても多い。

 一説に羽柴秀吉は、光秀の首を見物人がよく確認できないほど高い位置に晒したとも言われている。当然、こうなると、秀吉が晒した光秀の首は、本当に光秀だったのかとの疑惑も生まれてもくる。光秀はさらに落ち延び、生まれ故郷の一つとも目される美濃の国(岐阜県)山県市に光秀の墓があり、ここで終焉を迎えたとされるのも、このような光秀の最後についての謎から生まれたものなのだろう。

 しかし、妻の熙子は丹波攻略戦の最中の1576年にすでに亡くなっているが、家族や家臣、一族思いの光秀の人柄からすると、小栗栖から坂本城に向かわず自分だけが生きながらえために美濃に落ち延びたという説はちょっと違うような気もする。もし、美濃に落ち延びたとすれば、それは、山科近郊に潜伏していたが、坂本城が秀吉方に包囲され落城し、一族郎党がみな討ち死にしたとの報を知れば、唯一、美濃に落ち延びた可能性も否定できない。

 

 

 


光秀死する❶小栗栖の明智藪、落ち武者の光秀を討ったのは、このあたりの土豪・飯田一族の可能性も

2021-02-24 13:04:27 | 滞在記

 天正10年(1582)6月13日午後4時頃から本格的に始まった山崎の戦い(天王山合戦)。日が暮れる午後8時前には勝敗は決していた。光秀は本陣を置いたと思われる御坊塚(境野1号墳)から700mほどのところにある勝龍寺城に逃れ、500人ほどの兵卒で一時立て籠もる。1万6000あった明智軍は壊滅し多くが戦場から逃れた。平城である勝龍寺城で秀吉軍の大軍を支えきれるはずもなく、夜の闇に包まれるころ、城の北門付近より騎馬13騎ほどで脱走をはかり琵琶湖湖畔の居城・坂本城を目指して落ち延びていった。

 勝龍寺城の東は小畑川が流れ、この川を渡り、久我縄手の古道を北東に進み、さらに東方の桂川に着いたのかと思われる。そして、久我(こが)付近から桂川を渡河し伏見に向かったと推定される。この久我橋付近に立って日中に天王山を見ると、かなり離れたことはわかるが、まだ山容は近い。久我付近からほぼ東方に進むと、当時はまだ田園地帯であった伏見に入る。

 現在の丹波橋付近から東方は上り坂となり、後に秀吉が築いた伏見桃山城のある丘陵地となる。伏見丘陵には今は住宅地が立ち並んでいる。大亀谷という地区にある本栖寺という寺の北側から小栗栖(おぐりす)方向へと続く竹藪に囲まれた小道がある。この竹藪の中の小道をずっと進むと途中、弘法大師杖の水と書かれた小さな祠があり、光秀が討たれたとされる小栗栖(山科)に至るようだ。弘法大師の名があるようだから、古来から使われていた伏見―山科の間道だったのだろう。

 勝龍寺城からこの光秀の逃走路を、日中に徒歩で小栗栖まで歩いた人の話によれば、14kmほどの距離で、ほぼ4時間ほどを要したという。光秀の場合は騎馬での夜間行だったのだが、やはり4時間あまりを要したかもしれない。13日の午後9時ころに勝龍寺城を出たとして、小栗栖に着くのは翌朝14日の午前1時ころとなる。勝龍寺城から小栗栖を経由して山科川沿いに北方に向かい、京都と近江の境にある逢坂峠を越えて大津、さらに坂本城に至りたかったのだろう。しかし、勝龍寺城から小栗栖までは、坂本城まで至る行程のまだ約5分の2ほどの距離だった。

 大山崎歴史資料館館長の福島克彦氏の最近の著書『明智光秀』(中公新書)によれば、小栗栖で光秀が討たれたということに関する一次資料は比較的豊富なようだ。福島氏によると、光秀臨終の地も資料によって異なると言う。以下、福島氏の「光秀死去の場所」に関する資料説明の概略。

 多門院英俊の『多門院日記』には、光秀は山科にて「一揆ニテタゝキ殺」されたとあり、他にも「山科ノ藪ノ中ニカゝミ居」るところ、首を捕られた(『秀吉書状』)、「明智くひ(首)勸修寺在所にて百姓取候て出し申し候」(勸修寺晴信『天正十年夏記』)と勸修寺の地名が記されている。『兼見卿記』では「醍醐辺」、『連成院記録』では「上ノ醍醐」で討ち取られたという。

 このように一次資料では有名(通説)な小栗栖の名前は出てこないが、『太田牛一旧記』には「おごろす」(小栗栖)において「がめつきやり(鑓)」で突かれ、「二・三町ばかりいきて」絶命したと記されている。つまり、光秀は小栗栖で致命傷を受け、山科の勸修寺周辺か醍醐付近で亡くなった可能性がある。

 なお、ルイス・フロイス著の『日本史』によれば、「哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに、多くの金の棒を与えるから自分たちを坂本城に連行するように頼んだ」と述べられているという。当時は落ち武者狩りを乗り切るため、光秀も前もって"金の棒"を身に付け、逃亡の際の対処を考えていたことになる。光秀の首は溝に捨てられていたものが見つかり、のち、本能寺に晒されたと記されている。※以上福島氏『明智光秀』

 一町=約110mくらいなので、300mほど行って絶命したとなるが、この勸修寺地区も醍醐地区も小栗栖の明智藪より北東方向に600mほどの場所にある。勸修寺地区には「明智光秀胴塚」があるので、この福島氏の見解の可能性もあるかと思われる。

 昨年の3月上旬に光秀が農民の竹槍によって致命傷を負い、ここで切腹し付き従う家臣に首を落とさせて、埋めさせたとの通説がある「明智藪」に初めて行ってきた。山に向かってゆるやかな坂道が続く住宅街の家に亜熱帯地方の中国福建省福州ではよく見られる黄色い花をつける大木の花が咲いていた。

 明智藪のある丘陵地に向かう途中、「小栗栖八幡宮」のある小山があった。立ち寄ってみる。神社の由緒書きには、ここは当時、このあたりを支配していた土豪の飯田氏が代々にわたり神主を務めていたようだ。神社のある小山は、かって「小栗栖城」の平山城。神社本殿の上をさらに少し登ると山頂には本丸郭や2の丸郭(曲輪)とおぼしきばし場所があった。実は、落ち武者となった光秀を襲ったのはただの農民ではなく、この地の土豪・飯田一族であった可能性もあるからだ。

 飯田氏は当時、信長の配下にあった土豪で、山崎の戦いの結果もかなり把握し、光秀が坂本城に落ち延びるとしたら、大亀谷からのこの間道を使う可能性もあるとふんで、網をかけていたのではないだろうかと私には思われるからだ。ただの農民たちでは、山崎合戦の帰趨についての情報をその日のうちには得にくいだろうし、しかも、深夜の午前0時~1時ころにただひたすらここにいて待ち構えるということにはなりにくいのではないだろうか。

 小栗栖神社から、昔からの農家などが残る坂道を登り、小栗栖城のあった小山を振り返る。かなり立派で大きな、塀に囲まれた武家屋敷のようなお屋敷があった。表札を見ると「飯田」とあった。おそらく土豪・飯田一族の末裔の方の屋敷かと思う。ここからすぐのところに「明智藪」があった。「明智塚」と書かれた木の標識が立てられていた。明智藪の由来が書かれた説明版も。

 明智藪と書かれた水色の幟(のぼり)旗。大亀谷方面に通じるのかどうかわからないが、細い竹藪に囲まれた小道があったので少し行ってみたが、たくさんの竹が折れたものが道をふさぎ、竹藪林と化し、それ以上は進めなかった。

 明智藪のある周辺は近年まで竹藪の森・林の一帯だったようだが、最近大きな道路を作るためなのか、何かの住宅造成地を作るためなのか、竹藪が伐採されポカンと丘陵の空き地となっていた。近くに「本経寺」という寺があり、「明智日向守光秀公供養塔」の石と説明板が置かれていた。

 光秀の胴塚のある場所の方面に向かう。山科川西岸の旧街道の道を勸修寺方面に向かうが、なかなか見つけることができなかった。来た道を戻り、ゆっくりと車を走らせる。旧街道沿いにあるはずだ。そしてようやく胴塚を見つけて手を合わせる。明智藪で致命傷を負い、このあたりまで逃れ、絶命したのかもしれない。ここで首を取られ、胴体はここに一時埋められたのだろうか。道路の隅に、ブロック塀に囲まれ、「明智光秀之塚」と書かれた石碑が立てられている。