琵琶湖湖畔にかってあった明智光秀の居城・坂本城は壮麗な水城であった。1571年の織田信長軍による比叡山焼き討ちの後、光秀は信長より琵琶湖西岸南部の志賀郡を拝領し、ここ坂本での築城を開始した。おそらく築城完成までに2〜3年を要したかと思われるので、1574年には完成していたかと推定される。
本丸・二の丸・三の丸からなる水城である坂本城は、城まで船舶を入らせることのできる城郭構造をもち、天守閣と副天守や多くの櫓をもつ当時としては画期的な城であった。信長の居城である琵琶湖湖畔の安土城は、1576年から築城が開始され、1579年に完成しているので、坂本城はその5年ほど前につくられていた。宣教師のルイス・フロイトなども坂本城の画期性と壮麗さに感嘆している。美濃から越前への逃避行など、苦楽をともにした光秀の糟糠の妻・熙子は、1576年にこの坂本城で亡くなったとされている。
坂本城築城後、琵琶湖湖畔には、琵琶湖西岸の湖北に大溝城(織田信澄―光秀の与力となる)、琵琶湖東岸の信長の安土城や羽柴秀吉の長浜城などがつくられた。いずれの城もこの坂本城の水城の城郭構造や工法を参考にしてつくられた城だ。坂本城・安土城・大溝城・長浜城の四城は、織田軍団とその政権における琵琶湖水運のネットワークを形成することとなる。(※大溝城と安土城は琵琶湖とつながる内湖[大溝城の場合は乙女湖]をたくみにつかっている縄張り[城の設計]となっている。)
のちに、築城の名手とうたわれた近江国出身の藤堂高虎によって、四国に瀬戸内海に面した今治城がつくられた。これも水城で、この坂本城を参考にしているのかと思われる。四国の高松城なども水城である。
この坂本城は天正10年(1582)6月15日に落城した。6月13日の山崎合戦で光秀軍が羽柴軍に敗北して2日後のことである。壊滅した明智軍1万6000の一部は落ち武者となって、この坂本城にたどり着いたかと思われる。
明智光秀には五宿老とよばれる武将たちがあった。①明智秀満(左馬助・弥平次)―丹波・福知山城城主、②斎藤利三(内蔵助)―丹波・黒井城城主、③明智光忠(次右衛門)―丹波・八上城城主、④藤田行政(伝五)―京都洛北・静原城城代、⑤溝尾茂朝(庄兵衛)―丹波・周山城城代である。①と②の二人が筆頭宿老であったが、6月2日の本能寺の変の際にはこの五宿老はすべて参陣している。
6月13日の山崎の戦い(天王山合戦)の際には、②⑤の2人が参陣している。①の明智光満は近江国方面の守備のために安土城にいた。③の明智光忠は、本能寺の変の際に鉄砲で負傷し、京都の知恩院で療養していた。山崎の敗戦を13日夜に知り、坂本城に帰還。坂本城落城時に自害。④の藤田行政は、大和国領主で大和郡山城城主・筒井順慶を明智方に勧誘すべく大和郡山まで赴いたが失敗に終わる。引き返して山崎の地に向かい淀に至るが、そこで勝龍寺城陥落を聞き自刃した。
⑤の溝尾茂朝は、光秀とともに落ち延びて坂本城に向かったが、山科で致命傷を負った光秀の自刃時の介錯をして、首を地中に隠して、坂本城に帰還したとされる。坂本城落城時に自害。②の斎藤利三は、敗戦後、坂本城に向かう。14日には坂本城近くの堅田まで至ったが、堅田の小領主・豪族で光秀方だった猪飼秀貞(※父は本能寺の変で明智軍として参加も戦死)の裏切りにより捕えられ、秀吉方に引き渡され京都粟田口で磔となる。
明智秀満は、安土城にて山崎合戦の敗戦を6月14日に知り、坂本城に向かう。彼は光秀の父の弟・明智光安の嫡男(養子との説も)で光秀とは従兄弟(いとこ)ともされる。(NHK大河とラマ「麒麟がくる」では光安の嫡男として描かれている。) 出自は不明なことも多く、備前(岡山県)児島に生まれたとの説も有力だ。いずれにしても幼少のころに美濃国の明智荘にて育つ。美濃の明智城が落城した際に、光秀や光秀の妻・熙子や藤田伝五らとともに越前に逃れ、光秀とは終生の苦楽をともにしたとされる。(※明智秀満の旧姓は三宅弥平次。光秀の長女。綸を娶って明智秀満を名乗る。)
明智五宿老のなかでも、斎藤利三とともにNO1・NO2の地位にあった。光秀の長女・綸(りん)のことを想っていたが、綸は信長の命で荒木村重の嫡男・村次に嫁ぐこととなる。1578年に村重が信長に叛旗を翻し伊丹の有岡城に立て籠もると、村重は光秀とのこれまで親しく交わっていた関係をおもんばかり、村次と綸を離縁させ、光秀のもとに綸を帰らせた。そして、光秀は1578年に光満と綸を夫婦とし、二人は結ばれることとなる。(NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、この明智秀満[左馬助]を間宮祥太郎が演じていた。)
安土城にて山崎合戦での明智軍壊滅の報を受けた明智秀満(左馬助)は、6月14日に坂本城に向かう。が、しかし、坂本城周辺にはすでに羽柴秀吉軍の堀秀政や高山右近、中川清秀らが押し寄せていて、陸路から坂本城に入ることができなかったとされる。このため愛馬・多賀影とともに琵琶湖湖畔の浅瀬をすすみ坂本城に入城したと伝わる。いわゆる「左馬助の湖水渡り」の伝承だ。湖水渡りを始めた場所として今、大津の琵琶湖文化館の建物のそばに石碑が立ち、この伝承の説明看板が置かれている。ここから坂本城まで湖岸沿いに5kmほどの距離がある。
6月15日、明智秀満は、坂本城内にあった宝物などを敵方の武将・堀秀政らに引き渡し、ともに城内にあった明智光忠や堀尾茂朝、光秀の妻子(光秀の嫡男などの子どもたちや後妻など)や秀満の妻子らとともに自刃し、本丸の天守閣の建物に火を放ち自害する。この日、坂本城は落城した。この日までに明智一族の主だったものは自害して果てた。
『明智左馬助の恋』(加藤廣)[文春文庫]は、この明智秀満(左馬助)を描いた歴史小説で、秀逸な作品だ。