彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀、越前での雌伏の10年❸朝倉氏への仕官なるも、一乗谷城館群からは離れていた光秀屋敷

2020-08-05 18:58:03 | 滞在記

 一乗谷朝倉氏館群の中心部から車で15~18分(徒歩では1時間ほどか)、鬱蒼とした森の道が続くなだらかな峠坂を越えて下るとかって明智光秀の屋敷があったとされる集落がある。峠には「旧・朝倉街道」の説明版が立てられていた。一乗谷へと通じるかっての街道道が現在の峠道脇に残されている。

 この朝倉街道は大手道とも呼ばれた。越前国の鯖江や福井の地に通じる街道で、敦賀や北近江などに朝倉軍が出陣する際はこの街道を通ったものかと思われる。峠付近は石畳が敷かれた街道道であったようだ。

 峠からほど近い東大味の集落はかって明智十兵衛光秀の屋敷があったとされている。朝倉家への仕官がなった光秀だが、一乗谷居館群からけっこう離れた場所に住まいを与えられたところからみると、そう高い地位として朝倉家に迎えられたわけではないことが推察できる。

 「麒麟がくる―明智光秀」の幟(のぼり)が立てられた集落の無料駐車場スペースに車を駐車し、光秀を祀っている「明智神社」の祠(ほこら)に向かう。集落の大きな看板には明智神社の場所も書かれていた。集落の一軒の家に白い桔梗の花が咲いていた。「土居ノ内―明智光秀公の家族が暮らした館があったところ。細川ガラシャ生誕の地とされる。」と書かれた板の看板があった。

 地元の人に道を聞いて明智神社には駐車場から5〜6分ほどで着いた。神社の入り口付近には、「ハート型苔」の板の看板。「自然にできたハート型の苔 恋愛スポット明智神社ならではのもの」と書かれていた。

 明智神社は小さな祠(ほこら)があるだけのもの。この祠の中には明智光秀の木像が祀られているようだ。「明智光秀公三女・細川ガラシャゆかりの里」の大きな石碑もあった。「雌伏のとき―恩人と伝わる光秀を慕い、今も木像を大切に守る里」の看板も。そこに書かれた文には「一向一揆討伐の際、光秀が柴田勝家らに出させた安堵状により村が守られたことから、現在に至るまで東大味の人々は光秀を慕いこの神社を守り続けている」と書かれてあった。

 ちなみに光秀には一説には四人の娘があったとされている。(男は3人―光慶・自然丸・男[名は不明])  長女は摂津国の織田信長軍団の一人・荒木村重の子息・村次と結婚した。しかし、村重の織田信長への反旗による籠城戦の中、離縁されて光秀の元に戻されている。(※この長女はのちに光秀の一族である明智秀満の妻になる。また、次女は織田信長の弟・織田信行[信長に謀殺される]の子息の津田[織田]信澄と婚姻している。信澄は山崎合戦の際、光秀側についたと秀吉側に思われ攻められて死亡する。)   

  三女「玉子(たまこ)」は細川藤孝(後の細川幽斎)の子息・細川忠興と結婚し、山崎合戦後には丹後半島の山奥の村に幽閉されキリスト教に入信。細川ガラシャとも呼ばれた。1600年の関ヶ原の戦いが始まる少し前に大阪の細川家屋敷で自害している。

 神社の祠の近くのわりと大きな建物には地元の人がつくった「東大味歴史文化資料館」という看板がかかっていた。誰もいない中に入り、電灯のスイッチを入れて展示物を見た。ポスターなどの展示物はほとんどがNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のものだった。明智光秀の屋敷があったところにについての説明もされていた。この明智神社の祠のあるところのあたりがその屋敷跡地とのこと。今はその多くが畑地となっている屋敷跡地の一角には今も土塁跡が残されていた。時刻はすでに午後5時半ころとなっていたので、車で故郷の自宅のある南越前町に向かうことにした。

 明智光秀と妻・熙子、そして玉子(たまこ)が誕生して3人の娘たちはここで2年間あまりを過ごすこととなる。その後、将軍・義昭や細川藤孝が一乗谷を出て、織田信長の尾張を頼り移り住むとともに、光秀も家族も朝倉氏の仕官を辞してここ越前を出ていくこととなった。光秀、雌伏の時の10年から飛躍の10年間が始まることとなる。

 ―美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」―

 明智十兵衛光秀が妻子とともに生国の美濃を離れ、越前に赴いたのは、弘治2年(1556年)の「長良川の戦い」が原因と考えられている。この戦いは、斎藤道三と息子の義龍が争い、2万という圧倒的な義龍軍に対し2千という寡兵の道三が敗死した戦いだ。注目すべきはその後のことで、道三軍に組した光秀ら明智一族の居城・明智城が、義龍らの軍勢に攻められて落城しているのである。つまり、光秀らは、勝者の義龍に敵視され、美濃にはいられなくなったので、落城した城をあとにして越前に逃げ込んだ(亡命した)と考えられている。

 岐阜県可児市には明智城址がある。また、現在の岐阜県恵那市明智町にも明智城址があり、光秀出生の地とも言われる。光秀が誕生したのは有力な説によれば1528年。この説に基づけば明智城が落城したのは光秀29歳の時となる。美濃からどのようにして越前に向かったのかは定かではない。おそらく、当時も美濃と越前の国境の峠である油坂峠や温井(ぬくい)峠を越して越前に入国したと考えられている。(温井峠の方が長く険しいかと思う)   いずれの峠も山深く険阻な長い長い峠道だ。いずれの峠からも越前の大野に至る。

 越前に逃げた理由としては、「①まず、美濃との隣国であり、険阻だが峠を越えてわりと近い距離にあること、②明智一族と縁の深い美濃の守護だった土岐一族とは、越前朝倉氏は友好な関係だったこと、③越前一乗谷の文化水準は、周防・山口の大内文化、駿河の今川文化と並び、「戦国三大文化」と称されていて、軍事面でも文化面でも力と栄華を誇る戦国大名だったことなど」が挙げられる。しかし、なぜ、逃亡先としては最も近い隣国・尾張の織田信長の正室となっている従兄妹の帰蝶(父は斎藤道三)がいる地に逃れなかったのかの謎は残る。

 その後、10年間あまりを越前・丸岡長崎の地で暮らし、朝倉家に仕官がかなったのは1566年、光秀39歳の時と考えられている。人生50年の時代でもあった。そして、足利義昭と細川藤孝が朝倉氏を頼って一乗谷に来たのは、この年、1566年(永禄9年)9月のことだった。義昭の一乗谷滞在は1568年(永禄11年)7月頃までの2年間にわたった。この間に、明智光秀は義昭主従と接触し、懇意になったと思われる。

 1567年(永禄10年)には織田信長は斎藤義龍を戦いで破り、美濃を制圧していた。そして、「京都への上洛の軍を動かすことに消極的な朝倉氏ではなく、日の出の勢いのある織田に頼ったらどうか」と義昭主従に光秀が進言したのではないだろうか。光秀は信長の正室・帰蝶(濃姫)と従兄妹だったと考えられ、光秀はそのつてを使って、仲介の労をとることを申し出た可能性は高い。そして、義昭一行は1568年(永禄11年)、尾張に向かうこととなった。光秀41歳の時のこと。

 そして、光秀は織田信長にその能力の高さを認められ、その後 織田軍団の武将の中でも最も早く坂本城という城や領地(国)を与えられ国持ち武将となる。丹波国も与えられ亀山城や周山城、福知山城も築いた。1578年、光秀は51歳となっていた。越前・一乗谷近くの屋敷を出てからわずか10年の間のできごとだった。そして、4年後の1582年(天正10年)、本能寺の変、それに続く山崎(天王山)の戦いの敗戦があり、光秀とその一族は玉子(ガラシャ)を残し滅亡した。光秀享年55歳の時。なぜ、光秀は信長を討ったのか‥‥。その説はさまざまあるが、怨恨説ではなく「信長という存在へのいろいろな面での"恐怖(怖れ)と義憤"説」を私は考える。光秀なりの「怖れ」と「義」であったのだろう。

◆信長から高く評価されるだけの力量をどこで光秀は身につけたのかは わからない。しかし、基本的には斎藤道三に薫陶を受け、伯父の明智城主・明智光安の教えなども受けながら、武将としての器を磨き始めたのではないかとも思う。そして、もう一つ考えられるのは越前時代である。称念寺の門前で暮らした十年間は、生活的に苦しかったはずだ。それでもくじけることなく機会を待ち望み、有り余る時間を使って、さまざまな書籍を読み込みながら、一生懸命に日々、自己研鑽に励んでいたのではないだろうか。

 それが後に、足利義昭、細川藤孝との関係づくり、信長による抜擢と活躍につながったとするならば、越前で過ごした十余年は雌伏の時ではあっても、決して無駄ではなく、光秀を飛躍させる重要な期間だったと言えよう。ある意味で亡命から苦節十年を経ての「逆転人生」の始まりだったとも言える。そしてそれから15年後、乾坤一擲の人生勝負に敗れ、滅んでいった。

◆滋賀県の湖西地方、現在の高島市に田中城という山城がある。本丸は標高220mほどで比高は60mほどと丘陵を利用した山城。平成26年(2014年)に『米田家文書』の紙背文書(※紙が貴重なこの時代、文書の裏側に別の文書が書かれているもの)から、「右一部明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也‥‥」という文章が発見された。この記録は米田貞能が永禄9年(1566年)に書いた(※永禄九年十月二十日の日付)もので、「針薬学」、つまり針灸学に関する内容の奥書。この記録書では、「右の一部は、明智十兵衛尉(光秀)が高島郡の田中城へ籠城していた折りに教えてもらった医学知識だが‥‥」と書かれている光秀研究としては驚くべき資料の発見であった。

 米田貞能は細川藤孝の家臣だった人物。当時の湖西高島郡一帯は、足利将軍を支持する国人たちと湖北に勢力をもつ浅井氏とが攻防をくりひろげていた。田中城城主は将軍方。この攻防の時に援軍として派遣された将軍方の一兵士として光秀がこの籠城戦に参加していたことが記されていた。同じく派遣された同僚の米田貞能は、光秀から教えられた何らかの医学知識を書き留めていたものだった。この米田家文書の一文からすると、光秀は朝倉氏に仕官がかなって、一乗谷近くの東大味の屋敷に移る前の時期に、将軍方の一兵卒として志願し、越前からここ近江(滋賀県)高島の田中城に来ていた可能性があることとなる。まだまだ、明智光秀の越前を中心とした十余年は謎が多い。

◆8月下旬からNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が再開され、「雌伏の越前10年編」が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 


明智光秀、越前での雌伏の10年間❷五代におよぶ一乗谷朝倉居館群—10年目にして光秀仕官なる

2020-08-05 05:48:30 | 滞在記

 丸岡町の称念寺を後にして、一乗谷朝倉氏居館群址に向かう。国道や県道などを通って車で1時間以上はかかった。光秀が10年間暮らしたところからかなりの距離があることを実感する。直線距離にして20kmあまり。そう遠方ではなく、近くもない。健脚が歩けば半日あまりの距離かと思う。

 一乗谷には20日の午後3時ころに着いた。ここにはもう5〜6回は来ていただろうか。最近、この近く(一乗谷の城戸[巨大城門]外の足羽川沿い)に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館というかなり立派な施設ができている。朝倉氏はもとは現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、一乗谷の初代孝景は、応仁の乱(1467~77年)で西軍に属していたが、1471年に東軍に寝がえり活躍、東軍方の有力守護・斯波氏に従って拠点を一乗谷に移した。その後、斯波氏の守護代となり下剋上(2代氏景・3代貞景・4代孝景・5代義景)をへて5代103年間にわたり越前を支配し戦国大名となり、その支配影響力は若狭国や加賀国の一部までも及んだ。

 天正元年(1573年)織田信長との最終的な戦いである撤退戦・「刀根坂の戦い」(滋賀・福井の県境)で敗北し、越前国に侵攻した織田軍によってついに一乗谷城下町は戦火によって炎上し焼土・灰燼となり、朝倉氏は滅亡した。その後、一乗谷の朝倉居館群は草木と土に覆われ400年もの間、埋もれていた。国の特別史跡に指定されたことから発掘調査が行われ朝倉氏居館群が地上に見え始めたのは昭和46年ころからである。

 一乗谷の中を足羽川の支流・一乗谷川が流れる。この川は生活用水とともに防御に利用されている。川の東側には朝倉氏当主が住まう朝倉館があり、背後には詰城(籠城用)としての巨大な一乗谷城(山城)が築かれていた。川の西側は武家屋敷や寺院、商人や職人たちの住む町屋などの城下町が形成されていた。一乗谷には寺院だけでも40余りが確認されている。

 下城戸と呼ばれる巨大な岩を用いた城門の石垣がある。そしてここから一乗谷を2kmあまり進むと上城戸と呼ばれる巨大な石垣の城門が。城下町はこの上・下城戸(桝形門)によっても守られていた。室町幕府将軍・足利義昭が一時期、この一乗谷に逗留していたが、その御所は上城戸の外にあった。

 さらに、谷の西側の山々には東郷槙島城(山城)、南側の山々には三峰城(山城)、北側の山々には成願寺城(山城)厳重に守られていた。

 朝倉館背後にある一乗谷城の山城のある山を見あげる。朝倉館の周囲は高い土塁や堀に囲まれている。

 朝倉館に入るため掘りに架かる木橋を渡る。復元された唐門。広い館の中には大きな枝垂桜などの木々が何本もあった。春はさぞかし美しいだろうな。建物の礎石がみえる。朝倉館近くには中の御殿や諏訪館、湯殿館跡などがあり、とりわけ諏訪館庭園跡の庭園は背後の山や岩などを借景として、豪壮華麗、わびさびもある、日本の庭園史のなかでも素晴らしいものだと思う。

 武家屋敷や町屋などが復元されている城下町の道を歩く。当時の一乗谷の賑わいがよみがえってくる。

 一軒の武家屋敷の大きなカエデの木が見事な枝ぶりを見せていた。樹齢何年ものだろうか。

 10年間余りの丸岡長崎の称念寺門前での牢人暮らしを経て、朝倉家への仕官がようやくかなった明智光秀。その屋敷跡と推定されている場所は、一乗谷の上城戸の城門から南西の方角にあり、そう高くはないなだらかな峠を越えてくだった集落内にあった。朝倉館からは車で15~18分ほど、歩けば1時間ほどの所だった。