彦四郎の中国生活

中国滞在記

紀伊山地・熊野を巡る❸―赤木城跡②朝霧や雲海のかかる"天空の赤木城址"が見られるかもと早朝に

2020-08-25 19:12:07 | 滞在記

 三重県紀和町にある赤木城と丸山千枚田に日帰りで行ってみようと思い立って出かけた8月19日(水)。結局、日帰りは断念し、旅館を探して一泊することとなった。ここ10年間あまり続いている日本の城ブーム。さまざまな日本の城や山城に関する書籍や雑誌などで、この赤木城も注目をあびることとなった。今、日本列島の多くに新幹線が開通しているが、ここ紀伊半島の赤木城は新幹線からもJR在来線からも遠く、注目されるが行きにくい城の一つだ。

   なぜ、こんなところに それなりに立派で、現代でも注目される城が築かれたのか。そのような城跡は全国にはいくつもある。例えば、明智光秀が築いた京都府京北町周山にある周山城などなど‥。

 京都・奈良から太平洋沿岸の尾鷲市や熊野市、新宮市、勝浦町に至るために、紀伊半島・紀伊山地を南北に縦断するための街道が古来より二つあった。一つは奈良県五條市から十津川村を通って新宮市に抜ける「十津川街道」。この街道は十津川や熊野川の渓谷にそってほぼつくられている街道だ。現在も十津川と新宮を結ぶ日本一長い距離の路線バスが運行している。もう一つは奈良県大淀町・下市町・吉野町から、東吉野町・天川村、川上村、上北山村、下北山村を通って熊野市に抜ける「吉野街道・北山街道」。この街道は吉野川や北山川の渓谷に沿ってほぼつくられている街道だ。二つの街道は紀伊山地の中の1000m~1900mが連なる屏風のような山脈によっ隔てられ、ほぼ南北に平行に街道が走る。

 さて、ここ赤木城のある紀和町は、山塊が少し低くなり、北上川が流れ、この二つの街道が途中で結ばれる街道が走っている場所にある。つまり二つの街道を結ぶ中間の地点。さらに、太平洋に面する熊野市や新宮市にも近くなる。言って見れば、交通の要衝地とも言えるところなのかもしれない。ここに城を築けば、二つの街道と地域をおさえやすい地だ。さらにこの地には、古来より銅などの日本有数の鉱山資源に恵まれ、森林も豊かで木材が切り出され、北山川や熊野川や十津川の流れをつかって筏(いかだ)流しによって新宮の町に運ばれた。新宮には新宮城という大規模な城郭もつくられていた。

 古代にはこの地は熊野三山(熊野三社)に属し、中世に入ると入鹿氏などの武士も台頭し、谷間の村々には土豪や国人、吉野の金剛峯寺や紀州の根来寺や粉河寺などの寺社勢力などの勢力が混在した地域となった。近畿地方でもここ紀伊山地と四方を山々に囲まれた三重県伊賀は守護の勢力も弱く、自然の険しさにより守護や戦国大名などの勢力が及びにくい地でもあった。

 ほぼ全国を平定した豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に実弟の秀長に紀伊国の平定を命じている。ついに強力な全国政権が及び始めることなる。一旦は土豪や国人などの抵抗勢力を平定したものの、翌年の天正14年 北山郷などの土豪たちが一揆を結んで蜂起した。秀長は、すぐさま鎮圧の軍勢を差し向けたものの、一揆側の抵抗も激しいうえ、秀吉の命に従って九州平定にも従軍したため、なかなかはかどらない。結局、秀長が一揆を鎮定することができたのは、3年後の天正17年(1589年)のことだった。

 こうして一揆を鎮圧した秀長は、家臣の藤堂高虎に赤木の地に築城を命じたという。世は移り、1600年の関ヶ原の戦いとなる。紀伊国はこの戦いの後に和歌山城を居城とする浅野幸長の支配下となった。そうした中、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣を契機に再び一揆を結んで蜂起したのである。冬の陣が終結すると、幸長の跡を継いだ子の長晟は、北山郷に向かい、一揆の鎮定に向かった。赤木城はこのとき、浅野勢の拠点として使われた可能性と一揆勢の拠点として使われた可能性のどちらかが高いが、どちらの拠点となったのか明らかではない。赤木城は、その後、元和元年(1615年)に一国一城令が徳川幕府より出たあと、廃城となったらしい。 

 宿泊した「瀞流荘」の部屋に、この紀和町に関連した新聞記事のスクラップファイル(持ち出し禁止と書かれた)が何枚が置かれていた。そのうちの一つが「全国数万の城から―戦国ロマン満載の穴場の名城を選抜―1位赤木城、2位苗木城、3位小幡城、4位玄蕃尾城、5位滝山城」という見出し記事。また、「天空の城ブーム各地で―竹田城に続け―越前大野城・竹田城・備中松山城・赤木城」の見出し記事も。

 翌朝の早朝に赤木城が遠望できる場所に行けば、朝霧や雲海に包まれた「天空の赤木城」が見られるかもしれない。今日、無理に京都に戻らずによかったなあとも思いながら、いつものとおり午後9時すぎには眠りについた。

 翌朝はいつものように午前4時ころに起床した。5時すぎに宿を出て北山川に架かる橋を見る。川から立ち上る川霧に周囲の山々は薄っすらと包まれていた。5時半ころに赤木城を展望できる場所に着く。赤木集落の棚田の稲も霧に包まれていた。山の傾斜地に点在する家々は、石垣が立派に積まれた家屋も多い。その見事さに見惚れた。

 5時半ころになってますます霧が出始めた。周囲の山々も霧に包まれる。

 赤木城の方を見る。霧が濃くわずかに城郭の丘がぼんやりと霞んで見えるだけ。1時間ほどここにいて、霧が晴れてきて城郭の石垣や本郭が見えてくるのを待ち続けた。わずかに石垣も霞んで見えたが‥。このあと霧に包まれる丸山千枚田にも行きたい。だが、旅館ホテルの朝食時間は午前7時〜8時の1時間。遅くても午前7時40分ころには戻らなければならなかった。この日は風がまったくなくて、霧が晴れ始めて城郭が見えてくるのには まだ相当の時間がかかりそうだった。午前6時半すぎに ここから丸山千枚田に向かうこととした。

 ここ紀伊山地は霧や雲海が発生する条件がそろっている。特に晩秋の11月から12月の晴れた朝には、ほぼ雲海に包まれるようだ。高い山々と谷間と渓谷。そこを流れる十津川や熊野川や北山川、そして無数の多くの支流。ここ紀和町の赤木城や丸山千枚田の南東側にある風伝峠にかかった雲海の一部が風におされて細長い雲海が山を登り下りしながら移動する「風伝おろし」というものもよく発生するらしい。

 ホテル旅館の廊下に掲示されているパネル写真やインターネット検索をして赤木城が霧や雲海に包まれた写真を見る。たしかに幻想的な天空の城の光景が見られる「天空の城」だ。この城の標高は高いが、麓の集落道路からの比高はわずか30mに本郭(本丸)がある平山城なのだが雲海に包まれる天空の城ともなるのが赤木城だ。

 秋の紅葉、冬の雪景色や枯れ木、春の桜と新緑、四季折々に風情ある石垣とともに表情を見せてくれる赤木城跡。確かに、「穴場NO1」に相応しい城跡という新聞記事はあながち外れてはいないとも思う。