彦四郎の中国生活

中国滞在記

織田一族発祥の地、越前国・劔神社のある織田荘―越前国一向一揆勢力へのジェノサイドと"呪い瓦"

2020-03-28 05:30:15 | 滞在記

 JR(旧国鉄)北陸本線は、滋賀県の米原から新潟県の直江津に至る琵琶湖・日本海沿いの鉄道路線だが、この長大な鉄路路線の車窓風景に"海がよく見える"という場所は実は一箇所しかなかった。それが福井県今庄から敦賀市の間にある「杉津駅付近」だった。チラチラっと松林の間の砂浜越しに海が少しだけ見えるところもあった。石川県の安宅関所付近であったが、ここはチラッチラッとわずかなに海らしきものが見えるだった。

 古代からこの北陸路(ほくりくじ)での難所は2箇所があった。一つは敦賀から今庄にかけて立ちはだかる今庄山塊と越前断崖、もう一つは富山の黒部から新潟の直江津にかけての"親知らず子知らず"の断崖だった。鉄路開通にあたって、"親知らず子知らず"の区間には長いトンネルをつくったので海は見えなかった。そして、昭和37年頃(1963年頃)に今庄—敦賀間には北陸トンネルが開通したため杉津の駅を通る路線は廃線となった。だから、それ以降には、北陸本線で海が見えるところはほぼなくなった

 かって大正天皇が行幸のため列車に乗車し、北陸本線を通過していた時、あまりの海の絶景に見惚れて列車を止めさせてしばしその景色を堪能したという逸話ものこる杉津駅だったが、その駅があったのは現在の北陸道(高速)の杉津パーキングエリア(上り)付近である。景色としては、さらに高所にあるパーキングエリア(下り)の方が良い。この下りPAの景色はやはり現在でも絶景だと思う。とくに夕日のころが美しい。敦賀湾や杉津の集落、若狭湾や丹後半島、越前断崖と越前岬、そして木の芽峠のある今庄山塊までが一望できる。

 ここに松尾芭蕉の句碑がある。「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」。古事記などが著された古代には敦賀は「角鹿(つぬが)」と呼ばれていた。そして古代・中世の時代、ここ敦賀は、津島(愛知)・堺(大阪)と並び畿内の三大流通港の一つであった。織田信長が越前国朝倉氏を攻めて滅亡させた要因の一つはここにあった。経済流通の重要港・敦賀を支配下におきたかったのだ。

 3月3日、中国における新型コロナウイルス感染拡大のため、日本での滞在が長くなり、故郷・福井県南越前町への帰省は3回目となった。この日は、敦賀から北陸高速道路に入り、杉津PAに立ち寄って、今庄から故郷の家に向かった。

 翌朝の午前8時頃に家を出た。この日は全国的に終日の雨模様となった。故郷の家から車で30分くらいのところに織田町という町がある。中世の頃には織田荘とよばれていた地であり、なだらかな丘のような山々の丹生山地の中に村々が点在する。ここに越前国二ノ宮とされる「劔神社(つるぎ神社)」がある。(越前国一ノ宮は敦賀の「気比神宮」)

 この劔神社と織田荘は織田信長などの織田一族発祥の地であった。織田氏は織田荘の荘官として、また劔神社の神官としてこの地に根をはった由緒ある家柄だった。境内の本殿に隣りには、織田神社という小さな祠のような建物もある。中世時代にはこのように荘官と神官を兼ねるという支配形態は全国津々浦々にみられた。1400年代になり、時の越前国守護・斯波氏により一族の一人(常昌)が才能をかわれ、斯波氏が守護をつとめる別の国・尾張国に派遣をされる。常昌は故郷の地名をとって織田を名乗るようになる。

 織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、尾張国守護代を勤めるまでになり、その後、織田一族は斯波氏にかわって尾張一円を掌握するようになった。織田信長はじめ、尾張の織田一族が使っていた家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」。ここ劔神社の神紋と同じ紋章である。織田町の商店街にあるバスターミナル(赤い鳥居のモニュメントがあり、この鳥居からバスが出ていく)には織田信長の像が町によってたてられている。(劔神社の本格的創建は奈良時代)

 織田町の丘陵地域を東に車を走らせ山域をでると越前平野が広がり、鯖江市や越前市(旧・武生市)の街並みがみえてくる。越前市はかっては府中と呼ばれていた。平安時代には紫式部が父の赴任にともなってここに暮らしたこともあった地だ。この越前市の東部に平城の「小丸城址」がある。ここの二の丸跡地で1930年代に文字が書かれた軒瓦(のきがわら)が発見された。「呪い瓦」ともいわれるものだった。

「天下布武」を目指す信長は、1570年には「志賀の陣」、71年には「比叡山焼き討ち」、73年には越前国の朝倉氏や北近江の浅井氏一族を滅亡においやった。そして1574年には武田氏を滅亡させた。同じく74年には「長島一向一揆」を壊滅させて3万人とも4万人ともいわれる一揆勢を老若男女皆殺しとした。そして、1575年8月には越前一向一揆勢が支配することとなっていた越前国に5万の軍勢で進攻した。

 敦賀から一揆勢の木の芽峠城塞群に3万の軍勢が向かい、敦賀湾からは1万の水軍が海岸にある一揆勢の城塞に、信長の本軍1万は敦賀に滞陣。海岸にある杉津の岡崎砦や河野新城などを陥落させ、府中に通じる馬借街道を進軍し府中を制圧。背後の府中を占拠された今庄・木の芽防衛ラインの一揆主力軍は混乱の極みに陥り敗走。南越前町や府中の山間地に一揆勢は隠れ潜む。そして織田軍による掃討戦が始まり、多くの非戦闘員を含む3~4万人あまりを捕えて殺した。越前一向一揆殲滅戦、信長のあくなき執念による集団殺戮・ジェノサイドだった。

 日本の歴史におけるジェノサイドは、織田信長による「比叡山焼き討ち」「長島一向一揆殲滅」と、この「越前一向一揆殲滅」の3つしかない。いずれも宗教勢力に対するものだった。これに比して中国の歴史はより大規模なジェノサイドの繰り返しの歴史といっても過言ではない。中国の歴史は 一度に何十万人がジェノサイトの犠牲となることもあったという怖ろしい歴史でもあり、これは近年の文化大革命(1965―75)まで続いた。

 戦後、越前国は信長軍の武将・柴田勝家が中心地の北ノ庄(福井市)を所領、大野郡を金森長近、府中(武生市)10万石は府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)がほぼ均等に所領した。ここ小丸城は佐々成政が築城し居城とした。(6年間ここにいて、その後は越中・富山一国を所領とされ移る)    城址は本丸跡を中心に二の丸・三の丸跡や堀跡が残っている。本丸跡地の石垣下には蕗の薹が出ていた。

  小丸城址から車で5分ほどのところに「越前万葉の里」園がある。ここの建物の中に、小丸城址二の丸跡地から見つかった軒瓦が展示されている(以前は本物が展示されていたが、現在はレプリカ展示)。軒瓦には、「前田又左衛門[利家] 一揆勢 千人ばかりを はりつけや釜で煎り殺した」と彫り記されている。この瓦には、瓦をつくった地元の瓦職人の地(府中のひろせ[広瀬]・池上)の地名まで書かれていた。信長軍のジェノサイドの非道に怒りをもつ瓦職人(工人)が、城の建物の軒瓦で外から目につかないところに置いて後世に伝えようとしたと目されている。

 いつも故郷の家に行く時には、敦賀から越前海岸の国道や県道を通る。途中、杉津の集落には「岡崎砦」がかってあった美しい島のようなところが見える。また、家から近い河野の集落には河野新城があった山が見える。ここに行ってみると曲輪などの山城の址地が見て取れる。

 

 

 

 


京都府立植物園に娘や孫たちと―春の花々が早や咲き始めていた―夕日が近い賀茂川の川原でも遊ぶ

2020-03-22 19:38:27 | 滞在記

 3月16日(月)、この日から大学の後期授業がON-LINE授業で始まった。この日は午前と午後に初めて1コマ(90分)ずつの授業を日本から行った。まあまあ、私にしては思ったよりスムーズにこの日の授業を終えて安堵感がひろがった。翌日の17日(火)、銀閣寺近くに住む娘から「子育て手伝い要請」の連絡があったので、午後1時ころに娘の家に車で行くこととなった。私の妻(小学校教員)も娘の夫(高校教員)もこの日は出勤、3歳5か月近くになっている孫娘の栞(しおり)の幼稚園は16日より、コロナウイルス問題もあり平年より早く春休み期間に入っていた。

 車で娘と二人の孫娘と4人で京都府立植物園に行くこととなった。この日は、少し風はあるが快晴に近い天気でもあった。20分ほどで植物園に到着。コロナウイルス問題で学校が臨時休校中ということもあり、平日にも関わらずけっこう家族連れの入園者も多かった。植物園は春の花々がたくさん咲き始めていた。ミツマタの淡い黄色の花が満開に、どんな品種かはわからないが、早咲きの淡い白ピンクの桜が満開となっている。温室で早咲きにさせたのか、季節的には5月に開花する石楠花(しゃくなげ)や山ツツジの花が開花したものが並べられてもいた。

 この季節の花であるラッパ水仙などや、さまざまな野草花が咲く花畑。黄色いレンギョの花も開花し始めていた。染井吉野(ソメイヨシノ)の桜の木も、例年より少し早く、蕾が膨らみピンクの花を出し始め あと1週間で開花しそうだった。山茱萸(さんしゅゆ)の黄色い花も可愛らしい。また、ミモザの黄色の花も美しい。3月上旬から4月上旬にかけてのこの季節、これら「黄色系」の花が多く咲かせているのも日本の花々の一つの特徴かと思う。菜の花もそうだ。黄色は、明るい春の訪れを告げてくれるからなのかな。

 大きな早咲きの桜の大木が10本ほど満開になっている場所があった。なんという桜の種類なのだろう。花の色はソメイヨシノとほぼ同じなのだが、花びらがソメイヨシノより少し小さい。

 1歳3か月近くになった孫娘の遙(はるか)は、1月頃からよちよちと一人で歩けるようになったので より行動的になってきている。この日の植物園にある遊具で、一番喜んでいたのは、円筒のカーブのあるトンネル式の滑り台だった。怖くないのだろうかとおもうが、ちっとも怖くないようだ。何度も何度も階段を登り、上からトンネル内を一人で滑り落ちていた。

 午後4時半ころになったので、植物園を出てすぐのところにある賀茂川堤防に出て川原に行く。堤防から葦(アシ)の間を通りぬけて水辺に向かう栞さん。遙さんは、水がとても大好きだ。川原の石を川に栞が投げているのを見て、しきりに自分も小さいジャリ石を投げ始めていた。夕日が少し始まりかけていた。午後5時頃、そろそろ植物園の駐車場に戻ろうとして駐車場に行ったら、駐車場は閉まったところだった。まだ、駐車場管理の人が一人残っていたので、出口を開門してもらえた。「あと1分したら私もいなくなっていたので、車は明日の午前9時まで出せないところでしたなあ。」と話していた。料金を払い、銀閣寺方面の娘の家に向かう。

 翌日、18日(水曜日)は、午前中2コマのON-LINE授業を行った。中国との1時間の時差のため、終了したのは午後1時すぎ。夕方も近くなり始めた午後4時半頃に自宅から車で10分ほどのところにある木津川・桂川・宇治川の三川合流地にある背割り堤に息抜きに行くと、見事なピンク色の花を満開に咲かせている木が2本あった。「何の花だろうか?梅の花?桃の花にしては少し早すぎるし?」と思って眺めていると、知人の安藤さん夫妻がたまたま散歩に来ていて、「これは桃の花ですわ。今年はかなり開花が早いですわ」と話してくれた。メジロが数羽、桃の木に来ていた。

 ここ背割り堤のソメイヨシノの桜並木は桜のトンネルが1.4km続く関西地方有数の人気桜スポットだ。京都府人気NO1、全国人気NO5の桜の名所。バーベキューなどもここでは可能だ。まだ、蕾の膨らみは少ないので、この並木の桜は例年のように4月上旬頃に5分咲きくらいになるだろうか。あと2週間で。この背割り堤の桜を見ることができるのは、7年ぶりになりそうだ。新型コロナウイルス問題でいまだ中国に渡航ストップ、3月16日からは、日本からのON-LINE授業がしばらくはまだ続きそうだから見ることが可能になってしまった背割りの桜見。早朝は人も少なく、桜のトンネルは清々しい。

 


大学の後期授業が始まった❷ON-LINE授業方法をなんとか教えてもらい、やり始めることが可能になったが

2020-03-22 15:28:40 | 滞在記

 ◆前号は、文章を書く前に操作ミスで投稿となってしまったので、今回は文章も書いたブログです。

 中国の大学は9月上旬から新年度が始まり新入生が入学してくる。世界的にもこの9月始まりが一般的だ。中国では9月から1月上旬までが1学期(前期)、2月下旬(又は中旬)から7月上旬ころまでが2学期(後期)となる。今年は2月17日(月)から始まる予定だった大学の2学期(後期)。新型コロナウイルス感染の拡大問題で、中国の幼小中高校、そして大学も学期の開始が大幅に延期となった。

 今日、3月22日でも、全国各地の省から一つの大学に集まってきている大学生たちは、自分が所属する大学に戻ることはまだ許されていない。幼・小中高校は、感染拡大が治まり始めた3月2日(月)から、全国的に多くの学校で2学期が開始され始めた。インターネットを利用した「ON-LINE(オンライン)」授業という形態をとっての授業を、週の時間割通りに実施し始めたのだ。

 幼・小中高校の幼児・児童・生徒たちは、ほぼ同じ都市や鎮や村やその近隣に住んでいて学校に通学するが、大学は一つの大学・学部・学科に全国津々浦々の地方・省からきていて、ほぼ全員が4人〜8人の大学構内の寮の部屋にて共同生活をしている。終息がほぼ確実になるまで、再び2次感染拡大の恐れがあるので、学生達を大学に戻す時期をいつにするか中国政府は考え中かと思うが、遅くても4月下旬にはほぼ間違いなく、学生たちは大学に戻るこことなりそうだ。

 世界のどの国よりも「ITの使用環境」が進んでいるのが中国だ。携帯電話のスマホアプリの ものすごいアプリ種類の利用を使いこなして、現在の中国社会生活は成り立っている。基本的な生活最低限必要スマホアプリ機能を使いこなせなければ、中国で生活することは困難さを伴うし不可能だ。だから、このON-LINE授業は、そのような中国社会なので 教員たちにとっても すんなりと実施が可能なことになったのだと思う。日本では、このオンライン授業は一部学校を除き、全国的な実施は 現在は環境がほとんど整っていないので不可能だ。

 中国のインターネットON-LINE授業は、主に「QQ」(キューキュー)というアプリケーションを使って行うことが多いようだ。この機能を使うと、①音声②画像③動画を同時に多数のグループメンバーに、リアルタイムで行うことができる。学生たちは、大学に戻ることができないから故郷の家の自宅から授業を受けることとなる。つまり、あるクラス(3年1組20人のグループ全員)とインターネットのQQアプリ機能で繋がりながら、授業を展開することなる。4年ほど前から、学生たちは普段からこのQQアプリを多用して、グループメンバーとして繋がって生活しているのことは当たり前となった。しかも、このQQアプリの使用料金は会話もメールも投稿も中国では無料であるから使用頻度はとても高い。

 このQQアプリでのオンライン授業は、授業中の学生一人一人と教員との会話のやりとりはもちろん、教員と学生全員との一斉会話、学生同士の会話もできる。例えば、PP(パワーポイン)で映像や文字を流しながら、会話も同時にすることが可能だし、テレビ電話みたいにリアルタイムで私の顔を送信しながら学生たち一人一人と同時に話すこともできる。いろいろとパソコン操作を切り替えながら授業を行うというシステム。

 実は、中国人の50代までの人ならだれでも日常生活に使っているQQアプリは、私は好きではないというか苦手というか、昨年の12月下旬までアプリを入れ込みもしていなかったという珍しい中国生活者だった。常に、いろいろな人や学生から連絡や私的映像・文字、そして、アプリ会社やIT会社からの社会記事や宣伝が入って来るから、落ち着かないというのが嫌いだったからだ。しかし、お金の支払いはほぼ全て携帯アプリで行う社会なので、アリババというIT会社が運営する「支付宝」をのアプリを今まで使用してきたが、そのアプリだけでは生活が難しくなることもあり、やむなく学生たちに頼んで12月下旬にQQを登録し携帯電話に入れ込んでもらったのだった。

 つまり、携帯電話使用・アプリ使用の能力下層に位置する私にとって、3月2日に「3月16日(月)から、ONLINE授業方法で2学期を開始します。週の時間割通りのリアルタイムで行ってください。中国と日本は1時間の時差があるので、そのことも忘れないでください。中国時間のリアルタイムで行ってください。あと、2週間の間に授業ができるように準備してください」との大学からの連絡は、まあ、驚愕というか、青天の霹靂(へきれき)というか、とてもとても困ったことになったなあということだった。この日は精神的に落ち込んだ。12月末にQQアプリを入れてもらっていたことが まだ救いといえは救い。このことがなかったらオンライン授業はまず不可能だった。日本で入れ込むことはできないからだ。

 それから2週間の間、教員関係のいろいろな人に依頼して、中国に向けてのインターネット授業の方法を聞いたり教えてもらったりしたが、いずれも難しく、方法はなかなかわからなかった。3月10日ころには、その方法の80%くらいが分かってきたが、あと20%がわからない。中国人の教員にもその苦境を国際電話で話し支援を請いながら、操作方法をやってみたが、うまくいかない。もう3月13日(金)となってしまい、授業開始まで あと2日しかなくなった。精神的にも追い詰められていた。日本と中国では、インターネット環境もかなり違っていて、中国国内でのオンライン授業実施よりも倍の難しさがあるようだ。

 追い詰められた13日のこの日の夕方、鴨川に架かる三条大橋で ふと、教員関係者以外で、現在、立命館大学大学院に留学中の閩江大学卒業生の教え子・沈慧欣さんのことを思い出した。さっそく事情を電話で話したら、「わかりました。明日 先生の自宅に行きますよ」と行ってくれた。なんとかなりそうな様子が電話から伝わってきたので、ものすごく安堵感がひろがった。

 翌日の14日朝8時に、沈さんのアパートまで彼女を車で迎えに行き、1時間ほどをかけて自宅に到着。2時間ほどの時間をかけて、あとわからない20%の部分の操作方法を試行錯誤しながらもレクチャーしてくれた。そしてついに「万歳―!できた!」の瞬間がきた。

  そして、3月16日(月)からリアルタイムで大学の授業を始めることとなって1週間が経過した。2回ほど、授業の途中で インターネットQQが繋がらなくなり中断したりしたこともあったが、心臓バクバク冷や汗をかきながらなんとか15分ほどで回復させて、再び授業を再開することもあり 冷や汗ものの日々の1週間だった。1コマ(45分-休憩10分-45分)90分授業を週に6コマ、前期より担当授業時間は少ないが、これが私の2学期(後期)の担当時間割だ。他に卒業論文指導が7人ある。後期の担当授業は、3回生2クラスを対象とした「日本文化論」と2回生2クラスを対象とした「総合日本語・日本語会話4」。授業はクラス別に行う。先日、「私も先生の日本文化論の授業を、学生たちと一緒に受講しています。勉強したいですから」と中国人教員の一人から連絡があった。

 まあ、今の日本の「無観客大相撲」や「無観客試合」や「客のいない または1~3人ていどの客のいる寄席」のような雰囲気にちょっと似たインターネット授業となっている。少しずつインターネット授業のやり方にも慣れ始めてはきたが、67歳の歳でこんなタイプの壁・苦労が待ち受けているとは夢にも思わなかった。おそらく少なくとも4月中旬くらいまでは、このオンライン授業が継続されることになる可能性が高いかと今は思っているので、さらなる操作技能の向上と授業の質の向上を進めたいと思っている。

 学生達が大学に戻るのは4月中旬以降となりそうだが、その時は 私は 超高額に跳ね上がった航空券を私費でなんとか購入し、中国に戻る必要が出て来る。中国に戻れば、2週間の隔離者用のホテル(空港から直行)での辛い隔離生活に耐えなければ、大学はもちろん 自分のアパートにさえ戻れない。

    早く中国での大学教室での授業を始められたらと思うが、隔離を思うと、もうしばらく日本でオンライン授業の方がましかとも思ったりしている。私の授業担当の時間割は、午前中(日本時間では午後1時ころ)に終わることが多いので、午後や授業のない日は、京都市内や娘の家に行き孫の子守の手伝いをしたりし、日本の春を迎えることもできそうだ。3月下旬から4月上・中旬の頃の桜を見ることができるのは、実に7年ぶりとなりそうだ。この時期に日本に滞在できることは とても嬉しいがことだが。日本国内の新型コロナウイルス感染の動向もとても心配ではあるし。


"ちはやふる"かるたの聖地「近江神宮」―ここで"全国高校かるた選手権"が―背後には宇佐山が見える

2020-03-22 07:07:29 | 滞在記

 滋賀県大津市にある近江神宮に行ったのは、宇佐山城に登った3月2日のことだった。宇佐山城のある宇佐山(335m)から下山後、麓にある近江神宮に立ち寄ることにした。ここに来るのは初めてだった。映画「ちはやふる」で有名にもなった「かるたの聖地」ともよばれる神社。鳥居をくぐってしばらくすると「楼門」が見えてきた。長い石段の上に建つ朱塗りのみごとな楼門だ。

 早咲きの河津桜ごしに見る楼門はまた美しい。楼門の背後にある山は、さきほど登っていた宇佐山城のある山。頂上の城の本丸のあったところに、今はテレビ塔が立てられている。楼門をくぐって本殿に向かう途中、大理石でつくられた白い獅子。龍もおかれていた。なにか古代の時計に関係するものなのだろうか。

 この近江神宮は、さぞかし歴史の古い神宮なのだろうと思い続けていたのだが、そうではなかった。なんと1940年(昭和15年)の創建。この年が皇紀2600年(紀元2600年)にあたることから、667年に飛鳥から近江大津京に遷都した天智天皇を祭神として創祀されたとある。1949年に戦後復興を昭和天皇がここで祈願し、その後、この神宮は「勅祭社」の一つとなったようだ。

 この神宮はかって天智天皇が暮らした近江大津京の大極殿跡地近くにつくられた神宮だった。天智天皇は日本で初めて「時計」(※水時計)を造らせた人だったとされている。また、小倉百人一首の首歌(第一首目の和歌)が、天智天皇の「秋の田の かりほのいほの 苫をあみ わが衣手は 露に濡れつつ」の歌ということにちなんで、「かるたの聖地」ともなっている。ちなみに、「ちはやふる」とは、第17首目の歌「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」(在原業平)の歌にちなむ。

 楼門から本殿に向かう。本殿前の建物には、「近江神宮 かるたの聖地大津 "競技かるた 世界大会"令和元年 11月10・17日」のポスターが。昨年の秋に世界大会が開催されたようだった。「青春21文字のメッセージ サブテーマ:制服・待ち合わせ・時代 選者・評 俵万智」のポスターも。朱塗りの塀に百人一首が貼られている。朱塗りの屋根の外廊下が続く。

 近江勧学館という建物がある。ここがカルタ大会が行われている建物。映画「ちはやふる」のポスターが館内に貼られている。1階にはかるた競技ができる畳の場所もあった。立てられた畳には、いろいろな人が書いたメッセージが。

 2階に上がると畳敷きの大広間があった。ここでカルタ競技大会が行われる。主な大会としては、1月の「名人位・クイーン位 決定戦」。ここで男性の名人位と女性のクイーン位をかけて、全国大会を勝ち抜いてきた それぞれの決勝戦がおこなわれる。7月には「全国高等学校かるた選手権大会」が開催される。60校ほどが出場するという。団体戦の他に個人戦もあり、これには1600人ほどが王座をかけて戦われる。

 勧学館にて「ちはやふる」のファイルを買った。

 さまざまな「かるた」大会関連のパンフレットも置かれていた。

 境内には「専修学校 近江時計眼鏡宝飾専門学校」の建物があった。かってはおおくの人が、ここで時計職人やメガネ職人、宝飾職人の技術を習得し、店を開いていったのだろう。

 ※前号のブログで、「志賀の陣があった翌年の1971年9月」と記しましたが、「志賀の陣があった翌年の1571年9月」の間違いです。訂正します。