JR(旧国鉄)北陸本線は、滋賀県の米原から新潟県の直江津に至る琵琶湖・日本海沿いの鉄道路線だが、この長大な鉄路路線の車窓風景に"海がよく見える"という場所は実は一箇所しかなかった。それが福井県今庄から敦賀市の間にある「杉津駅付近」だった。チラチラっと松林の間の砂浜越しに海が少しだけ見えるところもあった。石川県の安宅関所付近であったが、ここはチラッチラッとわずかなに海らしきものが見えるだった。
古代からこの北陸路(ほくりくじ)での難所は2箇所があった。一つは敦賀から今庄にかけて立ちはだかる今庄山塊と越前断崖、もう一つは富山の黒部から新潟の直江津にかけての"親知らず子知らず"の断崖だった。鉄路開通にあたって、"親知らず子知らず"の区間には長いトンネルをつくったので海は見えなかった。そして、昭和37年頃(1963年頃)に今庄—敦賀間には北陸トンネルが開通したため杉津の駅を通る路線は廃線となった。だから、それ以降には、北陸本線で海が見えるところはほぼなくなった
かって大正天皇が行幸のため列車に乗車し、北陸本線を通過していた時、あまりの海の絶景に見惚れて列車を止めさせてしばしその景色を堪能したという逸話ものこる杉津駅だったが、その駅があったのは現在の北陸道(高速)の杉津パーキングエリア(上り)付近である。景色としては、さらに高所にあるパーキングエリア(下り)の方が良い。この下りPAの景色はやはり現在でも絶景だと思う。とくに夕日のころが美しい。敦賀湾や杉津の集落、若狭湾や丹後半島、越前断崖と越前岬、そして木の芽峠のある今庄山塊までが一望できる。
ここに松尾芭蕉の句碑がある。「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」。古事記などが著された古代には敦賀は「角鹿(つぬが)」と呼ばれていた。そして古代・中世の時代、ここ敦賀は、津島(愛知)・堺(大阪)と並び畿内の三大流通港の一つであった。織田信長が越前国朝倉氏を攻めて滅亡させた要因の一つはここにあった。経済流通の重要港・敦賀を支配下におきたかったのだ。
3月3日、中国における新型コロナウイルス感染拡大のため、日本での滞在が長くなり、故郷・福井県南越前町への帰省は3回目となった。この日は、敦賀から北陸高速道路に入り、杉津PAに立ち寄って、今庄から故郷の家に向かった。
翌朝の午前8時頃に家を出た。この日は全国的に終日の雨模様となった。故郷の家から車で30分くらいのところに織田町という町がある。中世の頃には織田荘とよばれていた地であり、なだらかな丘のような山々の丹生山地の中に村々が点在する。ここに越前国二ノ宮とされる「劔神社(つるぎ神社)」がある。(越前国一ノ宮は敦賀の「気比神宮」)
この劔神社と織田荘は織田信長などの織田一族発祥の地であった。織田氏は織田荘の荘官として、また劔神社の神官としてこの地に根をはった由緒ある家柄だった。境内の本殿に隣りには、織田神社という小さな祠のような建物もある。中世時代にはこのように荘官と神官を兼ねるという支配形態は全国津々浦々にみられた。1400年代になり、時の越前国守護・斯波氏により一族の一人(常昌)が才能をかわれ、斯波氏が守護をつとめる別の国・尾張国に派遣をされる。常昌は故郷の地名をとって織田を名乗るようになる。
織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、尾張国守護代を勤めるまでになり、その後、織田一族は斯波氏にかわって尾張一円を掌握するようになった。織田信長はじめ、尾張の織田一族が使っていた家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」。ここ劔神社の神紋と同じ紋章である。織田町の商店街にあるバスターミナル(赤い鳥居のモニュメントがあり、この鳥居からバスが出ていく)には織田信長の像が町によってたてられている。(劔神社の本格的創建は奈良時代)
織田町の丘陵地域を東に車を走らせ山域をでると越前平野が広がり、鯖江市や越前市(旧・武生市)の街並みがみえてくる。越前市はかっては府中と呼ばれていた。平安時代には紫式部が父の赴任にともなってここに暮らしたこともあった地だ。この越前市の東部に平城の「小丸城址」がある。ここの二の丸跡地で1930年代に文字が書かれた軒瓦(のきがわら)が発見された。「呪い瓦」ともいわれるものだった。
「天下布武」を目指す信長は、1570年には「志賀の陣」、71年には「比叡山焼き討ち」、73年には越前国の朝倉氏や北近江の浅井氏一族を滅亡においやった。そして1574年には武田氏を滅亡させた。同じく74年には「長島一向一揆」を壊滅させて3万人とも4万人ともいわれる一揆勢を老若男女皆殺しとした。そして、1575年8月には越前一向一揆勢が支配することとなっていた越前国に5万の軍勢で進攻した。
敦賀から一揆勢の木の芽峠城塞群に3万の軍勢が向かい、敦賀湾からは1万の水軍が海岸にある一揆勢の城塞に、信長の本軍1万は敦賀に滞陣。海岸にある杉津の岡崎砦や河野新城などを陥落させ、府中に通じる馬借街道を進軍し府中を制圧。背後の府中を占拠された今庄・木の芽防衛ラインの一揆主力軍は混乱の極みに陥り敗走。南越前町や府中の山間地に一揆勢は隠れ潜む。そして織田軍による掃討戦が始まり、多くの非戦闘員を含む3~4万人あまりを捕えて殺した。越前一向一揆殲滅戦、信長のあくなき執念による集団殺戮・ジェノサイドだった。
日本の歴史におけるジェノサイドは、織田信長による「比叡山焼き討ち」「長島一向一揆殲滅」と、この「越前一向一揆殲滅」の3つしかない。いずれも宗教勢力に対するものだった。これに比して中国の歴史はより大規模なジェノサイドの繰り返しの歴史といっても過言ではない。中国の歴史は 一度に何十万人がジェノサイトの犠牲となることもあったという怖ろしい歴史でもあり、これは近年の文化大革命(1965―75)まで続いた。
戦後、越前国は信長軍の武将・柴田勝家が中心地の北ノ庄(福井市)を所領、大野郡を金森長近、府中(武生市)10万石は府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)がほぼ均等に所領した。ここ小丸城は佐々成政が築城し居城とした。(6年間ここにいて、その後は越中・富山一国を所領とされ移る) 城址は本丸跡を中心に二の丸・三の丸跡や堀跡が残っている。本丸跡地の石垣下には蕗の薹が出ていた。
小丸城址から車で5分ほどのところに「越前万葉の里」園がある。ここの建物の中に、小丸城址二の丸跡地から見つかった軒瓦が展示されている(以前は本物が展示されていたが、現在はレプリカ展示)。軒瓦には、「前田又左衛門[利家] 一揆勢 千人ばかりを はりつけや釜で煎り殺した」と彫り記されている。この瓦には、瓦をつくった地元の瓦職人の地(府中のひろせ[広瀬]・池上)の地名まで書かれていた。信長軍のジェノサイドの非道に怒りをもつ瓦職人(工人)が、城の建物の軒瓦で外から目につかないところに置いて後世に伝えようとしたと目されている。
いつも故郷の家に行く時には、敦賀から越前海岸の国道や県道を通る。途中、杉津の集落には「岡崎砦」がかってあった美しい島のようなところが見える。また、家から近い河野の集落には河野新城があった山が見える。ここに行ってみると曲輪などの山城の址地が見て取れる。