彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本の国宝・曜変天目茶碗の故郷❷:福建省建盞(けんさん)窯の趙貴昌君、アパートに来る

2018-09-29 17:16:42 | 滞在記

 ―東洋のルネサンスとも云われる中国・宋の時代—天目茶碗や曜変天目茶碗、火薬や羅針盤や印刷技術などの科学、青磁などの陶磁器、文化・思想—

◆宋は960年に成立した中国の王朝だ。思想・文化のみならず科学をも発展させた時代であった。平安時代末期の平氏政権は宋との貿易「日宋貿易」を行っていた。この時代の芸術品としてはとりわけ「青磁」が有名である。また「山水画」が花開いたのもこの時代だ。日本に大きな影響を与えた「朱子学」もこの時代に生まれている。そして、ここ福建省の山間部にある「建陽(けんよう)」(現在の南平市建陽)では、前号のブログでも紹介した「天目茶碗」がつくられていたが、「曜変天目」も この時代にここでつくられたものだ。

 この時代、中国の禅宗の寺院では「抹茶」が作られ飲まれていた。それが日本に伝わり、日本では現在でも続いている。しかし、中国では、宋王朝の滅亡後、抹茶の伝統は完全に途絶えてしまった。300年間あまり栄えた宋は、1279年に北方騎馬民族の「蒙古(元)」によって滅亡させられた。中国全土を制圧した蒙古は「元王朝」として1388年まで続いた。(その後は「明王朝」となる。)  1274年と1282年、元は「日本に襲来した」(元寇)。

 中国の陶工、日本の陶工ともに「曜変天目」の再現に何百年間、情熱をそそいできたようだが、最近になり中国福建省の建盞窯(けんさんくつ)で、かなり曜変天目に近い茶碗が完成もさせられているようだ。ある茶碗の値段は、「112万元(約1900万円)」となっていた。すごい値段だが、一度 この窯に行って見てみたいと思っている。

 9月14日(金)の夕方、福建師範大学外国語学部日本語学科を2年前に卒業した趙貴昌君がアパートにやってきた。彼は現在、故郷の福建省南平市建陽の「陶器販売会社」に勤めている。扱う商品の主力は、建盞窯でつくられる天目茶碗だ。最近の「曜変天目」も扱っているらしい。キャリーバックにたくさんの「天目茶碗」を入れてやってきた。

 彼が私のアパートに泊まりにきたのは「日本の曜変天目」について教えてほしいこと、また、日本の市場では天目茶碗はどのような市場なのだろうかということを教えてほしいということもあった。この件に関して、いろいろと話をした。(私も、専門でもないので、一般的なことしか知らないのだが‥‥。)

  その夜、アパートからほど近い日本式居酒屋で、旧交を温めた。(2015年10月の国慶節時期に、彼の故郷の実家に泊めてもらい、翌日に、世界遺産の「武夷山」に一緒にいったことがある。ここで150元(2500円)くらいの天目茶碗を買った。日本酒のぐい飲みとして愛用している。)

  建盞窯は、かなりの「登り窯」もあるようだ。「ぜひ、窯元に来てほしい。案内しますから」と言ってくれていたので、近いうちに行くことになるかもしれない。翌日の14日の午前10時頃、趙君に「日本の抹茶のつくり方」をてほどきしていると、福建師範大学4回生の千亜超君がアパートにやってきた。今年の6月に卒業した福建師範大学外国語学部の学生たちの卒業アルバムを持ってきてくれた。

  趙君は、「日本に行って、天目茶碗や曜変天目などの陶器の市場調査のために」、いずれ近いうちに行きたいと思っているようだった。

◆福建師範大学や閩江大学で、いままで通算3回の「日本概況」の授業を担当し、今年の9月からもこの授業を担当している。(4回目)  「日本の伝統芸術」として「茶道」に関する内容も扱っている。その際、全員に「抹茶つくり」の体験をさせている。「茶道茶碗」としては、この建盞窯の「天目茶碗」はとてもよいので、福州の露店市や骨董店などで、「安くて良い茶碗」をいくつか買って、この授業などにも使っている。抹茶や簡単な茶道具(茶筅など)は日本で買って持ってきている。

 

 

 

 


日本の国宝・曜変天目茶碗の故郷:福建省建陽❶—福建師範大学卒の趙貴昌君

2018-09-29 06:15:36 | 滞在記

 日本の国宝となっている「曜変天目茶碗」。瑠璃色の曜変と呼ばれる斑紋は、まるで宇宙に浮かぶ星々や星雲や天の川のように美しい輝きを放ち、品のある華やかさの中にも落ち着きがある。黒い器の内側などに大小の星のような斑紋が輝く特異な美しさがある「曜変天目」。

 「曜変」とは、元来「窯変」の言葉が当てられていたが、黒釉の下地に青く光り輝く斑紋が散在することから、「星」や「輝く」という意味の「曜」の字が用いられるようになったと伝わっている。

 天目茶碗とは、天目釉(てんもくゆう)と呼ばれる鉄釉をかけてつくられた茶碗。その中の最高傑作が中国福建省の建窯(けんよう)で宋の時代に造られた曜変天目とされる。この曜変天目は現在、世界にたった5つしか存在しない。これらのうち4つは、日本にあり、そのうちの3つが「国宝」となっている。それらは、「藤田美術館」、「大徳寺龍光院」、「静嘉堂文庫美術館」、 そのほとんどがめったに公開されることはなく、一般の人々が見ることはなかなか難しいようだ。(※藤田美術館では3〜4年に一度、拝観ができるチャンスがあると聞く。国宝ではなく、重要文化財となっているMIHOミュージアムのものは見る機会ができやすいかもしれない。)

  室町時代に中国から伝わったこれらの曜変天目は、織田信長や徳川家康をはじめとした多くの戦国武将たちらもに愛された。特に1500年代後半の日本、一大「茶道」ブームが沸き起こり、「茶道具」全般で有名な品(名物)が珍重された。その中の最高峰がこの「曜変天目」であった。戦国武将たちの垂涎(すいぜん)ともなり、「何か国」の領有にも値するとも言われた。

◆藤田美術館所蔵品:「徳川家康が水戸徳川家に与え、その伝来品を大正期に藤田財閥の藤田家が購入した。」 静嘉堂文庫美術館所蔵品:「徳川家光が乳母の春日局に与え、その嫁ぎ先の稲葉家に伝わったものを三菱財閥の岩崎家が購入した。」 MIHO所蔵品:「加賀藩主前田家に伝えられたもの。歴史小説家の大仏次郎(おさなぎじろう)が所蔵していたものでもある。」

 この曜変天目茶碗だが、記録によればもう1碗あったと考えられている。信長がこれを愛用し、持ち歩いてため、本能寺の変で他の多くの名物とともに焼失してしまったようだ。

 「曜変天目」の制作方法は全くの謎であり、偶然作り出されたものではないかとも噂されるほど再現することは不可能と云われている世界の至宝だ。中国・南宋のある時期、曜変天目茶碗が焼かれ、それから二度と焼かれることはなく、なぜ日本にだけ現存し、焼かれた中国には残っていないのか、大きな謎ともなっている。

 中国で2012年、宋の都があった浙江省の杭州で「曜変天目」が地中から発見された。世界で5つ目の曜変天目だった。かなり大きく欠けてはいるものの、見事な曜変天目であった。日本や中国のみならず、世界中の「陶芸家・陶芸愛好家」たちの垂涎の陶器「曜変天目茶碗」。再現を目指す陶芸家たちも、日本でも中国でも少なくない。

 


今日・明日・明後日、1年間の広島大学留学に3回生の学生たち11人が旅立つ

2018-09-27 21:57:54 | 滞在記

 9月11日(火)の午後の5・6時間目の授業が終了した5分後の3時45分に、この1年間(2017年9月末から2018年8月末まで) 広島大学iに留学していた2人の学生(新4回生)と、新たにこの9月末から1年間 広島大学に留学する学生たち11人に 教室に集まってもらった。9月下旬に日本に行く予定なので、来日まであと2週間ほどに迫った日だった。

 広島大学東広島キャンパスは、丘陵地を拓いてつくられた広大な新しいキャンパスだが、秋になると紅葉が美しくなるようだ。

 まず私の方から20分間程、作成したパワーポイントを使って、「広島の街のこと、交通のこと、生活のこと」など、今年の8月に広島に行った時のことなども紹介しながら説明した。次に、前年度に1年間の留学生活を送った先輩たちにそれぞれ留学体験について話してもらった。その後、いろいろな質疑応答時間。全体で45分間の集まりとなった。

 この日は、広島大学への11人の他に、神戸松蔭女学院大学に1年間留学する学生1人も参加していた。合計12人だが、この中の4〜5人は、とても優秀な学生。この優秀な学生が、1年間いなくなるのは、いままで授業を熱心に受講していた中心となり信頼できるたち学生だっただけに、閩江大学日本語学科3回生の授業を行う場合、教員側としてはちょっと辛いところもある。

 大型台風24号が現在、日本列島に進路を取り始め、9月30日には九州南部に上陸し、四国・本州を縦断しそう。留学生たちは、ほぼ全員が、それぞれの中国国内の空港から、今日・明日・明後日(27日・28日・29日)中に日本の各空港(関空・神戸・福岡・中部など)に向かう。ちょうど、台風の進路が幸いし、9月中旬に立命館大学大学院入学のために日本に行った沈さんの時のような欠航の苦労はないだろうと思われる。

 昨日の26日、プロ野球セリーグ、広島カープが3年連続のリーグ優勝を果たした。本拠地での試合での優勝決定に広島の街は歓喜に包まれたようだ。広島カープは「市民球団」として、原爆投下の悲劇からまもない戦後につくられた。他の球団にはない「市民がつくり、市民に愛され続けた球団」がカープだ。1984年以来、「日本一」(クライマックスシリーズ)になったことがないので、「日本一」に向けて、この10月は広島の街の人々の心は しばらくは熱く燃えるだろう。

 この街に留学生たちは行くこととなる。中国では「野球のやの字もない」国柄。私のいままでの5年間の中国生活で、草野球はおろが、キャッチボールをしているような光景さえ、一度も見たことがない。(※アメリカ・日本・台湾・韓国以外の世界の国々の現実はこんなもんだろうか。サッカーのように世界に愛されるスポーツではないようだ。)

 赤い野球ユニフォーム姿の人々が広島市民球場のそばにある「JR広島駅」を埋め尽くす光景に、留学生たちはどんな印象を受けるだろうか。中国人はとても赤が好きなのだが。

 

 

 

 

 


中国四大火釜(ひがま)と言われる都市(重慶・武漢・南京・福州)の中でも、最も暑い都市は?

2018-09-27 20:52:03 | 滞在記

  9月に入ってからの福州、たまに30度を下回る日もあったが、ほぼ連日蒸し暑い日々が続いた。気温はといえば34度から38度くらい。暑さは我慢できるが、湿気がはんぱないのが辛い。外を歩いて10分ほどすると汗が流れ始める。汗が一旦流れ始めるとクーラーのある場所に行っても、10分間程はなかなか汗が止まらない。こんな感じで、毎日すごしていた。授業がない日は、できるだけアパートにいて過ごす。大学構内のバナナの木、9月上旬には花が咲いていたが、中旬になるとバナナの小さな実ができていた。夏の花・百日紅(サルスベリ)の花がまだまだ咲く福州。

 6年前の2012年頃、中国では「三大火釜(ひがま)」と言われた有名な暑い大都市があった。重慶・武漢・南京、いずれも内陸の都市である。しかし、2013年からは福州が入って「四大火釜」と言われるようになった。この中で最も暑い都市は福州だ。(過去10年間の気温統計で、35度以上の日数が何日間あったかという統計)  5月上旬〜10月下旬までの6カ月間は真夏なのである。(※8月が最も暑い)   特に6月~9月までの大学構内は「日傘」が花盛りとなる。

◆福州は、ほぼ 周りを 山々に囲まれた都市。街の中を「閩江(びんこう)」の大河が流れるが、この河が東シナ海に流れる河口まで40kmほどある。京都の地形とよく似ている。

 私の住むアパート団地はそんなに古くはない、おそらく2000年代に建造されたアパーだろう。15年ほど前にできた3万人規模の団地なのだが、アパートの「クーラー」が旧式なものだから(※15年前当時の中国のクーラーはとても質がよくなく、安かろう悪かろうの時代の製品なのだろうか。)、この特に暑い(7月・8月・9月)3カ月間は、2日間ほど連続稼働で「16度設定・風力高」にしていても、ほとんど空気が冷たくならない。38度まで気温が高い日などは、16度設定のクーラーつけっぱなしにして6時間間後の深夜の気温は31度くらいで、汗がにじみ出る。

 「旧式のクーラーがいつ壊れて停まるのか」、いつも心配しながら生活している。停まったら大変である。壊れたら困るから、24時間以上は連続稼働させずに、OFFにして停める。停めたら停めたで、室温は蒸し風呂となる。そんな9月も下旬となり、先週の20日ころから、日が暮れ始めると気温が下がり始めた。夜が少し過ごしやすくなってきたのは嬉しい。

 

 

 


立命館大学大学院に留学する学生❷3回もの飛行機欠航に―東シナ海の台風に翻弄される

2018-09-26 12:51:03 | 滞在記

 9月9日(日)午前11時ころ「仙游駅」発の新幹線で福州に戻るため、午前9時半頃に沈さんとお父さんが車でホテルに来てくれた。車の中で、❶13日来日予定の飛行機便が関空閉鎖のため欠航となり、日本に行くための次の飛行機便について聞くと、❷「9月16日(日)、中国の廈門(アモイ)空港(福建省)から深圳空港(広東省)に行って一泊し、乗り換えて、17日(月)の午後5時ころに関西国際空港に着く飛行機便が取れました」とのことだった。

 駅に着き、二人に別れを告げた。福州南駅に近づくと「閩江(びんこう)」の大河の河口付近の景色が見えてきた。4km以上はあるような川幅の閩江。福州南駅に40分間ほどで到着。

 中国の新幹線は日本の新幹線と同じ16輌編成がほとんどだが、日本と違うのは8輌編成の新幹線車両をつないで16輌編成にしているものがほとんどだ。駅の改札を出ると、昨日以上に いくつかの大学の「新入生受け入れブーツ(案内所)」に大勢の新入生と家族が並んでいた。

 故郷から布団を運んできている新入生たちもけっこういた。新入生のお父さんの姿も多い。この日の午後2時ころにアパートに戻り、翌週の授業準備に没頭した。

 次の日の10日(月)夕方に、沈さんよりEメール連絡が入っていた。「台風22号(中国名・山竹)が16日・17日に広東省の深圳空港や香港を直撃するという台風進路予想のために、17日の飛行機は早々と欠航が決まり、キャンセルされました」との連絡だった。(※この22号は台風進路予測どおり、超大型台風として、16日の夜から17日の午後にかけて香港や深圳を直撃し猛威をふるった。)   10日には台湾とフィリピンとの海峡あたりの南シナ海で、突然に台風が発生し(台風23号)、12日には香港や広東省に上陸した。

 17日便欠航の連絡を受けて、次の飛行機便を探し始めた沈さんから、11日(火)にEメール連絡が入った。❸「15日(土)、福建省の空港を8時半ころに出発し台湾の空港まで行って、そこで乗り換えて、関西空港に午後5時ころに到着できる飛行機便を予約できました」とのことだった。「こんどこそ三回目の正直ですね。よかったですね。」と返信メールを送信した。

 12日(水)の夕方、またまた沈さんからEメールで、「15日の台湾経由の飛行機に乗ることができなくなりました」との連絡。「中国人の場合、中国本土から台湾を経由して外国に行く場合、特別な申請をして、許可書のようなものが必要だということが分かったのだが、15日までにその許可書の発行を受け取ることが間に合わない」というような理由のようだった。

 主に台風の影響のため、なかなか日本に渡航できず、台風などに翻弄されている「日本渡航」となっていた。そして、数時間後にEメールで、❹「14日(金)に、福建省空港―✈―浙江省杭州国際空港(乗換)―✈―関西国際空港の便が取れました」との連絡が入った。(「4回目の正直なるか?」だった。)

  さっそく、日本にいる妻に連絡を取り、沈さんの来日予定を知らせた。(※沈さんが来日した際、その日は、私の自宅から近い高速空港バスのバス停まで私の妻が車で迎えに行き、自宅に泊めて、翌日は仕事を休んで車で立命館大学近くの不動産店に行き、それからアパートに行き、生活に必要な布団やベッドなどを買う予定となっていた。)  来日予定が変更になるたびに、妻に連絡をとっていた。

  9月11日(火)、沈さんの従兄弟から「白酒(バイジュウ)」が2本送られてきた。閩江大学日本語学科主任の曾嵐先生の自宅(私のアパートから近い)に送ってもらった(経由)ものを受け取った。重いので曾嵐先生の夫である林璋先生(福建師範大学日本語学科主任)も一緒に運んでくれた。この白酒は高粱を原料に醸造されていて、アルコール度数はなんと58度(普通の白酒は52〜3度)もあった。

◆沈さんは❹の便で14日(金)の午後7時頃に無事に関西国際空港に到着できた。京都行空港バスに乗り、私の自宅に最も近いバス停に妻が迎えに行くことができた。(※この日から、関西国際空港は外国からの飛行機便を一部受け入れ始めていた。)

  9月16日(日)、また新しく台風24号の発生が伝えられた。これもかなりの大型台風になる可能性が大きいようだった。日々、その後、その状況と進路が伝えられていた。台湾方面や広東省・香港方面に向かう可能性が大きいと伝えられていた。そして台湾の南東海域にまで台風が進んだ。この時点では、台湾と沖縄本島の中間の通り、上海あたりに上陸する可能性が大きいと予報されていた。915hpaという超大型台風に成長していた。(※今年の台風で、915hpa級の大型台風はこれで4個目だった。そのうちの一つは関空を直撃した台風21号。)

 9月25日(火)、台風24号の進路は、高気圧や偏西風の影響を受け、北東に進路を取り始め、沖縄本島を直撃し、10月1日の早朝に九州南部に上陸、瀬戸内海を通って日本列島を縦断するような予報になっていた。10月1日から中国は「国慶節」が始まり1週間の国民の休日となる。中国のコールデンウイークだ。この台風24号がどのような進路をとるのか、中国では関心が徐々に高まってきていたが、台風は日本に進路をとることがほぼ決ったようだ。

 10月1日や2日に飛行機便などで日本観光に訪れる中国人はとても多いが、欠航が心配される。(※私は9月上旬頃に、「10月1日から7日まで日本に一時帰国をしよう」と考えていた。飛行機の往復料金を調べたら、ものすごく高い料金だった。通常は3000元~3500元[5万円〜6万円]くらいだが、約1万元[16.5万円]にも跳ね上がっていた。通常の3倍もするので、2〜3日迷って、結局、一時帰国をあきらめた。もし、高くても航空券を買っていたら、10月1日のその飛行機便は欠航の可能性は、現時点ではかなり高い。諦めてよかったとも思った。日本に帰れないのは残念だが、諦めていなかったら今頃は「やきもき」していることだっただろうな。

 東シナ海はほんとうに台風がたくさん通過する「台風銀座」だと、この中国に来てからつくづく思い知ることとなった。私もこの5年間で、何度も台風の進路にやきもきし、何度も欠航の憂き目にあってきた。台風が台湾や中国本土などの方面に上陸しても「福州空港」関係の便は欠航する可能性があるし、日本列島に向かっても関西空港関係の便は欠航する可能性がある。どっちに進路をとっても心配な状況となる「福州―関空」の航空便。3カ月間で24個の台風だから、1カ月間に8個、1週間に平均2個の台風の発生という数字となる。そのうち半分としても、つまり毎週毎週、この3カ月間は台風に悩まされることとなっている。

  近年、大型台風の発生が多くなった。特に今年は多い。6月下旬から10月下旬までの4カ月間は台風シーズンとなる。「さあ、日本に一時帰国できるぞ!」と喜んでも、すぐに突然の台風発生の情報にいつも心配させられる。この7月11日に日本に帰国する便も欠航となり、苦労をさせられた。

◆はるか奈良時代や平安時代の使や遣唐使、この東シナ海の渡航は、あまり台風に関する情報がない時代、まさに命がけだったのだろうと思われる。また、鎌倉時代の1274年と1281年の「蒙古襲来・元寇」での、台風襲来による「元軍の壊滅・撤退」の歴史。この台風によって日本の国が奇しくも守られた歴史だが‥‥。