彦四郎の中国生活

中国滞在記

2016年度福建省大学日本語スピーチコンテスト❶―閩江大学を会場に開催―

2016-10-31 17:43:46 | 滞在記

 10月22日(土)、「2016年度福建省大学日本語スピーチコンテスト」が閩江大学を会場に行われた。福建省には92の大学があるが、外国語学部の日本語学科がある大学は18ある。中国では大学の日本語学科が多く存在する省の一つである。(他には、遼寧省や上海市など)    スピーチコンテストの審査員(7人)を依頼され、午前7時45分より「審査員会議」が行われるので、午前6時すぎにアパートから大学に向かった。

 8時から開会式が始まり、来賓などの紹介があった。閩江大学の学生たちが大会ボランティアとしてたくさん参加していた。「中国人民対外友好協会(北京市)」の国際交流部部長の大会挨拶の後、審査員7人が紹介された。[関西大学教員(日本人)・慶応大学教員/福州大学教員(日本人)・厦門大学教員(日本人)・華僑大学教員(中国人)・閩江大学教員/私(日本人)・日中翻訳会社社長(中国人)・福建師範大学教員(中国人)]

  9時から「課題スピーチ」が始まった。「課題スピーチ」のテーマは、今年度は①「未来を担う覚悟」②「世界に紹介したい中国文化」の2つからどちらかを選んでスピーチをすることになっていた。16の大学から16人の学生がスピーチをした。

 私の教え子が2人、福建師範大学(劉さん)と閩江大学(嫣さん)の代表としてスピーチ参加をしていた。この1カ月間、原稿の添削依頼などを頼まれた学生たちだった。スピーチ練習も他の教員たちから 何度も特訓を受けて今日を迎えた。

 ―福建師範大学の劉さんのスピーチ原稿―「世界に紹介したい中国文化」

 皆さん、こんにちは!    ようこそ「世界に紹介したい中国文化」をめぐるテーマの舞台へ。

 中国は他民族、多文化の国で、洗練された様々な文化が 我々中華民族独特の魅力です。その中の一輪の花―服装の姿も千姿万態、つまり 様々な姿や形があるといえるでしょう。

 三年生の時、幸いなことに、私は日本人先生のアシスタントになりました。それで、よく先生のアパートに行きました。ある日、ルームメートの張さんと一緒に行きました。彼女は漢民族の服、すなわち漢服が大好きで、その日も綺麗な漢服を着ていました。一歩入ると、先生は驚きのあまり、「わー、綺麗ですね!」と叫びました。食事中も「張さんの服がゆったりとしていて、爽やかな感じだなぁ」と言いながら、カメラを出して写真を何枚も撮りました。

 それから先生は、「この服は和服に似ていますね。どこの服ですか。」と聞いたら、「漢民族の服です。周朝から明朝まで長い歴史を持っている服です。」と張さんは答えました。私は「似ていますけど、漢服の袖は わきの下から袖口まですごく広くなっていて、柔らかい感じがしますね。また、袖の幅も和服より広く 「八」の字のようになります。薄い帯は前で結ぶので、風が吹いている時、なんだか服は流れているような感じがします。」と言い添えました。興味をひかれたので、先生はインターネットで漢服の種類とか、スタイルとか いろいろと調べながら、私たちと それについての文化を詳しく話し合いました。おかげで、中国人である私も もう一度 漢服の魅力を味わうことができました。

 間もなく、先生は閩南地域の恵安へ行ってきて、にこにこ笑いながら、綺麗な服を一着見せてくださいました。一見して、恵安の女性の服だとわかりました。「地元の人の着る服には特徴があって、青い上着が短くて、黒いズボンが太いんです。なんと奇妙な服だと感じていますが、なぜこんなデザインになったか知りません。」と言ったので、私はその服の由来と勤勉な恵安の女性のことを話しました。実は恵安県では女性は主に外で海の 「貝」をとる仕事をするのです。このようなデザインは便利で ちょうどふさわしいのです。 「素晴らしいですね。その服の文化が分かったあと、その大切さを心から感じられますね。日本に帰って、友達に紹介したいです。」と先生は感心しました。先生の気に入った様子を見て、中国人である私も誇りに思いました。

 大学へ帰る途中で、いろいろ考えました。世界各国の伝統的な服装といえば、日本は和服(着物)、韓国は韓服(チョゴリ)、インドはサリーなどです。中国なら、ほとんどチャイナドレスを思い浮かべるでしょう。でも、中国は他民族で、服装も民族や地域によって違います。漢服でも恵安の女性の服装でも、綺麗で独特な服装なので、それに含まれる文化を 日本人にだけでなく、世界の人々にも紹介したいと思っています。

 中国は歴史が長く、文化が多彩です。輝かしい服装文化もその重要な一環です。諸民族が長い間 心の中に秘めている祖国への感情、これこそ 親に対する愛情のように切り離すことができないものだと思えてきます。このような深い愛情を語っているのは 各民族の それぞれの服装です。「56の民俗、56の花」という通り、56の花が世界の大きな舞台で咲いたら、中国文化の豊かさも世界で広がっていくと信じております。

 ご清聴ありがとうございました!

◆昨年度、劉さんは 福建師範大学で 私の学生アシスタントをしてくれました。中国での生活などのサポートをしてくれて助かりました。劉さんの故郷は、福建省泉州市の山間の町のようです。この泉州市の海辺に「恵安地区」があり、劉さんもこの地区のことを 知っていたようで、いろいろ教えてもらいました。

※次号に続く

 

 

 

 

 

 

 


日本滞在3日間—10月18日中国・福州に戻る帰路、上海の空港で 「あるもの」を---

2016-10-23 08:07:40 | 滞在記

 結婚式翌日の10月17日(月)、早朝7時前に妻を勤務先の学校に車で送るために自宅を出る。1時間ほどで自宅に戻り、9時頃に母と一緒に京都駅に向かうため、再び自宅を出る。福井県の実家に戻る母の付き添い。10時40分発のJR「特急サンダーバード」に母が乗車。
 立命館大学大学院に留学中の林さん・李君の生活の様子が気にかかっていたので、JR山陰線にて立命館大学方面に向かう。まず、林さん会った。そして、9月下旬に初来日した李君のアパートに行った。大学の東門近くにあるアパートの室内からは、衣笠山の緑が見える。
 留学ビザ取得がかなり遅れて、ようやく来日できたのだが、「大学の授業の単位登録期間は、もうすでに終了していたのですが、大学側の特別配慮で 授業登録をすることができました」とのことだった。アパートで生活するための、生活用品・設備も 閩江大学に7月まで赴任していた井上先生や先輩の林さん、私の妻などの支援があって ほぼそろってきていた。
 久しぶりに立命館大学の構内に入る。東門近くの「立て看板」には、アジアをめぐる今後の状況を展望するなどの講演やシンポジュウムなど 興味深いいくつかのイベントが紹介されていた。

 大学の食堂で昼食をとる。修学旅行中の高校生たちが学食で食べていた。バスに乗り、市内に向かう。中国に持って帰る文庫本を何冊か買うためにBALビルにある大型書店に行く。ビルの1階に「EYE VAN」(アイバン)という眼鏡店があった。李君が「中国語と英語と日本語ができる学生アルバイトを この店が求人募集しているので 面接を受けるかもしれません」と言っていた店だ。
 三条大橋のたもとの鴨川に行き、しばらく過ごす。夕方、自宅に戻った。

 10月18日(火)の早朝6時前に自宅を出て、関西国際空港行のバス乗り場に向かう。関西国際空港9:40➡上海浦東国際空港の飛行機に乗る。2時間ほどで到着。この上海浦東国際空港は、かなり大きな空港だ。中国語が満足にできないと、さまざまな移動に非常に困ってしまう巨大空港。「全家Family Mart」という名の、日本のコンビニが たくさんあった。
 中国の三大空港といえば、①北京首都国際空港②上海浦東国際空港③香港国際空港のようだが、特に北京首都国際空港は超巨大だ。第1ターミナル~第3ターミナルまである。国際線の中心となる第3ターミナルの建物の長さは約3km。歩くと40分ほどかかる。サッカースタジアムが70個ほど入る広さがあるようだ。この空港を5回あまり利用したことがあるが、とてつもなく大きく広く 各航空会社のカウンターを探すのも 大変で不安になる空港であった。

 —「日本の1000円札と日本のたばこ」と「北朝鮮の紙幣と北朝鮮のタバコ」を交換しましょう」と、上海の空港でもちかけられる---

 上海の空港に到着し、タバコが吸いたくて 一旦 空港ターミナルの外に出た。ライターの機内持ち込みは禁止だったので、ライターを借りるため タバコを吸っていた男性にお願いをした。日本の「PEACEピース」を吸い始めると、中国語で「おお!日本のタバコ!日本人ですか。」とライターを貸してくれた男性。ピースを1本あげると、彼が吸っていたタバコをお返しに1本くれた。「これは、北朝鮮のタバコです」と言う。吸ってみたら、まあまあのタバコの味。「北朝鮮のタバコを1箱あげますから、私に日本のタバコを1箱くれますか」と言ってきたので、交換した。そうしたら、「これは北朝鮮のお金です。これを日本の1000円札と交換しませんか」と言ってきたので交換した。すると、隣にいた連れらしい男性も、「私も交換してください」とタバコと紙幣を出してきたので交換した。
 北朝鮮の紙幣(※北朝鮮ウォン)「5000ウオン・1000ウオン・200ウオン・100ウオン」の4枚と日本紙幣1000円札2枚、北朝鮮のタバコ2箱と日本のタバコ2箱との交換となってしまったが、北朝鮮紙幣と日本紙幣との交換ルートがまったくわかっていなかった。
 「北朝鮮の紙幣やたばこを持っていた あの二人の男性は いったい何者だったんだろうか」と不思議さが残った出会いだった。


 5時間ほどを上海の空港で次の航空便の搭乗のために待つ。長い待ち時間。16:20分発の福州行の航空便で福州長楽国際空港に到着した。
 空港に着くと、10月上旬に行った「武夷山」(世界遺産)のジオラマがきれいに作られたものが展示されていた。
 アパートに戻り、10月14日に なんとか日本に帰国できた際に 上海の空港で新しく購入出来た航空券を見た。「命の・絆の・奇跡の・苦労の航空券」のように思えた。
 翌朝、大事にしている「盆栽」を見る。数日間の日本帰国のため、水をやることができなかったので、水をやる。この盆栽は 半年あまり前に 露店で買ったもの。毎日、丁寧に育てていたら、ぐんぐん育ち まるで アメリカ西部の「ヨセミテ国立公園(世界自然遺産)」の森林のようになっていた。
 7月10日~8月28日までの間、日本に帰国していたので、福建師範大学の倪先生に依頼して預かってもらっていた。倪先生夫妻と息子が2週間あまりの日本旅行をしている間、おじいちゃんが水やりを忘れてしまったために、ほとんど枯れてしまっていたものを8月下旬に受け取りに行った。再生するかもしれないと思い、毎日 世話をしたら 新しい芽がでてきて 1カ月半ほどで かなり緑をつけてきている。なにか、まるで 8月下旬以来 新しく住むことになった今の住まいの室内環境改善と 盆栽の再生が 重なって思えてくる。
 中国に戻った翌日の19日の早朝6時半から、授業のため大学に向かう。授業を終えて、夕方ころにアパートの近くまで帰ると、福建省泉州の「恵安女」の伝統的な衣装をしたおばあちゃんの姿があった。泉州から孫の顔を見に来たのだろうか。

 —北挑戦のお金とたばこ—
 面積は、私が住む福建省とほぼ同じ。人口約2500万人の北朝鮮のお金とタバコについてインターネットで調べてみた。紙幣は、「5000・1000・500・200・100・50・10・5」の8種類の北朝鮮ウォンの紙幣。硬貨もあるようだ。一番高い紙幣は、「金日成」の肖像画のある5000ウオン。現在、日本円と北朝鮮ウォンとの相場は、「1円=10ウォンぐらい」らしい。北朝鮮は超インフレと世界各国との政治的不安定さのため、世界最悪通貨ベスト5の一つになっていた。(他には、イラク・ソマリア・ベネズエラ・ジンバブエ)
 上海の空港で交換した北朝鮮ウオンの合計は6300ウォン。日本円との相場は、630円となる。私は2000円を渡したので、損をしたことになっていたが、まあ 日本人としてはなかなか実際目にする機会がないものなので まあいいか。

 北朝鮮のタバコは、「北斗七星・彗星・ペクトゥハルラ・アリラン」の4種類があるようだ。交換した2つのタバコは「アリラン」だろうかと思う。(※朝鮮語がわからない) 北朝鮮は喫煙大国のようだが、今年の春には、「禁煙運動」が大規模に行われ始めたようだ。北朝鮮の首領だった 故 金日成も金正日も 大の喫煙愛好家。現在の 金正恩も喫煙愛好家なので 禁煙大運動が なぜ始められたかわからない。しかし、数カ月間で 金正恩は 禁煙に失敗したようで 禁煙運動も 下火になっているようだとの報道もあった。





 

 






息子の結婚式へ❷—2016年10月16日・秋空の良き日に—

2016-10-22 06:22:36 | 滞在記
 帰国した翌日の10月15日(土)、午前中にブログを作ったり 理容店に散髪に行ったり、病院に行き検診を受ける。午後は、結婚式の参加や帰国に向けての準備をする。久しぶりに日本のテレビ番組をゆっくりと見る。この日の午前中、大学の同僚に国際電話で連絡を取り合い、「10/18日に中国に戻るための航空券」の購入ができて安心した。また、上海経由で長時間かけて福州に戻ることになるが、航空券が予約購入できて安心した。
 明日の結婚式に故郷の福井県から来てくれる親族たちに連絡をとる。明日の結婚式でのスピーチ内容(※「両家を代表して」)などを考え始めた。

 10月16日(日)、息子の結婚式の当日、「秋晴れ」の良い天気となった。結婚式や披露宴は、京都市役所に隣接している結婚式場で午後にとりおこなわれる。午前10時半ころ自宅を出て式場に向かった。
 午後12時前に会場に着き、結婚式に来てくれた人たちに挨拶をして廻る。12時45分より、「両家(寺坂家・伊佐家)の親族紹介」を行う。1時15分ころより「人前結婚式」が始まる。新婦の父に付き添われて新婦が入場、そして二人の誓いの言葉。成長した息子の晴れ姿に、少し胸が熱くなった。

 2時15分より「結婚披露宴」開始。参加者は84人。結婚する2人の「友人関係」の参加がとても多かった。「結婚式に はるばる遠方から来てくれる友人が、息子にもこれだけ多くいるのか」と少し驚いた。
 会場は、「洋と和」の調和がとれた建物。木が多く使われていた。新郎の職場「日本通運」や新婦の職場「京都大丸」の上司の挨拶、新郎新婦の友人たちや職場同僚のスピーチ・出し物が始まると、会場は さらになごやかな雰囲気に包まれた。

 今は結婚式場の職員で、私のかっての教え子の清水君が、「先生!お久しぶりです。本日は おめでとうございます」と挨拶に来てくれた。彼は、かって私の故郷「福井県」の家に、同じクラスの10人あまりと 京都から泊まりに来たことがあった。西城陽高校(公立)3年生の時、エース(ピッチャー)として夏の甲子園を目指し、京都府大会の決勝戦で惜しくも敗れたという経歴があり、文武両道の学生だった。
 「私の家族」の写真をとってもらった。娘の百合子は、10月中旬予定の出産がさしせまっていたが 式に参加できることになった。婿の山田君が、結婚式途中に陣痛が始まって 産婦人科医院に行かなければいけない時に備えて、「入院用品」を持参してきていた。私も中国から戻ることができ 結婚式に参加できた。もし、私と娘が参加できていなかったら この息子の晴れの日に4人がそろう写真は撮れなかった。

 9月中旬に妻からの国際電話で、「新婦のお父さんが、『娘よ』(※芦屋雁介)を あなたにも一緒に歌ってほしいと依頼がありました。」と連絡があった。結婚式のこの日、伊佐さんと一緒に バックからこの歌を歌った。私もこの春に、娘を嫁がせたので 父親としての伊佐さんの 今の気持ちがよくわかっていた。
 新郎・新婦の「生い立ちと成長、ここまでの二人、そして今」を記録した写真スライドが会場に流された。私たち夫婦と息子や伊佐さん夫婦と娘、それぞれの若い頃の写真が映し出された。懐かしい。こんな時代もあったんだなあと感慨深かった。たくさんの楽しかったこと、そして多くの喜び、そして苦しかった時期のことなとが 思い出された。
 4時15分頃、結婚式披露宴での「両家を代表して」の宴を締めくくる挨拶。作っていた挨拶原稿 暗記するために、披露宴中にも時折 原稿を見て学習していたが、披露宴の雰囲気も相まって 本番では 完全に 用意したあいさつ文とは まったく違う内容になってしまった。不覚にも感情きわまり、涙や嗚咽が出てきて 言葉につまってしまう 挨拶となってしまった。式の最後に、二人を代表して息子が感謝の言葉を述べ、式がお開きとなる。
 式場で着替えたりして外に出た。時刻は5時を少し過ぎていた。外は夕闇に包まれ始めていた。福井県から来た母(新郎・大地の祖母)とともに自宅に戻った。いい結婚式だった。妻の茂子に感謝したい。そして、伊佐さん夫妻に感謝したい。「いい娘さんを息子の花嫁として認めてもらい、ありがたいです。感謝したいです。」
 2016年10月16日、「秋の良き日」の一日が終わった。






息子の結婚式へ❶—上海の空港で、一時「目の前が真っ暗」になり立ち尽くす—帰 れ た ぞ!!!!!---

2016-10-21 07:52:41 | 滞在記

 10月14日(金)の早朝、6時前にアパートを出て タクシーを見つけて 福州長楽空港までの空港バス乗り場に向かう。空港バスに乗り、1時間ほどで空港に到着。9時40分発の上海浦東国際空港行(吉祥航空便)に搭乗。30分間ほど遅れた10時すぎに飛行機が出発した。そして、11時すぎに上海に到着。ここまでは順調な行程だった。
 次の「上海浦東空港➡関西空港」行(中国東方航空便)の出発時刻の午後3時25分まで4時間あまり。巨大な「上海東浦国際空港」で、タバコを吸うためターミナル内から出たり入ったりを繰り返し時間を過ごしていた。出発2時間前の1時すぎに、「中国東方航空」のチケット受け取り・預入荷物カウンターに行く。

 ―突然告げられた「あなたの航空券は発券できません!」—

 「あなたの航空券は発券できません!!」と告げられた。「なぜ発券できないのか?? なぜ発券を拒否されるのか--?」事態が飲み込めなかった。空港職員が早口で、「とにかく発券できない!」「あなたは、福州から上海まで どの飛行機で来たのか? その飛行機の航空券を見せなさい」というような意味らしい言葉が かろうじて理解できた。くいさがつて、「なぜ 発券できないのか!!!!」を繰りかえし訴える。すると、一番端にあるカウンターに行けと言う。
 端のカウンターに行ったら発券してくれるかもしれないと思いなおして行ってみた。そして発券と荷物の預け入れを再び頼む。一抹の期待をして発券を待つが、ここでも「あなたの航空券は発券不可能だ」と告げられた。「あなたは、福州➡上海 の飛行機を別の飛行機に乗ってここに来たので、キャンセルをしたことになった。だから、次の上海➡関西の航空券もキャンセルしたことになる。発券はできない」という意味のことを言っていると だいたいが理解できた。
 なぜこうなってしまっているのか、事態がわからないので、航空券をインターネツト購入してくれた 大学の同僚に電話をした。何度電話しても つながらなかった。

 —事態がようやくわかってきて、目の前が真っ暗になって、意識がはっきりしなくなった—

 日本語に「目の前が真っ暗になる」とか「呆然と立ちつくす」という言葉があるが、この事態に陥った私の状態が まさにこの日本語の体験だったように思う。本当に意識が暗くなるのだ。意識が黒くなるとでもいうのだろうか。
 「父親として絶対行かなければならない息子の結婚式に 行けなくなった--困った、これは困ったぞ---」と、しばらく空港で呆然と立ち尽くしていた。なんとかしなければならないと思い直し、かたことの中国語で方々にかけあったが、事態の打開ができなかった。

 ―新しい航空券を購入することができた----本当に嬉しかった・安心感が体全体に広がった—

 関西空港でなくてもいいので、とにかく日本に行ける飛行機を探して航空会社のチケットカウンターをいくつか行ってみることにした。「明日、日本で 私の息子の結婚式がある。どうしても今日、日本に帰らなければならない!!どうか日本行の航空券を探して売ってほしい!!」と中国語で訴える。空港のチケットカウンターの女性職員たちの仕事ぶりは いいかげんなもので まともに話を聞いてくれない。それでも、食い下がって 体全身を使って要請する。
 ようやく、午後7時ころに関西空港に着くチケットを買うことができて、安心感が体全体に広がった。安堵するとは、このような感覚なのかと実感した。
 最初の航空券を購入してくれた大学の同僚と、電話がつながった。事態を説明して、「航空券は、キャンセルしましたか。」と聞いた。「全然 キャンセルはしていませんよ」との返答があった。もう一つ「なぜ航空券が発券されないのか」疑問のままだったが、まあ、とにかく 新しい航空券で日本に行けることに安堵。

 午後7時頃に、関西国際空港に着いた。日本に帰ってこれた。すぐに空港の「総合案内所」に行き、東方航空のチケットカウンターに行った。発券にまつわる上海での事態を話し、中国への帰路の10月18日(火)[関西➡上海➡福州]の航空券が使えるかどうかを聞いた。日本人のカウンター職員は、「残念ですが、使用できません。」とのことだった。その理由も、詳しく説明してくれた。
 10月18日(火)には、中国・福州に戻らなければならないので、帰路の航空券を再び予約しなければならなくなった。これはこれで困った。

 —「なぜ、発券がされなくなったのか」の事情がようやく理解できた—みなさんも要注意してください—

 大学の同僚に、9月下旬に「10/14福州➡関西  10/18 関西➡福州」の直行便のインターネット購入を依頼した。すでに直行便は売り切れていたので、往復路ともに上海経由(乗換)便を購入してくれた。ところが、購入後 航空券のインターネット情報をよく見ると、「10/14 福州空港➡上海紅橋空港—上海浦東空港➡関西」となっていた。つまり、上海にある2つの空港を移動する必要がある。同僚もこれには気が付かずに購入してしまったらしい。
 いろいな人にこの移動について聞いたり、調べたりした。みんな「移動は大変ですよ。地下鉄で2時間はかかります。空港間バスやタクシーでも2時間。渋滞していたらそれ以上。」とのこと。空港間は60Kmあまりありそうだ。移動して乗換に間に合わなかったら日本にいけなくなるので、同僚に依頼して 福州空港から上海浦東空港に行くことができる航空券も買うことにした。そして、当日は  その航空券を使って(吉祥航空) 上海浦東空港に到着した。
 
 もともと買った「10/14 福州➡上海紅橋空港  上海浦東空港➡関西空港  10/18 関西空港➡上海浦東空港  上海浦東空港➡福州」(※中国東方航空) の方は、キャンセルはしていなかった。お金もすでに払っていた。しかし、10/14の福州➡上海紅橋空港の一便に乗らなかっただけのため、あとの飛行機は自動的に全てキャンセルとなってしまい発券できないというシステムだったのだった。もちろん、お金の払い戻しは一切ないとのことだった。怖いシステムだった。
 関西空港のチケットカウンターの日本人職員の話によれば、「これは中国の航空会社に限ったシステムではなく、日本の航空会社も世界の航空会社も ほとんどが行っているシステムです。」と説明していた。

 夜の10時すぎに 自宅にようやく 戻ることができた。「息子の結婚式のために帰る、長い一日」だった。もともと買っていた往復の航空券(※3500元・約6万円)は、すべて使えずパーになってしまった。新たに購入した航空券の往路(※合計2800元・約5万円)や新たに購入しなければならない復路(※結局3300元・5万6000円かかった)。日本円にして10万円ほどが よけいにかかってしまう結果になっていたが、とにもかくにも 息子の結婚式に出席できることになった。お金は二の次だと思った。

 翌朝、いつものように朝4時ころに起床。明るくなって家の裏の柿木を見たら、富有柿が少し橙色に色づきはじめていた。日本は秋が始まりつつあった。





 




 

世界遺産「武夷山」へ行く❷―中国人にとっての桃源郷とは—

2016-10-16 07:15:41 | 滞在記
 今日は10月16日(日曜日)。私の息子の結婚式が京都市内で行われる。このため、10月14日(金)の早朝に中国福州のアパートを出立し、夜の10時頃に京都の自宅に帰って来た。「帰って来た」というより、「帰ってくることが出来た」という表現の方が正確だ。上海経由で帰国の途についたのだが、上海の浦東国際空港から関西国際空港に向かう予約した飛行機の航空券の発券を拒否されてしまうという事態に遭遇してしまったのだ。「目の前が真っ暗」になってしまった。「息子の結婚式に参加できなくなってしまう----。」
 なぜそのような事態になったのか----。また、別稿のブログで書くことになるだろうか。

 ◆10月14日の深夜に帰国してから、この一連のブログを作っています。中国福州のアパートのインターネット環境はいまだ悪く、なかなかブログの作成が難しいからです。また、10月1日の夜に、ブログの写真を撮るための大事なデジタルカメラをタクシーに落としてきてしまって、「学生の故郷や武夷山の写真など」は、携帯電話のカメラで撮ったものです。2013年9月に韓国のサムスン電器製の携帯電話を960元(※当時の日本円で約2万円/かなり高額な携帯電話)で買ったのですが、写真画像機能が 日本製に比べてかなりよくありません。


 「武夷山風景区に行く」の続きです。この風景区のその周辺は、渓谷も多く 霧が大量に発生する地域のため、古来から良質のお茶が栽培される所として中国では最も有名な地でした。武夷山の街からはほど近く、交通の便も良いところに 深山渓谷があるので 古い時代から多くの人々が ここを訪れたようです。中国人にとっては、一種の「桃源郷」だったのかもしれません。中国の人々は、激しい戦乱や大量殺戮が歴史を通じて繰り返されてきた中で生きてきた民族ですから、このような静かな深山渓谷に身をおくという心の希求が日本人以上に強いのかもしれないとも思います。
 これは現代中国でも、脈々と人々の心に生きているような気がします。日本以上に 少しでも多く「お金」「富」を得るため、激しく日々の生活に邁進し乗り切っている中国人にとって、いつも心のどこかに「桃源郷」に対するあこがれを抱き続けながら生活しているように思えてきます。

 さて、「一線岩風景区」の山から下山後、再びバスを利用して 今度は「虎嘯岩風景区」に向かう。「虎が吠える・うなる」という意味の場所だろうか。団体ツアー客のガイドさんが 風景区の案内地図が刻まれた岩を見ながら説明をしていた。「険しいコースと楽なコースがあります。どちらに行ってもいいですよ。」と言っていた。私と趙君は、楽なコースをとることにした。山登りも3箇所目になっていたので、少々 疲れてきていたからだ。
 茶畑が随所に見られた。断崖のような場所を通り抜けた。岩山に観音像が大きく刻まれた場所もあった。この風景区を後にして、次は「玉女鋒(ぎょくじょほう)風景区」にバスで移動した。河原から「玉女鋒」が見える。筏が下ってきている。ここが霧に包まれたら、一服の水墨画風景画が出現することになるのだろう。それにしても、朱子(朱熹)は、いいところに学堂を創設したものだ。

 再び風景区内バスに乗り、「武夷宮風景区」に移動する。ここには「大王鋒」という、風景区でもっとも立派な岩山がそびえていた。観光客にいろいなものを売ったりする店も多いエリアだった。「武夷宮」という歴史のある寺があった。なかなか風格のある寺だった。
 ここ「武夷山風景区」は、世界自然文化遺産(世界複合遺産)に指定されている。自然だけでなく、古来からの人々の歴史文化の遺跡も多いからだ。渓谷の川沿いにそそり立つ大きな岩山の岸壁の割れ目(窪地)に、木で作られた古代の棺桶(かんおけ)が置かれて葬られている場所もあった。永遠の眠りをこの「桃源郷」で---という願いからだろうか。どのようにして、その巨大な岩の岸壁の窪地まで棺桶を運んだのか、なかなか想像できにくい場所なのだが、そこまでして この地に眠りたかったのだろう---。「永遠の桃源郷」だったのか。
 中国民族は、深山渓谷の岩山や石というものに強烈な神秘性を感じる民族らしい。岩山でも巨岩でも石でも、石というものになにか信仰心のようなもの、パワーを感じとる民族のようだ。

 風景区の南口にバスで向かう。午後5時頃南口に到着。今から今夜宿泊のビジネスホテルにバスで向かった。ホテルでシャワーを浴びてしばらく休憩。7時ころから夕食をとる場所を探しにホテルを出る。いくつかの屋外の屋台で、値段を聞きながら おいしくて安い店を探す。ここでも、趙君が「この地方の方言」を使って値段交渉を始めたら、3分の2の金額となった。ちなみに、趙君の故郷の村からここまで車で40分~50分ほどなのだが、彼は「武夷自然景観区」に入って見学するのは初めてらしい。もちろん武夷山の市内(街)は、子供のころから何度も来ているらしい。
 食事をとりながらビールで乾杯する。食事後、街をぶらぶらしながら店を物色する。「お茶」を販売する店や「茶器」を販売する店が゜とても多い。さすが、「茶」の街だ。ある店で 安く売られている 茶碗がたくさんあった。その中に、「天目茶碗」があった。最近作られたものだが、なかなか良くて しかも かなり安い。200元。値段交渉をして、強引に150元で買うことにした。福州で買ったら1000元以上はするだろうと思われる茶碗だった。抹茶茶碗にしては小さすぎるし、お酒を飲む茶碗にしては少し大きすぎるのだが、いいものが買えたと嬉しかった。福州のアパートに戻って日本酒をこの茶碗に注ぐと、小さな宇宙の星々が見ばえした。「これは私が払います。先生へのプレゼントです。」と趙君が言い始めた。固辞するが、なかなか譲らない。結局、学生の趙君にこのお金を払ってもらうことになった。恐縮する。ホテルに9時ごろ帰り、すぐに就寝。
 いつものことだが、早朝4時に目覚める。趙君は熟睡中。5時半ころから散歩に出かけた。ホテル近くを歩いていると、岩山が見えてきた。そちらの方に歩いて行くと、川があり、橋があり、岩山があった。女の人たちが 河原で洗濯をしていた。

 この川沿いに長い長い遊歩道。川に架かる石で作られた橋の近くで、前日に仕掛けていた 漁網を揚げている人がいた。小さな人が一人やっと乗れる竹製の筏に乗っている。なかなか、絵になる風景だ。川面に山が映っていた。岸に戻って来た筏のおじいさん。網の中には、小エビや小魚が入っていた。
 川沿いの遊歩道に沿って、中国風の小さな門のある家が゜何軒が立ち並んでいた。毎日 この風景を見ることができる場所。少しうらやましくなるほど、景観のいいところだった。日本人の私でもそう感じるのだから、中国人にとっては その何倍も感じる場所かと思われた。

 午前7時にホテルに戻り、趙君を起こす。趙君をさそって先ほど行って来た河原に再び向かう。途中で、食堂にて粥と漬け物の朝食を食べる。河原に行くと、午前8時前になっていたが、たくさんの観光用筏が客をのせて下ってきていた。
 午前9時、荷物をホテルに残して、武夷山市内中心部の方にバスで向かう。この街にある「武夷山大学」に行った。地方の、そのまた地方の大学。学生に聞いてみたら、学生数は1万5千人だという。かなり広い大学構内を歩く。国慶節の休み期間中なので、学生の姿はまばらだった。大学の案内看板に「茶学学科」という学科が書かれていた。

 大学のバス停から、バスで市内の繁華街に行った。市内を川が流れていた。中国のどこにでもあるような街の風景。ホテルのチェックアウト時刻は12時なので、再びバスに乗りホテルに戻った。荷物を持ち、武夷山東駅に向かう。の午後3時半発の新幹線に乗り、午後5時頃に福州に戻った。

 福州北駅からタクシーに乗り、急ぎアパートに戻る。寧夏回教自治区の寧夏民族大学に赴任している(※2年前まで福建師範大学の教員だった)目黒さんから、「学生の結婚式参加のため福州に行くので、結婚式が終った翌日の10月6日夕方に ぜひ 私と会っておきたい」との連絡が1週間前にあったからだ。
 午後6時半に、二人でよく行った「黄岐海鮮坊」で落ち合った。福建師範大学の卒業生2人と華僑大学の卒業生の1人の合わせて3人(※福州市内の同じ会社に就職している)も一緒に同席し、乾杯と食事をした。彼らは、会社の寮に住んでいると言っていた。寮は6人部屋らしい。名門の大学を卒業して就職しても、暮らしぶりは堅実でつつまやかしいものなんだなあと思った。

 翌日の朝、目覚めたら 久しぶりに いくつかの山を上り下りしたため、足の筋肉痛が始まってきた。

 10月7日(金)で、国慶節のゴールデンウイークが終わった。翌日の8日(土曜日)と9日(日曜日)は、コールデンウイーク中の振替出勤・授業日となっていた。8日から授業が始まり14日までの連続7日間の授業日。学生にとってもけっこう疲れる週だったようだ。13日(木)の午後に連続4時間の授業を終えて、夕方7時ころにアパートに帰宅。9時頃に、大学外事所の鄭さんが 「息子さんの結婚祝いに、福州のジャスミン茶を渡してください」と言って持ってきてくれた。

 翌日14日に、日本に帰国できた。今日の結婚式に参加できることになった。参加できることになり 胸をなでおろしている。