彦四郎の中国生活

中国滞在記

期末試験が終り、学生たちが宿舎に来る―中国式の鍋料理を囲む―

2016-01-16 12:15:33 | 滞在記

 昨日の午後、大学に行くと前期期末試験が行われていた。昨日で、大学の前期試験がほぼ終了したようだ。今日から、故郷に帰る学生が多くなってくるだろうと思う。来週末には、学生のほとんどが故郷に帰ることとなる。そして、2月8日からの「春節」(旧正月)を家族で迎えるのだろう。2月の始めころから何億人という中国人の民族大移動が始まる。また、日本に観光に来る中国人も多いと思われる。

 4〜5日前の夕方、近くにある「永輝超市」というスーパーマーケットに行く。「春節」まではまだ3週間ほどあるのだが、「春節」に向けての飾りつけや商品展示が ど派手行われていた。「赤」と「金」、これが中国のめでたいときの色だ。

 買い物をしてレジに並ぶと長蛇の列。一つの列に20〜30人は並んで待っている。私の番がくるまでに20分ほどかかった。中国のスーパーマーケットのレジ付近には、ガムやチョコレートなどと並んで、「家庭計画」「コンドーム」が販売されている場合が多い。お国柄だ。よく見ると「日本製造」と書かれていた。レジ係りもこれだけ人が多いと疲れるだろうな。

 14日(木)の夕方、3年生の学生7人が 私の宿舎に「鍋料理」を作りに来た。3年生の学生は、この日の夕方4時半に試験が全て終了したようだ。スーパーマーケットで待ち合わせをして、一緒に鍋の食材を買った。「鍋のスープの素」も何種類か売られていた。宿舎で、その何種類かの「鍋」を作って食べたが美味しい。日本では、鍋料理の野菜の定番として「白菜」がよく使われるが、中国ではあまり使われないらしい。日本でよくサラダに使われる生野菜を学生たちは使っていた。日本酒があったので飲んでもらうと、「美味しい」という。
 中国に再赴任して2か月半ほどが経ったが、ようやく師範大学の学生たちとも つながりができ始めたようだ。学生たちは、10時ごろに大学の寮に帰って行った。後始末も、きれいにできていたのには感心した。

 宿舎の隣に「福州第十六中学」という「高校」がある。中国では、小学校は「小学」、中学校は「初級中学」、高校は「中学」、大学は「高校」または「大学」と称される。
 この高校では、毎朝7時半ころに、名曲「エリーゼのために」が流された後、アナウンスが始まる。そしても10時ころに(中間休み)なると、運動場に全員の生徒が出て10分間ほとのジョキングが行われる。このジョキング全校体育がとてもとてもうるさい。曲は「軍艦マーチ」のような感じの曲が流され、教師の叱責する声が大音量で聞こえてくる。ジョキング終了後、体育系と生徒指導部を兼任しているような教師の叱責訓話が4分ほど続く。この雰囲気では、走り方をさぼれる生徒はいないのではないかと思われる。
 生徒指導や担任教師による「学校生活の様子」「生活態度」などが毎年書かれ続けられる「手帳」の内容は、大学入試の参考資料とされる。また、就職試験の際も、この手帳の「叙述」が参考にされる。一生ついてくる「怖い手帳」のようだ。
 そして、この中間休みの全校体育が終わると、突然「エリーゼのために」が流される。そのギャップが面白いといえば面白いのだが。

 昨日の夜、3年の趙君と 日本料理店「古都」に行った。待ち合わせは「五一広場」。この広場の中に、福州大劇場がある。今上演しているのは「紅色娘子軍」だった。これは有名な「中国の革命歌劇」だ。1930年代に海南省で結成された中国共産党傘下の女性革命部隊の実話をもとにした「歌劇」だ。1964年に初上演されて以来、50周年の歴史をもつ上演目だが、世界各国でも上演され続けてきた歴史をもつらしい。一度見て見たいものだ。
 「古都」には、久しぶりに行く。10月以来だ。出された「手巻きずし」「天ぷら」などを、趙君は「美味しい美味しい」といって食べていた。老板(ラオバン)[店の主人]とも久しぶりに再会した。福州日本企業会の斎藤会長も来ていたので挨拶し、2学期(後期)に担当する予定の「日本概況」の授業の特別講師の依頼をした。
  バスに乗って、師範大学方面に帰る。宿舎の近くにある「パン屋」で食パンを買った。若い女性店員の「客対応」が大変 ぞんざいで悪い。というか、日本人としては「無礼!無礼者!」と感じる対応。このような店員が中国では大変多いのは なさけない。これが普通だから、このような対応に中国人は「あたりまえのこと。」と思っているので、不快感はあまり感じないようだ。

 明日17日(日)の朝、2月21日までの約1か月間、日本に一時帰国する。日本人の店員対応などは、中国で生活していると 改めて「人間的」だと思う。中国社会と日本社会の大きな違いの一つだ。













街角を歩く―大学の正門まで行く際に目にする光景など―

2016-01-16 08:31:28 | 滞在記

 宿舎から大学の正門まで行く際、いろいろな道筋(ルート)がある。午前8時から授業が始まる場合は、最短のルートを通って行くのだが、時間に余裕がある場合は、少し回り道を通ったりする。
 上の写真は、少し回り道をする際のルートの写真である。使い古した修理道具で商売をするおじいちゃんと談笑する人たち。街角の掃除をする人たち、果物を小売りする人たちなど、騒がしい中国の都市部の中でものんびりした雰囲気が漂っている。

 中国は、果物が豊富で安い。果物を扱う店がとても多く、露店の果物売りも多い。ある日、若いカップルが喧嘩(激しい口論)をしていた。痴話げんかのようだ。男性の方が、女性に迫っている。女性が男性を避けているような----。女性からの別れ話かな--。少し腰をおろして、成り行きを眺めていた。こんな町の真ん中では恥ずかしいと思ったのか、建物の階段の陰に移動して行く二人----。この二人は、これからどうなるのかな---。

 ここから5分ほど歩くと大学の正門に到着する。

 昨年の7月まで住んでいた閩江大学旧キャンパス近くの露店に行く。ウイグル族の人も見かける。小さなナンのような煎餅のようなものを買って昼食とする。たくさんの露店が並ぶ道に、台車の上に寝ている物乞いの障害者。道行く人の哀れを誘いつつ、ぎりぎりに生きている。
 この露店には、骨董ものの茶碗も多く売られているが、この日は素晴らしい「天目茶碗(てんもくちやわん)」にめぐりあった。宇宙の星々が茶碗の中にあるようだ。これは欲しい。家宝にしたいが、値段が高すぎて手も出ない。よく鑑賞させてもらった。

 街の中心地の「五一広場」あたりに行く。サンダルが売っているが、美しい小石がついている。足裏指圧ができるようだが、50mを歩いたら痛くなりそうだ。量り売りの「酒店」もある。鳥売りの男が見える。立派な鶏の値段を聞いてみたら、「50元(約1000円)!」と言っていた。

 クルミを売っているウイグル族の露店。たまに買って食べることもある。その後ろに、台車の上に体を乗せて、移動する若い女性の物乞い。両足がなかった。とても厳しい生き方をして頑張っている人だと思った。中国社会における「身体障害者生活支援」はどうなっているのだろうと、たびたび思うのだが---。中国には、戸籍がない人が非常に多く存在している。その数は1億人にものぼるという説もある。この人も もしかしたらそうかもしれない。戸籍や住民登録が存在しなければ、政府としても「社会福祉」の手を届かす必要や義務もないのだろうか。
 雨が降ることが多い、このごろの福州。赤いネンネコバンテンが暖かい印象を与えてくれる。







外国語学部楼での企業・学校等の就職説明会―宿舎周辺を歩く「洋館の多い古街」―

2016-01-13 05:13:53 | 滞在記

 1月10日(日)、福建師範大学外国語学部(英語学科・日本語学科)の学生を対象とした「企業・学校等の就職・求人説明会」が外国語学部楼で開催された。参加した企業・学校は50ほどの数。日頃、授業で使っている教室で各ブースを開き、面談を受ける形をとっていた。参加学生は4回生の学生達だ。

 4回生達は、前期の授業が終わると、後期は授業がない。後期は、卒業論文をしあげたり、就職活動や進学(大学院や留学)の活動期になるので、故郷に帰る学生も多い。そして6月には卒業式を迎える。
 この日、福州市にある日本企業は6社ほどが参加していた。その6社のブースがある教室に行って、挨拶と名刺の交換に行った。

 昼頃に、福建師範大学日本語学科や福建師範大学協和学院日本語学科(この大学は私立大学―※中国では「独立学院」と呼ばれる)の教員たちと私の4人で、大学近くの「海鮮料理店」に行って新年会の会食をした。冬休みの1か月間、日本に帰国する人が多いが、帰国せず中国の他の都市に滞在する人もいる。
 散会後、少し回り道をして宿舎に戻れる道を歩く。宿舎の周辺は、1980年代後半期から1990年代前半期に建設された建物(洋館)が多い。各国の領事館だった建物も多く現存し、普通の民家として人が住んでいる。私の宿舎から5〜6分ほどの所にある坂の小道は、カジュマル(榕樹)が道を覆っている。宿舎のトイレが使えない時期、早朝の暗い時間にも、この木の下を通って、近くにある公衆トイレを利用しに行っていた。

 このあたりは、小学校・中学校・高校が非常に多い文教地区となっている。高校の塀の石垣に、「為学為教求実求新」という文字がある。「学ぶ為、教える為に、真実・真理、実学や新しい知識を求める」という意味だろうか。人一人が通れるだけの細い通路もある。すれ違いをすることが少し難しいような道だ。

 宿舎から大学に通勤する途中の小道。周りの塀の上には、植物が根を張っている。このような小道が多く見られるのが宿舎の周辺地区。朝や夕方には、多くの小学生・中学生・高校生たちが行き来する小道である。








大学構内のこのごろ―冬休みも間近、期末試験期間―

2016-01-08 19:20:52 | 滞在記

 新年になり、4日(月)から大学の授業が再開された。この日から10日間あまりが期末試験期間となる。そして1月21日(木)から約1か月間、冬休みとなる。私の宿舎の白梅も開花し、かすかに匂いを放っていた。図書館周辺には花が咲き、開館を待つ学生たちの読書や試験勉強をしている姿が見える。授業を終えた留学生たちの姿も時々見かける。

 12月30日「3回生 日本語書作」、1月5日「3回生 会話」、1月7日「4回生 日本近現代文学」、そして今日(1月8日)の 「日本古典文法」の試験をもって、私の担当4教科の前期末試験がすべて終了した。今朝7時半頃に大学に着くと、正門近くで「太極拳」を地域住民がやっていた。剣を使った太極拳だ。

 昨日から、1回生の軍事訓練が始まった。午前中の訓練が終わって、寮に戻る様子を見ていると、歩きながらさかにん携帯電話メールをしている学生たちも多い「軍事訓練は大変よ。もうくたくた。午後もある。1週間以上続くなんて---。」とメールしているんだろうか。
 構内の樹木の一部は紅葉していたが、この頃ようやく散り始めた。

 12月末のことだが、「文化楼」の建物の一階教室で「中国近現代史」の授業をやっていたので 後部入り口から入って30分ほど聴講してみた。
 1930年代〜40年代前半の時代を扱っていた。中日戦争と中国国内の国民党と共産党の内戦についての講義をしていた。終了後、担当の女性教員に、日本から来ている教員であることを告げながら挨拶をした。





何回かのピンチに遭遇してしまった厦門(アモイ)の旅

2016-01-07 04:34:26 | 滞在記

 1月1日、早朝に宿舎を出て、妻と一緒に福建省厦門(アモイ)市に行った。新幹線で福州から1時間50分くらいで厦門北駅に到着。バスに乗って40分くらいで、厦門島の中心地に着いた。
 厦門観光の中心は二つある。洋館が中国で一番密集している「コロン島」散策と厦門大学だ。多くの観光客がこの二つの場所を訪れる。日本人にとって、「福州」は知らなくても、「厦門(アモイ)」という名前は聞いたことがあると思う。歴史的にも古くから対外的に開港されていた港町でもある。目の前には、台湾に属する「金門島」が見える。中国と台湾が、軍事的に緊張感にある時代、ここはその最前線であった。
 「厦門大学」と湖北省にある「武漢大学」は、中国の大学の中で最も美しい二つの大学として有名だ。1日の午後は厦門大学、2日はコロン島を観光する予定を立てた。2日の午後4時20分発の新幹線で福州に戻り、3日の午前中の飛行機で妻は日本に帰国することになっていた。しかし、この旅は、その後いくつかのピンチに遭遇することになった。

 バスで午後3時頃厦門大学前に到着。驚くほどたくさんの観光客が来ていた。
 魯迅(ろじん)記念館に入る。魯迅は1881年に浙江省の紹興生まれ。1902年から1909年までの7年間、国費留学生として日本に留学していた。この厦門大学では、中国文学の教授として教鞭をとっていた時代があった。
 魯迅は、日本の東北大学医学部にて医学を勉強し、将来は中国で医師として活動することを目指していた。大学の講義の中で時折、幻灯機が使用された。日露戦争時に関する時事問題の説明の際、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、「今の祖国にとって医学より重要なことは、祖国の人々の精神改造だ。」と思い、そのためには文芸活動をしなければならないと思い定め小説家を志すことになった。
 現在、日本では、中学校用のすべての国語教科書には、彼の作品が掲載されている。魯迅文学の代表作品として、『阿Q正伝』、『狂人日記』、『故郷』、『藤野先生』などがある。1936に死去する。現在の中国において、孫文と並んで尊敬されている人物である。「民族魂」という直筆の書が掲げられていた。

 厦門大学は確かに美しい大学だ。そして広大だ。山が間近にせまり変化に富んでいる。美しい海岸ビーチも近い。

 大学内のおしゃれなレストランでコーヒーを飲みながら休憩。大学中央の池に行ってみると、ブラック・スワン(黒い白鳥)がいる。初めてブラック・スワンを見た。師弟や学生の像がある。歴史的な建物に学生寮があった。魯迅の像もあった。洗濯物が干されている。

 大学の中心地と新しい学生寮地域を結ぶ長いトンネルがある。1kmあまりの長いトンネルだ。このトンネルの内部は、たくさんの絵画などが描かれている。学生達が描き続けたものだ。日本のアニメーションのものもけっこうあった。織田信長も描かれていた。

 長いトンネルを抜けると、午後5時頃になっていた。もうすぐ夕暮れ。ここから予約しているホテルは近いはずだ。
 この旅は、ここまでは順調だった。

 第一のピンチ[ホテルが見つからない]

 ホテルはすぐに見つかると思ったが、なかなか見つけることができなかった。5時半ころには暗くなってきた。いろいろな人にホテル名を言いながら聞いてみた。「不知道(知らない)」の連続だ。適当に間違った場所を指さしてくれる人もいた。いろいろと迷走しながら、探したが見つからない。あるホテルに行って聞いてみたら、地図を書いてくれた。よかったと思い行ってみるが、地図がおおまかすぎてわからない。捜し始めて1時間半ほどがたった。疲れ切ったが、ついに詳しく教えてくれる人に巡りあえた。無事にホテルに到着できた。

 第二のピンチ[通行止めで移動できない]

 翌朝の朝食後、近くの海岸に散歩をしに行ったら、幹線道路にたくさんの人が小旗をもって並んでいた。「厦門国際マラソン」が開催されていたのだ。海岸を散歩し、道路に戻ると、ランナーたちが走って来た。一般参加走者も多いので、午前中はこの道路は完全に閉鎖されるようだ。ということは、バスもタクシーも利用できない。コロン島方面に行くのにはどうしたらいいのだろうか。
 ホテルをチェックアウトして、とにかくコロン島方面に行くためのタクシーを探すが乗車拒否が多い。ようやく高い料金を払うことで、一台のタクシーと交渉がまとまった。マラソンコースを外れた、大迂回ルートでコロン島方面に向かう。


 
 第三のピンチ[コロン島に渡れない]

 コロン島行の大型渡し船のチケット売り場は、長蛇の列だった。長い列に並ぶこと40分。ようやくチケットが買えた。往復で二人で60元のチケットだ。時刻は11時になっていた。午後2時までにここに戻ってバスに乗れば、十分に新幹線に間に合うと思った。しかし、---。買ったチケットをよく見たら、午後1時半の出航となっていた。コロン島まで船で5分程度なのだが、島に着いたらすぐに戻らなければならない。結局、この旅の最大の目的地「コロン島」行をあきらめざるをえなかった。妻をぜひ連れて行きたかったので、残念でしかたがないかった。
 近くの「中山路」という、厦門の有名な繁華街に行って、時間を過ごした。

 第四の最大のピンチ[新幹線に間に合わない]

 中国の新幹線チケットは、なかなか取るのが難しい。利用客が膨大に多いし、本数も2時間に一本程度となっているからだ。新幹線の発車時刻には絶対に遅れてはならない。その日の次のチケットを取ることは極めて難しい。帰れなくなるからだ。
 2時20分ころに、新幹線「厦門北駅」行のバスに乗った。1時間20分くらいの時間で到着するので、3時40分には駅に着く予定だった。新幹線の発車時刻は4時20分。充分に余裕があると思っていた。しかし、ハプニングが起こってしまった。運が悪かったとしかいいようがない。
 到着まであと20分あたりの地点で、バスの運転者と乗客が口論喧嘩になり、機嫌をそこねたバスの運転手は、「運転拒否」をしてしまったのだ。バスが止まって20分が経過、私も含めてバスの運転手に抗議するが、てこでも運転しない。そのうち、警察のパトカーが来て、運転手と乗客(2人の女性)はパトカーの中で、事情聴取。止まってから40分後に、警官がバスを運転して駅に向かい始めた。到着したのは、4時25分。もう新幹線は発車していた。非常に困った。新たな新幹線チケットの購入はむずかしいからだ。明日の早朝に福州空港から妻が日本に帰国予定だ。妻の顔もやや蒼白になっていた。(※2年ほど前に、私の娘も同じ経験をこの厦門でした。結局、その日は新幹線に乗れず、翌日に乗車できたようだ。)

 閩江大学4回生の李順峰君に電話をした。「なんとか今日中に福州に帰れる新幹線の予約ができないだろうか---。」 するとうまい具合に、午後5時半発の新幹線チケット(但し、1等車座席<日本のグリーン車席>)が取れるという連絡が入った。これはラッキー!!!だった。無事福州に帰れた。

 ◆厦門市には、厦門大学の他に、集美大学、華僑大学、厦門理江学院などの大学がある。