彦四郎の中国生活

中国滞在記

新学期【新学年】の授業が始まった—立命館大学留学中の李君が大学に来る

2017-09-24 07:30:03 | 滞在記

 私が担当する授業の初日は9月14日(木)からだった。この日、現在 立命館大学大学院に留学中の李君が福州に1年ぶりにやってきた。この夏休み期間、1か月間ほどオーストラリアの大学に短期留学(大学派遣)し、8月下旬に1年ぶりに彼の故郷(福建省龍岩市の農村)に戻っていた。そして、9月17日に再び日本に戻るという日程の間の3日間、福州に滞在した。13日の夜、市内の海鮮店で会食をした。この海鮮店は「美味しくて安い」。たくさん料理(カニなど)を注文し、ビールの小瓶を8本ばかり二人で飲む。料金は200元(約3500円ほど)だった。

 翌日の15日(金)、4回生の「日本文化論」の初めての授業があった。立命館大学の修士論文作成のため、「日本語検定2級以上を合格している学生」を対象にしたアンケートを、この授業時間の中で李君は学生たちに依頼した。短時間だが、日本留学の生活の様子についても話してもらった。

 大型台風18号が近づいてきていた。このままの進路では、14日(木)に福州に上陸するかと思われた。ものすごい暑さと湿気の日々だったので、少しは涼しくなるだろうと台風が来てほしかった。しかし、急カーブの進路をとり沖縄諸島方面から日本列島に向かってしまった。このため、李君が日本に戻る予定の17日(日)の飛行機は飛ばず、19日の便でに日本に戻れたようだ。

 18日(月)、新入生の学生たちが全国各地から続々と大学に集まって来た。その数は6千人ほどだろうか。この日から全員が大学での寮生活を始めた。福建省内やその周辺の、わりと近いところから来ている学生の父母も、蒲団などの生活用品を運ぶためか大学に来ている人たちの姿もみられた。翌日19日よりオリエンテーションが始まり、22日(金)からようやく私も担当する1回生の授業が開始された。

 新学期になって、大学構内のレンタル自転車の数が膨大に増えていることに驚いた。いたるところ自転車だらけである。(30分以内だと1元=17円) まあ、広い構内なのでとても便利だとは思う。今、中国社会はこのレンタル自転車が氾濫し、今までの電動バイク(自転車扱いなので免許はいらず、平気で歩道を疾走する)の氾濫とともに いっそう 歩道を歩くのに安心ができなくなっている。

 授業のある朝、バスに乗る。バス内の小さなテレビでは「日本人の蛮行731部隊(日中戦争時、細菌兵器の開発に中国人を使った人体実験を実施していた日本の部隊)」関連の放送がなされていた。当時を知る日本人や中国人の証言なども放映されていた。バスの中でのこのような番組ニュースが放映されるのは辛い。バスの中には日本人は私一人、心が縮こまる。バスの中、年配のおばあさんが大声で10分間ほど携帯電話で話していた。バスの中に響き渡る大声なのだが、このようなところは日本人には理解ができにくい中国人の一面でもある。つまり、親しくない他人には冷淡で、「傍若無人」に振る舞うという、この国の人々に受け継がれている歴史的に身に付けている感覚が、年配の人を中心にかなり残っているとでもいえるのだろうか。

 大学構内には、中国海軍の空母「遼寧(りょうねい)」を背景とし、「参軍……」と、書かれた軍招集の大きなポスターが貼られていた。

 1972年の日中国交正常化から45周年を記念する式典が9月8日、北京の人民大会堂で開かれた。国交正常化記念式典が中国・北京で開かれるのは10年ぶり。主催は、中国人民対外友好協会と中日友好協会が主催。日本側からは河野洋平外相や日中友好協会会長の野田毅(元自治相)などが出席。習近平指導部は安倍政権に対する警戒を解いておらず、最高指導部(チャイナセブン)の出席を見送った。日中双方から約300人が式典に参加したもようだ。

 この式典行事に関連して、中国・日本のの大学生たちが双方を1週間ほど訪問し交流する取り組みが行われた。閩江大学からは、15人の日本語学科の学生(4回生8人、3回生5人、2回生2人)が、日本語学科主任の何先生に引率されて9月11日に日本に旅立った。東京と沖縄・那覇が訪問地だった。日程を終えて16日に中国の福州に戻る予定だったが、台風の沖縄接近で飛行機が飛べず、翌日の18日に戻ることができたようだった。

 新学期が始まって、学生たちから いくつかのお土産をもらった。9月上旬に 毎年「教師の日」というものがある。初めての「日本文化論」の授業の時、4回生たちから「教師の日、みんなからです」と言って「紹興酒」の徳利(とっくり)を渡された。別の日には、今年の夏に日本の短期研修(留学)の際に京都を案内した学生数人から、「老仙蒲・福県白茶」や「貴州茅台酒(マオタイ酒)」を、「先生、日本ではお世話になりました」と言って渡してくれた。中には、「先生、これは現代中国の書道家では有名な王志琦という人が書いた書です。父がもらったものですが、先生に渡してくれと預かりました。どうぞ。」と渡された。なかなかの書だった。「剣謄琴心(けんとうきんしん)」と書かれていた。

 23日(土)に、福建師範大学大学院生の康さんがアパートに来たので、この書の意味を問うと、「剣を持って立つときも、心は琴の音のように静かに優しく」というような意味だと説明してくれた。

 9月8日に中国に戻ったが、蒸し暑さは日本の京都の比ではない。今日までの2週間で、雨が降ったのはある日の夜に一度降ったきり。ずっと35度以上の気温と強烈な湿気の毎日だ。昨日の23日、昼に気温計を外に出してしばらくしたら41度を指していた。おそらく日陰の気温(福州市気象台発表)は38度くらいだろうか。お蔭で洗濯物だけは30分ほどでカラカラに乾いてくれる。日本帰国の夏に悩まされた足の湿疹の広がりは治ったが、この湿気と暑さで再度ぶり返して、また悩まされている。この暑さの中、大学は女子学生たちの日傘が咲き誇っているが、絶対日傘をささない男子学生たちも暑さにたまらず、日傘をさしている姿も時々見受ける。私は、大学構内の移動には、今年の夏の異常な暑さに我慢ならず日傘をさすようにしている。ささないでいると5分ほどで、汗が流れ始める。

 しばらくは、週に14時間(4教科)の授業と、その準備に追われ続ける日々となりそうだ。

 今日、9月24日(日)、閩江大学3回生の女子学生2人が日本に初めて旅立つ。広島大学に1年間留学し、また4回生になったら大学に戻って来る予定だ。、男子学生がもう一人、広島大学留学試験に合格していて、この9月に行く予定だったが、諸事情で行くことがかなわなくなってしまった。とても残念なことだが、本人が一番悔しい想いもしていることだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


重要会議が省内で開催のため、大学の「新学期開始を1週間遅らせる」という忖度?

2017-09-24 04:45:06 | 滞在記

  9月上旬に新学期(新学年)から始まる中国の大学。福建省内の大学は、今年は例年と違って1週間遅れの9月11日(月)から始まった。その理由は、習近平国家主席が出席する国際会議が福建省の厦門(アモイ)で9月4日(月)から数日間行われるためだった。

 6月下旬に日本に帰国する前日、大学から配られた新学期の年間カレンダーでは9月4日始まりだったので、9月1日に中国・福州に戻る予定で航空券を購入した。しかし、7月中旬に大学から突然、「アモイで重要会議が開催されるので、新学期は9月11日始まりと変更します」との連絡が入った。「ええっ!困るな!このため必要な授業日数確保のため、冬休み期間はドミノ式に1週間短くなるし、航空券もキャンセルして、新たに購入する必要もあるし…」。インターネットで航空券を購入した場合、キャンセルをすると20%くらいしか返金がないようなので大損である。

 国家主席が参加する会議が省内で開催されるから、1週間も大学の開始を延期するなど日本では考えられないが、これが今の中国。大学関係者が、習近平氏とその周辺に必要以上に「おもねる」というか、「忖度(そんたく)する」というか、そんな雰囲気をビンビン感じる。これも中国社会という権力構造の実態の小さな一端かと思う。

 中国に戻った9月8日(金)の翌日、1回生の授業の教科書をもらうために、大学に久しぶりに行った。閩江大学の正門(南門)が新しくなっていた。広々とした正門になっていた。正面に「MINGJIAN UNIVERSITY」(閩江大学)と記された石が置かかれていた。正門を入って左に見える「学術交流中心(センター)所」の建物も、「閩(びん)文化=福建文化」風の伝統的な建物を取り入れた作りとなって完成していた。来年9月の新学期の「福建省重点大学」指定を目指して、大学構内諸整備の事業が着々とすすめられているようだ。

 広い大学構内のバナナの木にバナナの房がみられる。バナナは1年に2回、実をならせる植物のようだ。半年前の春先にも実がなっていた。研究室のある福万楼の建物の周囲には竹も多い。この日の気温は38度とすごい湿気の一日だった。亜熱帯の真夏の盛りの中、冷房が寒いくらいよく効く研究室で毛布をかぶってしばらく昼寝をした。

 夕方近くになり、バスを乗り換えながらアパートに戻る道すがら、バス停でバス待ちをする。バス停の宣伝板が強い太陽の光で反射していた。アパート近くでは、大きな「冬瓜(とうがん)」が売られていた。

 

 

 

 

 

 


途方に暮れた出来事―もうこの身一つで、なにもかも置いて、すぐ日本に戻りたくなったが……❸

2017-09-23 06:35:21 | 滞在記

 アパートの水が全て使えない事態になっていたので、差し迫る問題はトイレが使えないということだった。小便や大便をどこでするか。大便はほぼ早朝というリズムになっているので、外が少し明るくなり始めるころに外のどこかの場所ですることとした。大便より回数の多い小便はどこでするか。8階の部屋からいちいち外に出て用を足すのもなかなか面倒だということで、屋上ですることとした。私の部屋は、最上階なので、ドアを開けて階段を登ればすぐ屋上である。

 午前6時ころ、外が薄明りに。屋上に行く。屋上の周りは他のアパート群が林立しているので、人の目もある。しばらく様子を眺めていると、この時間にベランダに人がいる部屋もあった。4畳半ほどの狭い屋上で最も見られにくい場所があったので、そこで用を足すことにした。次に、エレベーターで1階に下りて、外に出て大便ができそうな場所を探した。私のアパート棟の近くで、陰に隠れてできる場所が1か所だけあった。私の部屋から下に見える「宗廟(一族の先祖を祀る建物)」の裏だ。バチがあたるかもしれないが、ここしかないので、しかたなく ここで用を足すことにした。

 午前6時半、大学の外事所の鄭さんに「事態の緊急メール」を送信し、修理に関する依頼をした。すると、7時ごろに返信メールではなく返信の電話が帰ってきた。鄭さんも今回の事態の緊急性を感じとってくれたらしい。アパートの部屋の管理をしている不動産店の人に急ぎ連絡をとってみるという。その後、鄭さんからの連絡は途絶えた。「いつ、不動産店の店長が来て、様子を見てくれて、修理屋さんに連絡してくれるのかな。とても不親切な人だからなあ……」と不安にもなりながら、とにかく待つことにした。修理が完了して、水道やトイレが使えるには少なくても1週間はかかるだろうなとも思った。

 私のいままでの中国社会での生活では、「奇跡的なこと」が起きた。午前10時頃、「ドンドンドン」とドアを叩く音がした。「あっ、店長が来てくれたのか、えらい早いなぁ!事態の大変さを感じ取ってくれて、彼にしては珍しく親切に早く来てくれたのかな」と思いながらドアを開けたら、なんと数日前に台所の水道の蛇口を直してくれた若い修理屋さんだった。「これは奇跡的だ!」「助かった!」と一瞬感じた。こんなに早く修理屋さんが来てくれるとは、驚き以外の何物でもなかった。

 中国語の聞き取りがかなり出来ないので、筆談を交えながら、修理について話した。洗面台などの寸法を測ったりして、「明日14日(木)の午前中に再び来ます」というので、「すみません。明日の午前中は大学の授業でアパートにいません。早く帰れても午後3時ころになります」と言うと、「では、今日の夜8時ころに来ますよ」と言ってくれた。「ええっ、今日中にもう一度来てくれるのか。今日中に修理が終るかもしれない。奇跡的だ!」と思い、心がとても軽くなった。

 福州もこの頃、夕方の6時過ぎには暗くなり始め、6時半には完全に暗くなる。午後8時を少し過ぎた。修理屋さんが約束の時間に来ることは、ほぼないのが中国社会の暗黙の了解なので、「まあ、9時半までには来るかな」と思っていたら、なんと8時過ぎに来てくれたのにも驚いた。どこからか、洗面台の規格にあてはまるものを探してきてくれたようで、新しい洗面台を抱えてやって来た。そして、30分間ほどで修理が完了し、アパートの水やトイレが使えるようになった。こんなに早く修理がなるとは夢にも思わなかったので感激だった。若い修理屋さんの名前と電話番号を教えてもらった。「魏仲曜」という名前だった。水がまったく使えずトイレもできないことなどや先行きの不安 使えることの幸せを感じ「途方に暮れたり奇跡を感じたりした」24時間だった。さっそく、シャワーを浴び、翌日早朝からの授業に備え、気持ちをリフレッシュしてぐっすりと眠りにつくことができた。

 アパートのシャワー器具が古くいつ使えなくなるか、古い洗濯機がいつ使えなくなるか、古いエアコンがいつ使えなくなるかなど、心配の種は尽きない。そんなに古いアパートではなく、どちらかといえば中国国内ではやや新しい方のアパートなのだが、日本と違ってさまざまなものの劣化がいち早いのが中国社会だと感じることも多い。

 

 

 


途方に暮れた出来事―もうこの身一つで、なにもかも置いて、すぐ日本に戻りたくなった❷

2017-09-22 03:44:56 | 滞在記

 「途方に暮れた出来事」は、9月12日(火)の深夜に起きた。午後8時ころに眠りについたのだが、夜中の12時ころに目が覚めてしまう。少し足の汚れに気が付いたので、トイレの中にある「洗面台」(かなり大きい)に軽く右足を置いて、左足で立ちながら そっと足を置いて洗おうとした瞬間だった。突然に洗面台が崩壊し下に落ち、こなごなになってしまったのだ。かなり古くなっていたのだろうか、あまりのあっけない崩壊のしかたに一瞬「何が起きたのか」理解できなかった。

 そして、すざましい水が噴き出してきた。洗面台が崩壊落下したため、洗面台の下に繋がっていた水やお湯の金属製給水パイプも一緒に壊れて、穴から噴水のように吹き出してきて停まらない。トイレ全体に水が噴き出し廊下まで水が飛び出していた。洗面台が崩壊落下した時に、立っていた左足に大きな破片は直撃したかったのは幸いだが、破片が手や足の上に飛んできたようで、血が出ていた。傷はたいしたことはないが、最も困ったのは、穴から「噴水のように吹き出してくる」水だった。

 昨年のアパートに入居して間もない頃の1年前の9月下旬、福建師範大学教員の亀山さんがアパートに泊まった際に、彼が深夜にトイレに行った際、洗面台の蛇口の閉め方があまかったようで(※この蛇口も老朽化がかなりすすんでいたので、完全に閉めるのにコツがいった)、水が溢れて階下に漏れ出し、、階下(7階)の部屋の住民からとても怒られ、平謝りにあやまったことがあった。今回の水の吹き出しは昨年の比ではない大量の水の吹き出しだ。「どうしよう、水を早く停めなければ!!」と思いながら、手で水が噴き出してくる穴を押さえ続けた。全身がずぶ濡れになっていて、手や足から血が流れてきていた。手を離すと、水が噴き出してくる。「これ以上水が溜まって階下の住民の部屋に流れていったらどうしょう」と思いながら、20分間ぐらい頑張って穴を塞いでいたが限界だった。もうこの身一つで、なにもかも置いて、日本に帰りたくなった。

 何か穴を塞げるものはないかと思いアパート内をうろうろ探した。「包帯の布」があったので、固く固く丸めて穴に押し込めたが、水の勢いで簡単に吹き出されてきた。途方に暮れる。しばらくしてフラフラ台所に行き、なんのあてもなく「水回り」関連の銓やバブルを軒並み回し始めてみたら、なんと「トイレの水の吹き出し」が突然停まってくれた。台所のあるバブルがこのアパート全体の水道の元栓だということが初めてわかった。時刻は、深夜12時40分ころになっていた。水が停まってくれたので少し人心地がついてずぶ濡れの衣服を着替えた。階下の住民からの「怒りの苦情は今のところない」ことに少しほっとしたが、眠りについていて気が付かないだけかもしれず、翌朝にドアを「ドンドンドン」と激しくドアを叩かれて苦情を言われるのを半ば覚悟した。

 大学の外事所(外国人教員担当所)の鄭さんに、それからしばらくして事態報告の緊急の電話をしたが、真夜中の1時とあって出てもらうことはかなわなかった。もうどうしょうもないので、眠りにつくことにしたが、興奮のためが心配のためか朝まで眠ることができなかった。「これから先どうなるんだろう」「水は完全に何も使えないので、トイレもできないし、この毎日35度以上の猛烈な暑さと湿気の日々が続く中、シャワーもできないし……」「洗面所の水回りを直してくれるのはお金も日数もかなりかかるだろうな……この中国のこと、下手をすれば2〜3週間かかるかもしれない。困ったぞ!!」

 翌日の13日(水)は授業がない日だったのは幸いだった。まあ、なんとかなるしかないかと思いながら夜明けを迎えた。

 

 


途方に暮れた出来事―もうこの身一つで、なにもかも置いて、すぐ日本に戻りたくなった❶

2017-09-18 05:55:05 | 滞在記

 9月8日(金)、関西国際空港・午後7時25分発の厦門航空便・中国福州行はほぼ定刻通りに出発し、中国時間午後9時半ころ(日本時間10時半)に福州の空港に到着した。ほぼ3時間のフライト時間である。2カ月間あまり留守にしていた福州市内にあるアパートには午後12時ころに着いた。

 13種類あった鉢植えの植物は、1鉢を除いて全て枯れていた。日本は、日中もかなり涼しくなってきていたが、ここ福州は熱帯夜の世界だった。アパート室内の気温計を見ると33度となっていた。すぐにクーラーをつけた。クーラーは旧くて弱いながら、動くことができたので一安心する。トイレに行き水を流してみる。流れた。汗びっしょりだったので、シャワーを浴びる。シャワーも温水が出る。これも一安心。冷蔵庫も動いていた。部屋のライフラインがどうなっているか不安があったが、「まずまずのスタートだな」と思い台所に行く。ところが、「台所の水が出ない!!どうしたんだろう?困ったぞ!!」いろいろ試してみたがやはり出ない。この夜は疲れていたのでとりあえず眠りについた。

 翌日9日(土)の早朝に、大学外事課の鄭さんに中国に戻った挨拶と「台所の水事情」について連絡をする。彼はアパートの管理会社(不動産店)に連絡をしてくれた。その日の午後には修理に来てくれると鄭さんから連絡があった。台所廻りのことは、トイレにある洗面台の水道で賄いながら修理の人を午後12時からひたすら待った。夜8時を過ぎても修理屋さんはこない。「今日はもうこないな」と思い、9時前にベットで眠りにつこうとおもってウトウトし始めたら、「ドンドンドン」とドアを叩く音がした。「修理屋さんだ」と気が付き、ドアを開ける。

 若い修理屋さんだった。台所の「蛇口(じゃぐち)」が腐食して壊れていたのが原因のようだった。蛇口を新しいものに交換したら水が出るようになった。通常はその日のうちに修理に来てくれるのはまれなので、とても助かり感謝した。中国の水道の水は、日本のように「そのまま生では飲めない」。これは、世界のほぼどの国でもそうだ。中国の水道を10日間あまり使わないで、水道の蛇口を回して久しぶりに使うと、必ず「赤茶色」の水がゴボゴボという音をたてながら最初に出始める。30秒ほどそのまま出し続けると透明な水道水となる。

 水道水に鉄錆(てつさび)が多く含まれているためである。例えば、1年間使っている「電気ポット」は、写真のように数か月で底に鉄錆が付着して、銀色から赤茶色になる。水道の蛇口の下も、赤茶色に変色している。したがって、蛇口も鉄錆が付着して、腐食するため折れてしまうのだ。1年前の2016年の8月下旬、このアパートで初めて暮らし始めた時、数日後に蛇口が腐ってボキッと自然に折れたので、新しい蛇口に変えてから1年後、また蛇口が使えなくなっていたということがわかった。なにはともあれ、台所の水が使えるようになり、とても嬉しかった。これで、ご飯も作れる。

 翌日の10日(日)の午前10時頃、閩江大学の学生がアパートに来てくれた。パソコンのインターネット関連に問題があるので、新たに設定をやり直してもらうためだった。6月28日に日本に帰国する2週間前の6月中旬ころから日本のテレビ番組などを見ることができなくなっていた。いままでの2年間、閩江大学の楊君という学生に、インターネット関連のことは頼ってきたが、彼は卒業後の6月中旬より広東省の深圳にある日本系企業(松下―ナショナル系列)に就職が決まりそちらの方に行ってしまっているので、あまりに遠方のため頼むことができなくなっていた。

 1時間あまりで新しいインターネット設定が完了した。中国再赴任に関して、このインターネットのことが一番の心配事だったので、「やった!!」と歓喜の声をあげた。昨年8月下旬にこの民間アパートに住み始め、「水道・洗濯機・電気」などのライフラインの修理や整備にまるまる9月いっぱいを要した。まともに住めるために1か月間を要したことになる。また、インターネットに至っては、3カ月半後の12月10日になってようやく普通に使えるようになった。中国でインターネットが使えないということは、日本で携帯電話が全て使えないということ以上にとても深刻な事態となることを意味するのだった。

 昨年の、「もう中国に住みたくない!」というアパート生活の苦労から比べたら、再赴任後のわずか3日間でライフラインとインターネットがまともに使えるようになったのだから、「うわ!!これは素晴らしい。去年に比べたら月とスッポン、地獄と天国の違いだ」と思った。喜びを噛みしめて、その夜は眠りについた。

 しかし、中国生活では そうは簡単に問屋がおろしてくれなかった。中国に来て最も深刻な非常事態の一つが2日後の深夜に勃発してしまったのだ。まったくの想定外の出来事だった。初めて、「この身一つで、なにもかも置き捨てて、日本にすぐに戻りたい」という思いを持つ出来事だった。