彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都の桜❷祇園白川と高瀬川・木屋町、居酒屋街の灯りに浮かぶ夜桜―日本の200品種の"桜"とは

2021-03-28 11:30:01 | 滞在記

 10年ほど前には、京都祇園には6000軒ほどの居酒屋やスナック、クラブなどが立ち並んでいた。鴨川に架かる四条大橋や三条大橋などの橋向(む)こうの先斗町や高瀬川沿いの木屋町の飲食店を合わせるとさらに数は多くなる。昨年から続く1年以上のコロナ禍下、営業を断念し閉店した飲食店もかなりの数にのぼるかと思われる。

 京都の街中や周囲の山々の山麓の寺院や神社など、京都市には桜の名所といわれるところはとても多く、見て廻るだけでも少なくとも3~4日はかかる。そんな京都で、居酒屋などの飲み屋街の灯りの中にうかぶ夜桜の名所が高瀬川沿いの木屋町の夜桜と祇園白川石畳通りの夜桜だ。

 3月26日(金)の夕方6時前に高瀬川沿い・木屋町通りの桜を見に行った。ほぼ満開にちかい開花状況だった。ここも例年より1週間ほど満開時期が今年は早い。

 夕暮れが迫り始めた高瀬川の桜。そのほとんどが染井吉野(ソメイヨシノ)種の大木だ。夜になると飲み屋街の灯りに照らされた夜桜が見事となる。飲み屋街と川と桜のこのような光景は、桜の国・日本でも屈指のところだろう。先斗町や鴨川べりの光景ともに、世界文化遺産的に指定されてもいい光景だと思う。

 2月下旬に1年ぶりに京都を訪れていた閩江大学での教え子陳佳秀さんが、再び3月下旬に京都の桜を見に京都を訪れていた。26日(金)の午後6時、京都南座前で待ち合わせて、祇園白川石畳の通りにある赤提灯居酒屋「侘助(わびすけ)」に行く。1カ月ぶりの外での飲食となる。夕暮れが近づく中、ここの桜も満開となっていた。茶屋の灯りがともり始めた。

 乾杯のあと陳さんや初めて会うとなりの席の人たちとと会話をし、一品の日本料理をいただく。陳さんのこの日の服装は中国の伝統服・漢服風。店の前の赤い毛氈を敷いた長椅子に座り、時々、煙草を吸って夜桜を眺める。この日、店で初めて話した老年の人も煙草を吸いに縁に座る。この人は、中国の上海に種販売関連の会社を営業していたという。今は息子さんに会社を任せて、時々は会社の手伝いもして、月々の飲み代程度のお金をもらっているのだと言う。日本の野菜の種などを中国で販売し、その種で育った野菜は中国国内だけでなく日本にも輸出されていると話していた。また、他の店の客は、中国の上海に衣料関連の工場(こうば)があるようだった。今は、息子さんが単身赴任で家族を京都に残し、工場を運営しているようだ。

 午後8時頃、店を出ると、柳や桜の上の夜空に満月に近い月が浮かぶ。

 白川沿いの茶屋のほのかな灯りに、川と桜が浮かび上がる夜桜の光景。

 この日、陳さんともう一軒、カラオケスナックに河岸(かし)を変えて飲みに行く。10時半頃に四条大橋のたもとで陳さんと「再見(さようなら)」をして、私は自宅に帰るために京阪電鉄の祇園四条駅へ。特急電車に乗り、熟睡してしまい、終点の大阪・淀屋橋駅で車掌に起こされた。時刻は午前0時30分、京都淀ゆきの最終普通列車に乗り車中に。またここで熟睡し、自宅のある石清水八幡宮駅の手前の駅で目がはっと目が覚めた。午前1時半、駅前のタクシーはすでになく、しかたなく自宅まで30分ほどをかけてたどりついた。午前2時すぎからまた熟睡する。久しぶりによく飲んでよく歩いた。

 上記の桜は、左より①染井吉野(ソメイヨシノ)、②③江戸彼岸桜(エドヒガンザクラ)、④豆桜(マメザクラ)、⑤河津桜(カワヅサクラ)

 桜は万葉集では40首ほど詠まれ、古今和歌集などでもたくさん詠まれているほど、古くから日本で愛され続けた花。桜といえば日本をイメージする人が多いほど、今や世界でも有名になったが、桜は北半球の温帯地域に広く分布している。日本には接ぎ木などの品種改良などで新種の桜も育ち、現在200品種ほどの桜があるとされるが、基本の桜は10品種ほど。

 その10種とは、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンザクラ、チョウジザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、ミヤマザクラ、クマノザクラ。この10品種をさまざまにかけ合わせて新しい品種ができたり、自然交配で誕生したとされる。特に徳川時代から明治時代にかけて、庭師・植木職人などによりさまざまな今ある品種が誕生した。

 代表的なものが、現在日本の桜の8割を占めると言われるソメイヨシノ。この桜は江戸期に江戸の染井村の庭師・植木職人によってつくられた。咲き始めは赤色で、満開になると白色に近い色となる。オオシマザクラとエドヒガンザクラをかけ合わせた品種で、今日各地にあるソメイヨシノの樹木は、全て、このクローン(挿し木や接ぎ木などでの繁殖)だ。

 上記写真、左より①②山桜(ヤマザクラ)、③オオヤマザクラ(大山桜)、④寒緋桜(カンヒザクラ)、⑤大島桜(オオシマザクラ)

   早咲きの桜として知られる河津桜(カワヅサクラ)は、寒緋桜と大島桜の自然交配でできた桜とされる。

 最近では中国でも桜の花を観賞することに熱心になってきている人が多くなってきている。10年ほど前にはあまり桜の花には注目してこなかった中国なのだが、2015年以降からたくさんの人が日本を訪れ、桜を見てSNSで発信したことの影響もある。

 中国では武漢市が桜では最も有名な都市だが、日本より少し早く3月中旬ころから満開となる。昨年は新型コロナウイルスの感染拡大で、桜の鑑賞地は閉鎖されていた。もともと1930年代に武漢を占領し日本軍がここに植えたのが始まりだ。ここの桜は日本発祥のソメイヨシノ。江蘇省などにも桜の名所がある。福建省福州市の私のアパートの建物の下には沖縄と同じ寒緋桜の桜の木が1本あり、毎年2月中旬~下旬には満開となる。

 

 

 

 

 

 

 


京都の桜❶―130種類もの桜の品種・京都府立植物園―日本の道100選・疎水沿い「哲学の道」の桜

2021-03-28 06:02:23 | 滞在記

 日本には約200品種の桜があるとされるが、1924年に開園された日本を代表する植物園の一つ京都府立植物園には約130品種、約450本もの桜がある。園内の桜もまた見事だが、園の西側の賀茂川沿いの堤防に約70本ほどある枝垂れ桜の並木道「半木(なからぎ)の道」もまた見事だ。枝垂桜並木と賀茂川、そして丹波山系の山々の光景が一幅(いっぷく)の絵となる。「そうだ 京都に行こう!」のポスターにもなった光景だ。

 3月22日、昨年に引き続き、今年も娘や孫たちと植物園に一日遊びに行った。植物園の桜は、3月上旬頃から4月下旬ころまでの約2カ月間、さまざまな品種が順次見ごろを迎える。ここ京都市の桜もまた、3月上旬の寒緋桜や河津桜から始まって、約2カ月後の5月上旬頃になると比叡山山系の山々の八重桜並木が見ごろを迎える。

 園内には春の草木の花々が咲き誇る。木瓜(ぼけ)、レンギョウ、ミモザ。

 スモモ、種々の椿、土佐水木(トサミズキ)、山茱萸(サンシュユ)。

 石楠花(シャクナゲ)の花の蕾が膨らみ始めていた。開花している白い石楠花が一輪見られた。時折、雨雲がきて
「狐の嫁入り」の天候のこの日、4時間ほどをここで3人の小さな孫たちと過ごした。

 この日の夕方の5時すぎから、娘の家から近い哲学の道に桜を見に行った。今年の桜の開花は例年よりも1週間以上早い。例年だと4月上旬ころに見ごろを迎える哲学の道の桜もこの3月22日には、すでに5分咲きとなっていた。3月下旬には満開となりそうだった。

 今出川通りと白川通りが交差する京都疎水沿いの橋や銀閣寺西の銀閣寺橋を北端として、熊野若王子神社前の若王子橋を南端とする約1.6km疎水沿いの道が「哲学の道」。沿道のそばには神社仏閣が多数点在、銀閣寺、法然院、安楽寺、霊鑑寺、大豊神社、熊野若王子神社があり、南端をすぎると永観堂や南禅寺の古刹に至る。哲学の道界隈のノートルダム女学院中高等学校や東山高校、京都朝鮮中高級学校などの生徒たちの制服姿も。

 哲学の道の桜もまた品種はけっこう多い。サクランボ🍒の実をつける品種は、例年4月中旬ころに満開となり、4月下旬頃には実は食べごろとなる。4月10日頃、疎水に散り落ちた桜の花びらが疎水一面を埋め尽くす「花筏(はないかだ)」を哲学の道北端あたりで見ることもできる。

 疎水沿いの山側の大文字山や如意が岳の自然の森の山々には狐(きつね)やイノシシ、狸(たぬき)などが生息している。ここ哲学の道は、春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉が美しいが、春から初夏にかけては桜だけでさまざまな草木の花々(椿、雪柳、山吹、レンギョウ、石楠花、土佐水木など)が桜とともに咲き誇るのもまた魅力だ。 

 「哲学の道」はもともと、1890年(明治23)に滋賀県大津市から京都市蹴上にかけての琵琶湖疎水が完成した際に、疎水の分線としてここにも疎水が延ばされた。分水のためのヨーロッパ風の水道橋が南禅寺境内にある。その疎水分線沿いの管理用道路としてつくられた小道が今の哲学の道だった。

 景色や風情があるので、この小道を散策する人が増えていった。そして、文人や学者らがこの付近に多く住むようになり「文人の道」とも称されるようになる。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、思案を巡らせたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「疎水の小径」「思索の道」などと呼ばれた。西田幾多郎が詠んだ「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の句碑が道沿いに今ある。1972年、地元住民たちの相談によりこの小径は「哲学の道」と決まりその名前で現在に至るまで親しまれるようになった。

 哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。当初の桜木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、庭師の桜守(さくらもり)佐藤藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。代替わりをした今でも、桜並木の名称として「関雪桜(かんせつざくら)」とも呼ばれている。1987年、廃止された京都市電の軌道敷石を転用して、ここ哲学の道に敷石が並べられた。この年、「日本の道100選」の1つに選定されている。京都府では他に、丹後の天橋立の松林沿いの道も100選に選定されている。

 3月22日、陽の暮れもずいぶんと長くなり午後6時すぎに西山の山系に夕日が落ち始めた。吉田山にある真如堂や黒谷(金戒光明寺)さんのゴーンという鐘の音が聞こえてもくる。1970年代、哲学の道北端に近い銀閣寺隣の大学生時代の下宿から、哲学の道沿いに歩いて南端の若王子神社近くの叔母さんの家にときどき晩御飯を食べにいった。往復約3キロとなるが、6月になると哲学の道の疎水には夜にたくさんの蛍(ほたる)が乱舞していたのを思い出す。

 今朝、中国人留学生の陳さんから中国版QQメール(日本のLINEのようなもの)でたくさんの写真桜画像が送信されていた。「昨日27日(土)、哲学の道に行きました」とのこと。哲学の道は7分咲きとなり、31日頃には満開となりそうですとのコメントが。

  今日28日(日)、天気予報では、爆弾低気圧が日本列島を横断し、「春の嵐」が吹き荒れる一日となるとの予報。哲学の道の桜もほぼ満開となるようだが、春の嵐で散り落ちるかもしれない。昨年は4月11日に哲学の道に行った時に花筏を見た。今年の花筏は早まりそうで、4月3・4日ころからは見られそうだ。

 

 

 

 

 

 


韓国高校・春の選抜、民族系高校での甲子園は初出場―京都における北朝鮮系と韓国系の二高校

2021-03-22 07:41:52 | 滞在記

 春の選抜高等学校野球大会が3月19日より甲子園球場で始まった。昨年は新型コロナウイルス感染拡大を受けて中止となっていたので2年振りの開催となる。京都から京都国際高校が初出場している。この高校は民族系学校で、2004年までは京都韓国中高等学校という校名だった。

 民族系学校をルーツにもつ高校が甲子園での全国高校野球大会(春・夏通じて)に出場するのは初めてである。同校の卒業生はじめ、在日コリアンから喜びの声が上がっている。この京都国際高校は朝鮮半島の韓国系学校だが、京都には京都朝鮮中高級学校という北朝鮮系の民族系高校もある。京都市の南に韓国系、北に北朝鮮系のそれぞれの民族系学校が位置している。地元の京都民報(新聞)の「チーム一丸で歴史をつくろう―民族学校ルーツで初」の見出し記事や朝日新聞の京滋版の「一生懸命さ、22年前も今も」の見出し記事が掲載されていた。

 2つの記事によると、京都国際高校(旧京都韓国中高等学校)は1947年創立。2004年に京都国際中学高等学校となり、日本の中高一貫校として日本の文科省より日本の中学・高校として認可された。(このため、卒業生は韓国と日本の両国から卒業資格を得ることができるようになっている。) 90年代になり生徒数が激減するなか、生徒獲得の起爆剤として期待されたのが99年に創立された野球部だった。在校生で野球経験者が1人だけというなかで、初めて参加した同年夏の京都大会初戦では0対34の記録的なコールド負け。対戦相手は前年の夏の甲子園で準優勝した京都成章高校だった。

 「選手がボールを獲ってアウトにするだけで歓声があがるような状態。野球がまともにできるチームの状態ではなかった。」と、この試合は語られる。京都国際高校の小牧監督(37)は、コールド試合となったこの試合で、京都成章の二塁手として同校と対戦。「打球が飛べばヒットになった」と当時を振り返っている。その後の猛練習を経てわずか4年後の2003年の夏の京都府大会でベスト8入りをした。

 同校の卒業生たちは、「大変な思いをしながら学校をつくった先輩たちがいて、差別や日韓関係の悪化で苦しんできた歴史もあります。在日コリアンの人口も減るなか、本当に良いニュースです。スタンドで応援し、勝ったら校歌を一緒に歌いたい」、「民族学校をルーツにもつ学校で、甲子園出場という新しい歴史をつくりたいという思いが実りました。さまざまなルーツをもつ人が日本の中で暮らしているということを日本中だけでなく、世界に発信できる。全力でプレーしてほしい」などと語る。この2021年選抜高校野球で、京都国際高校は1回戦で宮城県の柴田高校と対戦する。昨日、21日(日)は雨の為全試合が延期となったため、京都国際VS柴田の試合は23日予定から3月24日(水)の第二試合(11:40から)に順延となった。

 日本全国には約4800の高等学校があるが、京都国際高校の偏差値は35と全国の高等学校の中では最下位近くに位置するが、それでも近年(2019年)の大学進学実績では、神戸大1名・同志社大2名・立命館大学4名などの進学者を出し始めてきている。生徒数は各学年45名。

   京都国際高校には7〜8年ほど前に一度行ったことがあった。甲子園出場という新聞報道を目にして、この3月15日(月)の午後、京都国際高校に行ってみることにした。京都国際高校の周囲には、泉湧寺や東福寺などの大きな伽藍をもつ古刹がある。緩やかな坂道を車で上る。道の両脇に古刹の塀が続く。高台にある京都市立日吉ヶ丘高校が見えてくる。

 この日吉ヶ丘高校からさらに山頂方面に続く道路を上って行くと京都国際高校がある。正門を入り守衛さんに来訪を告げる。甲子園出場を1週間後に控え、諸般の事情で学校内は一般には公開していないのでとのことだった。車を校内の駐車場に停めて、許可された範囲まで行ってみた。野球部の部員は北は北海道など全国から来ていて、多くが寮生活を送っているようだった。その寮があった。寮から京都市内を眼下に見渡せた。正門付近から東山三十六峰の一つの峰に近い校舎の建物が森林越しに少し見えた。

 この後、守衛さんが気を遣ってくれて、学校の校舎などの撮影が可能かどうか学校の教務教員に連絡をとってくれた。5分ほどして教務教員の人が正門まで下りてきてくれて、「せっかくお越しいただいたのですが、敏感な時期なので、一般の方には学校の構内の開放はお断りしています。すみませんが」との話。韓国や北朝鮮にルーツをもつ学校へのヘイトなどの問題も起こる可能性もあるので、かなり学校側としても警戒をしているようすでもあった。事情を察して学校をあとにした。

 翌日16日(火)、午前中に中国の大学とのオンライン授業を終え、この日の午後、京都銀閣寺にほど近い娘の家に孫3人の子守の手伝いに行くこととなった。娘の家に行く前に、久しぶりに京都朝鮮中高級学校に行ってみることにした。京都朝鮮中高級学校は実に久しぶりだった。1970年代前半の大学生の3・4回生時代、銀閣寺に隣接する下宿に暮らしていたので、銀閣寺に隣接するこの京都朝鮮にもよく散歩に行って、サッカークラブの練習のようすなどもよく眺めていた記憶がある。久しぶりに来たという感じだった。

 疎水沿いの哲学の道の小橋を渡り、銀閣寺参道の商店街のゆるい坂道を上ると正面が銀閣寺山門。右の道をゆくと15mほどでかっての下宿だが、そこを左の方の道を進むと大文字山や如意が岳、京都朝鮮学校に至る道となる。銀閣寺の塀沿いの道を行くと、大文字山と京都朝鮮中高等学校の分岐地点に。すぐに京都朝鮮中高級学校はある。学校正門には、通称「三本ペン」の校章があった。この校章は三本のペンと三つの小さなハンマーが描かれている。ペンとハンマーはそれぞれ勤勉と勤労を表す。

 1970年代当時も今も学校名は「京都朝鮮中高級学校」と、今と変わらない。いわゆる北朝鮮系の学校なので、70年代当時は運動場に面する校舎の中央には金日成主席(現在の金正恩主席の祖父・建国の英雄)の大きな肖像画が掲げられていた。しかし、今は掲げられていなかった。また、70年代当時は男子生徒は日本の高校生と同じ黒の詰襟学生服だったが、女子生徒は朝鮮民族の伝統服の黒のチョゴリだった。

 京都朝鮮の背後にある山は大文字山や如意が岳。運動場から大の字の一部が見える。また、背後の山々には中尾城や如意が岳城、将軍山城など中世・室町1500年代の山城がある。かってこの時代に戦乱の地となったところでもある。

 韓国もそうだが、北朝鮮も伝統的にサッカーが国球的なお国柄だ。この京都朝鮮高級学校もかって全国高校サッカー選手権大会(2003年)に京都府代表として民族系学校としては初出場したことのある学校だった。1994年~96年にかけて、日本の高校インターハイ大会や全国大会への参加がようやく認められ、インターハイには京都府代表として2回出場もしていた。中学生と高校生が、他のクラブと狭いグラウンドを共有し、ともに練習に励んだところだった。クラブ部室の建物やサッカーゴールが置かれていた。また、吹奏楽部も2006年と2012年に、京都府代表として関西大会に出場している。

  偏差値は公開されていないが高くはないと思われる。しかし、大学進学実績としては京都大学・神戸大学・東北大学などの国立大学や同志社・立命館・関西・関西学院などの各大学に進学している生徒も少なからずいるようだ。日本全国には、この朝鮮高級学校(高校)は9校ある。(北海道・東京などの関東圏3校・京都・大阪・神戸・広島・九州)。また、京都と滋賀には朝鮮初級学校(小学校)は3校ある。(京都市2・大津市1)

◆大阪府には、韓国系にルーツをもつ高校として大阪建国高校があり、北朝鮮系にルーツをもつ高校として大阪朝鮮高級学校がある。この大阪朝鮮も吹奏楽部は大阪府代表となったこともある。ラグビー部は1999年と2003年、2020年に大阪府代表として全国大会に出場している。2020年は全国大会ベスト4。

 久しぶりの京都朝鮮中高級学校をあとにして銀閣寺山門に戻り、娘の家に向かう。銀閣寺山門の左隣は浄土院というお寺。8月16日の大文字(五山の送り火)をとりおこなう寺院だ。学生時代の下宿の大家さんが大文字保存会の会長だったので、7月~8月期間に大文字の送り火で使う薪(まき)を山に手伝いで運んだこともあった。

 かっての下宿だったところの敷地は、銀閣寺(慈照寺)に買い取られて2階建ての新しい建物となっている。その建物の2階部分は銀閣寺の売店だ。下宿の2階の4畳半の部屋からは正面に吉田山がどんと望めた。銀閣寺の裏山から夜に一升瓶(清酒)を片手に銀閣寺境内に忍び込み息を潜めて、本堂や厨から離れた山手の義政の井戸のあたり宴会をしたこともあった。今、娘が暮らす家の近くに、赤提灯居酒屋「夢二」という店があり、さまざまな大学の学生たちなどで、何かしらの議論をしていた店でもあった。下宿の隣の部屋の京都大学フランス文学科の学生は学生運動で警察に逮捕され、いつのまにかいなくなった。そんな時代だった。

 元下宿跡地から法然院に向かう。山ぎわの石垣が苔むした小路に椿がたくさん落ちている。家々には季節の花で海棠(かいどう)や馬酔木(あせび)などが咲いている。哲学の道の桜の蕾は1~2輪が開花し始めていた。娘の家に向かう。

 京都朝鮮学校といえば、映画「パッチギ」。2005年に全国で上映され、その年のキネマ旬報最優秀作品賞(1位)なども受賞した作品だ。監督は井筒和幸。映画の題名「パッチギ」とは、朝鮮語で「突き破る、乗り越える」の意味。1968年の京都を舞台に、日本人と在日朝鮮人の青春群像を描いた。若者たちの心の叫びが深い感動を呼び起こす映画だ。日本と在日朝鮮の高校生が巻き起こす恋、友情、ケンカといった様々な事件を、涙と笑いをたっぷり盛り込み描いた超ド級の青春エンタテイメント映画。

 1968年、京都市の府立高校の平凡な2年生の康介(主人公)が、担任の先生から京都朝鮮とのサッカー親善試合を申し込みに行くよう頼まれ、親友と一緒に、或る日、恐る恐る 他校生徒との喧嘩沙汰の絶えない京都朝鮮に行く。康介は音楽室でフルートを吹くギョンジャ(ヒロイン・沢尻エリカ)に一目ぼれをする。そこから青春群像の物語が始まる。映画には、「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」などの曲が流れる。出演者には、塩谷舜、高岡蒼佑、沢尻エリカ、真木よう子、小出恵介、オダギリジョー、加藤亮、余貴美子、大友康平、笹野高史、三石研、前田吟などの層々たる配役。

 映画ロケの撮影は京都市内各地で行われた。京都朝鮮の高校生たちが銀閣寺参道の坂道を駆け下るシーンでは、道の両脇に並ぶ商店街のみなさんが、撮影のために、朝6時7時から店を開けていかにも営業しているよう演出に協力。また、1968年という設定のため、昔の看板を設置したり、新しい幟(のぼり)は一時的に下げてくれるなど。撮影場所は円山公園、鴨川、宝ヶ池、銀閣寺参道、賀茂大橋、祇園、新京極、京大西部講堂、哲学の道などなど。

 京都市内には朝鮮初級学校(小学校)は3校あったが、現在は2校となっている。最も朝鮮にルーツを持つ人たちが多く暮らしていたのはJR京都駅の南にある九条界隈だった。この界隈にあった京都朝鮮第一初級学校が、2009年にヘイト集団に襲撃をされるという事件が起きた。(当時の児童数150人)  ヘイト集団は「在日特権を許さない市民の会(在特会)」のメンバーなどの右派系団体。

 まず校門前で拡声器街宣活動のヘイトを展開。「ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。なめとったらあかんぞ。叩き出せ。」「日本から出ていけ。何が子供じゃ、こんなもん、お前、スパイの子供やないけ」「約束というもんは人間どうしがするもんなんですよ。人間と朝鮮人とは約束は成立しません」などと怒声を上げ、朝礼台を門扉に打ちつけ、サッカーゴールを横倒しにするなどの騒ぎを起こした。このため、4人が逮捕・起訴された。京都朝鮮襲撃事件と呼ばれる事件だ。

 映画「パッチギ」で朝鮮高級学校の番長(ヒロインの兄)を演じた高岡蒼祐の演技も強烈な印象を残した。この番長のモチーフ(モデル)ともなったとも言われる一人の実在の人物が2017年に64歳で亡くなった。大阪ミナミ在住で、破天荒な生き様を周囲から愛された在日朝鮮人の朴安鍚(パクアンソ)さんだ。映画の中にこんな場面がある。—李アンソン(番長)が、サッカー・ワールドカップ(W杯)出場の夢を目指すため、北朝鮮への帰国船に乗ることを周囲に宣言する―。

 実在の朴アンソさんは、大阪朝鮮高級学校サッカー部で活躍しながらも、当時の大会規定で全国大会に出場できなかった。この実体験を、井筒監督は主人公に反映させていた。朴さんは生きていれば私と同じ年齢だ。

 この1年、週に一度は娘の家に孫の世話の手助けに行く。そして今、午後5時半ころに、銀閣寺バス停には下校する京都朝鮮中高級学校の生徒たちがバスを待つ。女生徒たちの制服はチョゴリではなく、普通の制服に変わっている。学校のリュックカバンにはピンク色の「KYOTO」だけの文字が。生徒たちは京都府内や滋賀県内から通学してきているようだ。大阪府や和歌山県、奈良県からは大阪朝鮮中高級校に通学する。そして兵庫県内などからは神戸朝鮮中高級校へ。

 歌「イムジン河」の歌詞、「イムジン河 水清く とうとうと流る 水鳥自由に群がり飛び交うよ‥‥誰がこの祖国を 二つに分けたのか‥」。南北朝鮮半島の統一を、朝鮮半島民族の人々はもう70年も待ち望んできた。私も民主的統一国家としての統一を望む。しかし、金王朝とも呼べる実質・皇帝制度の北朝鮮の政治体制とそれを支持し支える大国の中国。民主主義国としての南北統一はなかなか難しい。そんな70年にわたる歴史に、日本在住の朝鮮半島にルーツをもつ人たちは、これからも翻弄され続ける年月がまだ続く。一党独裁・個人独裁の政治体制・権力構造は本質的に人々を分断する政治体制だ。

 新型コロナウイルスのパンデミックを巡ってアメリカ国内では反中国感情が高まっているが、アジア人へのヘイトや暴行、集団殺人事件などが最近では顕著になってきているとの報道もされる。その国に住む外国人へのヘイト、愚かしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東京夏五輪・北京冬五輪、五輪開催を巡って―日本人としての矜持(きょうじ)

2021-03-20 16:46:55 | 滞在記

 2月以降、東京オリンピック・パラリンピックの開催、及び組織委員会を巡って、眼を覆いたくなるような混乱が続いてきている。2月上旬、「会議に女性が多いと時間がかかる」との失言?を追及され、翌日に謝罪会見をした森喜朗組織委員会会長。IOC・国際オリンピック委員会も森氏の発言は極めて不適切とコメント。謝罪で一件落着かと思いきや、辞任に追い込まれた。

 こんな中、毎日放送(TBS)「グッとラック!」(朝の報道番組)でコメンテーターを務めているタレントのロンブー淳氏が聖火リレーのランナーを辞退することを番組内で発表。その理由とは、森会長がコロナ感染対策のためには、市・県道や国道だけでなく「田んぼの道を聖火ランナーが走ることもある」との発言への怒りだと話した。ロンブー淳氏は、自ら希望して愛知県犬山市内の区間を走る予定だったが、たったこれだけの理由で辞退した。感染対策としてコースを変更して田んぼ道を走るということもありうる。ランナーをバカにしているとのロンブー淳氏のコメントは、彼の五輪などへの見識の低レベルを示すものだが、「グッとラック!」の司会者の立川志らく氏も含めて、番組自体の程度の低さを感ぜずにはいられなかった。

 森氏の後任を巡る人事。森氏からの要請で川渕三郎氏(五輪選手村村長・Jリーグ初代チェアマン)が後任を引き受ける流れとなりかけたが、密室での会長人事決定への批判を懸念し、政府もこの人事案に難色を示し、川渕氏は辞退。森氏が「女性の話は長い」と発言してしまったその女性とも目されるのが谷口真由美氏。彼女は森氏と同じく日本ラグビー協会に所属し理事も務めている人だ。

 TBSの日曜朝の報道番組「サンデーモーニング」に、コメンテーターとして時々出演していたが、なかなか優れたコメンテーターがそろうこの報道番組の中で、彼女一人はだらだら話す程度の高くないコメンテーターとの印象が強い人だった。肩書は「全日本おばちゃん党代表代行」、出身大学の「大阪国際大学教授」、「大阪大学非常勤講師」など。40代のはじめでなぜ、「全国おばちゃん党代表代行」なのか、売名ねらい的な、何か引っかかる嫌味っぽい感じの人との私の印象だった。

 森氏が彼女に対して私同様の思いをもっていたとしても不思議ではない。ポロっと出てしまったのだろう谷口氏などへの思いが。ちょっと森氏や川渕氏が気の毒にも思える面もあるが、しかし、JOC(日本オリンピック委員会)会長のポロリの一言でも、公の場で言ってはいけないことであるとは思う。彼はまたジェンター的には首相経験者の政治家としても不見識だ。

 中国のインターネット記事でも、「太突然!他提出辞職 森➡川渕」との見出し記事が掲載されていた。JOCの後任会長人事は、結局、橋本聖子五輪大臣に決まったが、彼女の過去の男性へのセクハラ行為問題が週刊文春などで掲載されるなど、東京五輪があと半年後に迫る中、世界にさまざまな恥をさらした2月となってしまった。

 朝日新聞の東京五輪開催に関する世論調査結果が2月中旬に発表された。2月13・14日に調査されたもののようだ。それによると、①「21年夏に開催」(昨年12月・30%➡今年1月・11%➡2月・21%)、②「再び延期」(昨年12月・33%➡今年1月・51%➡2月・43%)、③「中止」(昨年12月・32%、今年1月・35%、2月・31%)となっていた。

 こんな東京五輪への世論の中、鳥取県知事の丸山達也氏が「県内での聖火リレーの中止を検討する」との発表会見を行った。中止検討の理由として①コロナ感染拡大の問題への政府の対応への批判、②島根県内の飲食業者に対する政府補償金などに関する不満を挙げていた。まあ、丸山氏は基本的には「五輪開催」そのものに反対だった考えだったようだが、それにしても、知事としての、日本の政治家としての総合的見識の小ささにはちょっと驚く。

 中国での2022年2月の北京冬のオリンピックまで1年をきった。アメリカやイギリスなど欧米諸国から、中国共産党政権の人権問題(香港や新疆ウイグル自治区)への批判が、この北京冬季オリンピックへの参加も含めて、改めて問題が大きくなってきている。アメリカ政府は議会も含めて中国政府のウイグル族への政策を「ジェノサイト」と認定。北京冬季オリンピックの開催にも影が射し始めてはいる。

 中国政府は東京及び北京でのオリンピックに参加する選手や選手団・役員などへの、新型コロナウイルス対策として中国製造ワクチンの配給支援を行うと発表。IOCのバッハ会長はこれを歓迎する会見を行った。中国はすでに、アジア26か国、アフリカ34か国など計80か国と3国際組織に中国製ワクチンの対外援助を行うことを決定していると、19日に中国新華社通信が報道した。(香港では中国製ワクチンを接種した人のうち6人が死去した。香港行政長官の林鄭月娥氏は、「死者のことよりもワクチン効果のほうが上回る」とコメント。)

    中国は現在、中国製ワクチンを接種した証明があれば、中国入国に際しての2〜3週間隔離を免除することを検討し、実施に向かうこことなりそうだ。中国製ワクチンの全世界への承認・普及、北京冬季五輪を見据えた、世界に先駆けた対策を実施しようとしている。

 世界の新規コロナ感染種数は最近に至りやや減少傾向とはなっているが、既存のウイルスにとってかわり変異種の感染拡大が世界的に広まってきている。この変異種ウイルスへの各国のワクチンは効くのかどうかの不安も。ヨーロッパのフランスやイタリアでは変異種の感染拡大で再びロックダウン政策が開始されている。

 そんななか、日本では東京はじめ一都三県の緊急事態宣言の解除が明日21日に行われる。東京の新規感染者数は300~400人を推移、昨日の全国の新規感染者数は1400人台と3月上旬を大きく上回っても来ているなかでの解除だけに「お手上げ解除」とも報道されている。3月4月5月にコロナワクチンを接種して感染対策を行うという日本政府のねらいも、この変異種などの広がりの中で不安が高まる。感染拡大予防策の基本中の基本であるPCR検査の国民的広範な実施をこの1年間ずっと先送りにしてきた安倍政権、特に菅政権のコロナ対策の失政責任は大きいものがある。

 そして、3月中旬すぎに、東京五輪・パラリンピック開閉会式の演出を総括する佐々木宏氏が突如辞任した。中国の新浪体育は、「東京五輪 またも不祥事 演出家が女性タレントをブタに変装させる案」と報道した。タレントの渡辺直美さんの容姿をもじって開会式で「東京オリンピッグ」のピッグ(豚)にかけるという駄洒落のような演出の案を1年前ラインで提案していたことが問題視され、辞任になった。この佐々木氏の程度のあまりの低さに同じ日本人としてとても恥ずかしさと怒りを覚える。

 最新号の週刊ポストには、「こんな状況下の中で五輪を開催する意味なんてあるのか」というテーマでの特集記事が掲載されていた。2月上旬に発売されたビートたけしの『コロナとバカ』(小学館新書)。書籍表紙帯には、「ウイルスよりよっぽどヤバいぞ、日本人。」「いつからこの国はこんなに薄っぺらくなっちまったんだ?」の言葉が。ビートたけし氏は東京五輪開催に反対の意見。その理由として、「そろそろ日本は、サッカーやラグビーの世界大会や五輪、万博、カジノ誘致などのお祭り依存の体質から抜け出した方がいい」ということなのだが。まあ、それはそれでわかるが‥。

 2021年1月18日付の私のブログ「東京五輪中止となれば、"22年北京冬季五輪"は人類がコロナ克服と中国政府アピール大会になるが❶❷」でも書いたことだが、この東京五輪中止決定の場合は、さまざまな面で日本が、日本人が失うものの大きさは、これまたはかり知れないものがあるだろう。日本人、日本としての誇り、「喪失感」である。聖火ランナーを人気取りのように辞退したロンブー淳氏や丸山島根県知事に、日本人としての矜持(きょうじ)はあるのだろうか…。東京五輪中止のネット世論や報道に、大阪府枚方市で聖火ランナーとして走る予定のタレントのハイヒール・リンゴさんは、「走りたい人も大勢いる‥。聖火ランナー辞退を"称賛"の世論や報道に悲しい」と語る。

 来週の3月25日から東京五輪に向けた聖火リレーが東北の福島からスタートする。海外からの観客はなくして開催する方針が打ち出される方向のようだ。「コロナに人類が打ち勝った証の東京五輪」には程遠いが、それでもまだ、「コロナに人類が打ち勝とうとしている東京五輪」の開催となればいいとは思うのだが‥。

 東京五輪完全中止となれば、日本、日本人が失うもののはかり知れない大きさを思うと‥。改めて思うが、2021年2月に、中国習近平主席に「人類が、とりわけ中国共産党が導く中国政府と中国人民が、コロナに打ち勝った証となった五輪開催をここに宣言します」と言わしめていいのだろうか…。どんな顔をして、どんな気持ちで日本人はこの北京五輪をテレビで視聴するのだろうか…。歴史のパロディ、悲喜劇が近づきつつある2021年3月の世界。そんなことを感じながら、東京五輪の行方(ゆくえ) を見守っている。

 

 

 

 

 

 


やはらかに 柳あをめる かも川の 岸辺目に見ゆ 春おとづれる―石川啄木、吉井勇、谷崎潤一郎

2021-03-13 08:42:10 | 滞在記

 京都の鴨川(賀茂川)河畔の柳が芽をふき いつのまにか青めいてきた。出町柳橋のたもとにはレンギョの黄色い花も開花してきている3月10日。鴨川べりの河畔には柳の大木が多い。ここ出町柳橋から五条大橋あたりまでの2kmほどの川辺に間隔をとって柳のけっこうな大木が並んでいる。四条大橋たもとの柳から大橋の向こうに東華菜館の建物。

 石川啄木(1886-1912)の歌集で、春の訪れの光景を詠んだ歌が何篇かある。

 やわらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 

 こころよく 春のねむりをむさぼれる 目にやはらかき 庭の草かな

 何処(どこ)やらに 若き女の死ぬごとき 悩ましさあり 春の霙(みぞれ)降る

 そんな啄木の歌にあるような春が今年も京都にやってきてくれた。啄木の歌を借りれば、やわらかに 柳あをめるかも川の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに‥。啄木の「泣けとごとくに」の一句は、喜び・悲しみなど、さまざまな思いがくみとれる。3月上・中旬、日本でのコロナ禍下も1年が経過した。今年も鴨川べりの柳が青めいてきてくれた。

 3月11日は東日本大震災がおきて10年目となる節目の日となった。石川啄木の故郷・渋民村は岩手県盛岡市の北方にある村だが、村内を北上川が流れる。啄木の生家の近くには狼峠山など300~500mの低山の山々があり、北上川流域の平地が広がる。

 ふるさとの 山に向かひて言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな   (啄木)

    やはらかに 積もれる雪に熱(ほ)てる頬を 埋づむごとに恋してみたし (啄木)

    東北岩手の桜は4月下旬ころに例年満開を迎える。かって宮沢賢治が教鞭をとったことのある岩手大学構内を5月上旬の訪れたとき、枝垂れ桜が満開となっていた。そのことから考えると、北上川流域の柳が青めるのは京都よりも1か月ほど遅い4月上旬・中旬ころなのだろうか。

 東日本大震災のあと、河津桜などの早咲きの桜を植えたところがこの岩手県の太平洋沿岸の町にあると聞く。大津波に呑まれたくさんの人が亡くなった町々。大津波が町の山の麓の上まで押し寄せた。津波がきたその地点の高さの山の傾斜地にずらっと河津桜を植樹したのだと言う。この桜より上に逃げよと後世に伝え、津波で命を呑まれた人々の鎮魂ともなる桜。東北岩手では3月11日ころには河津桜は5分咲きを迎えるころとなるのかと思う。

 3月10日、立命館大学に用があって、鴨川べりの出町柳ちかくのバス停に向かう。京阪電鉄の出町柳駅近くの長徳寺の塀沿いにこれも早咲きの桜がもう満開となっていた。桜の名前は「おかめ桜」。桜の幹枝に桜の名前が書かれた札(ふだ)が吊り下げられていた。万葉集か何かの歌も記されている。

 我が恋に くろぶの山のさくら花 まなく散るとも 数はまさらじ

 このおかめ桜は なんでもイギリス人の桜研究家の人が、寒緋桜(かんひざくら)と豆桜(まめざくら)を交配して作出した品種のようだ。桜の名前「おかめ」の由来は、その名の通りお面の「おかめ」。日本の美人の「おかめ」にちなんで名づけられたのだという。花は小さく、下を向いている。花言葉は「しとやか」「高尚」。

 日本の桜前線は例年、2月中旬に沖縄や九州・四国・本州で寒緋桜が咲き始め、2月下旬には河津桜が咲き始め、そしてこのおかめ桜が3月上旬から咲き始める。今年の染井吉野(ソメイヨシノ)の桜開花予想は、例年より少し早く、この京都市では3月19日開花、3月下旬には満開となるようだ。コロナ禍下、2度目の桜前線がやってきてくれた。ありがたきかな日本の桜だ。

 このおかめ桜が咲いている長徳寺のとなりの寺は通称・萩の寺。ここの白木蓮も開花し始めていた。今の季節、まだ椿の花も美しい。幕末の幕臣・勝海舟の京での定宿となっていた寺のようで、海舟を訪ねてここに坂本龍馬も来たようだ。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝く」の主人公・渋沢栄一と龍馬とは、日本の未来へのその志向性として共通したものがある。海舟や龍馬もこの白木蓮を見ているかも知れない。

 昨日の12日、家からほど近い木津川・桂川・宇治川の三川合流地(合流して淀川となる)である「背割堤」に早朝の散歩に行ってきた。1.4kmの背割堤防に221本の染井吉野の大木がずらりと堤防道の左右に並ぶ。ここは、全国桜名所人気ランキング5位となっているところ。堤防沿いの河川敷では桜の下でバーべーキューが許可されているので、毎年、関西各地から人々が来て楽しむ。

 昨年は全国的にコロナ緊急事態宣言が出されていたので、バーベキューはここでも自粛となっていた。今年はどうなるのだろうか。昨日見た染井吉野は、蕾(つぼみ)はまだ小さく固いが、少しだけピンクがかっている蕾も見られた。4月上旬頃には満開となる今年の予想のようだ。

 今、ここの「花桃」の2本の大きな木が開花していて3分咲きといったところ。あと1週間もすれば満開となりそうだ。桃の原産地は中国の黄河上・中流域。中国由来の「桃源郷」という言葉があるが、桃は中国では梅花・桃花・牡丹(ぼたん)花と中国三大名花の一つ。日本には飛鳥時代頃に中国より早くに伝わったとされる。花も綺麗だが果実が美味しいからでもある。染井吉野の桜の開花や満開のほぼ2週間前に開花・満開となるのが桃とされる。

 背割堤から木津川の向こうに石清水八幡宮のある男山、宇治川や桂川の向こうに天王山が見える。昔は、この背割堤で三川が合流する地に橋本宿があった。今でも遊郭だった建物が数軒現存する。まだ30歳の若い頃、ここ八幡市にある学校に赴任することが決まり、その学校の校長に最初に住まいとして紹介され連れていかれたのが元遊郭の建物内の一室だった。

 ここ八幡の橋本と対岸の天王山の麓の大山崎の水無瀬を結ぶ淀川の渡し舟があった。川の中に中洲がある。ここを舞台にした小説・文学が谷崎潤一郎の『蘆刈(あしかり)』。男山の中腹に文学碑がある。碑は『蘆刈』の一節が刻まれている。次の一節だ。

 わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるようにまんまるな月を背にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのようなつやを含み、まだどこかに夕ばえの色が残っている中空に黒く濃く黒ずみわたっていた。

 また、谷崎潤一郎と親交のあった歌人の吉井勇(いさむ)[1886-1960・享年74]は、この男山の山麓にある月夜田というところに住んでいたことがあるので、ここ八幡や男山にちなんだ歌もけっこう多い。

 蘆を刈る ころ越後より うつり来て すでに六月の月夜田の里

 石清水 八幡みちを往くときは 雄(おす)ごころ起る何か知らねど

 ここ男山山麓月夜田の吉井の家には、親交のある志賀直哉・谷崎潤一郎・画家の梅原龍三郎などがよく来たようだ。この吉井勇は、石川啄木と同じ年に生まれた。そして1909年に、啄木らと歌集雑誌の『スバル』を創刊している。吉井勇は、京都の北白川界隈などにも長年居を構えていた。そしてそこからよく祇園や木屋町に通っていた。有名な歌に「かにかくに」があり、今は歌碑となって祇園白川石畳の通りに置かれている。

 かにかくに 祇園は恋し 寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる

 この歌は『スバル』に掲載された。この「かにかくに」の歌碑のある付近に昔、「大友」という茶屋があった。ここの芸妓にお多佳さんという人がいて、彼女は小説が好きで、俳句や書画を心得、三味線の名手でもあったようだ。このこともあり、「大友」には夏目漱石や谷崎潤一郎や吉井勇など有名な作家文人や画家などがよく来たと伝わる
。吉井の歌は、ここ祇園や鴨川沿いの木屋町界隈にちなんだものも多い。たとえば。

 京の夜(よ)や 遊びのはての寂しさを  かたるがごとき宗達の幅 (※宗達の幅とは、安土桃山時代の絵画三大巨匠の一人・俵屋宗達の絵のこと)

 木屋町の 酔へるがごとき夜のいろに 見惚れて君を忘れし子なり

 女紅場(にょこうば)の 提灯あかきかなしみか 加茂川の水あおき愁(うれ)いか

 いさぎよく われの心を擲(なげう)たむ 祇園の一夜(ひとよ)見し君のため

 香煎(こうせん)の にほひしづかにただよへる 祇園はかなし一人歩めば

 清水(きよみず)へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき

  吉井はまた、森繁久彌らが歌った「ゴンドラの唄」の作詞をした人でもある。

 「ゴンドラの唄」

一、いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを

二、いのち短し 恋せよおとめ いざ手を取りて彼(か)の船に いざ萌ゆる頬をきみが頬に ここにはだれも来ぬものを 

三、いのち短し 恋せよおとめ 波に漂(ただよ)う舟の様(よ)に 君が柔手(やわて)を我が肩に ここには人目も無いものを

四、いのち短し 恋せよおとめ 黒髪の色あせぬ間に 心のほのお消えぬ間に 今日はふたたび来ぬものを

 天王山の見える宇治川に黒い水鳥が数羽、ここをねぐらにしているのか、蘆の繁みから小さな小鳥とともに浮かぶすがたを早朝に眺める。

 祇園の吉井勇の「かにかくに」歌碑のあるそばに、いきつけの赤提灯「侘助(わびすけ)」がある。コロナ緊急事態宣言があけて、3月8日から営業を再開しますとの連絡があった。ひさしぶりにちょっと飲みに行こうかな。侘助の前の祇園白川石畳に数本ある柳の大木も"柳あをめる"となっているだろうな。

◆吉井勇の「かにかくに」歌碑は、昭和30年(1956)に勇の70歳の古希の祝いに、友人の谷崎潤一郎らによって建立された。この歌碑の建立から4年後に勇は没した。祇園にある建仁寺の僧堂で営まれた告別式の際には、式場まで100メートル余りの道の両側に喪服姿の祇園関係の女たちがぎっしりと立ち並び会葬者を驚かせたという逸話がある。毎年11月8日には「かくかくに祭」が祇園のお茶屋組合の人たちによって行われている。祇園を愛し、祇園から愛された吉井勇。

 吉井勇の歌で、「かにかくに」とともに、次の歌のまた秀逸だ。

 美しき人みな悲し祇王寺に 祇王を思い君に及ばぬ

この歌の意味は、「その昔、平家の平清盛が惚れた京都一の美女・祇王より、あなたの憂いを含んだ横顔は私をうっとりとさせ恋焦がれてしまいます。疲れて京都の宿で寝ていたが、さっきまでの人との淫らなときを思い出すとまた抱きたくなる。たえまなく流れる加茂川のせせらぎのようにはてることのない流れのように、あなたへの思いは、祇王も及ばない」との深読みの意味になるだろうか。

 吉井勇は50歳ころまでは漂泊の詩人ともよばれた波瀾の人生でもあったが、京都に居をかまえてからはそれなりに平穏な日々を送るようにもなった。勇、晩年のころの歌。

 京に来て わが世はげしき起伏(おきふし)を 思ひかえしぬ秋のころに

 われ老いて 心やうやく和(なご)めるや   世をいきどほることすらも稀(まれ)

    京に老ゆ 如意嶽(にょいだけ)ちかきわびずみも あと二三年のことにあらむか (※如意嶽は大文字山の背後の山)

    私もあと1年半で古希となる。世をいきどおることも 稀ではないが、吉井勇のような歌もちょっと詠みたくもなった。