彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都府「八幡(やわた)の太鼓祭り」―全国的にも珍しい、御輿(みこし)に"人と太鼓 "が乗る祭り―地元の若者(男女)たちがたくさん参加

2023-07-31 05:07:11 | 滞在記

 京都府南部を流れる桂川・宇治川・木津川の三川(さんせん)が合流して淀川となる三川合流地に京都府八幡市がある。ここは古代の奈良時代から交通(水陸)の要衝でもあった。この三川合流地域に男山(標高143m)があり、麓から山の中腹一帯、そして山上にかけて、日本三大八幡宮の一つである石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)がある。(本殿などは国宝) 

 この神社は伊勢神宮に次いで格式の高い神社として、古代の平安時代から人々の崇拝を受けてきた。創建は859年。「やわたのはちまんさん」と呼ばれ、人々に親しまれもしてきている。平安京(京の都)の南西の鬼門として、都(みやこ)を守る神社でもあった。男山の麓には門前町ができ、現在の八幡市につながってきた。(橋本地区には、対岸の天王山の麓の山崎との間に渡し舟があった。現在もこの地区には遊郭だった建物がけっこう残されている。)

 石清水八幡宮は創建当時から国家、皇室、さらに武家の守護神として崇拝されてきたためか、もっぱら八幡(やわた)の地域の人々が心のよりどころにした氏神(うじかみ)は、石清水八幡宮の摂社の一つであり、男山の山麓にある「高良(こうら)神社[860年創建]だった。

 そして、江戸時代後期の1820年頃に八幡の町の人(郷民)が高良大明神を氏神として始めた祭りは「八幡(やわた)の太鼓祭り」(高良神社例祭)と呼ばれ、現在も八幡の夏の風物詩として受け継がれてきている。(明治維新の時代の「鳥羽伏見の戦い(1868年)」では、八幡も戦場となり、混乱のため祭りはその後に中断された。明治中期になりようやく復活したが、昭和の1959年から再び途絶えることとなった。そして、1982年~85年にかけて、地元住民や青年会により復活をした。)

 毎年7月15日には、各地区の御輿が町内を練り歩き、16日の夕方6時過ぎには高良神社前に各地区の御輿が集結し、神社の前の参道を、午後6時30分~午後9時までの間、何度も練り歩く「宮入(みやいり)」で、祭りのクライマックスを迎える。2020年からのコロナ禍下のため4年ぶりの「八幡の太鼓祭り」の「宮入」となった。

 高良神社は小さな神社だが、鳥居の近くには見事なイチョウの大木が2本あり、毎年11月には美しく黄色いイチョウの葉を見せてくれる。この神社に関しては、鎌倉時代の随筆『徒然草』(吉田兼好筆)の第52段に、仁和寺の法師が、かねてから念願であった石清水八幡宮を参拝に来たが、山上に本宮(本殿)があることを知らず、山下(山麓)の極楽寺や、石清水八幡宮の「一の鳥居」の横にある「頓宮(とんぐう)」や高良神社を拝み得心して帰ってしまったという逸話が記されている。

 この麓には石清水八幡宮の「放生池」や放生川に架かる太鼓橋、二ノ鳥居などもあり、京阪電車「石清水八幡宮駅」からも徒歩2〜3分ほどの場所にある。(私の妻の母親は、現在98歳になるが、「私らの若い頃わあ、一度は、はちまんさんに詣でてえ、八幡の簪(かんざし)を買って帰るのがあ夢でしたわ」と語っていた。

  高良神社や頓宮、太鼓橋そばの境内には10軒ほどの露店も出ていて、たくさんの人で賑わっていた。

 この太鼓祭りの宮入を、7〜8年前に見て、それ以来久しぶりだが、以前よりも祭りの活気がとても増しているように思えた。祭りに来ているたくさんの人たちの、80%余りが10代〜20代の地元の若い人たちなのだ。まさに、地元の若い人たちに愛されている祭りになってきていることが感じられた。特に、たくさんの若い地元の女性たちが、髪型も祭りに合わせてきめてきているし、衣装も祭り衣装や、祭りTシャツ姿だ。

 「八幡の太鼓祭り」は、全国的にも珍しい、御輿(2トン余り)に人と太鼓が乗り、その御輿を上下左右に大きく揺さぶりながら、「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声も勇ましく、町内を練り歩く勇壮な祭りだ。太鼓と人を乗せた大きな「屋形御輿」が町内ごとにつくられ、御輿に据えられた太鼓を四方から力いっぱい打ち鳴らし(ドンドン ドンドンドン)ながら市内を廻る。この御輿を担ぐ担ぎ手と、その御輿につきそい「煽る(あおる)」(煽ぎ手/主に若い女性たち)の息ピッタリの気迫に、観る人も心踊る祭りだ。

 4年ぶりに開催された八幡の太鼓祭りの宮入には、各町内・地区の「子供御輿」が2基、各町内・地区の「御輿」が4基、合計6基の御輿が勢ぞろいしていた。歩行者天国となった神社前の道路には、祭り法被(はっぴ)を着た若い男女たちがカップ酒や酒のつまみを広げて一杯飲みをしているそばを人が歩いている光景もまた、この地元の若い人たちにとって身近な祭り感が感じられる。

 三川合流地の木津川や宇治川に架かる御幸橋を渡れば、すぐに京都府伏見区の淀となる八幡の町の太鼓祭りは、京都市内の祇園祭とはまた違った、魅力のある祭りでもある。それは、地元の若い人たちの参加(御輿の担ぎ手や、御輿につきしたがう若い女性たち)エネルギー発散の魅力だろうかとも思われた。

 

 

 


4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した❹―後祭の花傘巡行、山鉾巡行、奉納舞、そして還幸祭—水への祈りと祇園祭

2023-07-30 13:45:22 | 滞在記

 7月24日(月)の午前中、祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行や花傘巡行が執り行われた。午前10時過ぎに四条大橋の上を花傘巡行の先頭・巫女(みこ)たちの行列が進んできた。白と赤の装束と花笠を被った女性たちは、何か神秘的だ。

 花が入った大きな籠が通る。2匹の獅子舞たちが、沿道の人たちに向かって大きな口を開ける。馬に乗った平安時代末期から鎌倉時代の装束の子供の騎馬。

 和服の着物姿の女性たちも通って行く。中国の楊貴妃・日本の卑弥呼や小野小町をイメージした女性たちも通る。京都五花街の女性たちの姿はあでやかだ。もともと、この花傘巡行(1000人余りの人による)は、1966年に前祭と後祭のそれぞれの山鉾巡行が統合されて17日に全ての山鉾が巡行することになったので、後祭の24日の日に、山鉾巡行に代わって始められたものだった。そして、2014年に再び前祭と後祭にそれぞれ山鉾巡行が行われるようになってからも、この花傘巡行は執り行われることになった。私はこの花傘巡行が好きだ。

 午前10時30分頃に、後祭の山鉾の先頭が四条大橋近くの四条河原町交差点にさしかかった。前日の宵山で見た南観音山の山鉾だ。全10基の山鉾が巡行し、そして、しんがりの山鉾は大船鉾。

 午前11時すぎに山鉾巡行を見終えて、八坂神社に向かう。八坂神社から四条大橋までの四条通に面した商店は、店先のウインドウに生け花を展示するというのも、この祇園祭の習わし。八坂神社の山門を入るとすぐに手を清めるところがあるが、ここには向日葵(ひまわり)が花手水(はなちょうず)として生けられていた。

 八坂神社の本殿前の舞殿の舞台では花街の女性たちの舞が披露(奉納)されていた。(国宝である本殿の建物の下には池があり、その池の地下水路には洞穴があり、龍神が住むとされている。)

 舞台では鷺舞(さぎまい)や少女たちの舞踊なども披露されていた。(※7月10日には、岩見神楽がこの舞台で演じられ奉納もされた。)

 そして、後祭のクライマックスが還幸祭(かんこうさい)だ。午後9時すぎから10時までに、市内中心地区に置かれていた3基の神輿(みこし)が八坂神社に戻って来る。その3基が山門前に揃い、そのようすを見るために沿道は人であふれる。

 7月25日には八坂神社の舞殿で狂言奉納が行われ、28日には、道を清める5m余りの大松明(たいまつ)に先導され、神輿が四条大橋まで運ばれ、鴨川の水でを含んだ榊(さかき)で清められる(神輿洗)。そして、31日には八坂神社内の疫神社で夏越祭が執り行われ、1か月間にわたった祇園祭が締めくくられる。

■祇園祭とはいったいどのような本質をもった祭典・神事なのだろうか。祇園祭の起源や由来、そして1000年以上にもわたって脈々と続いてきたこの祭りの本質とは何なんだろうか。祭りは、かっては祇園社と呼ばれてきた八坂神社が執り行う神事(神輿など)と、町衆が執り行う行事(山鉾巡行など)の二つの側面がある。だからこそ、日本の他の祭りでは見られない、1か月間にもわたる多彩な諸行事が執り行われる。

■おそらくこの祭りの本質の一つは、「水への信仰」だ。天地異変や疫病などを鎮める祇園祭は、「水への祈り」に本質があると思われる。京都には丹波山系にその源流をもつ鴨川や桂川という川があり、明治以降は疎水もある。そして、高瀬川なども‥。さらに、古都・京都の町の下には巨大な地下水の水脈がある。これらの水が、さまざまな禍いを清めてくれるという水への祈りだ。これが、祇園社(八坂神社)が執り行う神事に流れている。

そして、もう一つは「自治」ということだろう。室町時代の中期ころから、町衆が力をつけはじめ、この「自治」というものを大切にし始めたのだ。そのあたりことは、映画「祇園祭」にも描かれる。

■「水への祈り」と「自治」、この二つが祇園祭というものの本質的なことなのかと思われる。今日は、7月30日(日)、明日で1か月間にわたった今年の祇園祭も終わる。私の日本滞在もあと1か月余りとなった。8月31日には中国に戻ることとなる。それまでに、私は「水への祈り」、鴨川の何箇所かの源流の場所を訪ねてみようかと思っている。

 

 

 

 


4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した❸―後祭の宵山を巡る―禁門の変で焼失した「大船鉾」と「鷹山」

2023-07-30 05:28:22 | 滞在記

 1か月間にわたり繰り広げられる祇園祭は本来、山鉾の巡行は7月17日の前祭(さきまつり)と、7月24日の後祭(あとまつり)に分けて行われていた。だが、1966年から2013年までの47年間、山鉾巡行は17日にまとめて行われた。しかし、本来の2度に分けて行う祇園祭の形に戻そうという気運が高まり、2014年から前祭と後祭を実施する現在の形式となっている。

 7月23日(日)の午後、祇園祭の「後祭(あとのまつり)」の宵山を巡ってみることにし、まず「大船鉾」を見に行った。梅雨明けした京都は、連日35度余りの熱波の日々が続いていたが、女性たちの浴衣(ゆかた)姿が涼し気(げ)だ。大船鉾に登ってみることにした。(登り拝観料500円)

 24日の後祭の山鉾巡行では主役となる鉾の天井一面には板絵があった。大船の上から眺める景色はなかなか壮観。この大船鉾は、元治元年(1864年)の「蛤御門(禁門)の変」による戦火で焼けてしまった。そして、2014年に、150年ぶりに復活し、後祭の山鉾巡行のしんがりとして、その雄姿を披露した鉾だった。 

 次に南観音山や北観音山に向かう。二つとも高い鉾だ。20名余りの山伏の一団が、法螺貝を吹き鳴らしながら祇園祭の各山鉾がある町内を巡ってもいた。北観音山の鉾がある町屋に入ると、立派な書画の屏風が陳列されていた。祇園祭の各山鉾がある町内の町屋には、いろいろな屏風がこの祇園祭の期間は陳列し拝観できる。

 「光琳百花図屏風」というものも陳列されていた。この屏風絵の由来は次のように書かれていた。「尾形光琳の百花屏風を、1782年に円山応挙がある人の求めに応じて写したものである。」と‥。円山応挙による尾形光琳作品の模写だが、見事な屏風絵だ。このような屏風絵が、いたるところで無料拝観できるのも、この祇園祭の楽しみの一つだ。

 鷹山(たかやま)に行く。浴衣姿の小学生の女の子たちが粽(ちまき)などを売る掛け声がなかなかの風情。この鷹山もまた、蛤御門(禁門)の変による火災で本体の山鉾も完全焼失した山鉾だった。(1826年に、大雨により山鉾の懸装品が損傷したため、山鉾巡行に参加できなくなっていた。)そして、大船鉾の復活に触発され、鷹山のあった町内でも復活の機運が高まり、昨年の2022年、196年ぶりに復活し、都大路を巡行した。

 この鷹山の近くの町屋の「ちおん舎」という家で、「鷹と生きる時代」という講座が行われていた。会場の家には、写真展示「雪原を征く―孤高の鷹匠・松原英俊」や絵の展示「姫川明輝絵画展」(展示即売)も行われていた。狼や鷹の墨絵は、なかなか素晴らしいと思った。(特に狼の墨絵には魅了された。)

 炎天下の宵山の町中を巡っていると鷹山の山鉾の近くに「Holly,s  Cafe」という喫茶店があった。喫煙席室もあるようなので入ってしばし休息をとった。たくさんある店内の席は、宵山に来ているお客さんで賑わっていた。

 三条通を歩き、京都文化博物館に立ち寄る。京都市内にある星野画廊のコレクションより約120点が展示された「少女たち」展が開催されていた。博物館の一角の部屋には、「2023 うちわ展」(無料)も開催されていた。

 京都文化博物館より鴨川に向かって少し三条通を歩き、「イノダコーヒー本店」へ。外にあるテラス席(喫煙可)は、暑さのためか、ほとんど他の客はなし。タバコを吸いながら店の京都新聞を読んでいると、「少女たち」展のことが一面に書かれている記事もあった。テラス席の噴水から流れる水の音が、少し涼しさを与えてくれる。噴水には2匹の亀の置物が‥。

 三条通りのアーケード商店街にあった「サラセン」という名の土産物店で、中国の福建省福州市に住む王君や林君に送るものを何個か買った。三条大橋下の河原には、涼(りょう)を求める人たちが座りながら川面のに佇む。青鷺(さぎ)が魚を狙って、ずっと立っていた。時刻は午後5時頃となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した➋―祇園祭の由来と歴史―1968年の映画「祇園祭」、中世1500年代の祇園祭を描く

2023-07-29 17:18:43 | 滞在記

 1968年11月23日に公開された映画「祇園祭」は、公開から2カ月間余りで約30万人の観客動員数を記録し、これまでの公開後2週間の映画観客動員数記録としては、空前の大ヒット作品となった。京都市出身の作家・西口克己の同名小説「祇園祭」を映画化したものだった。私も映画は、大学生時代の1970年代に、京都映画サークルの上映会で見たことがあった。映画で描かれる時代背景は中世1500年代の1500年~1533年頃。

 映画の主役は中村錦之助、そして三船敏郎と岩下志麻。他に、田村高廣・志村喬・北大路欣也・高倉健・渥美清・中村賀津雄・下元勉・田中邦衛・佐藤オリエ・伊藤雄之助・永井智雄・美空ひばりなどなど‥。物語のあらすじは大まかには次のようなものだった。

 足利将軍(室町幕府)の世継ぎ争いに端を発した応仁の乱(1467年~77年)は、京都の町を荒廃に陥れた。笛の好きな織物職人の新吉(中村錦之助)は、土一揆(農民一揆で馬借も加わった)のあったある夜、笛の上手な不思議な女・あやめ(岩下志麻)を知り、荒れた御堂の中で一夜を共にした。翌朝、家に帰った新吉は、母が武士に殺されたのを知った。一方、相次ぐ一揆に手を焼いた幕府管領の細川晴元は、京の町の町人を集めて一揆の本拠地である山科に攻め入らせた。そこには虐げられた農民に味方する馬借(運送業者)の頭・熊佐(三船敏郎)がいた。新吉たち町民は武士たちとともに、熊佐たちの一揆勢の一隊と戦ったが、武士たちは逃げ、結局は町衆たちは武士たちに利用されているだけだった。

 戦いが終わって、新吉の心には武士階級に対する不信感が強くなった。町衆たちも税金を支払わないことで対抗しようとしていたが、そのためには町衆の団結力を見せる必要があった。そこで新吉は、戦乱で三十三年間も途絶えていた町衆の祭典・祇園祭を再興しようと考えた。新吉はその相談に、貧乏公家の言継(下元勉)を訪ね、そこであやめと再会した。言継はあやめに祇園祭の祇園ばやしを習えと勧めたが、それをあやめは断った。彼女は河原者(被差別地区の住民で、町衆からも差別されていた。)の娘で、町衆とは素直に心を通じ合えなかったのだ。その頃、幕府管領は税金を払わない町衆に、関所を設け関税を払わせることで対抗した。そのため、京に入る食料は欠乏し、町人たちは飢えに苦しんだ。

 新吉は、殺されることを覚悟で熊佐に会いに行き、米を運んでくれるよう頼んだ。熊佐は一言のもとに拒絶したが、そこに現れたあやめの説得で、新吉の依頼を引き受けたのだった。熊佐の一隊が、米を運んで京の町に現れた時、町衆は熱狂して出迎えた。やがて、いつか身分を越えて心の通じ合うようになった新吉とあやめは、祇園ばやしなどの笛の練習に幸福な日々を送るようになった。

 祇園祭の準備は着々と進んでいた。一方。武士たちはこの祭りを中止させようとしていた。ついに祭の日が来た。盛大に装いを凝らした山鉾がゆるゆると動きだした時、武士たちや比叡山延暦寺の僧兵たちが立ちはだかった。だが、彼らは熊佐たち馬借の一隊に退けられた。しかし、物陰から放たれた矢で新吉は重傷を負ってしまう。胸に矢をつき立てたまま、新吉は熊佐の手を借りて山鉾に上がった。蒼白な顔で仁王立ちになった新吉の姿は、京の町衆の象徴のような状況となり、武士や僧兵たちはあまりのその気迫に手出しができなかった。山鉾巡行の道が開き、再び山鉾が動き始めた時、新吉はそのままの姿勢で息絶えていた。

■当時、立命館大学文学部日本史学科の教授だった林屋辰三郎の「町衆論」も参考にしながら、西口克己が小説「祇園祭」を執筆した。農民・町人・被差別地区住民が団結して、時の支配階級である武士や寺社勢力に立ち向かう姿が描かれている映画だ。応仁の乱後、1485年~1493年までの8年間、京都府南部の山城地方では、「山城国一揆」が起きて、農民や国衆の36人を代表として自治を行った歴史的背景もあった。

―祇園祭の由来と歴史―

 平安時代前期の869年、京都で疫病が流行したり、全国的な天地異変が頻繁に起きたこの時代、広大な庭園だった神泉苑(中京区の二条城南にある)に、当時の日本の国の数にちなんで66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるように祈ったのが始まりとされる。2019年には、この祇園祭の1150周年を祝うほど、長い歴史をもつ祭りだ。八坂神社は明治時代になるまでは「祇園社」と呼ばれていた。現在の山鉾巡行の始まりの原形は、鎌倉時代末期の1321年頃からとされている。(※猿楽などの演目や鷺舞など、さまざまな付祭の芸能も祭り期間中に演じられるようになった。)

 室町時代になると、京の町の商工業者(町衆)の自治組織が誕生し、町ごとに趣向をこらした山鉾も作られ巡行するようになり、室町時代中期には洛外洛中図屏風に見られるような、今日につながる山鉾巡行などが成立したものと考えられている。そして、応仁の乱による33年間の中断を経て、1500年に、祇園会(祭)が再興された。1533年には祇園社(八坂神社)の本山である比叡山延暦寺の訴え(当時は神仏習合の時代)により祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は延暦寺側や幕府の祇園会中止命令に反して、(神事は中止されたものの)山鉾巡行は行われたという。このことから、当時すでに、この祇園会(祇園祭)は、町衆がその中心を担っていたことがうかがえる。

 ■映画「祇園祭」は、この1500年の祇園祭再興と1533年の出来事を時代背景として描かれたようだ。

 1600年の関ヶ原合戦の年、祇園祭での山鉾巡行は中止となった。その後、江戸時代に発生した京都の三大大火事によっても山鉾は大きな被害があったが、山鉾巡行などの祇園祭は行われ続けた。さらに、1864年の「禁門の変」による「どんど焼け」で京都の町は戦場となり、多くの家屋や山鉾も焼失した。しかし、焼失を免れた山鉾だけで巡行した。そして、第二次世界大戦により、1943年から1946年の4年間は、祇園祭での山鉾巡行は中止された。

 ■山鉾巡行が始められた室町時代中期から、この山鉾巡行が中止になったのは、1600年と1943年~46年の二つの時期だけだったが、2020年・21年は、新型コロナ禍のため、山鉾巡行が中止されることとなった。そんな歴史をもつ祇園祭。

 

 


4年ぶりに、通常の祇園祭が復活した➊―祭りのいくつものクライマックス(前祭17日・後祭24日)、そして、それぞれの宵々山・宵山

2023-07-29 11:58:15 | 滞在記

 日本三大祭の一つに挙げられる祇園祭は、毎年7月1日から31日までの1か月間、京都市内の中心部や八坂神社(東山区)で行われる。祭のクライマックスの山鉾巡行(17日と24日)や神幸祭(17日)や還幸祭(24日)をはじめ、多彩な祭事が1か月間にわたって繰り広げられる。7月に入ると、京都市内中心部の町角のアーケードには、祇園祭の提灯が飾られ始めた。

 気象庁による今年の近畿地方の梅雨明けは、ほぼ平年並みの7月20日だったが、実際には7月15日頃には梅雨が明けていた。梅雨明けを最も正確に感知するのは、おそらく気象庁よりも蝉(セミ)だろう。梅雨明けを知ると、夜のうちに地中から出てきて近くの木に登り、そして脱皮して飛び始める。私の自宅近くの公園のイチジクの木には、7月15日にたくさんのセミの抜け殻が見られ、この日からセミの鳴き声が一斉に響きわたるようになってきた。この日は祇園祭の宵々山(よいよいやま)の日。

 7月15日(土)、祇園祭の宵々山の風情を見に、夕方の5時頃に京都・鴨川に架かる四条大橋を通りかかった。川辺にはたくさんの人が座り、涼(りょう)をとっていた。浴衣(ゆかた)姿の女性たち、たくさんの外国からの観光客も宵々山の風情を楽しみに来ていた。

 午後6時から午後11時までは、祇園祭の山鉾(やまぼこ)が立ち並ぶ四条通や烏丸通は、自動車の通行が止められ、歩行者の道路(歩行者天国)となった。

 午後6時30分頃になると、この二つの道路はたくさんの人で埋め尽くされていた。3年間にわたる新型コロナウィルス感染禍で、20年・21年は山鉾巡行は中止され、宵々山や宵山も中止された。22年には山鉾巡行や宵々山・宵山は実施されたが、会場は大きな制限がされることとなった。そして、この2023年、4年ぶりに山鉾巡行や宵々山(15日)、宵山(16日)が制限なしの通常開催として完全復活した。

 7月17日(月)の午前9時から祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行が行われた。四条大橋に近い四条河原町交差点にはたくさんの人が集まり、山鉾の行列を見守った。

 山鉾の側面には美術的価値の高い織物が飾られ、「動く美術館」とも称される。この日の前祭の山鉾は23基が巡行。

 この山鉾の巡行も見ものだが、それ以上に、この前祭で最も勇壮で見応えのあるのが「神幸祭」だ。午後6時頃に八坂神社の山門前の道路(東大路と四条通り交差点)に集合した3基の神輿(みこし)[八坂神社の神様たちを乗せている]が、ここから京都市内中心部を練り歩き、市中に鎮座する。1か月間にわたる祇園祭は、全国的にも例を見ないほど、実に多彩な祭事が執り行われる祭りでもある。