彦四郎の中国生活

中国滞在記

新型コロナワクチン接種を巡って➊—大きな不安もある中、2回の接種を終えた

2021-06-29 10:09:36 | 滞在記

 私の家から車で15分ほどのところにある、木津川に架かる「木津流れ橋」(上津屋橋)。木津川の源流域は三重県伊賀上野市や名張市周辺の山地。この川の中流域に木造の木津流れ橋が架けられている。全長356mで木造橋としてはとても長い橋で、京都市に隣接しているため時代劇での撮影も多い橋だ。橋の周囲には、緑色の濃い浜茶とよばれる茶が江戸時代の1800年代より栽培され抹茶の原料茶となっている。1953年に架けられたこの橋、今年で68年目を迎えるが、これまでに23回ほど流されている。

 白っぽい広い川原の砂の上に石でさまざまな文字や言葉、マークなどがよく書かれている。それは橋の上からよく見える。そして大雨や洪水のたびにその言葉や文字なども流される。今年の5月4日付の京都新聞に、「"コロナに負けるな"の石の文字 京都の流れ橋の砂州に登場」の見出し記事があったので、近いうちに見に行こうとおもっていたが、5月20日頃の近畿地方の豪雨で木津川も氾濫し、「コロナに負けるな」の石文字は流されてしまったようだ。5月25日に行ってみたが見つけられなかった。

 ただ、「ワクチン」と読み取れる石文字の文章は一部残されていた。この石文字文章が、「ワクチンを早く打ちたい」だったのか、「ワクチン打つな」だったのかは分からない。ワクチン接種の是非を巡って、日本国内でも家族内でも賛否が分かれている。

 私は現在68歳なので、この4月中旬ころに市からコロナウイルス接種券が郵送されてきた。接種予約申し込みは5月10日午前9時30分より。3週間あまり、ワクチン接種をするかどうかで大いに悩むこととなった。接種した場合の副反応に関するする恐怖があったからだ。40代のころ、心臓のカテーテル検査での造影剤にアレルギー反応し、重篤なアナフィラキシー症候を経験したからだ。もうこれで死ぬのかなあと脳裏に浮かぶくらいの呼吸困難と全身の蕁麻疹(じんましん)反応だった。カテーテル検査は即時に中止された。

 このため、ワクチン接種について、主治医や京都府に問い合わせ相談。そして、接種を申し込む決断をした。中国への再渡航をするために、ワクチン接種は必須だろうというのが、接種を希望した100%の理由だった。それがなければ、おそらくアナフィラキシーが不安で接種は見合わせただろう。

 「新型コロナワクチンを接種したアメリカ人女性が明かす、実際の"副反応"に関する体験談」と題されたネット配信のニュースなど、副反応や死亡例などの報道など多く読んだり、日本のテレビ報道などを見たりした。アメリカ人女性が接種したワクチンは米国モデルナ製ワクチンだが、かなりの辛い副反応の経験談が書かれていた。造影剤アレルギーをもつ日本の女性の死亡例も読んだ。不安の中、接種予約開始日を迎えた。

 5月10日午前9時30分、予約開始時刻の3分ほど前から、「市内3箇所の大規模接種会場」への電話予約の番号に電話をかけ始めたが、まったくつながらない。9時40分ころになり、インターネット予約の方法を始めたら、けっこう早く(15分ほどで)に予約が完了した。ちなみにこの日、予約ができたのは市内の65歳以上の3000人ほどとのことを後の報道で知った。(集団接種予約1500人、25の医療機関[病院]接種1500人)  医療機関での予約はかなり難しかったようだ。市内の2万人超の65歳以上の人のうちの3000人だからかなりの倍率だった。

 第一回目の接種は5月23日(日)、私は午後4時開始の時間帯だった。私の妻もこの日の午前10時20分からの時間帯予約で接種した。基礎疾患もあり、アナフィラキシーの前歴もあるので、接種後の経過観察時間は通常の15分ではなく30分。この日、ビールなどを飲まず、早めに就寝した。翌朝起きると、接種した腕に軽い筋肉痛が起きていたが、半日あまりでその痛みもなくなった。この日もビールは飲まずに早めに就寝した。接種後2日間が経過したが、アナフィラキシーショックは起きず、副作用もほぼなかった。安堵した。友人から「どうやった?大丈夫やった?」と心配してくれる電話をもらった。ありがたかった。

 2回目接種は6月13日(日)。2回目の方が副反応が出やすいとの報道もあったので心配したが、2回目の時は翌日の接種箇所の筋肉痛も起きなかった。

 市の方は、第一回目の5月10日の接種予約でそれなりの混乱もあったので、次回予約からは大型接種会場を増やしたり、電話回線を15回線に増やした。7月以降の会場ではクーラー設備のある中学校体育館での接種予定をしている。

 私が接種した米国ファイザーワクチンは1回目の接種で新型コロナへの抗体は20%程度でき、2回目接種で90%~97%の個人の体に抗体ができると報道されている。米国モデルナワクチンもほぼ同様だ。個人差はあるが、接種後1週間~2週間で抗体が形成されるらしい。日本では5月26日、青森県立中央病院の医療関係者で2回接種を終えた501人の抗体獲得率調査が実施され、2回目接種から7日~14日後で、490人の抗体獲得が確認されたと報道された。97.8%の人が抗体獲得ということだ。だから、2回目接種で2週間経過したら抗体がほぼできているとのこと。

 1回目接種と2回目接種は3週間の間隔が設けられている。最長6週間の間隔までは抗体獲得の有効性があるとの報道もなされていた。

 第2回目接種から2週間後の6月26日(土)の午後、京都市内の京都大学近くの京都教育文化センター(教文センター)に、「花のあとさき—ムツばあさんの歩いた道」というドキュメンタリー映画を見に行った。この映画は、NHKが18年間にわたり記録し放映されてきた人気ドキュメンタリーシリーズ「秩父山中 花のあとさき」を映画版に編集したものだった。2時間近いドキュメンタリー映画だったが、なかなか優れた映画だった。

 教文センターの道路向いに京都大学病院や京都大学医学部、薬学部の大学構内がある。その大学構内に立ち寄ってみた。「ウイルス・再生医研究所」の建物群や「iPS細胞研究所の建物群などが建ち並ぶ。現在、世界が直面している新型コロナウイルス感染などに関する調査や研究などを行っている日本のトップ研究棟群だ。

 ここにiPS細胞研究所所長の山中伸弥博士、「8割おじさん」で著名となった西浦博博士(昨年8月に北海道大学から京都大学へ転勤)、『京大 おどろきのウイルス学講義』(最近発刊されたPHP新書)の宮沢孝幸博士などがいる。

 医学部構内の建物の前のアジサイの花が美しかった。

 医学部構内近くの鴨川に架かる丸太町橋から、比叡山や丹波山系、医学部構内方面を望む。

 ワクチン接種については、家族内でも、夫婦間でも意見が違うところも けっこう多いようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幕末最大の悲劇「水戸天狗党騒乱」❹353人が敦賀で斬首さる、その3年後に明治維新となる

2021-06-27 06:39:02 | 滞在記

 1864年12月17日、新保にて降伏した800余人の天狗党は敦賀に連行される。敦賀湾(日本海)に面した海辺に日本3大松原の一つである"気比(けひ)の松原"が続く。この松原にほど近い寺院などに800余人は分宿し、丁寧な扱いを受けながら、裁きが来る日を待っていた。ところが翌年の2月1日に、江戸幕府若年寄(幕閣)の田沼意尊が敦賀に到着するや、天狗党たちに対する扱いは過酷を極めるものへと変わっていった。海岸近くの16棟の鰊蔵(にしんぐら)に800余人が押し込められた。水戸天狗党には従軍を共にした婦女子も十数人いたとされる。行軍中の食事づくりの仕事などをしていたのだろうか。(※日本三大松原は他には、静岡の"三保の松原"と佐賀唐津の"虹の松原")

 北海道などと行来きする北前船で運ばれた鰊などを貯蔵する鰊蔵内は、魚の腐臭と人間の糞便臭が充満し、太陽の光も薄暗い建物に、極寒の中に裸で足枷をはめられて832人が置かれることとなる。それほど広くない1棟の蔵内に50人ほどが押し込められた。処刑(斬首)は田沼意尊の到着早々の2月4日から始められた。その処刑場の野原に、大きな穴が13箇所掘られ、2月23日までに353人が処刑され死体が埋められた。

 斬首された353人の首のうち、首謀者たち24人の首は水戸に送られ、天狗党員たちの家族は幼い子も含めて水戸藩の実権をにぎっていた諸生党派によって捕えられ、敦賀より運ばれた父や夫や息子の首の前で殺されていった。水戸天狗党として新保で捕えられた者の中には、10代の少年たちも十数名いた。彼等を含め、斬首処分を逃れた者約400人余の多くは罪人としての遠島処分や他藩預、追放などとなる。

 気比の松原に近いところに、斬首されたり、病死や戦死した水戸天狗党の共同墓があった。入り口には「史跡 武田耕雲斎等墓及び松原神社案内図」と書かれた大きな絵地図看板や「水戸烈士殉難之碑」「水戸烈士追悼碑」などの石碑が立つ。「水戸天狗党ウォーク完歩記念碑」の石碑には、「この動乱で2万人が死亡。膨大な死者の霊を弔う。—水戸天狗党がたどった1100kmの道のりを38日間で21人が完全踏破した」と書かれていた。

 水戸天狗党は水戸を11月1日に出発し12月11日に新保に到着しているので40日間をかけていた。大砲なども数門曳きながら、途中で戦闘もあり、当時の狭い街道や山道、多くの峠道を越えての1000人余の行軍であった。

 墓地の前には武田耕雲斎の銅像が立っていた。その後ろには「水戸藩士墳墓」。その墳墓丘の上に並ぶ墓群、一つの墓にたくさんの人の名前が刻まれている。墓群中央の少し高所にある墓には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など天狗党幹部の名が。塚と墓の周囲には梅の名所である水戸の地にちなんで、梅の木がぐるっと植えられていた。

 墓には「討死」や「病死」などの文字が刻まれた墓もあった。それぞれの墓には細かく名前が刻まれていた。武士階級ではない者たちの墓もあった。名字はなく名だけの墓だ。このあたりは当時は刑場とともに野辺の墓がたくさんあった野原。処刑され首を切られた遺体は13箇所の大穴に埋められ、掘り出された土で塚が盛られた。明治期になり、13箇所から遺骸が回収され、その時から1箇所に遺骨は埋め戻された。そしてその上に墓が作られて現在に至っている。

 塚を側面から見る。この地面の下に水戸天狗党で斬首された353人の他に、病死や戦いで討ち死にした人たち約400人ほどの遺骸が眠っているのだろう。

 この墓群から、今は道路を隔てたところにある松原神社の方に向かう。この神社は1875年(明治8年)に創建され、越前の地などで亡くなった天狗党の人たちの霊を祀っている。この神社の境内に1棟の鰊蔵があった。第二次世界大戦後に、鰊蔵はすべて取り壊すことになったが、地元の人たちからの歴史的保存を望む声が高まり、2棟が残された。このうちの1棟がここ松原神社に、そしてもう一棟は茨城県の水戸市(回天神社)に移築される。1965年に水戸市と敦賀市は姉妹都市関係を結び、交流が続いている。 

 鰊蔵を見る。建物の中の広さはどれくらいあるだろうか。なにか、私の母校だった田舎の小さな小学校の講堂より少し狭い感じかと思えた。

 斬首の処刑が行われた来迎寺は、水戸天狗党の墓地と武田耕雲斎の像があるところと隣接している。かなり大規模な原野の中に、今は敦賀市民の家の墓地が延々と続く。ここはかっての刑場でもあった。13の大きな墓穴はこのあたりにあったのだろう。それが今は、1つの墓穴に遺骸がまとめられ葬られている。かっての刑場だった原野・墓地を歩き、さらに来迎寺境内を歩く。けっこう大きな寺だ。寺の山門に至る。かっての敦賀城(城主は関ヶ原の戦いで戦死した西軍の大谷刑部)中門が移築されたものだ。 

 昔はここも松が多かったのか、松の大木が野原や墓地に数本見えた。

 この天狗党処刑の場面は、「青天を衝く」でも描かれていて、津田寛治が演じる武田耕雲斎が心に残った。武田耕雲斎の辞世の句は、「討つもまた 討たれるもまた 哀れなり おなじ日本(やまと)の みたれと思へ」。

 死罪とならず遠島などの処分や他藩預り、追放などの処分となった者たちのその後の行方だが、3年後の戊辰戦争で薩摩・長州などの新政府軍に参加した者も少なくないようだ。この天狗党に参加していた武田金次郎は当時はまだ16歳の少年だった。祖父は武田耕雲斎、母は藤田東湖の妹で、藤田小四郎は叔父にあたる。金次郎の父も天狗党に参加していた。年少のため、武田耕雲斎や藤田小四郎らの一族にもかかわらず、死罪とならなかったのはこの一連の処罰の中で奇跡にちかい。天狗党参加者で他藩預かりとなった者で、100人余は若狭の小浜藩預かりとなった。彼等が暮らした建物の跡地は福井県美浜町佐柿の国吉城城下にいまでも残っている。小浜藩は彼らを准藩士として待遇した。

 武田金次郎らは1868年の戊辰戦争時に水戸帰藩が許され、藩内の諸政党派との戦いに参加する。諸政党の多くは戦いに敗れ東北の会津藩などに逃れる。水戸藩内に残された諸生党の家族や一族たちに激烈な惨殺報復を開始した。会津に逃れていた諸生党軍は再び水戸に向かい、水戸城奪還を目指すが戦いに敗れる。まさに、血で血を洗う悲劇的な水戸藩内での10年間あまりに及ぶ悲惨な歴史があった。

 金次郎は水戸の諸生党が壊滅されたのち、明治新政府よりその役を罷免され、その後、流浪の生活を送り、伊香保温泉の風呂番などをしながら、みすぼらしい小屋に暮らし、物乞いのような境遇にて48歳で生涯を終えた。

 この水戸天狗党騒乱における越前国での資料などを展示する特別展が「水戸天狗党 敦賀に散る」と題されて、天狗党騒乱150周年の年の2014年に福井県文書館(福井市)で開催されている。また、今年の7月7日から8月3日までの期間で、「天狗党~武田耕雲斎からの手紙~」と題された特別展が敦賀市立博物館で開催予定。敦賀の新保の地の耕雲斎から、琵琶湖湖北の海津まで出陣していた一ツ橋慶喜にあてた手紙などが展示されるのかと思われる。

 天狗党内に知古も多くいた渋沢栄一(1840-1931)は、この天狗党騒乱の時は25歳となっていた。1884年、渋沢栄一はここ敦賀の地を初めて訪れ、天狗党が斬首された地に来ている。彼が45歳の時だった。その後、1914年に墓が改修される際には寄付金を寄せている。渋沢栄一や喜助なども、巡り合わせによってはこの天狗党の一員となっていた可能性も十二分にあったようには思われる。

 幕末の1858年から68年までの10年間、明治維新の魁(さきがけ)となった水戸藩、そして長州藩。この10年間でさまざまな藩で多くの人が戦死したり、斬首されたりもした。佐幕派(幕府派)と討幕派(反幕府派)、さらに尊王攘夷派などに藩内が二分され、多くの争いがあった。また、戊辰戦争における会津藩の悲劇などもあった。しかし、水戸藩のような藩内での血で血を洗う報復が繰り返された悲劇性は薄い。この意味で、幕末最大の悲劇がこの「天狗党の騒乱」などにおいて2万人もの犠牲者が出た水戸藩での出来事はすざましかった。

 長州藩内で大きな思想的影響を与えた人物として松下村塾を主宰した吉田松陰が知られている。安政の大獄で死罪となった。水戸藩での思想的影響の大きかった人物が、藤田東湖だった。私の一族は、神戸の灘にある剣菱酒造の杜氏が多い。父も祖父も杜氏(酒造蔵の工場長)だった。私も一時、剣菱酒造に勤めたこともあった。この江戸時代から銘酒として有名な酒「剣菱(けんびし)」の一升瓶の包み紙には、藤田東湖の七言絶句の漢詩が記されてもいる。東湖はこの剣菱が好きだったようで、漢詩には剣菱を呑むときのことが詠われている。

 京都への帰路、敦賀から西近江路の滋賀県との国境、山中峠を越えて湖北に入る。一ツ橋慶喜や渋沢栄一や喜助らが天狗党鎮圧のために海津まで来ていたが、その海津の山々の麓のマキノのメタセコイヤ並木とその周りの水田が美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幕末最大の悲劇「水戸天狗党動乱」❸天狗党が本陣とした新保陣屋の建物、幕府・諸藩包囲網

2021-06-26 06:00:31 | 滞在記

 今庄宿から日野川沿いに旧北陸道(現在の国道365号線)を車で走り板取宿に、その付近で道は旧北陸道と旧北国街道(現在の国道365号線で、栃ノ木峠[標高538m]に至る)に分岐する。旧北陸道である木ノ芽峠のある山々の下につくられた長い木ノ芽峠トンネル(1738m)をぬけて敦賀市の新保集落に向かう。トンネルをぬけたところから国道476号線となる。

 木ノ芽峠トンネルを敦賀側にぬけると、「木ノ芽峠1.6km」の矢印看板が目に入る。車を駐車してこの木ノ芽峠に至る木ノ芽古道とよばれる山道をしばらく歩いていく。

 道に木の枝が落ちているなあと前方を進み、その枝を越えようとした時、その木の枝にふと目を落とすとなんと、大きな蛇だった。危ないところだったが間一髪で後ろに飛び退いた。蛇も鎌首を持ち上げ始めた。6月上旬になり、ついに蛇が出没する季節となっていた。

 車に戻り新保集落に向かう。田植えがされた新保の棚田が美しい。国道の峠道を下り、脇道に入り新保集落に入る。もう何百回もこのあたりの国道を走っているが、新保の集落に入るのは初めてだった。現在は、20~30軒ほどの集落だが、かってここも宿場だったようだ。この宿場で泊まり、木ノ芽峠を越えて板取、今庄の宿場に至り越前国に入る。

 集落の中ほどに、"水戸天狗党の新保陣屋"とよばれている建物があった。門には「武田耕雲斎本陣」と書かれている。雪中の木ノ芽を越えて、1864年12月11日に水戸天狗党820人余はここ新保に到着した。おそらくここの集落の村人たちも近在に逃れて誰もいなかったのではないかと思う。

 当時、問屋を営んでいた塚谷家の屋敷を本陣として使った。門から入ると、規模は小さいが書院造りの建物があり、ここに武田耕雲斎や藤田小四郎、山国兵部などの天狗党幹部たちが詰めていたのだろう。かっての水戸藩の重臣だった山国兵部はこの時74歳という高齢だった。

 積雪のある新保集落内で休息をとっていたものの、この集落の四方周囲は間道も含め、すべて各藩の軍勢が包囲網を敷いていた。6月13日放映の「青天を衝く」で、渋沢喜助が耕雲斎や小四郎たちと面会する場面があったが、この新保陣屋での場面である。天狗党騒乱から157年を経過した今も、この陣屋跡の建物がしっかりと現存しているのは驚きでもあった。ここで、耕雲斎は琵琶湖湖北の海津まで出陣してきた一ツ橋慶喜に手紙を書き、使者に託してもいる。

 包囲網を敷く藩の一つである加賀藩から、武装解除・降伏勧告の使者が新保陣屋に来た。12月17日に幕府や諸藩の総攻撃を開始するのでそれまでに決断してほしいとの使者。16日から17日の早朝にかけて、この陣屋で降伏か徹底抗戦か、それとも戦って京都にさらに向かうか、それとも若狭街道や山陰道の鳥取藩を経てから長州に向かうか‥。激烈な議論がされたようだ。(※山陰の大藩、因幡国鳥取藩32万石の当時の藩主は一ツ橋慶喜の同年齢の兄である池田慶徳。水戸藩の尊王攘夷派は、この藩に対して親近感をもっていた。)

 耕雲斎は降伏を決断した。徹底抗戦を主張する者たちの数名は新保を去って行ったが、途中で彦根藩と交戦し、全員が戦死した。

 陣屋周辺は野原に覆われていた。ムラサキツユクサが大きく育ち美しい。点在している民家の一つに「温泉桑野屋旅館」という字が薄く残る建物があった。かっての宿場町の名残りを感じる。新保集落のバス停付近から集落や木ノ芽峠のある山を見上げる。この日、陣屋の建物を訪ねていた人と出会った。石川県の金沢から来ていた人だった。「青天を衝く」をよく見ていて、それで、水戸天狗党の陣屋をみに来ましたとのこと。

 ここ新保で武田耕雲斎は歌を詠んでいる。「片敷(かたし)きて 寝(いぬ)る鎧(よろい)の 袖(そで)の上に 思ひぞつもる 越(こし)の白雪(しらゆき)」  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幕末最大の悲劇「水戸天狗党動乱」❷—NHK大河「青天を衝く」、6月、2回にわたり放映

2021-06-25 18:47:33 | 滞在記

 1842年に阿片(アヘン)戦争が起き、中国清朝軍がイギリス東洋艦隊に完敗を喫して南京条約を締結、香港島などを割譲させられ多額の賠償金を支払う。欧米諸国の東アジア侵略が本格化し始めた。このころから日本では、国防意識が高まるとともに、尊王攘夷思想が影響力を持ち始める。日本にも欧米列強国が迫りつつあったからだ。1853年、ついに米国のペリー総督率いる艦隊が日本に来航、いわゆる黒船の来航である。この年から、日本の国情は動乱を迎え始める。

 徳川幕府の国是である鎖国を続けるべきか、それとも鎖国を解いて列強諸国と通商条約を結ぶべきか。ここにきて、「尊王攘夷」思想とその運動は沸騰し始める。この尊王攘夷思想及び運動の中心となったのが、藩主徳川斉昭の水戸藩だった。水戸藩は歴代、水戸学とよばれる勤王(尊王)思想が強い藩であり、徳川御三家の一つでもあった。1850年代、水戸藩は「尊王攘夷」運動の拠点藩となり、その影響は諸藩にも及んだ。

 1858年、彦根藩藩主で徳川幕府の大老職となった井伊直弼は、諸外国との通商条約締結を行うことを断行する。と同時にそれに反対するものたちを捕え厳罰に処した。いわゆる「安政の大獄」である。その井伊直弼は、1860年に水戸藩士(浪士)たちによって桜田門外で暗殺された。いわゆる桜田門外の変が起きる。この事件を機に幕府は弱体化、そして10年間あまり、日本は幕末の大動乱となる。

 1863年、「尊王攘夷」の旗を掲げて、生野の乱(兵庫)や天誅組の乱(奈良)が勃発し、鎮圧された。同年、薩摩とイギリス艦隊が戦争となり(薩英戦争)、薩摩藩が敗北する。そして、水戸藩では、1854年3月、藤田小四郎が60人あまりの同志とともに「尊王攘夷」の実行を旗印に筑波山で蜂起する。のち、水戸藩執政(家老)の武田耕雲斎や田丸稲之衛門、山国兵部ら水戸藩の重臣らも参加し、最盛期には1400人あまりが筑波山を拠点として構え一大勢力となった。

 この水戸天狗党の蜂起、騒乱は今年のNHK大河ドラマ「青天を衝く」でも、6月6日と13日の二回にわたって天狗党争乱(騒乱)のことが描かれていた。渋沢栄一や渋沢喜作は、この天狗党蜂起を起こした藤田小四郎とは旧知の仲だった。栄一と喜作が江戸遊学を許されて上京した際に、大河ドラマでは、栄一たちは藤田小四郎に対し、「かりにもあんたは藤田東湖先生(水戸学の大家)のお子ではないか。そんなお前が尊王攘夷の旗をあげなくてどうすんだ!」と詰め寄る場面も描かれている。当時、渋沢栄一や喜作は激烈な尊王攘夷思想をもち、横浜の外国人襲撃テロを数十人で目論んで計画準備もしていた。

 時は巡って、藤田小四郎が1864年、「尊王攘夷」の魁(さきがけ)となり筑波山で蜂起した。この時、渋沢栄一も喜作も、一ツ橋慶喜の家臣となり、京都に在勤していた。

 天狗党は武田耕雲斎を天狗党の首領として迎える。7月に入り、筑波山周辺に布陣した幕府軍や近隣諸藩、そして水戸藩内の保守派である諸生党の藩士らの軍勢と本格的な戦闘に入る。

 この年の8月、「尊王攘夷」を朝廷に迫るため長州藩の藩兵2000余が京都御所に押し寄せた。これに対し、会津藩・薩摩藩・桑名藩などの3200余が応戦。長州軍は戦いに敗れ、長州に落ち延びた。この「禁門の変(蛤御門の変)」で京都の町は約3万戸が焼失した。同年9月、長州藩の下関海峡(馬海海峡)にて米英仏蘭の四カ国艦隊と長州藩は戦闘状態となり、長州藩は敗北する。この一連の長州藩を巡る状況の変化は、水戸天狗党にも深刻な打撃を与えることとなる。

 同年11月1日、ついに筑波山の拠点を放棄し、「尊王攘夷」を朝廷に訴え、頼りともする徳川斉昭の子・一ツ橋慶喜を頼り京都に向けて1000余の兵卒が西上を開始した。

 同年12月9日、雪の積もる越前今庄宿に着いたときには、軍勢は820人余となっていた。敦賀を経て若狭から京都へ、または、敦賀から琵琶湖の西(湖西)を通り京都へとの行軍の考えていた。しかし、今庄宿から難所の雪の木ノ芽峠を越えて、12月11日に雪の積もる新保集落(宿場)に全軍が到着した時には、周りを各藩や幕府軍に包囲されていた。(福井藩・加賀藩・大野藩・彦根藩・会津藩・桑名藩・大須藩・大垣藩・小浜藩、小田原藩・津藩、及び一ツ橋慶喜率いる幕府軍。慶喜は討伐軍全体の総司令官となる。)

 水戸天狗党が頼りにしていた一ツ橋慶喜は、自ら軍を率いて討伐することを決意し、京都から琵琶湖湖北の大浦まで進軍していた。渋沢栄一や喜助もこれに従軍しているようすが「青天を衝く」では描かれていた。大河ドラマでは描かれていないが、実は、これに先立つ時期に、天狗党の一員が京都に来て、知り合いの渋沢栄一を訪ね、一ツ橋慶喜への面会のとりなしを依頼したが、栄一はこれを断っている史実がある。栄一もそのことに相当苦慮したのだろうかとも推測される。

 6月13日放映の「青天を衝く」では、慶喜の使いとして、渋沢喜助が雪の積もる新保集落を訪れ、武田耕雲斎や藤田小四郎らと天狗党の幹部らと陣屋で面会し、「慶喜公が総裁として鎮圧のために出陣し、湖北まで来ている。もう、ここらで、降伏をしてほしい」と話す場面や、疲労困憊して、うずくまる天狗党の兵たちのようすを描いていた。

 この場面は史実かどうかわからないが、包囲している加賀藩が陣屋を訪れ、「ことここに至っては」と降伏恭順の交渉を丁寧に行ったことは史実に残る。

 頼りにし一縷(.る)の望みとしていた慶喜公が征討軍として出陣し、ここに迫っていることを知り、天狗党は降伏・恭順を決した。降伏後、敦賀の町に連れられた天狗党員たちは、各藩の丁寧な対応を受け、処分を待つこととなった。しかし、幕府の若年寄(幕府閣僚)の田沼意尊が翌年1865年2月1日敦賀に着任することにより状況は一変する。

 この間、一ツ橋慶喜や諸藩から助命嘆願の動きが出ていたが、それを封殺するように、それまで各寺院などに軟禁されていた天狗党員たちは、海岸沿いの何棟かの「鰊倉(にしんぐら)」に全員が押し込められる。ほとんど日も入らない劣悪な環境となる。着任早々、刑を申し渡すだけの取り調べを経て、2月中に順次、急ぎ353人の斬首が行われた。この処刑を執行した田沼意尊は、明治維新後の廃藩置県(1869年)により県知事となり、同年に51歳で死去。彼の曽祖父は田沼意次。(江戸中期の八代将軍吉宗の時代、1716年から「享保の改革」を始めた。)

 なぜこのような処置を田沼意尊が行ったのか。田沼は筑波山での天狗党討伐の幕府軍の総統として布陣。天狗党との戦いに敗れた経緯をもつ。このため、「天狗党憎し」の念がとても強かったのではないかとも思われる。

 「青天を衝く」で注目され始めた天狗党争乱。これを見越してか、福井県では交流文化課がこの5月に「天狗党—明治を待てなかった志士たち—幕末の悲劇 天狗党 敦賀に散る」と題したパンフレットを作成し、道の駅などに置いている。これには福井県内の天狗党関連の場所なとが紹介されている。

 今庄をあとにして、6月6日の午後、新保集落、敦賀市内を巡ることにした。

 

 

 

 

 

 


幕末最大の悲劇「水戸天狗党動乱」❶―雪中、今庄にたどり着く―造り酒屋の柱に刀痕

2021-06-25 09:55:34 | 滞在記

  この6月5日(土)に福井県の南越前町に帰省。翌日6日の故郷の河野地区の漁港、今庄地区の水田。5月中旬までに田植えされた稲が少し伸びていた。緑に包まれる故郷の「山と海と里」の景色。

 今から150年ほど前の1864年から65年にかけて、関東の水戸藩士らによる天狗党動乱が勃発した。この動乱やそれに関連したものによる死者は2万人あまりに及んだ。水戸藩内が「水戸天狗党」と「諸生党」に対立二分され、それぞれが報復のために幼い子供も含めた家族たちの実に多くを捕え殺害した。藩内での血で血を洗う報復・私刑を含めた膨大な死者、この様相は1868年の戊辰戦争まで続き、おそらく日本の幕末史において、最も悲惨な出来事、その陰鬱な悲惨さにおいては幕末最大の悲劇であった。その水戸天狗党動乱壊滅の地の遺構が南越前町や木ノ芽峠を越えた敦賀市には今も残されている。6月6日、京都への帰り道、この天狗党動乱の地を巡った。

 南越前町の今庄宿場町は、古代の昔から、越後(新潟)まで続く北陸路の二大難所の一つだった「木ノ芽峠」
の麓にある。もう一つの北陸路の難所は越後の「親知ラス子知ラズ」。紫式部も木曽義仲も親鸞も道元、新田義貞や織田信長もこの木ノ芽を越えた。近世の1570年後半になり、栃ノ木峠越えのルート(北国街道)が新たに作られた。でも、木ノ芽峠越、栃ノ木峠越のいずれのルートも峠を越えると麓の板取宿から今庄宿に至る。

 今庄宿場町は、江戸時代から明治時代には造り酒屋(酒造)が15軒もあり旅籠の数は55軒。現在も酒を造る酒造会社は4軒ある。参勤交代の時の本陣や脇本陣、問屋などが軒を連ねていた。北陸路の中でも重要な宿場町であった。今もその面影がよく残るので、今年2021年5月には、国の文化審議会において「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」に指定された。

 水戸天狗党の軍勢約800人がこの宿場町に至ったのは1864年の12月9日だった。毎年12月に入ると豪雪地域の今庄周辺は積雪がみられるようになる。水戸天狗党は1864年3月に水戸の筑波山にて挙兵、その多くは水戸藩士たちだったが、その後にさまざまな階層の人も含め最盛期には1500人余りが「尊王攘夷」の旗のもと筑波山に集まった。幕府軍や水戸藩内の「諸生党」派、近隣の藩兵に包囲され、筑波山とその周囲で闘うこと6カ月あまり。戦いに利あらずと、1000人余りが11月1日に筑波山を下り、中山道を京都に向かった。京都御所にいる天皇に直接訴えることや在京している水戸学(尊王)中興の藩主・水戸斉昭(第九代)の子である一ツ橋慶喜に「尊王攘夷」の決行を訴えるためであった。

 
 美濃(岐阜)まで進軍したが、その前途に美濃大垣藩や彦根藩(藩主だった大老の井伊直弼が水戸藩士らによって暗殺されている―1860年桜田門外の変)の藩兵らが立ちはだかった。形勢不利とみた水戸天狗党軍は、一路進路を変更し、美濃からすでに冠雪のある蠅帽子峠(標高約900m)の難所を越えて越前大野に至る。さらに山岳沿いに越前池田を経て山越え、峠越えをして12月9日に越前の今庄に至った。

 今庄宿の人々は、「天狗党迫る」の報に、宿場には人っ子一人いなくなった。宿場の人々はすべて近隣に避難したのである。JR北陸線の「今庄駅」駅舎内には、この天狗党が今庄に来た時のようすが描かれた絵も掲示されていいる。無人となった今庄の宿場町の家々にて天狗党の一行は、疲労困憊の体をしばし休息させるため滞留、宿泊。

 今庄宿場町の一軒、"うだつ"がよく目立つ造りとなっている京藤甚五郎家住宅。ここは今、無料で一般公開がされている。家の前に、「天狗党—明治維新を待てなかった志士たち—」の大きな説明看板が置かれていた。幕末期、この家は造り酒屋であった。家の中に入ると、拝観者を当番で担当する人が一人いた。

 家の中を見学するが、なかなか立派な屋敷の家だ。何部屋もの座敷や庭がある。

 家の中には天狗党関連の資料が展示されていた。

 「大混乱諸事記水戸浪人止宿」と題された京藤甚五郎家文書や「浪士名籍」などもおかれていた。この資料によると、水戸浪士たちが風呂釜に酒を入れて沸かして入浴したことなども記されている。幕府や諸藩の軍が包囲網を縮める中、雪中行軍での疲労困憊も重なり、800人の水戸天狗党は危機存亡を迎えていたためか、党員たちは半ば自暴自棄的な精神状況に陥っていた感もある。

 水戸天狗党の一人が、この家の柱に切りつけた刀の傷痕も大きく残っていた。この柱には、「浪士たちは雪中行軍の中、疲労困憊し、久しぶりの休息で、自分たちの志が達成できない苛立ちの念で振り下ろした刀痕」との説明書きがあった。

 昼近くになっていたので、今庄宿の「てまり」という甘味処の店に立ち寄って団子を注文した。この店も伝統的建物の町屋風な家。座敷にあがりしばしの休憩。裏の庭や家の格子が美しい。格子のそばには盆栽の青もみじが置かれていた。すごい美的センスのある光景だった。

 ここ今庄は古代からの人々が行き交う歴史の舞台だった。宿場町の背後の丘のような山(270m)には「燧(ひうち)ケ城」址がのこる。平氏の源氏の源平のころに、ここに木曽義仲が城を築いた。1183年、この城で10万の平家軍を迎え撃ったが城は落城。その後、南北朝時代のi新田義貞軍と足利軍との戦いや戦国末期の織田信長軍と一向一揆軍との戦いでもこの燧ケ城は戦場となる。城址には石垣跡も少し残る。春先にはカタクリの群生地に花が咲く。低地のブナ林もある。

 松尾芭蕉がこの城址に登り、「義仲の 寝覚(ねざめ)の山か 月かなし」と詠んだ歌碑が城址にある。