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彦四郎の中国生活

中国滞在記

ついに起きてしまったか‥❷

2024-09-29 02:10:25 | 滞在記

 中国広東省深圳で日本人の男子児童(10歳)が刺殺された事件で、男児が通っていた日本人学校に20日までに計1000以上の花束が贈られたと学校側があきらかにした。

 日本人学校には献花台が設置されたが、花束の多くは地元の中国人市民が置いたものだと伝えられたてもいた。

 「反暴力 和平万歳 反暴殺 中日‥」、「あなたを襲う社会であってはならなかった。ごめんなさい。安らかに。」と、中国語と日本語で書かれたメッセージが花束とともに添えられている献花もみられた。

 中国外交部の林剣報道官は、「中国はこのような不幸な事件が起きたことを遺憾に思います。広東省の医学専門家は全力で治療にあたりましたが‥。」とコメントしたが、容疑者と事件の動機や背景などは明らかにはしなかった。20日、日本の水産物の中国への段階的輸入再開に関する報告の席上で、今回の事件について質問された中国外交部の毛寧副報道局長は、「日本人がこの案件に関心を持っていることは理解しているが‥」というコメントに終わった。

 23日には、アメリカのニューヨークで、日本と中国の外相がこの事件をめぐって会談も行われたが、事件の動機や背景を説明するという中国側との合意にはいたらなかった‥。

 9月20日、中国日本商会(本部:北京)から、福州日本企業会経由で、私のEメールにも「広東省深圳において日本人児童がご逝去された件に関する中国日本商会の対応」と題された連絡が送信されてきた。

 9月18日に事件が起きてから今日で10日余りが経過した‥。

 

 

 


ついに起きてしまったか‥➊

2024-09-22 17:49:19 | 滞在記

 9月18日(水)、福建省の省都・福州市はこの日も積乱雲がみられ、日中の気温は37~38度まで上がっていた。うだるような、湿気も強烈な暑さが続いていたこの日。アパートに戻り、34度となっていた室温をクーラーで下げ、午後4時頃にパソコンでYahoo Japan!を閲覧すると、「速報 中国広東省深圳で日本人学校男児(10歳) 母親の目前で襲撃され緊急治療」のニュース報道がとびこんできた。「ついに再び起きてしまったか‥」と暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

 アパートの窓から見える夕焼けの空。茜(あかね)色が美しくもあったが、事件を知り気持ちは重かった。(中国では、インターネットでYahoo Japan!のニュースサイトは閲覧できる。しかし、2015年頃から「検索」はブロックされている。)

 この日の夕方以降から、日本のテレビ報道でのこの事件報道を、Yahoo Japn!のサイトから見る。広東省広州の日本総領事館は、18日午後4時、そして夜の8時になった時点でも手術が続いていると明らかにした。(※深圳は香港と広東省の省都・広州の中間にある大都市で、中国のシリコンバレーとも呼ばれ、中国の通信IT・ハイテク大企業であるファーウェイや電気自動車のBYDの本社などもあり、日本企業も多く進出している。中国各地から出稼ぎにきている人たちも多く居住する。日本人は約3600人ほどが駐在員やその家族などとして暮らしている。)

 報道によると、18日午前8時頃(日本時間午前9時頃)、深圳日本人学校近く(正門から200mほどの地点)で、母親とともに通学途中の同校の男子児童(10歳)が男に刃物で刺され負傷し、緊急治療を受けているとのこと。地元警察当局は犯行に及んだ男(44歳)を現場で拘束したとも報じられていた。手術によって命に別条がないという報道を待ちながら眠りについた。

 19日(木)早朝3時に起床(いつもの起床時間)、午前4時頃(日本時間午前5時頃)から、Yahoo Japan!を閲覧し始めると、日本のテレビ報道では「登校中に刺された日本人男児死亡」「男児(10)腹部刺され死亡」の報道‥。とても大きな衝撃・ショックを受けた。事件が起きた昨日は、中国では満州事変の始まりである「1931年9月18日・柳条湖事件」(満州鉄道爆破事件を日本軍が行い、これは中国軍のしわざとして軍事行動を起こした)で日本が本格的に中国東北部(満州)を侵略し始めた日であり、中国では「国辱(こくじょく)」の日でもあったと報道もされていた。

 重い気持ちを引きずりながら、午前5時45分頃アパートを出てバス停に向かう。午前7時30分頃に大学正門近くのバス停に着き大学構内の研究室へ。そして、8時30分からの1時間目の3回生の「時事日本語」の授業ため教室に向かった。この日の授業の最初に、この深圳での事件について、そして日本人学校の10歳の子どもが今朝亡くなったことを学生たちに話した。しかし、学生たちはほとんどがこの事件について知らないようだった。中国国内ではほぼこの事件の報道がされていないようだった。(※報道規制がされているようだった。)

 その日の午前中の授業を終え、午後4時頃アパートに戻り、パソコンでYahoo Japan!の記事や、日本のテレビ報道を閲覧する。「男児死亡 (中国)日本人社会に衝撃」「一部メディアが事件について事件について報じるも 児童の死亡は現時点で伝えず」「6月蘇州での日本人親子襲撃事件についての(犯行動機などの)詳細は(いまだ)不明のまま」「岸田総理、中国側に一刻も早い事実関係の説明を強く求めるよう指示」「大使館・日本企業・日本人学校などの関係者による緊急会合を開く 北京・上海」などの報道。

 事件のあった18日から、中国のさまざまなインターネットサイト(パソコンやスマホでの)でこの事件について閲覧するが、この事件についての記事を見つけるのはとても難しかった。報道規制のためかと思うが、ようやく19日になって膨大なネット記事、ニュースの中から2~3見つけることができるようになり始めた。中国外交部林剣報道官の、この事件に関する18日の会見のもようなど‥。「計画的な事件か偶発的な事件か?」との記者団の質問には、林剣報道官は「現在捜査中です。引き続き、在中国外国人の安全確保のための対策を講じていく」との回答にとどまっていた。

 事件が起きてから今日で5日間余りが経過した。中国で11年以上を暮らしていて、日本人だから近在の人や通勤途中のバスの中などでヘイト的な嫌な目に会ったということは今までにはなかった。むしろ、いつもよく行く店の人や同じアパートの人などは親切に接してくれている人たちもいるのだが‥。しかし、今回の事件は、私にもこたえた。いつ同じような目にあうかもしれないという一抹の不安の広がり‥。

 凶行で突然に殺された10歳の男の子。両親を始め祖父母たちが、どんなに大きな悲しみに包まれているかと思うと、私も胸が痛くなる。そして、中国で暮らすことの不安感の増大は、中国在住の約10万人の日本人の人々に共通したものかと思われる。

■深圳日本人学校—2024年4月時点で、小学生216人、中学生57人の合わせて273人が在籍。日本の外務省によると去年の時点で、日本人はおよそ3600人住んでいて、中国では5番目に日本人が多い都市となっている。(※最も多いのは上海市の約3万人)

 

 


中国漢詩、李白・杜甫・白楽天、月を詠う❷—紫式部『源氏物語』にも大きな影響をもつ白楽天の漢詩「長恨歌」

2024-09-21 15:58:34 | 滞在記

    白居易(はっきょい)[別称:白楽天] 772年~846年(75歳没)、唐時代の詩人

 「八月十五日夜禁中 独直対月憶元九」 白居易  (七言律詩)

銀台金闕夕沈沈 独宿相思在翰林 三五夜中新月色 二千里外故人心

渚宮東面煙波冷 浴殿西頭鐘漏深 猶恐清光不同見 江陵卑湿足秋陰

(漢文読み)

 「八月十五日の夜 禁中(きんちゅう)に独(ひと)り 直(とのい)し月に対して元九(げんきゅう)を憶(おも)う」

銀台(ぎんだい)金闕(きんけつ)  夕(ゆうべ)沈沈(ちんちん)    独直(どくしゅう) 相(あい)思いて翰林(かんりん)に在(あ)り

三五(さんご)夜中(やちゅう)  新月(しんげつ)の色 二千里外 故人(こじん)の心

渚宮(しょきゅう)の東面 煙波(えんぱ)冷(ひ)ややかに 浴殿(よくでん)の西頭(せいとう)  鐘漏(しょうろう)深し

猶(な)お恐る 清光(せいこう)同じくは見ざらんことを 江陵(こうりょう)は卑湿(ひしつ)にして秋陰(しゅういん)足(おお)し

■(意味)—宮中のあちこちにそびえる楼(たかどの)が夜のしじまの中に見える。私はひとり翰林院(かんりんいん)に宿直しながら、君のことを思っている。今宵(こよい)十五夜、のぼったばかりの明月に二千里彼方(かなた)にいる君の心がしのばれる。

 君のいる渚宮の東は、もやにかすむ水面(みなも)が月に冷たく光っているだろう。私のいる宮中の浴殿の西は、時を告げる鐘(かね)や水時計の音が、しじまに深々ときざまれている。心配なのは、君がこの清らかな月を見られないのではないかということだ。なぜなら、江陵の地は低く湿っぽくて、秋でも曇りがちの日が多いというから。

※中秋の名月(明月)の夜、宮中にひとり宿直した白居易が、親友の元愼(げんじん)を思いやった作。この親友は、政治的才能を早くに認められながらも、直情怪行な性格のため官界とそりが合わず、三十二歳の時、江陵(湖北省江陵県)に左遷された。白居易は中央にいて翰林学士の任にあった。彼の友を思うしみじみとした心が秋の気とともに伝わってくる一作。

 白居易は別称の白楽天で知られている唐代の詩人だが、2017年に公開された映画「空海—美しき王妃の謎」に主要キャストの一人として登場もする。(この映画は、中国での公開名は「妖猫伝」。原作は日本人の作家・夢枕獏。監督は中国人の陳凱歌[チェン・カイコー]。日中合作映画で、日本人俳優としては渋谷将太[空海役]、阿部寛[阿倍仲麻呂役]。他に主要キャストには玄宗皇帝や楊貴妃、安禄山など‥。阿倍仲麻呂は、奈良時代の717年に唐に遣唐使とともに留学。玄宗にも仕え770年に唐で没した。白楽天はその2年後の772年生まれなので、史実的には二人は会ってはいないこととなる。空海[弘法大師]は遣唐使に付随した留学生の一人として803年に唐に渡ってから2年間余りを長安で過ごしているので、白楽天と会っている可能性は高い。)

 『唐玄宗紀』(小前亮著)という歴史小説がある。読んでみるととても面白く、一気に読み進めてしまった。このような歴史小説を読むことで、よりこの唐時代の歴史がより具体性をもってイメージされてくる。玄宗皇帝に仕え、名臣として名高い宦官(かんがん)の高力士の目から描いたこの物語。楊貴妃の出現、そして安禄山の大乱[安史の乱](755年~763年)によって国はとめどなく乱れていく。この時代を背景に描いた歴史大河小説だった。

 この安禄山の大乱の悲劇の始まり後の50年後に、白楽天によって詠まれた漢詩が「長恨歌(ちょうごんか)」だった。この漢詩は120句もの長さにわたる長大な一編の漢詩。玄宗皇帝と楊貴妃との恋、そして寵愛、安禄山の乱で長安を落ち延びる玄宗。彼に付き添う楊貴妃を殺さざるをえなくなった玄宗との悲劇を詠む「長恨歌」。

 「漢皇重色傾国‥」(漢皇[かんこう]女色を重んじて傾国を思う‥/意味:漢の皇帝は絶世美女を求め続けていた‥)の第一句から始まる「長恨歌」は、唐王朝に配慮して、唐の皇帝ではなく、漢の皇帝として詠まれているが、読み進めればまぎれもなく、唐の時代の皇帝・玄宗と楊貴妃の物語であることがわかる。

 実は紫式部の『源氏物語』は、この「長恨歌」の影響というか、「長恨歌」をヒントに物語の着想を得て書かれたものとも言えるかと思う。『源氏物語』(54帖)の最初の帖(章)である「桐壺の巻」からして、桐壷帝と桐壺の更衣(光源氏の父と母)の恋愛、そして寵愛、桐壺更衣の死という悲恋の描写、更衣の死後も彼女を想い続ける桐壺帝[天皇]の描写には、「長恨歌」を彷彿(ほうふつ)させる部分がたくさんある。また、『源氏物語』の中には「長恨歌」という漢詩の名前も書かれてもいる帖もある。

 『源氏物語』は、主人公の光源氏の一生とその一族たちのさまざまな人生を、約70年間にわたって壮大な王朝文化とともに描いている物語。その一大叙事詩物語の着想となったのが白楽天の「長恨歌」であったことは先に少し述べたが、「長恨歌」が詠まれたのは806年(白楽天が35歳)の時だった。その後、この白楽天の漢詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」などの中国の漢詩は日本にも伝えられる。平安時代の貴族層(男女問わず)は、教養としてこの漢詩文が尊ばれることとなっていく。

 清少納言は『枕草子』でこの白楽天の『白氏文集』を愛読書のトップに挙げているし、紫式部は仕えた藤原道長の長女・中宮彰子に『白氏文集』を講義している。『源氏物語』は漢詩の引用が多く、その出典の大半が『白氏文集』でもあることから、式部にとっても座右の書だったかと思われる。

 『源氏物語』の須磨の巻に、宰相中将が須磨で謹慎中の光源氏を訪れる場面がある。そこで二人が酒を酌み交わしつつ唱和したのも『白氏文集』だった。物語には「酔ひのかなしび涙そそぐ春の杯のうち」と、詩の一節が書かれている。これは白楽天が任地に赴任する途中、左遷されていた友人に偶然出会って、旧交を温めた際に作られたとされるものだった。恵まれぬ境遇にある友との再会であること、酒を飲みながら語り合うこと、季節が春であることなど、物語の情景は詩句の詠うところとぴったり重なる感がする。

 同じ須磨の巻には、さらに古い時代の詩人・屈原(くつげん)も出てくる。屈原は中国の春秋戦国時代、楚(そ)の国の貴族だった。有能な政治家でもあったが、讒言(ざんげん)によって追放され、孤愁の生活の果てに、石を抱いて川に身を投げたと伝わる人物。須磨の巻で、光源氏は船旅の心細さに次の和歌を詠む。「から国に 名を残しける 人よりも ゆくえ知られぬ 家居をやせむ」(中国で名を残した人[屈原]よりも 私はさらに 将来の知れない侘び住いをすることだろう。)  

 光源氏の和歌は、屈原と比べれば少し大げさではあるが、作者の式部はおそらく絶望感を高めるために源氏に屈原の故事を思い出させたのだろう。

 カら1010年代前半までに執筆されたとされる『源氏物語』は、唐時代の詩人白楽天の影響がとても感じられる物語。当時の貴族層の男も女も、誰もが知る長恨歌のエピソードなどを、式部は上手く平安朝風に置き換えて物語にとりいれたようだ。桐壺帝の巻で書かれている桐壺更衣の容貌は詳しく書かれていないが、当時の貴族たちは「長恨歌」の絶世の美女・楊貴妃をイメージもしながら読むので、詳しく書く必要はなかったのだろう。このあたりも式部の上手いところだと思う。

 紫式部を主人公にしたNHK大河ドラマ「光る君へ」で、主人公らが詠む場面がたびたび登場する漢詩に注目と関心が高まってもいるようだ。全国各地の「漢詩の会」などへの入会者が男女問わず増加しているとの報道もされていた。漢詩をもっと知りたい学びたい、漢詩を作ってみたいなどの入会動機という。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」もあと、10月・11月・12月の3カ月間あまりのドラマ放送となったが、『源氏物語』理解のためにも長恨歌を読んでみてみるのもいいかと思う。


中国漢詩、李白・杜甫・白楽天、月を詠う➊―紫式部「源氏物語」にも大きな影響をもつ白楽天の漢詩「長恨歌」

2024-09-21 08:28:56 | 滞在記

 今年の中国「中秋節」(中秋の月)は9月17日だった。学生たちに誘われて16日に福州市内で会食に行った際、唐時代の衣装に身を包んだ女性たちによる中秋の月にちなんだ舞踊や琵琶の演奏を目にすることもできた。

 今からおよそ1220年~1270年ほど昔の、中国唐王朝最盛期の時代、漢詩の世界でもこの月を詠ったものも多くある。その中でも私は次の三つの漢詩が好きだ。李白の「月下独酌」、杜甫の「月夜」、そして白居易(白楽天)の「八月十五日禁中 独直対月憶元九」。

 李白(りはく)—701年~762年(61歳没)、詩仙とも称される唐時代の詩人。日本からの留学僧・阿倍仲麻呂とも親交があったとされる。

       「月下独酌(げっかどくしゃく)」 李白   (五言古詩)

花間一壷酒 独立無相親 拳杯邀明月 対影成三人 月既不飲解 影徒随我身 暫伴月将影 

行楽須及春 我歌月徘徊 我舞影凌乱 醒時同交歓 酔後各分散 永結無情遊 相期邈雲漢

(漢文読み)

花間(かかん)  一壷(いっこ)の酒(さけ)    独(ひと)り酌(く)んで相親(あいした)しむ無(な)し  杯(さかずき)を挙(あ)げて明月(めいげつ)を邀(むか)え   影(かげ)に対して三人と成(な)る 月 既(すで)に飲(いん)を解(かい)せず 影 徒(いたずら)に我が身に随(したが)う 暫(しばら)く月と影とを伴(ともな)いて 我(われ)歌えば 月 徘徊(はいかい)し 我(われ)舞えば 影 凌乱(りょうらん)す 醒時(せいじ)は同(とも)に交歓(こうかん)し 酔後(すいご)は各(おの)おの分散す 永(なが)く無情の遊(ゆう)を結び 相期(あいき)して雲漢 (うんかん) 邈(はるか)なり

■(意味) ―花さく木かげに酒壷ひとつ ひとりぼっちの手酌で、相手がいない。そこで杯をあげて、のぼってくる月を招き 影も出て来て三人となった。月はもともと酒を飲めないし、影もひたすら私の真似(まね)をするだけ。まあ、この月と影を友として 心ゆくまで楽しんで、この春をのがさぬようにしよう。私がうたえば月はふらふらと舞い、私が踊れば影は乱れ動く。酒が回りきらないうちは三人で楽しみ合い、酔ってしまえばそれぞれに別れてゆく。いつまでもこのような、しがらみのない交遊を続け、次には、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

※この時、李白は42歳で翰林供奉の役職となり、長安で宮廷詩人としても活躍する。この詩は、「月も影も、面倒な気配りやあとくされがなく、酒の友としてふさわしい」とうそぶく、酒仙李白ならではの一作。

 杜甫(とほ)—712年~770年(58歳没)、詩聖とも称される唐時代の詩人。

                                         「月夜(げつや)」 杜甫 (五言律詩)

今夜鄜州月 閨中只独看 遥憐小児女 未解憶長安 香霧雲鬟湿 清輝玉臂寒 何時倚虚幌 双照涙痕乾

(漢文読み)

今夜(こんや)鄜州(ふしゅう)の月 閨中(けいちゅう) 只(た)だ独り看(み)るならん 遥(はる)かに憐(あわ)れむ 小児女(しょうじじょ)の 未(いま)だ長安(ちょうあん)を憶(おも)うを解(かい)せざるを 香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い 清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん 何(いず)れの時にか虚幌(きょこう)に倚(よ)り 双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾(かわ)かん

■(意味)—今夜、鄜州に輝く月を、妻は寝室からひとり寂しく眺めていることであろうか。遠く離れていていとおしく思うのは、幼い子どもたちが、長安に捕らわれの身のこの父を思うことすらできないことだ。夜霧に、妻のあの美しい髪の毛はしっとりとうるおい、清らかな月の光に、玉のような腕は冷たく照らされていることだろう。ああ、いつになったら明かり窓により添って、妻と二人、月に照らされて、涙のあとの乾く日が来るのだろうか。

※755年、安禄山が唐王朝に謀反し、翌年には長安を陥れ、皇帝の玄宗は蜀に逃れ、愛妾の楊貴妃は殺されるという変転の時代であった。杜甫は次に即位した粛宗のもとにかけつけようとしたが捕らえられ、長安に幽閉された。時に45歳、妻子は鄜州(陝西省富県)に疎開させてあった。思慕の情を月に託する詩文は多いのだが、捕らわれの身として、長安の月はことさらのものであったであろう。いたいけな幼子をかかえながら待つ孤閨(こけい)の妻を、髪は香しく肌はつやつやかと美しくしのんだ心が、切なく伝わってくる一作だ。

※李白と杜甫が初めて出会ったのは744年、李白44歳、杜甫33歳の時で、二人とも失意の時代でもあった。その後二人は連れ添って2年間余りの放浪の旅を共にしている。

 

 

 


中国、「中秋節」―中秋の月と月餅—学生が会食に誘ってくれもした中秋節3連休

2024-09-18 21:30:03 | 滞在記

 今年の中国、9月17日(火)が「中秋節」(祝祭日)となった。そして、9月15日(日)、16日(月)、17日(火)は3連休休みとなったが、14日(土)は16日(月)の振替出勤日なので、会社も学校(小・中・高・大学)も仕事や授業があった。今年の中秋の名月となる9月17日の「中秋節」には、中国では日本のお盆のように、故郷の墓に家族そろって墓参に行く人が多い。そして人々は「月餅(げっぺい)」を食べる習わしがある。(※中国の四大伝統的行事として、他に「1月~2月の春節」、「4月の清明節」、「6月の端午節」がある。)

 9月上旬頃から、いつも朝食用の食パンなどを買っている「華豊賀氏」という店でも月餅を売るコーナーが設けられていた。10日頃に閩江大学の外事科(処)から連絡が入った。私たち外国人教員に「moon cake」(月餅)を渡したいので外事処事務室まで受け取りに来てほしいとの連絡だった。受け取りに行き、アパートに戻って開けると色とりどりの月餅が6個入っていた。

 振替で14日(土)に4回生の「日本文学作品選読」の授業を行ったのだが、休み時間に4回生の康さん(※3回生時に1年間、日本の広島大学に交換留学生として来日していた。)から、「この3連休中に先生と一緒に乾杯・会食したいです。3回生の師さんも誘います」との申し出があったので、「では16日の月曜日の夜にしましょうか」と話が決まった。

 16日の午後5時頃に康さんも師さんも、大学から私のアパートに来たのだが、「日本人も二人、一緒に来ました」とその時に告げられた。アパートのドアを開けると、この9月から日本の神戸の女子大学(閩江大学と提携関係にある)から来ている留学生(2回生の上田さんと、今年3月の卒業生の新林さん)が立っていた。4人にアパートに入ってもらい30分ほどを過ごし、アパート近くから2台のタクシーに分乗し福州市内の中心部付近に向かう。

 康さんが予約していた店のあるショッピングモールの建物の前では、「中秋節」関連のイベント(催し)が行われていた。「盛唐明月 詩意中秋」と書かれた催し。大きな満月🌕が配された舞台では、唐時代の衣装をまとった女性たちの舞踊、琵琶の演奏などが行われていた。空を見上げるとほぼ満月の月が見える。

 康さんが日本に留学中の今年の2月、彼は故郷の四川省の同郷の友人(四川省重慶市の航空大学の学生)と共に京都に遊びにきた。その時、私は彼らを京都の祇園の赤提灯🏮居酒屋「侘助(わびすけ)」で乾杯し、次に鴨川を渡り先斗町のカラオケ居酒屋「みちのく」に行ったことがあった。そのこともあってか、康さんは「今日は、私にお金を出させてください」とのこと。乾杯して、2時間ほど美味しい鍋料理(※「海南文昌椰子鳥鍋」)を堪能した。

 タクシーでアパートに午後9時30分頃に戻り、すぐに眠りについた。

 翌日17日(火)、中秋の月となる「中秋節」の日となった。18日(水)の早朝午前2時にアパートの部屋から空を見上げると、雲に見え隠れしながらも満月🌕が見えた。中秋の月‥。

 インターネットのYahoo Japanを検索閲覧すると、昨日17日の夜の日本での「中秋の名月」の写真が掲載されていた。妻からは携帯電話アプリに3枚の写真が送信されてきていた。銀閣寺近くに暮らす娘の家の前の道から、東山三十六峰の一つ大文字山(如意ケ岳)の上にかかる中秋の月の写真、孫の寛太が幼稚園で月見団子を作っている写真などだった。

 この「中秋節」関連の3連休も今日で終わる。振り返ると、ほぼ、膨大な時間を要する授業準備をしたり、アパート内のある長年の不要物の整理・ゴミ出しばかりしていた3日間だった。康さんが会食に誘ってくれて、この3連休の一人孤独から少し救われもした。