彦四郎の中国生活

中国滞在記

広島に行く❼―その場に行って 初めて感じること 知ること 実感するということ

2018-08-17 08:43:27 | 滞在記

 広島という地に初めて行って、資料館でいままで写真集などで見たこともある写真なども見た。ヒロシマでの原爆投下という惨事を、この広島の地に立つと、当時のことをさまざま思いめぐらしたりする気持ちとなる。

 原爆投下と爆発の直後、橋の上で途方に暮れている人々の様子の写真。

「御幸橋には大火傷を負って逃れてきた負傷者が群がっていた。カメラを構えたが、シャッターが切れない。二十分ほどためらい、やっとの思いで一枚目のシャッターを切った。助けて!助けて!水をください!動く気力もない母親の胸にすがる幼児。目を開けて、目を開けて!!!子供の名前を呼び続ける半狂乱の母親。頭髪は焼けちぢれ、顔、腕、背、足のいたるところの火ぶくれが破れ、火傷の皮膚がボロぎれのように垂れ下がる。顔に涙が伝い ファインダーを通す情景がうるんだ。まさに地獄だ。」

「くろい くろい雨 大きなつぶの雨 空に向かって口を大きくあけました からだ中があつくてあつくて 水がほしかったのです」

 さまざまな写真を見る。顔も背中も腕も、尻も火傷を負った人たちの写真。もうすぐ死ぬのであろうおばあさんに群がるハエの群れ。強烈な光線でできたハンドルの影。汽車に乗っていた人たちが吹き飛ばされて線路わきにたくさんの人が死んでいる写真。このヒロシマの写真を、この広島の地に来て見ると、「この惨禍にあってしまった人たちの、苦しみや嘆きや恐怖」といったものが、単に写真集を見ていた場合と違って「感じる」ことも違ってくる。それは、73年後の今、同じ場所に立っていることによる「人間として」の感じ方なのだろうか。

  焼け跡で死体の横にたたずむもんぺ姿の一人の女性。「國にとって 父は何十万人の内の一人でしょうが、私たちにとって 父は 全てだったのです。」 原爆が投下された年のその秋、「75年間は草木も生えないと言われた広島で、新しい芽が息き吹きました。焼け跡によみがえった緑に人々は生きる勇気と希望をとりもどしました。」 

 そして原爆の惨禍から4年後の1949年、特にどこの会社とかがバックについた球団とかではなくて、広島市民が共同でたちあげた市民球団としての「広島カープ」という球団が誕生したという。この球団に思いを込める気持ちは、他球団とはものすごく違ったものがあるに違いないと思う。

 8月6日のヒロシマ、8月9日のナガサキ。それぞれの慰霊祭での市長の言葉や挨拶やメッセージには、原爆の惨禍にあった人々への深い共感に基づいたものが、心のこもったものが、感じられた。「核兵器禁止条約」の国連での批准決議の重要性にも心から訴えられていた。今年のナガサキでの式典には、国連の事務総長が初めて参加をし、これもまた「核禁条約」の重要性を訴えた。

 これに対し、安倍晋三首相という人は、残念ながらというか 情けないというか、作文を棒読みしているような、こころのない、「核禁条約」のことにも一言もふれず、正直 恥ずかしいというか 情けないというか そんな気持ちになってしまった。この「核禁条約」の件に関しては、「日本の恥をさらけだした首相」のようにも思えた。安倍さんの歴史認識は皮相的だと思った。残念だが。

◆私は初めてヒロシマに行った。「その場に行って、初めて感じる事 知ること 実感すること」の大切さを思った。(※「広島に行く」シリーズは、今回で終わります。)

 

 

 

 

 

 

 


広島に行く❻―中国の大学生たちに伝える必要性を思うヒロシマ、日本人にとっての戦争と被害

2018-08-17 04:29:32 | 滞在記

◆今年の夏に広島に行こうと思い立った理由の一つに、「原爆資料館」や「原爆ドーム」を見たいと強く思い始めていたことがあった。今年の3月から6月にかけて、中国の大学で「日本映画名作で綴る、日本の社会、歴史・文化」という特別講座を行った。日本語学科3回生を対象に8回シリーズの講座(1回は100分)だった。さまざまなジャンルから12本の映画を紹介したり視聴してもらう講座だった。

 講座の最終日に、「講座感想」を学生たちに書いてもらった。その中に、「今回の講座で寺坂先生から紹介された映画では、『火垂るの墓』(高畑勲監督・スタジオジブリ)が最も印象に残りました」と書かれたものが少なからずあった。中国の高校や大学では、「日中戦争や第二次世界大戦」における「南京大虐殺」「重慶爆撃」「東北(満州)への侵略」など、日本軍の侵略による中国の人々の苦難の歴史と、中国共産党・人民解放軍(紅軍)による反日戦争のことはかなり詳しく教えられる。そして、日常的には子供の頃から、「紅軍と日本軍や国民党軍(蒋介石軍)との戦いを描いたテレビドラマ放映や映画など」を多く観て育ってきている。

 この戦争で犠牲となった死者は中国人は約1000万人と言われている。日本人の死者は約350万人と言われるが、「日本人たちにとっての戦争被害」について教えられる機会も知る機会も、中国の「歴史教育」においては、また生活の中でも、まずはないように思う。「広島と長崎に原爆が投下されたことがあった」という事実を知っている学生も少ないようだ。このような中国の大学生にとっては、『火垂るの墓』を観て、「この戦争で日本人たちもアメリカの空襲・空爆を全土的に受けて、たくさんの人が殺されたんだな」「日本人もこの戦争で苦難だったんだなあ」ということを初めて知り、この映画が印象に残ったのだろう。

 こんな、大学での講座のこともあり、この夏に初めて広島に行き、「原爆ドームや原爆資料館を訪れたい」と強く思うようになった。そして、今後の中国の大学での「日本概論」の授業では、中国の大学生たちに「中国人にとっての戦争被害や日本軍の侵略とともに、日本人にとっての戦争被害やヒロシマ・ナガサキで起きたこと」を伝える必要性を思っている。


広島に行く❺―73年前の8月6日午前8時15分、たった一辺2cmの立方体の核物質が核反応

2018-08-16 15:41:44 | 滞在記

 8月8日の早朝6時すぎにホテルを出て、徒歩で広島城に行き、そして原爆ドームに向かった。午前8時頃に原爆ドームがある場所に着く。初めて残骸のままの原爆ドームを見た。廃墟と化しているドームの中はコンクリートの欠片となったものが当時のままの様子で置かれていた。言葉にならない感覚だった。外国、特に欧米からの見学者も多く訪れていた。ドームの横を流れる川の畔に「赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)」が置かれていた。

 1945年8月6日の原爆投下日以前の写真。戦時中ながら人々の暮らしがそこには写っていた。それが、1945年8月6日の朝に、ほとんど一瞬にして崩壊させられ焦土となった。世界初の原子爆弾の投下によって。

 太田川の支流に架かる「元安𣘺」を渡り、平和公園に入る。夾竹桃と平和の鐘。突然に鐘が鳴り始めた。時刻は午前8時15分だった。人々とともに黙祷をする。「原爆の子の像」があった。「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という言葉が碑文に刻まれていた。「母と子の像」が近くに建っていた。

 「原爆死没者慰霊碑」に行く。8月6日の朝、ここで「慰霊祭」が行われていたのをNHKのテレビ生中継放映で見た。広島市長の挨拶や宣言の言葉は心が籠り、一言の無駄もなく、心に響いてくる内容だった。続いての安倍首相の挨拶や言葉には、何の心の籠りもなく、非核の「核兵器禁止条約」についても一言もふれず、空疎な感じがしていて、我が国の首相として とても残念だった。慰霊碑には、「安らかに眠ってください 過ちは くりかえしませんから」と刻まれていた。

 峠三吉の詩碑の前に行く。広島の女子高校生たちが、平和公園見学に来た数人のグループの人たちを案内しながら、ここでも立ち止まり説明をしていた。「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ  峠三吉 」と、詩碑には刻まれていた。詩碑の裏には、英文版が刻まれていた。

 広島平和記念資料館に入った。

 アメリカのB29爆撃機から投下された一発だけの核爆弾。それがだんだん広島の街に落下していき、猛烈な言葉に尽くせない「悪魔の爆発」をもたらす変化の様子の動画展示されていた。爆心地では数万度にも達する熱と猛烈な爆風、そしてきのこ雲による黒い雨や放射能を一瞬にしてまき散らし、14万人以上の人々を焼き殺しなぎ倒す様子が、この動画で想像できた。

 「リトル ボーイ」と呼ばれたこの爆弾の大きさは、人間の少し太った大人ほどの大きさだった。

 そして、この「リトル ボーイ」の中に入っていて「核分裂反応」と「爆発」を引き起こした「ウラン」の量は、一辺が2cm四方の立方体の大きさに過ぎなかった。たったこれだけの小さいものが、凄ましい「核分裂」を引き起こし、惨禍を引き起こしたという事実に驚愕の念を感じさせられた。「核」というものの怖さを、この展示はまざまざと語っていた。

 

 

 

 

 

 


広島に行く❹―日本三景の一つ「宮島」(厳嶋神社)―厳嶋の戦いの跡

2018-08-12 09:15:32 | 滞在記

  8月8日(水)の午前11時に、JR広島駅の山陽本線で「宮島口」に向かった。30分ほどで到着。宮島に向かう「フェリー」に乗る。島に近づく。かなり大きな島だ。周囲は30kmもあるらしく、島の高い山は何か神々しい感じもする。最高峰は530mという。海峡には「牡蠣(かき)の養殖」だろうか、筏(いかだ)が並ぶ。

 厳嶋神社の朱色の大鳥居が見えてきた。鳥居の周りにはたくさんの人がいる。そうか、今は干潮時刻で、鳥居の周りは海の水が引いているんだ。残念‥‥。別のフェリーが通って行った。暑い日だが、船のデッキは風があたって気持ちがよかった。船を降りると、干潮時の浜辺が広がっていた。潮干狩りをする人の姿も見える。

  長く続く「宮島商店街」にはたくさんの人が各店を訪れていた。なかなかいい商店街だ。この宮島は鹿がたくさんいた。小さな小鹿と母親、大鳥居を背景にして写真を撮る人たち。外国からの観光客も多い。

 朱色の神殿と渡り廊下、この廊下の下まで、満潮時には海水で浸される。満潮時のこの神社はとても美しく、「東洋の美」となる世界なのだろう。1996年に世界文化遺産となった。国宝でもある。この「厳嶋神社」がある宮島は、古代より「島全体」が神の島として信仰されてきたが、593年に神社が創建された歴史をもつ。その後、1168年、平清盛により寝殿造りの様式を取り入れた神社として造営され、今日に至っている。海水の干満を利用したアイデアは、東洋の美の一つとしてなかなか素晴らしいと感じた。

 神社の入口にある狛犬は、顔を空高く上げていたのが印象に残った。この宮島で戦国時代には有名な戦いがあった。「厳嶋の戦い」である。その戦場となった史跡も残っていた。小高い丘のような「要害山」という場所にはかって「宮尾城」という砦のような城があった。この城を巡って、2万4千もの軍兵がこの狭い島で戦いをしたのが「厳嶋合戦」だった。

 1555年、毛利元就の軍勢4000と陶晴方(大内方)の軍勢20000とがここで激突した。毛利家はもともと広島の地からかなり離れた山間の地「吉田郡山」を拠点とした一豪族にすぎず、山陰地方の大勢力「尼子氏」と周防・長門などを有する「大内氏」の狭間にゆれる小さな勢力にすぎなかった。尼子の何万という軍兵に「吉田郡山城(山城)」を包囲され、これを大内氏の支援も受けて撃退した。そして、息子2人を吉川氏や小早川氏の養子となし、勢力基盤を固めて行った。

 そしてついに、1555年、大内氏の実権を握っていた陶晴方の大軍勢をこの狭い厳嶋神社のある宮島に誘い込み、村上水軍なども味方につけ、奇襲をもって5倍にもあたる大軍勢を壊滅させた戦いだった。その戦いに至るまでの情報操作戦も含めて、毛利元就の戦略とは見事なりと感嘆する。その後、周防・長門を勢力下に収め、山陰の覇者・尼子氏を「月山富田城」に追い詰め亡ぼし、中国地方の覇者となっていった。

 宮島を後にして、帰りは、広島市電に乗り、1時間あまりで広島駅に到着をした。

◆この「広島に行く」シリーズは、後日(盆明け)、「原爆と広島」をテーマに続きます。お盆のため、故郷に今日の12日から15日まで帰省をします。故郷の家には「インターネット通信機能」がありませんです。

 

 

 


広島に行く❷―日本三大「平城(ひらじろ)」の一つだった大城郭―川と堀で囲まれた要害の広島城

2018-08-11 23:15:04 | 滞在記

 広島城は、かっては日本の「三大平城(ひらじろ)」の一つといわれ、壮大な城郭の城であった。本丸と二の丸を取り囲む「内堀」、三の丸を取り囲む「中堀」、そしてその周りを取り囲む「河川」や「海」。水に取り囲まれた要害の城郭だった。1589年に、山陰・山陽9か国120万石を領する毛利輝元(※毛利元就の孫)が、叔父の吉川元春や小早川隆景とともに築き始めた。太田川デルタ地帯を利用し、五重の大天守と三重の小天守のほか、45基にもおよぶ櫓(やぐら)を擁する壮大な近世城郭は、10年後の1599年に完成した。そして地名を「広島」に改めた。「鯉城(りじょう)」とも呼ばれる。広島カープの球団名の「カープ(carp)・英語」はこの城の別名「鯉城」の「鯉」(こい)という意味から由来している。

 1600年の関ヶ原の戦いに西軍方の毛利家(西軍)は敗れたため、替わって東軍方の武将・福島正則が城主となった。1615年の「大阪夏の陣・冬の陣」で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、福島正則を改易した。その後、浅野氏が城主となり幕末まで続いた。天守や櫓などは明治の破却を免れ、日清戦争の際には大本営がここに設置された。第二次世界大戦期末の原爆投下で全ての城の建物は破壊された。1958年より、広島復興のシンボルとして、本丸の天守と二の丸の櫓などが復元され、今日に至っている。国指定史跡、日本100名城の一つ。本丸と二の丸だけが城跡として残されている。また、かって城の庭園だった「縮景園」も京橋川の川沿にある。

 8月8日(水)の早朝6時半頃にJR広島駅近くのホテルを出て、広島城に徒歩で向かった。街にはいくつもの川や𣘺があった。清潔感のある街並みを歩く。30分ほどで城の内堀や櫓が見えてきた。内堀に架かる橋を渡り二の丸に入った。銃眼がある狭間の塀が並ぶ。

 被爆樹木の「ユーカリ」の大木があった。今から73年前の8月6日の原爆投下の際に被爆、命を残して再び成長した樹木の一つだった。

 広島城には何本かの被爆樹木があった。マルバヤナギやクロガネモチの樹木など。爆心地から700m〜900mからの場所だ。かって1945年8月6日の原爆投下の日まで、ここ広島城内には「中国軍管区司令部」があり、空襲に備えての「地下防空作戦室」もあった。一瞬のうちに街が壊滅したが、かろうじてここの「地下防空作戦室」の電話機と回線(軍事専用電話)だけが使えたため、この電話で「広島壊滅」の一報が、東京の大本営に初めて伝えられた。

 本丸を歩くと、いたるところに黒い瓦が落ちていた。当時、原爆で破壊されつくした建物の屋根瓦の一部なのだろうか。建物の礎石もいたるところに残っていた。夾竹桃の花が咲いていた。復元された五重層の天守閣は見事だ。本丸から内堀や市内を望む。そして、本丸と二の丸を出て、内堀越しに天守を見た。