彦四郎の中国生活

中国滞在記

「桑ばたけ」という美しい歌がある

2022-05-31 06:02:02 | 滞在記

 二十四節気では、5月5日が立夏(りっか)[夏の始まり]、5月21日が小満(しょうまん)[草木が生茂る]、6月6日が芒種(ぼうしゅ)[芒(のぎ=穀物の硬い毛)のある麦などの穀物の種をまく時期]、そして、6月21日には夏至(げし)となる。桂川・木津川・宇治川の三川が合流して淀川となるところにある堤防「背割堤(せわりてい)」の数百本の大木の桜並木は小満のこの季節、青々とした緑の木陰に覆われている。並木には数本の桂(かつら)の巨木もある。

 桜の花が咲き誇る3月下旬から4月上旬の背割堤の景観は見事だが、この小満の季節の青々とした桜並木の木陰の風情も、特に早朝に散歩すると趣(おもむき)がある。宇治川のほとりに立つと、川べりの原生林的な森の背後に天王山の山が見える。

 桜並木で有名な「背割堤」だが、桜並木堤防の下の小径沿いにはたくさんの桑の大木があり、この季節に桑の実が緑から赤、そして紫色へと熟れてきている。ちょっと和製ブルーベリーといった味覚の桑の実(※ブルーベリーより甘さは少ないが、それそはそれでいい甘さ)。小径には熟れた桑の実が自然落下し、散歩者に実が踏まれて小径は紫色に染まるところもある。

 「桑の木、桑の葉、桑の実」、私の心の中に二つの光景と一つの歌が想い浮かぶ。一つは故郷の日本海に面した段々畑で祖父母と共に過ごし、この時期には畑の桑の木の実を摘んで食べた記憶だ。唇も舌も紫色にいつも染まった。アルミの弁当箱に紫色に熟れた桑の実を詰めて、家に持ち帰ったりもしていた。二つ目は、隣の家は二階が養蚕部屋で、蚕(かいこ)を飼育していたので、いつも桑の葉が敷き詰められていた光景だ。同級生の家だったので、よくこの二階の養蚕部屋で遊んだ記憶。そして三つ目が「桑畑(桑ばたけ)」という歌だ。

  この「桑ばたけ」という歌は美しい曲だ。1955年、在日米軍立川飛行場の拡張に反対する住民闘争に全国から支援者が集まり、「砂川闘争」と呼ばれる戦争反対の「平和闘争運動」ともなった。この「砂川闘争」は1955年から60年まで続き、日本政府及び米国政府は、この立川での米軍基地拡張を断念することとなり、東京都の横田への米軍航空基地移転を発表することとなった。その後、この闘争は「日米安保条約」批准を巡る「安保闘争」へと、全国規模の歴史的な国民運動へとなってもいった。私は1952年生まれなので、「砂川闘争」は、まだ3歳~8歳の子どもの頃の出来事だったので何も知らなかった。私が6歳の時に母は、心筋梗塞である日の深夜に、突然に亡くなった‥。

 この「桑ばたけ」の歌を初めて知り、口ずさんだのは、1974年に京都の大学に入学し、知人に連れられて京都四条河原町近くにあった「歌声喫茶・ともしび」に行った時でのことだったような記憶がある。メロディの美しさとともに、歌詞の中にある「亡き母の 背におわれ 苗植えた‥」の一節が心に響いた記憶が‥。

 この米軍基地拡張の対象地となった場所は、現在の東京都立川市砂川町。当時は桑畑の多い農家の土地だったようだ。強制的に桑畑の広がる土地を接収されることに反対した「砂川闘争」の中で生まれたのが「桑ばたけ」の歌。転調していくメロディが、この上もなく美しいので、今でも桑の木の葉を見るとこのメロディがふと心に浮かぶ。

 「桑畑(桑ばたけ)」作詞:門倉訣 作曲:関忠亮

 1、桑畑の しげる葉は 亡き母の  背におわれ 苗植えた  昔から   とぶ鳥さえ なじんでいた

 2、桑畑は 今荒れて  爆音は   わら屋根に さける程  たたきつけ 桑畑は   吹きさらし

 3、桑畑は 握りこぶし 振り上げて ならび起ち 畑守る   この私と  芽ぐむ春を もとめ歌う

 4、春になったら 枝を伐り かおる葉を カゴにつもう 椋(むく)鳥よ 高く舞い この喜び 告げてくれ 

■今、yahoo!Japanで「桑畑の歌」で検索すれば、ユーチューブサイトでこの歌が聞ける。1960年代〜1980年代にかけて、日本では労働運動が盛り上がり、若者たちの間でも「労働歌」青春歌」がたくさん歌われ、全国に「歌声喫茶」もたくさんあった。労働歌では、私の中では、荒木栄が作曲した「わが母のうた」や「地底(じぞこ)の歌」とともに、この「桑畑」や映画「若者たち」の主題歌である「若者たち」が今も心に強く残り続けている。居酒屋のカラオケで、たまに「若者たち」を歌う。今は、闘いの主なる相手は全体主義国家‥。豆粒ほどの小さな力だが、「山椒(さんしょ)の実はピリリと辛い」の言葉もあるがなあ‥。 

 5月下旬から6月上旬、小満から芒種へと季節は移る。梅雨入り前の、夏のはじめの季節の花々が咲く。秋に咲くコスモスが季節を間違えたのか、早や数輪開花してもいた。

 枇杷(びわ)の実が黄色くなり始め、茱萸(ぐみ)も食べ頃に朱(あか)くなっている。トウモロコシも背が高くなり、実も大きくなり始めていた。これから梅雨入り(例年、京都地方は6月8日前後)となるが、今年の梅雨入りは例年より少し遅くなるとの予報。アジサイの花も色をつけはじめてきた。

 孫の寛太とよく行く、京都吉田山山麓の真如堂の、沙羅双樹(さらそうじゅ)[夏つばき]と菩提樹(ぼだいじゅ)の花が開花し始めるのは梅雨入りの前後となる。特に菩提樹の高貴な甘い香りは、広い境内全域に漂う。真如堂に隣接した金戒光明寺(黒谷さん)にも菩提樹の木が2本ある。

 中国に渡航しなければならない日が近づきつつもあるか‥。この日本の季節の光景を目に焼き付けてもおきたい、一日一日の日々‥。桑の実の味‥。

 

 

 


中国人留学生、3年ぶりの里帰りも、5週間の隔離が‥京都の四川料理「火鍋店」で送別会

2022-05-23 16:54:19 | 滞在記

 中国福建省閩江大学の卒業生で、大阪大学大学院博士課程に在学している中国人留学生、任天楽さんが3年ぶりに中国に里帰りをすることとなった。2020年2月に里帰りすることとなっていたが、中国武漢で発生した新型コロナウイルスの感染拡大、その後の世界的なパンデミックのために中国に里帰りができなくなっていた。この2年間、中国に里帰りで渡航すれば、中国国内での3~4週間もの隔離があるからでもあった。

 その隔離政策は、世界が「with コロナ政策」になった今年になっても中国の「ゼロコロナ政策」は変わらないどころか、ますます厳しくなってもきている。しかし、今年の3月には大阪大学大学院修士課程を修了、4月からは博士課程にすすんだことから、中国の両親の帰省への強い想いもあって、博士課程の担当教授の了承のもと、長期間の里帰りをすることとなった。5月24日の成田空港➡西安(陝西省)の航空券を予約していたが、中国国内でのこの3月~5月のオミクロン株の感染拡大問題があり、この航空便はキャンセル(飛行中止)となってしまった。このため、5月20日の成田空港➡昆明(雲南省)の航空便で帰国することとなった。(※チベットに近い雲南省は感染問題が少ないため、海外からの航空便離着陸がキャンセルされることが少ないようだ。)

 いちおう、いまのところは、今年の9月下旬までは中国に滞在し、その後日本に戻る予定をたてているとのことだった。中国に里帰りしている間、故郷の山西省の大学でインターンシップを希望しているようだ。将来、中国の大学で勤めることを希望しているからだ。(日本の大学院の博士課程は3年間以上。博士論文の作成のための担当教授とのやりとりが主な学業であり、講義受講はとても少なくなる。任さんの専門は、「近世の日中文学比較」。)

 任さんのアパートは京都市伏見区の近鉄「伏見駅」や京阪「丹波橋駅」近くにあり、私の京都の自宅とそれほど離れてもいないので、私のオンライン授業でのパソコンの不調や問題が発生すると、よく自宅に来てもらい回復してもらっていた。とても任さんには感謝している。そんなこともあって、この5月13日(金)の夕方、しばらくは中国に戻る任さんの「二人送別会」をすることとなった。

 任さんの希望も聞いてみて、行くことになった店は、鴨川に架かる三条大橋からほど近いところにある中国四川省料理の「芙蓉苑"火鍋城"」という店。日本国内にある日本人向けに調理された中華料理店とはまったく違う、中国国内にある料理店そのものの店だった。(高瀬川沿いの三条木屋町を少し南に下ったビルの6階にあった。) 任さんはこれまでに3回あまり来店しているらしかった。私は初めて来る店。店に入った瞬間、そこは内装からしても中国国内の店そのものだった。

 ちなみに、京都市内では、中国そのものの中国料理店(食堂)や中国料理の食材店は、京都市伏見区の深草と京都市左京区の京都大学周辺に多くある。深草には中国からの留学生が学ぶ有名日本語学校が数校あり、東大・京大などの日本の国公立大学や有名私立大学に進学する中国人留学生が多い。また、京都大学には中国人留学生も多いからだ。

 中国にいるような店内は、店内で販売される飲料水からお菓子まで何から何まで中国そのものだ。ここで見る懐かしいペットボトル飲料水は、今も私の中国のアパートの冷蔵庫に入ったままだ‥。この日の客は、ほぼ中国人のようだった。任さんによれば、この店の客の7割は中国人、3割が日本人などとのこと。この日、満席のようすだった。

 本場の四川省の火鍋料理は、大きく平べったい鉄鍋を、二つの味に区切るか、三つの味に区切るかを客はまず選択する。二つ~三つの味の鍋料理が食べられる。この日、私と任さんは二つの区切りを選択した。一つは激辛の唐辛子も入った真っ赤な色のものと、辛さの弱いまろやかな味のもの。まあ、とても辛いが美味しい。くせになる激辛さにビールがすすむ。中国人の味覚は、「辛さの上に、甘さやしょっぱさなどを感じる舌となっている」とも言われる。私も長年の中国生活を経て、この中国料理の美味しさに対応できる舌となっているようだ。

 任さんは5月20日に日本の成田空港から中国雲南省昆明の空港に到着後、3週間のホテル隔離を経てから、日本の北海道から沖縄ほどの距離のある山西省太原の故郷に戻り、さらに故郷の自宅で2週間の隔離を受けることとなる。合計5週間の隔離となるが、これが今の「中国ゼロコロナ政策」での中国渡航。日本を出発する前の1週間に、在日中国大使館指定の医院で2回のPCR検査を受けることが義務付けられていて、これにかかる費用が6万円以上、高騰したままの航空券代30万円(コロナ前の10倍)、隔離ホテル費用15万円と、合計で55万円超の費用がかかると話していた。

 一昨日の5月21日、中国の微信(ウイチャット)を利用して、ホテル隔離が始まった任さんと動画連絡をとってみた。元気そうだったが、「今、隔離ホテルの部屋です‥はい、昨日からホテル隔離が始まりました‥。これから長ーいです‥」と話していた。長い3週間のホテル隔離だが、それがすめば故郷の家に帰れる。また、日本に戻る際は、日本でのホテル隔離は現在はほとんどない‥。(任さんは日本政府が認めているコロナワクチンを2回接種済なので)

■昨年の9月下旬から、日本に1年間交換留学をする予定だった閩江大学3回生6人のうち、3人はまだ日本に渡航ができていない。協定関係にある広島大学への留学生3人は、日本政府が3月1日から留学生の日本渡航の許可に転じたので、この4月中に日本に渡航できて現在は大学近くのアパートを借りて留学生活をしている。だが、神戸松蔭女学院大学の3人は日本への渡航ができていない。実は、5月18日に、上海➡成田空港の航空便を予約していたのだが、上海の都市封鎖がいまだ解除されず、上海に行く航空便がキャンセル(飛行中止)され、新幹線も上海行に乗るのは難しく、さらに予約していた日本行の航空便もキャンセルされたためだ。

 5月21日(土)の午後、京都市京セラ美術館で開催中の「兵馬俑と古代中国―秦漢文明の遺産」を見るために午後に自宅を出て、午後3時頃に美術館に到着した。「兵馬俑展」は3月25日から開催されていて、翌日の22日が最終日だった。このためか、当日券チケット売り場には列をなして並んでいたが、チケット売り場で「午後5時からの入場チケットしかありのませんがいいですか」と言われたので、入場を諦めた。まあ、2016年5月には中国西安に行き、兵馬俑に行っていたので、「まあ、本物の兵馬俑は見ているからいいかな…」と。

 入場を諦めて、美術館の売店に立ち寄って、今回の「兵馬俑展」の公式冊子を見た。売店にはこの美術館所蔵の「遠矢」(丹羽阿樹子作画)のファイルが売られていたので購入した。この「遠矢」、実際に一度見てみたい。同美術館では、「ポンペイ展」(4/21~7/3)が同時開催されていた。京都市京セラ美術館向かいの京都市国立近代美術館では、「鏑木清方展」(5/27~7/10)が開催されるようだ。

 結局、「兵馬俑展」には入場しなかったので、ゆっくりと白川沿いの細い道を歩いて鴨川に架かる三条大橋まで向かうことにした。白川沿いにドクダミの白い花がたくさん咲いていた。三条東大路の近くに「青衣あおごろも」という店名の小さな店があったので入ってみた。色の使い方がとても明るく美しく、デザイン性があるものがたくさん置かれていた。九条ネギをデザインモチーフとした、緑と黄色と白と青の色で描かれたハンカチを1枚買った。

 三条大橋を渡り「丸善書店」へ行き、『世界の賢者12人が見た、「ウクライナの未来 プーチンの運命』(講談社+α新書)[5/18日発売}と、『News Week誌—歴史で読み解く ロシア(超)入門』5月23日号を購入。近くの六曜社珈琲店で、タバコをしながら読み進めた。二冊ともなかなか読み応えのある書籍だった。

 自宅の新しい数本の女竹(めだけ)が高くなり、一階の屋根を越えるまでとなった。家の日陰のドクダミの花が美しくなってもきたこの小満(5/21~6/6)の季節の始まり。(※「二十四節気」の「小満」は、秋に収穫する麦などの種を撒きおえて、ちよっと一休みできて小さな満足感を得ることができる季節の意。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


喫茶店の町、京都の名店二つ—吉田山荘「Cafe真古館」と「イノダコーヒー本店」

2022-05-20 08:08:16 | 滞在記

 京都市は喫茶店の町でもある。人口約150万人のうち、1割が学生が占めるという学生の町でもあることもだが、京都の産業界(地場産業)などの旦那衆とも呼ばれる人たちが喫茶店文化を発展させたとも言われている。朝の一杯のコーヒーから商談までも喫茶店で、読書や議論などを喫茶店でという歴史的な喫茶文化があるようだ。京都の祇園祭を支え続けた町衆と学生、そして文化人などが京都の喫茶店文化を育んだのだろう。

 私も大学生時代からこの京都の喫茶店に行き始めたのだが、タバコをしながら読書をしたり、卒業論文の構想を考えたり、時にはデートをしたりと、この京都の喫茶店文化に親しんできた。京都の喫茶店の名店というものも多くある。いくつかあげると、①京大の図書館とも言われる「Cafe 進々堂(京大付近)」、②名曲喫茶「柳月堂(出町柳付近)」、③喫茶「築地(四条河原町付近)」、④「フランソワ喫茶室(四条木屋町付近)」、⑤喫茶「六曜社(三条河原町付近)」、⑥タナカコーヒー(祇園、三条川原町付近、同志社大学付近の三店舗)、⑦「御多福珈琲(四条河原町付近)」、⑧喫茶「長楽館(円山公園内)」、⑨喫茶「茂庵(京都吉田山山頂)」、⑩「リバーサイドカフエ グリーンテラス(哲学の道沿い)」、⑪「喫茶ソワレ(四条木屋町付近)」などなど‥。

 私が学生時代から50代にかけて最もよく行った「名曲喫茶ミューズ(四条木屋町付近)」は残念ながら今はもうない。「喫茶店」と書かれる字のごとく、「喫煙」と「珈琲(茶)」の喫茶店文化だが、ここ10年間余りで喫煙が制限又は禁煙の喫茶店が多くなってしまったのは残念だ。せめて分煙にすればいいのにという喫茶店も多くある。今も、京都市内の「丸善書店などに行き、喫煙可の喫茶店に立ち寄り、鴨川などの町の風情に親しむという定番的な京都市内行きの楽しみ方を続けている。そして、今回、ぜひに紹介したい喫茶店が「吉田山荘Cafe真古館」と「イノダコーヒー本店」の二つの喫茶店。

 5月7日(土)の午後、吉田山山麓にある「真如堂」の塔頭の一つである「吉祥院」で、「二胡の調べ」があった。開会までに時間が30分ほどあったので、近くの吉田山荘内にある喫茶「cafe真古館(しんこかん)」に久しぶりに行ってみた。この喫茶店は、喫茶店の町・京都でも最も行ってみてほしい喫茶店だ。吉田山荘内に車も停められる。この吉田山荘は、皇族の東伏見宮家(昭和天皇の義理の弟)の別邸として昭和7年(1932年)につくられた。今は料理旅館として営業している。そして、この吉田山荘内にあるちょっと洋館風の小さな建物が「cafe真古館」として営業している。

 ここが素晴らしいのはその景色。四方八方、モミジの緑や紅葉に包まれる。緑に囲まれた清涼な空間の喫茶店内は、京都市内随一の景観だろう。市内から少しはずれていることもあり、特に平日は客はとても少ない。知る人ぞ知るという喫茶店だと思う。

 二階の奥まった東の席からは大文字山や東山連峰が目の前によく見える。また、北の席からは比叡山や丹波山系もよく見える。冬になると比叡山がよく雪化粧をしている。ここで珈琲を注文すると、コウモリビスケットの菓子が1枚付けられ、吉田山荘の女将(おかみ)さん直筆の古典和歌も付けられる。(直筆のコピー)  5月7日に付けられた和歌は、「いまもかも 咲き匂ふたらん たちばなの 小嶋のさきの 山吹のはな」(古今集)[大意:今も艶やかに美しく咲いているであろうか。あの橘の小嶋の先(宇治川の塔の島)の山吹の花は。]と、解説もついた和紙に書かれた和歌が。季節に合った和歌が珈琲などの飲み物に添えられる。

 吉田山荘「真古館」近くの家屋には高い桐の木には紫色の桐の花が。小高い丘のような吉田山の山頂には喫茶「茂庵(もあん)」もある。この喫茶店も木造二階建ての伝統家屋。この「茂庵」なかなか素晴らしい喫茶店で、京都市内や比叡山、大文字などが見晴らせる。森の緑に包まれた喫茶店だ。(吉田山山麓の神楽岡通りに数台の駐車場あり。ここから山頂に向けて10分ほど登っていく。「真古館」からも、徒歩10分くらいと近い。また、吉田神社や京都大学正門からも徒歩10分くらい。京都市バスの「北白川」バス停からも徒歩10分くらい山道を登る。)

 この2年間あまり、コロナ禍のために中止となっていた「吉田山大茶会」が、この6月4日(土)・5日(日)が開催される。(「第11回京都吉田山大茶会」) 場所は吉田山の吉田神社境内一帯。世界の名茶が吉田山に集まる。4日の午前9時から献茶式や、能管(のうかん)や笙(しょう)の演奏。10時から4時までが境内の27の茶店で世界の茶が楽しめる。(多くは日本と中国、そして台湾の茶店だが、韓国、ベトナム、イギリスなどの茶店もある。それぞれの地の菓子なども出される。)

 5月7日のこの日、「二胡の調べ」が午後2時30分に終わったので、バスに乗り京都市内に向かって、祇園で下車。鴨川に架かる四条大橋から三条大橋や丹波山系を望む。鴨川納涼床が5月1日から始まっていた。鴨川沿いの河原にはたくさんの人が座って凉を楽しんでいる。木屋町の高瀬川沿いの橋の上にも人が凉を求めて腰掛ける。この日は青空が広がり、夏日の気温となった。

 三条烏丸から三条通りを、徒歩5分ほど鴨川に向かう(東方向)とイノダコーヒー本店とイノダコーヒー三条店がある。(三条大橋からだと、三条通を西に向かって15分ほどの所。「三条堺町通下る」。) このイノダコーヒー本店は、1947年の創業。堺町通りの道から見えるイノダコーヒー本店の町屋づくりの建物からは、ちょっと想像しにくいが、喫茶店の奥行があり広い。なんと客席は250余りもある。店頭には昔からの珈琲の焙煎器やコーヒー豆を運んだ船の模型が置かれている。

 店内は5つのエリアがあり(売店・1階席・2階席・円形別棟席・外のテラス席)、とても広い。中にはの庭も見える。嬉しいことに外のテラス席は喫煙可。また、開放的な喫煙所もある。

 イノダコーヒー本店のすぐそばの三条通りには「三条店」があり、ここは65席ほどだが、円形のテーブル席が有名だ。ここでタバコを吸いながら新聞や本を読む。(1年ほど前から、「喫煙所」での喫煙のみとなったが‥) ここはこの5月から、1年間ほど閉店となった。改装してまた来春には新しく開店される。(分煙での喫煙可の席がつくられると嬉しいのだが‥)   

 イノダコーヒー本店や三条店は、京都の町衆に親しまれてきた歴史をもつ名喫茶店だが、京都ゆかりの文人たちにも親しまれてきた。常連の作家としては、谷崎潤一郎や池上正太郎などがいた。また、日本の映画発祥の地でもある京都は、映画関係者の常連も多かった喫茶店だ。また、近くには錦市場や京都大丸や京都高島屋などもあり、買い物をして、ここで珈琲を楽しむという婦人たちの来店も多い。

 イノダコーヒーでしばらく過ごし、錦市場で京漬物や佃煮を買い、京都丸善書店に立ち寄る。そして、三条大橋を渡って京阪電鉄三条駅へ、自宅への帰路となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ぽれぽれらんど」の取り組み、私も「恐竜化石展示」、6月に「子どもと自然学会全国大会」も

2022-05-18 19:31:13 | 滞在記

 子どもたちが自然の中で遊び、そして学び、人間として成長していく。そんな、「自然を肌身で感じる経験」を子ども時代に少しでも過ごさせたいと、元小学校教員の野村治さんが中心となり、京都府京田辺市の天王地区の農地や山で、自然体験や農業体験や自然の中での遊びや自然学習といった取り組みを行っている。「コロナ禍下でも萎縮せず、自然や生き物とのふれあいを楽しんでほしい」と、この取り組みを始めたのが、世界的コロナパンデミックが始まった2020年5月頃からだった。その頃、日本は初の緊急事態宣言下だった。

 野村治さんは、全国でも有名な理科教育の実践家でもあり、現在は京都大学農学部の聴講生としても学び続けている。そんな野村さんの、コロナ禍下に「何かできないか」という思いに、たまたま知り合いから天王地区の農地の利用について提案を受けたことを契機に、菜園づくりから始まった。そして、その取り組みに賛同する元教員たちの協力が広がっていった。この2年間の取り組みの中で、農地を広げ、毎月の多彩なイベントを行い、賛同者を募り、参加者がSNSなどで知り合いを誘い、家族連れなどのSNS上のグループ登録者は、現在では200世帯・個人を超えているのではないだろうか。

 この2年間で、農地に接する山も借り受け、活動スペースを広げてきている。この取り組みのある場所は、「ぽれぽらんど」と名前がつけられている。

 そんな野村さんから、この4月中頃に、「寺ちゃん、こんど5月の"ぽれぽれらんど"で、恐竜化石の展示と説明をしてくれないだろうか」と依頼があったので、「はい、わかりました」と引き受けることとなった。日時は5月14日(土)の午前10時〜12時30分開催とのこと。この日が雨天の場合は翌日15日に実施するとのことだった。

 5月13日(金)、午前中のオンライン授業終了後、翌日の「ぽれぽれらんど」に持って行く恐竜化石や模型をダンボール箱に入れてこんだ。この週の10日(水)・11日(木)・12日(金)と3日間連続で今年一番の大雨が降り続いていた。雨は当日13日(土)の朝7時頃まで激しく降り続いた。7時頃にようやく降りやみ、曇り空となる。

 自宅から車で30分ほどのところに天王地区の「ぽれぽれらんど」がある。展示準備もあるので午前9時15分頃に到着した。ここに来るのも久しぶりだ。「ぽれぽれらんど」の農地や駐車場はかなり以前より広がっていた。開会時間の10時前には、かなりの家族連れの参加者が集まってきていた。

 野村さんや数人のスタッフの人たちに促されて、農地のそばの竹藪に包まれた竹林の山に参加者全員が案内をされ、隠れ家を目指すように山を少し登って行くこととなった。「広場」とよぶところが山の中にあるようだ。私はこの山に入るのは初めてだった。野村さんやスタッフたちが竹林を切り開いて道を作り、少しスペースのある場所を作ったようだ。何か、まさに「隠れ場所」のような所だった。ここで10時すぎから開会式が始まった。簡単な挨拶のあと、「ぽれぽれらんどの歌」が歌われた。この歌は、元中学校の音楽教員が作曲したもので、今回が初めての披露となった。その後、この場所でサックス(サキソフォーン)の演奏が行われた。竹林内にサックスの音色が数曲響きわたっていた。

 竹藪の中には破竹(はちく)がたくさん顔を出していて、野村さんが、「みなさん今日は破竹をできるだけ持ち帰ってくださいね」と呼びかけていた。小さい子どもとともに、家族連れが破竹をポキンと折っていた。この山の中には、竹で作った小屋のようなもの、ターザンごっこができるようなロープブランコもあった。茗荷(ミョウガ)も栽培されていた。

 7月頃には食べられるようになるだろう桑の実、野生の茨(いばら)🍓イチゴがたくさん実をつけていて、子たちも大人に勧められ美味しそうに食べていた。他の所にもターザンブランコなどがあった。アジサイの花が少し開花し、色をつけはじめてもいた。

 山を下り再び農地に。ツタンカーメンのえんどう豆が、たくさん実をつける季節となっていて、参加者の家族連れは思いのままに、自由に収穫をしていた。農地の自然の中で、親と子が過ごす光景がみられた。朽木の下にはカブトムシの幼虫などがいて、幼虫を手にしたお母さんからそれを見せられて、おっかなびっくりの子ともの姿も‥。

 手づくりの動く小さな木馬が二頭。この「ぽれぽれらんど」を始めた頃から、野村さんとともに取り組んできた中心メンバーの一人に、元中学校「技術・家庭科」教員の武田好弘さんがいる。木工的なものや机や椅子はこの武田さんが中心となって制作してきたようだ。農地の野菜などの作り方は地元の農家の人の指導も受けてきたとのこと。そして、この2年間をかけて少しずつ「ぽれぽれらんど」を広げてきたようだ。

 この日は、家族連れを中心に40人余りがこの「5月のぽれぽれらんど」に参加していた。2時間ほどの子どもと親の自然の中で過ごすひと時。この日の展示や体験コーナーとして準備されたのが、①私の化石展示コーナー(本物の恐竜化石に触ってみよう。)、②化石発見コーナー(数万年前の石を割って、木の葉化石を見つけてみよう)、③草木染コーナー(自然の草木や花で布を染めてみよう)。毎月の「ぽれぽれらんど」ごとに、このコーナーは変化をもたせているようだ。

 この日私が準備した恐竜化石は、1990年から2005年にかけて、恐竜調査団の一員として日本国内やアメリカやモンゴルで見つけた恐竜化石のうち、「日本に持って帰ることを許可された恐竜化石」を中心に展示した。そして、それらの化石の恐竜の模型を化石のそばに置いた。この日の展示化石数は30点ほどになるだろうか…。中には世界的にも貴重なものもかなりある。あの映画「ジェラシックパーク」に出てくる恐ろしいベラキラプトルの爪や歯、ティラノサウルスとほぼ同種類のタルボサウルスの足爪や背骨、翼竜の卵などもある。これらは、モンゴルのゴビ砂漠で見つけたものだ。また、アメリカで発掘したトリケラトプスの肋骨なども‥。見た目とは違い超重い隕石なども‥。

 4〜5歳くらいの小さい子供は恐竜の模型をもって遊び廻る子が多いが、小学生の中には、よく恐竜の名前を知っている子も‥。親は、いろいろと質問してくる人が多いので、ちょっと詳しくこれらの恐竜化石のことを説明させてもらった。私のコーナーのとなりには、山口さんという人が、栃木県塩原で採掘される植物の葉の化石が入っていることの多い岩石をたくさん持ってきていて、マイナスドライバーと小さな金づちで石を割らせていた。親子で石を割り、葉の化石が見つかると、歓声が上がっていた。

 まあ、隠れ家・秘密基地のような竹林の山の中での遊び、農地での野菜の収穫、竹林での破竹採り、この日の三つのコーナーでの体験などなど、参加した家族連れは2時間ほどを思い思いに過ごしていた。この日の「ぽれぽれらんど」の終わりには、参加者数人の感想や会の主催者である野村さんの挨拶があり、閉会となった。数日間の雨で、駐車場がぬかるみ、車がスリップして動かないものもあり、数人がかりで車を押して動かして脱出させたりもしていた。

 翌々日の16日、「ぽれぽれらんど」の参加者からの感想が、野村さんからラインを通じて送られてきた。家族連れの参加者から、私の恐竜化石コーナーや山口さんの葉っぱ化石探しコーナーに関する次のような感想もあった。「恐竜化石にさわれた—恐竜の卵まで触れました。小さい子は恐竜との格闘ごっこ。木の葉化石探し、カンカンカンパッ おっと珍しい藻の化石発見」、「福井県の恐竜博物館に連休に行ってきたところなので、貴重な恐竜の化石を手にとって触れたのは、親子ともどもワクワクして楽しかったです。」「隕石や化石の大きさ、重さに驚き、恐竜化石の発掘場所で異なる化石の色や状態の違いについても説明していただき、大変興味深かったです。」「葉っぱの化石探しも、割って化石が出てきた時の、ぱっと咲くような嬉しそうな子どもの顔が印象的でした。」「参加していつも感じるのは、その分野の専門家に子どもたちが出会えることだと思います。何か知識を得るのではなく、その方の立ち姿、語る姿。そういったことが、本当にいいなあといつも感じます。」など‥。

 この6月には、「子どもと自然学会 第34回全国研究大会」がこの京都府京田辺市で開催される予定のようだ。期日は6月11日(土)~12日(日)の二日間。大会テーマは「自然の中で育つ子どもたち—土と子ども」 大会要項には、「①コロナ禍の中、子どもの原体験・自然体験が不足しているなかで、どのような取り組みが可能なのか。"ぽれぽれらんど"などの実地見学から考える。②土から生まれる富を享受する農業とはどんなものなのか。無農薬栽培を通して、食と健康・農業を考える。③自然体験が子どもの発達にとってどういう意味を持つのか。土の中の生き物、水の中に生きる生き物などと子どもの発達の関係性などについて発表し、交流する。」などが書かれていた。

 大会日程は、11日午前 ぽれぽれらんど見学 午後 シンポジュームⅠ(京田辺市中部住民センター[せせらぎ」)、12日午前 講演とシンポジュームⅡ、午後シンポジュームⅢとなっていた。全国から参加者があるようだが、11日の夜の宿泊は京田辺市内の「ホテル水春(温泉付ホテル)」で、夜には懇親会(宴会)も予定されている。この11日の「ぽれぽれらんど」での恐竜化石展示を野村さんから依頼されもした。

 7カ月ほど前の2021年11月8日付京都新聞には、「コロナ禍でも野外に遊び場を 元教員が農地活用しイベント」の見出し記事が掲載されてもいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学か政治か?—中国「ゼロコロナ政策堅守」―北朝鮮感染爆発、14日新規30万人罹患

2022-05-17 06:30:44 | 滞在記

 日本でも、世界各国でも、この5月には新型コロナウイルス感染パンデミックのウイルスの主流は、オミクロン変異種のBA2株となっているが、これまでの新型コロナウィルスの変異種の中でも、最も感染力が高いとされている。しかし、感染者の重症化率や死亡率はとても低く軽症化率が高いのも特徴だ。ウイルス自体が「生き延びて子孫を増やし続けるために、感染力は高めるが、症状を軽くする」という、インフルエンザ的なものへと変異していくウイルス自体の生存戦略があるのかと思う。

 こんな現在の感染主流ウイルスの特徴を踏まえて、世界各国のほとんどがコロナ防疫対策を大きく転換し始めたのが、世界的コロナパンデミックが始まって2年間が経過した今年の3月頃であった。だが、中国は違う。超厳格な「ゼロコロナ政策」の堅守持続だ。今年3月中旬頃から始まった中国上海市での感染拡大は、3月下旬から都市封鎖が開始され、今もなお超厳重な都市封鎖が続いている。そして、中国の首都・北京市でも5月に入り36箇所地区では地区封鎖がとられ、まだ感染者数は少ないものの、今後の感染状況では全市都市封鎖の可能性もあると報道されている。(北京市感染者数は4/22~5/2までの期間453人) そして、北京市民約2000万人は毎日PCR検査を受けてもいると報じられていた。

 このような感染拡大防止政策は、中国各地で行われていて、この4月・5月で都市封鎖が実施されている(又は実施された)都市は少なくはない。1人でも感染が確認された地区は、地区封鎖の措置などがとられている。

 中国のテレビやインターネット報道に、「5月1日、上海市に近い中国浙江省のある高校は、在学生2070余人、教師170余人全員が大型バスに乗って、都市部から離れた地域にしばらくの間、学校を移動する」というニュースが報じられていた。そういえば、来月6月7・8日には中国の統一大学試験の「高考」がある。中国全土で1100万人超が受験する国家的な一大行事だ。特に高校3年生の感染を避けるため、1・2年生も教員も全てしばらく学校が移動するようだ。中国らしいというか、やることがダイナミック‥。この「高考」の全国実施に向けて、なんとしても5月中には、上海や北京の疫情を止めたいという思いも中国政府には滲む。

 5月9日、「現在離開上海有多難」(現在、上海を離れて他の所に行くのは超困難)の見出し報道ニュース。どうしても事情があり、上海から故郷の南京に戻る必要がある若い女性の、上海を出て南京に行くための記録動画が配信されていた。上海発の新幹線や上海到着の新幹線はほぼないため、全身防護服に身を包んでワゴン車に乗りこんでいる動画だった。

 上海市の感染状況はここ数日間は1日の新規感染者数は千人台にまで減少してきていて、今日16日からは一部スーパーや薬局が営業を始めるとの報道もあるが、都市封鎖で家から出られない人々は、「どうやってスーパーや薬局に行くの?」とも報道されていた。今のところ、5月末までは上海の都市封鎖は続くようだとの観測がされている。実に2カ月間もの都市封鎖は、2020年の武漢都市封鎖以来となる。

 日本のYahoo!Japanのネット記事を日本で見ていると、時々「存在違法信息的网站」(現在、ネット空間のこの記事の存在は違法です)と中国語表示によって記事が閲覧できない時がある。私のパソコンに中国のネット会社の検索機能が勝手に入り込んでいるためだ。5月上旬にこの検索機能によりブロックされていたのは、「習近平の"ゼロコロナ"への固執が招いた上海ロックダウンの地獄絵」(現代ビジネス社配信5/2付)という見出し記事。1~2秒間の瞬間しか閲覧できず、すぐにブロックされる。こんなことは日本にいても時々ある。(※Yahoo!やGoogleなど欧米系メディアのネット検索は、中国国内では2015年頃から検索できずブロックされている。現代版「万里の長城」)

 5月6日付朝日新聞には、「中国の水際 むしろ厳戒—隔離21日間 PCR検査10回」の見出し記事。14日付には、「"ゼロコロナ"北京ピリピリ—厳しい対応 市民に不信感」の見出し記事が掲載されていた。

 4月29日付朝日新聞には、「台湾コロナと"共存"政策に転換—感染、初の1万人超」の見出し記事。日本のテレビでは、「台湾コロナ感染急増2万人超」との見出し報道が5月5日ころにされていた。「民主主義を壊さずコロナ防疫を行う、世界で最も優等生な台湾」とこの2年間、世界の手本ともされていた台湾も、このコロナ変異種オミクロン株には、その感染力の強さや重症化率の低さというウィルスの特性を科学的に判断して、「コロナとの共存政策」にと転換をした。また、これまでの海外からの入国者10日間隔離を1週間に緩和した。

 世界各国のほぼ、ほとんどが、「Withコロナ(共存)政策」に転換する中、中国国内で最も感染対策の権威があり、国民の圧倒的な信頼を得ている鍾南山医師が4月6日に論文を発表した。いわゆる「中国のゼロコロナ政策」の是非に関する論文だった。なにせ、コロナ感染対策に関しては、中国国民にとって「この人の言う事なら、最も全面的に信頼がおける」人物である鍾南山氏の論文。世界の注目が集まる論文でもあった。

 日本のテレビではこの鍾南山氏の論文について、「ゼロコロナ政策"長期的には継続困難"―中国の第一人者が指摘で波紋」の見出し字幕報道が4月22日になされていた。(朝日新聞アピタル) 日本のインターネット記事には、「"ゼロコロナ政策"限界を指摘、中国で感染症専門医の論文に波紋‥SNSで転載相次ぐ」(4/21)や「"ゼロコロナ"は限界?中国・感染症トップ専門家の論文が起こした波紋の先は」(4/24)などの見出し記事が掲載されていた。

 この論文は、鍾南山氏ともう一人の専門家との共同執筆で、政府系研究機関・中国科学院の英文学術誌(オンライン版)で4月6日に公開された。鍾氏らは、ゼロコロナ政策は感染拡大の封じ込めに「重要な役割を果たした」と評価しつつも、経済・社会の正常化のためにも「長期的に続けることはできない」と論じている。中国メディアの『財新』(電子版)が4月19日に論文の内容を伝えると、ますます強化される一途の「ゼロコロナ政策」への不満も背景にSNS上での転載が相次いだ。(※さすがに、国民的な信頼の篤い鍾南山氏の論文だけに、中国当局はネット上での削除措置はしていないようだ。)

 これに対し、中国共産党系メディアは4月20日、「目下のところはゼロコロナ政策の継続が必要」との4月8日の鍾氏の発言を強調して伝え、「ゼロコロナ政策継続への批判」を抑えている。また、王文濤商務相は4月18日、日米欧などの経済団体代表と面会した際、ゼロコロナ政策を緩和すると「1年後に200万人の死者が出るとの予測がある」と述べ、「ゼロコロナ政策」への理解を求めた。

 この「1年後に200万人の死者」の根拠は何だろうか?オミクロン株は感染者の軽症率がとても高いコロナ変異種なのだが‥。科学的な見地に基づいた防疫対策よりも、政治的なことが優先されているのだろうか…。(※インフルエンザの致死率は最高で0.09%、2020年1月~2021年10月にコロナ感染の主流だった在来種の致死率は4.25%、そしてオミクロン株変異種の致死率はインフルエンザ致死率を少し上回る0.13%。仮にオミクロン株で200万人が死ぬとなると、感染者数は25億人以上が罹患することとなり、中国の人口14億人をはるかに上回る。)

 5月10日、世界保健機関(WHO)のデドロス事務局長は、中国が新型コロナウイルス感染抑制に向け実施している厳しい封じ込め措置は、ウイルスの特性を踏まえると持続不可能だとの見解を示した。WHOが特定の国の感染対策に言及することは異例。同事務局長は、中国の専門家と議論してきたことを明らかにした上で、「この方法は持続不可能である。方針転換が重要だ」と指摘した。また、WHOの緊急事態対応を統括するマイク・ライアン氏も「ゼロコロナ政策が人権に及ぼす影響も配慮し、新型コロナの対策にあたっては人権に配慮し、社会や経済に与える影響とのバランスを取るべきだ」と指摘した。

 このWHOの見解公表を受けて、中国のインターネット上ではゼロコロナ政策に疑問を呈するコメントが相次ぎ、「WHOのデドロス氏さえ意見を変えた」「政府はWHO事務局長の勧告を聞くだろうか」と言った声も上がっていた。中国当局は翌日、直ちに検閲に乗り出し、同政策に関するインターネット上の意見や議論を削除した。そして、デドロス事務局長やライアン氏の発言の削除も急いだ。そして、11日午前中には、ソーシャルメディア上でのハッシュタグ(SNS上での意見交換を広げる機能)は、使用できなくなった。さすが、中国だ‥。

 5月14日付朝日新聞に、「北朝鮮 発熱の急増"爆発的"コロナ死者確認 隔離・治療18万人―パレード原因か」、5月15日付同紙には、「金総書記"建国以来の大動乱"北朝鮮新たに17万人発熱—防疫政策"中国に学ぶ"」の見出し記事が掲載されていた。この2年間、新型コロナウイルス感染状況が闇のベールに包まれ続けてきた北朝鮮だが、この5月上旬からおそらくオミクロン株変異種による新型コロナの感染爆発が起きていることを内外に初めて明らかにした。14日には、1日の新規感染者数が30万人に上った。

 人口約2500万人の同国、日本の人口の5分の1程度の人口なので、日本の人口に当てはめてみれば、「日本で1日の新規感染者数が150万人に上った」換算となる。この半月ほどで、200万人余りが罹患したと報道されていた。北朝鮮人口の約1割近い罹患がわずか半月で起きたこととなる。新型コロナワクチンを国民は接種しておらず、感染はさらに拡大していく可能性が高い。5月12日、北朝鮮当局は全土の都市や町や村の各地区の都市・町・村の封鎖を発表した。

 この北朝鮮のコロナ感染状況は中国でも報じられていて、この報道に対しての読者コメントとして、「これは韓国駐留の米軍による生物化学兵器使用によるものだろう。ウクライナにも米軍の生物化学兵器研究所があるようだしな」などのものが見られた。

 5月13日のABC(朝日テレビ系列)の報道番組「大下容子ワイド!スクランブル」では、この「北朝鮮の感染爆発」と「中国のゼロコロナ政策を巡るWHOの見解」に関する特集報道が放映されていた。報道字幕には次のような文字が‥。「人口2578万人北朝鮮、昨日12日だけで1万8000人以上、これまでに16万2200人以上が完治、18万人隔離」「金正恩マスク姿 北朝鮮 新型コロナ初確認?公表したワケは?」

 「5/10 スイスジュネーブWHO 過去には中国のコロナ対策を賞賛」「上海ロックダウン 5月いっぱい続けられる見通し」「北京 4月25日から規制がより厳しくなった—ロックダウンに向かっている」「WHO事務局長—ゼロコロナ政策は持続可能ではないと発表」「国連の公式アカウント—"デドロス発言を中国語版で発信したが、微博(ウェボー)や微信(ウィチャット)では削除されている」

 「デドロス発言に反発—5/11 趙立堅副報道局長"ゼロコロナ政策の有効性を主張""中国は世界の中で防疫に最も成功した国の一つだ。無責任な発言を控えるよう望む"」「東京大学阿古智子氏―習近平国家主席のメンツと3期目に向けて、自分の指示に従う味方の見極め」などの字幕テロップが。

■「科学が政治か?人権かメンツか? 」、「一党独裁全体主義、民主主義どちらが優れた政治制度なのか?」。この中国のゼロコロナ政策を巡って、今また、改めてその解答に至るピーツ(一片)がまた一つが出始めてもいる‥。この8月には中国渡航を予定もしている私にとっても、その渦(うず)の中に巻き込まれている。