彦四郎の中国生活

中国滞在記

閩劇の上演—1920年代を描く中国映画の場面のような世界—、そして露店の物売り。

2014-09-23 12:21:35 | 滞在記

 9月の中秋節、宿舎の部屋まで、かすかに聞こえてくる音曲の音。今年も「閩劇(びんげき)」の一座が、宿舎の近くやってきた。庶民の古びたアパート群の一角にある小さな広場。ここに昨年も、この劇団の上演が行われていた。福建省の東北部(福州を中心とした)に伝わる伝統的な地方劇。この地方では、伝統的な節句には閩劇が各地で上演されるようだ。歌と舞踏と台詞(せりふ)で構成される劇の物語は、喜劇的な要素が多く見られる時代劇である。
 中国の伝統演劇といえば「京劇」が思い出されるが、中国各地では長い歴史をもつ独自の演劇が数多くある。1600年に始まった閩劇はその一つである。

 中国の「八大地方劇」といわれるものは、①京劇(北京)②昆劇(江蘇省)➂評劇(河北)④黄梅戯(安徽省)⑤越劇(浙江省)⑥粤(えつ)劇(広東省)⑦川劇(四川省)⑧豫(よ)劇(河南省)。
 閩劇が上演されている会場の雰囲気は、1920~30年代の場面の映画の世界のような趣がある。客が観劇している場所の横にある団員の休息・控えの場所。古ぼけたビリヤード台の上に、多くの荷物や衣装がおかれている。赤ん坊に乳を飲ませている女団員の姿も見られた。

 宿舎近くで週末(土日)に開催される露店。多い時には1000軒を越す露店が出現する。ここでは、色々な物が売り買いされている。鳥や蛇や亀や蟹なども売られている。上記の写真は、左より「骨董品の店店」「野鳥を売り歩く男」「蛇(手に蛇の頭下を持つ。背中のバックの中には十数匹の蛇が入っている。)を売り歩くお」。

 自転車の前籠に売る物を入れて移動する女、八ッポースチロールの箱に蟹を入れて売り歩く女、天秤棒に野菜を入れて移動する男、新疆ウイグル自治区から来ているクルミ売りの男など、いろいろな物売りと買い物客でごった返す。

 一昨日の日曜日、露店をぶらぶらしていたら、「阿房宮(あぼうきゅう)」を描いた大きな蒔絵が置かれてあった。阿房宮は、秦の始皇帝が都「咸陽」の近くの景勝地に築かせた宮殿(別荘)だ。値段を聞いたら2000元だという。欲しかったが値段が高い。また、司馬遷の「史記」の古本が置かれていた。とても欲しいが600元だという。あきらめた。(1元は約18円)

 宿舎近くの河川公園には、大勢で喋り合う人々や「賭けトランプ」をする人々など、思い思いにすごす人々。福州の中国社会の多様性を感じる。1950年代から現在までの世界が、混ざり合うような中国社会。この混在性が中国という国の大きな魅力だと思う。














中国の学校と軍事訓練—ひたすら「一、二、三、四!(イーアル・サンーースゥ!)」ー、日本の実習学生

2014-09-20 07:39:39 | 滞在記

 大学の南門から10分ほど歩いた朝7時55分頃に、自分の研究室がある福万楼という建物に近づくと、「イーアル・サンーースウ!!」という集団の大声が聞こえてくる。新入生の軍事訓練だ。
 新入生(約5000人)は、9月4日(木)に大学の寮に入寮。9月5日(金)に入学式(各学部)、オリエンテーリングを終えた。そして9日(火)より2週間の軍事訓練が開始された。朝7時半から夕方5時半までの長時間の軍事訓練が毎日(土・日も)行われていた。ひたすら「イーアル・サンーースウ!!」の唱和をしながらの行軍練習を繰り返す。銃を持つ演習もあるが、実弾発車訓練はしない。そして、昨日19日に軍事訓練が終了した。
 北京などは、9月に入ったら最高気温が30度を超えることはないが、福州は猛烈な暑さが日々続く。5日ほど前に、五一広場近くの喫茶店で福州日報という新聞を読んでいたら、次のような記事があった。「今日、気象局の発表では、最高気温が35度となっていた。しかし、実際にはもっともっと暑い気温だ。午後2時に、新聞社のベランダの日蔭で気温を測ったら44度あった。そして、地面(おそらくアスファルト)温度を測ったら、65.5度だった。」※中国の気象庁発表の気温が、かなりの誤差で発表されるのは、中国人にとっても常識になっているようだ。

 このような気象条件下での軍事訓練は、かなり大変だろうと思う。現代の中国の学生(小・中・高)は、「より良い中学・高校・大学に入る」ために、毎日勉強に明け暮れる。そのため、日本の中学や高校のクラブ活動というものがない。ひたすら勉強の生活らしい。だから、体力や運動能力が問題になる。だから、この軍事訓練は大学生にとっても大変な2週間となる。
 9月13日(土)に、外国語学部の4回生たちの体力テストが実施された。上記の新聞報道に該当する日だ。テストの中に800m走がある。多くの学生がリタイヤしたり、嘔吐したりしたらしい。途中リタイヤすると不合格となり、体育の単位がもらえないようだ。生理期間の女子学生にとっては三重苦のテストらしい。(※小・中で運動能力に優れている学生は、大学に行かずに「体育専門学校」に進むコースがある。)

 中国の学校での軍事訓練は、1990年頃から実施されるようになった。1989年の大学運動事件の事態を重視した中国当局は、このような事態の再発防止のために、大学での軍事訓練義務化を実施したという経緯がある。その後、高校や中学、小学校でも実施されるようになっている。高校では1週間、中学では4日間、小学では2日間あまり実施されている。(8月下旬から9月上旬)

 9月7日(日)に、閩江大学に来た日本人学生3人の「日本語教育実習」が昨日終了した。指導しながら、実際の授業を2回ずつしてもらったのだが、かなり良いレベルでの授業を終えることができた。明後日の日曜日に日本に帰国予定だが、その日は台風が福州近辺に進んでくる予定だ。飛行機が飛ぶだろうか。







朱子学(しゅしがく)の祖、朱熹(しゅき)の故郷、学堂のある街―尤渓(ゆうけい)―

2014-09-09 06:36:11 | 滞在記

 日本の歴史にも大きな影響を与えた儒教。「北の孔子(こうし)、南の朱熹(しゅき)」とも言われる朱熹の故郷であり、彼の学堂(私塾大学)があったのが、福建省の尤渓(ゆうけい:中国読みヨーシー)である。福州から新幹線で西方に50分あまりで到着できる。
 中国の歴史(原人の存在・稲作の開始・国家成立など)は、日本の歴史に比べると、非常に長い歴史をもつ。特に古代史と原始・旧石器史が長い。紀元前6500年頃には、長江流域で稲作が始まっているし、紀元前4000年頃から黄河文明(エジプト文明とほぼ同じ頃で、人類最古の文明)が起こった。また、紀元前1600年頃には、中国初の王朝である「殷(いん)」が成立している。いわゆる世界の文明の最先進国だった。(中国の古代の歴史:殷時代➡周時代➡春秋戦国時代➡秦時代➡前漢時代➡後漢時代➡三国(魏・呉・蜀)時代➡-----/ /------隋時代➡唐時代➡---)  日本の「邪馬台国」の卑弥呼などが登場するのは、紀元後(西暦)150年頃であり、この頃の中国は「三国時代(魏・呉・蜀)」であり、劉備玄徳・関羽・張飛・諸葛孔明、曹操などが活動していた時代である。孔子は「春秋戦国の時代」の戦乱で混乱する時代に、北方にある山東省で生まれ、儒学を起こし「論語」を表している。

 朱熹(113年~1400年:南宋時代)は、尤渓で生まれた。19才で「科挙試験」に合格。中国南東部の各地で、役人生活を十数年送った後、儒学の一派である「朱子学」を起こした。日本の後醍醐天皇や楠木正成、幕末の水戸学、吉田松蔭などの幕末倒幕運動にも大きな影響を与えた学問でもある。また、江戸幕府の公式学問として重要視されていた。陽明学もこの朱子学の流れをくんでいる。
 朱熹の学堂は、長い間放置され、建物はかなり破壊されたり朽ち果てたりしていた。特に「文化大革命」の時代は、「批林・批孔運動」(林彪と孔子を批判せよ!)が展開され、儒学に関係するものは、破壊されたりした。ここ尤渓の学堂は、昨年から 当時の学堂再建が始まり、まもなく完成しようとしている。「理学学舎群」と「文系学舎群」のエリアが分かれている敷地構造だった。まるで大学のようだ。また、樹齢800年を超える楠の木の大木が3本あった。当時からあった樹木だろうと思われる。

 この尤渓は、私の大学の学生の故郷である。8月25日の夕方から28日の朝まで宿泊させてもらった。(25日は祖父宅、26・27日は自宅) 自宅には、人懐こい「トウトウ」という名前の犬、台所にはB4版サイズ大きな亀がいた。亀は食用になるのかな。

 27日の朝、学生の父親のバイクにのって、尤渓の市街から20分ほど行った田舎に連れていかれた。現在、建築中の家だという。レンガを積む作業が行われていた。どうやら、畑などの農作業(家庭菜園)もできる、小さな別荘(?)らしい。「完成したら6部屋ができるので、1部屋をあなたにあげる。」といわれて、びっくりした。家具や生活用品は自分で調えてとのことだった。一応辞退はしたのだが…。中国では、「朋友」(ポンヨウ:親友)や「大兄」(義兄弟)の関係になると家族同然の扱いを受けることになることがある。

 この尤渓も滞在中は、とても暑い日々が続いた。学生の兄と一緒に二人で市内のプールに26・27日と行った。両日ともに町の小学生(高学年)と仲良くなり、プールの中でパンツ外しごっこなどをして遊んだ。学生の兄は、一応は水に浮くのだが泳法を知らなかったので、「①平泳ぎ②横泳ぎ➂潜水泳ぎ④後ろ逆犬かき泳ぎ⑤クロール」を教えてあげた。二日間で、5つの泳ぎがかなりできるようになった。プールの近くにある屋台で、肉麺を食べたりした。プール横の高校では、軍事訓練を終えた高校生が迷彩服を着て下校していく姿がみられた。※お金をかけての路上中国将棋(写真右上)。この風景は、福州でもよく目にする。路上に将棋盤(紙)を置き、通りかかる人と将棋をし、買ったらお金をもらい、負けたらお金を払う仕事をしている。




厦門(アモイ)の街

2014-09-08 07:31:31 | 滞在記

 私が住んでいる福建省福州市(省都)という地名を知っている日本人は少ないと思う。しかし、厦門(アモイ)という街の地名は、「聞いたことがある。」という人が多いのではないだろうか。「将来は厦門で仕事をして、暮らしたい。」「住むなら厦門」という学生も多いくらい、西洋風の建物が多く残る綺麗な街だという。一度行ってみたいと思っていた。特に、厦門大学に行ってみたかった。
 夏休み中の8月6日から、中国に用事ができたので福州に5日間戻った。その間、わりと暇があったので厦門に行ってきた。早朝、福州から新幹線に乗って約2時間で到着した。新幹線の厦門駅から公共バスに乗って約30分ほどで街の中心部へ着いた。
 厦門の港は、水深が深く、かつ周囲の陸地や島が防波堤の役割を果たしている天然の良港のため、1300年代(明の時代)に城が築かれたり港が開発された。特に、1600年代以降は中国有数の茶葉輸出港として繁栄。アヘン戦争の講和条約である南京条約(1842年)により開港され、コロンス島に外国の領事館や多くの洋館が建設された歴史をもつ街である。

 コロンス島に渡る「大型連絡船乗り場」には、たくさんの観光客が来ていた。団体旅行の人達のかぶっている帽子も「赤・青・黄」と色とりどり。船に乗って5分ほどでコロンス島に到着できる。連絡船乗り場には、さまざまな物を売り歩く人などの姿が見られた。

 コロンス島を周ってみると、確かに洋館が非常に多い。ほとんどが洋館といってもいいくらいだ。その洋館を活用した洒落た(しゃれた)店が多く立ち並ぶ。島の最も高い場所に城郭(砦)のような建築物があり、ここからはコロンス島や対岸の厦門市街が見渡せる。台湾と中国が、政治的な緊張関係にあった時代に、軍事的に重要だった金門島も近くに見えた。ここ厦門は、果物が豊富に出回り、特にマンゴーがとても安い。大盛りのマンゴーアイスを食べてみたが、とても美味しい。

 コロンス島から厦門市街に戻って、厦門大学に行った。広く美しく、美観な大学キャンパス。中国国家重点大学の一つの大学で、福建省はもとより、中国南部の大学の中では超難関大学。校内には、厦門大学魯迅記念館があった。

 福州への帰りの新幹線。福州北駅の一つ手前の福州南駅で突然止まった。1時間たっても発車しない。どうやら大雨や落雷のために緊急停車したことは、乗客の会話の様子や天候から なんとなく理解できてきた。しかし、客車乗務員からも車内アナウンスからも、何の「知らせ」もない。どうなることやら不安や疲れが増幅する。1時間半後にようやく発車し、福州北駅に到着した。



日本への帰国、そして再び中国へ赴任―日本滞在中のこと―

2014-09-07 15:09:49 | 滞在記

 7月11日に、日本に帰国。8月6日に中国に用事があって行き、11日に再び日本に帰国。そして8月24日に中国に戻ってきた。2か月あまりの大学の夏休みが終わり、9月3日から授業が再開された。
 ブログ「彦四郎の中国生活」も久しぶりの再開。明日、9月8日(月)は、中国の「中秋節」。大学も休み。中秋の名月が明日見られそうだ。日本も、明日は満月だろうか。中国に戻って2週間がたったが、もう日本が懐かしい。
 福州は、今も とても暑い・熱い。気温は連日35度以上で湿気もすごい。「Yahoo Japan!」の天気予報を見ていたら、福州の体感温度が43度と表示されていた。それぐらいはあるだろうな。気温39度だった4日前の体感温度は45度はあると思う。まるでフライパンを空焚きした上の空気のようだ。中国の北の方に位置する北京は、日中の最高気温が27度くらいまで下がり、秋の気配らしい。さすが中国で最も暑い都市、福州だ。最も南に位置する海南省よりも暑いのだ。なぜここは、こんなに暑いのだろうか。
 この暑い時期だが、今日 日本の大学生3人と先生が、「授業実習」のために 私の大学に 日本より到着するので、夕方 空港まで出迎えに行く予定。

 40日間あまり、日本に帰国していた。帰国する前は、30人ぐらいの友人や親しい人たちの顔が浮かび、一緒に酒を飲みたいと思っていた。関東方面にも行きたいと思っていた。しかし、実際に会って酒などを飲み、語りあえたのは5人だった。残念だ。

 7月11日に帰国後から7月23日までの約2週間は、中国の私の大学から日本に短期セミナー学生として初来日した学生たちの件についやされた。また、8月13日から16日までは、お盆での帰省。そしてお盆が過ぎてからは、中国への帰国が1週間後に迫って来たため、いろいろな生活関連の荷物や授業のための荷物の中国への発送作業、かかりつけの諸医院への健康診断や治療に追われる日々だった。

 息子や娘と店で飲んだり、妻や故郷の母とすごしたり、娘の指揮する「高校吹奏楽コンクール京都府大会」にでかけたり。そして、なによりも「父・母・祖父母や先祖」の眠る墓や仏壇(お盆)の世話をしたりして過ごした。また、岡山県への一泊旅行もした。

 日本の大学の大学院留学を希望する学生のため、「立命館大学・同志社大学・京都大学・大阪大学」などへ行き、入学試験の問題や募集に関する事項などを調べにも行ってきた。
 長い夏休みのようだったが、またたくまに日々が流れ、今また中国にいる。