彦四郎の中国生活

中国滞在記

ひっそりと山頂の樹林に佇(たたず)む、比類なき土の山城、玄蕃尾城➊—座骨神経痛や閉塞性血管症の発症から約1年半が経過、そして、山城探訪に初めての挑戦

2024-11-12 10:07:14 | 滞在記

 昨年6月上旬から座骨神経痛による腰の強い痛みの発症、それから間もない8月下旬からの閉塞性血管症による右足ふくらはぎの痛みの発症。腰と右足の二つの部位の発症により、昨年の9月~11月にかけての約2~3カ月間は、50mを歩くのも辛いという状況だった中国生活。10月・11月と、それぞれ1週間余り一時帰国をして、行きつけの漢方鍼灸院や血管外科のある総合病院にて診察・治療を受け、薬を処方してもらい、さらに腰のサポーターも初めて購入して中国に戻ることを繰り返していた71歳の私だった。

 あれから約1年間が経過した。歩ける距離は少しずつ長くなり、現在では200m~300mくらいなら、痛みの発症程度が軽くなり、2~3分ほど、腰をかけて休み休みを繰り返せば1kmほどは歩けるほどになってきている。72歳となっている今、散歩することも少しずつ苦にならなくなってもきている。

 2000年代に入ってから、日本の山城探索は約1200箇所余りの城址を巡った(多くの場合、道なき道の樹林の中の山登り)のだが、71歳で上記の痛みが発症してからは、一つの山城探訪もすることはできなかったし、その気にもなれなかった。

 この11月10日(日)、故郷の福井県南越前町の自宅から京都の自宅に戻る途中、ふと思い立って、約2年ぶりに山城探訪をしてみる気持ちになった。この日の、時間の余裕があったことと、わりと暖かな青空の天気に誘われたこともある。行ってみようと思った山城(やまじろ)は、福井県と滋賀県の県境の内中尾山の山頂にある「玄蕃尾城(げんばおじょう)」。この城址にはもう15回余りは行っているが、秋の紅葉が始まる11月に一度は行ってみたいという思いも以前からあったこともあった。日本全国3万余りある城跡の中でもベスト10に入るくらい、私にとっても、それほど素晴らしい城址でもある「玄蕃尾城」なのである。

 城という漢字は「土」から「成る」という文字だ。玄蕃尾城は石垣・石塁は一か所もない「土の土塁や空堀から成る」城跡。国境(くにざかい)の山々の山頂の、樹林にひっそりと佇(たたず)む、比類なき土の山城の標高は459m。1583年3月~4月の二か月間にわたって行われた賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家が本陣としていた山城が玄蕃尾城だった。その戦いから約400年間後の1980年に、所在地がようやく発見されるまで、ベールに包まれた幻の城でもあった。1999年に国指定のの城址となる。

 福井県敦賀市から国道8号線を滋賀県方面に向かうと、古来から交通の要衝地にあった疋壇城のある疋田集落に至る。ここで滋賀県の湖西地方の高島市に至る国道161号線(山中峠越え)と、滋賀県の長浜市木之本町に至る国道8号線に分岐する。国道8号線をそのまま行くと、途中で左の方に刀根集落に至る道が現れる。その刀根集落を過ぎて滋賀県との県境に至る道を進む。

  すると、かって旧北陸本線(鉄道)として使っていた長く暗い1車線のトンネル(現在は車道として使用)に至る。そのトンネルの手前の左側に、車が通れる山道があり、その道をひたすら登っていくと、福井県・滋賀県の県境となる久々坂(くぐさか)峠(刀根坂峠越)や、玄蕃尾城址に至る駐車場(車は5~6台駐車可能。玄蕃尾城址が国指定となってから、山を登る車道や駐車場が整備された。)に至る。駐車場には簡易トイレが設置され、山登り用の竹杖が置かれ、玄蕃尾城址のパンフレットも置かれている。

 駐車場から玄蕃尾城址まで山登り徒歩20分ほどと案内版には書かれている。これは健脚の人の場合の時間の目安。ゆっくりと登れば30分はかかる。私の場合は足腰の病気の問題があるので、休み休み、超ゆっくりと登る必要があるので、40分ほどをかけて登ることにした。(比高[城址までの高低差]は200m余り)

 駐車場から20分ほど休み休み山道を登ると、峠らしきものが見え始める。祠には峠の石地蔵が祀られている。久々坂峠と書かれた板標。そして峠の頂(いただき)には、「玄蕃尾城0.5km  行市山砦2.5km」の板標。玄蕃尾城址に向かってさらに細くなった山道を登っていく。(※この国境の峠は、三つもの名前がある。➀「久々坂峠」、➁通称で最もよく使われている「刀根坂峠」、そして滋賀県側の人たちからは「倉坂峠」と呼ばれる。)

  山道を竹杖を使いながら登って行くと、少しずつ標高が高くなり、紅葉の始まりが見られてきた。平坦な山道の山頂付近の道を100mほど歩く。もうすぐ玄蕃尾城址が見え始めるはずだ。

 そして、玄蕃尾城址の曲輪(郭)がようやく見えてきた。湾曲した土の斜面が美しい。城址の大きな木々も下の方は湾曲し、モミジやカエデの大木が城址にはいたるところにあり、紅葉の始まりの季節。11月の中旬から下旬になれば、この城址の紅葉はさらに美しくなるだろう。

 玄蕃尾城の歴史説明と城の構造を表す縄張り図の看板。大規模な土塁が連続し、深く大きい空堀も連続する。何度ここにきても、いつの季節にここにきても、惚れ惚れするようなこの土の城は、湾曲もしている周りの大木の木々と相まって、なんとも言えぬ古城の歴史的雰囲気を醸し出している。霧が立ち込める季節には、今にも甲冑をつけた兵士が霧の中から現れてきそうな幻想的な雰囲気ですらある。

 玄蕃尾城の縄張りの基本構造は、南北に並んだ主要な4つの曲輪(郭)であり、土橋で連結され、その広がりは南北約250m、東西約150mに及ぶ。すべての郭を高土塁で囲み、主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施している。また、主郭(本丸郭)には南北2つの馬出し郭、1つの張出郭が備わっており、腰郭も近傍に位置する。主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、高櫓もしくは天守のような建造物があったと推定されている。そこには今も建物の礎石が残っている。主郭部の南側には、食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、刀根坂越からの敵を迎え撃つ造りとなっている。

 主郭部北部の搦め手の郭は、城内最大の広さを持ち、兵糧などの物資や兵士の駐屯のための建物スペースであったと考えられている。また、この郭の周囲を囲む空堀も深い。(※現在見られる空堀は、かなり土に埋まっているが、それでもまだとても深い。) 根本近くが湾曲した樹木と空堀のコントラストの風景は一服の絵画のようでもある。

 大きく長い蛇が、日が当たる倒木の上にいた。暖かい日差しのこの日、日向ぼっこをしているのか、外敵に気づかれないようにしているのか‥。私に気づいていても蛇はじっとしていて動かなかった。

 先にも述べたが、この玄蕃尾城域には高木のモミジやカエデの木々も多い。そして、苔むした長大な土塁もある。あと2週間くらいした11月下旬に入ったら、一段と美しい錦秋の光景の城址となるのだろう。

 この玄蕃尾城は、またの名を内中尾山の山頂にあるので、内中尾山城とも呼ばれる。城郭の機能分化や配置、馬出(城門前の土塁)の完成度などから、織豊(しきほう)系山城の最高水準と評価されており、勝家の撤退後は人知れず400年間余りもの間、手付かずだったため城の遺構が良好に保存されている。

 築城時期は諸説あり、1582年6月の本能寺の変後に柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに備えて築城されたとされるが、天正6年(1578年)頃に、すでに柴田勝家が越前衆を動員して築城を始めていたという説もある。

 

 


日本海での越前カニ漁の季節が始まり、京都の自宅に息子夫婦を呼んでカニなど食べてもらったのだが‥—カニの固い足を噛んだら、なんと私の前歯が折れてしまっていたのだった

2024-11-11 16:47:33 | 滞在記

 11月10日(日)の早朝6時過ぎのまだ暗いうちから、南越前町の自宅を車で出て、越前岬方面に向かう。車で20分くらいのところにある越前町厨(くりや)漁港に着く頃には、空も明けてきた。漁港には、岐阜や名古屋、京都や滋賀ナンバーの車も駐車していた。釣りにきている人たちの車だ。おじいちゃんと孫らしき二人も釣りをしていたので、孫らしき小学2~3年生くらいの男の子に、「ここでは何が釣れるのですか?」と聞くと、「鯵(アジ)です」とのこと。

 漁港には、何隻かの船が停泊していたが、ほとんどの船は蟹(カニ)漁に、越前岬沖のカニ漁場に出漁しているようだった。毎年11月6日からカニ漁が解禁され、3月20日までがカニ漁の季節となる。(ただし、資源保護のためメスの"セイコカニ"は12月31日までが獲ってもよい期間となっている。)  この11月6日・7日は海が荒れたために出漁できず、8日に初出漁したようだ。そして、9日の朝にカニの初セリが越前町のいくつかの漁港で行われたのだった。

 越前ガニのブランド名で、日本で最も有名なこの越前町のカニ漁。越前岬沖のカニの漁場に最も近い越前町のいくつかの漁港に水揚げされるカニは鮮度がよいことでも知られている。現在、ここ越前町の漁港からカニ漁にでる底引き網漁船の数は約50隻ちかくと聞く。そして、この地元の越前ガニを提供する旅館や民宿、ホテルなどの数は、越前町と南越前町で合わせて100軒近くある。そして、水産会社は20社(店)余り。

 その水産会社の一つ「かねとも水産」では、獲れたてのカニを大きな釜でゆで上げていた。ちなみに、カニの値段は、解禁間もない時期の11月6日〜20日ころまではとても高い。そして11月下旬から12月中旬の期間は値段が下がり買いやすくなる。そして、正月が近づく12月下旬からは再び値が高くなり、その高値は1月中旬頃まで続く。

 越前町内のカニと水仙をあしらった塔のオブジェやカニの遊具など‥。12月下旬にはいるとここ越前町や南越前町の、越前海岸沿岸の断崖斜面地に群生した水仙が開花し、冬の正月花として出荷され始める。日本三大水仙自生地の一つ、越前海岸の水仙は、三大自生地の中でも最も強く高貴な香りを放つ水仙と評価される。「カニと水仙の越前海岸」の季節が、あと1か月半ほどでやってくる。

 南越前町の自宅に戻り朝食。そのあと村社の「十九社神社」近くの墓地に行き父や母(実母)、祖父母に挨拶に行った。墓地から見る集落の山は、少し紅葉が始まりかけていた。集落家の仏壇にも、母(義母)にも、しばしの別れを告げて、京都に向かうために故郷の自宅を出た。次にここに戻ってこられるのは、中国の大学が冬休みに入る1月上旬頃だろうか。

 福井県敦賀市にある日本海側最大の鮮魚・魚介類市場である「日本海さかな街」に立ち寄り、京都に買ってかえるカニなどを、市場内の店を廻って探した。メスのセイコガニ10匹、塩焼き用の大きなエビ8尾、そして、刺身用の甘えびなどを買った。

 この日の夕方7時頃に、私の息子夫婦が京都の私の自宅に来て、カニなどを食べさせることになっていたからだ。

 夕方7時頃にやってきた息子夫婦と私と妻の4人で、乾杯をしながら海鮮の夕食となった。そこまではよかったのだが、‥。私は固いカニの足を歯で噛んで食べようとした時、噛んだ瞬間に、ちょっと弱くなっている前歯が「ガクッ」と小さな音がして、すぐに歯に少しだけ違和感を感じることとなった。そのため、カニの足を噛むことはすぐにストップ。少しだけその歯をゆすると、ちょっとだけ動くようだった。明日、行きつけの歯科医院に行く必要を感じながら就寝。(13日には中国に戻るので、それまでに治療を終えておきたかった。)

  今日11日(月)の午後一番の歯科医院での予約がとれたので、治療を受けに行くこととなった。ちょっと少しだけぐらつく箇所を補強してもらえば済むだろうと簡単に思いながら‥。午後2時から診察と治療が始まったのだが、なんと医者から「この歯は、折れてますわ‥」との診断に軽いショックを受ける。折れて取り出された歯を見せてもらった。約1時間半もの時間をかけて竹村歯科医院の竹村さんが、義歯を作ってくれて、折れて撤去された歯の部分の治療が終わった。以前の本当の自分の歯よりも美しくきれいになり、噛み心地もよく違和感もない見事な技量の治療だった。ありがたい‥。そして、今から2時間ほど前に自宅に戻ってきた。これで歯のことは安心して中国に行けることとなった。

 


日本海に秋の夕日がだんだんと落ちていく—二度にわたる落城、悲話ものこる疋壇城址に佇(たたず)む

2024-11-11 12:01:46 | 滞在記

 11月9日(土)、一人暮らしの母のようすも気にかかり、京都から故郷の福井県南越前町の実家に向かう。滋賀県の琵琶湖西岸の湖西道路から福井県・滋賀県の県境に近い高島市マキノ町のメタセコイア並木を通る。少し黄色っぽく色づき始めたメタセコイア並木。県境にある在原(ありはら)集落へ。

 在原集落のはずれにある六地蔵。付近はススキが美しい。「伝 在原業平(ありはら なりひら)の墓」と書かれた案内板の方向の杉木立の中に、小さな石の墓のようなものがある。この杉木立の中にモミジの木が2~3本あるが、紅葉すると幻想的で、とても美しい光景となる。

 滋賀・福井の県境のある山中峠を越えて福井県へ。峠を下りきると敦賀市の疋田集落。ここに二度にわたる落城悲話がのこる疋壇(ひきだ)城址がある。近江(滋賀県)の国から越前(福井県北部)に至るさまざまな道が交わるところに位置した交通の要衝地にある疋壇城。古代には日本三関の一つである「愛発(あらち)関(関所)」があった付近でもある。

 戦国時代初期に、越前国の戦国大名の朝倉氏によって築城され疋壇城だが、戦国時代末期の1570年4月、織田信長による第一次越前侵攻の際に落城。その翌日、近江国の湖北地方を支配し、織田信長と同盟関係にあった浅井氏の突然の離反により、信長軍は越前や近江北部からの撤退を余儀なくされた。その後、疋壇城は朝倉氏により修復され、再びの織田軍の襲来に備えることとなる。

 そして1573年8月、北近江の小谷城を織田軍に包囲された浅井氏救援の朝倉軍は、近江と越前の国境にある刀根坂(峠)の戦いで、三千人以上の戦死者を出して敗北。敗残兵は刀根坂(峠)からほど近いここ疋壇城にも入った。即座に織田軍数万による第二次越前侵攻となった。押し寄せた織田軍により、疋壇城は再びの落城。

 城にはこの時の落城悲話が伝わる。城の家臣の鳥居与七郎の妻は囚われの身となり、軍卒らの性的乱暴を受けそうになった。そこで彼女は、「私の父と夫は刀根にて戦死し、母と姉は行方不明だが生きていると思うので、私の身の上を伝えたい。その望みが叶えば御意に従う。」と言った。紙と筆を与えられ、書状を書き終えると、彼女は近くの井戸に身を投げた。書き残された書状を見ると、和歌で、「世にふれば よしなき雲ぞ おほふらん いざいりてまし 山の端の月」(自らを月にたとえ、生きてこのまま辱めを受けるなら死んでしまおうという意。)とあった。それを見た軍卒らもその貞烈に涙したともいう。

 1573年の二度目の落城当時の城域は、現在その遺構が残る城址よりもかなり広かった。現在は本丸や二の丸(南城)、三の丸(小丸)などの曲輪と、石垣などの石塁、本丸などを囲む堀跡などが残される平山(ひらやま)城址。

 城址の中をJR北陸本線の列車が通っていく。二の丸(南城)跡地は、かってこの地域の西愛発小学校があったのだが、現在は廃校となっている。そこまで車が入れるので、私は故郷に帰るたびにここに立ち寄ってしばらく時を過ごすことが多い。

 疋田の集落から敦賀市内を通り、越前海岸沿いの道を故郷の家に向かう。午後4時30分頃になり敦賀半島に夕日が落ち始めた。南越前町の河野地区に午後5時前に着くと夕日が水平線に落ち始めた。北前船と夕焼けのシルエット。

 北前船や八幡御崎と夕日のシルエットが美しい。

 故郷の集落の漁港灯台。日本海沖には、この11月6日から解禁となった蟹(カニ)漁の漁船群の、ほのかにボ―ッと白っぽい船の灯りが、暗闇の海にかすかに見える。おそらくこのあたりの越前町などの漁港から100隻余りが出漁しているのだろうかと思われる。

 

 


夏日が続く中国福建省から、寒い寒い、木枯らしの吹く立冬の日本列島へ

2024-11-11 07:15:16 | 滞在記

 11月6日(水)、中国福建省福州市の福州長楽国際空港。午前8時20分(中国時間)発の日本の関西国際空港行の中国・厦門(アモイ)航空の飛行機には、中国から日本に向かう団体ツァー客が多い。飛び立った飛行機は、東シナ海沿岸を上海近郊の揚子江河口あたりまで北上すると、機首を東方向に90度転回させて、東シナ海を日本の長崎県方面に向かった。関西国際空港には、午後12時10分頃(日本時間)に着陸した。約3時間弱余りの飛行時間となる。

 心配していた台風22号は、フィリピンと台湾の間の海峡を抜けて中国・海南島(省)方面へと進路をとったため、福建省に影響はなかったが、今後まだまだ台風が発生しそうだとのニュースも‥。

 京都の自宅に到着。自宅の富有柿は、今年は10個ほどしか実をつけていない。昨年は130個余りも実らせたのだか‥。庭の水仙が地中から葉を出し始めていた。翌日7日の早朝、自宅近くの田んぼや畑を散歩する。ものすごく寒いこの日の朝は、晩秋のような感がする。

 日本のテレビをインターネットで見ると、「北風ビュービュー 冷たい立冬に」「木枯らし1号も」「北海道・東北・北陸などで積雪も」の報道。7日は寒い寒い「立冬」となった。

 まだまだ夏日の気温が続く中国福建省から、冬のような気温の日本へ‥。気温差に風邪をひきそうだ。

 7日(木)の午後、京都市内の娘の自宅に行く。娘の家の道路向こうの家の花水木(ハナミズキ)の紅葉が美しい。花水木は、最も早く紅葉する樹木の一つだ。3人の孫たちに中国の土産を渡した。8歳と6歳の孫娘たちには、「宝石発掘」という名の土産。岩石のようなかたまりの石膏(せっこう)を、内包されている発掘道具のようなもので少しずつ割っていくと宝石のようなものがいくつか出てきた。もうすく4歳になる孫の寛太には、ビニール製の刀剣。

 娘の家からほど近いところにある真如堂に、孫の寛太と散歩に出る。町内の家の花梨(かりん)の黄色い実が美しい。真如堂前の小さな駄菓子屋さんに入り、いつものようにお菓子を買ってあげる。

 11月7日付朝日新聞には、「米大統領にトランプ氏—米国第一 再び」の見出し記事。インターネットで中国のネット記事も閲覧。(※このトランプ大統領、再び出現に関しては、中国に戻ってから、ブログ記事を書きたいと思っている。





大学の体育祭開会式での演武の衣装、大学構内のスタジアムに向かう学生たちの光景

2024-11-09 08:40:29 | 滞在記

 11月5日(火)の昼すぎの閩江大学構内の水辺の光景。芙蓉の花が今も咲いている。11月に入り、福建省福州の日中の気温は25℃~30℃の夏日へと下がった。そして、早朝の気温は16℃~22℃と、それなりに肌寒くなり季節的には一応は亜熱帯地方の秋となる。

 大学の体育祭が翌日の11月6日(水)~8日(金)の3日間行われる。体育祭前日のこの日、大学スタジアムに向かう中国のカンフー的な漢服などを着た学生たち。体育祭の開会式での、各学部の入場行進の際、スタジアム中央まで行進してきて、学部ごとのパフォーマンスが行われる。漢服を着ている学生たちは、演武を行うのだろう。前日の午後、スタジアムでリハーサルが行われるようだ。(■中国の大学では、日本の大学祭のようなものはほとんどない。また高校の文化祭のようなものもない。一方、体育祭は大学も高校も、ほぼ3日間余りも開催される。また、軍事訓練も行われる。日本語に文武両道という言葉があるが、中国の学校ではやたら武が偏重されているのかとも思われる。) 


 私はこの日の午後2時から、12月28日(土)の午前中に開催予定の、日本語学科2回生たちの「日本情景劇」の第二回目全体指導のために大教室に向かった。

 大学からアパートに戻る途中の、アパートのある高層住宅団地の商店街前の通路の一角。通路に陣取って賭けトランプ(ほんの少額)に興じる団地の高齢者たち。南方風の少数民族が故郷の人だろうか、編まれたかごに孫をしょって散歩している人の姿も。老若男女がほどよく混在している私の暮らす中国の庶民の場所。

 バスの通りを、キャラクター風船を満載した軽トラバイクが行く。キャラクター風船売りは町でよく見かけられる光景の一つ。

 私のアパートの部屋がある住宅棟から最も近い地域のスーパーが、10月下旬に突然に閉店した。日々の食材から生活物品までこのスーパーで買っていたためとても困ることになってしまった。近くにもう一軒のスーパーがあったのが、この店も9月下旬に突然の閉店。

 そして、この店の後を改装して10月下旬に開店した新しいスーパー。今の中国経済の不景気を反映してか、最近はチェーン店として次々と市内に開店している安売りのスーパー。まあ、日本のドン・キホーテ的な店なので、野菜や果物、魚や肉といった日々の食材や生活日用品は売っていないので、こんな安売りスーパーができてもありがたみは、ほとんどない。

 食堂でもなんでもかんでも、店という店の、かなりの割合が1~2年間で突然に閉店し、また新しい店が入れ替わる。なんと、閉店、そして開店の、入れ替わりの激しすぎる中国の社会でもある。

 5日の夜の私の食事は、炊いたごはんに、日本のふりかけ(妻が夏の九州旅行でお土産に買って帰ってくれた九州ふりかけ。) そして、日本から持ってきている、とっておきの鯖の缶詰。私にとっては、とても贅沢で豪華な夕食でもある。

 6日に日本に一週間の一時帰国。10月中旬~下旬にかけて3人の孫たちへのお土産に買った、「発掘宝石」2箱とビニール製刀。