昨年6月上旬から座骨神経痛による腰の強い痛みの発症、それから間もない8月下旬からの閉塞性血管症による右足ふくらはぎの痛みの発症。腰と右足の二つの部位の発症により、昨年の9月~11月にかけての約2~3カ月間は、50mを歩くのも辛いという状況だった中国生活。10月・11月と、それぞれ1週間余り一時帰国をして、行きつけの漢方鍼灸院や血管外科のある総合病院にて診察・治療を受け、薬を処方してもらい、さらに腰のサポーターも初めて購入して中国に戻ることを繰り返していた71歳の私だった。
あれから約1年間が経過した。歩ける距離は少しずつ長くなり、現在では200m~300mくらいなら、痛みの発症程度が軽くなり、2~3分ほど、腰をかけて休み休みを繰り返せば1kmほどは歩けるほどになってきている。72歳となっている今、散歩することも少しずつ苦にならなくなってもきている。
2000年代に入ってから、日本の山城探索は約1200箇所余りの城址を巡った(多くの場合、道なき道の樹林の中の山登り)のだが、71歳で上記の痛みが発症してからは、一つの山城探訪もすることはできなかったし、その気にもなれなかった。
この11月10日(日)、故郷の福井県南越前町の自宅から京都の自宅に戻る途中、ふと思い立って、約2年ぶりに山城探訪をしてみる気持ちになった。この日の、時間の余裕があったことと、わりと暖かな青空の天気に誘われたこともある。行ってみようと思った山城(やまじろ)は、福井県と滋賀県の県境の内中尾山の山頂にある「玄蕃尾城(げんばおじょう)」。この城址にはもう15回余りは行っているが、秋の紅葉が始まる11月に一度は行ってみたいという思いも以前からあったこともあった。日本全国3万余りある城跡の中でもベスト10に入るくらい、私にとっても、それほど素晴らしい城址でもある「玄蕃尾城」なのである。
城という漢字は「土」から「成る」という文字だ。玄蕃尾城は石垣・石塁は一か所もない「土の土塁や空堀から成る」城跡。国境(くにざかい)の山々の山頂の、樹林にひっそりと佇(たたず)む、比類なき土の山城の標高は459m。1583年3月~4月の二か月間にわたって行われた賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家が本陣としていた山城が玄蕃尾城だった。その戦いから約400年間後の1980年に、所在地がようやく発見されるまで、ベールに包まれた幻の城でもあった。1999年に国指定のの城址となる。
福井県敦賀市から国道8号線を滋賀県方面に向かうと、古来から交通の要衝地にあった疋壇城のある疋田集落に至る。ここで滋賀県の湖西地方の高島市に至る国道161号線(山中峠越え)と、滋賀県の長浜市木之本町に至る国道8号線に分岐する。国道8号線をそのまま行くと、途中で左の方に刀根集落に至る道が現れる。その刀根集落を過ぎて滋賀県との県境に至る道を進む。
すると、かって旧北陸本線(鉄道)として使っていた長く暗い1車線のトンネル(現在は車道として使用)に至る。そのトンネルの手前の左側に、車が通れる山道があり、その道をひたすら登っていくと、福井県・滋賀県の県境となる久々坂(くぐさか)峠(刀根坂峠越)や、玄蕃尾城址に至る駐車場(車は5~6台駐車可能。玄蕃尾城址が国指定となってから、山を登る車道や駐車場が整備された。)に至る。駐車場には簡易トイレが設置され、山登り用の竹杖が置かれ、玄蕃尾城址のパンフレットも置かれている。
駐車場から玄蕃尾城址まで山登り徒歩20分ほどと案内版には書かれている。これは健脚の人の場合の時間の目安。ゆっくりと登れば30分はかかる。私の場合は足腰の病気の問題があるので、休み休み、超ゆっくりと登る必要があるので、40分ほどをかけて登ることにした。(比高[城址までの高低差]は200m余り)
駐車場から20分ほど休み休み山道を登ると、峠らしきものが見え始める。祠には峠の石地蔵が祀られている。久々坂峠と書かれた板標。そして峠の頂(いただき)には、「玄蕃尾城0.5km 行市山砦2.5km」の板標。玄蕃尾城址に向かってさらに細くなった山道を登っていく。(※この国境の峠は、三つもの名前がある。➀「久々坂峠」、➁通称で最もよく使われている「刀根坂峠」、そして滋賀県側の人たちからは「倉坂峠」と呼ばれる。)
山道を竹杖を使いながら登って行くと、少しずつ標高が高くなり、紅葉の始まりが見られてきた。平坦な山道の山頂付近の道を100mほど歩く。もうすぐ玄蕃尾城址が見え始めるはずだ。
そして、玄蕃尾城址の曲輪(郭)がようやく見えてきた。湾曲した土の斜面が美しい。城址の大きな木々も下の方は湾曲し、モミジやカエデの大木が城址にはいたるところにあり、紅葉の始まりの季節。11月の中旬から下旬になれば、この城址の紅葉はさらに美しくなるだろう。
玄蕃尾城の歴史説明と城の構造を表す縄張り図の看板。大規模な土塁が連続し、深く大きい空堀も連続する。何度ここにきても、いつの季節にここにきても、惚れ惚れするようなこの土の城は、湾曲もしている周りの大木の木々と相まって、なんとも言えぬ古城の歴史的雰囲気を醸し出している。霧が立ち込める季節には、今にも甲冑をつけた兵士が霧の中から現れてきそうな幻想的な雰囲気ですらある。
玄蕃尾城の縄張りの基本構造は、南北に並んだ主要な4つの曲輪(郭)であり、土橋で連結され、その広がりは南北約250m、東西約150mに及ぶ。すべての郭を高土塁で囲み、主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施している。また、主郭(本丸郭)には南北2つの馬出し郭、1つの張出郭が備わっており、腰郭も近傍に位置する。主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、高櫓もしくは天守のような建造物があったと推定されている。そこには今も建物の礎石が残っている。主郭部の南側には、食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、刀根坂越からの敵を迎え撃つ造りとなっている。
主郭部北部の搦め手の郭は、城内最大の広さを持ち、兵糧などの物資や兵士の駐屯のための建物スペースであったと考えられている。また、この郭の周囲を囲む空堀も深い。(※現在見られる空堀は、かなり土に埋まっているが、それでもまだとても深い。) 根本近くが湾曲した樹木と空堀のコントラストの風景は一服の絵画のようでもある。
大きく長い蛇が、日が当たる倒木の上にいた。暖かい日差しのこの日、日向ぼっこをしているのか、外敵に気づかれないようにしているのか‥。私に気づいていても蛇はじっとしていて動かなかった。
先にも述べたが、この玄蕃尾城域には高木のモミジやカエデの木々も多い。そして、苔むした長大な土塁もある。あと2週間くらいした11月下旬に入ったら、一段と美しい錦秋の光景の城址となるのだろう。
この玄蕃尾城は、またの名を内中尾山の山頂にあるので、内中尾山城とも呼ばれる。城郭の機能分化や配置、馬出(城門前の土塁)の完成度などから、織豊(しきほう)系山城の最高水準と評価されており、勝家の撤退後は人知れず400年間余りもの間、手付かずだったため城の遺構が良好に保存されている。
築城時期は諸説あり、1582年6月の本能寺の変後に柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに備えて築城されたとされるが、天正6年(1578年)頃に、すでに柴田勝家が越前衆を動員して築城を始めていたという説もある。