彦四郎の中国生活

中国滞在記

桜の季節の国から、後ろ髪を惹かれる思いで、明日は異国へと渡る―健康不安等々‥、70歳の旅立ちとなる

2023-03-28 22:37:32 | 滞在記

 「春彼岸 夕陽にそっと 掌を合わす」。京都・出町柳駅近くの寺院門前に書かれた一首の俳句。今年の「春のお彼岸」は、「彼岸入り」が3月18日、「彼岸の中日」が3月21日(春分の日)、そして「彼岸明け」が3月24日となった。そして、今年の京都地方の桜は、「春のお彼岸」に合わせるように、18日開花宣言、24日満開宣言(1952年からの観測史上、最も早い)となった。

 3月22日(水)、銀閣寺や吉田山が近い娘の家に、孫たち(2・4・6歳)の世話のサポートに早朝の8時から行った。孫たちが通う幼稚園も春休みに入り、一日中家にいる。娘が、「天気もいいので、哲学の道や南禅寺に桜を見に散歩に行こう」と言ったので、5人で散歩に出かけた。哲学の道に行く途中の「日吉神社」でしばらく過ごす。ここは猿の狛犬があり、椿の名所でもある。白い椿の大木と白い花を咲かせる桜の大木のコントラストが美しい。

 この日の哲学の道の桜は、まあ、三分咲き〜五分咲きだったが、たくさんの観光客が訪れていた。そのほとんどが外国からの観光客だった。

 哲学の道の疎水べりにある「大豊神社」(ネズミの狛犬)前の桜の大木は、ほぼ満開となっていた。疎水に花笹船を浮かべることを、一人のおじいさんがやっていて、外国人も花笹船を橋の上から落とし、喜ばれていた。

 温まったアスファルトの小径の上に、孫たちが体を置いて寝そべっていたら、外国人たちがさかんにカメラで撮影をしていた。途中で、喫茶店に入り、休憩と昼軽食をとる。それからまた歩いて、南禅寺に向かった。寺の縁側で走り廻る孫たち。

 25日(土)の午後、京都市内で名刺を作ってもらうために出かけた。三条京阪駅から鴨川沿いに桜並木を歩く。レンギョや雪ヤナギも美しい、春爛漫の京都。

 名刺が出来上がるまで2時間ほどあったので、近くの木屋町通りの高瀬川沿いの桜並木を見に行った。ほぼ満開となっている高瀬川の桜。この並木は、五条通から二条通りまでの数キロにわたって続く。居酒屋などの飲食店街にこれだけ桜並木が続くところは、全国でも他にはないかと思う。ここも外国人が多い。

 山吹の黄色い花も開花し始めていた。

 夕方6時過ぎに名刺を受け取りに行き、再び高瀬川の桜並木を歩く。夕暮れが迫り、赤提灯や飲食店のネオンが灯り始め、なんとも言えぬ、風情を醸し出す。

 京都の桜の名所は、数多いが、私にとっての、毎年必ず行っておきたいベスト3は、①高瀬川の桜、②哲学の道の桜、そして、③三川(桂川・宇治川・木津川)合流地にある背割堤の桜となる。来年もまた、この3箇所の桜を眺めることができるだろうか…。今のところわからない‥。桜の咲く季節の国から、後ろ髪を引かれる思いで、明日は異国(中国)へと渡航する。健康不安、中国社会での生活への適応不安(特に中国社会での生活の隅々までに浸透しているIT関連器機への適応)、そして、さまざまな不安を抱えながらの、3年ぶりの中国生活となる。70歳の旅立ちとなった。

 さあ、どうなるのだろうか…。どんな展開が待ち受けているのだろうか…。どんな苦労が待ち受けているのだろうか…。どんな喜びが待っているのだろうか…。

 3月22日付朝日新聞には、「(岸田)首相キーウ訪問」「サミットにらみ極秘裏」や、「中ロ平和姿勢を演出―米国覇権に対抗」の見出し記事。23日付同紙には、「中ロ首脳"撤退"なき声明発表―ウクライナへ一方的な対話を迫る」の見出し記事。また、28日付同紙には「中国"スパイの疑い"拘束の(日本人)製薬社員巡り主張」「拘束 滞在20年の中国通―日系企業 募る不安—強まる外国人取り締まり」の見出し記事。日中関係が、さらに難しい状況にもなってきている。

 今朝、石清水八幡宮の下宮(男山の麓)近くの桜を見る。一本の桜の大木から、枝垂桜と染井吉野の枝があり、それぞれの花を咲かせているものがあった。ちょっと珍しい桜の木。そして、今朝、隣の家から「初物(はつもの)の筍たけのこをいただいたので、さっそく筍料理を作って食べた。中国渡航目前にして、大好きな筍が食べられた。

 では、中国に行ってきます。7月1日から大学が夏休みになるので、7月10日前後には日本に夏休み一時帰国ができるかと思っています。9月からの新年度(新学期)からも中国の大学で勤務するかどうかは、今のところ未定ではあります。

 

 

 


世界に誇れる日本の居酒屋文化とは➋―日本の居酒屋の魅力は、「五感」をもって満喫する場所

2023-03-23 06:39:30 | 滞在記

 昨日の2023年3月22日(水)、東京の桜は満開となっていて、上野公園などの桜の名所では、4年ぶりに「桜の下での花見酒」を楽しむようすが報道されていた。この日、私は、京都・疎水沿いの哲学の道に、娘や孫たちと5人で三分咲きくらいとなった桜並木を見に行ったが、たくさんの人で賑わっていた。そのほとんどが外国からの観光客だった。彼等は、昼は京都の桜の風情を楽しみ、夜は祇園や先斗町、高瀬川沿いの日本の居酒屋に行くのだろうか…。

 海外から日本を訪れた外国人が驚くことの一つが、「なぜこんなにたくさんの飲み屋があるのか!?」だ‥。「日本はアルコール天国」との感想をもつ人も多いようだ‥。最近では、「立飲み」店も増えてきている。(上記写真右端は、京都木屋町にある立飲み店「木屋町ゴールデン酒場」)

 酒のつまみも一通りそろっていて、お酒が飲め、おいしい食事もできる「日本の居酒屋」は、世界的にも非常に珍しい独自の店舗の形態をもっている。また、居酒屋スナックなどは、食事・酒・歌の三拍子が楽しめ、初対面の他の客との交わりも楽しめる。日本周辺の、東アジアや東南アジア、北アメリカを旅しても、日本の居酒屋に代表されるような「飲食文化」はほぼ見ることができない。

 「居酒屋は日本が世界に誇れる文化です!」 この「Izakaya」を日本で楽しんだ人は、自分の国に帰っても恋しく思うようだ。また、「Izakaya Style」の飲み屋は、欧米や中国でも人気が広がっていて、アメリカの大都市では、なかなか予約がとれない「Izakaya」もあるという。私が長年暮らす中国福建省福州市にも、2010年以降にできた日本式居酒屋は10軒ほどあり、よく行くことも多い。(日本に留学又は仕事で日本に数年行った人が、店を開く場合が多い。)

 欧米や中国、ロシア、モンゴルなどでは、多くの場合、「レストラン」と「バー」は明らかに区別されている。レストランはお酒も飲めるが、食事がメインであって(※日本で言えば、それなりの格式の「日本料理店」のような感じ)、バーはあくまでも酒などの飲み物専門だ。海外で居酒屋に少し近いのは、「パブ」(正式には「Publick  House」)かと思われる。パブはもともとイギリスで生まれたものだが、やはり飲み物がメインで、日本の居酒屋のような凝(こ)った料理やお酒のさかな(つまみ)が供されることはまれのようだ。(世界のネット百科事典・Wikipediaにも「Izakaya」の項目がちゃんとある。)

 『日本の居酒屋文化―赤提灯の魅力を探る』(マイク・モラスキー著)[光文社新書]という書籍が出版されている。その書籍の表紙には、「ドクターストップがかかり、酒が呑めなくなっても、居酒屋に通い続けるだろう―人は何を求め、居酒屋に足を運ぶのか?パリのカフェ、イギリスのパブ、ドイツのビヤガーデンとも異なる、<第三の場>としての独自の魅力とは?40年近い居酒屋経験を誇る著者が、北海道から沖縄まで、角打ちから割烹まで具体的なお店<登場軒数120軒>を紹介しながら、その秘密に迫る」」と書かれている。

 マイク・モラスキーは、1956年、アメリカ生まれ。1976年に初来日し、延べ20年間余り日本に滞在。米国のミネソタ大学や日本の一橋大学などの教授を歴任し、2013年からは早稲田大学で「日本文化論」を講義している。現在、66歳となる。この書籍の中には、次の文章がある。日本の居酒屋が世界的にとても優れた飲食文化だということを物語る一節だ。

 ―通常の居酒屋ガイドは、つまみの種類と品質、飲物のメニュー、そして価格に焦点を絞っているため、私にとってはどうしても物足りなく感じられる。もちろん、ありがたい情報も提供してくれるのだが、居酒屋という多面的な場の、いわば<消費>に付随する側面しか重視されていないと、不満に思うわけである。

 「居酒屋は味と価格だけではない、五感をもって満喫する場所である」というのが私の持論である。さらに「居酒屋は<味>よりも<人>である」と確信している。‥‥(中略)‥‥では、居酒屋は酒とつまみ以外に、何を提供しているのだろうか。この問いを発しないと、私は日本の居酒屋の真の魅力を突き止めることができないと考える。‥‥(本文より)―

 京都伏見区の大手筋商店街にある居酒屋「満丸(Manmaru)」の営業時間は「午前11:30〜午後24:00」。平日でも昼頃からたくさんの客がくる。大学の先輩たち(小野・泉澤)と、定期的にここに来て、2〜3時間は、いろいろなことを話ながら飲み食べる。店内な貼られた酒のあて(料理)の数はとても多い。

 上記写真左①~③ 大阪で私の好きな京橋界隈の飲み屋街。「昼飲み」ができる店がとても多い。(中国各地の大学に、2013年9月から共に赴任した教員仲間[永井・亀田]たちと京橋で呑み語らう) 

 上記写真④~⑥ かっての教え子たちの同窓会で共に呑む。場所は大阪府枚方市くずはの居酒屋「赤ひげ」。

 東京の飲み屋街では一番好きな上野駅界隈。アメ横や仲町通りなどの (中国福建省の福建師範大学に赴任していた同僚[目黒・藤田]と呑み語る)飲み屋街。ここには、中国福建省にルーツをもつ在日中国人が経営する居酒屋スナックなども多い。近くに上野公園や忍池、東京大学などもある。

 『居酒屋の誕生―江戸の呑みだおれ文化』(飯野亮一 著)[ ちくま学芸文庫  ]という書籍もある。(上記写真左端①~②枚目)この書籍などの話によれば、「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の呑み倒れ」と言われたように、日本で居酒屋が誕生したのは、江戸時代。江戸時代初期は、今のようにお店に行ってお酒を飲むというスタイルではなく、お酒を買ってきて家で飲むというスタイルが主流だったようだ。

 江戸時代中期になると、酒屋さんの店頭で買った酒を飲むようになり、酒屋の店員と話したり、他の常連客と話し込んだりして、お客がなかなか酒屋から帰らなくなったそうだ。このように酒屋の店先に腰かけて飲む酒を「居酒(いざけ)」といい、この「居酒」を飲ませる酒屋のことを「居酒屋(いざけや)」と呼んでいて、それが転じて「いざかや」と言うようになった。(1800年頃には江戸の人口は約100万人を超し、イギリス・ロンドンの約85万人をはるかに超えて、世界一人口の町となった)

 酒屋の方も、そのような客が増えたことで、ちょい飲みができる少量のお酒の販売を始め、簡単なつまみを出すようになって、いつのまにか酒屋さんが「お酒を買ってそこで飲み、簡単な物を食べる」ことができるお店に‥。その後、いろいろな酒のあて料理を出すような店もでき、机と座卓があってじっくり座って飲める今の居酒屋のスタイルが確立。江戸市民の人気を得て発展、「宵越(よいご)しの金は持たねえ‥」などの江戸っ子の言葉も誕生した。

 江戸後期には、江戸の町には約1800軒の居酒屋があったんだとか。これは江戸中の飲食店の約25%にあたるようだ。お酒を飲んでご飯も食べられる居酒屋が特に江戸で発達した理由の一つは、当時の江戸は男人口社会で、さらに参勤交代制により、江戸には単身赴任の武士が多くいたことが挙げられている。現代でも仕事を終えて自炊するのは大変なことだが、この時代に独身男性が長屋の狭い台所で火を起こすことは(マッチもライターもない時代)、とても面倒なことだったろう。気軽に飲食できる居酒屋を利用したことが発展につながったと考えられている。

 1992年にロシアで生まれ、5歳の時に初来日し、日本の関西で育った「ロシア系関西人」の、小原ブラスさん(上記写真の3枚目―2022年には、ロシアのウクライナ侵攻を巡って、よく日本のテレビ報道番組に出演していた)は、次のように「日本の居酒屋文化」について語る。—ウオッカの国ロシア、酒豪大国のロシア、ウオッカの飲みすぎで離婚大国世界❶のロシア人が、日本に来て驚くこと、それは「日本はロシアに勝るとも劣らない飲酒大国」だということだ。自分たちこそ、世界最強の肝臓をもち、最もお酒を楽しむ民族だと信じてやまないロシア人にとって、日本の「飲みの文化」に触れるということは、それはそれは世界観が変わる出来事なのだと言う。特に、日本人は酒を飲む頻度が多い(1度に呑む量は少ないが)ことだという。一方のロシア人は、日本人と比べて頻度は少ない。ただ、1度に強い酒を呑む量が多いとのこと。そして、「日本の飲酒文化」の中でも、特に「日本の居酒屋文化」は、世界に誇れるスバラシイ文化だと語る。

 上記写真④~⑤は、大阪府枚方市くずはの居酒屋にて、教え子の坂口君(自治医科大学の学生)と飲む。⑥は京都府京田辺市の居酒屋「村さ来」にて、京都府の退職教職員仲間らと飲む。

 上記写真①~④は、福井県越前市(旧・武生市)の居酒屋チェーン「魚民」や、武生に残る数軒のフィリピンバブで、ダチ公(親友の山本・松本)と飲む。⑤〜⑥は京都の自宅近くのレンガ通り商店街にあるカラオケスナックで飲み歌う。

■今学期に中国の大学で担当している「日本文化名編選読」(全16回)の授業でも、新たにこの「日本の居酒屋文化」を取りあげたいと思っている。

 

 

 


北国(北陸)の春―京都地方も桜が開花する、中国渡航前に家族たちと集う

2023-03-22 05:43:17 | 滞在記

 3月19日(日)、小春日和。京都への帰路、滋賀県との県境に近い、敦賀市の小河集落に立ち寄る。標高が1000m近くある野坂岳の山頂付近には残雪が残るが、麓(ふもと)は春の季節が到来している。茅葺型民家の紅梅の大木は満開。菫(すみれ)やオオイヌノフグリの春の草花。

 土筆(つくし)の群生、白梅の大木の並木、田んぼを覆う一面の白い草花、早咲きの桜がほぼ満開となった小河集落。このあたりは、福井・滋賀の県境の豪雪地帯のため、北陸高速道路や国道8号線が、この辺りで通行止めになることもよくある。

 京都への帰路、琵琶湖の湖北地方の水辺を通る。奥琵琶湖の水辺には、十数キロにわたって約3000本の桜並木が続く。まだ固い蕾のままだが、あと1週間くらいで開花するかもしれない。

 ここ奥琵琶湖の桜並木は、例年、4月上旬から中旬にかけてが見ごろとなる。桜の大木の根元に鹿の頭骨があった。

 京都に向けて、奥琵琶湖、琵琶湖西岸から滋賀県朽木町に抜ける「鯖街道」(国道367号)を走る。街道沿いは多くの梅の大木が満開となり、梅街道となっていた。初春の梅と春本番を告げる山茱萸(さんしゅゆ)の黄色い花と、桃の蕾が共演しているところもあった。京都・大原地区を通り、京都市内に入る。

 白川の柳並木も黄緑色になり始めている。

 19日(日)、この日の夕方、中国渡航を前にして、息子夫婦や娘夫婦たちが私の自宅に集まってくれて、10人余りでの夕食会となった。福井県敦賀市の日本海市場で買ってきた海産物も、この日の「手巻き寿司」の寿司ネタとなった。20日(月)の午後、娘の子供(3人)のうちの4歳と6歳の孫が家に泊まりにきた。6歳の孫は、この4月からいよいよ小学生。妻と孫たちは、自宅近くの木津川の河川敷に行き、ヨモギや土筆(つくし)、タンポポの花を摘んできて、ヨモギ餅やタンポポの天ぷら、土筆の卵あえなどの料理を作ってくれた。

 3月18日(土)に桜の開花宣言がなされた京都地方。昨年の3月16日の開花宣言に次いで、観測史上2番目に早い開花宣言となった。自宅近くの石清水八幡宮のある男山麓の放生川に架かる太鼓橋の桜は、3月21日にはかなり開花し始めていた。木瓜(ぼけの花も五分咲きとなる。

 太鼓橋近くのいろいろな椿の花、雪柳(ゆきやなぎ)やレンギョも満開となる。

 3月20日(月)の午後、京都市内の四条大橋たもとの柳と雪柳、近くの高瀬川沿いの桜並木も開花が始まっていた。中国渡航の29日までに、ここの桜も見ごろを迎えることだろう。中国渡航目前だが、今年も4年連続で日本の桜を見ることができた。(2013年9月の中国赴任渡航から、2020年3月までの6年間余りは、3月・4月には中国在住で日本の桜を見ることはできなかった。2020年からのコロナ禍下で日本滞在が続き、この3年間余りは毎年、桜を見ることができている。)

 桜の名所の多い京都市内だが、私はここ高瀬川沿いの夜の居酒屋街の灯りに浮かび上がる桜並木と、学生時代に下宿した銀閣寺近くの哲学の道の桜を見ると、なんとなく心が落ち着く。3月20日の京都鴨川界隈は、たくさんの外国人観光客の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 


雪椿が咲き、春の海となった越前海岸―中国渡航を前にして故郷に帰省する

2023-03-22 04:26:28 | 滞在記

 中国渡航が10日後に迫る3月18日(土)、午後に京都から故郷の福井県南越前町に帰省した。この日の日本海側は、寒の戻りの寒風が強く吹くとても寒い日となった。午後4時頃に福井県敦賀市にある疋壇城址に立ち寄った。この辺りは豪雪地帯。城址に「雪椿(ゆきつばき)」が咲く季節となっていた。雪に耐えるためか、強くしなやかな雪椿の幹や枝。

 城址の白梅がこの季節、まだ咲き誇っていた。今年も積雪が多かったためか、白梅の木の太い枝がついに折れていた。

 夕方5時頃の故郷の海。海岸沿いの紅梅が満開となっていた。故郷の家で一人暮らしをする母(義母)[92歳]に、10日後の中国渡航のことを話し、仏壇にもそのことを報告する。この日の夜7時に、越前市(旧・武生市)に住む親友と市内の喫茶店で会った。

 翌日19日(日)は、昨日とはうって変わった小春日和(ひより)。早朝に墓に参り、亡き祖父母や父・母に挨拶をする。墓地にも咲く真紅の雪椿。

 海岸は「春の海」だった。干潮(かんちょう)の時間のためか、海水面が50cmほども引き、べた凪(なぎ)で海底が透き通って見える。

 海の中の藻(も)が、ゆっくりと揺れる。海中の小魚たちの群れもよく見える「春の海」。この7月には、大学の夏休み期間に日本に一時帰省をする予定だが、無事にまた、ここの海を見ることができるだろうか。70歳となっている今、再びの中国生活での、健康面などでの不安もかなり大きい。

 二宮金次郎像の立つ、故郷の小学校。越前海岸の敦賀半島や若狭湾、丹後半島がよく見える。

 

 

 

 

 


世界に誇れる日本の居酒屋文化❶―留学生たちには、必ず経験してほしい日本の優れた文化だと思う

2023-03-18 08:51:11 | 滞在記

  2021年8月上旬、京都市内から国道162号線(周山街道―京都市内から、丹波山地の京北町・美山町を経て、日本海の小浜に至る街道[別名:西の鯖街道])を車で行くと、京都市右京区小野郷の丹波山中の集落に、「居酒屋の灯を消すな—#コロナ自粛には補償を/Save 居酒屋文化」と書かれた、日本共産党のポスターが、木製の掲示版に貼られていた。「いやぁ、いままでにたくさんの日本共産党のポスターを見てきたが、このポスターは、見事なポスターだなあ」と感じ入った。背景の居酒屋街のネオンと灯りの写真もいい。(これをデザイン制作した人に👏拍手をあげたい)

 日本列島の周囲の国々を巡り歩いてきたが、日本の飲食文化というか、日本の飲み屋街、赤提灯🏮街などに見られる、「日本の居酒屋文化」は、世界の中でも一種独特の雰囲気があって、人と人との心の距離がとても近くなる、世界に誇れる文化だと思う。だから、中国から日本に訪日している留学生などには、必ず経験してほしい日本の優れた文化だと思っている。

 2013年9月より中国の大学に、教員として赴任して、中国福建省の福建師範大学と閩江大学で教えた学生の実数は、1200人余りとなる。そのうち、150人余りが、日本の大学や大学院に、短期留学生、交換留学生、国費留学生、大学院留学生として日本に来日してきている。(2020年からのコロナ禍下のため、この3年間は来日する学生は少ないが、2023年の九月以降は、また復活するのではないかとも思っている。)

 それらの留学生たちが、京都を訪れたりして、「寺坂先生、ぜひ、京都で会いましょう」と連絡があると、私は必ず京都の祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)界隈の居酒屋やカラオケ居酒屋・スナックなどに2〜3軒、連れて行く。世界に誇れる日本の居酒屋文化を体験してほしいからだ。そして、居酒屋で乾杯をして同じ時を過ごすことで、お互いの人間関係の距離がぐっと縮まり、親しい関係に変化してもいく。

 私が、留学生たちをよく連れて行く京都の祇園や先斗町界隈の居酒屋などが数軒ある。いわゆる行きつけの店だ。そのうちの一つ、祇園白川石畳の通りにある赤提灯居酒屋の「侘助(わびすけ)」。京都の風情が居酒屋の内外にとても感じる祇園の一軒だ。店で会った初対面の客同士とも会話がはずむ、手ごろな狭さもいい。(上記写真は、現在、京都大学に1年間国費[日本政府の]留学をしている呉君[閩江大学3回生]。他の客と話している。)

 京都には、五花街(祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町・上七軒)があるが、その花街はすべて飲み屋街だ。他にも高瀬川沿いなど、京都市内には飲み屋街がたくさんある。祇園と宮川町、先斗町、高瀬川の界隈には、「祇園6000軒」と言われるほど、飲食店の店がたくさんある。コロナ禍下のこの3年間で、かなりの店が閉店せざるをえなくなったが、それでも4000~5000軒くらいは今もあるかと思われる。

 鴨川に架かる五条大橋、四条大橋、三条大橋、御池大橋、二条大橋。これらの大橋と鴨川界隈が、京都の飲み屋街の中心地となる。とりわけ、先斗町は、伝統的な家屋の飲食店が集中的に多く、最近では電柱や電線が地中化され、日本を代表する飲み屋街の風情がある。世界的に見てもこのような飲み屋街の風情はめずらしく、「世界文化遺産」に登録されてもいいところだとも、私は思う。

 この先斗町の飲み屋街の中に、私が1970年代の学生時代から行きつけの和風カラオケ居酒屋「みちのく」がある。店のオーナーは替わったが、店の雰囲気は1970年代からのまま(店内は改装は少しされたが)。ここにも、よく留学生たちを連れて行く。前出の呉君も連れて行ったら、彼は千昌夫の「星影のワルツ」など、日本の歌を数曲歌ってもいた。彼の父親(昨年の4月に52歳で亡くなった)が好きだった曲なのだと言う。こうなると、店にいる常連たちも、呉君とさかんに会話を始めたり、一緒に歌ったりもする。(呉君はその後、この店の雰囲気が気に入り、韓国人の留学生仲間を誘って、この店に行ったようだ。)

 立命館大学大学院に留学していた林さんたちと共に私の娘も一緒にこの「みちのく」には何度が来た。中国の叙情的な歌を彼女らは歌う、店の常連たちとともに日本の歌を歌ったりもして、客同士がうちとけあう。これが「日本の居酒屋文化」の一つの特徴でもある。日本の歌手・三波春夫の歌に「チャンチキおけさ」という歌がある。私の祖父・父からの親子三代にわたり三波春夫の大ファンだが、この歌の歌詞に「‥知らぬどうしが お皿叩いて チャンチキおけさ ぁぁ‥」という一節があるが、まさにその通りの世界になることもある日本の居酒屋文化。

 昨年12月下旬に、広島大学に1年間留学中の閩江大学4回生の男女3人が京都にやってきた。彼らとは、いままでにオンラインでの授業でのみの関係だったので、これが初めての直接対面だった。先斗町にある、炉端焼き居酒屋「ぽんと」でまずは、初対面の乾杯をした。2軒目は、先斗町にある和風カラオケスナック「なかの待ち」、そして3軒目は、祇園にあるフィリピンパブ(日本人に合わせた、フィリピン風カラオケ居酒屋)へ。

 このフィリピンパブは、1980年頃から日本全国、津々浦々(農村地区にも)にできたのだが、今はその数も減少している。日本のおじさんたちの心を癒し続けたと言われているのがこのフィリピンパブだが、日本の居酒屋文化の一角を担ってもいる。祇園には「国際通り」というエリアがあり、ここには今も、フィリピンパブを中心とした店は多い。

 鴨川に架かる五条大橋から二条大橋までの長いエリアの間に、京都鴨川畔に5月上旬から9月下旬までの5カ月間設けられるのが「鴨川納涼床」。まあ、これも一種の居酒屋だ。留学生たちともここに来ることもある。鴨川納涼床は江戸時代から設けられている京都伝統の納涼居酒屋床。現在100軒ほどの納涼床(川床)がある。

 祇園の八坂神社に近い花見小路通りにある「やげんぼり」。この店は、居酒屋っぽい日本料理店だ。値段もお手頃で、日本料理・居酒屋風情が堪能できる店だ。よく留学生たちとともに、私の妻も交えてここに連れてくる。

 同じく祇園にある居酒屋「やまぐち大亭」(1・2階)。ここは学生時代からきている居酒屋で、とても値段が安い。留学生たちとも来ることがある居酒屋だ。(筑波大学大学院生の馮さん、上智大学大学院生の陳さん、わたしの妻と。) 

    自宅近くの炉端焼き鳥居酒屋「よしべ」。(大阪大学大学院生の任さんと。)

■東京に留学している教え子たちが多いので、東京で彼らと会う場合には、私が好きな飲み屋街は、上野駅の界隈だ。ここには、アメ横などの飲み屋街の他に、たくさんの居酒屋街(仲町など)がある。東京では上野界隈に行くとほっとする。大阪では京橋と天王寺、道頓堀(ミナミ)。札幌ではススキのなどなど、日本全国にはまたまだ居酒屋文化が健在だ。「居酒屋文化の灯を消すな」のあのポスター、私は1枚欲しくなる。日本に留学した150人余りのうち、その8割くらいの留学生たちと日本の居酒屋に行っただろうか…。