彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国、福建師範大学に赴任して10日間あまりが経ちました―10月、日本でのこと②―

2015-10-31 12:21:08 | 滞在記

 中国に来て10日間あまりが経ったが、まだまだ中国での生活になじめない。日本への里心が強く現れる毎日だ。3か月間日本に滞在していたので、すっかり日本の生活に戻ってしまっていた。昨夜、私の娘から電話があった。「父さん、どうしてる。----。」と。日本からの電話や連絡は、なによりの「精神安定」のための薬になる。一週間に一度ほどの妻との電話会話は、最大の「精神安定」のための薬となっている。
 さて、「10月の日本でのこと②」について記します。

 10月10日(土)、立命館大学で「北京大学学生公演会」があった。午後2時から公演が始まった。立命館大学と北京大学はつながりの深い大学だ。中国国務院前総理の温家宝も来日の際、総理として訪問したことがある。

 公演は、歌・演武・演奏・舞踏などが1時間あまりにわたって繰り広げられた。


 翌日の11日(日)、日本全国でお祭りが繰り広げられた日。京都では「学生祭典」が行われていた。新しくなった岡崎公園一帯と平安神宮を会場に、何十組もの京都の大学生グループの演武が発表された。なかなか素晴らしい祭典だと思う。

 同じ日の11日(日)の夕方、平安神宮近くの「粟田神社」の祭礼があった。この付近は、学生時代に1年間半住んでいたところだった。たった2畳の狭い部屋で、窓をあけると墓地だった。家からの仕送りがなく、学費も含めてすべてアルバイトで生活をしていたため、おそらく最も安い部屋だった。(家賃5千円) しかし、平安神宮や円山公園、三条京阪などにも近く、エリア(地区)の環境がとてもよかった。
 粟田神社の祭礼は、3日間にわたってとりおこなわれる。近年、「京都芸術造形大学」の学生たちと連携し、祭に彼らが作成した張りぼてが何台も沿道を行く。見事な行列だ。

 近くにある「知恩院」のお坊さんたちと共に、祈りの儀式をする。「神仏合体」的な面もある祭である。知恩院前に行列が立ち止まり、おごそかな儀式が1時間あまりとりおこなわれていた。
 10月14日(水)、友人の西さんと祇園の白川沿いの居酒屋で久しぶりに会った。

 10月17日(土)、京都の出町柳駅近くの耳鼻科医院に行く。慢性の中耳炎治療の治療にあたる。治療が終わって、賀茂川に行く。チェロの演奏が聞こえていた。いつ来てもいい場所だ。近くの下鴨神社に行ってみた。『源氏物語』など、日本の古典によく登場する場所だ。『方丈記』の作者、鴨長明の「隠棲の庵」が復元されていた。
 10月12日(月)〜20日(火)までの間、中国に荷物を送る準備に追われた日々だった。大小5つの荷物を送った。10月21日(水)、福州の空港に午後6時に到着した。日が落ちていて暗くなっていた。蒸し暑さがまだ残るのを感じた。福建師範大学の関係者が迎えに来てくれていた。







 

中国、福建師範大学に赴任して10日間あまりが経ちました―10月、日本でのこと①―

2015-10-31 10:08:28 | 滞在記
 中国福建省福州市の「福建師範大学」に赴任して10日間あまりが経ちました。新しい住居地(宿舎)での生活環境の整備と、新しい大学での仕事(授業)の準備や実施などに、怒涛のように追われ続けた10日間でした。
 ようやく、少し落ち着きがもてるようになってきました。
 ブログ環境がかなり悪く、なかなかブログに繋がることができません。ですから、なかなかブログの更新ができません。時々、ブログが繋がります。今日の午前9時頃から、久しぶりにつながりました。
 10月21日に中国に来たのですが、今日は「10月、日本でのこと」についてブログに記します。



  ―「生と死」は紙一重 ―志賀直哉の『城崎にて』を思い出す―
 10月5日(月)〜6日(火)にかけて、福井県の故郷に行ってきた。5日は妻の学校も休校となったので、京都から敦賀まで車で一緒に行った。滋賀県の比叡山山麓に「仰木」という地区がある。棚田の農村風景が見事だった。安曇川の流れに沿いながら、「鯖街道」を北上し敦賀に向かう。途中、滋賀県高島市の山奥の集落に行った。棚田100選に選ばれているとこらしい。初めて行く場所だった。
 稲は刈り獲られていた。小規模だが棚田がけっこう見事だった。妻と棚田の一番上の方に行ってみた。野生のリンドウの群落があり、綺麗に咲いていた。その群落を撮影しようと思い、なだらかな崖に片足をかけて手を伸ばして撮影をした。撮影が終わって、足や手を元の地面にもどした。すると妻が、「大きな蛇がいる。!」とポツリと言った。片足や両手を伸ばした場所から1mも離れていない場所の草むらに、大きくて太った蝮(マムシ)がどくろを巻いていた。
 危ないところだった。もう少し右に足をかけていたら、確実に噛まれていたと思う。「生と死は紙一重」というが、人生の中にはこういう瞬間がたまにあるようだ。志賀直哉の『城崎にて』という作品を思い出した。ちなみにこの作品は、「日本近現代文学」という授業でも扱う作品なので、学生達にも話したい。

 滋賀県北部の「マキノ」という場所を通る。メタセコイヤの並木道がきれいだ。近くに、「在原業平の墓(伝説)」があった。都の有名な貴族だった彼の墓がなぜここにあるのだろう--。この写真は、「日本古典文法」の授業でも紹介した。すすきが見事な季節だった。妻とは「敦賀駅」で別れた。彼女は、特急「サンダーバード(雷鳥)」で京都に戻って行った。
 日本海の夕日が沈むころ、福井県の故郷の家に帰り一泊した。

 翌日、墓参りをし、母に別れを告げて、京都に戻る。実家のある福井県南越前町糠(旧 河野村)から敦賀に向かう。途中、海に面した集落に大規模な棚田群がある。石垣を積み、棚田を形成している。背後に「木の芽峠の山々」が見える。この「木の芽峠」の山塊は、歴史上でも多くの戦いがあったところだ。山上には、山城跡が散在する。

 ―日本の山城でも有名な、「玄蕃尾城」に行く―

 福井県(越前国)と滋賀県(近江国)の県境に、昔の国境の峠であった「刀根坂峠」というところがある。この峠も、戦乱の戦国時代に戦いがあったところだ。(「織田信長×朝倉義景」「柴田勝家×羽柴秀吉」など)

 この峠からしばらく山を登ると、日本の城郭史上有名な城がある。「玄蕃尾城」だ。城マニアには有名だが、知る人は少なく訪れる人も少ない。この城を訪れるのは5回目くらいだが、いつきても見事な山城だと思う。城は「土から成る」と書く。土でてきた城だが、保存状態もとてもよく、日本の名城「ベスト10」の一つになるのではないかと、私は思う。(※国指定となっている。)
 11月になると、さぞかし「紅葉」がきれいだろうと思う。「あけび」があったので、いくつか採った。


 ―「小谷城」に登る―
 滋賀県北部に「小谷城」がある。これも有名な城だ。浅井一族の山城で石垣も現存する歴史上有名な城だ。NHK大河ドラマ「江」が放映された時は、大勢の観光客でにぎわっていた。この城には10回あまり訪れただろうか。最初に来た時は、歴史上の悲劇を知っているだけに、身震いを感じた城だった。見事な山城だ。

 私は、中世の山城に興味が深い。全国に3万あまりあると言われている城。ほとんどが山城だ。京都府だけでも千あまりの城があるだろうか。この滋賀県は全国的にも最も多い。次いで、兵庫県だ。2012年~13年にかけての1年間に、年間200あまりの城に行った時期もあった。
 中国でもいくつかの城に行った。今後、一つでも多くの中国の城を訪れたいと思っている。日本・韓国・中国という東アジアの城郭の比較を研究するのも面白い。城についての考え方が、かなり違うからだ。日本の城は、「軍の将兵と殿だけが城に籠って戦う場所」だが、中国の城は「軍の将兵と殿、住民が共に籠って戦う場所」(※城の中に都市がある。)である。朝鮮の城は、日中の中間的なところだろうか。

 夕方に、京都に戻った。







東京へ行く―中国からの留学生三人と会う―

2015-10-19 05:09:13 | 滞在記

 10月1日(木)・2日(金)に東京に行った。東京には、私の学生だった中国からの留学生が三人いる。今年の7月に来日し、「千駄ヶ谷日本語学校」に通学している。9月頃からコンビニエンス・ストアーやスーパーマーケット、ドーナツ屋さんなどでアルバイトをしながら、来年の1月~2月を中心に実施される「大学院入学試験」受験の準備をしている。
 10月1日(木)の午後5時、JR上野駅で待ち合わせをした。上野の居酒屋に行き、2時間あまり話し込んだ。(上記の写真の左から、申さん・黄さん・陳さんという名前。) 来年、受験を希望している大学は、申さんは「早稲田大学・立命館大学・大阪大学」、黄さんは「東京外国語大学」、陳さんは「千葉大学」と話していた。12月頃から「入学試験願書」の提出時期が始まる。今が、日本に来て最もつらい時期だろうと思う。
 午後7時、陳さんはスーパーマーケットのアルバイトが午後8時から始まるので、一足先に別れを告げて店を出て行った。
 この日から1週間、中国は「国慶節」期間に入る。中国のゴールデン・ウィークだ。日本への観光客も多くなった関係で、上野駅周辺のビジネスホテルはどこも満室。ようやくキャンセルで空き室が出たホテルに入る。

 10月2日(金)午前10頃、中国の大学への日本側派遣元である「日中交流センター(公益法人団体)」に行った。今回の福建師範大学派遣の「ビザ取得のための書類」を渡し、担当者と話し合った。センターのある神保町界隈を歩いてまわった。大学や古本屋の多い町だ。明治大学、専修大学、日本大学などの校舎があった。

 9月中旬頃に、NHK「新日本風土記」で、「東京・新大久保」という場所が紹介されていた。この街に行ってみたいと思った。この地区は、新宿と高田馬場・早稲田とのほぼ中間に位置する場所だ。韓国人を中心に諸外国人が多く住む地区。日本語学校も周辺に多い。韓国系の店も多い。JR「新大久保駅」の駅員さんが、「新日本風土記」の番組内で言っていた。「午後12時45分。この駅には日本人がいなくなります。ほとんどが外国人になります。日本語学校で午前中の授業を受ける外国人と午後の授業を受ける外国人が、ちょうど駅で重なりあう時間なのです。」と。
 12時30分頃、駅に着いた。12時45分を待った。確かに、日本人らしい人は少なく、ほとんどが外国人だった。日本に来て、「日本語学校」に入学している多くの外国人。夢と将来を求めて日本に来日した彼らの生活。かなりつらい現実もあるのだろうと思いながら、行きかう人を見ていた。

 東京から帰った翌日の10月3日(土)、立命館大学大学院言語教育情報研究科の第一次コロキアム(修士論文概要発表会)があったので、でかけた。私が現在も研修員として在籍している研究科だ。旧知の先生たちと会い、話したりもした。今年9月から入学した林さんも来ていた。近くの立命館平和ミュージアムに行き、国際平和写真展を見た。中国の農村での「幼い子を土葬する写真・難民を満載する舟の写真」が心に残った。
 午後3時ころから、今年の9月入学の中国人留学生2人を京都府立植物に案内してあげた。鴨川の河原、北山、夕日が美しかった。










日本滞在3ケ月、10月21日(水)再び中国に行く。②

2015-10-18 17:02:47 | 滞在記

 10月21日(水)に、福建師範大学に赴任するため中国に渡航するまで、あと2日間あまりとなった。2日前までに、段ボールで大小合わせて5個の荷物を大学側にEMS国際便で送った。かなり高い料金がかかった。あとは、飛行機で持っていく荷物を準備するのだが、こまごまとしものを買ったり準備にせまられてきた。
 今回、大学側から要望された授業(講義)科目は、4つだった。かなり多い。❶「日語古典語法」❷「日本近現代文学選読」❸「大学日語書作教程」❹「総合日語第四冊」なのだが、❶の日本古典文法と❷の日本近現代文学の授業準備が、難しく大変だった。この2カ月間は、古典文法の勉強に明け暮れ、古典や近現代文学を読み漁っていた。
 ちなみに、近現代文学で扱う主な作家は、「①夏目漱石②谷崎潤一郎➂芥川龍之介④志賀直哉⑤宮沢賢治⑥川端康成⑦葉山嘉樹⑧中島敦⑨坂口安吾⑩松本清張⑪津島佑子⑫村上春樹⑬近現代詩人⑭近現代歌人(短歌)⑮近現代俳人(俳句)」である。❶と❷の教科書内の説明部分は、基本的に中国語で書かれているので、その判読もまた難しい。
 ❸の「日本語作文教程」と❹の「総合日本語」の授業は、閩江大学時代も授業を担当していたので、日本で特に準備をしなくても なんとかなるだろうか。

 日本滞在3ケ月間のうち、9月20日から9月30日までのことを記したい。

 9月19日(土)から23日(水)までの5日間、日本はシルバーウィーク。9月22日は、妻の誕生日だった。その記念に、9月20日に車で奈良県天川村の御手洗渓谷(みたらいけいこく)や天川・洞川温泉(どろかわおんせん)、明日香村に日帰りで行った。天川村と御手洗渓谷は初めて行くところだった。吉野山の南方にある山奥だった。御手洗渓谷は、近鉄電車の車内によく掲示されている場死だったので一度行きたかった。
 京都の自宅より車で3時間あまりで到着。渓谷に入ると、とても素晴らしい渓谷美があった。水がコバルトブルーにの深く明るい青。とてもいい渓谷だった。近くの洞川温泉や天川温泉に行って、湯につかった。

 午後3時頃、天川を出発し明日香村へ向かう。明日香の彼岸花の群生を見たかった。4時半ころ石舞台古墳に到着。赤と白の彼岸花が美しい。棚田に彼岸花が群生している場所に行く。美しい日本の風景があった。黄金色の稲と赤い彼岸花(曼珠沙華)。
 ちなみに、この彼岸花は数千年前に中国から稲とともに日本に伝来してきた植物らしい。現在では北海道から琉球諸島にまで自生しているが、驚くべきことに、それらはすべて遺伝子的に同一。株分けをし続けて、日本列島に広がった。私も中国で彼岸花を見たことがある。彼岸花の毒によって田畑に集まるモグラやネズミを避けるため、また土葬にした遺体をそれらから守るために、大昔の人々は、彼岸花を田んぼのあぜ道やお墓に植えた。それから何千年・何百年かたって、今でも同じ場所で咲き続けているという。
 9月22日、京都市桂地区に住んでいる息子と祇園で会い、妻ともども3人で会食をした。久しぶりの息子との会食に妻は「いい誕生日記念ができた。」と喜んでくれた。会食後、息子の彼女も合流して京都先斗町(ぽんとちょう)で、お酒を飲んだ。

 9月23日、シルバーウィーク最後の日、午後に留学生(中国)の林さんとその友達たち二人と一緒に、京都の清水寺に行った。清水寺の舞台下にも彼岸花が咲いていた。中国をはじめとする外国からの観光客が多く、参道は身動きができにくいくらいだった。清水寺から八坂神社まで歩き、三人と別れた。(※三人の留学生の内の一人である男性は、台湾からの留学生。2日後に北海道大学大学院法学研究科の博士課程研究生として北海道に行き、北大の恵迪寮に住む予定だという。)
 9月24日の夕方、京都の哲学の道を久しぶりに散策する。精華大学の学生たちによる美術展をしているアパートの一室があった。案内されてたちよると、美しい女性の絵がかかっていた。疎水沿いの土手に咲いている「よめな」が美しかった。
 9月26日、立命館大学大学院生時代の同級生、林君(台湾から)に夕方に久しぶりに会って、飲み語った。彼は、30才代の半ばくらいだが、現在は京都府の観光局の依属職員として働いている。京都市が大好きで、中国人向けの「京都観光案内」の本を作成中で今年中に完成するようだ。「やげんぼり」という祇園の店からの帰り、「一銭洋食」の店に入る。女性の人形が何体もある店だ。日本の元祖「お好み焼き」を食べさせてくれる。明治時代の創業と聞く。

 ※前回のブログで、「1982年、アヘン戦争での敗戦以来、」は、「1842年、アヘン戦争での敗戦以来、」の間違いです。すみません。

 

日本滞在3ケ月、10月21日(水)再び中国に行く。①

2015-10-18 05:01:04 | 滞在記

 7月15日に日本に帰国して3ケ月が経った。半年間あまりは、日本での生活に戻りたかったが、10月21日に中国に再び赴任することになった。転勤先は福建師範大学。7月まで赴任していた閩江学院と同じ福州市にある。10月上旬には赴任する予定だったが、40日以上を要する「就労許可証」の認可や中国の国慶節(ゴールデンウィーク)などの関係で10月21日となった。

 ブログの更新は、8月27日以来 久しぶりだ。9月から10月中旬までのことを記したい。

 ―「安全保障法案」にゆれる日本―

 9月は、「安全保障法案」をめぐる問題が日本国内に起きていた。8月30日には、国会周辺に12万人の「法案反対」デモが集まったという。京都市内でも、法案に反対する集会やデモが盛んに行われていた。このたくさんの「法案反対」の集会やデモの動きに対して、8月31日の各新聞の報道はかなり違っていた。「朝日・毎日・京都」の各新聞は一面に報道されていたが、「読売・産経・日経」の各新聞は ほとんど報道しなかった。また、各テレビ局も「報道自粛」をしていた。これだけの大きな問題と国民の動きに対して、報道しない新聞やテレビ局の姿勢には大きな疑問を感じた。
 9月に入り、「法案反対」の動きが全国的になるにつれ、9月10日頃からテレビ局でもぽつぽつと報道がされるようになってきた。今回の「法案」に対する世論調査なども報道されるようになった。

 9月10日報道の「NHK」世論調査によれば、①「安保法案の今国会での成立について」ア:(よいと思う)24.5% イ:(よいと思わない)65.5%②「法案反対デモが国民意識を代表しているか」 ア:(代表していると思う) 46.6% イ:(代表していると思わない) 36.9%という結果だった。要するに、多くの国民が「今国会での成立」に反対し、半数近くの人が「デモは国民意識を代表している」と思っているという結果だった。
 「法案」や抗議行動を巡る このような国民的な意識の中で、橋下徹大阪市長(維新の会)は、8月30日の国会周辺デモについて自身のツイッターで次のようにコメントしていた。「たったあれだけの人数で国家の意志が決定されるなんて(ことがあれば)民主主義の否定だ。デモは否定しない。国民の政治活動として当然だが、デモで国家の意志が決定されるのは絶対に駄目だ。日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうち、ほぼ数字にならないくらいだろう。サザン(オールスタース゛)のコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。」と。
 橋下氏の「政治感覚---。民主主義感覚---。」何かおかしい。思考が幼稚で、民主主義感覚レベルが低い。橋下氏に投票したことのある有権者は、このツィツターを見て「さすがに恥ずかしく思った--。」かもしれない。そして、「今度この人に投票するのは慎重に考える必要がある----。」と感じたかもしれない。投票したことのない私も恥ずかしく思う。橋下氏の発言や行動には、それなりに「おもろい・興味」はあるのだが----。彼の この政治感覚は、民主主義の発達していない国の政治指導者たちの感覚とよく似ていると思った。

 9月18日の深夜、「安全保障関連法案」が強行採決された。翌日の19日(土曜日)に、京都市内で高校生の主催した「法案反対」の集会・デモに行ってみた。集会・デモの参加者は、400人あまり。そのうち、高校生は20人あまりいただろうか。私がいままで参加したデモとは、かなりちがっていた。高校生たちを先頭に、ラップ調のテンポで、街行く人にメッセージを伝えるデモ。街行く若い人も、デモの様子を携帯写真にとる人が多くみられた。特に、若い人の感覚にも届くものがこのデモにはあるような気がした。

 9月19日(土)の『毎日 小学生新聞』を紹介したい。とても優れた記事だったからだ。一面の見出しは「安保法案―国会の中と外で―」「多数決で負けるのにデモをする意味があるの」[文:編集長 西村隆]  
 記事は次のように始まる。「集団的自衛権を使える法律など、安全保障関連法案が成立する寸前だ(18日昼現在)。安倍晋三総理大臣を支える与党は、国会の衆議院、参議院の両方で過半数を占めている。話し合いを打ち切り、多数決に持ち込めば法案は成立する。それなのに毎晩、国会の周辺では反対のデモが繰り広げられている。総理大臣はまったく聞く耳をもたないのに。ボクは国会周辺を歩いた。そして考えた。どうしてデモをする? 負けるのが分かっているのに意味があるの?」---中略---
「参加者は、手作りのブラカードを持ち、都合の良い時間にやってきて都合がつかなくなると帰って行った。団体やグループから命令されたり指示されたりして来た「私たち」ではなく、本当に自分の思いを訴えたくて来た「私」が集まっていると思った。そこで考えた。「国会内の多数決で負けるのに、ここに集まって声を出す意味は何だろう ? 」----中略----
 「憲法は、国民の権利を保障する一方、国民にも義務を課している。子どもに教育を受けさせる義務(26条)、働く義務(27条)、税金を納める義務(30条)の三つだ。試験問題ならこれで満点。でもキミには次の条文を読んで考えてほしい。[12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。] ここにも国民の義務があった。「国民」とはキミやボク、「私」一人ひとりのことだ。ボクはデモで声を上げることは、[自由と権利のための不断の努力]につながると答えを見つけた。キミがこの記事を読んで考えているこの瞬間も、[自由と権利のための不断の努力]と信じている。

 9月3日(木)、中国で「中国戦勝記念70周年」の軍事パレードが北京で開催された。このため、3日(木)・4日(金)・5日(土)・6日(日)と4連休となったところも中国では多かったのではないかと思う。この軍事パレードは、日本のテレビでも詳しく放映されていた。1982年、アヘン戦争での敗戦以来、国難に直面し続けた中国。100年間の屈辱を絶えて、再び国力を増した中国。中国国民にとっては、「ようやくここまで国ができてきた。」と誇りに感じる人も多かっただろうと思う。
 一方、中国の軍事力を背景にした対外政策(東シナ海や南シナ海など)に不安を感じる国々も多い。今回の「安全保障法案」問題も、中国の対外政策を不安に感じるからこそ、「法案に賛成」「法案の成立もやむなし」と考える人も多いはずだ。今日の国際情勢を巡って、「法案問題」については さらに勉強をする必要を感じている。
 今朝の新聞やインターネットで、「朝日テレビが、藤井聡氏の出演を当分見合わせる。」とのニュースを報じていた。藤井氏(46才)は、京都大学大学院教授で安倍内閣・内閣官房参与。いままで、朝日テレビなどにもよくコメンテーターとして出演し、内閣官房参与でありながらも、今回の「法案」を巡る問題や、橋下氏が進めようとしている「大阪都構想」に対する批判発言をしていたのだが----。なぜ、出演拒否になったのかは、おそらく橋下氏たちの抗議に反応してしまったのだと思うが、残念なことだ。テレビ報道番組では、「大阪都構想」に賛成・反対の両方のコメンテーターを出せばいいと思うのだが--。テレビ局の関係者は、今回の措置について恥ずかしく思わないないのだろうか。「自由と権利のための不断の努力」を考えているのだろうか。とりわけ、報道機関に勤める人達の「不断の努力」の責務は大きいと思う。

  ―友人たちとの再会―

 9月4日(金)、友人の鈴木さん・小林さんと京都伏見にて再会し、飲み語る。9月8日、大学時代からの友人である高貴君に再会し、京都祇園にて飲み語る。

 ―中国からの留学生、京都市北区のアパートに引っ越し―
 閩江大学時代の学生、林さんが 京都の立命館大学大学院に合格し、9月15日に京都に引っ越してきた。1か月半ほど滞在した大阪の寮から、京都に引っ越しをした。彼女の荷物を車で大阪から京都まで運ぶ。そして、留学生生活が本格的にスタートした。