彦四郎の中国生活

中国滞在記

7月、この一カ月間のアメリカと中国の米中関係の緊張の高まり

2020-07-31 15:57:21 | 滞在記

 7月上旬に入り南シナ海では米空母2隻による軍事演習が開始され、それに対抗するように中国も同海域での海軍軍事演習を開始した。また、イギリスは新空母「クイーン・エリザベス」を中国に対抗する国際協力の一環として太平洋、とりわけ南シナ海への来年早々の派遣を立案していると報じられた。これに対し、中国の劉暁明駐英大使は、「英国が新空母を太平洋地域に配備すれば、非常に危険な動きになる」と、イギリスの動きを牽制した。日本の夕刊紙には「日英米 横暴中国に倍返し」の見出し記事が。

 7月9日、アメリカのポンペオ国務長官は、中国新疆ウイグル自治区での人権侵害に中心的に関与した自治区トップ・陳書記ら幹部4人とその家族、1団体への制裁として、「米国入国へのビザ制限や入国拒否、米国内の彼らの資産凍結、米国人との取引き禁止」を表明した。これに対し、中国政府外交部の趙立堅報道官は「ウイグル問題について悪辣な言動をした機関や個人に対し、同様な対抗措置をとる」と表明した。

 7月9日~17日まで、日本の最南端に位置する冲ノ鳥島周辺のEEZ(排他的経済水域)で中国船が海洋調査とみられる活動を行ったとして、日本政府が抗議したことに対し、中国政府の華春瑩外交部報道局長は、「冲ノ鳥島は島ではなく岩の岩礁。冲ノ鳥岩礁にすぎない。だからここは日本のEEZではない。日本側の一方的な主張には法的根拠がない。」と反発。

 在外公館を巡る米中の対立も激化し始めた。アメリカ・トランプ大統領はアメリカのヒューストンにある中国総領事館の閉鎖を命じ、7月24日から退去が始まると、これに対抗して中国政府は四川省省都・成都のアメリカ総領事館の退去・閉鎖を命じ、7月25日から退去が始まった。アメリカ総領事館前には、大勢の中国人の見物人が詰めかけて中国人の反米感情の高まりを現していた。「中国は強い国だから、アメリカに必ず反撃できる」などと見物人の一人はインタビューを受けていた。

 7月28日にアメリカとオーストラリアの外務・防衛閣僚会議が開催され、中国のインド太平洋での最近の強制的で不安定な行動に深刻な懸念を表明し、「中国による南シナ海での権益の主張は国際法のもとでは無効であることを確認した」との共同声明を発表。これに対して29日、中国政府外交部の汪文斌報道官は、「米豪両国が中国の脅威を誇張し、一連の問題で中国を中傷したことに、強烈な不満と断固とした反対を表わす」」と発表した。

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❼番外編―ヴォーリズの設計ではないかと推測されていた"私の故郷の村の西洋館"

2020-07-29 14:46:36 | 滞在記

 私の故郷の住所地区は、もともとは福井県南条郡河野村。平成の市町村大合併で近隣の南条町や今庄町と合わさり今は南越前町となっている。「海(河野村)、山(今庄町)、里(南条町)」の町である。この河野村の河野地区にある「北前船船主の館・右近家の西洋館は"ヴォーリズの設計したものではないかとされている"」と知ったのも、ヴォーリズ関連の色々なインターネット記事を読み漁っていたつい最近の7月上旬。「故郷の長年見続けてきたあの西洋館がヴォーリス設計なのか!」と誇らしいような小躍りする気持ちだった。

 7月20日(日)に京都から故郷に1か月ぶりに帰省した。夕日が海面に近づき始めた時刻、北前船主の館の背後の山腹にある西洋館を見る。西洋館の背後の山には、織田信長軍の侵攻に備えてつくられた越前国一向一揆軍の河野城の山城址がある。この山城は500人くらいの守備隊があったが、織田軍団の敦賀半島先端の地区から押し寄せた羽柴秀吉軍の軍船部隊により落城した。

 翌日の朝、北前船主・右近家館に入館する。ここ南越前町河野浦は、敦賀湾のほぼ入り口に位置し、古くから府中(武生市、現・越前市)と敦賀を結ぶ海陸の中継地として栄え、河野・敦賀間の船稼業に従事。江戸時代中期からの商品経済の発展に伴い、日本海海運は飛躍的に発展を迎える。

 そして、この河野浦には右近家・中村家・刀禰家などが多くの北前船を持つ船主が現れるに至った。とりわけ幕末期にはその最盛期を迎えるに至る。特に右近家は江戸時代末期に北前船を11隻を擁し、利益は1万2000両にも達している。このころ右近家は日本海海運五大船主の一つに数えられた。明治12年には船は17隻となり積石数の合計は1万8000石。その後、蒸気船7隻なども所有するようになる。(総数隻30隻あまり)  また、海運船主が共同で運営する海上保険会社の必要性から、日本海上保険株式会社(後の東京海上火災保険、現在の損保ジャパン日本興亜)を北前船主のリーダーとして右近家が中心となり設立した。その右近家の広大な屋敷である。

 大正時代となり右近家当主たちの家族は東京に移った。そして昭和になり、西洋館もつくられた。右近家の人々はたまにここの屋敷に東京から来て逗留したりもしたのだろう。現在は屋敷や西洋館は博物館的に一般公開され地元が運営にあたっている。地元の知り合いの人がボランティアでここの案内をしていた。

 受付の管理責任者の女性に、「ここの西洋館はヴォーリズという人が設計した建物ではないかと聞いたんですけど‥」と聞いてみたら、「そうなんです‥。ヴォーリズさんの‥。でも、最近、この西洋館の建築図面が発見されましてえ、大林組の設計・施行ということが分かったんやわね‥。」と。どうやらヴォーリズ作品ではなかったようだ。軽い落胆を覚えたが、「そうだったんですか…」と、西洋館の方に向かう。

 ヴォーリズの設計かもしれないと長らく思われていた理由としては、とくに1階の建築部分がスパニッシュ(スペイン風)なところがあるのもその一つかと思う。階段部分とか内装なども。

 建物1階の部屋には、「11代目右近権左衛門が造らせた。遠く海を見晴らせ、海からの眺望を意識するように、山の中腹で日本海に迫り出すように建つ右近家西洋館。大林組の設計・施行により、昭和8年(1933年)着工、昭和10年(1935年)完成。洋館附属工事概要録によれば、使役した人夫総数、石工853人、河野・赤萩地区の男7516人・女3034人、大工334人、左官214人と記録されている。」と説明されていた。実に1万人以上の人々によって建設工事がおこなわれたようだ。この時期はヴォーリズが建築家として最も活躍していた時代とも重なる。

 ヴォーリス設計の京都の大丸ヴィラの建物の上に置かれた船の飾りとよく似た船が2階に上る階段のところの窓にステンドグラス的に描かれていた。山荘的な造りの2階内部は畳敷の和室となっている右近家西洋館。ベランダからの眺めは天気条件の良い時は若狭湾の向こうの丹後半島経ヶ岬や鳥取県の大山までも見ることができる。まさに北前船主の西洋館相応しく日本海が一望できる。

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❻神の執事として―全国に残るヴォーリズ設計建築、大阪大丸・関西学院大学など

2020-07-27 12:29:24 | 滞在記

 大阪の心斎橋にある「大阪大丸(心斎橋大丸)」。ヴォーリズが1933年に設計し建築された当時の絵ハガキに残されている。今、心斎橋大丸に行ってみるとヴォーリズの設計部分はそのままの形で残され、上部や背後に新しい階や建物がある。とても印象的で美しい建物だ。外観1・2階部分のテラコッタのさまざまな紋様などの意匠もすばらしいなあと眺める。

 内部はほとんど改装されていて当時の面影はあまりないが、裏の入り口付近のステンドガラスの意匠が残されている。

 ヴォーリズは1945年の第二次世界大戦の終戦までの40年間あまりだけでも約1500もの建物を設計している。実に1か月間に2つの設計ペースとなる。1905年(明治38年)に初めて来日。最初誰一人として知り合いのなかったこの日本の国で、その後、彼は多くの協力者を得て、多岐にわたる活動を行った。最初は高校の英語教師として、そして2年間あまりの後の馘首。その後、建材やオルガンの輸入、メンソレタームの販売などを行った「近江セールズ」の創立。

 私立として日本初の結核療養所であり、疎外されていた結核患者を救い続けた「近江療養院」の開設。小さな保育施設から始まり、幼稚園から高等学校までに及ぶ教育活動。ほかにも、図書館の運営、出版など多くの文化事業を行い、建築においては住宅から学校、教会、デパートメントやホテル、オフィースまで幅広く手がけた。それら近江兄弟社やヴォーリズ学園、ヴォーリズ建築設計事務所などは、ヴォーリズ来日115年目を迎えた今日でも、多岐にわたった彼の活動は死後もその灯を絶やすことなく、脈々と発展しながら事業が受け継がれている。

 現在、一粒社ヴォーリズ建築事務所のホームぺージには以下のような文章があった。—神の執事として―

 「ヴォーリズの設計・建築活動は彼の伝道を伝える経済基盤として始まりましたが、彼独特のクリスチャン・マインドによって率いられた建築事務所が生み出した建築物は、温かい人柄が香り、その魅力は長い年月を経た今も多くの人の心を捉えて離しません。

 その作風は、人を驚かせるかのような建築家の自己主張をよしとせず、建築依頼者の求めに相応しい様式を選択し、その応用と近代的な改善を施すことに努め、住み心地の良い、健康を護るに良い、能率的建物を目指しました。私ども一粒社ヴォーリズ建築事務所は、大阪・東京・福岡に事務所を置き、全所員がヴォーリズの思いを受け継ぎ、彼がつくり続けた温かみのある空間を創造するべく、今日も建築活動を行ってまいります。」

 

 今は、新型コロナウイルス感染拡大の問題でヴォーリズが設計した大学のキャンパス構内への立ち入りができない状況の大学も多い。7月中旬には構内への立ち入り禁止が解除される予定だった兵庫県西宮市にある関西学院大学や神戸女学院大学のキャンパスもそうだ。関西学院大学が今の西宮・上ヶ原キャンパスに移転した時の第4代目学長とヴォーリスはともにアメリカ人で、海外伝道の親しい仲間でもあった。

 このため、1929年の新キャンパスの建物群の当時の設計のほとんどの建物をヴォーリズが行った。大学の講義内容はヴォーリズの親友が担い、建物はヴォーリスが担った。これが関西学院大学の歴史の一端だった。今、日本で最も美しいキャンパスの一つとなっている。

◆―以下の建物群は、私がまだ行ったことのないヴォーリズ建築だが‥―

 この関西学院大学からほど近い神戸女学院大学。女子教育の関西のメッカの一つとして創立された。ここの建物の多くも1933年、ヴォーリズの設計による。

 森の中のキャンパスはとても美しいようだが、今は残念ながら2つの大学ともにキャンパスに入ってその建物群を見ることがしばらくかなわない。

 大阪に「大同生命ビル」がある。ここの建物も元の建物はヴォーリズが設計したものだった。(上記右端の写真の建物・1925年)      1993年にヴォーリズ設計事務所によって建て替えられたので、現在の建物はヴォーリズ自身の設計ではない。

 NHK朝ドラ「朝が来た」の主人公モデルとなった廣岡浅子。彼女の娘(千代=本名:留子)の婿が一柳恵三で、その妹の一柳満喜子がヴォーリズの妻となった。一柳恵三は、元 播州小野藩の大名だった一柳子爵の次男。彼が実質的に廣岡浅子の事業を引き継いだ。大同生命も創立している。

 大阪にある富久邸。まるで日本家屋の建物だがヴォーリズの設計。家屋内部はかなり洋風も取り入れられている建築。1907年に首となった近江八幡にある八幡商業高等学校。その本館の設計を依頼されたのはヴォーリズだった。1938年に設計し、1940年に完成している。

 東京の三鷹市にある国際基督教大学キャンパス。ここの本館建物などの建築群はヴォーリズ建築(1954年~58年)。どことなく、滋賀県の旧豊郷小学校校舎群と似通ってもいる。

 東京の「山の上ホテル」の白亜の建物。1937年のヴォーリズの設計。アール・デコ調のクラッシックな内外装が。

   韓国の名門私立大学「梨花女子大学」本館などの建築群。1935年のヴォーリズ設計。 

   ヴォーリズが設計した学校の建物群としては、他に九州の西南学院大学、西南女学院、静岡英和女学院、滋賀県土山小学校、東京の東洋英和女学院、滋賀大学陵水会館、函館市の遺愛学院、慶応大学YMCA会館、静岡市立森下小学校、大阪医科大学(高槻市)、神奈川県の明治学院大学などがあるようだ。

   関西では神戸などにもヴォーリズ建築がけっこうあるようだ。全国で1500近くもある彼の設計した建築のその一部を見たこの6月上旬からの2カ月間だった。

 

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❺―京都市内のヴォーリズ建築②京都大学地塩寮、駒井家住宅、大丸ヴィラなど

2020-07-27 09:48:52 | 滞在記

 東大路通りの鴨川の間にある京都大学地塩寮(京都大学基督教青年会館・YMCA)。今もこの寮には学生たちが暮らしている。1913年ヴォーリズの設計建築。木造建築に見えるがレンガ造りの建物だ。朱色のアクセントがよくきいている建物だ。一時は古ぼけて幽霊屋敷とも呼ばれていたようだが、2003年に改修されて現在に至る。

 この建物の北側には鉄筋4階建ての新しい寮の建物ができていて、寮生の多くは今はここで暮らす。地塩寮とは渡り廊下でつながっていた。この地塩寮の西隣にあるのが京都府立医科大学の橘井寮(府立医科大YMCA会館)。こちらはかなり古ぼけているが1913年のヴォーリズ建築。今も学生たちが入寮し暮らしている。いったい下宿料はいくらなのだろう。格安で月に3000円〜5000円くらいかと思う。

 建物は蔦や樹木に囲まれていて古色蒼然とした建物。この建物も基本はレンガ造りのようだ。このような古色蒼然とした建物として、日本一古いとされて今も寮生が暮らす京都大学吉田寮が近くにある。

 この京都大学吉田キャンパスから歩いて10分ほどの所の京都疎水沿いに「駒井家住宅」がある。個人の住宅として1927年に造られたヴォーリズの建築。基本は和風だが洋風(スペイン風)がミックスされた趣きのある住宅だ。住んでみたくなる。

 駒井家住宅の2軒隣に「銀月アパートメント」がある。これはヴォーリズ建築ではないが、なかなか古くて趣きのあるアパート。階段を歩くとキシリキシリと音がしそうだ。現在もアパートとして暮らしている。疎水沿いの周囲の環境はとてもよい。近くには京都芸術大学(旧・京都造形芸術大学)がある。

 京都御所の南西かど地の烏丸丸太町の交差点近くに「大丸ヴィラ」の建物がある。洋風のお屋敷という感じの邸宅。ヒマラヤスギなどの大木に屋敷は包まれている。1934年のヴォーリズ建築で旧・下村正太郎氏邸宅として造られたが、今は百貨店・大丸の所有となっていて、たまにここで特別展示会なども開催されるようだ。英国で16世紀に流行したチューダ様式で設計され、木々の間からは木造風に見えるが、実は鉄筋コンクリート造りのようだ。

 四条烏丸交差点を西に高島屋百貨店、藤井大丸百貨店をすぎて2筋目を南に少し行くと、「救世軍京都小隊」の建物がある。「小隊」とは「教会」を意味するようだ。小さな教会である。1935年のヴォーリズ建築。 

 烏丸丸太町交差点に近い、百貨店「京都大丸」の建物。この建物は今はヴォーリズ建築の面影はほとんど見つけられないが、1930年代にヴォーリズの設計によって造られた。当時の様子が、上記右端の絵ハガキに残されている。

 最近行ってみた。四条通りに面した建物面には長い廊下のような意匠がほどこされた通路があるのは、ヴォーリズの設計当時のものが残されていた。

 また、建物の東側の方の内部階段はヴォーリズ建築当時のまま残されていた。ヴォーリズが好んで使ったとされる八角形の「八芳星」のテラコッタ意匠をここではかなり見ることができた。10年ほど前までは建物の西側はヴォーリズ建築のまま、意匠が多く残されていたようだが(上記写真右端)、残念ながら今はのっぺらとした壁面になってしまっていた。

 大阪の心斎橋にある大阪大丸も1933年のヴォーリス設計。ここは、ヴォーリスが設計した建物の外観がほぼ当時のまま残されている。

 京都市にはまだ行っていないヴォーリズ建築も何箇所かあるので、また行ってみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❹―京都市内のヴォーリズ建築①―東華菜館、同志社大学、教会、個人宅など

2020-07-27 04:57:02 | 滞在記

   京都市内にあるヴォーリズ建築巡りを始めたのは6月上旬以降からだ。7月下旬までの2カ月間で京都市内で見られるヴォーリズ建築の多くを巡ることとなった。以下2回にわたってその建物を紹介したい。

 京都市の鴨川に架かる四条大橋の西端に位置する北京料理「東華菜館」(旧八尾政レストラン)。これがヴォーリズの設計した建物だと知ったのはこの5月。40年間見慣れたこの素晴らしい建物が彼の設計だったことから、近畿各地のヴォーリズ建築を巡ることになった。1926年に建てられた。屋上にはビヤガーデンがあるが、どこかスパニッシュ(スペイン風)の趣きがある芸術的な建物だ。正面玄関を見上げるとさまざまな意匠の飾り芸術が施されている。

 東華菜館は建築予算にかなり余裕があったのか、ヴォーリズの遊び心があちこちにうかがえる。塔と煙突をもつ屋上に建つシンボリックなスペイン・バロック様式が、鴨川に、四条大橋に、とても馴染んでいるから不思議である。対岸の南座(歌舞伎)やレストラン菊水の洋風建築、そして界隈の川床の座敷と、京都の伝統と新しい創生のメッセージを象徴しているかのような場所がこの四条大橋界隈。

 四条通りに面する玄関に立ち、アーチの上部飾りを、とっくりと眺めてみる。魚や貝、蛸(たこ)に山羊(やぎ)などのレリーフされたテラコッタに思わず見惚れる。館内にはヨーロピアンで蛇腹(じゃばら)のついた東洋で最も歴史のあるレトロなエレベーターが今も稼働している。神社仏閣に留まらず、京都自慢の一つに上げてもおかしくないと私は思っている。

 ちなみにこの店の一番安い値段のものを食べようと思ったら、昼食時には1500円の中華弁当がお勧めだ。北京名物の炸醤麺(ザージャーメン)1500円も美味しい。一品料理は1500円からあるので、2人で2皿とビールを注文しても4000円くらいですむ。コース料理は5000円から。夕方ならば、夏は川床や屋上ビヤガーデンが特にお勧め。l料金も普通のビヤガーデン並み。屋上は風もあり涼しく絶景だ。

 京都市役所の近くの寺町通りにほど近いところに「京都御幸町教会」(日本基督教団)がある。こじんまりとしたレンガ造りの教会は1913年にヴォーリズの設計で造られた。

 京都御所の西方の通りにある京都YMCAサマリア館。若きヴォーリズ、1908年頃の設計のようだ。近江八幡にあったヴォーリズ設計事務所の支所がここにおかれることとなった。現在もYMCAの建物の一つとして使用されていた。

 烏丸通りと北大路通りが交差するところを少し北に歩く。賀茂川にほど近いところにある日本福音ルーテル賀茂川教会。白い壁面と朱ぽいっ屋根が印象的な小さな教会。正面入り口上にある丸い模様のレリーフがある。採光はここからもしているようだ。

 京都工芸繊維大学の同窓会館として大学正門近くにある建物。もともとは個人住宅だったものを大学が買い取ったようだ。ヴォーリズ建築でよく見られる煙突もある。京都五山の送り火の山に近い北山通りの松ヶ崎にある。

 京都御所の北面にある同志社大学今出川キャンパス。レンガ造りの建物がとても多い美しい構内。ここにはヴォーリズの建物が4棟ある。啓明館(1920年)とアーモスト館(1932年)、新島遺品館(1942年)と至遠館(1916年)。

 アーモスト館には2つの煙突があるし、啓明館は建物そのものが巨大な煙突のような気がしないでもない。赤っぽいレンガ造りの建物がとても美しい建物だ。啓明館はもともとは同志社大学の図書館だった建物。

 日本聖公会京都復活教会(1936年)は京都の北大路通り堀川にある。白亜の建物だが、大きな塔のような建物のデザインが印象的。

 哲学の道にほど近いところに喫茶・レストラン「GOSPEL」がある。この建物はもともと個人宅だったのかレストランだったのかちよっとわからない。先日、近くに住む娘や孫たちとここで昼食をとることとなった。内装や階段などもとても趣のある建物内部だった。