彦四郎の中国生活

中国滞在記

紀伊山地・熊野を巡る❷—日本一ともいわれる"丸山千枚田"①―稲穂が黄金色に色づき始めていた

2020-08-24 05:27:58 | 滞在記

 赤木城跡から車で15分ほどのところに、日本一ともいわれる棚田「丸山千枚田」の光景が広がっていた。最もよく棚田全体が見渡せる展望処のようなところに着く。時刻はもう午後4時半をまわっていた。

 丸山千枚田は、三重県熊野市紀和町丸山地区の山の斜面に幾重にも描かれた棚田で、日本の棚田百選にも選ばれている。この棚田がいつ頃造成されたのかは不明のようだが、関ヶ原の戦いのあった翌年の1601年(慶長6年)にはすでに2204枚の田があったという記録があるようだ。しかしながら、昭和40年代半ばから始まった稲作転換対策による杉の植林や昭和50年代以降の過疎・高齢化による耕作放棄地の増加によって、1980年代後半の平成初期には530枚までに減少してしまったという。

 地元住民は、「自分たちの代でこの貴重な文化遺産を無くすわけにはいかない。素晴らしい景観と農耕文化を後世に残し伝えていかなければならない。」と立ち上がり、1990年代はじめの平成5年に丸山地区住民全員による丸山千枚田保存会を結成し、丸山千枚田の復元と保存活動が始まった。保存会結成後4年間で810枚の田の復元に成功し、1340枚という日本でも最大規模の枚数を誇る棚田となったという。平成8年からは、「千枚田を舞台に都市住民との交流を図り、一緒になって千枚田を守っていこうという趣旨のもと、千枚田の一部(棚田全体7.2haのうちの1.6ha)を利用して「棚田オーナー制度」を始めた。毎年100組を超えるオーナー申し込みがあるという。

  展望処に立って丸山千枚田を見渡す。稲穂が黄金色に色づき始めていた。3週間後の9月中旬ころから稲刈りが始まるようだ。

 大岩とよばれる大きな岩のそばに数体の案山子(かかし)が立っていた。時刻は5時になっていた。展望処に「京都ナンバー」の車が駐車していたので、その車に乗り込もうとしている夫婦らしい人に「これから京都に帰られるんですか?私も京都なんですが、今日 日帰りの予定で来たんですが、ここまで来るのにものすごい時間がかかってしまい、これから帰るのは深夜になってしまい もと来た道を帰るのは大変だなあ どの道がいいんだろうと心配になっているんですが‥‥」と話しかけてみた。

 そうすると京都ナンバーの人は、「ああ、京都から24号線と169号線でひたすら南下してきたんですか。そこを真夜中に戻るのは、そりゃあ大変ですわ。真っ暗闇のカーブ連続で危険でっせ。私らは京都の長岡京市ですが、これから帰ります。高速の紀勢道路と伊勢道路、そして新名神道路、迷信道路を利用したら4時間で長岡京に着きますわ。これが一番近いでっせ。高速代金で5000円ほどかかりますけど。ここから一番近い尾鷲南ICから乗ったらいいんですわ。そうしなはれ。」とのアドバイスをしてくれて、車に乗り込み発車していった。

 延々と広がる棚田を見ながら、「これからどうしよう?」と不安は募る。まあ、もと来た道を戻るのも、他の十津川村を通る168号線を通るのも危険すぎてやめた方が良いということはわかってきた。睡魔を振り払い途中休憩しながら事故なく京都に戻れたとしても、自宅に着けるのは翌朝の2時をまわるだろう。「高速道路で帰るべきか?!それとも宿を探してこの近くで一泊するか?!」

 高速料金が5000円かかるとの話だったので、「それなら宿をとって泊まったほうが良いかも」と思い始めた。この状況を妻に「宿を探して泊まるかも」と電話する。私の車にナビはついていないので、紙の地図が頼り。暗くなったら地図も見えなくなる。ここから高速道路の尾鷲南ICまで行くのも道に迷って難しいかも。携帯電話も3Gのガラ系携帯電話でスマホではないので、宿をインターネットで検索して探すこともできない。どうしよう?! もう宿を直接探すしかないと思った。

 そんな不安を抱えながら、棚田を見て廻った。

 棚田群の下の方に車で移動する。大岩のあたりで車を停めてしばし棚田を見る。

 棚田群の最も低い場所に移動し棚田を見あげる。すごいなあと感嘆する。

 観光案内の地図やデジカメで撮った紀和町の看板に載っていた数軒の宿。このうち最も近い北山川沿いの「瀞流荘」という宿を探して行ってみることにした。もし宿がとれなかったら、車の中で寝るかと思ってもきた。時刻は5時半になっていた。まだ明るい。少し道に迷いながら午後6時ころに「瀞流荘」に到着。新しくきれいで大きな温泉旅館ホテルだった。露天風呂もあるらしい。平日だがたくさんの車がホテルの駐車場に以外にも停まっている。宿泊客だけでなく、温泉利用だけの人の車も多いようだ。

 フロントで「一人ですが今晩宿泊できますか?」と聞いてみる。「少々お待ちください」との返事。「大丈夫です。ちょっと時間が遅いのでご夕食の提供はできませんが、朝食はご用意できます」とのこと。「料金は?」と聞くと、「朝食付きの場合は1万300円になります」とのこと。宿がとれたので安心感が広がった。妻に宿が取れたことを連絡する。

 旅館ホテルの温泉に入る。暑い一日だったが、夕方の露天風呂は川風が吹いて気持ちがよかった。露天風呂から熊野川と合流する北山川の瀞峡(どろきょう)の白い小石の川原が見渡せた。ホテル食堂で1000円のカツ丼を注文し夕食。午後9時すぎには眠りについた。一日が終わった。翌日は朝食前の早朝からもう一度、赤木城と丸山千枚田に行くことにした。山間の霧に包まれた城跡や棚田を見ることができるかもしれない。

 

 

 

 


紀伊山地・熊野を巡る❶―赤木城跡①中世城郭と近世城郭が融合、風情ある石垣は一見の価値あり

2020-08-23 12:26:07 | 滞在記

 とにかく道は危険で険しく遠かった。京都市近辺の自宅から、ここ、三重県熊野市紀和町までの道のりが‥。いままでに、奈良県の上北山村にある大台ヶ原や十津川村にある谷瀬の吊り橋や十津川村役場までは日帰りで行ったことがあったので、紀和町までそう遠くはないだろうと、思い立って思って出かけたのだが‥‥。午前9時に京都の自宅を車で出て夕方・夜の8時頃には日帰りで帰る予定を妻に告げて家を出た。

 目的地は三重県熊野市紀和町の山間地にある「国史跡・赤木城」と「丸山千枚田」の棚田の2箇所。いつかは行ってみたいとここ数年間思っていたところだった。往復の往路は、京都市付近から南下し京田辺市へ、ここから京奈和自動車道路で奈良市に入る。国道24号線と国道169号線をひたすら南下し奈良県の吉野に。

 ここから吉野川の渓谷沿いのカーブ連続道の国道169号線を東吉野村、川上村と通過し大台ケ原のある上北山村へ。ここでもうすでに午後1時。ここからがまた、とても遠かった。太平洋にそそぐ大河・熊野川の支流の一つ・北山川の渓谷沿いにのカーブやトンネルが連続する道を通って下北山村へ。奈良県と三重県の県境の峠を越えて、そしてさらに北山村へ。さらにその先に目指す三重県紀和町はあった。ここに着いたのはもうすでに3時半をまわっていた。ここまで6時間半の行程で走行距離は250kmあまりにもなっていた。

 自宅に帰り、紀伊半島の紀伊山地のことを調べてみたら、「山地」と名前はついているが、これは長野県の中部山岳地帯の北アルプスや中央アルプスの山脈ほどではないが、紀伊山脈と名前をつけるにふさわしい山系だと思った。1000m~1900mの高さの山々が累々(るいるい)と連なる山系だからだ。往路の紀伊山地は、釈迦ケ岳(1800m)、大台ケ原の大日岳(1695m)、八経ケ岳(1915m)など、標高1600m~1900mの山々の渓谷沿いの険しい道を走ったのだから、時間はかかってあたりまえだったのだ。とにかく無事に第一の目的地「国史跡・赤木城跡」に到着した。

 車のナビがないので、ここ紀和町に来て交番派出所に立ち寄り、赤木城跡への道を聞く。そこにあったパンフレットをもらって見たら、「近隣観光マップ―①丸山千枚田②赤木城跡③瀞峡(どろきょう)④熊野古道峠」と書かれてあった。有名な瀞峡もこの町にあることを初めて知った。(※紀伊山地のエリア内には、「果無山脈」「大峰山脈」「台高山脈」「白馬山脈」の4つの山脈もある。)

 国史跡・赤木城は小ぶりな城郭だ。建物はなにも残ってはいない。北郭・南郭・東郭・西郭、そして主郭の4つの曲輪(くるわ)から構成されている城郭だ。なんでこんな山奥の山間地にポツンとこの国史跡の城郭がつくられたのか不思議だった。写真を見ても、とにかく石垣が見事で風情があるのだ。

 赤木城跡を遠望できる県道40号線沿いにある「国史跡・赤木城跡」の看板。見下ろすと北山川の支流の一つ・赤木川の谷間へと続く集落。そこの谷間の小さな丘全体にポツンとある城址が遠望できた。

 県道から急なくねくね坂道を慎重に運転して集落内を通って谷間に下る。谷間にも集落の家々が点在する。田の稲がもうすでに黄色く色づき始めていた。城址跡の丘の麓の駐車場に車を停めて城址に登る。登り口には「赤木城由来」の看板。すぐに「鍛冶屋屋敷跡」の看板も。

 東郭(曲輪)の門跡の石垣がすぐに目の前に現れた。東郭の石垣がなかなかかすばらしい。

 東郭から周りの山々や集落を見下ろす。桜の木々が多く、春はさぞかし美しい光景になるのだろう。西郭に行く。

 主郭に向かうと虎口がある。虎口とは郭への出入り口のこと。城を守るときの要となる場所なので、敵を防ぐための工夫が凝らされている。赤木城では二重の虎口が設けられていた。この主郭の虎口がまた素晴らしい。なんと風情のあることか。

 虎口を通って本郭(本丸曲輪)に入る。「史跡 赤木城跡」の石柱。本郭も桜の木がたくさん。

 本郭から360度、周りを見渡す。周囲は高い山ばかり。谷間には集落や黄色く色づいた水田。

 本郭の周囲の石垣を見て廻る。中世的な城郭の石垣である野面積み(のづらづみ)や算木積み(さんぎづみ)と、近世的な石垣の積み方が混在している。まさに、中世城郭と近世城郭のそれぞれの石垣の積み方が混在・融合している城郭だった。この城の縄張り設計者は藤堂高虎。後に伊賀上野城や愛媛県の今治城など数々の近世城郭の縄張りと設計をして「城づくりの名手」と呼ばれた戦国武将の初期城郭作品が赤木城であった。

 赤木城跡を40分間くらいをかけて ひととおり見終わって、時計を見たら午後4時15分頃になっていた。次の第二の目的地「日本一の棚田」とも言われる「丸山千枚田」に行くことにした。ここから近く、車で15分くらいのところにあるようだ。日帰り予定なのだが時間がもう夕方に近づき始めていた。はたして、外灯も何もないひたすら暗闇の渓谷のカーブとトンネルの危険な連続道を、6時間以上をかけて京都の自宅まで戻れるのだろうか不安になってきていた。どうしよう‥‥。

 

 

 

 

 

 

 


コロナ禍の中のお盆帰省:中国人留学生も一緒に「海・山・里・川」福井県南越前町の私の実家に来る

2020-08-19 08:44:13 | 滞在記

 4月~5月期間の新型コロナウイルス第一次感染拡大を大きく上回る6月中旬頃からの第二次感染拡大による「コロナ禍」。東京での第二次感染の始まりから全国への感染の広がりへと、2カ月間を経過した今も、いつになったら感染拡大が減少傾向になっていくのかさえも分からない日本の状況。当然に「お盆帰省の自粛」が全国的に呼びかけられた。毎年、故郷にお盆帰省をしているという人の8割あまりが帰省を取りやめにしたとのテレビ報道もされていた。

 今年のお盆帰省はどうしようか?妻とも話をした。毎年、お盆の時期には、私の息子夫婦、娘夫婦と子供たちが福井県南越前町河野地区の実家に13日~15日にかけてやってくる。実家には80歳代後半の母が一人暮らしをしている。「お盆帰省」による後期高齢者への感染の懸念報道もされている。母は、妻や娘・息子夫妻や曾孫たちがお盆に来ることを心待ちにもしてはいるが‥。

 実は、母の信仰している宗教の関係で、母は家のお仏壇やお墓のことは長年にわたって携わらない。このため、私は日本に滞在している間は実家に少なくとも1ケ月に1~2度は京都から里帰りをして、お仏壇を開けたりお墓詣りなどに行っている。

 今年のお盆は、コロナ禍の問題があっても私だけでもお盆帰省をしてお仏壇を開け、花を飾りお供え物をし、亡き父や母(実の母・6歳の時に亡くなる)、祖父母や先祖の霊をお盆の家の仏壇に迎え入れなければならない事情があった。14日には檀家寺のお坊さんも念仏をあげに家に来るので迎えなければならない。また、お墓にも花やお供え物をする必要があった。

 8月10日頃までにお盆帰省をどうするかという相談を妻や娘夫妻、息子たちと相談。息子たち夫婦はお盆期間の仕事の休みが今年は取れなくて福井行ができなくなったが、娘夫婦は来ることとなった。それから、勤務している中国の閩江大学の教え子で、現在は立命館大学大学院に留学している沈さんも私の実家に来ることとなった。

 沈さんは、コロナ禍のために今年の春節期間には中国(福建省泉州市)の実家に戻れず、もう1年半 中国に里帰りをしていなかった。立命館大学も4月からはONLINE授業のため大学構内への立ち入りも制限され、1年半あまり勤務していた祇園付近の日本料理店のアルバイトもコロナ禍のためなくなっていた。このため、ずっとアパートにとじこもりがちな生活を半年間あまり過ごすことを余儀なくされていたので、私の実家に来ることを7月下旬頃に誘っていた。

 8月13日の朝9時頃に車で妻と自宅を出て、京都市内の立命館大学近くの沈さんのアパートに向かう。10時頃に沈さんとともに3人で福井に向かう。京都市内から八瀬や大原を通り途中峠や花折峠を越える。いわゆる鯖街道の一つ・国道367号線を北上する。この鯖街道は琵琶湖に流れる安曇川の上流域・中流域に沿った道なので景色はとても良い。お盆帰省を諦めた家族連れの人たちなどの車が安曇川の渓流キャンプ場などに溢れていた。

 朽木を通過し安曇川の下流域に入ると琵琶湖が見えてきた。午後1時頃、奥琵琶湖の高島市マキノ町にあるマキノ高原に到着。メタセコイヤ並木近くのレストランで昼食をとった。それから奥琵琶湖の湖岸沿いの海津大崎を経て大浦集落へ。途中、湖岸の岸辺に下りて、竹生島が望め、静かに佇む奥琵琶湖の絶景を沈さんにも観てもらった。

 午後3時頃福井県の敦賀市に到着。日本三大松原の一つ「気比の松原」に案内する。福井県越前市(旧・武生市)で夕食の買い物などをして、南越前町の実家に午後5時頃に到着。娘夫妻家族が一足先に家に着いていた。200軒ほどある南越前町河野村糠地区の集落。例年のお盆時期には里帰りの県外ナンバー車の駐車が集落の路上に多くみられるが、今年はあまり見かけられなかった。

 実家に着いて、さっそくお仏壇を開けて、花を飾ったりお供え物をしたりして先祖の霊を迎える準備をした。いつもの帰省の時は母と私だけの家も、1年に1度、このお盆期間の2〜3日だけは賑やかな食卓となる。来年は東京オリンピックのライブ中継を観ながらお盆が迎えられればいいのだが‥‥。沈さんにとっては、初めての日本人の田舎の実家に泊まる体験となった。私の小さな孫たちも沈さんに1時間ほどで慣れて膝に乗っていた。

 翌朝の14日早朝、檀家寺の背後にある墓地群に行き、花を生けお供えをし線香を灯す。この墓からは少し海が見える。9時頃から、娘の家族と沈さんの6人で村の海水浴場(長島海水浴場)に出かけた。娘婿と一緒に海に潜り冲の岩礁でサザエを探す。

 去年は海が怖かった孫娘の栞(しおり・3歳半)も、今年は海が怖くないらしく、水着で海を楽しんでいた。1歳半になる遙(はるか)は海がまったく怖くないようで波のリズムが面白いようだった。コロナ禍のため、海水浴場は例年よりも、ぐっと人が少なかった。

 海水浴から家に戻りシャワーを浴びて、11時半ころから友人(中学の同級生)の経営する「渓流荘」に向かい20分ほどで到着。まあ、ポツンと一軒家という感じの友人の家。河野川の上流の渓流にイワナやヤマメなどを放流していて渓流釣りをすることができる。毎年、お盆の時期はみんなで14日に行っている。釣った魚はその場で焼いて食べることができる。

 孫たちは冷たい渓流に入り水遊び。沈さんもヤマメの赤ちゃんを2匹釣り上げていたが、小さいので川に逃がしてあげていた。 

 例年は渓流荘の建物の中で囲炉裏(いろり)を囲んで、猟師でもある友人が獲った鹿や猪や熊の肉なども焼いて食べるのだが、今年はコロナ禍のため、渓流荘でも建物内での料理営業は中止していた。このため、今年は外の渓流沿いに3箇所ばかりあるバーベキュー用施設のあるテントで食べることとなった。

 午後2時頃に、渓流荘を後にして、娘たち家族は娘婿の実家のある滋賀県永源寺町へ向かった。そして、沈さんを越前市の武生駅に送って行った。沈さんはJRに乗って京都に戻って行った。武生の友人の父がつい最近に亡くなった。葬式に行けなかったのでこの日、友人の家に行き線香をあげた。

 海(河野地区)・山(今庄地区)・里(南条地区)と川(日野川と河野川)の南越前町。コロナ禍の中での、ひと時の、今年の短いお盆が終わった。

 14日の夕方4時すぎに、実家に戻ると疲れのためか眠くなる。1年ぶりに海で素潜り潜水を1時間ばかりしたためか、体が相当に疲れていたようだ。翌朝15日の早朝、ぐっすりと眠ったためが疲れもとれていた。朝食前に車で2時間あまり、近辺の海岸道路を走る。越前海岸は白山火山帯にあるためか、天然の温泉もいくつかある。景勝地の海を臨める露天風呂も。芙蓉の花が咲いていた。越前町の漁港に立ち寄る。今の季節はブリ漁や夜のイカ釣り漁(漁火・いさりびがたくさん灯る)、冬はカニ漁(越前ガニ)をする船が港に係留されていた。

 15日の午前10時頃に実家を出て京都に向かう。帰路は、琵琶湖の東岸を通り、妻の希望で滋賀県米原市の醒ヶ井(さめがい)に立ち寄る。醒ヶ井は旧・中山道のかっての宿場町。この日、醒ヶ井はたくさんの観光客でいっぱいだった。霊仙山山麓からの地下水が湧き出る醒ヶ井の町中を流れる地蔵川の水の流れはとても冷たく(年間を通じて14℃)、水中に咲く梅花藻(バイガモ)[キンポウゲ科の沈水植物]の小さな白い花の群生がとても美しかった。

 15日の夜、沈さんから私のスマホ(中国で主に使っているファーウェー社製のスマホ携帯電話)の微信アプリに「ドライブしながら寺坂先生の実家にお邪魔しました」というテーマの記事が送信されてきていた。写真も20枚あまりついていた。この記事は日本に留学していたり働いていたりしている中国人や、中国の大学の後輩たちなどの配信グループ仲間などに同時配信されている。あっという間に、日本や中国の多くの人に私の実家行のことが広まったこととなった。

 17日(月)午後、中国・閩江大学での前期(今年の9月~)に担当する講義の一つ「日本近現代文学名編選読」のONLINE での講義準備を手伝ってもらうのために、沈さんに京都の私の自宅に来てもらった。車で午後1時ころに沈さんのアパートに行き、2時頃に沈さんとともに自宅に戻った。自宅からほど近い京都市伏見区淀地区の道路にある気温標示を見ると41℃となっていた。この日は京都地方も今までに経験したことのない猛烈な暑さの一日だった。

 5月上旬から10月下旬までの半年間は夏の気候の私が暮らす亜熱帯気候・中国福建省の福州市。7月8月には40℃を超えることは珍しくもないが、京都の40℃の夏よりも猛烈に湿気が多いので外に出たら5分くらいで汗がでてくる。この気候を中国語では悶絶する暑さという意味で地元では「悶熱(モンロー)」と言う。10分くらいで顔に汗が流れ始める。それに比べるとまだ、京都の40℃は湿気が少ない分だけまだ過ごしやすいと感じてしまう。

 コロナ禍でとても大変な今年の夏のお盆時期、家族たちとの貴重な2日間を過ごすことができたことに、感謝したい。

 

 

 

 

 

 

 

 


香港:周庭氏・黎智英氏ら10名を香港国安法違反で逮捕―近代法の「不遡及の原則」もかなぐり捨て?

2020-08-16 12:32:12 | 滞在記

  香港警察は8月10日、著名な民主活動家の周庭氏や民主派の香港紙「リンゴ日報」の創業者・黎智英氏ら10名を「香港国家安全維持法(国安法)」違反容疑で逮捕した。黎氏は中国国営メディアが「香港を混乱させる反中分子の頭目」と名指しで批判してきた人物だ。

 翌日の朝日新聞には、「民主活動家・周庭氏逮捕か 国安法違反容疑 香港紙創業者」「国安法 民主派"本丸"へ照準 中国批判の香港紙創業者逮捕 メディア萎縮 自宅付近に数人の不審な男たちが 周氏SNSで訴え」などの見出し記事が。

 「周庭氏、黎智英氏ら10人、外国勢などと結託し 国家の安全に危害を加えた」「香港国安法に違反した疑い」「周庭氏のフェイスブック―自宅周辺に見知らぬ男たちがいたことや警察が家宅捜索に入った」「香港紙"りんご日報"の創業者で 民主派の重鎮・黎智英氏ら9人も逮捕」との日本のテレビ報道。

 英国に7月上旬から亡命中で、中国政府から指名手配を受けている羅冠聡氏は自身のフェイスブックに「(周庭氏について)国家安全法に基づいて逮捕された。情報を集めているところだ。最悪の日だ。彼女は無罪だが、無期懲役を受ける可能性もある。アグネス(周庭)は一緒に闘ってきた仲間の一人です。独裁政府である中国共産党(CCP)は国安法違反の"国家分裂"の容疑で23歳の女性を逮捕した。」と日本語でもツイートしていた。

 逮捕された黎氏は19年7月に米国でペンス副大統領、ポンペオ国務長官らと面会し、香港民主派への支援を要請していた。ただし香港国安法は2020年7月1日前の言動を摘発対象としておらず、黎氏や周氏の容疑内容は不明だ。リンゴ日報は1995年に創刊。中国共産党に批判的な論調で知られ、事実上香港の民主派を支援する最大の香港紙として知られている。黎氏や周氏の他の8人については、リンゴ日報は「黎氏の息子や同社幹部たちだ」と報じている。

 黎智英氏は、アパレル小売り業界の「ジョルダーノ」の創業者でもあり、ユニクロの柳井社長にも大きな影響を与えた人物としても知られている。

 今回の10人の逮捕について、津田塾大学の萱野稔人教授は、「今回の逮捕で深刻なのは、今回逮捕された周庭さんは、国家安全法が施行されたその日の前日までには周さんが所属した民主派の団体は解散され、周さんも脱会しています。つまり法が存在しなかった過去に遡(さかのぼ)って国家安全法が適用された恐れがあります。」

 「それがどのくらい深刻なのかといえば、"不遡及の原則"と言いますが、これは近代法の根本的な原則です。過去に遡って法を適用してはならない、という原則です。これがもし許されてしまうと、もはや法による統治というものは崩れてしまって、権力による恣意的な統治が行われることになってしまいます。どんな過去にも法律を適用できることになってしまう。今回明らかになったのは、近代法の原則をかなぐり捨てた統治が今後香港でなされる可能性が高まったということだと思います」とコメントしていた。

 11日の朝日新聞「民主派逮捕 中国強硬 活動停止後でも 香港衝撃」、夕刊フジ「中国狂気 香港"民主の女神"逮捕 計10人」との見出し記事。

 10日の周氏や黎氏らの逮捕を受けて、米国国務長官のポンペオ氏は「中国共産党が香港の自由を骨抜きにし、人権を侵害していることがあらためて証明された」とツィツターに投稿した。日本の管官房長官は「重大な懸念を有している」と表明。これに対し、中国外交部の趙立堅報道官はこの日本の対応について「日本は現実を見て立場を正し、中国内政にいかなる干渉もやめるよう促す」と、日本を名指しで批判した。

 日本は「重大な懸念」を表明するにとどまっているが、中国に過度に配慮する「弱腰外交」ではないかとの批判もある。香港で国安法に違反したとして逮捕された事件を受け、日本の超党派の議員連盟「対中政策に関する国会議員連盟」(自民党の中谷元氏や国民民主党の山尾志桜里氏ら)は、首相官邸を訪れ、日本政府が中国・香港政府と捜査共助条約を結んでいることから、国安法に関わる事案で中国や香港政府からの証拠の確保・引き渡しを要求された場合には応じないことを表明すべきとの要望書を提出した。また、「我々は強く、中国共産党政権、また香港政府に対して抗議をし、我々からも強くメッセージを発したい」(中谷代表)と表明した。

 11日~12日の中国のインターネット記事での周氏や黎氏の逮捕や保釈についての記事を閲覧する。「乱港分子 周庭獲準保釈 旅遊証件 被没収」などの見出しなど、けっこう このニュースは多く扱われていた。

 周氏や黎氏らに対し、「漢奸」「売国奴」「乱港分子」などの言葉が使われている。「この日がついに来たか!😊😊😊😊👆👆👆👆!!!」「漢奸走狗売国賊永遠没有」などの表現のコメントが多く掲載されている。

 逮捕翌日の11日、「リンゴ日報」を-各所で多くの香港市民が買い求め、早朝には売り切れた。

 11日のリンゴ日報の一面には、「頻果一定撐落去」(リンゴ絶対に落ちないで、絶対に頑張り続ける)」と書かれた記事が掲載されていた。また、10日にはリンゴ日報の社屋には200人余りの警察が捜索に踏み込んだことも書かれていた。同社の株は黎氏らが逮捕されたことを受け、株価は一時300%以上に上昇急騰した。民主活動家らが投資家に対し、同社を支援するために株の購入を呼びかけた結果だった。また、リンゴ日報の購入も支援につながるとしている。

 12日、有志団体(香港を支援するために結成された団体)ら50名以上が日本の国会議事堂前に集まり、日本政府に対し、人権侵害などを受けた香港人への特別在留許可の付与など6つの項目を求めた。現場には在日の香港人も訪れ「国安法は国際社会の脅威だと日本の皆さんに訴えたい。香港の友達は今動きにくいので、日本にいて発言の自由がある自分が来た。(集会に参加したことで)香港に帰った時に逮捕されねのはある程度覚悟している」と語っていたと報じられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


香港行政長官・林鄭月娥「恥知らずで卑劣だ」と米制裁を批判―いったいどっちの話?ブーメランの世界?―

2020-08-13 07:29:26 | 滞在記

 香港国家安全維持法の施行から1か月あまりの7月下旬から8月上旬の香港や中国と世界。香港で起こっていることは、ずっと注目し続けることがこの世界にとっても大切だが、最近の朝・昼の日本のワイドショー報道番組でもほとんど少なくなってきているが‥。

 7月29日の朝日新聞に「香港大学副教授解雇」の見出し記事。香港で2014年に行われた大規模な民主化デモ「雨傘運動」の主導者の一人で、その後も一貫して民主化運動に携わってきた香港大学法学部副教授(准教授)の戴耀廷氏(56)。28日に、同大から解雇された。戴氏は解雇を受け、大学側が中国政府からの政治的圧力に屈したものだと非難。フェイスブックに「香港での学問の自由は終わった」と書き込んだ。香港にあ中国政府の出先機関は、戴氏の解雇について「悪を罰し、美徳をたたえるものだ」と歓迎の表明をした。

 「香港民主派 窮地に―国安法1か月 12人の出馬禁止、黄之鋒氏ら民主派12候補の香港立法会選挙への立候補認めず」の朝日新聞の見出し記事が7月下旬に。また、7月29日、「学生動源」の元代表・鍾輸林氏(19)ら男女4人を「国安法」違反の罪で逮捕した。デモ以外での国安法違反の逮捕は初めてのことだった。

 7月31日、中国国営テレビの中央電視台(CCTV)は、香港国家安全維持法(国安法)に違反したとして、香港当局が民主化活動家6人(「国安法」施行の7月1日の直後にイギリスに亡命した著名な民主活動家の羅冠聡氏や、中国で拷問を受けたとして英国への亡命が認められた在香港英国領事館の元職員、サイモン・チェン氏など)の逮捕状をとったと報じた。8月1日の朝日新聞には「海外の民主活動家 香港警察指名手配 米国籍含む6人」との見出し記事が掲載された。

   CCTVの報道によると、国安法が犯罪行為と定める4種類のうち、「外国勢力との結託」に該当するとしている。6人のうちの一人で、米国で民主派団体・香港民主委員会を運営する米国市民(30年前に渡米し米国市民権を獲得)の朱牧民氏は、「国安法」違反容疑で自身が指名手配されていることを米国国内で31日に知った。朱氏は「中国国籍でない私が標的にされるのは私が初めてかもしれないが、これが最後になることはないだろう。私が標的にされるなら、香港のために声をあげるいかなる米国人も、日本・台湾・イギリスなどのいかなる国籍の人も、同じ目に遭う可能性があり、実際そうなるだろう」と述べていた。

 朱氏など6人への「国安法」適用について、米国国務長官ポンペオ氏は「中国による不当な措置だと非難、中国の独裁から市民を守り続ける」との声明を出した。

 8月に入り香港行政長官の林鄭月娥氏は、9月に予定されていた香港立法会選挙を1年間延期すると発表、昨日の8月12日には中国全人代の委員会で了承された。7月に行われた「民主派の予備選挙」に61万人もの香港市民が参加したことへの警戒など、1年間の期間を経る中で民主派への香港市民支持の勢いを削ぎ支持を抑える目的があるようだと日本のテレビでは報道されていた。このことについて、朝日新聞には「選挙1年延期 背景に中国の意向―香港政局 立法会選挙で民主派12人の立候補取り消し、感染拡大理由に選挙1年間延期」の見出し記事が掲載されていた。

 昨年6月に香港政府の「逃亡犯条例」改正案に反対し、警察本部包囲デモに参加したとして、無許可集会参加などの罪に問われた民主活動家・周庭氏の公判が8月5日、香港の裁判所で開かれ、有罪が言い渡された。量刑は12月1日以降に言い渡されることとなった。周氏は裁判終了後、「(量刑で)収監されるかことについてどうなるかはわからない。香港国家安全維持法による恐怖感はとんでもなくあるがこれに負けず、自分の信じている信念に基づき香港の自由と民主主義のために闘っていく」と語った。

 8月6日、香港警察は、今年6月の天🔴門事件追悼集会に参加した民主活動家の黄之鋒氏や胡志偉氏ら少なくとも24人に対し、不許可の集会に参加した罪で起訴すると通知した。今年の追悼集会は防疫を理由に初めて禁止されたが、数千人が参加した。

 これらの中国と香港政府の一連の動きに対し、8月7日、米国政府は「香港の自治を侵害し、表現の自由を制限した」として、香港の林鄭月娥行政長官や香港の中国出先機関のトップら11人を制裁対象に指定した。制裁内容は在米資産が凍結され、米国人との取り引きが禁止される。また今後の追加制裁も辞さないと表明した。

 これに対して林鄭月娥氏は「恥知らずで卑劣だ」と8月8日に非難の声明を出した。「恥知らず?」「卑劣?」。よくもぬけぬけと🔴🔴🔴ものだと思う。こりゃ「ブーメラン返🔴」がくる非難声明かとも思う。林鄭月娥氏も1年前にはまだ恥や民主の感覚が残っているのを感じたが、この1年間でとことんまで中国政府に民主への恥感覚の残滓をしゃぶられたのかな‥‥‥?。

 8月10日、中国の趙立堅報道官は「米国の上院議員らを含む11人に、香港問題でひどい振る舞いをした」として、米国が11人に科したことと同じ内容の制裁を科すと発表した。

  香港情勢の深刻さを受けて、8月8日ころ、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」で、「マル激トーク・デマインド第1009回 世界は香港を見殺しにするのか」が放送されていた。出演者は、福島香織(ジャーナリスト)、神保哲生(ビデオニュース・ドットコム代表、ジャーナリスト)、宮台真司(首都大学東京教授)。

 討論用のパネルには「①香港国家安全維持法の概要図示、②なぜ今 国安法なのか―1・香港デモの決着 2・新型コロナの責任回避 3・米中貿易交渉の挫折」が使われていた。