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彦四郎の中国生活

中国滞在記

映画「ラーゲリより愛を込めて」➊—実話にもとづいた、60万人ものシベリア抑留者たちの物語に心震える

2023-01-28 16:40:41 | 滞在記

 第二次世界大戦末期の1945年4月、ソ連側は「日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)」[1941年4月に締結]を延長しないことを日本側に通告した。そして第二次世界大戦の終戦(1945年8月15日)1週間前の8月8日、突如、ソ連軍は日本が占領していた満州国に大軍(陸・空軍)をもってなだれ込んだ。この「日ソ中立条約」は、もし、一方が延長をしないことを通告しても、それから1年間はこの条約は有効性を持っていたので、条約の有効性が切れるのは1946年4月だった。だから、日本側としては、まさか1945年8月8日にソ連軍が満州国に侵攻するとは想定していなかった。

 このソ連軍の満州国侵攻により、武装解除をされ、捕虜となった日本軍及びその他の日本人一般人など約60万人がソ連邦(ロシア)のシベリアなどの地域に送られ、過酷な労働を伴う収容所(ラーゲリ)生活を送らされた。いわゆるシベリア抑留である。日本人捕虜たちに対してこのような収容所生活を送るように命じたのは、当時のソビエト連邦(ソ連)の最高権力者のスターリン書記長(ソ連共産党)だった。

■このような捕虜の扱いは、国際法上でもポツダム宣言内容上でも、国際的な人権侵害であった。約60万人超のシベリア抑留者は、早い人では2〜3年間で日本に帰国することができたが、最も遅い帰国者たちは1956年帰国だった。実に11年間もの収容所での抑留生活を強いられた。映画「ラーゲリより愛を込めて」で描かれる山本幡男氏らの仲間の多くは、この11年間の抑留者たちだった。シベリア抑留者で、祖国・日本に帰還することなく、死亡したした人は約7万人(10人に1人)にのぼった。

 実は、私の父(62歳で死去)も20歳余りの年齢でソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験した一人だった。そのような父親のシベリア抑留体験のこともあり、父親の死後のことではあったが、2008年に極東ロシアのウラジオストックやハバロフスクなどのシベリア地方を訪れたことがあった。2022年12月9日から、映画「ラーゲリより愛を込めて」の全国公開が始まったが、この映画は見ておくべき映画だと思い、2023年1月12日(木)に京都市内の映画館でこの映画を観ることとなった。

 二宮和也・北川景子主演の映画「ラーゲリより愛を込めて」をそれほど期待して映画館に足を運んだわけではなかったのだが、130分余りの映画を観て、実話に基づいた、60万人ものシベリア抑留者たちの物語に、心が震えた。近年の日本映画の中でも秀逸な映画だったと思った。この映画は、私のような高齢者よりも、若い人たちの観客が圧倒的に多かったのも印象にのこった。昨年の12月9日に公開されたこの映画は、ロングラン興行が続いていて、現在(1月28日)でも、上映が続けられている。

 現在でも、この映画のポスターが貼られ、その横に『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫版)が置かれている書店もある。第二次世界大戦後、60万人を超える日本人が不当に捕虜となったシベリア抑留。ノンフィクション小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1989年文藝春秋社刊/辺見じゅん著)は、過酷な労働と厳しい自然環境の中で、仲間たちを励まし続けた実在の日本人捕虜・山本幡男(はたお)[享年45歳]の遺書を通じて、彼の壮絶な半生と仲間たちを描いた物語だ。

 戦争によってもたらされた無情な仕打ちによって、終戦になっても収容所で重労働に喘ぎ、郷愁の念に苦しむ人々の実態(実話)が描かれている。先の見えない日々であってもなお、帰国の望みを捨てずに皆を励まし続けた山本幡男。規律厳しく不自由な(例えば、文章を書くことは禁止されている。もし、発覚すると禁固20年などの刑罰などが科せられる。)収容所の中で彼が書き綴り、仲間たちがそれを暗記し、日本の山本幡男の家族に決死の覚悟で届れた遺書を巡る『収容所から来た遺書』の実話に基づいた原作小説を、映画化したものがこの映画「ラーゲリより愛を込めて」であった。映画を観終わった後に、書店でこの原作を購入して読んだ。原作は映画に負けず劣らずというか、読み終わるのが惜しいくらい、よかった。

 インターネット記事に、「感涙率97.1%」と題されて、若い女性たちのこの映画の感想が寄せられていた。「今まで観た映画の中で一番泣きました」「苦しい中でも 身近なところに 幸せってあるんだなあと気づかされました」「生きているからこそ 明日があって幸せな希望とか未来がある」「もっと今を大切に生きたいと思いました」などの感想‥。

 私も「この映画を観てよかった!」と思いながら、何度となく涙が流れた。実話を映画化した物語に心が震えてしまったのだった。 

 この映画に出演している安田顕さんは、「(山本幡男さんという)こういう方がいたことで、実際に希望という形で救われた人達がたくさんいたんですね。同じ日本人としても知ってほしい人です」とコメントしていた。また、北川景子さんは、「自分が関わっている作品(映画・ドラマ)で、こんなに胸を打たれたのは初めてです」とコメントしていた。

 原作著者の辺見じゅんさんは、この山本幡男という人に語ってもいるが、それは次号で紹介もしたい。

 全国の書店には、『収容所から来た遺書』(文春文庫/辺見じゅん著)の他に、映画の封切り前に出版された映画・ノベライズ版の『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫/辺見じゅん・映画脚本:林民夫)が置かれている。

 映画の他の出演者は、桐谷健太、松坂桃李、中島健人など。

 映画のパンフレットには、山本幡男の遺書全文も掲載されている。この遺書、現代の日本に生きる私たちに向けた遺書にも思えた。(次号で一部紹介したい。)

 

 

 

 

 

 

 


山峡の斜面を登り、信長の隠れ岩(1570年4月)に入り、信長を近く感じる―朽木荘(宿)の町並み

2023-01-26 08:08:24 | 滞在記

 大寒の日の1月20日(金)、福井県南越前町から京都への帰路、滋賀県の朽木谷(鯖街道)を通った。1570年4月の「信長の朽木越え」の道だ。京都洛中などから琵琶湖西岸の湖西路を通過し、5万余りの大軍を率いて朝倉氏の越前国敦賀に侵攻した織田信長は、交通・軍事の要衝にある朝倉氏の疋壇城を落城させ、さらに敦賀の金ケ崎城や手筒山城を落城させた。そして、木ノ芽(南越前町)を越えて朝倉氏の本拠地である一乗谷に迫ろうとしていた。だが、信長の同盟国だった、北近江(滋賀県)の浅井氏の離反を招くこととなり、織田軍は朝倉氏と浅井氏に挟撃される事態となった。(信長軍は敦賀から木ノ芽峠を経て今庄宿[南越前町]にさしかかろうとしていた。)

 その危機的事態に、信長は京都に向けていち早く、30〜40人ほどの部下とともに、木ノ芽峠や敦賀、そして北近江(湖北)からの脱出を図る。その脱出路(撤退・敗退路)は、敦賀➡国吉城(越前と若狭の国境の城)➡熊川城(若狭の鯖街道沿い)➡水坂峠(若狭と近江の国境の峠)➡朽木谷(鯖街道)、そして京都の大原から京都(洛中)を目指すというルートだった。だが、朽木荘(谷)の領主である朽木氏の動向(信長に敵対する可能性も大きい)がわからなかった。(朽木氏は足利将軍家とは深いつながりがあり、当時の15代将軍であった足利義昭と織田信長は対立関係にあったため、信長たちを襲う可能性も大きかった。また、朽木氏はこの当時、希薄ながらも一応、浅井氏の勢力下に服していた。だが、支配者側の浅井氏に対しては複雑な思いも持っていた。)

 朽木谷を進み、朽木城(居館)の手前2kmほどまで来た信長たちは、配下の武将である松永弾正と森可成を朽木城に先行させ、当時の朽木氏の当主である朽木元綱に対して、朽木谷の通過を要請した。朽木元綱は、斥候(せっこう)をすでに放ち、5万余りの信長軍のほとんどが無傷であり、羽柴秀吉・徳川家康・明智光秀らの軍を殿(しんがり)として、1日~2日余りの遅れでこの朽木谷に向かって撤退していることを知り、先行する信長たち30〜40人を朽木城館近くの寺に迎え入れ、接待をして、朽木谷の通過を認めることとなった。

 その朽木氏の動向が分かるまで、信長たち30〜40人が潜んでいた場所と言われるのが、「信長の隠れ岩」というところだった。今回、初めてその場所に行ってみた。

 朽木城館のある朽木宿の2kmほど手前の鯖街道(国道367号線)の渓谷の山の斜面にその大岩と小さな洞穴があった。道路沿いに「信長の隠れ岩」の看板があった。そこから急な山の斜面をひたすら登って行くと巨岩が見えてきた。道路から登り始めて10分くらいでその場所に着いた。

 巨岩がいくつも重なりあう山の斜面に小さな洞穴。人が5〜6人くらいは入れるだろうか。なぜここに信長たちは身を潜めたのかが、この場所に来てみて分かった。もし、朽木氏の敵対が判明し、信長たちを討ち取るために軍勢をさし向けてきた場合、渓谷からの急斜面のために攻めにくく、背後には巨岩があるため、30〜40人でも信長を守っての防衛がしやすいところなのだ。半日か1日くらい持ちこたえれば、後続の織田の軍勢がここに到着できるかもしれなかった。

 「信長の隠れ岩」の洞穴に入ってみる。日本の歴史上の英雄である織田信長という人もこの狭い洞穴にいたのかと思うと、信長という人の汗のにおいなどもイメージし、信長という人物を近く感じてしまう場所でもあった。

 「信長の隠れ岩」から2kmほどの朽木宿に入る。朽木氏は、鎌倉幕府創設期の源頼朝の配下にあった近江源氏佐々木氏の流れをくむ一族だった。鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇との間に起きた承久の乱(1221年)での戦功が認められ、ここ朽木荘に地頭職として鎌倉幕府より所領を得ることとなり、朽木氏と称することとなる。1600年の関ヶ原合戦では、朽木元綱は西軍に属したが、合戦の終盤で東軍に寝返った。戦後、徳川幕府より、2万石から9595国に厳封されたが、朽木荘の所領を安堵(あんど)された。その後、近江朽木藩として1868年の明治維新まで存続した。実に650年余りにもわたり、ここ朽木荘の領主でもあったのが朽木一族だ。

 近江朽木藩の城下町だった朽木宿。その面影は今も残る。江戸時代、ここには馬借や商家や問屋などが17軒あったとされる。旅籠(はたご)なども数軒はあったのだろう。大正・昭和期の建物だろうか、「丸八百貨店」の文字が残る洋風の小さな建物もあった。朽木宿を流れる水路も見られる。

 かっては朽木一族の居城である朽木城館、その背後の山にある詰めの城である西山城址(山城)、京都から避難した足利幕府11代将軍足利義澄・12代将軍義晴・13代将軍義輝らを住まわせ庇護(ひご)した足利庭園の残る「興聖寺」などもある朽木の町並み。琵琶湖に流れる安曇川の上流域にあり、堤防には長大な桜並木がある。春はさぞかし美しい景観だろう。

 この信長の朽木越えについては、池上遼一の漫画『信長』にも描かれている。

 

 

 

 


大寒の西近江路と奥琵琶湖—三度もの落城悲話が漂う、越前国の入り口にある疋壇城址

2023-01-24 09:45:37 | 滞在記

 2023年の二十四節気では、1月6日「小寒」、1月20日「大寒」、2月4日「立春」となる。滋賀県と福井県の県境となる琵琶湖の湖北地方は、豪雪地帯の一つとなっている。史上ギネスブックでは、世界で最も積雪が多かった記録は1927年の11m50cm。積雪場所は滋賀県湖北地方の伊吹山(1377m)。

 琵琶湖西岸の湖北地方のマキノ町にあるメタセコイア並木。1月19日(木)の午後、福井県南越前町への帰省の途中に通過しながら、福井県と滋賀県の県境の冠雪している山々を眺める。このあたりの600m~1000mの山々の尾根は分水嶺となっていて、尾根の北側に降る雨は日本海に流れ、南側に降る雨は琵琶湖を経て太平洋に流れる。

 滋賀・福井の県境の山中峠を越えて、なだらから峠道の麓に下りると福井県敦賀市の疋田の集落となる。この集落は、かっては(古代の奈良時代)、古代三大関所の一つである愛発(あらち)の関所があった所。近江(滋賀)と越前(福井)を結ぶ道は、すべてこの疋田に集まっていた。近江から越前にいたる柳ケ瀬越(刀根坂峠)・塩津越(深坂峠)・海津越(山中峠)などの道が集まる交通・軍事上の要衝の地であった。このため戦国時代初期の1469年~1487年に越前国の朝倉氏によって、この地に築かれた平山城が「疋壇(ひきだ)城」。この要衝の地に築かれた疋壇城址は3度の落城を経た城址だ。一度目は1555年、そして二度目・三度目は1570年と1573年。特に、織田信長による1570年と73年の越前侵攻の際の落城は、落城悲話が色濃く残されている。

 疋壇城は、本丸の標高が100mほどの丘陵地に築かれていて、本丸と天守台、二の丸、そして三の丸からなるそれなりの規模の平山城となっている。戦国時代末期の1560年頃には、本丸の周囲や天守曲輪の周囲は野面積みの石垣が施され、堀が深く掘られ、防備を堅固にしている。

 天守曲輪を取り囲む素朴な石垣など、約450年前の戦国哀歌をとても感じる疋壇城址。帰省の折に、ときどきここを訪ねて時を過ごす。(1573年、織田信長軍により越前国の朝倉氏滅亡さる。) 二の丸跡地には、かってこの地区の小学校(西愛発小学校)があったが、今は廃校となっている。

 1月19日(木)の夕方、故郷・南越前町の冬の海の夕焼けを見る。

 翌日1月20日、大寒の日のこの日、塩津越の道を経由して奥琵琶湖の塩津や大浦の集落に至る。大浦集落にある狛犬と御神体の平べったい大石。社殿はなくてすぐに琵琶湖となる不思議な神社。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)、琵琶湖の伝統漁法「えり漁」の網がたくさん設置されている。この「えり漁」では、鮒(ふな)や鯰(なまず)、小鮎(こあゆ)や小エビなどが獲れる。

 波静かな奥琵琶湖は冬も凛として美しい。

 大寒の頃の洛北、京都・出町柳駅付近の小さな寺の門前には、「友月 交風」の四文字が。美しい冬の月、そして冬の風。蠟梅(ろうばい)の黄色い蕾(つぼみ)がほころび始め、花が開花し始めた大寒の季節。京都・吉田神社の「節分祭」(2月2日~4日)のポスターが近在に貼られていた。立春の季節の節分祭まで、あと1週間ほどとなった。

 今日、1月24日(火)の午後から26日(木)にかけて、今年一番の警報級の大寒波が日本列島を覆うとの天気予報。滋賀県の湖北地方や奥琵琶湖も、疋壇城も、たくさんの積雪となり、一面の銀世界につつまれるのだろう。

 

 

 

 

 


大寒の西近江路と奥琵琶湖—三度もの落城悲話が漂う、越前国の入り口にある疋壇城址

2023-01-24 09:45:11 | 滞在記

 2023年の二十四節気では、1月6日「小寒」、1月20日「大寒」、2月4日「立春」となる。滋賀県と福井県の県境となる琵琶湖の湖北地方は、豪雪地帯の一つとなっている。史上ギネスブックでは、世界で最も積雪が多かった記録は1927年の11m50cm。積雪場所は滋賀県湖北地方の伊吹山(1377m)。

 琵琶湖西岸の湖北地方のマキノ町にあるメタセコイア並木。1月19日(木)の午後、福井県南越前町への帰省の途中に通過しながら、福井県と滋賀県の県境の冠雪している山々を眺める。このあたりの600m~1000mの山々の尾根は分水嶺となっていて、尾根の北側に降る雨は日本海に流れ、南側に降る雨は琵琶湖を経て太平洋に流れる。

 滋賀・福井の県境の山中峠を越えて、なだらから峠道の麓に下りると福井県敦賀市の疋田の集落となる。この集落は、かっては(古代の奈良時代)、古代三大関所の一つである愛発(あらち)の関所があった所。近江(滋賀)と越前(福井)を結ぶ道は、すべてこの疋田に集まっていた。近江から越前にいたる柳ケ瀬越(刀根坂峠)・塩津越(深坂峠)・海津越(山中峠)などの道が集まる交通・軍事上の要衝の地であった。このため戦国時代初期の1469年~1487年に越前国の朝倉氏によって、この地に築かれた平山城が「疋壇(ひきだ)城」。この要衝の地に築かれた疋壇城址は3度の落城を経た城址だ。一度目は1555年、そして二度目・三度目は1570年と1573年。特に、織田信長による1570年と73年の越前侵攻の際の落城は、落城悲話が色濃く残されている。

 疋壇城は、本丸の標高が100mほどの丘陵地に築かれていて、本丸と天守台、二の丸、そして三の丸からなるそれなりの規模の平山城となっている。戦国時代末期の1560年頃には、本丸の周囲や天守曲輪の周囲は野面積みの石垣が施され、堀が深く掘られ、防備を堅固にしている。

 天守曲輪を取り囲む素朴な石垣など、約450年前の戦国哀歌をとても感じる疋壇城址。帰省の折に、ときどきここを訪ねて時を過ごす。(1573年、織田信長軍により越前国の朝倉氏滅亡さる。) 二の丸跡地には、かってこの地区の小学校(西愛発小学校)があったが、今は廃校となっている。

 1月19日(木)の夕方、故郷・南越前町の冬の海の夕焼けを見る。

 翌日1月20日、大寒の日のこの日、塩津越の道を経由して奥琵琶湖の塩津や大浦の集落に至る。大浦集落にある狛犬と御神体の平べったい大石。社殿はなくてすぐに琵琶湖となる不思議な神社。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)、琵琶湖の伝統漁法「えり漁」の網がたくさん設置されている。この「えり漁」では、鮒(ふな)や鯰(なまず)、小鮎(こあゆ)や小エビなどが獲れる。

 波静かな奥琵琶湖は冬も凛として美しい。

 大寒の頃の洛北、京都・出町柳駅付近の小さな寺の門前には、「友月 交風」の四文字が。美しい冬の月、そして冬の風。蠟梅(ろうばい)の黄色い蕾(つぼみ)がほころび始め、花が開花し始めた大寒の季節。京都・吉田神社の「節分祭」(2月2日~4日)のポスターが近在に貼られていた。立春の季節の節分祭まで、あと1週間ほどとなった。

 今日、1月24日(火)の午後から26日(木)にかけて、今年一番の警報級の大寒波が日本列島を覆うとの天気予報。滋賀県の湖北地方や奥琵琶湖も、疋壇城も、たくさんの積雪となり、一面の銀世界につつまれるのだろう。

 

 

 

 

 


中国渡航ビザ発給停止(1.10)—発給再開の日程不明、私は2月下旬に中国渡航予定だったのだが‥

2023-01-21 09:39:45 | 滞在記

 この1月8日から、中国政府は海外からの入国者に対する8日間の隔離措置(隔離ホテル5日間+自宅隔離3日間)を撤廃、3年間もの間続けられた「ゼロコロナ政策」が完全に終焉した。12月上旬からの「ゼロコロナ政策」の大幅な緩和にともない、オミクロン株系統に何億人もが感染という新型コロナの猛爆発が中国で起こり始め、12月下旬には中国政府は感染者数や死者数の発表を停止した。これに対し、WHO(世界保健機構)は、12月30日、「新型コロナ感染者数や死者数、コロナウィルスのゲノム解析などのデーターを定期的に共有するように」、中国側に要請した。

 この感染猛爆発の中国の状況や中国政府のコロナ感染状況の把握と公表の不透明さに対し、欧米の国々の多くや、日本・韓国・インドなどは、中国本土からの入国者に対して、12月30日頃から入国72時間以内のPCR検査での陰性証明などの提示を求めた。また、日本を含め数カ国は、空港でのPCR検査を実施、陽性者には指定ホテルでの5日間余りの隔離措置を求めることとなった。(※中国入国の際は、中国政府は、48時間以内のPCR検査での陰性証明は1月8日以降も求められている。)

 このような欧米や日本・韓国・インドなどの国々の、「中国本土からの入国者への水際対策」に関して、WHOは理解を示す内容を発表した。これらの水際対策に対して中国政府は猛反発の声明を発表した。日本のテレビでは、「入国規制に 中国"対抗措置"も」「相互主義の原則に基づき相応の措置を取る(毛寧報道官)」と12月下旬に報道された。

 2月下旬に中国渡航を予定している私にとっても、「相応の措置」とはどのようなものなのか、おそらく、中国の空港でのPCR検査を実施し、陽性であれば1週間ほどの隔離措置というものかと予想はしていた。1月9日付朝日新聞には、「感染爆発下 中国が水際緩和 各国は警戒強化 成田検査に列」「中国の情報公開に不信感 各国、渡航者の検査厳格化」などの見出し記事。

 ところが、「相互主義の原則に基づく相応の措置」とは、「日本と韓国だけに対する中国渡航ビザ発給停止」だった。この停止措置が1月10日に突然発表されたのだった。1月11日付朝日新聞には、「中国 日本人向けビザ停止 水際対策強化に対抗か 韓国人向けも」の見出し記事。はたしてこの中国政府の措置は、相応の措置と言えるものなのだろうか。それも日本と韓国だけに対しての措置とは‥。なぜ、日本と韓国だけに対して「中国渡航ビザ発給停止」という「倍返し」どころか「数倍返し」という措置を取ったのか‥。

 1月11日のABC系(朝日放送)の「羽鳥慎一モーニングショー」でも、このニュースは特集「中国 日本人へのビザ発給停止 渡航予定者ら困惑」と題して報道された。「中国に差別的入国措置を実施している 中国は断固反対し、対等な措置をとる。科学に基づかない 差別的な入国制限だ」(汪報道官)と声明を発表、「日本人に対するビザの発給(長期ビザも短期ビザも)一時停止、韓国人に対する短期ビザの一時停止」。

 同報道番組にコメンテーターとして出演していた柯隆(かりゅう)氏(東京財団政策研究所主任研究員・静岡大学教授)は、今回のビザ発給一時停止問題について次のように語っていた。

 「日本や韓国に対する嫌がらせ」「〇中国は失敗を認めること(ゼロコロナ政策など)はしない〇ゼロコロナ政策に戻すことはしない」「"対抗措置"中国の反応をなぜ行ったのか―自己中心的な"報復措置"―日本と韓国にだけという"外交弱者"の日本や韓国に対する嫌がらせ」「アメリカやEUは刺激したくない―アメリカを怒らせると ただでさえ今 米中対立が激しくなっている中だから‥」

 このビザ発給一時停止措置は「いつまで続けられるのか?」ということに関して柯氏は、「中国側から"ビザ発給解除"をすることはない。中国政府が過ちを認めることはしない。」として、解除時期としては、「中国の感染が落ち着いて 日本が水際対策を緩和する」時期との見通しを述べていた。

 中国政府はさらに、「日韓に対してさらなる対抗措置—トランジットビザ免除も停止1・11から」を発表した。中国を経由で他国に行く場合、これまで、韓国人は72時間、日本人は144時間、中国にとどまることができたが、これを一時停止するという追加措置だった。1月11日付「夕刊フジ」には、「中国 ビザ停止の過剰反応 日韓に逆ギレ」の見出し記事。1月12日付朝日新聞には、「日本 撤回求める ビザ発給停止 企業懸念」の見出し記事。同日付京都新聞には、「日韓コロナ水際対策 摩擦激化 中国が追加対抗措置—乗り継ぎ時入国ビザ停止"過剰な報復"日韓を狙う」「強硬対策繰り出す 中国"剛毅"体制—日本 見極めへ」などの見出し記事。

 新たな中国政府外交部長(外相)に就任した秦剛氏、「水際対策を強化した日本・韓国を批判。これに対し、「(中国は)新型コロナウイルス対策とは一見関係がないと思われる制限を一方的に行い」と批判。1月12日付朝日新聞には、「不毛な対抗やめ協調を―中国ビザ停止」と題された社説記事。

 先週土曜日1月14日、ABC朝日放送の報道番組「正義のミカタ」でも、この中国による日韓へのビザ発給停止問題が特集で報道された。

 同番組でコメンテーターとして出演していた近藤大介氏は、「日本は中国人のビザ発給を制限していない。中国のやり方は完全に対等性に欠けている」として、「日本や韓国の中国本土からの入国者への対応は、欧米インドなどとほぼ変わらない。習近平主席は日本や韓国を下に見ている。新たに"戦狼外交"をおっぱじめたが、これは逆効果にもなる」とコメントしていた。また、「今の中国は5年に1度訪れる"空白の5カ月間"の真っただ中。3月の新体制(中国政府)発足までは、日韓へのビザ発給停止措置は解除にならないのでは‥」との見通しを語っていた。

 1月3日付朝日新聞には、「中国外交トップに王毅氏―政策総括する党役職に就任(中国外事工作委員会弁公室主任)—外交部長には秦剛氏」の見出し記事。中国の新たな外交ツートップは、トップの王毅氏、NO2が秦剛氏。新たな戦狼外交を繰り広げることとなる二人の名前から、「剛毅(ごうき)」体制とも呼ばれことに‥。

 ―日本と韓国に対して、「中国渡航ビザの一時停止」を行った背景—東アジアにおける日米韓の対中国軍事戦略—

 1月15日付朝日新聞には、「防衛強化 バイデン氏支持—安保政策転換"同盟を現代化"」の見出し記事。同日付京都新聞には、「日米"反撃能力"の協力深化—対中国 戦略競争に勝利」「自衛隊任務"矛(ほこ)"へ拡大」の見出し記事。今年に入り米日首脳会談がアメリカで行われた。対中国政策での軍事面で、敵地攻撃能力をもつことなどへの戦略的転換を日米が確約したこととなった。また、「安保三文書」の策定(日本)など、対中国戦略の強化を、日米、さらに日韓米の三国は急速に進めてきている。

 この日米首脳会談での共同声明発表を受けてに中国政府は、「中国のイメージを中傷し、内政干渉し、中国の発展を抑圧する"茶番"を演じた。日本がアジア・太平洋の安全と安定の破壊者になれば、必ず強烈な反撃にあうだろう」(汪報道官)と批判した。今回の中国渡航ビザの発給一時停止措置の背景には、東アジアにおける日米韓三カ国の対中国軍事戦略の変換と強化がその背景にあるとの指摘がされている。

 1月16日、中国政府は「中国渡航ビザ発給」の一部容認を行い始めていることが明らかになった。短期ビジネスなどの人を対象にした「短期ビザ」発給の容認措置だ。(※「短期ビザ」とは、90日以内の中国滞在ビザのこと。) さすがに、中国政府も短期・長期(1年以内)の両方ものビザ発給一時停止はまずいと考えての容認措置かと思われる。ただし、韓国人に対する「短期ビザ」発給容認には至っていないようだ‥。

 1月21日付朝日新聞には、「コロナ"5類"春から」の見出し記事。日本政府は、新型コロナウイルス感染症を現在の2類相当から5類(インフルエンザなど)に変更する予定だとの見方を発表した。5類相当に変更されれば、現在行っている中国本土からの渡航者への水際対策も撤廃することとなる。このため、この5類への変更措置は、対中国との関係にも考慮しているものとの指摘もされてはいる。「春から」とは、「3月」なのか「4月」なのかは今のところ不明。

■❶中国は、1980年代より、日本・シンガポール・ブルネイの三カ国だけ、15日以内の中国渡航に関するビザを免除していて、現在に至っている。だから、今回の「日韓への中国渡航ビザ一時停止」措置が行われていても、15日以内の中国渡航であれば、日本国籍のパスポートをもつ人ならば、中国に渡航できる。

■❷つまり日本人であれば、中国渡航に関しては、①15日以内の中国渡航はいつでもビザなしで可能、②90日以内の短期ビザは1月16日より一部申請可能となっている。だが、90日以上~1年未満の長期ビザの申請は今のところできない(一時停止)。

■❸1月上旬までは私は、「この2月下旬の中国渡航を予定」していた。しかし、私の場合は長期ビザなので、この中国政府の「ビザ発給一時停止」が解除されるまで、申請ができない状況だ。2月5日頃の春節の終了時期〜3月上旬の間には、一時停止措置が解除される可能性もあるとは思うのだが、今はまだその時期は分からない。もし、仮に、2月15日頃に長期ビザ発給停止が解除されたら、中国渡航ビザを申請し、そして10日間ほどでビザを取得し、航空券を購入し、3月中旬ころまでには中国に渡航できるかもしれないとは思っている。

■❹—長期ビザ発行を受けて中国渡航までの流れには、約2カ月半は要する―

 中国に長期ビザで渡航する場合、その準備や申請、渡航には通常2カ月半から3か月間の期間を要する。まず、①もよりの都道府県の警察本部に行き、「無犯罪証明書」の申請を行い、2週間後にそれを受理する。また、大学などに行き卒業証明を取得する。この二つの証明書をもって日本の外務省に行き、それが本物であることを証明してもらう必要がある。それに2週間ほどを要する。ここまでの準備に約1か月間が必要。そして、それを中国側の大学や会社にスキャンしてEメールなどで送信する。私はこの準備を11月3日に京都府警察本部に行き無犯罪証明書の申請から始めた。

 中国側の大学や会社は、日本から送信された無犯罪証明書と学歴(卒業)証明書を受け取り、中国政府(各省政府)に対し、「工作許可証明書」を申請し、受理する。これには通常約3週間以上を要する。そして、この「工作許可証明書」を、日本側にスキャンしたものを送信してくる。この「工作許可証明書」や関係作成書類を持って、日本にある中国大使館(東京)や中国領事館(札幌・大阪・福岡)のビザセンターに行き、中国渡航ビザを初めて申請できる。(現在は、この申請ができない情況だ。)

     そして、ビザ申請を行って通常は1週間~10日余りで、中国渡航ビザを受理できるという流れとなる。それから航空券購入などを行っていく。

■❺ 中国からの私への「工作許可証明書」は、この1月12日の日付で、Eメールに送信されてきた。これを携えて、大阪にある中国領事館のビザセンターに中国渡航ビザの申請に行く予定をしていたのだが、1月10日から申請ができない情況となっている。1月12日付で中国政府から発行された私の「工作許可証明書」の有効期間は1年間だが、中国へ渡航する期間は、「1月12日~4月12日までの3カ月間有効」となっている。つまり、4月12日までに渡航しない場合は、この「工作許可証明書」は無効となってしまう。この場合、また、改めて、2カ月半以上をかけて、新たな準備をしなくてはいけなくなってしまう。

 この3年間余り、コロナ禍や日中関係を巡って翻弄(ほんろう)され続けてもいる。