彦四郎の中国生活

中国滞在記

福州に本格的な暑い夏が始まった―猛烈な「雨」と「悶熱」(猛烈な暑さと湿気)のこの頃―

2016-05-31 17:56:17 | 滞在記

 今日で5月が終り、明日から6月。福建師範大学は7月から夏休みに入る。6月の中旬すぎには「後期の授業」が終了し、19日より後期試験期間が始まる。
 毎朝4時頃には起きて、授業準備などをする。朝、7時15分には宿舎を出て大学に向かう。途中で 「亀」「蛙(カエル)」「蟹(カニ)」を売っているおじさん。「美味しいから、買って!」という。「亀も蛙」も食べた人はあるが、あまり美味しいとは思わない。蟹はとても美味しい。「写真を撮ってもいい?」と聞く。「いいよ。」 大学の正門に着くころには、「暑さと湿気」で かなりの汗で下着が濡れ始める。
 昨日の月曜日の午前中は、2回生「日本概論」の授業。かなり授業準備をして臨んだ。「日本人論」「中国人論」について90分授業を2クラスで180分。今日の火曜日は、1回生の「総合日本語2」の授業。1回生も 簡単な日常会話が できるようになってきている。90分授業を2クラス分で180分。

 授業の合間の休み時間、福建師範大学日本語学科の「煙草(たばこ)教員三人組」がそろって、雑談にいそしむ。日本語学科の教員は18人ほどが在籍している。そのうち3人が日本人教員(全員男性)で、15人が中国人教員(男性2人、女性13人)。煙草3人組とは、林恒青先生(准教授)と日本人の津田先生と私。
 授業が終わって、大学の食堂で昼食をとる。今日は「ごはん・ゆで卵・豆腐・野菜」。あまりにも べとべとした粗悪な油が多いので、美味しいとは思わない。特に「ごはん」が不味いので、今日は「ゴマ塩」を持つて来た。日本から持ってきたものだ。向こうのテーブルに日本語学科2回生の女子学生がいたので、このごま塩をふりかけてあげたら、「とても美味しい!」との反応。
 食事後、宿舎に帰る途中の大学正門。卒業が近づいてきた4回生の学生と父母が、記念写真を撮っていた。卒業式もあと半月後になった。

 19日の水曜日、日本の立命館大学大学院の受験をする学生の指導や、散髪をしたかったので、閩江大学の行きつけの店に行く。大学内を散歩すると「デェイゴ」の花が咲き始めていた。この花が咲くと「暑い夏」が本格化し始める。

 同じく15日(日)に、閩江大学4回生の卒業論文発表会や「パーティ」開催の連絡(招待)があったので、出かけて行った。いろいろと世話にもなった学生たちに感謝したい。

 ここ最近の最高気温は、ほぼ36度〜37度くらい。猛烈な「暑さと湿気」の日々。まだ梅雨時期が終わっていないので、「雨が降っているか猛烈な暑さ」。外に出るのは なかなか大変だから 買い物に行くのも辛い。スコールのような雨もよく降る。するとベランダは水がたまる。排水できるところがないので、バケツやビニール箒(ほうき)と塵取りを持って来て、たまったままの水をとり、トイレに流す日々。
 夜になっても気温が下がらない。夜9時ころ30度。夜には「蚊」が毎晩やってくる。宿舎の窓の立て付けが悪いので隙間だらけだからだ。この頃 夜1時頃に蚊に刺された「痒み」で目覚める。また眠るが 熟睡ができていない。
 朝4時に起床。外のベランダにある気温計を見ると28度。 まあ、こんな毎日。一昨日の夜、月がきれいだった。日本をつくづく思い出す。
 福州の最近の天気を表す言葉に「闷热(メンロオ)」という言葉がある。「悶絶しそうな暑さと湿気」という意味である。




 


西安へ行く(遥かなる長安)⑪―「西安の大学」・「書と絵画の街」、今回の旅が終わった―

2016-05-26 16:00:42 | 滞在記

 5月13日(金)、今日は福州に戻る日となった。早朝から、けっこう激しい雨が降り続く。少し雨が小やみになったので、午前8時ごろにホテルを出て3つの大学を見に行こうと思った。ホテル近くの地下鉄に乗って、その大学の近くの地下鉄駅を交通地図で探す。見当をつけて、ある駅で降りる。地上に出たら方向がわからない。清掃の仕事をしているおじさんに聞いたら、「あっち!」というので歩きはじめる。また、雨が激しくなってきた。
 雨の中、歩くこと15分。ようやく「西安外国語大学」らしきものが見えた。ここの西安外国語大学は旧キャンパスなので、敷地面積はそれほど大きくはない。しかし、趣があるキャンパスだ。
 ここ西安は、広大な中国北西部では最も中心的な街であり、大学の数も最も多い。「西安交通大学」「長安大学」「西安理江大学」「西北大学」「西安外国語大学」など、名門大学も多い。現在では、「大学城」という市郊外の広大な場所に 多くの大学の新キャンパスがあるようだ。けっこう遠いので、今回は行くことが難しい。

 西安外国語大学の隣は、「陝西師範大学」。ここは、かなり広い大学で、現在も ここが大学の中心キャンパスらしい。ここを後にして、さっきの地下鉄に戻る途中で、大きな道の向こうに「西北政法大学」があった。こじんまりとした大学だった。校舎の中に入ると「日本語」が書かれていた。「工匠精神 しょくにん せいしん」。この建物は、「文化財」を修復する学科のある建物のようだ。中国各地の博物館で ここの出身者が就職している絵もあった。

 大学を出て、陸橋を渡る。陸橋の南には上海にあるような丸い展望台のあるような建物も見える。陸橋の北の方は、宿泊しているホテルや城門(南)がある方面。一旦、ホテルに戻るため 今度は市内バスを探した。バスに乗っていると、この街は街路樹がけっこう多いことに気がつく。プラタナスの並木が多い。それからもう一つ。何という樹木だろうか。バス専用の道路があるので、並木は4列が続いている。
 バスでホテル近くのバス停(南門)で降りる。ここのバス停、ホテルまで遠い「南門」だった。城壁の内側にある。バス停を降りたら、趣のある建物が軒を連ねる場所だった。「書院門」という石造りの門。近くに塔もある。この通りに入る。雨のため人は少ないが、この通りは「絵画・書・骨董」などを商う店が集まる場所だった。「西安師範大学付属小学校」の建物。建物がなかなか奥ゆかしい小学校だ。

 小さな通り、なかなか素晴らしい人形、「書」を学ぶ「書院(学校)」のような建物群。筆を売る店。絵画を商う店も多い。この近くに「碑林博物館」という、とても有名な博物館があるようだ。この博物館は、中国中から集めた「石碑に書かれた書」が集められているという。

 11時になったので、ホテルに戻らなければならなくなった。チェクアウトは12時まで。南門の城壁を過ぎる。石榴の花と城門。街路樹に多い「楡(にれ)」によく似た樹木の白い花。なんの樹木の花なんだろう。
 ホテルの部屋で荷物をまとめ、12時ぎりぎりにチェックアウト。料金は一泊600元(約12000円)、けっこう高いが、とてもいいホテルだった。また利用したいと思った。
 再び、さっきまでいた「書・絵画」街に行く。ようやく雨が上がって来た。

 雨が止んだので、欧米からの観光客も多くなっていた。絵画などを見る。唐時代の宮廷の女性を描いた絵が美しい。
 この「西安」の街は、福州とは様子がかなり違った。まず、ゴミを捨てる人がほとんどいないし、ゴミ箱もきれいに設置されていて数も多い。電動自転車バイクが少ないので、安心して歩くことができる。全体的に落ち着いて街歩きができる街だった。ちょっと中国人に対する認識が変わりそうな街だった。
 地下鉄に再び乗って一駅。西安咸陽国際空港行の「空港バス」が出るホテルに行く。多くの人が並んでいる。午後1:00発のバスには乗れなかった。次は1時30分発。これに乗れば2時30分までには空港に着ける。バスのチケットはどこに売っているのだろうか?聞いてみたら、ホテルの中の奥まった場所がチケット販売所。こんな所が?
 バスに乗り込んで発車し10分くらいした頃に、突然 隣の席の男性に 席を変わってくれといっている若い男。席を変わって「あなたは日本人ですか。」と聞いてきた。かなりたどたどしい日本語。彼は「西安翻訳学院」という大学の日本語学科の1年生だという。大学は3万5千人の学生がいて、外国語学部の学生も多く、日本語学科が各学年2クラスあるらしい。日本人の先生がいないので、日本人に会って直接話すのは初めての経験だと話していた。「友達に、あなたの電話番号を教えてもいいですか。」「いいですよ。」 福州に戻ってから、時たまメールがくるようになった。

 空港に着く。チケットカウンターに行き、チケットを受け取る。また、名前が「寺坂义彦 SIBAN YIYAN」となっている。パスポートの名前と違う!!! かなりやばいかもしれないので不安を持ちながら、チケットとパスポートの出発チャック場所の列に並ぶ。20分ほど並んで、ようやく私の番がきた。やっぱり ひっかかった。この空港でも20分ぐらいの審査・検討をされて、登場を許可された。ここでもぎりぎりに飛行機の搭乗時刻に間に合った。
  16:15分発の厦門(アモイ)航空に乗ることができた。定刻通り出発。機内食はイスラム教徒も食べることができる「MUSLIM」(ムスリム)の印刷があるものだった。19:15分に福州長楽国際空港に着いた。西安への「完全な一人旅」が無事終わり、福州に戻ることができた。この旅で一番大変だったのは、やはり 飛行機に搭乗を許可されるかどうかのチケット問題だった。
 
 ※空港内では、機内へのライターの持ち込みが一切できなくなるのは、日本と同じ。空港内の「喫煙所」で喫煙するが、検査を受けた後はライターをもっていない人が多いので、火を貸してもらうことになる。日本人は「すみません。ライターを貸してください。」とか「すみません。火を貸してください。」と言う。借りた後は、「ありがとうございました。」が必ず返ってくる。しかし、中国人の場合は、この「すみません。」も「ありがとう。」も一切と言っていいほど言葉がない。10人に1人くらいは、「謝謝」があるだろうか。借りる時もほとんど言葉がなく近づいてきて、動作で示してライターなどをかりるだけとなる。
 なんとも、日本人と中国人の違いが現れる「喫煙所」という場所である。
 
 ◆「西安へ行く(遥かなる長安)」のブログは、①~⑪の11回にもなってしまいました。読んでくれる人も大変だと思います。この西安という都市は、それだけ私にとっても興味の深い場所でした。
 現地に行って、見て、聞いて、感じて、考えて、調べながらブログを綴る。あまり知らなかった中国の古代歴史というものを勉強している感じでした。中国という国を知るには この西安という都市への訪問は欠かせないと 行ってみて感じました。その国のことを知るには(理解する)、その国の「歴史」と「地理」を知ることが不可欠だからです。
 「中国という国」や、「中国人」という人々のことを、私はまだ 理解し始めたばかりのように感じています。行ったところもまだ ほんの一部の地域や都市です。中国は とてつもなく広すぎます。
 その広すぎる中国という国の中でも、西安という都市は 中国を知るための「一つの核」のような場所。日本においては やはり「京都」のような都市が 西安にあたるのでしょうか。日本の都(首都)があった場所は、主に奈良と京都と東京の3つですが、距離的に近いですから、すぐに行くことができますが、中国は 都がおかれた8都市だけでも それぞれかなり かなり遠いです。






西安へ行く(遥かなる長安)⑩―陝西歌舞大劇院❷―「唐の玄宗皇帝と楊貴妃の『長恨歌』の世界」

2016-05-25 16:40:26 | 滞在記

 午後8時、西安歌舞のショーが開演。写真は左より①「プロローグ」②司会の言葉➂④「第一幕 華清宮」⑤⑥「第二幕 舞踊:白チョマ舞」
 第二幕の長袖の衣装の舞が見事だった。鳥肌がたつほど感動していた。中国に来て以来、見たいと念願していた「唐舞踊」を今 見ることができている。華清宮とは、秦始皇帝陵や兵馬俑の近くにある、唐時代の宮殿。唐の6代目皇帝:玄宗皇帝と楊貴妃が、愛を育んだ宮殿である。

 写真は左より、①②「第二幕 舞踊:白チョマ舞」➂「第三幕 簫(しょう)の独唱:春の鶯(うぐいす)のさえずり」④⑤「第四幕 舞踊:ピクニック歌」 簫の演奏も面白い。舞踏ピクニック歌は、清楚な美しさと可愛さを感じる見事な舞踊。背景の画像は「華清宮」。

 写真上の左から、①②「第五幕 舞踊:黄金の仮面 ➂④「第六幕 舞踊:観鳥蝉取」⑤「第七幕 チャルメラ独奏:棗(なつめ)割り」 ⑥⑦「第八幕 舞踊:虹の羽衣舞」 写真下の左も「第八幕」

 写真左から、①②❸④「第十幕 舞踊:大唐の典礼音楽」 ⑤舞台終了後
 1時間10分の舞台は、素晴らしかった。この舞台を見ることができて 幸運だった。
 
 ―玄宗と楊貴妃―王と傾国の美女
 玄宗は三男として生まれた。712年、父の跡を継いで第6代皇帝となる。玄宗は皇帝の権威を取り戻すべく、優秀な人材を集めた。強烈な個性と堂々たる体躯を備え、民や家臣たちの信頼を一心に得た皇帝となっていった。武術に長じ芸術にも関心が高く、当時の科学技術にも多大な関心を払い、治世に生かしたりした聡明な皇帝であった。玄宗の治世は「開元の治」と言われて、非常によく治まり安定した時代を作り出した。こうして、玄宗皇帝のもとで、天子の称号は燦然と光り輝き、中国を世界に冠たる大帝国に仕立て上げたのである。
 ところが740年、一人の美しい女性の女性の登場により、玄宗の善政は一変し始めた。楊貴妃(当時22才)を見初めた玄宗(当時56才)は、その4年後 彼女を妃とした。楊貴妃と初めて出会う前年に、玄宗は最愛の妃を武恵妃を亡くしていた。楊貴妃はその最愛の妃によく似ていたようだ。彼女は歌舞音曲にとても優れた女性だった。玄宗と楊貴妃は、何かと気が合ったようだ。
 だが、これが唐王朝を揺るがす要因となる。楊貴妃の一族が政権内で徐々に形成され始めて、政治をほしいままにし始めたのだった。楊貴妃に溺れた玄宗は政治を顧みなくなっていた。そして、民や臣の信頼も失っていった。ついに755年、安禄山が中心となって「安史の乱」を起こした。安禄山が長安と洛陽を占領すると、玄宗は楊貴妃とともに南の四川へ落ち延びようと逃避行を行った。途中、護衛兵が反旗を翻し、楊貴妃の一族たちは殺された。
 玄宗と楊貴妃のいるテントは、兵士たちに囲まれ、「楊貴妃を殺せ!楊貴妃を出せ!」の声。玄宗はやむを得ず、断腸の思いで楊貴妃の殺害を宦官に命じざるを得なかったという。756年のことだった。時に楊貴妃38才玄宗と楊貴妃の恋物語は、50年後の806年、詩人:白居易(白楽天)の『長恨歌(ちょうごんか)[長編の漢詩]』にうたわれ、長く語り継がれることとなった。この長編漢詩は、平安時代以降の、紫式部の『源氏物語』をはじめとして、日本文学に多大の影響をあたえることとなった。
 玄宗の在位は712年~756年。長安にて、756年から皇帝の座を退けられ幽閉同然の身とされることとなった。これ以降、さまざまな皇帝が王位につくが、政治状況は安定せず、さまざまな反乱が勃発。唐王朝は衰退の一途をたどり、907年に滅亡した。

 ※写真は左より、①李白 ②阿倍仲麻呂 ❸杜甫 ④白居易(白楽天)

 玄宗皇帝と楊貴妃が生きていた同時代、中国の漢詩の世界において「詩仙」と呼ばれる「李白」、「詩聖」と呼ばれる「杜甫」、「王維」が唐の王朝に仕えていた。杜甫は、756年の安禄山軍の長安占領の際、牢屋に一時期拘束されたこともあった。そして、「春望」という漢詩を作っている。この漢詩は、756年に長安にて作られた。
 ちなみに、松尾芭蕉は杜甫に傾倒していた。芭蕉の俳句「夏草や 兵(つわもの)どのが 夢の跡」の一句は、奥州(東北)の平泉で詠まれている。源義経滅亡などの地である。
                        「春望」 杜甫
    国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
    烽火三月に連なり 家書万金に抵る   白頭掻けば更に短く    渾て簪に勝えざらんと欲す

 ―阿部仲麻呂―
 698年、奈良に生まれた仲麻呂は、717年に第9次遣唐使の一員として唐に留学生として派遣された。時に20才。玄宗皇帝に認められ、超難関の「科挙」の試験にも合格した。そして、玄宗皇帝の治世のもと、唐王朝の文学関係の役所に勤務。李白や王維とも親しい関係となった。日本への帰国を願い出たが、玄宗皇帝は 日本への帰国を許可しなかった。
 第十次遣唐使が日本に帰国する際に、彼も一緒に帰国することになったが、東シナ海で船が難破した。そして漂流した船は福建省の福州沿岸にたどり着く。再び長安に戻った仲麻呂は、後に唐の支配下にあったベトナム北部の「鎮南都護・安南節度使(軍団長)」に任じられた。中国にて73才で没する。
 仲麻呂の和歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(※祖国を懐かしみ、長安で詠んだ和歌) は、「古今和歌集」に掲載され、「百人一首」の一編ともなっている。西安市内に、彼の記念碑が建立されている場所があるようだ。

 劇場を後にして、ホテルに帰る道を歩く。音楽がする方に行くと、「回教徒」の人たちが音楽に合わせて踊っていた。福州の踊りとはまったく違った音楽の旋律と踊りだった。男が女に近づき 女を誘うような楽しい踊り。コミカルでリズム感がある。しばらく見惚れていた。
 農村部から出稼ぎにきている農民工の人たちが、この時間にも働いていた。西安城の南門がライトアップされて美しい。10時頃、ホテルの部屋に戻り、途中で買ったビールを飲む。旅の一日が終わった。 


 
                        





西安へ行く(遥かなる長安)⑨―陝西(省)歌舞大劇院❶―「餃子宴と西安歌舞」

2016-05-25 16:40:26 | 滞在記

 中国の「唐」の時代、その領土は広大に広がった。北は今の東北地方(旧満州)から南はベトナム北部まで、そして西は今のウズベキスタンあたりまで(カスピ海付近まで)を支配下に治めた。大唐帝国である。そして、290年間にわたって唐の時代が続いた。中世前期の中国の文化的・政治的なピークが唐時代である。王朝の都「長安」は当時の世界の随一の国際都市として繁栄し、さまざまな人々が往来した。
 シルクロードは長安を出発点としてイタリアのローマに至る交易のルートである。その全長は約7000km。そして、日本からの「遣唐使」派遣は奈良時代から平安時代前期にかけて10回以上にのぼった。奈良の「平城京」も京都の「平安京」も、この長安の都をモデルとしたことは周知のとおりである。
 その長い「唐」の時代。「唐王朝」6代目の皇帝「玄宗皇帝」と「楊貴妃」の物語は「長恨歌」でも語られている。国を傾ける美女のことを「傾国の美女」という。楊貴妃は、世界の歴史の中でも、まさに傾国の美女NO,1かもしれない。

 「大雁塔」の見学を終えてホテルに戻りしばし休息。午後7時頃に「陝西歌舞大劇院」に向かった。地図を見ながら歩いて15分ほどの場所にあった。西安市内には、4箇所ほどの「唐歌舞」を見せる劇院があるようだ。中でも「陝西大劇院」は、陝西省直属の大型歌舞団として、最も伝統と歴史があり、海外公演もしているらしい。ちなみに、「中国三大歌舞」とは、北京の「京劇」、上海の「雑技」、そしてこの西安の「唐歌舞」ということのようだ。
 受付で、「日本語ガイドの楊さんから予約をしてもらった寺坂です。」と言うと、3階のレストラン案内してくれた。劇場のパンフレットは英語版と日本語版があった。西欧からの観光客がたくさん食事をしていた。満席状態。私だけが一人なので、レストランのステージの上に置かれているテーブルに案内された。なんともわびしく恥ずかしい。
 西安は餃子(ギョーザ)料理が有名らしい。ここでの料理の中心は餃子ということだが、どんな餃子なのだろう。

 運ばれてきた餃子を見て驚いた。小さな芸術品のような餃子が16種類。これはB級グルメでもなく宮廷料理でもない。なんかその中間の料理。食べるのがもったいない。ウサギやアヒルや金魚の形をした餃子もあった。「餃子宴」と呼ばれるらしい。あんこ入りの餃子、クルミの形をしたクルミ入りの餃子などなど。見た目重視の餃子なので、味の方は普通だったように思うが、ピリ辛の餃子もあった。
 ここ西安のグルメと言えは、イスラム教徒の作る「粉もの」が有名ということだが、どういうわけか西安名物と言えば、この餃子が最も有名らしい。「ビールが欲しい。」と言ったら、サービスに付けてくれた。一人きりのディナーに同情してくれたのかな---。

 午後7時半頃に「一人ディナー」終了。歌舞の開演は8時間なので、外に出てタバコを吸いながら時間を過ごした。劇場に来ている観光客用の大型バスが何十台も付近の道路に列をなして駐車している。数えてみたら約30台あまり。こんなに多くの人が来ているんだと驚く。
 ちなみに、ここの料金は、「ディナー食事と観劇で350元(約7000円)、観劇だけの場合230元(約4600円)」と けっこう高い料金だ。
 再び劇場に入り、受付の人に「私はどこで観劇すればいいですか。」と言うと、テーブル席へと案内してくれ、ミネラルウオーターを1本くれた。1階と2階に観客席があった。1階はテーブル席が多い。ほとんどが欧米からの客のようだ。





西安へ行く(遥かなる長安)⑧―玄奘三蔵ゆかりの大雁塔―日本のお坊さんは結婚してもいいの?

2016-05-22 13:04:27 | 滞在記

 兵馬俑・始皇帝陵からホテルに帰って休憩。12日(木)午後3時頃から、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)ゆかりの慈恩寺・大雁塔を見学しにいった。ホテルの近くのバス停からバスに乗った。西安市交通地図を見ると、「大雁塔」に行くには どこのバス停で下車したらいいかわからない。「大雁」「大雁南広場」「大雁西広場」の3つのうちのどれだろう。カンで「大雁」で降りた。バス停には、何人もの女の物売りがいた。遠くに「大雁塔」が見えるが、どう行ったらいいのかがわからない。物売りの女の人たちに「大雁塔に行きたいが、どう行ったらいいですか。」と聞くが、向こうに行けばいいと言うだけ。とにかく塔の方に向かって歩いて行くと、「長安大学研究科(大学院)」の門があった。学生のような男性が歩いてくる。聞くと、丁寧に教えてくれた。どうやら一番遠いバス停で下車したようだ。
 塔が近づいてきた。広場になっていて噴水が上がっている。遠くから見ても見事な塔だ。像の側で裁縫をしている女性。塔に近づくが塀に囲まれていて、どこから寺に入れるのかがわからない。人が多い方に行くと、露店がたくさん並んでいた。その方向に行ったら広場になっていて、寺の入り口のような場所に到着した。

 玄奘三蔵の大きな銅像が立っている。チケット(入場券)を買って寺の中に入る。正門を入って左右に「鐘楼」と「鼓楼」の建物がある。塔に近づく。仏像を安置している建物を通り過ぎる。

 「大雁塔」は近くから見ても、とても立派で美しかった。泰山木の白い花は、この塔とよく似合っていた。この塔まで来れてよかったと実感した。

 塔の間近の建物に入ったら、玄奘三蔵の「仏教の真理を求める旅」について、絵や銅板などで説明されていた。

 ―玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)とは―

 『西遊記』は1200年代の「元」の時代に作られた古典だが、この話の主人公「三蔵法師」は玄奘三蔵がモデルとなっている。絵本やアニメ、映画やテレビドラマとして、日本でも有名で誰もが知っている「西遊記」のお話。とりわけ中国では国民的文学となっていて、絵本やアニメ、映画やテレビドラマは、日本の比にならないぐらい多い。「孫悟空」のモデルとなった「猿」は、西安のある陝西省にいる。毛が金色の猿である。
 唐代初期の層:玄奘三蔵は、教義上の疑問や訳経への熱望から、国禁を犯して天竺(インド)を目指して長安を発ったのは629年のこと。玄奘は26才。見つからないように、昼はどこかで寝て夜に歩くということをしながら、西に進み国境を越え、現在のウズベキスタンのサマルカンドを経て、(長安を発ってから2年後に)インドに入る。インド各地で仏典を学び 大量の仏典を中国に持ち帰ったのは645年のことであった。
 16年間に及ぶ長旅であった。彼は45才となっていた。唐の皇帝「太宗」は、彼の国禁の罪を許し、長安の地に648年に大慈恩寺を建てて玄奘を上坐として、持ち帰った大量の経典の訳に専念させた。大雁塔は、この経典を保管する場所として建立された。日本の奈良にある興福寺や薬師寺は、この玄奘三蔵の教えの流派を受け継ぐ寺院である。薬師寺には玄奘三蔵の頭骨の一部が安置されている。
 ちなみに、高野山を開いた「空海」が長安に来たのは804年。(804年5月に難波[大阪]出発➡漂流のすえ8月に中国福州に着き➡11月初めに福州を出発➡12月末に長安に到着) 1年半ほど、長安で学び、806年3月 日本への帰国の途についた。8月に日本の五島列島に帰国。

 中国に来てから3年間近くたつが、「中国の仏教僧は、戒律上 結婚することもできない。恋愛して恋人を作ることもできない。また、肉や魚を食べることもできない。」ということを知ったのは最近だった。日本の僧と同じように結婚も肉食もできると思いこんでいたのだ。昨年に放映された日本のドラマ「5-9 私に恋したお坊さん」は、中国の大学の日本語学科の学生たちにも人気が高いドラマだった。最近、学生達と話していたら、「中国の僧の戒律」がわかったしだいだ。ドラマを見ていた中国人学生達は「日本のお坊さんは結婚してもいいの?」というのが ずっと疑問だったらしい。
 学生たちに言わせると、「日本の仏教の僧たちは、戒律をやぶった堕落した僧」という印象をぬぐえないということになると言っていた。
 寺に置かれた「卯の花」の盆栽がきりっとしていて見事。

 西安の街は、石榴(ザクロ)の木が多い。石榴の花越しに見る大雁塔。近くで唐の時代衣装を着た女性が記念撮影をしていた。ホテル近くに行くことができるバスに乗れるバス停を人に聞きながら到着。バス停の前には「西安科技学院」という大学があった。