彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❹八上城②山中に忽然とある「朝路池」に佇むと感じる

2021-01-31 09:23:59 | 滞在記

 本丸を中心とした山上曲輪群から東南方向に城道が下りている。次に目指すのは籠城戦の命の要、城の水場であった「朝路池」。「どこにあるのだろう、行き過ぎてしまったのか?」と思いながら平坦になった尾根道を歩き始めると「伝 池東番所」の標識が見えた。ここの近くに池があるのだと確信した。更に城道を下ると分岐点が。右の道を少し下りると深い堀切があった。その堀切の道をさらに下に行く小道があった。

 小道を下ると広い場所にポツンと小さな池が見えた。こんな山中に水を今もたたえている池の光景に心が沸き立った。池に近づいて眺める。1年半にわたる何千人という籠城兵士たちの命の綱だったこの「朝路池」。この「八上城」巡りで最も心が震える場所だった。この池を防御するための「池東番所曲輪」と対(つい)になっている「池西番所曲輪」も見える。その曲輪の先端はかなり深い堀切があり防御力を高めていた。ここもまた、籠城戦での激戦地だったと思われる。ここを攻城軍に占拠されたら戦いは継続できなくなる。

 この「朝路池」には二つの伝承がある。一つは、落城の時に城主・波多野秀治の娘である朝路姫が池に身をなげたと伝わる。もう一つは、一人で池のほとりに立ち、水面に映った自分の姿が美女に見えたなら、年内に必ず死ぬという。この日は12月26日、年内だとあと5日間くらいの命、今回はまだもう少し生きたいので、水面に顔は映さなかった。こののち、もうここらあたりで命を閉じようと思える時が来たら、再びこの朝路池を訪れたくなるかもしれないと、ふと思った。それにしても、この池にたった一人で佇む(たたずむ)のは、ちょっと寒気もする場所だった。いわゆる「霊」(れい)を感じやすい場所に思えた。

 分岐点まで戻り、東尾根曲輪群を目指す。もう一つ今回ぜひに見ておきたい場所があった。「伝 磔(ハリツケ)の松」だ。どこにあるのだろうとそれらしい松の大木を探しながら東尾根曲輪群の城道を下る。突然に、「伝 はりつけ松跡」の標識が見えた。ここにあった松の木の大木が「はりつけ松」だったのだろう。もう400年以上も昔のことなので松は老木となって朽ちたのかもしれないが、標識の所に伐採された松の木が置かれてもいた。

 当時はこのあたりの木々も伐採されていたのだから、はりつけの様子は麓の攻城軍からも見えたのだろうか。ここで磔(はりつけ)になったとの伝承があるのは明智光秀の母・「お牧の方」とその侍女たちだった。当時、光秀は52歳なので、母の年齢は70歳を超えている老女かと思われる。この地点の下には八上城のもう一つの水場であった「血洗ケ池」がある。

 東尾根曲輪群を進む。かなりの広域な尾根筋の曲輪群だ。「茶屋の壇」、「馬駈場」などの曲輪を通り、曲輪群の先端「芥丸郭(曲輪)」「西蔵丸郭(曲輪)」に至った。ここは「藤木坂口」という城道からの敵の侵入を防御する最前線だった。赤く紅葉している松の大木があった。はりつけに用いる松としてはまさにこんな松かと思った。藤木坂口の城道を下る。自然自生している松の小さな苗がたくさんみえた。この曲輪群一帯は松の木の樹林帯だった。

 藤木坂口を目指して山を下りる。本丸を後にしてからは、ずっと人っ子一人出会わない。細い山道のそばを細い渓流が流れていた。分厚く積もった枯葉の道に夕陽の光が帯になって差し込んでいる。山を下りると人家があり旧山陰道(篠山街道)の細い道が通っていた。旧山陰道から八上城のある高城山を遠望する。

 車を駐車していた春日神社口(右衛門道=大手道)に戻る。ここの旧山陰道沿いに「国宝堂」という骨董店がある。13年前にこの店に立ち寄った時に、当時60歳くらいの私と年齢の近い店主と話したことがあった。その時に、「以前に、歴史作家の安倍龍之介さんが立ち寄りましたわ」と話していた。話がはずむうちに、明智家の紋・桔梗(キキョウ)紋のある兜(かぶと)を見せてもらった。私は若い時から明智光秀という人にとても親近感をもっていたので、「ほしいなあ‥」と話したことを思い出す。

 今回13年ぶりに店主と話したかったので、店に入った。あの兜は今もここにあるのだろうか。店の中の佇まいも依然と違って何かちよっとさびれている気がした。女の人が家の奥から出て来た。聞いてみると「父は亡くなりましてえ‥」とのことだった。かっての店主の娘さんのようだ。

 店の中には、「本能寺の変の謎は 丹波篠山にあり」の題字の、磔にされている光秀の母、光秀、八上城主・波多野秀治の3人が描かれたポスターや「11月7日講演会(丹波篠山市) 光秀の丹波平定―八上城攻めに寄せて 講師:桐野作人氏~明智光秀が苦闘した 波多野秀治の戦いの全貌が語られる」のポスターなどが貼られていた。

 あらためて、その13年ほど前のパソコンに保存してあった写真を見る。(上記4枚の写真)  旧山陰道に面した店の前にも骨董が陳列されている。明智の桔梗紋が左右に入った兜を持つちょび髭の店主の姿。娘さんに兜のことを聞くと、「あれは まだ父が生きていた頃にい 誰かに買われたんですわ‥」とのことだった。今、あの兜はどこにあるのだろうか。

  2004年初版の『戦国の山城をゆく―信長や秀吉に滅ぼされた世界』安部龍太郎著(集英社新書)を読み返してみると、第九章に「光秀の母は殺されたのか(丹波八上城)」がある。この章に、この「国宝堂」のことが記述それている。「街道沿いに国宝堂と大書された骨董屋があり‥‥八上城の麓だけに、何か由緒があるかもしれないと思って立ち寄ってみた。応対に出られたのは、五十がらみの恰幅のいいご主人である。話をうかがううちに、この方が八上城の城代家老であった喜多川氏の末孫であることが分かった。」

 この喜多川氏は足利将軍家とも深い繋がりのある家系で、第13代将軍・義輝が1565年に三好軍に攻められ京都二条御所で殺された時、三歳になる義輝の長子を連れて都を脱出し、八上城下で養育した。(※その子は長じて仏門に入り、八上城下の谷に「清浄山 誓願寺」を開山する。義輝の弟で第15代将軍義昭の甥っ子にあたる。)  安部龍太郎はこの店で喜多川一族ゆかりの品々を見せてもらい、長さ一寸六尺ばかりの名工「備州長船祐定」の銘のある太刀を購入し、京都の仕事場の部屋に置いているという。これも何かの縁で、いつの日か波多野氏の物語を書くことになるかもしれないと記していた。

 ◆安部龍太郎氏は最近では、雑誌サライに「半島をゆく」シリーズで各地の城址を訪ねる連載をおこなっている。

 13年前の本丸郭(曲輪)群は木々の大木樹木に囲まれ篠山盆地は現在のように一望はできなかった。(上記写真)

 

 

 

 

 


明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❸八上城①波多野一族の巨大山城、すごい眺望が

2021-01-30 19:24:48 | 滞在記

 丹波篠山市にある八上城(やがみじょう)は、1575年~79年の織田軍団の明智光秀軍による5年間にわたる丹波国攻略(平定戦)の中でも最も激しい1年半にもわたる籠城戦が繰り広げられ、餓死者も続出し落城した巨大山城である。落城にまつわる悲話など、その歴史性がとても高い山城だ。13~4年前にこの八上城に一度登ったことがあった。この時は主郭群を中心に城域の半分くらいだけを見て廻った。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」での丹波平定戦が12月頃から始まったので、城山に積雪がまだない日までには、この八上城に再度登り、今度は城の全域を見て廻りたいと思い12月26日(土)、京都府亀岡市から山陰街道(篠山街道)を通って八上城の麓に来た。

 紅葉が残る12月2日には、八上城の東方面の有力な支城であり、明智軍に頑強な抵抗・籠城戦をおこなった籾井城と細工所城を訪れていた。丹波三大山城の一つで国史跡ともなっている八上城跡は、「丹波富士」とも称される高城山(標高462m)に築かれた八上城を中心に、奥谷の城下を挟んで法光寺山の法光寺城や高城山の麓にある奥谷城を配した東西3km、南北2kmほどにも及ぶ大規模な中世山城である。本丸曲輪からは丹波篠山盆地が一望できる。

 本城・八上城は山上曲輪(郭)群を中心に、西尾根曲輪群、東尾根曲輪群、南郭群からなる。高城山の北麓には古山陰道(篠山街道)が東西に通じる。また、南東の街道や南西の街道を通じて大阪の能勢や兵庫の三田や西脇とも近い。

 午後1時頃に八上城山麓の春日神社登り口に着く。「麒麟がくる」の放映もあってか、無料駐車場がつくられていて車が数台駐車されていた。登り口には新しい城についての説明看板が2枚、新しく設置されていた。13年ほど前に来た時の古く字が消えかけている看板もまだあった。この八上城は京都府八木町の八木城と同じくらいの大規模な巨大山城だ。

 春日神社の鳥居をくぐり城域に入る。今にも崩れそうな古色蒼然とした春日神社。小学生1年と3年ぐらいの男の子の孫2人と私と同じくらいの年齢のおじいちゃんの3人づれが来た。孫たちの後をついて行くこの男性は、「いやぁ、こいつらと山を登るのは えらい大変なんですわ ついていくのが‥」と笑顔で話しかけてきた。まあ、「これは 楽しいことではあるが 猟犬のように駆けていく孫たちと行くのは辛いだろうなあ‥」と思った。

 ここ春日神社から本丸曲輪まで60分とあるが、私は1.5倍の90分くらいのペースでゆっくり登る。すぐに「主膳屋敷跡地」の標識が。ここは家臣たちの北方方面の番所や屋敷地があった場所。急こう配な大手道の山道を登り続けて20分くらいすると「鴻ノ巣」曲輪に着いた。明智軍の侵攻だけでなく、1500年代において7回の攻城戦・籠城戦が繰り広げられた八上城でも、この曲輪やさらに上にある「茶屋の丸」曲輪あたりは、最も激しく戦闘が行われた城域かと思われる。

 「鴻ノ巣」曲輪からのものすごい急こう配の道を登り切ると「茶屋の丸」曲輪に着く。休み休みだが息が上がり、足にきていた。ここからは丹波篠山盆地や篠山市街がかなり一望に望めはじめた。長く平坦な尾根道(大手道)の先の高所の山の本丸曲輪群が遠望できる。まだ城の半分くらいまでしか登っていない。平坦部の尾根道(中の壇)が終るとまたまた急こう配の山道が続く。ここには段々畑のように小さな曲輪群が連続する。藪椿が数輪もう開花していた。春日神社からここまでが「西尾根曲輪群」と呼ばれる城域。

 西曲輪群が終わりようやく山上曲輪群が見え始めてきた。「右衛門丸郭」の周囲は石垣が施されている。さらに登ると「三の丸郭」、「二の丸郭」と続く。二つともかなり広い郭だ。13年ほど前に来た時は木々の大木が繁っていて樹幹越しに丹波篠山盆地をのぞき見したが、今回来たら、樹木が伐採されて大展望が開けていた。地元有志たちの仕事なのだろう。素晴らしい眺望だった。

 伐採された大木が二の丸と本丸の間に置かれていた。本丸郭が見えてきた。本丸郭の周囲は石垣で囲まれている。古色蒼然とした古城の風格がある山城だ。

 本丸郭下の岡田丸郭に行く。ここからは東方の京都府との県境の天引峠や支城の籾井城、細工所城のあった山が見える。山上曲輪群を防御する切岸は傾斜角度は50度以上ある。

 本丸郭に登る。ここからのはほぼ360度の眺望が開ける。

 本丸郭には顕彰碑がある。明治期に建立されたようだ。「贈 従三位波多野秀治公表忠碑 公爵毛利元昭 題」と刻まれている。ここ八上城の波多野氏や黒井城の赤井・荻野氏らの織田軍との戦いは、西国の大国・毛利軍との対織田軍との連携した戦いでもあった。長い籠城戦を耐え、毛利軍の派遣を心待ちにしていた戦いでもあったが、そのことはかなわなかった。毛利氏としては300年後の明治維新以降もそのことをずっと「すまない」と気にしていたのだろうか。題字は公爵となった毛利氏の末裔が書いていた。

 本丸郭にもまた八上城の説明や支城群の場所や城名が航空写真とともに記されていた。明智軍はこれら支城を一つ一つ落城させながら、本城「八上城」を完全包囲していった。

 

 

 

 


明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❷八木城②―最後の城主・内藤ジョアンの流転

2021-01-29 09:07:21 | 滞在記

 

  2010年に八木城を訪れた際には、本郭(本丸曲輪)と二の丸曲輪ぐらいしか見ていなかったので、今回は巨大な山城全体を見て廻るつもりで来ていた。この日、この八木城の麓から車で30分ほどの所にある南丹市国際交流会館「八木城と内藤氏」に関する講演会が予定されていて、参加申し込みをしていた。このため12時半頃には下山して車で向かう必要があったが、講演会よりも城全域を廻る方を優先した。まだ下山に要する時間は30分ほどなので1時間ほど見て廻る時間がゆうにあった。

 二の丸曲輪から北の丸曲輪群に向かう。山の尾根にそって雛壇(ひなだん)に曲輪が続く。途中、防御のための堀切や崩れた石垣も見られた。

 小さな洞穴があった。そこに説明版があって、「姫の洞窟―明智軍との戦いの際、内藤一族の姫がこの洞窟から逃げたとの伝説あり」と記されていた。北郭群の先端まで下りた。

 次に南西支城郭(曲輪)群に向かう。ここはこの曲輪群だけで一つの山城となる規模があるようだ。一旦、二の丸曲輪に戻り、深く大きな堀切に下りてから南西支城郭群に向かった。20分ほどかけてこの曲輪群を見て廻る。

 下山にとりかかる。この1年間、オンライン授業のために座りながら腰を少ししゃがめる姿勢が続いていたので、最近は腰の調子がよくない。下山は腰にかなりの負担をかけるので、これまたゆっくりと進む。青空とまだ少し残る木々のコントラストが美しい。1合目の北屋敷跡地付近の登山道は落ち葉が分厚く敷き詰められ、坂道ではスキーのように滑ってしまった。枯れ沢が山の方から続いている。この山城の山頂付近には井戸はなかった。籠城の際の水確保の問題はちよっと深刻だったかもしれない。

 登山口付近には内藤ジョアンの✝クロスの石碑や武将ジョアンが書かれた幟(のぼり)。大きな城案内板が設置されている。「明智光秀丹波攻略の地—戦国ロマン!八木城跡―JR八木駅から徒歩20分  登山口から八木城本丸まで約40分」と書かれ、最近作られた城の絵図が掲載されていた。

 八木城の麓には、内藤氏一族の菩提寺「東雲寺」があった。石垣がまるで城のような寺院だった。ここから八木城を見上げる。車を走らせながら八木城の山容をいくつかの場所から眺めた。紅葉がまだ残っているところも。

 午後1時ちょうどに南丹市国際交流会館に到着した。この日は「丹波八木城にせまる」と題した三浦正幸氏(広島大学名誉教授)の講演が行われた。「八木城と内藤氏~戦国争乱の丹波~」をテーマとした講演会や野外見学会が南丹市文化博物館の主催でこの秋に開催されてきていた。11月8日は「明智光秀と丹波攻略」(講師:渡邊大門氏)、11月28日は「織田信長と内藤ジョアンについて」(講師:福島克彦氏)。渡邊氏と福島氏のこの二人の優れた歴史家の講演はとても聞きたかったのだが、事前申し込みの電話をした段階で定員満杯となっていて締め切られていた。

 南丹市文化博物館では、10月24日~12月6日まで「八木城と内藤氏」の企画展示、亀岡市文化資料館では、10月24日~12月13日まで「丹波決戦と本能寺の変」の企画展示が開催されていた。京都府福知山市も企画展示を行っていたようで、「NHK大河ドラマに明智光秀を!」の招致活動をここ10年間ほど熱心に取り組んできた京都府の三つの市は、郷土の通史的な歴史についての教育活動が盛んな町だ。

 ―内藤如安(ジョアン)―

 1550年頃の生まれとされる。本名は内藤忠俊。如安はキリスト教入信の受洗名・ジョアンの音訳名。1564年、ルイス・フロイトによりキリスト教に入信(14歳のころ)。翌年には父・内藤宗勝の突然の戦死にともない内藤家を継承し八木城主となる。1573年、将軍足利義昭が反織田信長の旗を掲げて挙兵すると、将軍方支援のため600の騎馬兵・1400の兵卒を率いて京都に出兵。

 1575年、信長の有力武将・明智光秀軍に八木城を攻められ落城。(25歳)   西国方面に逃れた。その後の消息は不明となるが、1982年には義昭が滞在していた鞆の浦(広島県福山市)に如安も滞在していたことが記録に残る。1585年、豊臣秀吉政権下の有力武将・小西行長(クリスチャン大名)に仕え、朝鮮出兵に共に出陣する。1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した小西行長は斬首される。この時、如安は50歳。 九州のクリスチャン大名・有馬晴信の手引きで長崎の平戸に逃れる。その後、九州熊本の加藤清正の客将となる。

 1603年、加賀・前田家に客将として迎えられる。金沢城にはすでに如安と志を同じくする戦国武将・高山右近(元・大阪高槻城城主)が滞在していた。1614年、徳川幕府による「キリシタン禁止令」の発布により、如安は高山右近らとともにフィリピンのマニラに追放された。マニラではフィリピン総督以下住民たちが祝砲を打って迎え入れた。マニラのサンミゲル地区に日本人クリスチャン町をつくる。1626年、マニラにて死去。地元のサンミゲル教会の墓地に墓があるようだ。(享年76歳)

 八木城のある京都府八木町とフィリピン・マニラ市は姉妹都市となる。その後の市町村合併後の京都府南丹市とも姉妹都市関係を新たに締結して今日に至っている。

 

 

 

 

 


明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❶八木城①、三度の落城の歴史をもつ内藤氏の居城

2021-01-28 16:05:20 | 滞在記

 京の都の北に位置するかっての丹波国。その範囲は現在の京都府亀岡市、京都市右京区京北町、京都府南丹市、京都府京丹波町、京都府福知山市、京都府綾部市、兵庫県丹波篠山市、兵庫県丹波市にまでおよぶ広大な地域だった。その丹波国の5分の4ほどの地域を1554年頃から十年間あまり支配下に治めて戦国大名としての地位をもっていたのが内藤氏(内藤宗勝)だった。そしてその居城が丹波三大山城の一つ「八木城」。八木城は南丹市八木町と亀岡市の境の城山(標高330m)に築かれていた。

 1467(「人の世むなし」)年から1477年の11年間続いた応仁の乱、乱終結からの110年間あまり、丹波国は「動乱の時代」であった。丹波国は室町幕府(足利幕府)将軍に次ぐNO2の地位にある室町幕府三管領家(細川家・斯波家・畠山家)の一つ細川氏の領国(守護)ではあったが、細川氏の内部分裂、三好家の台頭と近畿支配、丹波国守護代となった国人たちの台頭、地域豪族たちの動きなど、およそ100年間にわたって絶え間ない戦(いくさ)が繰り広げられた。

 有力国人・内藤氏の居城・八木城は1500年ころに築城されたと伝わるが、1538年には丹波篠山の八上城に拠点をおく有力国人・波多野氏の攻撃によって1か月あまりで落城したが、その後の城の奪還に成功。そして再び1553年に波多野氏らによって落城させられた。この戦いで城主の内藤国貞は戦死した。その状況下、内藤一族は四国・畿内で勢力を拡大していた三好長慶勢力をたより、長慶の有力家臣である松永久秀の弟・松永長頼を養子として迎え、再び八木城を奪還した。(戦死した国貞の娘の婿となる。そして、まだ幼い国貞の息子・貞勝の後見人となる)。

 その後、松永長頼は内藤宗勝と名乗り、波多野氏を降伏させ丹波国の多くを支配下におく一大勢力(1555―1565)へと内藤家を復活した。(※1530年代〜60年代には「内藤氏」「波多野氏」「赤井・荻野氏」の三大国人勢力が分裂した細川家や三好家などの諸勢力とむすびつき丹波国にて勢力拡大を争った40年間となった。)

 その内藤宗勝が1565年に赤井・荻野氏との戦いに遠征していた際に突然に討ち死にしてしまったため、丹波国におけるる内藤家の支配力は低下・衰退したが、それでも丹波国3分1程度を支配下におき続けた。後を継いだのが宗勝と国貞の娘との間に生まれた内藤如安(後の内藤ジョアン―キリシタン信仰者)だった。(※1565年、13代足利将軍・足利義輝が三好の勢力によって二条御所を攻められ殺された。享年29歳だった。)

 織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて1568年に上洛、その後畿内の多くを支配下に治め、1569年に義昭は第15代将軍に就任する。しかし、3~4年で信長と義昭の対立が生じ、1573年義昭は反信長を掲げ京都にて挙兵。内藤如安は将軍方として✝(クロス)の旗のもと2000の軍兵を率いて京都に進駐した。しかし、将軍方は信長軍に敗れ、義昭は京都から放逐される。ここに室町幕府は終焉した。

 織田信長にとっても京都の背後にある丹波国の掌握は難しかった。この丹波国の掌握・支配下におくために明智光秀に「丹波進攻」(攻略)を命じる。1575年、光秀は丹波攻略にとりかかった。1575年、まず丹波国で京都に近い東丹波で反信長の旗幟を鮮明にしていた内藤ジョアンの立て籠もる八木城と宇津頼重の立て籠もる宇津城(京北町)の攻城に取り掛かった。(※八木城が落城した年月は明らかになっていない。1575年説が有力だが、1579年説もある。宇津城が陥落したのは1579年で、宇津頼重は最後のさいごまで信長軍に抵抗し続けた。)

 有力国人で丹波篠山の八上城を本拠地とする波多野氏はいちおう信長への恭順を表明していた。また、西丹波氷上郡をの黒井城を本拠地とする赤井・荻野氏は旗幟を鮮明にはしていなかった。

   落城にともない内藤ジョアンは、西国の毛利家が支援する足利義昭が滞留する鞆の浦(広島県福山市)へと逃れた。三度の壮絶な攻城戦と落城、二度の城の奪還戦を経たこの城が八木城だ。私は10年ほど前の2010年に、立命館大学の城郭研究会(サークル)の学生たちとともにこの八木城に初めて登った。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、明智光秀の丹波攻略の放映がそろそろ近くなった2020年12月6日(日)、早朝に自宅を出て、10年ぶりに八木城に行くこととなった。ここ八木城は、標高330mの城山の山頂から放射状に広がるように曲輪が配置されいる巨大な山城である。丹波国北部から京都に向かう京街道と保津川を眼下に望む。八木城登山口から山を登り始めるとすぐにかなり広域な「北屋敷跡」と呼ばれる「武家屋敷群」の場所がある。かなりの数の家臣たちの屋敷敷地があったことが推定される。

 「国史跡」となってもいるためか登山道はかなり整備されていて、「🔴🔴合目」の看板も設置されている。本丸のある山頂までは約40分と記されているが、老齢の私はその1.5倍以上の時間をかけてゆっくりと登る。登るにつれて大手道の勾配がきつくなってきた。丹波古生層と地質学では呼ばれる地層が露出していて、チャート(海の古生物の死骸が埋まる岩石でとても硬い。)岩石が転がってもいた。

 五合目あたりは朴木(ほうのき)の葉が一面に敷き詰められていた。春の5月頃には、このあたりは朴木の高貴な花の香りに包まれることだろう。7合目あたりに「対面所曲輪(郭)群」が見えてきた。

 ここの郭群は、この八木城の正門的な番所機能をもつ防衛機能郭群だ。おそらく三度の攻城戦では最も激しい戦闘が繰り広げられた場所かと思う。12月上旬だがまだ一部紅葉している樹木が残っていた。本丸郭とを遮断する堀切も見える。この郭群をさらに登って8合目あたりまで登ると、若い2人づれの女性が下山してきた。

 9合目をすぎて息が上がるが、ようやく本丸(本郭)が見えてきた。本丸郭を囲むように石垣が見える。

 本丸郭に到着。時刻は午前11時。本丸には男女10人ほどの人がいた。この山城の見学に来た団体のようだ。本丸郭の周囲は土塁で囲まれる。

 ここ本丸からは眼下に保津川に沿った京街道、園部・船井郡方面、亀岡・京都方面が一望に見渡せる。本丸郭の裏手に行くとここにもかなりの石垣群が残り、丹波篠山方面の山々が見渡せた。明智光秀軍の侵攻に抵抗して豪族たちが立て籠もった丹波一ノ宮「出雲大社」の背後の山(ご神体)に築かれた「御影山城」(この山城もなかなか見応えのある山城)も正面に見下ろせた。

   はるか向こうにはひときわ高い愛宕山の山頂もよく見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


故郷へのようやくの帰省❷—今年の越前水仙は、雪に埋もれてほとんど開花できず—山けむる鯖街道

2021-01-27 07:28:49 | 滞在記

 私の故郷、越前海岸は、冬の季節は越前水仙(日本三大水仙郷)と越前ガニが有名なところ。1月に帰省した時には、海沿いの山の中腹にある実家の水仙畑の水仙や沿道で売られている水仙をたくさん買って、京都に持ち帰っていた。毎年かかすことなく。ところが今年は開花している水仙はポツポツとあるくらいで、ほとんど開花せずになぎ倒されていた。

 帰省した翌朝に、水仙郷の中心地である越前岬周辺の地区に向かい、水仙がいつも売られている集落(左右・玉川)に着いたのだが、いつもたくさんの水仙が売られているところには一本の水仙もなかった。おばさんに聞いてみると、「今年はぁ、水仙がぁ、ほとんどないんやって。今年は特別にぃ、12月10日ころから大雪がここらでも降ってぇ、それからぁ、毎週毎週 雪が降ってぇ、水仙が成長できんでえ、開花もできんかったんやて‥‥」とのことだった。特に、1月9・10・11日の三連休の時の降雪が多かったようだ。

 越前水仙の多い越前岬灯台のあたりの山に登るとまだ残雪がかなりあった。水仙が雪に覆われ、その重みでなぎ倒されていた。開花している水仙はわずかだった。

 ここ何十年、もっと雪が多い年はたくさんあったが、それでも雪の中で水仙が開花していたのだが‥。今年は12月のかなり早い時期からの度重なる降雪のためこのような光景になったようだ。

 日本三大水仙郷とは、越前海岸と淡路島の黒岩水仙郷と伊豆半島。なかでもここ越前海岸の水仙郷は、30kmをこす日本海沿いの山肌に自生(群生)していて最もその規模が広くて大きく、しかも野生の水仙だ。

  上記3枚の写真は私の実家の畑。水仙が自生している。(2009年1月、積雪の中で花を咲かせている。)

  越前水仙は毎年11月上旬頃に地中の球根から地表に芽を出し始める。12月上旬頃になると かなり茎とともに葉も成長し大きくなる。12月中旬ころには蕾(つぼみ)が出始める。この頃には水仙の茎や葉は60%くらいまで伸びる。そして、1月上旬から1月中旬すぎまでにはほぼ成長が完了し、白い色に黄色の高貴な香りの水仙の群落となる。だから、1月中旬以降に大雪となっても茎や葉はあまり折れず、雪の中に花が咲いている光景となる。しかし、とても珍しく成長途中の12月中旬に大雪が降った今年は、水仙は雪に埋もれて倒されたり折れたりして その後の成長ができなかった。

   越前岬灯台の近くに作家水上勉の石碑がある。

 その石碑には、「水仙—越前岬という日本海にのぞんだ断崖に咲く水仙は、野生水仙である。  剣型の細い葉と、白または黄色のかわいらしい花を咲かせるこの草は、数少ない冬の花の中でも清楚な感じがして愛好家も多いのであるけれど、越前水仙といわれるものは、野生のためか、都会地の温室咲きの同種の花より、一見して強靭に見える。葉の色も濃緑を心もち増していた。  波のうち騒ぐ強風の丘で育ったためか、強靭にみえても野生であるだけにいっそう可憐にみえぬでもなかった。」(水上勉『日本海辺物語』)と文字が刻まれている。

   今年のように水仙の花がほとんど開花できなかった年は、私の記憶には数回はある。カニは子供の頃の冬の食卓には毎日のように出された。(主に小さなメスのコッペガニ[セイコガニ]) 「ばあちゃん、またカニか‥」という毎日だった。私の子供時代にとって冬といえば、①カニ、②竹で毎年作った竹スキーでのスキー、③水仙、そして④父や祖父の「半年あまりの出稼ぎ(伏見や灘の酒造会社)」。

 ⑤荒波で弱って岸に打ち上げられたモンゴルイカ(全長1mほどのかなり大きなイカ)を中学校まで45分間ほどの海岸沿いの道での登下校中に歩きながら探すこと。一冬に一匹、多い年で2匹ほど見つけたこともあった。当時一匹2000~3000円ほどで売れた。今で言えば2万~3万円くらい。田舎の中学生にとってすごい大金だった。

 このモンゴル烏賊(イカ)だが、のちに「紋甲(モンゴウイカ)」(別名:「雷烏賊・カミナリイカ」)というのが正式名であることを知った。イカの背中に丸い紋(もん)があることから名づけられているらしい。私にとって海の向こうにはロシア(ソ連)やモンゴルの国があると、子供の頃からずっと思っていたので、「モンゴルの国」近くの海から冬の日本海の荒波に押されて日本海沿岸まで来てしまい、疲れ果てて岸に打ち上げられた巨大なイカと思い続けていた。海岸の波打ち際で見つけるモンゴル烏賊は、まだ息があり、ひーひーと切ない音を出していた。

 私の故郷の南越前町に隣接する越前町のいくつかの漁港には、カニ漁をする大中の船舶が60隻ほど停泊している。カニの解禁日は11月6日~3月末だが、メスの「セイコガニ」は資源保護のため最近では12月31日までとなっている。オスは「越前ガニ」呼ばれる。山陰地方では「松葉ガニ」と呼ばれる。

 昨年から今年のカニの季節、GO-TOキャンペーンでカニを食べにくる人たちを招致するための宣伝もしていたが、12月下旬からGO-T0は一時停止となったので、旅館や料理屋・食堂などはかき入れ時だけに打撃だろう。しかも、今年は水仙もだめだ。ちなみに、カニ料理を提供しGO-TOキャンペーンの対象となっている旅館・料理店・食堂は、越前町には約70軒、南越前町には約20軒がある。

 一日雨の予報の中、京都への帰路、敦賀の「さかな街」に立ち寄った。ここは日本海側では最大の魚市場。海産物を扱う店や食堂など60店舗あまりがある。福井県は全国でも1.2.3位を争うコロナ感染者の少ない県、緊急事態宣言の対象外の県だが、店舗の3分の2ほどは2月7日まで臨時休業をしていた。セイコガニや油ののった鯖の干物などを買って車に積む。

 敦賀の町外れにある疋田地区まで行くと積雪が多くなってくる。織田軍の侵攻で2度の落城悲劇の城「疋壇城址」も雪に覆われていた。西近江路(街道)を山中峠まで登る。豪雪が廃屋の屋根から滑り落ち1階は完全に雪に埋もれている。

 山中峠は小雨がふぶいていた。滋賀県に入る。高島市マキノ町の田園風景。冬枯れの景色、800m級の県境の山々が冠雪している。

 マキノのメタセコイアの並木を通る。あたりは一面の雪景色。喫茶店「並木カフェ メタセコイア」で軽食とコーヒーを注文し休憩。

 日本海魚市場で買ったセイコガニや鯖の干物を、京都市岩倉地区の親戚や銀閣寺近くの娘の家に届けるために、若狭路(鯖街道)を通って滋賀県高島市朽木町に。ここもまだ積雪が多い。鯖街道を安曇川沿いに京都市方面に向かう。この鯖街道(国道367号)の渓谷は、東は比良山系(1000m~1200m)、西は丹波山系(800m~900m)に挟まれた長い渓谷だ。

    安曇川上流域の葛川地区にはかやぶきの家が多い。雨が少しあがり始め、かやぶき集落の背後、霧が山々にかかる(山のけむり)光景が美しい。このあたりまで来ると積雪はほぼなくなっていた。滋賀と京都の県境の花折峠や途中越えをすぎると京都市大原地区が近くなる。

 大原や八瀬を通り、岩倉地区に立ち寄る。息子の妻の実家がそこにあるので、カニや鯖を届けた。コロナ禍のこともあり、久しく親戚の伊佐さんたちには会えていなかった。岩倉から銀閣寺近くの娘の家に行き、海産物を少し届けた。