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彦四郎の中国生活

中国滞在記

この7・8月<映画で考える戦後80年>戦争の実像、映画、ドキュメンタリー、ドラマ続々 旧作の再公開

2025-08-23 07:50:34 | 滞在記

 7月中旬頃から8月下旬の真夏の1か月以上にわたって、京都鴨川に架かる三条大橋の東西のたもとに咲く百日紅(サルスベリ)の花。日本での二か月間余りの夏休み滞在、7月には映画「国宝」を観た。そして、8月に入り‥。

 8月8日(金)、映画「木の上の軍隊」(平一紘監督・脚本、堤真一・山田裕貴主演)を観た。第二次世界大戦の沖縄戦で激戦地となった島(伊江島)で、終戦を知らないまま2年間、カジュマルの大木の上で身を潜めていた日本兵の二人がいた。そんな実話を基にしたこの映画はこの7月25日から全国で公開された。

 監督・脚本は沖縄出身の平一紘(35)。映画の舞台は沖縄本島北部の西に浮かぶ伊江島。沖縄戦では米軍が1945年4月1日に本島中部に上陸。4月16日には伊江島にも上陸・侵攻し、日本軍の現地部隊との激しい戦闘の末、21日には米軍に制圧された。沖縄県史によると、伊江島での日本側の死者は軍民合わせて4794人にものぼる。恐怖と飢えにさらされる中で、木の上の二人(下士官と新兵)は衝突しながらも生き延びる。

 2024年の夏、伊江島で撮影に使うカジュマルの木を一時的に移植させるために掘った場所から、日本兵とみられる20人分相当の遺骨が見つかり、遺品や手投げ弾などもあったようだ。実際に約2年間、木の上で過ごしたのは、宮崎県出身の山口静雄さん(下士官将校の少尉/1988年に78歳で死去)と沖縄出身の佐次田秀順さん(一兵卒/2009年に91歳で死去)

 沖縄戦当時、山口さんは35歳、佐次田さんは27歳だった。佐次田さんは、戦争の終結を知ったあと、地元沖縄県うるま市に戻り、結婚し五人の子供の父親となった。

 私が映画「木の上の軍隊」を京都で観ている頃、私の妻は、8月6日から10日までの沖縄旅行に、娘夫妻と孫たち(3人)の合わせて6人で行っていた。伊江島が見える今帰仁城などへも行ったようだ。沖縄土産は「ハブカレー」(猛毒の沖縄地方の蛇・ハブのエキス入り)と沖縄のサトウキビ黒砂糖を買ってきてくれた。いろいろと思い出深い旅行となったようだが、妻が最も印象(心の)に残ったのは、沖縄本島南部にある「糸数アブチラガマ洞窟」(全長270mの自然洞窟)だったと話していた。

 沖縄戦でこの洞窟(鍾乳洞)も住民の避難場所となり、戦局が本島南部に移るにつれて、日本軍の作戦陣地や南風原陸軍病院の糸数分室(「ひめゆり学徒隊」の生徒たちの一部もここにいた。)ともなった。戦闘がこの地で激しくなると、このガマ(洞窟)は、軍民同居の状態となった。そして、米軍の攻撃の的の一つとなり、多くの命が失われることになったガマの一つだった。また、ここのガマには何百人もの重症の傷病兵がいたが、症状の重い者はやむなく置き去りとなり死んでいった場所でもあったようだ。

 妻はこのガマの資料館で売られていたと思われる一冊の著書を買って帰って来た。『今なお、屍とともに生きる—沖縄戦 嘉数高地から糸数アブチラガマへ』(日比野勝廣著)。私もこの書籍を読み、沖縄戦の様相の一端を知った。ガイドの人が洞窟内の電灯を消すと、ガマの中は真っ暗になり何も見えなくなったと妻は話していた。このような中で、人々はわずかな🕯🕯ロウソクを灯りに、生きていたのだろう。

 この夏の8月15日のお盆の日に全国公開される映画「雪風 YUKIKAZE」。日本軍と米軍との戦い(太平洋)の転換点となり多くの日本海軍の主力空母が海に沈んだミッドウェイ海戦(1942年/昭和16年)から、ガタルカナル、ソロモン、マリアナ、フィリピン・レイテ沖海戦、終戦間際の(1945年/昭和20年)戦艦大和の沖縄に向けての特攻出撃艦隊まで、幾多の主要な日米海戦に参加し、沈没することなくほぼ無傷で終戦までを戦い、「幸運艦」とも呼ばれた駆逐艦「雪風」。(沈没した日本艦の乗組員の救助にもあたった。)

 その「雪風」の艦長(竹野内豊)と「雪風」の下士官・兵卒を束ねる先任伍長(玉木宏)の二人を中心に物語は進む。戦い抜き、幾多の命を救い続けた艦。「生きて還す、生きて還る」、その史実に基づく物語。原作は長谷川康夫著『雪風』(小学館文庫)。長谷川氏はこの映画の脚本を担当もしている。私は、この原作を8月上旬より読み始め中旬に読了、8月17日にこの映画を観に行った。「一人でも多くの人を救う!」そんな現代世界に通じるメッセージが込められた映画だった。

 1945年8月の終戦後、「雪風」は、砲塔などの軍備を全て撤去され、中国大陸や東南アジアに残された日本人たちを、日本に輸送する船として2年間余り働いた。艦長はこの間に激務がたたったためか、病気で亡くなっている。先任伍長は沖縄に向かう途中、米国の戦闘機の襲来時に戦死している。こののち、「雪風」は戦時賠償の一つとしてソ連(ロシア)に引き渡され、数年間ソ連で使われたのちに、爆破により沈没した。

 第二次世界大戦終戦80年を迎えるこの夏、戦争を扱った(題材)とした多くのドラマや映画、そしてドキュメントがテレビなどても放送されている。あの戦争による悲劇を忘れず、そして現在をとらえなおし、未来への日本の選択を誤らないために、多くの人にも観てほしい作品がたくさんあった。

 たとえば、8月13日にはNHK総合で「八月の声を聞く男」。元長崎放送局記者の伊藤明彦氏の著作『未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記』を原案に、NHK大河ドラマ「麒麟が来る(2020年)」の脚本を手掛けた池端俊策が脚本を担当。主人公の伊藤のモデルを木本雅弘が演じていた。被爆者の一人の役として主演している阿部サダヲの存在感も‥。この夏、長崎と広島に投下された原爆に関するドキュメントやアニメ、ドラマも多く放送されたが、改めて、核兵器の恐ろしさとその使用の非人間性を思う。被爆した何十万もの人々の苦しみを思う。

 この夏の参院選での東京選挙区に出馬し当選した参政党のさやか候補は、「日本は核兵器を持つべきだ。軍事費としては一般的に通常兵器よりも安上がりだからです」と聴衆に語ったが、「語るに落ちた」というか、核武装賛成という主張をするにしても、「安上がり」という言葉をよくも使えるなぁ‥と、その人間としての愚かさ、まっとうな人間としての知性・品性のなさに怒りを感じる。

 丸善書店に8月中旬には、新書購読人気NO2として『核抑止論の虚構』(豊下楢彦著)[集英社文庫]が並べられていた。この8月、シベリア抑留者を描く映画「ラーゲリーより愛を込めて」(二宮和也主演)もテレビで再放送されていた。

 この夏、テレビで映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」が放映されたのを視聴した。現代の、母一人子一人のシングルマザーの娘の女子高校生が、1945年の夏にタイムスリップ。そこは特攻戦闘機基地のある町だった。

 そして、特別攻撃隊の隊員と、初めての恋におちいる。そして、彼は特攻機に乗り込み離陸し帰還しなかった。再び現代に娘は戻り、「生きられる、未来もある」という現代社会で、改めて頑張って向き合い直すというストーリーだった。「御国のため、親しき人を守るため‥」と、死に追い込まれた特攻隊員には、深い敬意と哀悼を私は感じる人間の一人だ(死への特攻を美化するわけではなく)。そんな特攻について、日本の若い人たちに観てもらいたいテレビ放映された映画でもあった。

 この映画は2023年に全国公開され、興行収入45億円を突破する大ヒットの作品となった映画だった。原作者は作家の汐見夏衛。主演は福原遥。2026年には、続編の「あの星が降る丘で 君とまた出会えたら。」が制作・全国公開される予定となっている。

 この夏、他に、8月16日・17日の2夜連続でNHKスペシャルドラマ「シュミレーション~昭和16年の夏の敗戦~」なども放映された。また、戦争を描いた過去の作品の再上映(4Kデジタル修復版)も相次いだ。大岡昇平がフィリピン・レイテ島の戦場を描いた『野火』は2度映画化されている。私はこの『野火』を読み、映画を観て、そして、2000年代にレイテ島に3度にわたり行ってきた。

   また、広島原爆投下前後の広島・呉の日常を描いたアニメ「この世界の片隅に」も、各地の映画館で再上映がされた。そして、ドキュメンタリー映画として、終戦間際の満州で、生き延びるために性の相手として差し出された女性たちの声を伝えた「黒川の女たち」(※「黒川」は長野県にある村。この村からも満蒙開拓団が結成されて満州に集団移住した。)  このドキュメンタリー映画の語り(ナレーターは女優の大竹しのぶ。)   映画「長崎 閃光の影で」は、長崎原爆投下後、被爆者の救助にあたった3人の看護学生が主人公。原爆の惨状や極限状態での人間模様に迫っている作品のようだ。(この映画は、滋賀県の各地でロケ撮影が行われた。)

 この7月・8月、テレビでの戦争関係のドラマやドキュメンタリーの放映は、数多くあった。

 8月19日(火)、恐竜好きの五歳の孫の寛太と二人で、京都市内の映画館に行き映画「ジュラシック・ワールド—復活の大地」を観た。この夏、孫との良い思い出になった。

 8月29日には、大学の夏休みでの日本滞在を終えて中国に戻ることになる。次の二つの映画はとても観たいのだが‥。一つは「盤上の向日葵(🌻)」(10月31日から全国公開/坂口健太郎・渡辺謙が主演。)。この映画の原作『盤上の向日葵』(柚月裕子著)は、2年ほど前に読了し、今は中国のアパートにある。もう一つは「宝島—Heros Island」。沖縄がアメリカだったころ(1945年~1971年までの占領、アメリカ統治下)。幼馴染の仲間たち4人が行っていたこと、そしてリーダー格は行方不明に‥。残された3人は、警察官、教師、ヤクザとそれぞれがなる。それから20年後に彼らがたどり着いた真実とは‥。—「俺たちの故郷、"宝の島"を取り戻せ!」(主演は、妻夫木聡、永山瑛太、広瀬すず、窪田正孝) 9月19日全国公開。

 この二つの映画は、いずれ観ることのできる機会はあるかもしれないので、19日に原作書籍を丸善書店で購入した。原作は第160回直木賞の受賞作品『宝船』(真藤順丈著)/講談社文庫(上・下)  中国でゆっくりと読了したい。アメリカ統治下の歴史を知るうえで格好の著作かと思われる。

 終戦から80年の今年。そして昨日、8月22日、私は73歳の誕生日を迎えた。父は3年間余りのシベリア抑留ののち、日本に帰国し、その後に寺坂家に婿入りして母と結婚、私は1952年(昭和27年)に生まれた。

◆この戦後80年の今年の夏、中国ではこの7月~10月にかけて、「抗日戦争勝利」の記念行事や映画の上映が行われる。7月に公開された映画「南京写真館」(日本軍による南京大虐殺事件を扱った映画)は、すでに5000万人近い動員数となり、映画収益も何千億円。9月18日公開の「731」(日本の細菌兵器部隊731部隊の実態を描く)は、すでに多くの中国国民の関心をあつめている。その中国に、私は8月29日に戻る。「反日感情の高まり」が懸念される時期であり、ちょっと中国渡航も心配ともなるが、その中国で暮らすこととなる‥。

 

 

 

 

 

 


お盆での帰省—「鬼ケ嶽の火祭」、「コウノトリが舞う里づくり—人と生きものの共生」

2025-08-22 12:37:48 | 滞在記

 8月中旬、京都出町柳の鴨川沿いにある小さな寺の門前、「お盆 ご先祖と ともに 心洗う」と書かれた門前の書。私は妻と二人で13日から15日まで、福井県南越前町河野地区の糠(ぬか)集落の実家に帰省した。寺坂家の小さな墓から集落や日本海の海が見える。家の仏壇には、「おじいちゃん・おばあちゃん(祖父母)と父(享年62歳)・母(享年33歳)の、4人の位牌。14日の早朝に集落の円光寺のお坊さんが家にお経をあげにきてくれた。

 越前海岸の敦賀—越前岬の間は、「越前断崖」と呼ばれる海にせり出した断崖的な山々が続く。そして、山からの谷川が流れてくる断崖に張り付いたようなわずかな平地に集落ができている。集落が営まれた箇所には、必ず海に流れ込む谷川(水)が必要だった。前号のブログでの南越前町の河野浦も甲楽城(蕪木)浦もそのような地だ。そして、2000年頃までは陸の孤島だった大谷集落も。私の実家のある糠集落を流れる糠川はけっこう大きな谷川で、子どものころは、渡り蟹(かに)や天然のウナギなどもよく遊び半分で獲っていた。

 この糠集落の成り立ちは相当に古い。集落の「円光寺」の創建は奈良時代の768年。集落のはずれの日本海沿岸に山の断崖から海に落ちる「白竜の滝(はくりゅうのたき)」がある。「糠浦:重要文化的景観—越前海岸の水仙畑・糠の文化的景観—白竜の滝伝説」と書かれた大きな看板が設置されている。私の家にも、海岸べりの山の傾斜地の水仙畑がある。

 その説明版には、「‥‥円光寺(768年)の創建より何百年も前、出雲の国(島根県)より5家族19人が、反子(そりこ)という舟先が高く反っている舟で、対馬海流にのり糠浦に漂着した話が村の伝説として話し継がれている。糠浦の村社は十九社(じゅうくしゃ)神社として現在も続く。‥‥」と記されている。そして、出雲国よりこの十九人を海の上から守り続けて越前の海辺まで来た白竜が、この滝の上にある小さな池で体を休めたと伝説は語る。

 糠浦や河野浦から、夕焼けの美しい日には、水平線のかなたに京都の丹後半島、さらに鳥取県の大山(だいせん)あたりまでが遠望できる。飛鳥、奈良、平安の古代の時代、ここ日本海沿岸は、大陸とつながる日本の国の表玄関だった。

 8月14日の午前中、実家の家と武生(越前市)市街の途中にある大虫集落の大虫神社の一の鳥居に「鬼ケ嶽火祭り—たいまつ登山15日夜」と書かれた看板が立てかけられていた。標高623mの鬼ケ嶽(岳)では毎年、この15日に火祭りが夜に行われ続けている。

 登山口に行ってみると、「頂上まで1時間半 1500m」「鬼ケ岳火祭り(8月15日夜)—その昔、水不足の時に、山上の竜神に雨乞いの火祭りをした故事により行われる祭で、ふもとから松明(たいまつ)をかかげ山に登り、山頂で神事を行うもので、270年の伝統がある。」と、字も薄くなりかけた古びた看板に書かれている。(この看板、かなり古くおそらく50年以上前には作られたようだ。だから270+50としても320年の伝統があるのかと思われる。)

 鬼ケ岳と登山口付近の水田の向こうには、別名・越前富士の日野山(標高795m)が見える。この日野山は紫式部の和歌にも詠まれている山だが、毎年8月23日の夜には深夜登山の行事がある。(麓には日野山神社)翌朝の御来光を拝みながらの神事が行われる。

 私の実家からも近い武生市(越前市)白山地区や黒川地区、安養寺地区、坂口地区などの武生市西部の農村地区は、「コウノトリ」が営巣し飛来している地区でもある。黒川地区の高校時代の後輩の一人・間所君の家に行き、中国福建省福州のジャスミン茶を渡しに行った。

 ついでに、白山地区にある「コウノトリPR館」に久しぶりに立ち寄る。「コウノトリが舞う里づくり—人と生き物の共生」を掲げて、水田の農薬使用を控えるなどの地域づくりを始めて、もう数十年にもなるこのあたりの地域。

 安養寺地区はまた、「鷺草(さぎそう)」が自生する地でもあった。ちょうどお盆のこの時期、「安養寺さぎ草展」が、地区の寺の境内で開催されていたので立ち寄った。サギ草の花の展示が行われていたが、地元の安養寺集落の人たちだけでなく、武生第五中学校の生徒たちもこのサギ草の栽培に取り組んでいるようだ。

 ここのサギ草展は今年で25回目を迎える。寺の境内は、桔梗(ききょう)やアサギマダラ蝶が好む「藤袴(ふじばかま)」の黄色い花が美しかった。

 南越前町の今庄地区と河野地区を襲った2022年8月上旬の大水害で、私の友人の松本君の家も濁流にのまれて流された。河野川上流の渓流で、「渓流釣り場」を営んでいた彼の家は流され、家族は自衛隊のヘリコプターで救助された。この15日、彼のかっての渓流釣り場に行ってみた。渓流は岩石にのまれ、母屋と食堂は取り壊され、1棟のバンガローだけが流されずに残っていた。

 15日、滋賀県朽木村を経由して、安曇川沿いに京都に向かった。途中、安曇川上流の渓流沿いに立つ「キッチン四季」に立ち寄り珈琲とケーキを注文。とても素晴らしい景観と、老夫婦の心休まる客対応。翌日16日、京都の「五山の送り火」が行われた。火は「大文字」から➡「妙法」➡「舟形」➡「左大文字」➡「鳥居」へと次々と点火。鳥居の山の麓の広沢の池では、灯篭流しが行われ先祖の霊を西方浄土へと送った。この日、南越前町のとなりの敦賀市の松原海岸でも、灯篭流しが行われた。


 

 

 

 

 

 


越前国府(武生/現・越前市)と河野浦を結んだ山中の「府中馬借街道」の大まかなポイントを車で巡る

2025-08-20 18:15:17 | 滞在記

 お盆帰省中の8月14日の早朝に福井県南越前町河野の小高い山中にある河野神社を初めて訪れ、麓に下り、北前船主館群通りを改めて散歩してみた。

 「右近家 北前船主の館」はこの界隈の館群ではひときわ広大な建物群が並び建つ。背後の山中には西洋館の建物もある。北前船は、江戸中期から明治30年にかけて、大阪—蝦夷地(北海道)を結んで、日本海廻りで各港で商い(買積)をしながら不定期に往来した廻船である。(蝦夷地の昆布やニシン、新潟や酒田の米、大阪や兵庫、瀬戸内海各地の酒・塩・砂糖などなどを運んで商売をした。)右近家は、全盛期には八幡丸ほか30余隻もの北前船を所有した。以後、北前船の衰退と共に蒸気船を導入し、日本の海運の近代化を進めるとともに事業の転換をも計り海上保険業に進出。日本海上保険株式会社を設立した。(※のちの日本海上火災保険。現在の損保保険ジャパン日本興亜株式会社[略称:損保ジャパン]に至っている。)  ※入館料は300円(定休日は水曜日/午前9:00~午後4:00開館)

 この右近家などのある北前船主の館群とその通りは、2017年に「日本遺産」に認定された。偶然に14日の早朝に50年ぶりに出会った河野中学校の2学年後輩の右近恵君(前号のブログで書いた)は、「右近姓」なので、この右近家と関りがあるのかと思われる。河野浦の北前船主たちの家の菩提寺であった河野浦の寺の、現在の住職でもあった。

 伊予国(愛媛県)を本拠地とした河野水軍の流れを先祖にもつとされる中村家は、江戸時代の後期に右近家と婚姻関係を結び、北前船主となり、「安全丸」など多数の北前船を所有。中村家住宅には、三階建ての望楼座敷棟がある。右近家と中村家は、共に「日本海五大船主」。この河野浦に五大船主のうちの二つがあったことになる。※入館料300円(定休日は水曜日/9:00~16:30)[右近家と中村家の共通券は500円)

 北前船主の館通りには、他に刀禰(とね)家などの建物群もある。

 翌日15日の早朝6時から、この河野浦から越前国府のあった府中(武生市/現在は越前市)まで山中の「府中馬借街道」を車で巡ってみることにした。河野浦を起点としての約15kmの山中の道のりの街道が今も山道としてある。この越前国の府中(ふちゅう)は、かって紫式部の父が「越前守」に任じられ越前国府の国衙に赴任したため式部も父とともに暮らした地。この時代から、越前府中と河野浦を結ぶこの西街道(のちの府中馬借街道)は越前府中の外港的な役割として開けてもいたようだ。

 30年ほど前に、林道ができ、府中馬借街道の大まかなポイントを巡ることができる。確か15年ほど前にオートバイでこの林道を行ったことがあったのだが‥。急こう配の車1台が通れるくねくねの道‥しばらくは、河野浦名産の梅林の畑が山中の傾斜地に続くため、梅林農家の人たちの車の行き来があって林道はまだ安心して車で走れたが‥。梅林が途切れると、‥。ここに来たことを後悔し始めた。アスファルトで舗装されてはいる林道なのだが、ここ数年の大雨などのための土砂崩れ箇所も多く、めったに車が通らないためか、道が山の斜面から崩落した小石などでダートとなっていた。

 林道はほぼ馬借街道に沿っているらしいが、海抜(標高)0mの河野浦から標高470m余りの矢良巣岳(やらすだけ)の頂上付近の峠まで続いていた。ダートの道を30分ほど恐る恐るにゆっくりと車で進み、峠まで来ると、道のダート状態がほぼ少なくなり胸をなでおろす。林道のいたる箇所に、「府中馬借街道」の標識(「トレイルランコース・府中馬借街道」)が見られ、かっての街道だった細い山道も見えた。

 そして、ようやく中山峠付近に至った。かっての中山峠は現在トンネルが開通していて、府中(武生)方面に抜けられる。

 トンネルを抜けると再び馬借街道の標識が見え始めた。坂口地区の集落付近には、「府中馬借街道」の大きな説明版がある。そこには、「越前国の国府が置かれた古代から、西街道と呼ばれたいくつかのルートが開かれた。‥‥」と書かれている。この街道は、主に越前国でとれた米などを府中から河野浦まで運んだルートでもあったようだ。坂口集落のある地区は、「清流と生物の里」と書かれた看板が見える。コウノトリなども飛来し餌をとる光景も見られる里でもある。この坂口地区からいくつかの小高い峠を越えて広瀬地区に、そして府中(武生・越前市)に至る約15kmが「府中馬借街道」(馬に荷をのせて運ぶ山中の街道)の道のりだった。坂口の村はずれに赤い鳥居の神秘的な神社が遠望できる。

■前号のブログの補足—日本の歴史上、室町時代は1336年~1573年までの約240年間となっている。そして、この室町時代の約240年間のうち、1337年~1392年までを南北朝時代、1467年~1573年までを戦国時代とも言う。

 前号のブログで書いた恒良親王は、蕪木の洞窟で隠れ潜んでいたが、北朝方(足利軍)に捕らえられ、京都に護送され幽閉された。そして、1年後の1338年5月に毒殺された。

 


北前船主の館群のある越前国河野浦と伊予河野一族(水軍)との関わり—南北朝時代の「金ケ崎城」の戦いに一族の者たちが加わっていた、そして落ち延びて河野浦に‥

2025-08-20 06:08:41 | 滞在記

 福井県南越前町河野(浦)は、伊予(愛媛)の河野氏(水軍)との関わりがあることを前号のブログで少し触れた。私はこの河野浦にあった河野中学校に3年間通ったのだが、河野浦にある神社の存在についてはこれまでまったく知らなかった。それほど、この河野浦の神社は人目につきにくい場所にあった。河野浦と河野水軍との関わりが、この神社(河野神社)に行けば何かがわかるのではないかと思い立ち初めて行ってみることにした。

 この夏のお盆帰省の折の8月14日の早朝6時すぎ、コンビニエンスストアや北前船主館群の背後にある山にある神社に向かった。向かって右側の北前船船主右近家邸宅群の背後の山は、かって越前一向一揆軍によって河野新城(山城)が築かれた。1575年、敦賀半島からも船で押し寄せた織田信長配下の軍勢などによって陥落している。そして、向かって左側にある小高い山の上に河野神社があるようだった。北前船主の一人、中村家邸宅の裏山の神社に続くらしい古びた急な石段を上る。

 石段の途中から河野浦の集落、そして敦賀湾や半島を望む。かなりの石段を登りきり左折をして山道をさらに登ると突然に古色蒼然とした鳥居が見えてきた。あたりの雰囲気は早朝ということもあり物の怪(もののけ)でも出そうな雰囲気。「こんなところに神社があったのか‥」と。鳥居をくぐってさらに登ると山門らしき建物。右手の方角には河野新城があった山が見える。

 山門をくぐると立派な社殿らしき建物群が見えてきた。最も立派な社殿には、「磯前神社?」と読めるくずし字の社殿名が掲げられていた。さらに左手には3つの小さな社殿があった。そして、神社の山を下りて人家のある麓に。

   ここで地元の人らしい高齢の男性に、「あの‥すみませんが‥、この上の山にある神社について聞きたいんですが‥」と問いかけたら‥。その男性は、「あのう‥、寺坂先輩ではありませんか‥?!」と突然に言われた。「ええっ‥はいそうですが‥」と答えると、「右近です、2年下の右近です‥」と。「ああ、あの右近君か」と私も答えた。彼の中学生時代の面影がよみがえる。実に50年余り前に、私が河野中学校(当時全校生徒は360人余り、各学年は3クラスあった。)3年生だった時に1年生だった右近恵君だった。(彼の父親は、地元の寺の住職で、河野中学校の美術の教員だった。) それにしても50年前に見たっきりの中学生時代以来の私のおそろしく変貌している顔を見て、よく「寺坂先輩ですか‥」と気づいてくれたものだと驚いた。

 右近君は、父親のあとの住職を継いでいるようで、この河野浦の歴史にも詳しいようで、「4つの社殿のうちの一番左にある小さな古びた社殿が河野神社ですわ‥。あの河野水軍の河野一族と関わりのある‥。北前船主の中村家の先祖は、もともとは河野という姓だったらしいのですが、南北朝時代の合戦で足利幕府の時代になってしまい、世を憚(はばか)って中村という姓にしたらしいんですわ‥。でも、中村邸の屋根瓦の家紋は、今も河野一族の家紋の三文字を使ってますわ‥」と、説明してくれた。

 平安時代末期から戦国時代末期までの約500年間余りにわたって存続した河野一族(河野水軍)。この一族の人々の中で、南北朝時代の越前国敦賀にあった金ケ崎城や杣山城(現・南越前町南条)の戦いに南朝方として参加していた者たちがあったとされる。南北朝時代「金ケ崎城の戦い」とは、1336年10月~37年3月にかけて、南朝方の新田義貞や弟の脇屋義助、瓜生保(杣山城主)や気比一族(敦賀の気比神宮)らが率いる5000余りの軍勢が金ケ崎城や杣山城を拠点として、北朝方の足利軍約10万と戦った戦役。

 この戦いには、南朝の後醍醐天皇の二人の皇子(尊良親王と恒良親王)も金ケ崎城にいた。37年3月に金ケ崎城の籠城戦は飢餓に苦しみつつ落城する。その際に新田義貞の嫡男(長男)の新田義顕と尊良親王はともに自害。(「金ケ崎城の本丸の下は絶壁断崖。そこからは崖下に敦賀湾が広がり、左手には敦賀半島が右手には越前海岸沿いに河野浦や蕪木浦方面などもよく見える。)

 そして、落城の際にもう一人の親王である恒良親王は気比一族の者らとに小船に乗り、河野浦の隣の蕪木(かぶらき)浦に逃れたと史書には記されている。(※蕪木浦は、現在の甲楽城{かぶらき]集落)  そして蕪木浦の洞窟に潜んでいたが足利方に捕らえられたと‥。この洞窟は、「下長谷の洞窟」として、現在はこの洞窟の謂われの説明版とともにある。この洞窟の岩山の上には、二宮神社(恒良・尊良の二人の親王が祀られる)がある。

 おそらくだが、この恒良親王の小船での逃避行の際に、河野水軍の一族が関わっていたのではないだろうかと推測もされる。そして、生き延びた彼らが、蕪木浦のとなりの浦(海岸線)に落ち延びたのではないだろうか。そして、河野浦となったのではないかと推測もされる。

 

 

 

 


伊予国(愛媛)の河野水軍と、越前国(福井)の河野浦[かっての北前船主たちの館群]との関わり—『海を破る者』(今村翔吾著)、河野水軍と元寇の戦

2025-08-18 15:06:29 | 滞在記

 日本帰国中の7月下旬、市民図書館で『海を破る者』(今村翔吾著)を借りて、8月上旬までに一気に読み終えた。書籍の帯には、「日本史上最大の危機である元寇に、没落御家人が御家復興のために立つ—アジア大陸最強の帝国VS鎌倉幕府」と書かれている。四国伊予国(愛媛県)を本拠地とし、平安時代末期から鎌倉、南北朝、室町、戦国時代までの約500年間余りにわたり、50代余(当主)の下、面々脈々と水軍の家として続いた河野(かわの/こうの)一族。物語は1281年の元寇(弘安の役)の際に元軍の船団に立ち向かった河野通有(河野六郎)を主人公とした物語。

 京都府の奈良県境にある南山城地方(加茂町)出身の作家である今村翔吾(1984年生まれ/41歳/関西大学卒業) 。「まだ41歳と若いのにこれだけ優れた時代小説が書ける作家なのか‥」と驚きもする。作家デビューしたのは2016年(32歳)。この『海を破る者』は、デビュー間もない2016年に書かれている作品だ。

 (※今村翔吾作品は、これまでに次の作品を読んでいる。いずれもとても面白く優れた作品だった。『幸村を討て』『八本目の槍』『イクサガミ』(全4巻/映画化が決定)『塞王の盾』(※直木賞受賞作)。これから読了するためにすでに買った作品には、『じんかん』『茜唄』。これから買って読みたい作品には、『人よ、花よ、』がある。新進の歴史小説作家としてもう一人、垣根涼介(59歳)などもたいへん優れた歴史小説作家だと思う。彼の作品には『光秀の定理』『室町無頼』(昨年映画化され全国公開)『,涅槃』などがある。)

 日本の歴史始まって以来、最大の危機を迎えたのが元寇(げんこう)だった。アジア大陸のほとんどを征服し、東アジアからヨーロッパのキエフ大公国(現在のウクライナ)まで、超巨大な帝国を築いたモンゴル帝国(元)。開祖のジンギスカンから数えて五代目の帝王となったクビライ(フビライ)は1260年に即位。そして、日本を征服するために1274年に千数百隻余りの軍船と4万人の軍兵で九州の博多に襲来した(文永の役)。そして、1281年に再び数千隻の軍船と14万人の軍兵で襲来(弘安の役)。この戦いでは河野水軍の奮闘や台風の襲来(神風)もあり、元軍を退けることができた。

 この河野水軍の本拠地は、伊予国(愛媛県)の松山。この町は夏目漱石の『坊ちゃん』の舞台ともなった。この愛媛県庁の町に伊予松山城がそびえる。(この伊予松山城は、標高132mの城山[勝山]に、1602年に加藤嘉明によって築かれた平山城で、河野(一族)水軍の本拠地の城ではない。)

 伊予松山は歴史作家・司馬遼太郎の『坂の上の雲』(NHKでドラマ化された/3部構成全13回)の三人の主人公たち(秋山好古・真之兄弟と正岡子規)の故郷でもある。奇しくも、秋山真之は連合艦隊(日本海軍)司令官の東郷平八郎の参謀として旗艦「三笠」に乗艦し、日露戦争(1904年)ではこの日本海海戦において、当時の世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を壊滅させている。

※平安時代末期から戦国時代末期まで57代にわたり続いた河野氏の家紋は「折敷三文字」。最も河野氏の勢力が強かった隆盛時代には、瀬戸内海のほぼ全域をその水軍力とともに河野氏の勢力下となってもいた。その河野氏の本拠地となった城は、松山市の道後温泉地区にある「湯築城」(平山城)。今もその城址が残る。私はこの標高80m余りの城址に2015年の2月に訪れた。(国史跡となっていて、日本100名城にも指定されている。)

 現在は道後公園として整備されている湯築城址。羽柴(豊臣)秀吉軍の四国進攻の際、河野氏はこの城に1か月間にわたる籠城戦で抵抗したが、1587年に城は落城・滅亡した。これにより500年間余り続いた河野氏は歴史の舞台から去ることとなった。

 瀬戸内海沿岸の四国地方には、瀬戸内海の水運や軍事的掌握のための、海城(水城)となる名城もいくつかある。そのうちの一つが伊予国(愛媛県)の今治市にある今治城(1604年に完成)だ。瀬戸内海の海と一体になった見事な城で、築城の名手ともされた藤堂高虎の縄張り(設計)となる。

 この四国の今治から瀬戸内海に浮かぶ大島・伯方島・大三島・生口島・因島・向島を通り広島県の尾道に至るルート。途中の島々には、河野水軍の流れをくむ、村上水軍(因島・能島・大三島)の本拠地だった城址などもある。2015年には、これらの城址も巡った。

 この夏、私の故郷の福井県南越前町の河野(こうの)村に何度が帰省した。かって隆盛をほこった日本海水運の北前船船主の館などもある河野村。この村のコンビニストアーに、「越前国河野浦 北前船主の館おかずみそ」と書かれた商品が(商品)パンフレットとともに置かれていた。この味噌(みそ)は、かっては北前船の船内で乗組員らが、ご飯の上にのせて食べた味噌(おかず味噌)のようだ。そのパンフレットに「—河野水軍との関わり—河野は四国伊予の国河野水軍の末裔が南北朝の期に移り住んだとの言い伝えが有り、そうした水軍の航海術を持って(荒海の日本海に)挑んだとすればより歴史ロマンを感じないではおられません。」と書かれていた。

 さっそくyahoo Japanで、「河野氏」と検索し、Wikipediaの「河野氏」の説明を読むと‥。かなり末尾の方に、「越前国の河野村は南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦いに敗れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している。」と書かれていた。このような河野氏一族と関係のある場所は、他に➀広島県安芸高田市、➁因幡国(鳥取県)智頭町、③九州日向国(宮崎県)各地などが書かれていた。

 そして、この夏の何度かの帰省の折に、「➀河野村と伊予・河野水軍との関わりについて、➁北前船船主について、③北前船に乗せる荷を運んだ府中馬借街道について」調べてみることにした。

※次号に続く