彦四郎の中国生活

中国滞在記

閩江大学からの留学生―立命館大学大学院の「今秋(9月)入学の試験」に まず1名が合格できた―

2015-07-30 04:06:22 | 滞在記

 7月15日に日本に帰国して2週間が経った。日本の京都も暑い。台風の影響でよく雨が降る。でも、中国の福州より過ごしやすい。(気温的にも湿気的にも、京都より高い。)
 毎朝、6時ころから1時間あまり散歩をする。自宅の近くには、水田が多くあり、堤防に上がると京都市内方面が一望できる。早朝は、狐(きつね)をたまに見かける。福建省は水田が少ない省なので、水田をあまり目にすることができなかった。水田のある日本の景色が心地よい。久しぶりに、日本の野草花を摘んで生け花をした。

 6月下旬から7月上旬にかけて、閩江大学外国語学部日本語学科の学生4人(6月中旬に卒業)が、日本に来日した。3人は東京の「日本語学校」、一人は大阪の「日本語学校」に入学した。
 帰国翌日の16日の午後に、大阪の難波(なんば)にある「日本語学校」に入学した林芝さんと会った。日本での新生活に、精神的にも健康的にも非常に苦労しているようだった。心斎橋商店街に行くと、ものすごい数の中国人観光客がいた。「ユニクロ」や「ビックカメラ」で買い物をしたりするようだ。
 道頓堀界隈も大勢の中国人観光客がいた。夕食に「ホルモン焼き肉店」に入った。ここにも中国人家族がいた。久しぶりの「コテッチャン(ホルモン)」が美味しい。中国の人が店員に何かしゃべっているが、店員はさっぱり中国語がわからない。おたがいに困った様子。林さんが通訳をした。「私たちが注文したものは、これで全部ですか?」「もう他にはないですか?」ということを中国の人達は聞きたかったのだ。これだけ中国からの観光客が増えてくると、さまざまな店に、「中国語ができる店のスタッフ」が必要だと思った。しかし、中国語習得は日本人にとって大変難しい。中国からの留学生は今後、「アルバイト」に引っ張りだこだろうかとも思う。

 その翌日の7月17日。この日は、祇園祭り(前祭)のハイライト「山鉾巡行」の日。大型台風が四国に上陸し、瀬戸内海から中国地方を縦断し始めていた。雨の中、巡行がとりおこなわれていた。
 そしてこの日は、林さんが受験した「立命館大学大学院言語教育情報研究科」(修士)の合否結果が午後2時に発表される日だった。約1年間かけて受験準備をし、両親を説得し、ようやく来日をはたして受験にこぎつけた彼女だが、結果はどうなるのだろうか。
 午後12時半に大阪の日本語学校前に行き、林さんと交通機関を乗り継ぎし、立命館大学衣笠キャンパスに2時半に着く。創思館1階の掲示板に合格者の番号が貼られていた。「林さんの番号があった!!!!!」 合格だ。彼女はさっそく、私の携帯電話を使って、国際電話で中国の父親に報告していた。私も胸をなでおろした。彼と私は、中国での付き合いの過程で「兄弟」と呼び合う関係になってしまっているのだが、私も彼に「你好老林。好就不见。我也很欢喜林芝考试及格立命馆大学。」と祝福した。
 彼女は、「秋入学(9月)」の試験に合格したので、9月中旬からは京都市内で大学の留学生寮かアパートに住み、大学院生生活を送ることになる。入学の第一次手続きを終えたが、第二次手続きのための諸書類の準備がこれから大変になるだろう。2年間、アルバイトもしながら、「日本語教育や日本語研究、日本という国のさまざまなことなど」を学び吸収し、日中の架け橋の一人となっていくだろう。
 夕方、三条大橋のたもとに行った。ここは、いつも外国人が多い。国際都市「京都」感じる場所だが、浴衣を着た外国人の家族の姿も見られた。夕食で、改めて「合格おめでとう!」の乾杯をした。ここまでくるのに実に長い道のりだった。これからも、苦労をともなう山あり谷ありの留学生活だろうと思う。

 7月25(土)に、東京の「千駄ヶ谷日本語学校」に入学している申楠楠さんが、新幹線で京都に来た。日本語学校の大学院入学コースの先生から、「立命館大学の大学院入試を勧められた」という。その先生の話では、「日本語教育と日本語研究に関する日本の大学院としては、立命館大学はトップレベルの一つです。」ということらしい。そこで、立命館大学大学院の入試準備のため、京都にくることになった。
 7月25日(日)の昼頃、京都に着いた。さっそく立命館大学に行った。そして、大学院入試の過去問題などを調べ、入学試験のための対策や受験準備、受験勉強の学習方法などについて、2日間話し合った。書店に行って、学習のための書籍なども何冊か購入した。26日(日)の午後3時の新幹線で東京に戻って行った。
 残念ながら、今年9月実施の試験(来年4月入学)には間に合わないことがわかった。彼女は、おそらく来年の2月実施の試験を受けるために、東京での、苦労も多い留学生活を過ごすことになる。頑張ってほしい。
 ちなみに、日本の大学院試験は、私立大学・国立大学ともに年2回実施(9月と2月)されている大学が多い。秋入学もある大学では、7月上旬にも試験を実施している大学がいくつかある。
 日本の大学院で、「日本語教育及び日本語研究」においてレベルの高い教育力が評価できるベスト10大学は以下の通りかと思う。
 ①早稲田大学②大阪大学➂東京大学④筑波大学⑤立命館大学⑥御茶ノ水大学⑦広島大学⑧東京外国語大学⑨名古屋大学⑩南山大学か関西学院大学か桜美林大学
 ※特に、「早稲田大学」と「大阪大学」は、教授陣の陣容がすごくてトップ2だ。だが、大阪大学は、旧「大阪外国語大学」のキャンパスあった「箕面キャンパス」に通学のため、キャンパスが極めて小さく寂しい。
 ※京都大学には、「日本語教育」に関する研究科がない。
 ※名古屋外国語大学、昭和女子大学なども、比較的充実しているかと思う。他の大学も多々あるが、教授・准教授が2人から5人程度と小規模である。







中国人人,再见。我明年再在中国。②―日本帰国前夜―

2015-07-20 04:08:20 | 滞在記

 帰国1週間ほど前の7月9日(木)から13日(月)まで、連日の「送別会や会食の誘い」が続いたので、日本に帰国するための準備や3つの部屋(①旧キャンパスの宿舎②新キャンパスの研究室➂新キャンパスの学生寮の部屋)の片づけがあまりできていなかった。帰国前日の14日(火)は、早朝からこれらの作業にあたった。
 この日の夜、学生たちともよく行った「日本料理店:古都」のオーナー鄭霞さんに挨拶に行った。約1か月ぶりにこの店に行って、彼女に「明日帰国すること」「半年から1年間あまり中国を離れる」ことを話したら、少しの涙目で「なんで急にそんなことになったの?」と叱られた。
 京都に7年間在留したことのある彼女は、日本語は「日本人の発音」とまったく変わらないほど上手だ。その鄭さんが、「日本語の勉強をしたいので、大学の授業で使う教科書が欲しい。」と言い出した。なぜ欲しいのですかと聞くと、「会話は仕事柄 毎日 日本語を話しますから大丈夫ですが、書くことや読むことが あまりできなくなっていますから、復習・勉強したいのです。」ということだった。適切な教科書を日本から送ることを約束し、店を出た。
 店を出て宿舎に戻った。夜9時半頃、近くの河川公園に行った。市民プールの入り口付近には、狭い歩道に乗り上げている何台もの車があった。他人への迷惑を全然考えていない人がけっこう多い中国社会。火曜日の平日の夜にも関わらず、大勢の人がいた。児童遊具があるエリアでは、たくさんの子供と、それを見守っている たくさんの祖父母や親たち。
 
 公園の何か所かで、いろいろなグループが「ダンス」を踊る。それを見守る人々。夏の夜なので、裸の男性も多い。近くの夜の露店にも、大勢の人。1台のベビーカーに3人の子供。ウイグル族の子供達だ。その横で、母親らしい3人の女性が衣服を売る商売をしている。
 夜10時頃のこの光景の中にいるたびに、つくづく「中国社会の人々のパワー」というものを実感する。

 この夜、「面白いもの」を買った。緑色の光線が見えたので、「何だろう?」と光源の場所に行ったら、大きなペンライトが売られていた。「これは、授業の時に使える。(OHP:パワーポイントの図や文字を指し示す)」と思ったので、さっそく買った。100元(約2000円)だった。宿舎のある旧キャンパスの樹木を照らしたら、蛍が木にたくさん群がっている熱帯の森のような光景のようだった。(光線操作が2種類できる➡直線光線と平面光線)
 帰国の日の朝、テレビを見ていたら、日本の「新安保法制法案」に反対する人々や宮崎駿監督の「メッセージ」会見の様子が放映されていた。

 二年間を暮した、閩江大学の旧キャンパスの外国人教員用の宿舎。ここには、ほぼ私一人だけが住んでいたので、授業をする新キャンパスまでバスで1時間以上かかることなど、いろいろと生活上困ることも多々あったが、大好きな心休まる宿舎でもあった。また、宿舎周辺は、「中国の人々の生活がよくわかる」実に面白い場所でもあった。
 実は、今年の9月から旧キャンパスは廃校となり、このキャンパスにいた「コンピュータ学部の1・2回生」たちは、全員が新キャンパスに移ることになった。7月14日までに、ほとんどの学生も「夏休み」になり、いなくなった。彼らは、9月からは新キャンパスに全員移動する。だから、私を最後の住人にして、外国人用宿舎も廃止されることになる。(※この旧キャンパス敷地は、民間の企業等に売却されるようだ。)
 この宿舎に住めなくなることが、中国の他の大学への転勤希望を出した大きな理由になった。来年度、再び中国の大学に戻ることになるが、閩江大学に再び戻る転勤指令となっても、この宿舎で暮らすことはできない。

 旧キャンパスの建物の一つに、「電光掲示板」がある。「母校の地を忘れないで!」と書かれてあった。
 ここでの2年間は、「5年も6年も経ったよう」にも感じる中国生活だった。「生まれ育った故郷の福井県」、「学生時代を過ごし、仕事をし、結婚し、子供も育った京都」に次いで、第三の「故郷」のようになった感がある「中国福建省福州」の地。さて、来年は中国のどこの大学に赴任することになるのだろうか。半年間から1年、日本に戻り充電し、再び中国に赴任しようと思う。

 7月15日、帰国の朝。片づけや掃除が終わった宿舎。2年前にこの宿舎に来た時よりも、本棚が5つ増えていた。もらった古いテレビも増えていた。ベットの上のシーツや布団も、2年間の間に新しく買ったものに変わっていた。さようなら、この宿舎。











中国人人,再见。我明年再在中国。①―宿舎周辺―

2015-07-19 16:58:12 | 滞在記

 今の福州は、連日猛暑日が続いている。ハイビスカスの花が満開となり、マンゴーやパパイヤの実が、少し黄色く熟し始めている。食べごろになってきている。
 7月15日(水)の夕方、日本に帰国した。
 帰国が目前に迫った7月12日から14日までの間、この2年間よく散歩した宿舎周辺の河川公園や露店市に行った。孤独を感じることも多かった2年間の生活、散歩をすることで ずいぶんと孤独感を慰めたものだった。

 7月12日(日)、週末に開かれる宿舎近くの「大露店市」に行った。河川公園でトランプをする人達。それを見守る大勢の人。露店市にウイグル族の少女がいた。少し話すと、ペットボトルの水を口から私にかけてきた。「不要、不要!」と大げさに逃げると、面白がって追いかけてきた。露店の「茶店」があった。さまざまな種類の茶が並んでいる。隣に「キクラゲ」を売っている店があった。日本名「キクラゲ(木耳)」は、「木のクラゲ」という意味だ。触った感じが海のクラゲに似ているからだろう。ところが中国名は「黒耳」、「老鼠耳」となる。「黒い耳」「大きな鼠の耳」という意味だ。日中の違いが面白い。
 ウルトラマン絵柄の「水浴びプール」が売られていた。ウルトラマンとドラえもんは、中国の子供にとても人気がある。

 露店で「蛇酒」が売られていた。いろいろな病気やけがに効くという「薬」だ。患部にこの「蛇酒」を塗って治療をするものだ。宿舎のある旧キャンパスに戻ると、自転車の練習をしている恋人たちの姿があった。

 7月13日(月)、帰国まであと2日。朝7時頃から河川公園に散歩に行った。次にこの公園を朝散歩することはあるだろうか。わからない。
 閩江の支流に浮かぶ、シジミ採りの船。大勢の体操ダンスをする人達。チャイナ映画に出てきそうな「ちょび髭」の男。竹笛を演奏している人やパジャマの女の子。竹笛は、私も少しだけできるので、演奏している人と話してみた。

 月曜日の平日なのに、河川公園には大勢の人が来て、それぞれ過ごしている。ピンクのユニフォームで健康ダンスをする人達。ベンチに座って談笑する人たち。クラッシックダンスの人々。扇の踊りや剣舞をする人達。

 太極拳をする人もいる。そして、ベンチに横たわって眠る人たち。完全に熟睡しているように思える。中国らしいと思う。バス停などでも眠っている人を時々見かけることがある。

 二胡の演奏に合わせて歌う人。バトミントンをする人たち。このバトミントンは、中国では最も多くの人が日常的にやっているスポーツだ。
 散歩を終えて、シャワーを浴びる。大学に行く準備を終えて、バス停へ。バスを乗り換える「博美詩邦」という場所に着くと、「賭け将棋」をしていた。その様子を写真に撮ったら、男たちが立ち上がり、殺気だって私の周りを取り囲んだ。「写真はダメ、削除!削除!」と言っている。「賭け将棋」は法律上禁止されているからだろうか。写真を削除したら、男たちの顔に少しの笑みが見えた。しばらく様子を見ていたが、「賭ける金は結構大きい。」100元(約2000円)を賭けている場合もある。「サクラ」の人もいるようだ。
 遠くから、望遠で写真を撮った。








 

中国をしばらく去る④―「二回生たちによる送別会」―情に熱い中国人たちの一面

2015-07-14 22:37:26 | 滞在記

 7月13日(月)、帰国まであと2日とせまってきた。この日は、午前11時に大学に行き、2つある部屋の掃除や片づけをした。12時頃に日本語科主任の林先生に会い、成績関係の資料を渡した。これで、仕事関係は全て終了した。福万楼7階724号室の研究室にあるソファーや机、日本製色チョークなど、色々な物を林先生や李先生に譲ってあげた。
 第二食堂前の「寮の部屋c-110号室」は、1年目に与えられた部屋だ。ここは、6人用の学生寮の部屋とまったく同じだ。今日まで、この6月に卒業した黄君に2週間ほど貸していた。卒業生たちは7月1日より寮の部屋を使えなくなっていたからだ。故郷の町に帰らず、就職活動のために8月いっぱいまで福州にいる予定の彼は、私に部屋の鍵を返した。大学の東門の学生街にある小さなホテルに今後宿泊(1か月400元=約8000円)しながら、就職活動をするのだろう。
 午後2時ごろ、外事科(※外国人教師の担当所)の科長の鄭さんに挨拶に行った。私の宿舎まで車で送っていくというので、車に乗り宿舎に向かった。途中に、彼の家に寄った。プレゼントをもらった。福建省武夷の高級岩茶とタバコだった。このタバコは習近平主席も愛用しているタバコとのことで、希少価値のあるものらしい。宿舎まで送ってもらい、再会を約束した。

 5時半から、福州の繁華街にある「宝龍(バオロン)」という所で2年生主催の送別会があった。ここバオロンは、大学からバスで40~50分ほどかかる場所にある。大きな百貨店が2つあり、最も福州で人が多く集まる場所だ。百貨店の中にあるレストランで、30人ほどの学生が待っていてくれた。おたがいに食べたり、話したり、ビールを飲んだりしてすごした。学生たちから、贈り物をもらった。とても素敵な贈り物だった。この2回生は、彼らが新入生になった時以来2年間にわたって授業を担当した。「あいうえお」から教えた学生たちだ。私の思い入れも一段と深い学生たちだ。

 学生達が「先生!抱きしめてください。」と言ってきたので、全員を一人一人「抱きしめてあげた。」
 8時頃から、近くのカラオケ店に移動した。30人以上が入る大部屋で、1時間半あまりで、いろいろな歌を歌い合った。9時半に送別会をお開きにした。学生達は、超満員のバスに乗って大学に戻って行った。
 中国人は「情に熱い」人が多い。知り合いでもなんでもない他人には無関心で冷淡な面がある。しかし、知り合いなり、親しくなり、お互いの信頼関係ができ、身内的な関係になってくると、日本人以上に「熱い情」というものを発揮する民族なのかもしれないと思う。
 夜10時、まだ多くの人がごった返すバオロン。蒸し暑く、早く帰ってシャワーを浴びたいので、オートバイタクシーに乗った。「信号無視で一度も止まらず、横断歩道を渡る人や他の車と接触しそうになることを繰り返しながら」、宿舎のある旧キャンパスに到着した。

 翌朝の今日、2年生たちからの贈り物をゆっくりと見た。すばらしい贈り物だった。赤い飾りの工芸品と一人一人のメッセージカード40人分だった。このメッセージカードはなかなか面白い。丸いカードの表は、それぞれの学生の出身地(省や自治区)が描かれている。そして、裏がメッセージを書くというものだった。

 一人一人のメッセージを読ませてもらった。どれも、「情」を感じるメッセージだった。多くの学生が、「先生の授業は、ユーモアと専門性にあふれる授業だ。」「先生の授業が毎週楽しみだった。」とか、「絶対1年後には、大学に戻って再び教えて。」ということを書いてくれていた。中には、「先生が若ければ結婚したい。」と書いてくれる学生や、「日本のパパ」と書いていた学生もあったし、「イケメンおやじ先生」と書いているメッセージもあった。

 今日の朝、7時。いつもよく行く河川公園に散歩に出かけた。旧キャンパス正門の守衛さんたちに、「明日、日本に帰国する」ことを告げた。彼らにも、いろいろと世話になった。最近は、簡単な中国語会話ならできるので、より親しくなった人たちだ。7時5分発の「新キャンパス行き」の大学バスが駐車していた。







中国をしばらく去る➂―学生たちが宿舎に来たり、日本語学科の先生たちからの送別会―

2015-07-14 18:24:47 | 滞在記

 7月11日(土)、学生達が昼頃に宿舎にやってきた。今日は夜まで、一緒にいたいのだという。帰国のための準備がいろいろ忙しいのたが、まあいいか。女子学生2人と男子学生1人。今日は、昼食にカレーライスを作るらしい。買ってきた食材の中に、「中国産カレー粉」が二つあった。てっきり「カレールー」を使うものと思っていたので、少し驚いた。出来上がったカレーライスを食べたら、コクはないがまあまあの味だった。昔、子供のころにおばあちゃんに作ってもらったカレーライスの味だった。
 この二人の女子学生は、実は日本語学科の学生ではない。他の学部の学生だ。1年間、聴講生として私の授業(2回生対象)に通い続けた学生だ。陳さんは、2回生。日本のアニメ大好きで、日本のコスプレ大好きの学生だ。この日は、セーラームーンのような制服姿でやってきた。ちなみに、このような服は、インターネット通販で買うらしい。中国河南省の洛陽が故郷。もう一人の馮(ふう)さんは、「剣道」を熱心にやっている学生だ。男の子っぽいところがある。剣道の練習は、週に5日間ほど夜の7時から9時半まであるらしい。熱心なものだ。私を呼ぶときも、「あ-っ、先生!」と少しドスの利いた体育会系的な発声をする。今は、一回生の学生で、三回生になったら、一年間「台湾文化大学」(提携校の一つ)に留学予定だ。
 男子学生の楊君は、日本語学科の2回生。日本語がとても上手。この日は、卒業後の進路について相談にきた。日本で「中国語教師」をしたいという希望があるようだ。広東省の広州に彼女がいて、遠距離恋愛をしているようだ。

 夕方に、馮さんが以前アルバイトをしていた「焼き肉店」に招待された。この店は、日本風のセンスを感じる店だ。オーナーの中国人やアルバイトをしている人、従業員の人の多くが「剣道」でつながっているらしい。お客も多いし、味もよかった。
 美味しいのでたくさん日本酒やアサヒビールを飲んだ。かなり料金がかかりそうだったので、「ここの払いは僕がするよ。」と申し出たが、「ダメですよ。」と断られた。「今日は、私たちが先生を招待したのですから。」ということだ。中国に割り勘文化はない。
 上も下も艶やかな赤の服に包まれた女性がいた。中国人女性ならではの、ファッションセンスである。

 12日の夕方には、日本語学科の先生達による送別会を開いてくれた。閩江飯店というホテルでの宴席だった。宿舎からバスに乗り継いでここまで行くのが面倒なので、タクシーに乗った。中国のタクシーは、初乗り10元(約200円)と安い。タクシー強盗も多いためか、運転席の周りは後ろも横も、鉄柵で見事に囲まれている。鉄柵の間からお金を渡す。
 6時から始まった送別会宴席は、8時に終了した。「せっかく親しくなれたのに---。何故日本に帰るの!!」「戻って来てください!!」などと言われたりした送別会だった。

 先生たちから、「ジャスミン茶」と「陶磁器製のUSBメモリー」を贈り物にいただいた。素敵なUSBだ。